蚶満寺と九十九島
慈覚大師の開創と伝えられる蚶満寺には、西行法師や北条時頼が訪れたとされるほか松尾芭蕉や小林一茶など多くの文人たちが訪れており、境内や寺にはゆかりの旧蹟や筆蹟が遺されている。蚶満寺周辺一帯は、かって九十九島といわれるたくさんの島々を浮かべた潟であり、陸奥松島と並び称された出羽の景勝地であった。しかし、文化元年(1804)の大地震で象潟は隆起し、一夜にして陸地となった。
当時の島々は現在水田の中に点在し、春の田植え時は水面に浮かび往時をしのばせ、夏は新緑、秋は黄金色、冬は雪景色の中と四季折々の風情を見ることができる。

   西施 越国の人 (BC502~470年頃の生没)
中国春秋末期時代、越国・苧蘿村(現浙江省諸曁市)の人。 
呉 越の両国が「呉越の興亡」と呼ばれるほどの争いをしていた国難の世に彼女は生まれた。 
越王・勾践は会稽で敗れると美女西施を呉王・夫差に献じ、呉王の心を乱し、政治を怠らせる政策を立てた(臥薪嘗胆)。
西施は越の救国のためならと呉国に赴き献身的に呉王に尽くした。 後、呉国を滅ぼし会稽の恥辱をすすぐや、越国では西施を愛国精神を具えた天下第一の美女として讃え、現在まで広く伝えられている。
救国のためとはいえ敵国に身をささげた悲劇的な美女西施を、俳人・松尾芭蕉は陸奥松島と比べて象潟を「うらむがごとし」とその風景に似通うものとして俳諧の世界に生かした。 
その句が奥の細道紀行に見られる次の句である。
「象潟や 雨に西施が ねぶの花」
この句が縁で、象潟町(現にかほ市象潟)が平成二年、西施の故郷・中国浙江省諸曁市と友好関係を深めています。

   九十九島の碑
象潟地震百年を記念して明治三十九年十一月に齋藤宇一郎代議士の賛助を得て落成した。
篆額は閑院宮載仁親王(1865~1045)で、撰文は文学博士・三島毅、書は明治の三筆の一人と言われた日下部鳴鶴である。
この碑文には象潟の変遷が刻まれている。

   惣助翁彰徳碑  惣助堰の由来
金浦町大竹東方白雪川に合流する衣川の末水を取り入れ、一山を切り抜き赤石川に加水、更にこれを取り入れ前川の西方を経て蚶満寺前に至る延長二里の灌漑用水路、これを衣川堰下の堰とも云う。
慶安四年(1651)中汐越の百姓・惣助が起工し、満三年不眠不休の努力と全財産を投じて開通せられたるものにして、現在この堰の恩恵に浴する水田百十余町歩に及ぶ。 
強度産業の永久を慮り,己を虚しうして果たす偉業なりと謂うべし

                    案内説明より



温泉その19



青森県 鍋石温泉 深浦観光ホテル
深浦の町歩きと寺社 北金ヶ沢の大イチョウ 千畳敷


秋田県 象潟 夕日の宿さんねむ温泉
象潟九十九島 象潟町 象潟道の駅 ねむの丘眺望の湯


山形県 湯の浜温泉亀や
善寶寺とその界隈 丙辛堂・釈迦堂


秋田県 新矢立温泉大館矢立ハイツ


岩手県 鉛温泉 藤三旅館


岩手県 台温泉 観光荘・精華の湯

温泉名: 台温泉精華の湯(大衆浴場)
源泉名: 台温泉寿の湯
泉質: 含硫黄ーナトリウムー硫酸塩・塩化物泉
    低張性 弱アルカリ性 高温泉
    pH8.3  陽イオン 391.2㎎/㎏  陰イオン 723.2㎎/㎏
    成分総計 1236㎎/㎏ メタケイ酸100.9㎎/㎏ メタホウ酸20.9㎎/㎏
源泉温度: 95.6℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削自噴
注入排出形態: 源泉かけ流し(源泉温度高温のため加水)

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 関節のこわばり うちみ ねんざ 
    慢性消化器症 冷え性 疲労回復 健康増進
    切り傷 やけど 慢性皮膚病 慢性婦人病 高血圧症 動脈硬化症

利用料: 500円
利用時間: 6.00~22.00
休日: 無休(問い合わせ)

台温泉日帰り温泉施設精華の湯
岩手県花巻市台2-56-1  Tel 0198-27-2429


花巻駅から10時33分の路線バスで25分ほど台温泉にで到着。
清華の湯の暖簾を潜ると受付の帳場らしきものはありますが誰もいません。受付台の上には案内文が置いてあり、「ただいま席を外しております」。とのことで発券機で入浴券を購入して賽銭箱のミニチュアに券を投入、ロッカーが設置されていたので利用、100円を入れて鍵を閉じ開錠すると100円が戻るよくあるタイプのロッカーです。浴室は湯気が満ち、人の姿は見えるが顔まではよくわからないほどでした。
浴槽は簡易的に二つに分かれていて手前の浴槽が温め、奥が熱めですが、温めでも初入浴時は熱く感じました。41℃か42度はありそうです混み具合によって違うと思うのですが先客は1名。上がっては入り、入っては上りを繰り返すうちに温度には慣れてきますが熱い浴槽には入れませんでしたよ。で、小半時位で浴室を後にしました。



新矢立温泉 大館矢立ハイツ



真言宗豊山派 永福寺
  
鶴岡市馬町宮ノ越168



道の駅ねむの丘 眺望の湯

JR羽越本線象潟駅

象潟橋

塩越城跡

朱橋 三雪橋

通称通りと呼ばれる中央土間

屋根荷重を支えるトラス構造の梁

竈を使うので天井を設けていない

帳簿類の展示

什器類の展示

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温泉と観光へ

鍋石温泉 深浦観光ホテル   


千畳敷海岸  北金ヶ沢の大イチョウ  深浦の寺社  深浦・町々海々

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社殿

社殿 妻側より

石塔

湯泉神社

   台温泉の由来
台温泉の発見は詳しくは伝わっていませんが、それでも考察すると室町時代元中年間(南朝1384~1392)になると思います。湯本村郷村史に記されているよると、その昔は北湯口の山の中に湧いていたのですが、神の巫女いかなる理由によるのか解からないが、鶏の卵を湧出口に投じたところ、この谷筋に移ってきてここに湧出するようになったと伝えられている。
元北湯口、湯本の地は温泉地帯となっていたけれども、現在この地に湧出口が見られないのは、どうしてかと考えると幾百年の間に湧出口の変動があったと考えられる。伝えられているところでは、猟師が雉をかついで山深く分け入ったところ渓谷に雲煙が立ち昇っているのを見て恐ろしくなり逃げ帰り村人達に伝えました。
将監(村人・小瀬川徳右衛門の先祖であるという)は内心それは世に云う温泉である思って、単身山中に入って辛うじてその場所に温泉を発見し、村人と共にしばしば入浴を楽しんだ。今の大湯(雉子の湯とも云う 現富手旅館)がそれである。そののち寛永正保年間((1624~1672)に浴場を建てたことで、入浴客が多く来たことは諸々の書物に記されている。
天保十年(1839)、浴場を全焼し、古い記録や書物などすべて失ってしまいました。又、寛文年間(1661~1672)国守・大膳太夫重信公はこの温泉場に上御仮室(現さなぶり荘付近)、下御仮室(現楽知館付近)を建設し、侍医・和田玄東を従え村人も入浴することもあった。このようにして盛岡藩領内の温泉中最も早く開けたのは台温泉で、鶯宿温泉が次に開け、その他の温泉は享保以後(1716~)に開かれたものです。
往時はこの地に移住出来るものは規則で七戸しか許されなかったが、天保年間(1831~1845)頃より規則が無くなった為、移住するもの段々多くなり今は四十余戸に及んで、山閣水楼軒を連ねている。一年間の入浴客数は八万人を数えるに至り、すこぶる繁栄を極めている。
          大正八年湯本村史より記す  平成八年花巻観光協会 台温泉

