榛名神社
榛名神社の名は延長5年(927)に完成した『延喜式神名帳』という、全国の主要な神社の名を書き記した記録の中に「上野十二社」の一つとして載っています。 この記録に載っている神社は「式内社」と呼ばれ、この当時すでに格式の高い神社であったことがうかがえます。また九世紀ころのものと考えられる寺院跡の遺跡「榛名神社巌山遺跡」も境内から見つかっていて、古くから厚い信仰を集めていたことがうかがえます。
戦国時代には衰退しますが、江戸時代に入り、天海僧正により復興され、慶長十九年(1614)、「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が出され、以降寛永寺の支配下におかれました。 そして、その後、榛名神社信仰は「榛名講」として広がり、十八世紀前半に神楽も再興されたと伝えられています。神楽殿で年三回(二月十五日・五月五日・五月三日)「神代神楽(じんだいかぐら)が奉納されます。
明治維新直前の慶応四年三月の神仏分離令にはじまる、一連の仏教と神道分離の動きの中で、堂塔や仏像、仏具など仏教色が一掃され、現在に至っています。
多くの貴重な文化財があり、国指定重要文化財として「社殿(本社・弊殿・拝殿)」をはじめとする六棟の建物、国指定天然記念物として「矢立スギ」、県指定重要文化財として「鉄燈籠」「関流算額」「榛名神社文書」、県指定重要無形民俗文化財として「神代神楽」が指定されています。市指定文化財も多く、見どころがいっぱいあります。
参道には国登録有形文化財の宿坊が並び、独特の風景を残しています。初詣を始め訪れる参拝客、観光客も多く、榛名湖と並び、県下有数の観光ポイントとなっています。

榛名神社の案内説明板の榛名神社由緒によれは
榛名神社は三十一代用明天皇(聖徳太子御父)御代の丙午元年(586)の創祀で、延期式内社である。徳川時代の末期に至るまで神仏習合の時代が続き、別当寺として満行宮、榛名寺などと称し、本寺・上野東叡山寛永寺に属し、別当兼学頭が派遣されて一山を管理していたが、慶応四年三月十三日(明治元年1868)の神仏分離令により寺の管理から離れ榛名神社として独立した。
御祭神   火産霊神(火伏防火開運) 埴山毘売神(五穀豊穣)
社殿は寛政四年(1792)改築、御祭神は本殿後ろに立っている御姿岩の洞窟の中に祀られている。祭事・神代之舞(大々御神楽三十六座)は二百五十年前から伝えられてきたもので、国の無形文化財に指定されている。

   榛名神社 本殿・幣殿・拝殿 (国指定重要文化財)
本社・幣殿・拝殿は文化3年(1806)に建てられた権現造の建物で、御姿岩の前面に接して建てられた他に例を見ない珍しい建造物です。御姿岩内の洞窟を神聖な本殿として御神体が祀られています。建物は朱と黒を基調として要所に金箔や多彩な彩色が施され、左右の脇障子の「竹林の七賢人」や司馬温公の図など数多くの彫刻で飾られ、天井には天井画が画かれています。

   榛名神社 国祖社・額殿 (国指定重要文化財)
国祖社・額殿は榛名神社の本社・幣殿・拝殿に向かって左側に、建てられた建物です。慶長年間(1600年頃)に建てられた国祖社と文化11年(1814)に国祖社側面に増築する形で建てられた額殿があります。基礎は本社・幣殿・拝殿と同じ高さにつくられ、入母屋造で向拝や欄間の彫刻がみられるが全体的に装飾は控えめになっています。 国祖社は神仏分離以前には本地堂と呼ばれ本地仏の勝軍地蔵が祀られていました。 額殿はもともと神楽拝見所として建てられ、榛名神社太々神楽講の人々が参拝に訪れ、神代神楽が奏上されるときに桟敷を敷いて神楽を見るところです。建物内外に大小の太々神楽の奉納額が掲げられていることから額殿と呼ばれています。

   榛名神社 神楽殿 (国指定重要文化財)
神楽殿は榛名神社の本社・幣殿・拝殿と向かい合う位置に、明和元年(1764)に再建された建物です。神楽を本殿の神様に向かって奏上するために、舞台の床の高さは本社の床の高さにあわせてつくられています。床は板張りで三方向を吹放ちとして、格天井には花鳥獣や神楽面などが天井画として画かれています。

   榛名神社双龍門 (国指定重要文化財)
双龍門は榛名神社の本社・幣殿・拝殿から一段下りた石段の途中に、安政2年(1855)に建てられた四脚門です。総ケヤキ造で全体に彫刻が施された高い装飾性をもつ建物です。彫刻や彩色画などに龍が多く取り入れられていることから双龍門と呼ばれています。天井には水戸藩主徳川斎昭公が宋の哲宋皇帝勅製の墨を下賜した墨で上り竜、下り竜が画かれています。

   榛名神社神幸殿 (国指定重要文化財)
神幸殿は榛名神社の矢立スギから石段を登った左側に、安政6年(1859)に建てられた建物です。境内の建物の中ではもっとも簡素な形式を持ち、塗装は施されておらず、古式の仏堂の形式を踏襲しています。毎年春の大祭(5月8日~15日)の際には、榛名神社の御神体が本殿から神輿に移され神幸殿に遷座されます。

   榛名神社 随身門 (国指定重要文化財)
随神門は榛名神社境内に入り二ノ鳥居をくぐった正面に、弘化4年(1847)に建てられた八脚門です。神仏習合時代には運慶作と伝えられる仁王像が置かれた仁王門でしたが、神仏分離令により仁王像は焼かれ、現在は明治39年(1907)に祀られた随神像が祀られ随神門と呼ばれています。

  榛名神社 矢立スギ (国指定天然記念物)
矢立スギは榛名神社の参道にあり、高さ55メートル、幹の周囲9.4メートルを誇る樹齢400~500年の巨木です。矢立とは武将たちが戦勝、領内安全等を祈願するために境内の木に矢を射立てる儀式のことで、榛名神社の矢立スギには武田信玄が戦勝を祈願して矢を射立てたという言い伝えがあります。

   鐸木家住宅本坊門 (国登録有形文化財)
本坊は榛名神社の門前町である社家町にあって、江戸時代中期に建てられた宿坊でした。大規模な建物で武家の利用もあったと推測されています。門の形式は薬医門と称するもので当時の面影を残しています。

   榛名川上流砂防堰堤 国指定有形文化財)
榛名川上流砂防堰堤は、榛名川上流域にあり、昭和30年の竣工以来、半世紀にわたって地域の防災上きわめて重要な役目を果たしています。高さ17メートルの練石積粗石コンクリート構造の大規模な堰堤は、群馬県内に5基しかありません。当時、高度な石積技術が用いられたことがうかがえます。 この砂防堰堤は、榛名神社から榛名山へと続く関東ふれあいの道沿いにあり、周囲の渓谷景観と調和した練石積の外観が観光資源としての価値も見出されています。

   榛名神社神宝殿 (県指定重要文化財)
神宝殿は榛名神社の参道に立つ三重塔です。一宮外記が中心となり、多くの人々の寄進によって明治2年(1869)8月に竣工しました。慶応4年(1868)の神仏分離令で廃仏毀釈の運動が起こりましたが、三重塔は取り壊しの難を免れ、現在に至っています。県内で唯一現存する木造塔婆建物で、明治時代以降は神宝殿と称しています。

   榛名神社神代神楽 (県指定重要無形民俗文化財)
榛名神社神代神楽は榛名神社の神楽殿で奏上される神楽舞です。男舞22座、巫女舞14座の36座の演目があり、摺り足を基本とし、無言で舞われる独特の神楽です。2月15日の神楽始式、5月5日の端午祭と8日の神輿渡御祭で舞われるほかに、榛名講による奉納などで舞われます。

   榛名神社鉄製燈籠 (県指定有形文化財)
榛名神社の鉄燈籠は元亨3年(1323)に新田義貞が寄進したと伝えられる県内最古の鉄燈籠です。現在は榛名神社の神楽殿の西前に建てられていて、笠の部分は後の補作とされています。 鎌倉から南北朝時代の質実剛健の気風にマッチしていたためか、この時代には仏像をはじめ鉄がよく使われています。

   榛名山番所跡 (市指定史跡)榛名山番所跡は榛名神社の裏手から榛名山へつづく関東ふれあいの道に建っています。榛名山番所の設置は寛永8年(1631)9月、廃止は明治2年(1869)1月という記録が残っています。信州大戸通りの裏往還の通行を取り締まっていました。

   榛名神社九折岩・鞍掛岩 (市指定名勝)
榛名神社境内には多くの奇岩があります。そのうち九折岩は榛名神社の裏手にあり、岩が九十九折(つづらおり)の様に数多く折れ曲がった形をしています。鞍掛岩は、参道を進み随神門をくぐりみそぎ橋を渡った右手にある岩で、石橋の様な形をしています。

   萬年泉碑 (市指定重要有形民俗文化財)
榛名神社の萬年泉碑は榛名神社参道にある萬年泉という井戸のそばに建てられている元文4年(1739)6月の銘がある碑です。元来水源神の榛名神社への榛名講による雨乞の伝統は古く、干天が続くと榛名神社に参拝し、雨乞祈願後萬年泉から汲んだ御神水を竹筒に入れ帰村すると雨が降ると伝えられています。

       高崎市 教育 文化財 高崎市文化財 指定登録文化財より転載

  八坂・三峯神社 御祭神 八坂の神須佐之男命 三峯の神伊弉諾尊・伊弉冉尊
天王崎吹谷地区の守護神である当社は古来より八坂神社は「疫病退散」の神、三峯神社は「火伏 防火」の神として湯本町三鎮守の一社として信仰を集めてきました。八坂神社は湯本町に流行した当時疫病を退けるために治承四年(1180)に勧請したと伝えられております。
当地区の名称である天王崎は八坂神社の御祭神である須佐之男命の別称である「牛頭天皇と関わりがありあり、京都八坂神社付近にも天王町があることから古くから当地区と八坂神社との関係がわかります。
また、昭和初期に大火が続出した際、火伏の神で知られる埼玉県秩父市に鎮座の本宮・三峯神社に勧請、御分霊をお祀りしたところ大火が静まり、それ以後湯本駅前地区を含めた天王崎地区では大火は発生しておりません。
           案内説明より


   湯本温泉の歴史
湯本温泉で最も古い記録は、延長五年(927)の延喜式神名帳に「陸奥国磐城郡小七座・ 温泉(ゆ)神社」とあることによります。しかし、奈良時代に石城国が設置されたことや 陸奥国磐城郡の名があることから、開湯は奈良時代にさかのぼることができるでしょう。
南北朝動乱期には南朝方の湯本城が築かれたが、落城しました。戦国期には岩城氏の所領で、湯本は若松氏が治めていました。当時岩城、佐竹、田村氏などの戦国領主が湯本に湯治に来ていたことが記録されています。 江戸時代初期から中期にかけ、鳥居・内藤氏の所領であったが、延享四年内藤氏の延岡転封後は小名浜代官領となり、明治維新まで続きました。浜街道が整備されると、 唯一の温泉宿場として栄え、年間約2万人前後の浴客で賑わいました。温泉は、地表に湧出しておりました。
しかし、明治期になると中央資本が常磐で大規模な石炭採掘を始め、 坑内に湧出する温泉を汲み上げ、温泉面の低下を来し、大正8年には湯脈が断たれ温泉町として機能を失いました。反面、出炭量は増大し、石炭景気で湯本町商店街は繁栄し、 それは昭和40年代まで続きました。しかし先人達の活躍により、温泉揚湯会社を設立し、毎分5トンの揚湯を確保しました。(揚湯にもかからわず、年々温泉面は上昇しております。)
           https://iwakiyumoto.or.jp より転載


  いわき湯本温泉神社
温泉神社は福島県いわき市常磐湯本町三凾に鎮座している神社で、案内板によると「当社は四十一代天武天皇二年(674)初代神主小子部宿弥左波古直足が宮仕いしてより千三百二十年、五十六代清和天皇貞観五年(863)十月二十九日従五位下の神階を授かる、千百三十年前なり、それより四十二年後六十代醍醐天皇延喜五年(905)延喜式神名帳に登載せらる。千八十八年前なり、これ延喜式内社と言われる所なり此処より西方五キロメートル霊峰湯ノ岳(600m)を神体山としている。鎮座地は三遷して慶安四年(1651)今より三百四十二年前此の三函の丘に遷座して現在に至っている。」とあります。
いわき湯本温泉神社は室町時代末期に成立したとされる「神幸由来記」によると、大己貴大神が御子神等と共に日本武尊が東征する為の皇軍の先陣として導き菊多国多邪湊(現在の小名浜港)に上陸しました。大神はそのまま北上し瀧尻川(現在の藤原川)に到着すると、上流に温泉地があり、私の弟である少彦名命が祭られているから、尊にも会ってもらいたいとの旨を話しました。温泉地に到ると、大神はこの地に留まり少彦名命と共に祭られるようになったと記されています。
一般的な解釈としては、温泉神社は元々少彦名命の一柱しか祭られていなかったものの、日本武尊が東国平定で当地を訪れた際に大己貴大神を勧請合祀したと考えられています。日本武尊の東国平定の経路は幾つか想定されますが、この伝承を信じれば、太平洋側の近代でいう「陸前浜街道」を北上した事になります。
又、いわき市常磐白鳥町に伝わる伝承によると、景行天皇の時代に石城の国(現在のいわき市)に賊徒が砦を築いて村人(アイヌ)達に繰り返し悪さをした為、天皇は武内宿祢を派遣し調査させたところ、賊徒は地中を棲み処とし、官兵の目を盗み強盗や略奪を行い、時には官兵に矢を射かける事があると報告が上がりました。
天皇は早速、日本武尊に討伐を命令し、尊は大軍を率いて小名浜沖へ到着。探りを入れたところ泉の砦には巨人が守備し落とすことが容易では無い事が判った為、そこを避け湯ノ岳に麓まで迂回したところ、岸に多くの白千鳥が泳いでいました。
尊は吉兆と悟り、そこから上陸し周辺の砦を次々と撃破し賊徒を討伐出来たと伝えられています。この伝承から「白鳥町」、本陣を敷いた高台は「勝丘」の地名の由来になったそうです。※伝承ではアイヌ人となっていますが、蝦夷、又は俘囚の事と思われます。
平安時代初期には徳一大師が巡錫で当地を訪れたようで、温泉神社の境内に一宇を設けると「戎・定・慧」の三箱を納めたとの伝承から地名「三箱」の由来になったとも云われています。
温泉神社は由緒上は貞観五年(863)十月二十九日に従五位下の神階を授かる旨が記され、年号から推察すると平安時代の歴史書の一つつである日本三代実録に記載されているはずですが、その名を見る事は出来ませんでした。個人的には日本三代実録に貞観五年(863)十月七日に授下野国従五位上勳五等温泉神従四位下と記されてる那須湯本温泉(栃木県那須郡那須町に)の守護神である温泉神社の対抗意識から創出されたものでないかと思います
ただし、延長五年(927)に成立した延喜式神名帳に式内社として記載されている磐城郡の温泉神社は当社以外に該当する神社が存在しな事から比定され、歴史ある神社である事は間違いありません。
しかし、江戸時代初期の火災により社殿が焼失し、棟札に書かれていたという由緒も類焼した為、これ以前の歴史は不詳、室町時代末期に成立したとされる「神幸由来記」も、焼失後に復したものと考えら正確性は薄いと思われます。
温泉神社本殿は宝暦九年(1759)に造営された入母屋、銅瓦棒葺き、一間社の建物で、細部の彫刻など、見るべきものが多く棟札八枚と扁額一枚と共に平成十七年(2007)、いわき市指定有形文化財(建造物)に指定されています。
いわき湯本温泉の鎮守、祭神は大己貴命・事代主命・少彦名命。延喜式神名帳で記載されている温泉神を祀る神社は十社しか無く「いわき湯本温泉」を道後温泉(愛媛県松山市)、有馬温泉(兵庫県神戸市)と共に日本三古湯に数える人もいます(有馬温泉は日本書記に六百三十六年に舒明天皇が利用、道後温泉は伊予国風土記逸文で五百九十六年に厩戸皇子(聖徳太子)が利用したと記載されています。
社伝では那須温泉は六百三十年に開湯、南紀白浜温泉は日本書記に六百五十八年に斉明天皇が利用したとあります)。又、式内社で、明確に温泉神社として記載されているものは那須温泉神社(栃木県那須町)、鳴子温泉神社(宮城県大崎市鳴子町)、いわき湯本温泉神社の三社しかありません。
           https://fukutabi.net より転載