上記の台温泉の由来説明文は台温泉神社傍に掲げられていたののですが、自分なりの説明文に書き換えたものです。

太郎の湯

成分分析書

観光荘

温泉名: 台温泉観光荘太郎の湯
源泉名: 阿部の湯・滝の湯・寿の湯 混合泉
泉質: ナトリウムー硫酸塩・塩化物泉
    低張性 弱アルカリ性 高温泉
    pH 8.2  陽イオン 322.4㎎/㎏  陰イオン 619㎎/㎏
    成分総計 1004㎎/㎏ メタケイ酸71.7㎎/㎏ メタホウ酸23.6㎎/㎏
源泉温度: 71.3℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削自噴
注入排出形態: 源泉かけ流

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 関節のこわばり うちみ ねんざ 
    慢性消化器症 冷え性 疲労回復 健康増進
    切り傷 やけど 慢性皮膚病 慢性婦人病 高血圧症 動脈硬化症

利用料: 500円
利用時間: 11.00~21.00
休日: 無休(問い合わせ)


台温泉 観光荘
岩手県花巻市台1-166-1  Tel 0198-27-2244

写真借用しました photozou.jp/

JR花巻駅前4番乗り場

成分分析書

換気が弱く 湯気で・・・

精華の湯



台温泉 精華の湯・観光荘
 daionsen-seiganoyu・kankoso

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   鉛温泉の由来
今から約五百年前、鉛温泉主・藤井家の遠祖が髙倉山麓で薪樵の折り、白猿が岩窟の中より出でて桂の木の根元から湧出する泉で手足の傷を癒して居るのを発見、此れが温泉の湧出であることを知り、後、嘉吉三年(1443)のころ假小屋を建て、藤井一族が天然風呂として用いたと伝えられています。
因みに、藤井家の遠祖は稗貫城主・藤原子夜叉丸の三男業忠公が、円満寺膝立村を賜り膝立蔵人と名乗り、其の子膝立弾正輝忠公(後の花巻安浄寺を開基 宮沢賢治所縁の寺)の郎党で、輝忠公永享十二年(1440)江刺勢と私闘し利非ずして当鉛村に敗走落ち延び来たり。後、寺子屋を開塾し、またその郎党は付近の林野を開拓し、樵・百姓などに変じて世を忍ぶ生活を営んできたものと伝えられている。その後、宝暦年間(1751~1764)に子孫の藤井三右衛門が大衆の浴場となすべく、安浄寺住持職のはからいにて役司の許しを得て、当時の大飢饉・震災などの苦難を克服し、天明六年(1786)子三之助の代となり、初めて長屋を建て温泉旅館業を開始したと云われている。
これが即ち薬泉霊場として世に名高い鉛温泉天然風呂「桂乃湯」別名「白猿の湯」の由来です。
                館内案内板説明より

JR新花巻駅

夜半冷えてきたら白いものが

部屋の大きさの割に大型TV

薬師如来立像

6畳~7畳

鏡台がありました

白猿を安置

鉛温泉神社?

休み処

フロント(帳場風)

白猿の湯

湯気抜き(換気)高い天井

白猿の湯 立ち湯

成分分析書

三階建て本館

本館玄関

旅館入り口看板

桂の湯

桂の湯

銀の湯

白糸の湯

白糸の湯

温泉名: 鉛温泉桂の湯・白猿の湯
源泉名: 桂の湯・下の湯混合源泉
泉質: 単純温泉
    低張性弱アルカリ性高温泉
    pH 8.0  陽イオン 111.9㎎/kg  陰イオン 233.9㎎/㎏
    成分総計 395㎎/㎏
源泉温度: 59.1℃(桂の湯) 浴槽湧出温度 41.7℃

湧出量: 不明
湧出形態: 自然湧出・掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 関節のこわばり うちみ ねんざ 
    慢性消化器症 冷え性 疲労回復 健康増進

利用料: 700円
利用時間: 7.00~21.00
休日: 無休(問い合わせ)


温泉名: 鉛温泉白糸の湯・銀の湯
源泉名: 桂の湯
泉質: 単純温泉
    低張性アルカリ性高温泉
    pH 8.5  陽イオン189.1㎎/㎏  陰イオン 364.6㎎/㎏ 
    成分総計 622.7㎎/㎏



鉛温泉 藤三旅館
 namarionsen-fujisanryokan

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天空の湯露天風呂の説明

温泉成分分析書

かぐやの湯 露天風呂

赤湯で染まったタオル

かぐやの湯

天空の湯 露天風呂

天空の湯 樽の湯

外観

天空の湯

矢立峠

岩木山

岩手山

玄関前のタイルの損傷 
車両の立ち入りが原因でしょうか

久しぶりに立ち寄った青森魚菜センター 
「のっけ丼」1080円から1500円になっていた コロナの影響でしょうか

温泉名: 新矢立温泉矢立ハイツ
源泉名: 新矢立ハイツ源泉
泉質: ナトリウム・カルシウムー塩化物・炭酸水素塩泉
    低張性 中性高温泉    メタホウ酸:41.6㎎  鉄イオン13.2㎎
    pH 6.3   陽イオン 2857㎎/㎏  陰イオン 4618㎎/㎏
    成分総計 7655㎎/㎏
源泉温度: 48.2℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉かけ流し (夏季一時期加水あり)

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 関節のこわばり うちみ ねんざ 
    慢性消化器症 冷え性 疲労回復 健康増進
    切り傷 やけど慢性皮膚病 慢性婦人病 