  真言宗智山派 三箱山勝行院 
三箱山勝行院は福島県いわき市常磐湯本町三函に境内を構えてる真言宗智山派の寺院で、平安時代初期の大同二年(807)に徳一大師(奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の高僧、東日本に多くの寺院を開山)よって創建されたと伝わる古寺です。
正面の楼門(入母屋、桟瓦葺、三間一戸、八脚楼門)を始め本堂(入母屋、桟瓦葺、平入、桁行五間、正面三間向拝付)や三重塔(三間三重塔婆、瓦葺、宝形屋根、高さ14m)など七伽藍が建ち並び明治初頭には小学校の仮校舎にもなっていました。
中でも勝行院釈迦堂は、江戸時代後期の寛政十年(1798)の火災により焼失した後、文化年間(1804~1818)に幻如上人により再建された古建築物で木造平屋建て、入母屋、瓦葺き、平入、桁行四間、外壁は真壁造り板張り、正面中央には「釈迦堂」の扁額、当時は朱色に塗られていたようです。この釈迦堂は勝行院が戊辰戦争で焼失した時仮本堂となった建物で堂内には釈迦三尊を安置していた事もある歴史ある建物です。
勝行院寺宝である木造釈迦如来坐像は南北朝時代(十四世紀)に運慶が彫り込んだと伝えられる仏像で、寄木造、漆箔、玉眼入、像高85㎝、貴重な事から昭和五十一年(1976)に福島県指定重要文化財に指定されています。いわき湯本温泉の名所、福島八十八箇所霊場第一番札所(札所本尊:不動明王・御詠歌:みちのくの さばこのさとに だいどうの みてらはいまに ひかりかがやく)。宗派:真言宗智山派。本尊:不動明王。
           https://iwakiyumoto.or.jp より転載

JR湯本駅

駅前通り案内板

稲荷社でしょうか

扁額 湯坐神社

拝殿海老虹梁

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まかど温泉 まかど観光ホテル makado-onsen Makado Kanko Hotel



赤湯温泉 大文字屋旅館
 
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熊野神社  宝積坊  正徳寺  逢莱院禅寺  
八幡神社  東正寺  赤湯神社  烏帽子山公園

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真宗大谷派 旭耀山正徳寺

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台座説明文

吉江重民顕彰碑

地蔵堂

地蔵堂

冬支度

僧堂?

庫裡

半鐘

本堂 鳳凰画

魚板

本堂扁額

本堂大棟 寺紋

本堂

手水舎

掲示板

萬霊供養塔

不許葷酒入門

三門 銅板葺四脚門

子育て地蔵尊

子育て地蔵尊  般若心経奉納額

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曹洞宗 宮澤山蓬莱院禅寺

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全景

山門 切妻造銅板葺四脚門

寺号石標

山門 龍の彫刻

山門 象と獅子木鼻彫刻

本堂 入母屋造銅板葺一間向拝

本堂向拝 龍の彫刻

本堂大屋根千鳥破風

本堂床下 礎石と礎石柱

當山所縁の供養塔

置賜地方によく見る供養墓

境内墓地

庫裡

縁側の干し柿

紅葉

何故か 墓地にアスパラガス

板戸花菱紋 寺紋でしょうか

本堂向拝柱木鼻彫刻

何でしょうか 通し矢の的の様です



宝積坊

宝積坊は熊野神社の別当寺であった証誠寺の塔頭院・坊として今に残った寺院でしょうか。出羽国熊野詣で宿坊も多かったと思えるのですが。

馬頭観音

石造が安置されています

冬支度の庭

庫裡

大日堂 羊・申歳の守り佛

大日如来石造 天照大神の本地佛

六地蔵尊

本堂

置賜三十三観音札所

三門扁額

山門

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  熊野神社
熊野神社は紀伊国熊野三山の神々を勧請し建立されたものであります。歴史は古く、熊野三山、上信国境熊野神社、そして当神社・出羽国熊野神社は日本三大熊野神社として世に知られています。
御祭神は速玉大神(ハヤタマノオオカミ)、夫須美大神(フスミノオオカミ、家津御子大神(ケツミコノオオカミ)の三柱を祀っております。また、熊野速玉大神と熊野夫須美大神は夫婦神と云われ、後に神話と同化され伊弉諾尊、伊弉冉尊とされています。熊野家津御子大神は神世七代神である国常立大神とされましたが、伊弉諾尊の禊から生まれた素戔嗚尊(スサノヲノミコト)とも伝わっています。
本地垂迹説では、伊弉諾尊は薬師如来、伊弉冉尊は聖観世音菩薩、素戔嗚尊は阿弥陀如来が本地佛とされています。
  南陽市宮内と熊野神社
北に丘陵、南に肥沃な平野、東に清流吉野川、西には会津・日光を経て江戸に至る矢之目街道が通り、宮内の地は風水的に最高の吉地とされる四柱神相応の条件が調っている場所です。その要に位置するのが日本三熊野の一つに数えられる熊野大社です。この周辺には縄文時代中期以降の多くの遺跡が集中し、五千年の昔から大きな集落が形づくられていたことが分かってきています。
熊野大社は置賜の最高峰・西吾妻山」の真北に位置し、不思議なことに高畠の古社・安久津八幡神社、赤湯烏帽子山八幡神社、二色根薬師寺、大朝日岳山頂と共に一直線上に並んで居ます。また熊野大社の参道石段の向きは、彼岸の中日(春・秋分の日)の日の出の方向に造られています。太陽信仰と共にあった太古の昔から、宮内の地は熊野の森を中心に豊かな歴史を積み重ねてきました。
近代になって宮内は大きく飛躍しました。明治から大正へ、世界最高品質の生糸「羽前エキストラ」によって世界に名を轟かせました。製糸業の隆盛は宮内に菊の文化を育て「南陽の菊まつり」として今に伝わっています。
宮内は五千年にも及ぶ歴史を背景に、平清盛の嫡孫で光源氏の再来ともいわれた平維盛、歌舞伎十八番「暫」の主人公・鎌倉権五郎影政、鎌倉初代執権北条時政の子・相模坊臨空、そして伊達政宗公、上杉鷹山公と多くの歴史上の人物が登場する伝説、史実に彩られたロマンあふれる歴史の里です。
  三羽のうさぎと鳳凰頭の彫刻
三羽のうさぎは、本殿裏に彫刻されたうさぎです。何時のころかはわかりませんが、三羽全てを見つけると願い事が叶う、幸せになれると言い伝えられています。
  鳳凰頭の彫刻 
本殿向拝木鼻の鳳凰の彫刻。太陽が鳳凰の瞳にさしこむとき、願いを込めてお参りください。日が昇る東の鳳凰には祈りを、日が沈む西の鳳凰には感謝を、一日一日を大切にするという日本人の美しい心を表しています。 
  二の宮神社社殿
一間社流造銅板葺の社殿で、別名「若王子」と称されています。御祭神は速玉大神・伊弉諾尊。本殿に向かって右側に鎮座しています。
社殿細部の手法は禅宗様(中国風)に和様(日本風)も取り入れた折衷様式建築となっています。建築時期は室町時代末頃(十六世紀)と推定され、市内に残る数少ない中世の神社建築として貴重なものである。社殿正面の蟇股という部分にはウズラとオモダカの葉が彫られ、美術的に高く評価されています。
  三の宮神社社殿 
三間社流造銅板葺の簡素な社殿です。御祭神は家津御子大神・素戔嗚尊。本殿に向かって左側に鎮座しています。社殿内部に残っている「寛永三年(1626)」の年号や、安部右馬助による熊野神社の再建に関する古文書などから、寛永三年までには再建されたものと推定されます。市内に残るこの時代の神社建築としては、貴重なものである。
  鐘楼と梵鐘
熊野神社の社殿などの復興を目指す安部右馬助らにより、寛永三年(1626)に寄進された梵鐘です。池の間銘文によれば、鐘を造る経費のほとんどを安部左馬助が負担し奉納されたものと推察されています。左馬助の信仰の深さと財力が知りえます。前の世界大戦中の昭和十七年(1942)に兵器製造のために金属拠出が全国的に命じられましたが、当神社の梵鐘は文化的価値が高いという理由で拠出を免れました。この梵鐘は神仏習合の名残を今に伝えています。
  熊野神社のオオイチョウ
根周り7.7m、高さ約30m、銀杏としては県内でも有数の巨木です。樹齢は数百年に及ぶものと推定されています。秋には葉が鮮やかな黄色に染まり、地域の風物詩となっている。源義家が後三年の役のあとに鎌倉権五郎影政に命じて植えさせたという伝説が残っています。
              案内説明より              

雷電神社 火雷大神

氏子 神宮代参記念者奉納燈籠

手前から 

愛宕神社 保呂羽神社 羽黒山神社

手前から

厳島神社  白山神社
源義家神社  鎌倉権五郎神社

手前から

山神社  青麻神社  大宮子易神社

ないしょ話 結城よしを歌碑

ないしょないしょないしょの話は・・・
若くして亡くなった 宮内町出身の結城よしを作詞の記念碑
二番までの歌詞を刻してある

菅原神社 文殊菩薩堂(宝形造)

道祖神社

古峰神社

和光神社  虚空蔵菩薩堂

国常立大神 千手観音堂

皇大神社

稲荷神社鳥居

稲荷神社

幸神社

土神社

蟻王山八幡神社

招魂社

勅使橋

社叢

整備されている参道

燈篭 武州東叡山の銘がある

鳥居扁額

石造両部鳥居

熊野神社社号石標

鏡池傍の水神社

鏡池と燈篭と基台

告・掲示板

手水者

拝殿平入千鳥破風

拝殿唐破風向背の彫刻

神楽殿

鐘楼と梵鐘

拝殿と本殿の間が通路

社務所 授与所

拝幣殿

本殿

本社殿

本殿背壁面彫刻 三羽のウサギを見つけると幸運が訪れると云われている

二の宮神社社殿

三の宮社殿

熊野神社考古資料館

阿形・吽形狛犬

拝殿扁額

県指定天然記念物 大イチョウ

石段参道

拝殿 入母屋造萱葺平入三間唐破風向背



熊野神社

大文字屋旅館外観

温泉成分分析書

大浴場ぶどうの湯由来の壁絵

本館大浴場

中庭

新館大浴場

大衆浴場 赤湯元湯

JR赤湯駅

朝食

夕食

牛鍋

牛スキ

温泉名: 赤湯温泉大文字湯
源泉名: 森の山源泉・森の山2号源泉混合泉
泉質: 含硫黄 ナトリウム・カルシウムー塩化物泉
    低張性 中性 高温泉
    pH 7.3  陽イオン 6846.6㎎/㎏  陰イオン 1167.4㎎/㎏
    成分総計 1919.4㎎/㎏
源泉温度: 60.4℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 五十肩 打身 捻挫 疲労回復
    病後回復 冷え性 痔症 慢性消化器病
    慢性皮膚病 慢性婦人病 切り傷 やけど 動脈硬化症 高血圧症 
    末梢循環障害症 糖尿病


利用料: 500円
利用時間: 11.00~15.00
休日: 無休 (問い合わせ)


赤湯温泉 大文字屋旅館
山形県南陽市赤湯温泉1003  Tel 0238-43-3070


弁財天

毘沙門天(多聞天)

布袋

寿老人

福禄寿

大黒天(大国)

恵比寿

榛名神社七福神

落石被害止の参道洞門

砂防堰堤 (国指定有形文化財)
と背後の尖り岩(九折岩)

榛名山本坊食事処  榛名山別当寺(巌殿寺)三門名残

三重塔

鉄製燈籠

神楽殿 あまのじゃく(天邪鬼) 

国祖社

国祖社から左に額殿

拝殿 入母屋造銅板葺
平入千鳥破風唐向背

拝殿

獅子頭彫刻

親子杉 御神木

神門

神幸殿

矢立杉

境内社 杵築社

本殿 御姿岩に抱かれるように

双龍門 工事中外観をプリント

巨岩 (行者渓

神楽殿 向唐破風銅板葺

瓶子の滝 養老の滝であろうか

枯れる事の無いと云われる万年泉

東面堂跡

神橋

刷毛・ブラシ供養塚

四之鳥居

江戸の豪商塩原太助奉納玉垣

千本杉 榛名山樹林

吽形狛犬

阿形狛犬

大屋根を支える三手先斗栱
神仏習合 三門(仁王門)