利用料: 大人 350円  小人 180円
利用時間: 7.00~21.00
休日: 無休


新矢立温泉 大館矢立ハイツ
大館市長走字陣場311   Tel 0186-51-2311


師走なるというのに北国の気温も高く気持ち良く陸奥出羽の国境の陣場駅に降りた。宿泊施設には前もって到着時間を指定して迎えを予約したのですが駅前にはその姿はなかった。
施設に問い合わせしようと思ったのですが、今日の此の暖かい陽気が災いして歩いていくことにした。なぜなら矢立温泉は駅から1.5から2㎞位と思っていたからでした。後に気が付いたことですがPC地図ソフト「いつもNAVI」に表示されていた矢立温泉を新矢立温泉と同一のものと思ってっしまったことが原因でした。勘違いしたまま国道沿いに矢立温泉の案内板を発見してそれに沿って行くと何か怪しげな雰囲気の建物が見えてきたのですよ。ガラスは割れ、ドアは無くなって廃墟そのものでした。橋の橋脚の跡もあり、間違いに気づき施設に電話して今いる場所を知らせて新矢立温泉の場所を知ることになった次第
もちろん廃墟と間違えていたとは言えず手前にあった日影温泉入り口の分岐にいると言ったのですが。結局あと1㎞を歩くことになりました。合計約3㎞時間にして50分ど道中でありました。フロントで記帳して今日は天気も良かったので歩いてきましたと話したら、そですね天気が良くてよかったですねと言われちゃったのですですです。宿泊の詳細をプリントして持っていたのですが見せることをやめにしました。自分のまいた種は自分で刈らねばですよね。
この温泉は赤い湯で所謂含鉄泉。数年前宿泊した(県境をまたいだ青森県平川市碇ケ関)温泉施設「羽州路の宿あいのり」も同様な泉質(含鉄食塩泉等張性中性)でしたから県が違うとはいえ地下の脈絡は切れないのですね。

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湯野浜温泉かめ屋へ

   龍華庵   登録有形文化財 (国指定 平成二十七年十一月十七日)
この庵の名称「龍華」は善寳寺の前身である「龍華寺」に由来します。
明治十三年(1880)、現在地へ三十三世中興・月圓禅山和尚の代に再建されました。
内陣天井には棟梁が天井画まで関わったとされる雲龍図が描かれております。
本尊は観世音菩薩であります。

   総門   登録有形文化財 (国指定 平成二十七年十一月十七日)
信仰道場、善寳寺への第一関門です。
安政三年(1856)三十二世・月巖不傳和尚の代に再建されました。
床は石敷き、材は欅で彩色は施されていません。
十二支の他、立体的な彫刻で装飾されており、特に向かって右側上層部には波に寶珠の透かし彫りがあります。
龍は「寶の珠」をくわえておりますが、寶珠は「如意寶珠」で願い事が叶うといわれております。
全体的には、華やかさのある四脚門であります。

   三門   登録有形文化財 (国指定 平成二十七年十一月十七日)
文久二年(1862)三十三世中興・月圓禅山和尚の代に再建されました。
総欅造銅板葺の重厚な二重門です。上層には正面に【宝冠釈迦如来】、両脇には【十六羅漢】を安置しています。
上部に高く掲げられている【龍澤山】の扁額は、郷土の傑僧・興聖老卵和尚の麗筆です。
また、二大尊天である【毘沙門天】を右に、【韋駄天】を左に配し、
土地建物の守護と法食常転を求むるために安置されております。
正面及び初重内部には彫り物が溢れるように配されており、
特に正面円柱と後方の両唐獅子は棟梁とその弟が技を競った力作とされています。

   五百羅漢堂   登録有形文化財 (国指定 平成二十七年十一月十七日)
安政二年(1855)三十二世・月巖不傳和尚の代に落成を見ました。
入母屋造赤瓦葺の大屋根にて内部空間を生かした総欅造の伽藍です。
内陣正面には【釈迦如来】向かって右に【文殊菩薩】左に【普賢菩薩】を配した釈迦三尊形式の仏さまです。
釈迦三尊の前には十大弟子の仏像と、他に六人の弟子を加えて【十六羅漢】と呼び、更に四百八十四人を加えて、
古来より亡き人を偲ぶ【五百羅漢】と呼ばれる仏様が祀られています。
この五百羅漢様は、北海道元松前郡福山の豪商・伊達、栖原両家より寄進されたものです。
当時の北前船航路による交流と繁栄が偲ばれます。

   龍王殿  登録有形文化財 (国指定 平成二十七年十一月十七日)
善寳寺開山・太年浄椿禅師が文安三年(1446)創建するところと伝えられている。
現建物は天保四年(1833)二十九世中興・大令和尚の代に再建されました。
當山守護両大龍王尊を祭祀すると共に開山堂をも併せております。
亀甲葺と称する八棟造形式の銅板屋根は海の波「うねり」を型どり、
また、軒組には波に鯉、鯱、雲と草花といった彫り物が多用に配され、荘厳な建築美を誇っています。

   五重塔  登録有形文化財 (国指定 平成二十七年十一月十七日)
【魚鱗一切】の大供養塔として明治十六年(1883)、三十三世中興・月圓禅山和尚の発願により、建立に着手。
十年後の明治二十六年(1893)三十四世・別傳禅法和尚の代に落成した。
高さ三十八メートル余、総欅造、銅板葺の大塔です。
内陣壇上の御佛体は、正面【釈迦如来】東方【阿閦如来】西方【阿弥陀如来】南方【宝勝如来】、
中央金色円柱は【大日如来】を擬して仏の五種智慧【五智】を現しています。
外部には西遊記で知られる三蔵法師、深沙大将、また、十二神将が四方に彫り込まれています。
この大寶塔は、善寳寺守護両大龍王尊霊場の象徴となっています。

               案内説明より

相馬中村神社は福島県相馬市中村に鎮座する神社である。祭神は天祖天神・天之御中主神を祀る。豊受神社の祭神・豊宇気毘売神と中村神社の祭神は同一神との信仰からここに祀られているのだろうか。