みそぎ橋

鞍掛岩 馬具の鞍形の岩

社号標

二之鳥居

三之鳥居

神橋

随身門 三間一戸八脚門
入母屋造縦棒銅板葺

左随身

右随身 習合金剛力士吽形像

一之鳥居

番所門 番所屋敷跡

岩を食んで流れる榛名川



榛名神社

白石栄左衛門建立碑 刻銘

境内社 三峯神社摂社合祀

社殿扁額

社殿

一之鳥居脇の狛犬 石段365段

神楽殿

二之鳥居

石段街より続く石段参道

社号標

高山彦九郎 腰掛の石

芭蕉句碑

万葉歌碑 碑文

万葉歌碑

   白石栄左衛門 伊香保温泉入湯記念奉納灯篭(伊香保町有形文化財)
この燈篭は、明治十五年上野国新田郡阿久津(現太田市阿久津町)の豪商・白石栄左衛門が天保四年(1833)から明治十五年(1882)の五十年間に六十回の入湯を達成した年を記念して建立したものである。当時の交通手段や経費などを考慮すればいかに伊香保温泉を愛したかが偲ばれる貴重な資料である。
碑文・・・白石栄左衛門建立
天保四巳年ヨリ明治十五午年至五十年間六十度入湯今年九十歳・・・
他に萬延元年庚申年の年号銘が刻されているが期間中の事柄が記されているのでしょうか。病治癒の祈願の御礼でしょうか。

対に建立されている同型の燈篭は髙嵜住中島伊兵衛義教建立
慶應三年丁卯上野十二社第三宮伊香保神社と刻されているが謂れはわからない。


   芭蕉句碑
初時雨 猿毛小蓑越 不し気南梨  はつしぐれ ざるもこみのを ふしげなり

苔生した寶珠と笠の燈篭

白石栄左衛門入湯記念奉納灯篭



伊香保神社

(一社)日本温泉協会温泉利用証
引湯を除き全ての浴槽最高評価

   伊香保温泉石段温泉街の由来碑
この石段温泉街は、戦国時代末期、織田信長が天下統一をめざして武田勝頼と合戦した長篠の戦(設楽ヶ原合戦天正三年五月二十一日)の翌年である天正四年(1576)に形成されました。それまで源泉地(湯元)付近にわずかな浴舎がありましたが、当時の近世伊香保温泉共同体成立の推進者達が、新たに湯元より温泉を導き、石段を造ってその中央に湯樋を伏せ、石段の左右に整然と区画されたそれぞれの屋敷に引き湯して、滝を配した浴場を作り、温泉宿を経営しました。
こうして石段坂を中心に当時としては異色の温泉街が形成され、今日に至っています。 これらは我が国第一号の温泉都市計画であり先駆的役割を果たしてまいりました。


   荻原朔太郎「石段上りの街」より
私の郷里は前橋であるから、自然子供のときから伊香保には度々行っている。で、「伊香保はどんなところです」といふやうな質問を皆から受けるが、どうもかうした質問に対してはつきりした答をすることはむづかしい。

・・・伊香保の特色は、誰も感ずる如く、その石段あがりの市街にある。実際伊香保の街は、全部石垣で出来て居ると言っても好い。その石段の両側には、土産物の寄木細工を売る店や、かういふ町に適当な小綺麗の小間物屋や、舶来煙草を飾った店や、中庭に回廊のある二層三層の温泉旅館が、軒と軒とを重ね合わせて、ごてごてと不規則に並んで居る。そしてその石段道の一方からは、絶えず温泉くさい湯気が朦々と立ち登つて、如何にも温泉場らしい特異の感じがする。・・・

最近、私の友人で伊香保へ来た人には、前田夕暮君と室生犀星君がある。谷崎潤一郎君と始めて逢つたのも此所であった。この人たちの伊香保に対する批評は概して可もなく不可もなしといふ所であらう。

                案内説明より

上州伊香保温泉場全景図 明治四十四年発行

伊香保温泉石段の由来碑

石段街下の湯道

石段街夜景

石段街

公衆浴場 伊香保石段の湯

権左衛門の湯

権左衛門の湯

権左衛門の湯 夜景

権左衛門の湯 夜景

岸権入口 石段より

邸内祠 丸石弁財天

権左衛門の湯 懸崖造り風

別処 権左衛門の湯 

成分分析書

貸切風呂 浮雲

又左衛門の湯

又左衛門の湯

六左衛門の湯 露天風呂

展望風呂 六左衛門の湯 大浴場

外観

温泉名: 伊香保温泉岸権
源泉名: 伊香保温泉協同組合混合泉
泉質: カルシウム・ナトリウム-硫酸塩・炭酸水素塩・塩化物泉
    低張性 中性 温泉   メタケイ酸 181㎎/kg
    pH6.4  陽イオン 290㎎/kg  陰イオン 705㎎1/kg
源泉温度(混合泉): 41.2℃

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 五十肩 打身 捻挫 疲労回復
    病後回復 冷え性 痔症 慢性消化器病
    慢性皮膚病 慢性婦人病 切り傷 やけど 動脈硬化症 高血圧症 
    末梢循環障害症 糖尿病
 

湧出量: 4627L/min(組合混合泉)岸権旅館分湯量約300L/min
湧出形態: 自然湧出 掘削自噴 掘削動力揚湯(組合混合泉)
注入排出形態: 加温源泉かけ流し

日帰り入浴不可

伊香保温泉 岸権旅館
群馬県渋川市伊香保町伊香保甲48番地  Tel 0279-72-3105



伊香保温泉 岸権旅館
 
ikahoonsen-kisigonryokan

伊香保神社   榛名神社

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  浅虫温泉
案内板によると「浅虫温泉は平安時代の終わりごろ浄土宗の開祖円光大師が奥州巡教の折傷ついた羚羊が湯あみするのを見て発見されたと伝えられています。其の地名は嘗て住民が織布の麻を蒸していたため麻蒸と呼ばれていました。しかし、火難を怖れ火に縁のある文字を嫌いその後浅虫になったと言われております。」とあります。
浅虫温泉開湯には他の説もあり、貞観十八年(876)に円仁が発見したのが始まりとされ、その後は麻を蒸すことに利用されていましたが文治六年(1190)に法然がこの地を訪れ湯治の効能を広めたと伝えられています。
又、浅虫温泉は文人墨客も数多く訪れており竹久夢二や太宰治、 棟方志功、北畠八穂、小館善四郎、淡谷のり子、三浦雄一郎などが利用しています。特に太宰治は浅虫温泉と縁が深く、太宰が学生時代、母と末の姉が浅虫温泉で湯治していたことから、そこから学校に通った事が「思ひ出」に記されている他、名作「津軽」では太宰にとって若き日の忘れられない思い出の地として、どこかすれているような印象のある温泉地であると記しています。
棟方志功も浅虫温泉を愛した一人で、眼病に効用があると聞いた志功は椿館を定宿とし湯治を兼ねて多くの作品を残し、昭和三十八年には観光用ポスターも手掛けています。位置的には県庁所在地である青森市街地から近い事から歓楽街としても発展し「青森の奥座敷」や「東北の熱海」の異名があり浅虫温泉駅裏手の「松の湯」と、道の駅浅虫温泉内の「ゆーさ浅虫(はだか湯)」の共同浴場があります
江戸時代に入ると奥州街道沿い町のとして発展し旅人や商人などで賑ったとされ、弘前藩の藩主津軽家も浅虫温泉に本陣を設け領内巡視では浅虫温泉を利用したそうです。本陣は藩主専用の「御湯殿」が設けられ二代藩主津軽信牧より「柳の湯」の名を賜ったと言われています。天明八年(1788)には江戸時代の紀行家菅江真澄も当地を訪れていて「湯は滝の湯、目の湯、柳の湯、大湯、裸湯などがあり、よく清らかに湧き」と表記し、江戸時代後期に製作された諸国温泉功能鑑(温泉番付)では「津軽浅虫の湯」として西之方前頭に格付けされており当時から広く知られていた湯治場でした。
           https://aotabi.com/asamusiより転載

八食センター 
土産用にせんべい汁用八袋

海鮮ラーメン

以前利用したゆーゆーらんど
新八温泉閉鎖です

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鳴子温泉 早稲田桟敷湯
 narukoonsen Wasedasajikiyu

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いわき湯本温泉 新つた
 iwaki umoto onsen Sintsuta

温泉神社  真言宗智山派勝行院  浄土宗名越派温泉山惣善寺   八坂・三峯神社

岩風呂

外観

玄関

露天風呂

分析書

浅虫温泉広場の足湯

館内ギャラリー

温泉名: 浅虫温泉
源泉名: 浅虫温泉混合源泉配湯
泉質: ナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物泉
    低張性 弱アルカリ性 高温泉 
    pH    陽イオン 312.8㎎/kg  陰イオン 644.3㎎/kg
    成分総計 1027㎎/kg
源泉温度: 59.8℃

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 五十肩 打身 捻挫 疲労回復
    病後回復 冷え性 痔症 慢性消化器病
    慢性皮膚病 慢性婦人病 切り傷 やけど 動脈硬化症 高血圧症 
    末梢循環障害症 糖尿病

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉かけ流し(空浴槽注湯時適温を保つため加水)

浅虫温泉 辰巳館
青森市浅虫字山下281  Tel017-752-2222

外観 落ち着いた色に塗り替え

鳴子温泉駅

分配温水槽

休み処 前回の写真から

温泉成分分析書

浴槽 
三分割浴槽 樋の流量で温度調整

温泉名: 鳴子温泉早稲田桟敷湯
源泉名: 市有下地獄源泉混合泉
泉質: 含硫黄ーナトリウムー硫酸塩・塩化物泉  
    低張性 弱アルカリ性 高温泉 
    pH7.6  陽イオン 329.6㎎/kg  陰イオン 6338.7㎎/kg
    メタケイ酸163.7㎎/kg メタホウ酸37.7㎎/kg
    成分総計 1241.4㎎/kg
源泉温度: 85.6℃

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 五十肩 打身 捻挫 疲労回復
    病後回復 冷え性 痔症 慢性消化器病
    慢性皮膚病 慢性婦人病 切り傷 やけど 動脈硬化症 高血圧症 
    末梢循環障害症 糖尿病


利用料: 大人550円  小人330円
利用時間: 9.00~21.00
休日: 無休

鳴子温泉早稲田桟敷湯
宮城県大崎市鳴子温泉新屋敷124-1   tel0229-83-4751

陸羽東線鳴子駅乗り換えの時間を利用して立ち寄った。三回目になる。
何よりも駅からゆっくり歩いても2~3分、200m足らずです。
1時間ほどの慌ただしい制約の中、正味30分でしたが、結果余裕のある時間割となりました。これに味を占めて計画に織り込みたい。
今回成分書によると温度が低下しているようですが原因は何だったのでしょうかね。

参照: 温泉その6→瀬見温泉 ゆめみの宿観松館    温泉その7→瀬見温泉 喜至楼



瀬見温泉 喜至楼
 semionsen Kishirou

レリーフ 弁慶大岩崩しの図

レリーフ 産湯の図

JR瀬見温泉駅

薬研の湯

湯前神社

公衆浴場せみの湯 一般不可

別館大浴場

大浴場タイル絵

大浴場 女性専用時間あり

あたたまり湯

昭和二十五年分析書

分析書

ふかし湯

いらっしゃいませ

ありがとうございました

喜至楼 飾り窓

松竹飾り格子障子窓

たったの一分遅れ

木製大屋棟瓦

夕食

番傘

石器のコレクション

郷土玩具等々

本館

本館

別館

ゆめみの宿 観松館
館内売店を利用させてもらった

客室の名前 物語にありそうな
須磨 鈴虫 葵 紅梅 胡蝶 初音 乙女 横笛 桐壺 松風・・・・ 

喜至楼本館 日帰り入浴玄関

山の上には白いものが

庭園

朝食

温泉名: 瀬見温泉喜至楼
源泉名: 町営5号源泉
泉質: ナトリウム・カルシウムー塩化物・硫酸塩泉  
    低張性 弱アルカリ性 高温泉
    pH7.6  陽イオン 676.2㎎/kg  陰イオン 1194㎎/kg
    成分総計 1955㎎/kg
源泉温度: 66.1℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉かけ流し 一部加水

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 五十肩 打身 捻挫 疲労回復
    病後回復 冷え性 痔症 慢性消化器病
    慢性皮膚病 慢性婦人病 切り傷 やけど 動脈硬化症 高血圧症 
    末梢循環障害症 糖尿病


因みに昭和二十五年分析書も館内に掲示してある

源泉名: 喜至楼源泉
泉質: 含石膏及び芒硝・弱食塩泉
    低張性 弱アルカリ性 高温泉
    pH7.5  カチオン 694.1㎎/kg  アニオン 1988㎎/kg
源泉温度: 68.1℃

湧出量: 52.5L/min
湧出形態: 自然湧出
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能: 体位向上 健康増進 疲労回復 婦人病 胃腸疾患 便秘症
    筋肉痛 腰痛 関節リュウマチ 痔症 皮膚病
    創傷 火傷
 

傍にある公衆浴場さはこ(三函)の湯

八坂・三峯神社(湯本三鎮守の一社)

高台から湯本駅方面

公園 遊歩道

参道石段 短いが急坂

社殿

社殿扁額

足湯

足湯

笛を吹く人

トランペットを吹く人

サキソフォンを吹く人

フルートを吹く少女

花束を持つ少女

聴き入るねこ

常磐線全線開通したが

廿三夜尊
月(太陰)の満ち欠けを主とし、太陽の運行を合わせ考えて作られた太陰太陽暦(旧暦)の廿三夜の夜、月の出を待って拝めば願いが叶うという信仰があります。廿三日は勢至菩薩の縁日であるため、同菩薩を廿三夜尊としてお祀りし諸願成就をお祈りします。
勢至菩薩は衆生救済の力がとりわけ大きく、知恵の光をもってあまねく一切を照らし、衆生の迷いを解き、無上の力を得させてくださいます。ですから、大勢至菩薩あるいは得大勢菩薩ともいわれます。また、勢至菩薩は仏心
の種子を衆生の心に植付、それが傷つくことなく成長するよう守護してもくださいます。勢至菩薩は、聖観世音菩薩と共に極楽浄土の阿弥陀如来の脇侍であり、阿弥陀三尊として祀られ極楽来迎として信仰を集めています。聖観音菩薩はは衆生を救う慈悲の心を象徴するのに対して 、勢至菩薩は智慧を象徴します。

庫裏

廿三夜尊 勢至観音菩薩

石造りの置物 なんという名でしょうか、袋に鼠が二匹

全戸ソーラー設置 駅前住宅

軽量鉄骨アパート

雑草に囲まれたホテル

土壌除染の袋

旧公団住宅 
UR都市機構宣伝垂れ幕

帰郷困難地

農業困難地

送電の方向が逆になることはない

双葉郡 バリューホテル単身専用

本堂扁額 読み方わからず

本堂

寺号標(下の寺とも呼ばれている)

浄土宗名越派 温泉山惣善寺

地蔵菩薩半跏像

勝行院本坊
真言宗智山派福島第一教区

山門 山号扁額

乾門
戌亥の方角に位置していない 

釈迦堂 
本尊 釈迦如来坐像(県宝) 