丙申堂と釈迦堂
  鶴岡市馬場町1-17

参照: 温泉その2→湯田川温泉→鶴岡巡り



曹洞宗 龍澤山善寳寺
  
鶴岡市下川字関根100



酒井神社
  鶴岡市馬町池ノ下111-2



真言宗智山派 椙尾山地蔵院
  
鶴岡市馬町枇杷川原97



椙尾神社 
 
鶴岡市馬町宮ノ越169



曹洞宗 興徳寺
  
鶴岡市馬町駒繋276



曹洞宗 傳燈山正法寺
  
鶴岡市大山ぬ308



松倉山馬頭観音
  
鶴岡市大山3-32-57



皇大神社
  
鶴岡市大山3-32-49



法華宗陣門流 覚英山道林寺
  
鶴岡市大山3-3-16



真宗大谷派 廣恩寺
  鶴岡市大山3-3-43



真宗大谷派 勝安寺
  
鶴岡市大山3‐1‐30



善寶寺とその界隈


勝安寺  廣恩寺  道林寺  皇大神社  松倉山馬頭観音  正法寺  興徳寺  永福寺

椙尾神社  地蔵院  酒井神社  善寶寺


庚申堂と釈迦堂



湯の浜温泉 亀や



善寶寺とその界隈  丙申堂と釈迦堂



象潟のいろいろ



熊野神社
 
にかほ市象潟町一丁目塩越5



真宗大谷派 浄専寺
 
にかほ市象潟町二丁目塩越56



若宮八幡神社
 
にかほ市象潟町二丁目塩越71



海津見神社
 
にかほ市象潟町二丁目塩越187



八坂神社 
 
にかほ市象潟町浜畑20-6



法華宗・本門流 経王山本隆寺 
にかほ市象潟町四丁目塩越192-2  



曹洞宗 両玉山光岸寺
 
にかほ市象潟町四丁目塩越231



戸隠神社
 
にかほ市象潟町四丁目塩越173



薬師神社 
にかほ市象潟町五丁目塩越20



胡四王神社
 
にかほ市象潟町五丁目塩越14



豊受神社 
にかほ市象潟町五丁目塩越31

さんねむ温泉へ



太宰府天満宮 
にかほ市象潟町五丁目塩越87



曹洞宗 蚶満寺
 
にかほ市象潟島

さんねむ温泉へ




象潟の島々に築かれた寺社



蚶満寺  太宰府天満宮  豊受神社  胡四王神社  薬師神社  戸隠神社  光岸寺  本隆寺  

八坂神社  海津見神社  若宮八幡宮  浄専寺  熊野神社



九十九島



さんねむ温泉
 


九十九島  島々の寺社  象潟の町  道の駅ねむの丘眺望の湯



深浦町々



真言宗醍醐派 春光山圓覚寺



曹洞宗 深浦山寶泉寺



浄土宗 亀井山轉入院荘厳寺



深浦の寺社


浄念寺  荘厳寺  寶泉寺  圓覚寺



浄土真宗大谷派 松林山浄念寺



北金ヶ沢の大イチョウ



千畳敷海岸 

お供え物

   天然記念物 象潟
およそ二千五百年前(BC644)、鳥海山が大きく崩れて岩なだれが発生し(山体崩壊)、
海に流れ込んだ岩の塊(流れ山)は多くの島々となり、
やがて島々をかこむように砂嘴が発達して一帯は入り江となった。
島々には松樹が茂り、水面に鳥海山を映し、松島と並ぶ景勝地として象潟は広く知られることとなった。

しかし、文化元年(1804)六月の大地震によってこの地域は隆起して陸地となり、
往古の潟は一変して現在の稲田と化したのである。
象潟は、火山活動および地震による土地の変化を示す自然記録として学術上の価値が極めて高いため
昭和九年一月二十二日、国の天然記念物に指定された。


   象潟と北前船
寛文十年(1670)、江戸幕府は江戸の豪商・川村瑞賢に江戸廻米のための航路の整備を命じ、
翌十一年(1671)に東北北部出羽国酒田)から津軽海峡、太平洋を経て江戸の入る東回り航路、
十二年には(1672)には東北北部から日本海を南下し、下関から瀬戸内海を経て大坂に入り、
紀伊半島を回り江戸の入る西廻り航路が整備された。
北前船は西廻り航路を往来した買い積み(荷は船主の物)を主とした荷船につけられた名称である。

一枚帆の帆船であり、大きさは五百石積みから千石積み、あるいは千五百石積みという大きなものまであったが、
実際は七百石積みから八百石積みが多く、
それらを千石船と呼んでいた(石は積載する米の重量で、千石が米約百五十トン)。

明治二十年代になり安全で積載量が大きい汽船が普及してくると北前船は衰え始め、
三十年代に終焉を迎えることとなった。
東回り航路は海が荒く危険性も高かったので、北前船は蝦夷地の交易も担い、
日本の台所と呼ばれた大坂を目指して活躍し北前船の船荷は下り船には米、木綿や古着、塩、砂糖、紙、日用品、
磁器陶器、そして船の安定のために積んだバラストには各地の銘石や建築用の石材などを積み各地で売買された。

大坂への上り船には米、紅花、肥料にするための干鰯や干鰊、昆布をはじめとする海産物を運んだといわれている。
象潟から船積みされたのは主として米でした各地の湊の廻船問屋は諸国の珍しいものを好んで買い求め、
商家の威風を誇示し、さらに船乗りたちが寄港地で得た様々な情報がもたらされ、
それぞれの湊で独自の文化が生まれていったのである。

                       案内説明より

   曹洞宗 寶泉寺 釈迦如来
天正二年(1574)儀道が創建したとも、常源寺(弘前)二世・體岩道により開山されたとも伝えられています。
境内には金毘羅宮、芭蕉塚などがあります。
芭蕉塚は千鳥塚とも称され、俳人竹腰里圭らが明和四年(1767)芭蕉の忌日(11月28日)
を祈念して建立したものである。
正面には「芭蕉於き那」と刻まれ、津軽地方最古の芭蕉塚で、側面には芭蕉の句で、
「闇の夜や 巣をまどはして 啼く千鳥」 と刻まれており、ここっから千鳥塚と称されるようになりました。
碑文書は竹腰里圭(1736~1801)によるものといわれています。
里圭の父・竹腰魚光などがこの場所において俳諧の興行を行いました。

                    青森県の歴史街道 深浦より転載

岩の浸食割れ目 海が荒れると潮を吹くという割れ目もある 

シーズンには開店するでしょう

温泉名: さんねむ温泉
源泉名: 象潟温泉2号井
泉質: 単純硫黄泉
    低張性 弱アルカリ性 冷鉱泉
    pH7.9  陽イオン 116.4㎎/㎏  陰イオン 263.6㎎/㎏  
    成分総計 431.6㎎/㎏

源泉温度: 14.6℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 関節のこわばり うちみ ねんざ 
    慢性消化器症 冷え性 疲労回復 健康増進
    アトピー性皮膚炎 マン性湿疹 表皮化膿症

利用料: 大人350円  小人250円
利用時間: 9.00~15.00
休日: 無休 (問い合わせ)

象潟夕日の宿 さんねむ温泉
秋田県にかほ市象潟字才の神31-1
Tel 0184-43-4960

   真言宗醍醐派 春光山圓覚寺  十一面観音(澗口観音)
古くから澗口観音と称され、津軽三十三観音第十番札所としても知られています。
大同二年(807)坂上田村麻呂が創建した観音堂に厩戸皇子の巧妙なる十一面観音像を安置したと伝わります。
貞観年間(859~877)、泰澄大徳の弟子・浄定行者の末弟で大和国修験者・圓覚法師が修験道を奉じ、
諸国の霊山を遍歴して、この地に来て観音堂を再建中興しました。
永正三年(1506)葛西木庭袋伊予守頼清が再興したとも伝えられています。

圓覚寺は当山派修験(真言系山伏)の寺院で、一般の市中の寺院とは異なり檀家制度のある寺ではありませんでした。
そのため各時代代々、その時の豪族の帰依を受け、江戸時代には弘前藩代々の藩主から祈祷所として崇敬され、
保護が加えられてきました。
また、西廻り海運の船主・船頭の信仰も集め、航海安全の祈願の船絵馬が多数奉納されています。
国重要有形民俗文化財「奉納海上信仰資料」・国重要文化財「薬師堂内厨子」はか、多数の文化財を所蔵しています。

  円覚寺薬師堂内厨子 (国指定重要文化財)
禅宗様式で造られた板葺入母屋造の建築型厨子。
嘉祥年間(848~851)鎮守府将軍・藤原基衡(平泉藤原氏二代当主)が寄進したとの伝承もありますが、
至徳二年(1385)銘の伝・薬師堂鰐口、永正三年(1506)記年の厨子覆堂棟札の存在などから、
室町時代ごろの建造と推定されています。

  円覚寺の龍燈杉
江戸時代、西廻り航路(北前船)の海の男たちが、この沖で暴風雨に見舞われ、
髷(ちょんまげ)を切って一心に祈ると、この杉の梢から一条の光が放たれたそうです。
九死に一生を得てたどり着いた船乗りたちは、常日頃熱く信じていた澗口観音円覚寺にその髷を納めました。
(髷額 重要有形民俗文化財)このような伝説が、いつ頃からか北前船の船乗りたちに「龍燈杉」(船乗りに助けを与える神木)と言われるようになりました。

  龍燈杉九字之綱
千古の風雨霜雪に耐え、偉大なるパワーを秘めている御神木です。
紅白の綱を額に当て、願いを込めて『九字』を唱え、千古の偉大なるパワーをいただいてください。
九字とは、臨・兵・闘・者・皆・陳・裂・在・前 (りん・びょう・とう・しゃ・かい・ちん・れつ・ざい・ぜん)
    
                        青森県の歴史街道 深浦より転載

   浄土宗 亀井山荘厳寺  本尊阿・弥陀如来
関村(深浦)にあった安倍氏の菩提寺を、寛永九年(1632)現在地に移転、
開山良蒙、轉入山を号したと伝えられています。
一説には永禄元年(1558)廓存が創建、亀井山を号したとも云われています。
天明三年(1783)大飢饉の際、荘厳寺住職・聞岌は、農民の窮状を救うため江戸に赴き、
津軽藩七代藩主津軽信寧に直訴、救援米を下賜されましたが、僧侶にあるまじき仕業をしたとの理由で寺を追放、
秋田藩領・能代の五智如来堂に隠遁し、そこで世を去ったと云われています。

                       青森県の歴史街道 深浦より転載

   真宗大谷派 松林山浄念寺  本尊・阿弥陀如来
専徳寺(弘前)二世・祐了の弟子祐心が、天文十一年(1542)赤石村(鰺ヶ沢)より移転して草創と伝えられています。
天正年間(1573~1592)現在地に移転しました。
境内には中世の板碑が一基あり、吾妻沢付近の吾妻館跡から移したものとも伝えられています。

                     青森県の歴史街道 深浦より転載

関の杉(青森県天然記念物) 右の巨樹(淨安寺傍から望む)

安藤氏内乱の舞台となった西浜折會関に立つ杉の木で、推定樹齢1000年、樹高約35m、目通周704㎝。
水甕を伏せたような樹形から「甕杉」、あるいは「亀杉」と称されています。
平成十一年杉の根元から十四世紀中ごろ(室町幕府初期)の瀬戸焼きの蔵骨器が出土しました。

   関の古碑群(青森県史跡)
関に傍に所在する板碑形式の供養碑42基。在地や近郊に散在していた板碑をあつめたものと考えられています。
南北朝時代の年号や、「阿部是阿」「安倍季□」などが刻まれた資料から、安藤氏関係の板碑と考えられています。

                      青森県の歴史街道 深浦より転載

温泉名: 鍋石温泉
源泉名: 鍋石温泉源泉
泉質: ナトリウムー塩化物泉  
    高張性 中性 高温泉
    pH6.4  陽イオン 9999㎎/㎏  陰イオン 17729㎎/㎏
    成分総計 28363㎎/㎏
源泉温度: 50.2℃
湧出量: 461L/min (利用量)  
湧出形態: 掘削湧出
注入排出形態: 加水 加温 循環ろ過 消毒
効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 関節のこわばり うちみ ねんざ 
    慢性消化器症 冷え性 疲労回復 健康増進

利用料: 大人 400円  小人 200円
利用時間: 15.00~21.00
休日: 無休 (問い合わせ)

深浦観光ホテル
青森県西津軽郡深浦町深浦字岡崎337-42  Tel 0173-74-3511

内風呂と露天風呂があり、弁才天の湯と称している。弁才天の湯の謂れは聞かなかったが、露天風呂浴槽の外に弁才天像が置かれていた謂れがあって弁才天像を安置したのか、安置したから弁才天の湯と称したのか?
源泉涌出場所からすると、ホテルの場所から10㎞以上離れた鍋石源泉。ウェスパ椿山付近であろうから、タンクローリーで運搬している。温泉成分分析書に書かれていた湧出量461L/minは源泉。タンクローリの往復回数は分らないが、貯湯槽を設けて対応していると思われる。高張性源泉も幸いし加水して貴重な湯元を守っている。

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湯野浜温泉かめ屋へ

竹林

庭園より釈迦堂縁側

庭園

善寳寺界隈へ

下り宮

手水舎

平滑面が歪んでいた時代のガラス

庭園

庭園

石置き屋根

赤瓦 鶴ヶ岡城で使用されていたもので太子堂にも使用されている

象潟郷土資料館展示品

船箪笥

亀や創業者 阿部與十郎翁

亀やの亀

湯野浜の浜

湯野浜の夕日

飲泉所

庭園

庭園

   丙申堂 (国指定重要文化財 平成十二年十二月四日指定)
明治二十九年(1896)丙申の年に、風間家七代当主・幸右衛門が、住居及び営業の拠点として建築したもので、八代当主・幸右衛門(代々幸右衛門を名乗る)が建築年に因み「丙申堂」と名付けました。
主屋を中心に南側は道路に面し表門(薬医門)と前蔵、西側には中蔵と奥蔵、北側に金庫蔵が配置されています。
この建物は、明治二十七年(1894)の酒田地震を教訓に建てられたと伝えられ、広大な板の間に架ける梁をトラス構造にし大黒柱で支えるなど工夫の跡が見られます。
なお、平成十一年六月七日に表門、西側の板塀が国登録有形文化財に、平成十二年十二月四日に主屋、小座敷、前蔵、中蔵、奥蔵、便所、浴室が国指定重要文化財に指定されました。

                案内説明より

釈迦堂

表門 薬医門

衝立 親子獅子

螺鈿細工物入 担ぎ金具付き

石仏阿弥陀如来坐像

書院透かし彫り 松と鶴

軒の一本桁木

格子欄間

座敷床の間

松尾芭蕉が見たであろう象潟  象潟屏風絵 六曲一双 (左)

当屋敷でのロケの際の写真

二階

畳敷きのトイレ

象潟屏風絵 六曲一双 (右)

温泉名: 湯野浜温泉
源泉名: 湯野浜1号、2号、3号、4号、5号 混合泉
泉質: ナトリウム・カルシウムー塩化物泉
    低張性 弱アルカリ性 高温泉
    pH8.1  陽イオン 1802.2㎎/㎏  陰イオン 3148㎎/㎏
    成分総計 5005.7㎎/㎏
源泉温度: 57.2℃

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 関節のこわばり うちみ ねんざ
    慢性消化器症 冷え性 疲労回復 健康増進
    
湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力用湯
注入排出形態: 循環ろ過 消毒

湯野浜温泉 亀や
鶴岡市湯野浜1-5-50  Tel 0235-75-2301

外観

二階

二階より 通りと台所煙小屋根(腰屋根)

梅と鶯

小座敷 衝立

小座敷 床の間

   象潟駅 駅名の由来
昔この辺りは蚶(きさ貝)が獲れるという意味からか、「蚶方」と言われ、そのため、ここにあった入り江を「きさ潟」と呼び、のちに「象潟」の字があてられました。この入り江に浮かぶ九十九島の景勝地は、松尾芭蕉の「象潟の雨や西施がめぶの花」とあるように多くの俳人に賞されてきました。しかし、文化元年(1804)の大地震で海底が隆起し、陸地と化してしまいました。今は、田園に浮かぶ島々の名残が往時をしのばせています。