本堂 院号扁額

本堂大屋根

勝行院鎮守社 手前から
地主神社・稲荷神社・秋葉神社

三重塔扁額

境内墓地

納骨堂

観世音菩薩

庭園

庭園

弘法大師空海修行像

真言宗智山派大本山成田山別院

鎮魂之碑

信徒会館 客殿

梵鐘

鐘楼

三重塔

寺号標

山門 
入母屋造本瓦葺三間一戸楼門

三門内側 金剛力士阿形像

山門正面 金剛力士阿形像

山門正面 金剛力士吽形像

山門内側『吽形像

手水処

本堂 本尊不動明王
入母屋造桟瓦葺三間向背付

真言宗智山派 三箱山勝行院

吽形狛犬奉納 祝金婚
菅波駒之助キク 井坂千代松ヨネ

阿形狛犬奉納 記念為
黒沢キチ黒沢保 昭和17年5月吉日

食事

本殿
少彦名命 大己貴命 事代主命

延期式内 懸社 温泉神社

百度石 願い詣り

開運湧福
無病息災
六主毘大神
子孫繁栄
願望達成

社務所

さはこのみゆ(佐波古の御湯) よみびとしらず
あかずしてわかるるひとのすむさとはさはこのみゆるやまのあなたか

神明鳥居

草野心平筆歌碑

湯本温泉源泉 貯湯槽

遍路路にて

遠く深山の年ふる松に
 鶴は来て舞ひきて遊ぶ  雨情

湯本温泉の由来にも似ているような

前庭

何列のエスカレーターに見える?
酔うと危険 鏡です

温泉成分分析書


生まれて七日で夭逝した長女を偲んで作詞したとの説がある。その説の根拠が二の歌の歌詞にあるのだろうか

シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
  生まれてすぐに こわれて消えた
風、風 吹くな シャボン玉飛ばそ

童謡 シャボン玉

野口雨情関連の資料室

雨情歌碑  枯れすすき歌詞

おれは河原も枯すヽき
 おなじおまへも枯すヽき  雨情

温泉名: いわき湯本温泉
源泉名: 常磐湯本温泉株 湯本温泉源泉
泉質: 含硫黄ーナトリウムー塩化物・硫酸塩泉  低張性 中性 高温泉
    pH8.0  陽イオン 631.5㎎/kg  陰イオン 1124㎎/kg
    成分総計 1838㎎/kg
源泉温度: 58.3℃

湧出量: 5270L/min 源泉湧出量(分配湯)
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加水 加温 循環ろ過 消毒 (露天風呂: 源泉かけ流し)

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 五十肩 打身 捻挫 疲労回復
    病後回復 冷え性 痔症 慢性消化器病
    慢性皮膚病 慢性婦人病 切り傷 やけど 動脈硬化症 高血圧症 
    末梢循環障害症 糖尿病


日帰り入浴: 当分の間不可? 湯本温泉の多くのところで入浴可能

いわき湯本温泉 雨情ゆかりの宿新つた
福島県いわき市常磐湯本町吹谷58  Tel0246-43-1111


湯本駅から約500mで徒歩で6分程度
早速湯に入りに向かいました。
大浴場はやはり循環ろ過と塩素消毒により追加で適温を保つために加温をしているようです。付属の半露天風呂はその点で源泉かけ流しに近い感じがしました。
館外に設けられている露天風呂・竹林の湯はチェックイン当日の18.00~21.00は女性専用時間でそのほかの時間帯は混浴となっていた。混浴時間帯には女性一人で入浴するのは館外ということもあり勇気のいることでしょうね。
食事場所は食事処となっており、人数に合わせて小部屋を設けているようです。調理場は調理長ほか料理人が少ないのでしょうか、料理出しのタイミングが取れていないような気がしました。客の食事の進み方が見られず長く待たされることもあり、帳場のスタッフはアルバイトではないかと思ってしまいました。アルバイトが悪いわけではなく教育の問題として受け止めました。皇室御用達の宿とも聞いていたのですがね。
湯本温泉は今回で四館目の旅館でした。
館内の散策は楽しかった。

外観

大浴場

大浴場付属半露天風呂

露天風呂 竹林の湯

新庄駅と大蔵村村営バス

新庄駅前~肘折温泉 
片道600円 往復1100円(往路車内販売)
平日7便 土日祝日4便

  肘折温泉・源泉景観之碑文
山形県は日本独特の宗教・修験道の拠点であった。その中心は出羽三山で、原型は葉山・月山・羽黒山であり、その総奥の院が「湯殿」であった。  
肘折温泉の源泉は出羽三山の一山で薬師如来を祠る葉山を源とする稜川鳥川が合流する河畔に湧き出ている。この源泉には、「葉山の薬師如来が賜った神湯で大地の恵みを蔵する地蔵菩薩により地蔵盛山を経て導かれた」 との伝説がある。 
源泉景観の中核は、出羽三山の湯殿の巨岩を原型とし、下部を両手合掌の十本の指で支える形とした。その廻りは、縄文時代の信仰遺跡であった環状 列石を配した。湯殿と環状列石とは密教世界の陰と陽を表現し、豊饒を願うものである。 
更に外周には八本の丸太柱を建て巡らし、空間の広がりと共に、湯殿空間の凝縮を図った。この柱は、日本人が原始より考えていた天上界と地上界を担ぎ結ぶ橋であり、魂の永遠の回櫓を願うものである。 
飲泉所の球体は地球を表し、裂目より温泉が湧出し、背景には宇宙を表現する曲面をもつ石塊を配した。 
源泉景観は、先人が天与の神湯に寄せた篤い信仰心を形にすることを基本 とした。これを鑑賞・礼拝される現世の方々に、温泉が生理的に人間の生命を癒してくれることへの感謝と、失われつつある日本人の豊かな精神世界への誘いを願って創られたものである。
         大蔵村

社号標

鳥居

社殿 冬支度

社殿 固く閉じられていた

地蔵倉まで1100mの標示がある
R458が通っているので今は?

境内から温泉街

秋葉神社

秌葉山石塔

薬師神社社号の傍の石塔群

  肘折温泉のはじまり
肘折温泉は、古文書によると大同二年(807)七月十四日、豊後國(大分県)よりやってきた源翁により発見されたと伝えられています。伝説では、源翁が道に迷っていた時にに洞窟に居たお坊さんと出会い、道案内をされながらこう話されました。
「私は地蔵菩薩である。百年ほど前に洞窟の崖から落ちて肘を折ってしまった。苦しくて痛くてたまらなかったが、岩の間から湧き出る温泉を発見し、その流れる温かなお湯につかったところたちまち痛みがとれて傷も治った。この温泉の効き目は誠に素晴らしい。できることならそなたもここに住んで、この不思議なお湯の事を人々に知らせみんなの病気の苦しみを治してくれないか。」
源翁はお坊さんの頼みどおりこの地に住み続け、その出会った洞窟を「地蔵倉」、温泉を「肘折温泉」と名前を付けて守り続けたと云われています。
肘折温泉が温泉場として発展したのは、明徳元年(1390)に月山登拝道として「肘折口」を開削してからで、宝永六年(1709)には二週間で一万二千百十五人の参詣者が宿泊し、肘折温泉も大盛況だったという記録がのこっている。このころから湯治湯として発展したようである。
毎年七月十四日を開湯の日として湯前神様に感謝し、先人の偉業を讃え、肘折温泉の発展を祈願する「開湯祭」を執り行っています。そして平成十九年(2007)には、開湯千二百年を迎えました。