   塩越城跡
江戸時代初期の大名・仁賀保氏の居城跡。元和九年(1623)、由利十二人頭の一人・仁賀保挙誠は常陸国武田から一万石の大名として旧領に入部した。伝承記録ではあるが、戦国時代の塩越の地侍・池田氏の居館とされる塩越館に入ったと云われる。城は九十九島へ通じる堀が設けられ、前方に日本海、後方に九十九島と鳥海山を望む絶景の立地であった。挙誠は入部の翌年に病死し、その後、長男・仁賀保蔵人良俊が七千石家、次男誠政が二千石家、三男誠次が千石家と、三家の分地となり、大名家は無くなったが長男良俊が塩越城に入った。寛永八年(1631)に良俊が亡くなり、廃城となったため、城の存続期間は九年間に過ぎなかった。
塩越が県営十七年(1640)、本荘藩六郷氏の領有となってから、その跡地の一角に塩越町奉行が置かれた。藩政期の古絵図(象潟景勝絵図・県立博物館蔵)および藩御用絵師・牧野永昌筆の象潟図屏風(象潟町郷土資料館蔵 県有形文化財)には、塩越城跡を「古城」と記入している。城の規模は、東西二町(約二百十八メートル)、南北三町(約三百二十七メートル)で、本丸は東西三十三間(約六十メートル)、南北二十七間(約四十九メートル)、高さ一丈五尺(約四・五メートル)、石で側面を固めた城壁であった。

   史跡 舟つなぎ石
欄干橋(象潟橋)のたもとに立つ道しるべの石柱は、昔象潟川をさかのぼってきた和船が綱をかけて船を止めるのに利用したところから舟つなぎ石と愛称されるようになった。かって象潟の美しい八十八潟九十九島の風景を遊覧する舟は、このあたりの岸から出たのである。芭蕉と曽良の師弟もここから舟に乗って島巡りをした場所である。左右往還と刻まれた石の文字は土地の道案内文字で、昔をしのばせる遺産である。

   象潟橋(欄干橋)
かってここから眺める九十九島と鳥海山は「象潟八景」の一つと言われていました。最初に橋が架けられたのは慶長八年(1603)のことで、その後の元禄二年(1689)に芭蕉と曽良が「奥の細道」の旅でここを訪れています。曽良の旅日記には、塩越(旧象潟町)に着いた六月十六日(陽暦八月一日)に「先、象潟橋迄行テ、雨暮気色ヲミル・・・・」とあり、塩越を去る十八日には「早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴風を見ル・・・・」とあります。

               案内説明より

象潟橋より熊野神社

象潟橋欄干

舟つなぎ石

山上の松

鳥海山

さんねむ温泉へ

島の案内板

金庫蔵の金庫

金庫蔵 四基の金庫がある

庭園

下堂の森

駒留島

山上から田園

中の間 書額

仏間 格子欄間 二段長押

仏間

碍子引き配線

書斎 納戸

主居間

西施像 美人は首が長い

にかほ市観光拠点センター
「にかほっと」

にかほ市観光協会(にかほっと内)  レンタサイクルが準備されているがPR不足

座敷

座敷 書院

座敷床の間透かし彫刻

庭園

手前 中の間 奥 下座敷

下座敷 六曲一双屏風

道の駅 ねむの丘四階展望温泉

階段箪笥

階段の先中二階 常駐大工の部屋

囲炉裏

温泉名: 眺海の湯
源泉名: 象潟R-D
泉質: ナトリウムー塩化物泉
    高張性 弱アルカリ性 高温泉
    pH7.5  陽イオン 8063.5㎎/㎏  陰イオン 13109.2㎎/㎏
    成分総計 21783.2㎎/㎏
源泉温度: 40.3℃

湧出量 7.6L/min (11000L/一日)
湧出形態 掘削動力用湯
注入排出形態 加水 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 関節のこわばり うちみ ねんざ 
    慢性消化器症 冷え性 疲労回復 健康増進
    
利用料: 大人 350円  小人200円 (90分) 他一日券
利用時間: 9.00~21.00
休日: 無休


道の駅 ねむの丘
にかほ市象潟町大塩越73-1
Tel 0184-32-5588

調理台

現地案内看板

早朝の鳥海山

夕暮れの鳥海山

展望風呂

大浴場

松林に沈む夕日

日の出

さんねむ温泉へ

丙申堂 三間一戸薬医門

丙申堂前ノ蔵

聖徳太子光寿無量堂

善寳寺界隈へ

湯野浜温泉かめ屋へ

   熊野神社  御祭神 伊弉諾尊 事解男命 速玉男命
文治二年(1186)紀伊国(現和歌山県)で飢饉による騒動があったとき、熊野三山の別当の孫にあたる大圓坊という人が熊野山からご分霊を奉じて海路き象潟に至り、神明森(現境内)に祠を建てて祀ったのが始まりとされています。さらにその後万治年間(1658~1661)改めて社殿が造営されたと伝えられています。しかし度々の火災や様々な変遷を経て今日に至っております。明治六年には郷社に列せられました。

元禄二年(1689)六月十六日(陽暦八月一日)は松尾芭蕉が象潟に到着した日ですが、この日がたまたま熊野神社の祭りの日でした。同行の弟子河合曽良の日記には祭りで宿が女客でいっぱいであったため「向屋」に泊まったと記され、この祭りに関しての一句は「象潟や料理何くふ神祭り」というものでした。また、天明四年(1784)には菅江真澄も参詣しています。
さらに熊野神社には慶応四年(明治元年1868)の戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟に背を向けた政府軍の久保田藩藩藩士・荒川遊撃隊(隊長・荒川久太郎秀種)が旧幕府派の庄内軍(鶴岡藩)との戦いの出撃にあたり作法に則って全員が頭髪を切って社殿に納め、武運長久を祈願した。なお、この戦いで二名の隊員が武運つたなく戦死しました。

             案内説明より

社務所

拝殿

拝殿扁額

本殿

松尾芭蕉像

曹洞宗 皇宮山蚶満寺

西施像

山門

本堂 宝形造桟瓦葺

本堂寺号扁額

平成元年六月十八日 山形沖地震で屋根の被害と倒壊した燈篭や墓石   平成元年六月二十六日訪問

庫裏

山門

本堂

本堂と境内墓地

善寳寺界隈へ

深浦海岸

大東亜戦争英霊の供養碑

倉庫でしょうか

北前船の船尾(艫)部分のモニュメント

風待ち館 閉館間近で断念
歴史民俗資料館のみ入館

円覚寺傍の休み処 シーズン前で静か

社号標

境内社 須賀神社

大石がごろごろ

歴史民俗資料館近くの公園
岩をくり貫いたのは何のためか?

岩場の社殿は弁天堂か?

深浦港防波堤上の灯台

深浦港

夕日公園

熊野神社 祭神 
伊弉諾尊 事解男命 速玉男命

参道

五百羅漢特別拝観

JR深浦駅

境内樹木

さんねむ温泉へ

境内墓地

本堂

庫裏

山門 獅子彫刻

僧堂 選佛場

鐘楼

梵鐘

龍王殿

龍王殿

樹林

倒壊灯篭

庫裏 客殿(信徒会館)

境内墓地

阿形金剛力士像

山門  山号扁額

本堂 入母屋造銅板葺三間唐向背

吽形金剛力士像

善寳寺

親子地蔵尊

龍華堂

山門 
入母屋造銅板葺三間一戸楼門

寺号標

霊木

庭園

庚申堂

地蔵堂 地蔵菩薩石像

不動明王

宝篋印塔 青森県宝

龍燈杉九字之綱

総門彫刻

象と獅子

象と獅子

板碑三基 年代不詳

鍾石 叩くとキンキンと音がすることから
金運を求めて多くの人叩く

二層階段

毘沙門天

韋駄天

古峰神社と島の頂への道
海の展望公園となっているがその頂に建っていたものは・・・

庚申塔等の供養塔

三門斗栱

稲荷神社

社務所

本殿

三門 入母屋造銅板葺三間一戸八脚二重門

三門扁額

社殿

社号標

鳥居 奉納灯篭

総門

手水舎

五百羅漢堂

庫裏

寺から見る鳥海山

島の頂にある 島の名称は

本堂

島の松

社号標

社殿 入母屋造茅葺鋼板被覆

善寳寺界隈へ

湯野浜温泉かめ屋へ

梵鐘

鐘楼

庫裡

本堂向背柱 獅子頭

境内樹木 松

参道の松

地蔵菩薩

境内墓地

善寳寺界隈へ

本堂

六地蔵尊

聖和観音と称されている

地蔵堂

庄内三十三観音札所 第八番

庄内平和観音百霊場 第二十九番

三門 薬医門

芭蕉塚

稲荷大明神

金刀比羅宮

山門

題目塔

酒井神社
祭神 酒井忠器(庄内藩八代藩主) 酒井忠發(庄内藩九代藩主)

一之鳥居扁額

二之鳥居

向背虹梁彫刻 龍の頭部分が欠損したのでしょうか

善寳寺界隈へ

向背虹梁彫刻

本堂向背山号扁額

庫裏 信徒会館

出羽守武藤家(大宝寺氏)霊殿

霊殿扁額

   椙尾神社石鳥居 (山形県指定有形文化財 昭和二十八年二月十三日指定)
この鳥居は両部鳥居の形式に属し、全体的に関西文化の影響がみられる。
石材は越前産硬砂岩を用い、島木、笠木は一石で作られており、両柱の銘文から江戸時代初期の慶長十六年に最上義光の家臣・下次右衛門尉藤原實彦および原美濃守頼秀によって建てられたものであることがわかる。

              案内説明より

社号標

社殿

吽形狛犬

阿形狛犬

拝殿 入母屋造銅板葺三間向背

古峰神社石塔

境内社 稲荷神社

境内に木陰を落とす樹木

向背唐破風

拝殿

拝殿扁額

   戸隠神社  祭神 天表春大神 天思兼大神 手力男大神 九頭龍大神
文化五年(1808)に佐藤津守・藤原廣次の書いた「由緒書」によれば、京都坂下の住人・竹内某が諸国兵乱のために信州戸隠山に参詣してご分霊を勧請し、奥羽を目指して下り、応仁元年(1467)に象潟に落ち着き一社を建立し分霊を祀ったのが始まりと伝えられている。戸隠神社には現在県内最古とされる安永九年(1780)の船絵馬が伝えられている。

               案内説明より

手水舎跡井戸か?

三門 

寺号木札

四脚門

永福寺表札

本堂 宝形造鋼板葺

地蔵堂

さんねむ温泉へ

北金ヶ沢の大イチョウ
(国指定天念記念物)

浄土宗 西方山淨安寺
八幡神社の別当寺でしたでしょうか?

本堂 阿弥陀如来

社務所

多くの石塔が置かれている

境内の樹木

   胡四王神社  祭神  経津主神 建御雷神 甕速日神 熯速日神
「胡四王神社縁起写」(作成年月未詳)によると、弘長三年(1263)佐藤左織・佐々木典膳・泉孫治郎らが南秋田郡寺内村(現秋田市)の胡四王神社の分霊を勧請して汐越村横田新田(現にかほ市象潟)に一宇を建立して守護神として祀ったのが始まりと伝えられている。
その後、正中二年(1325)、冠石道西山(現象潟)に遷座、更に文禄三年(1594)八月現在地に遷座したが、文化元年(1804)の象潟大地震など二度にわたり消失した。現在の社殿は嘉永元年(1848)に再建されたものである。祭神は武人としての崇敬が篤く、十一代本荘藩主・藤原政鑑筆の社号額が奉納されている。祭礼は五月の第三日曜日で、熊野神社と同日に象潟の祭りとして盛大に行われている。


   奉納船絵馬
古くは船体や航海技術も未発達で、文字通り板子一枚の下は地獄といわれていた時代があった。江戸時代中期ごろから明治半ばまで日本海運として活躍した弁財船であっても危険と紙一重であったため、神仏に頼ることも多かった。船絵馬は航海の安全や豊漁を祈願して社寺に奉納したものである。
船主や船頭などが盛んに奉納し、由利地区には二百点余りが現存し、その約半分以上は象潟にある。中でもここ胡四王神社が最も多く、三十七点が現存する。奉納した願主は地元の人ばかりではなく他国の人も見られ、往時の信仰の広さや賑わいぶりを知ることができる。

                 案内説明より

善寳寺界隈へ

境内 ヤチダモの巨樹

八幡神社

JR 北金ヶ沢駅

拝殿亀甲扁額 胡四王神社

本殿 覆い屋

庫裏

金光明最勝王経 石書供養

伐採された杉 なぜなぜ?

鳥海山

地蔵菩薩と供養塔

手水舎

二之鳥居と身構狛犬

拝殿と狛犬 こちらは蹲踞形

興徳寺

本堂 聖観世音菩薩

奉納灯籠

社号標

一之鳥居と身構狛犬

参道奉納燈篭群

善寳寺界隈へ

庭園

境内墓地

関八幡神社

現地案内板の写真 この頃の賑わいが想像できる

舟に載ったねぶた人形展示(本物)
小学生が製作したものが練り歩く

三社が祀られている

垂乳根の銀杏碑

老木と若木と

樹洞も見える

樹幹根元の様子 気根から若木が育っている 根元が複雑で数本の幹に分る
よく見る銀杏ではないが 千年以上の年月を経ての樹姿である

気根 垂乳とも呼ぶ

倒枝からも若木が 樹勢が強い

樹洞が気根で埋められている様 幾度の再生をみた一本銀杏の一族樹

仏様も見ているから・・・

公衆トイレも完備

傍にある駐車場らしき広場

参道奉納燈篭

社殿

豊受神社

己巳(つちのとみ)年は六十年に一回の干支による年の表し方で、発年の甲子(きのえね)から六番目に位置する事柄である。
また、日にちとして表せば六十日の周期で己巳の日が回ってきます。
己は土につながり金銀鉄などを表し、巳は満でありまた蛇であることから弁財天が満時に通じるため、金運が最大となる年または日々は人々の信仰を集めている。
ちなみにこの碑には、文化二乙丑年三月吉日の銘がある。

本堂(仏殿)

本堂扁額

本堂 桟唐戸の九曜紋 寺紋?

三門 彫刻

社号標

社殿

社殿(本殿)

三門 茅葺四脚向唐門

三門扁額

三門 木鼻彫刻獅子と獏

大町佳月文学碑建立の謂れ

ミニミニ能登半島

海越しに見えるのは津軽半島?

国道の観光標識 
意識を持っていないと判るかな?

象潟島の碑

紅蓮尼の碑

松尾芭蕉句碑 「象潟の雨や・・・・」
宝暦十三癸未(1763)九月建立

大町佳月文学碑

太宰治文学碑 千畳敷海岸隆起生誕200年記念建立

金剛力士吽形像

金剛力士阿形像

観音堂 馬頭観世音菩薩

大戸瀬観音 海上交通安全

岩下の茂みには数匹の野良猫  岩上には数羽のウミネコ

山形名物 民田ナスでしょうか

R101と並行して走る五能線

大岩には仏が鎮座しています

本堂

本堂 蚶満珠禅寺・扁額

本堂向背海老虹梁

歴代住持職供養墓

墓地の樹木

駅前の奇岩

鐘楼 

初代大山藩主酒井備中守忠解廟所

損舘 
道林院殿前備州覺英道日慈大居士

千畳敷の岩石

千畳敷駅

三門

金剛力士吽形像

金剛力士阿形像

本堂 入母屋造鋼板葺唐向背

本堂 山号扁額

本堂唐破風 酒井家家紋
徳川家との家紋の交換の伝えがある

十王堂

十王と奪衣婆の像も

釈迦如来像

六地蔵尊

位牌堂

内風呂

松林山浄念寺

本堂 入母屋造銅板葺平入り向拝

庫裡

庚申塔等の石塔群

社号標

参道

二之鳥居

深浦観光ホテル 丘の中腹にある

広場の傍にある神社 二本の大きな御神木が社殿を護るように幹を寄せていた

竹島の松

社殿

不動明王

一之鳥居 石造両部鳥居

鳥居扁額

野猿

野猿 海を眺めて何思う

納豆パック 

特選一品料理のメニュー

弁才天の湯は通路の先の別棟

露天風呂から

露天風呂

境内の墓地

寿命を全うしたか 大きな切株

手水舎

亀の水口

石段参道

駒留島

三門 瓦葺三間一戸八脚門

三門 扁額 退色して読めない

表札

山門 切妻造桟瓦葺四脚門

山門 斗栱と板蟇股

善寳寺界隈へ

庫裏

境内墓地 墓石の被害多し

夜泣きの椿と三界萬霊塔

境内墓地

歴代住持供養墓

千手観音石像

猿丸太夫姿見の井戸

善寳寺界隈へ

鐘楼

梵鐘

出世稲荷堂

手水者

観音堂

木彫観音菩薩が安置

皇大神社 富士酒造の横にある

社殿

皇大神社扁額

石庭

山水

参道奥まった小高い場所に社殿がある。この一帯の広さから想像するに寺院が立っていたと思えてくる。薬師神社の名称からも薬師如来を本尊として祀る寺院であったと想像が深まるがはたしてどうでしょうか?だとしたら明治の神仏分離令に始まる廃仏毀釈運動の弊害の一つなのかもしれません。残された神社も寺同様にすたれることも多いと感じることもある。

向背彫刻 波間の亀と雲間の龍

善寳寺界隈へ

蚶満寺庭園 参道左の低湿地

九十九島の碑

惣助翁彰徳碑

寺号標

三門 切り妻桟瓦葺四脚門

本堂 入母屋造桟瓦葺一間向背

信徒会館

子育 水子地蔵尊

庭園 手入れが見事です

鳥彫刻

龍彫刻

境内社

善寳寺界隈へ

本堂向背

本堂大棟 鎌倉北条氏家紋

何事もないかのように

道林寺向の酒蔵 富士酒造 銘柄「有加藤」 清正公と所縁があるらしい

本堂 入母屋造  阿弥陀如来

唐向拝懸魚

庫裡

拝殿

向背海老虹梁

虹梁 虎彫刻

深浦駅前より九十九折の階段を上る 20㎏を背負った後期高齢者には息が切れる 
浜ノ町から津波を避けるには十分な高さがある 岡ノ町には広場があり避難場所になっている

薬師神社 鳥居

奥には竹島の森

さんねむ温泉外観

社号標 

通りから細い路地の先に鎮座
応神天皇 神功皇后 仁徳天皇

参道の樹木

社殿 社務所 氏子会館 兼用

山門 薬医門

寺号表札

山門 束の彫刻

三門 二層部内側より

弥勒堂

本堂

寺務所

中池

慈照殿

慈照殿

龍王殿

龍王殿

本堂 唐向背と飾り千鳥破風

薬師堂 薬師如来安置

不動堂

八坂神社 おばこ町会館と同居

島の頂は平坦で寺院建築物が在ったと容易に想像できる
分離された八坂神社が町民に引き継がれたとも そこには看板が立つ

庄内三十三観音 観音堂

放光堂

総門 桟瓦葺四脚門

寺号標 椙尾神社の別当寺

本堂 入母屋造桟瓦葺

相馬中村神社碑  

豊受神社の創建は慶長三年(1598)と云われている。
創建時は神明神社(祭神 天照大御神)境内に伊勢神宮遷宮時の御神木を賜って小祠を建立し祀られた。
後に別宮殿を建立し、豊受神社と称したと伝わる。      秋田神社庁より転載

己巳(つちのとみ キシ)碑
金運が望月となると信仰されている

庫裏

法堂

法堂 破風板と懸魚

五層石塔

弁天橋

弁天堂

石鳥居

社殿

善寳寺界隈へ

正法寺

総門 茅葺四脚門

禁 葷酒

宝篋印塔

苔生した参道

タブの木

西行法師の歌桜

親鸞聖人御腰石

舟つなぎの石

鎌倉五代執権北条時頼のつつじ

桜の葉

木登り地蔵菩薩 石像

後姿のほうがよく見える

観音堂扁額

観音堂向背蟇股

夜泣守地蔵尊 縁の下地蔵尊

医院建築 現在は開業していない様

新設 喫茶コーナー

   無量光苑 釈迦堂 (国登録有形文化財 平成十四年二月十四日指定)
明治四十三年(1910)に風間家別邸として建築され、
昭和十八年頃まで来賓の接待や関係者の集会の場として使われました。
その後、昭和二十六年頃まで綴れ織の大家として知られる遠藤虚籟氏、和田秋野氏が居住、昭和二十七年からは、
風間家九代目当主・風間眞一の私邸として現在に至っている。

風間家は代々浄土真宗に信仰が厚く、建築時より上座敷「無量光」の額(黄檗木庵書)を掲げてあったことに因み、
八代目当主・幸右衛門が建物と庭園を含めて「無量光苑」と名付けました。
さらに九代目当主・風間眞一が、床の間に御石仏釈迦像(大正十二年東京帝国大学印度哲学科・常盤大定師より寄贈)
を安置して「無量光苑 釈迦堂」と命名しました。

優れた構造、意匠が用いられた建造物として、平成十四年二月に国登録有形文化財となりました。
また、付属屋の土蔵、表門、中門、北門、西側の板塀は、平成十五年七月に国登録有形文化財に指定されました。
庭園は、桜、萩、紅葉など四季折々の風情を望むことができます。
特に五月頃のツツジは、池を取り囲むように花を咲かせて見事な姿を見せる。

             案内説明より