  秋葉山と南山和尚
肘折の集落は江戸時代の中頃から火事のないことで名高いが、それはこの地に火伏の神様「秋葉山」が祀られているためだと云われている。しかし、かって肘折に付いて「最上年代記」によると、宝永六年(1709)からわずか二十年の間に全村を焼失する大火が三回も続き、村民たちは大変困り果てていた。
そのため村の人たちは相談し、火伏の神様として有名な遠江国(静岡県)秋葉山本宮神社へ村の代表を送り、火伏の祈願をした上で村に防火用のため池を掘ったり、毎日夜回りを行う等をした結果、その後百年ほどは火事がなかったのである。これはひとえに神様のおかげと信じた村人たちはさらなる神様の加護を願って、秋葉山神社を勧請するため石碑を建立することにした。
その石塔の大石は小松渕のところから運ぶことになったが、高さ約十尺、横約四尺五寸もある大石で、当時の事では人の力だけに頼るだけだったので大変な難工事であった。村人だけでは足りずに近郊の人たちの協力を得てようやく石を運ぶことができたと伝えられている。次には石に彫るる碑文を書いてもらう相談をした結果、当時の村名と同じ「南山和尚」にお願いすることとなった。
南山和尚は、当時仙台藩菩提所であった臨済宗瑞鳳寺の住持職で、天下に名の知れた禅師であった。村の代表として書の依頼のため仙台に赴いた高山武右衛門ら村の代表たちは、早速寺に詣で、寺の人に書の依頼にこたことを告げた。しかし肝心の南山和尚に会うことができなかったのである。寺では村の人たちを快く歓待してくれるので、そのうちに書いてくれるだろうと松島見物などをして数日待っていたが、何日過ぎても書いてくれる気配がないのであった。
実はその時和尚はすでに三・七、二十一日間の断食修行中で、人と会うことも話すこともかなわなかったのであった。そのことを知らない村人達は寺の人に二度、三度頼んだが、そのうちにというだけであった。
さすがに村人たちも不安になり、これはもう願いが叶うことができないとあきらめて帰ろうとしたその時、南山和尚が姿を見せてくれたのであった。その時和尚は修行十九日目ではあったが、村の人たちの熱い意志を知り、修行を一時中断し、書きましょうと村人に墨を磨るように一行に命じ、おもむろに筆をとって大判の紙に一気に「秌葉山」と揮毫していただいたのである。
然しその書をよく見ると、秋の字が左右逆に書かれているので、そのわけを恐る恐る和尚に尋ねたところ、和尚曰く「秋は紅葉なり、紅葉は全山紅く、それは大火を連想させるものであるからそれでわざと逆に書いたのである」と申されたのであった。これには村人たちも、さすが天下の「南山和尚」と感心するばかりであった。
この「秌葉山」の碑は、南山和尚の書をそのまま彫ったもので、その書は現在も村井六助宅にて保存されている。
また碑文には他に「文化丁丑春王三月吉日(文化十四丁丑年(1817)春三月吉日) 南山道入記」と刻されている。
           案内説明より

源泉湧出

日本秘湯を守る会 元河原湯

メインストリート

玄関左大浴場 組合2号源泉

上ノ湯

大きな浴槽 洗い場はない

三浦屋旅館

地蔵菩薩鎮座

肘折源泉公園

肘折温泉源泉景観之碑

登録有形文化財登録の碑
平成21年8月7日

肘折砂防堰提 

肘折ダム下流の瀬

左岸淵の堤防補修中

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肘折温泉 上の湯・三浦屋旅館
 hijiorionsen Kaminoyu&Miurayaryokan

温泉名: 肘折温泉三浦屋旅館一般浴槽
源泉名: 肘折温泉2号源泉
泉質: ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉  低張性 中性 高温泉
    pH7.4  陽イオン 1513㎎/kg  陰イオン 2994㎎/kg
    メタケイ酸 196.7㎎/kg  メタホウ酸 47.1㎎/kg
    遊離二酸化炭素 90.5㎎/kg  成分総計 4844㎎/kg

源泉温度: 86.4℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削自噴
注入排出形態: 加水 かけ流し


温泉名: 三浦屋旅館貸し切り浴槽
源泉名: 肘折温泉組合3号源泉及び4号源泉混合泉
泉質: ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉
    pH6.5  陽イオン 1080.3㎎/kg  陰イオン 2121.8㎎/kg
    メタケイ酸 159.1㎎/kg  メタホウ酸 66.7㎎/kg
    遊離二酸化炭素 309.2㎎/kg  成分総計 3738.2㎎/kg

源泉温度: 3号源泉75.6℃ 4号源泉61.1℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削自噴
注入排出形態: 加水 かけ流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 打身 捻挫 慢性消化器病
    冷え性 病後回復 健康増進 関節のこわばり 腰痛
    きりきず やけど 慢性皮膚病 

利用料: 一般浴槽300円  貸し切り浴槽500円(
利用時間: 10.00~17.00
休日: 第二火曜日(問い合わせ)


肘折温泉三浦屋旅館
山形県最上郡大蔵村字南山490  Tel 0233-76-2046

野辺地駅

日本最古の鉄道防雪林

  薬師堂縁起
創建年代は不詳なれど、古記に「馬門温泉薬師堂鰐口」に延徳四年(1492)の建立とされており、約五百年余りを経過している。薬師信仰は神仏混交の色彩が強く、主に修験・山伏が司る。
仏教での「薬師如来」は本地垂迹・神道では少名彦命(医療神・温泉神等々)を主神とし之に大国主命と金山彦命を合祀」する。
近年は馬門温泉遍照寺(上北郡野辺地町大平下)の住職を迎えて、旧暦四月八日(五月五日頃)あるいは丑の日に縁日の行事を行っており、近郊近在からの湯治客や家内安全、商売繁盛・無病息災を祈願する参詣客で賑わいます。
            案内説明より

薬師堂扁額

脇扉の扁額 華頂山主量誉書

三間-四間・入母屋造桟瓦葺平入

ホテル傍の薬師堂

のへじ祇園祭 山車飾り

外観

大浴場

寝湯床

温泉成分分析書

露天風呂

露天風呂 投湯口

神饌の湯碑(神の浴びる湯)

神社筋向い源泉かけ流し
元禄彩雅の宿 古滝屋

境内社 常磐城稲荷神社

奉納石塔

境内社 
福富久社・竃處社・歳徳社

温泉名: まかど温泉
源泉名: 馬門温泉源泉
泉質: カルシウムー硫酸塩泉   低張性ーアルカリ性ー温泉
    pH9.13   陽イオン 472.2㎎/kg  陰イオン 1062㎎/kg
    成分総計 1157㎎/kg
源泉温度: 38.4℃

湧出量: 測定不能(自然湧出)
湧出形態: 自然湧出(地内湧出)
注入排出形態: 加温 加水 循環ろ過

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 打身 捻挫 慢性消化器病
    冷え性 病後回復 健康増進 関節のこわばり 腰痛
    きりきず やけど 慢性皮膚病 動脈硬化症 

利用料: コロナ禍につき日帰り入浴不可(要問い合わせ)
利用時間: 11.00~15.00
休日: 無休


まかど温泉観光ホテル
青森県上北郡野辺地町字湯沢6  Tel 0175-64-3131
    

神楽殿

神楽殿扁額

手水舎

本殿裏の社叢

拝殿

社号標

湯あみの御神石

狛犬



温泉その20




まかど温泉 まかど観光ホテル  



いわき湯本温泉 新つた   温泉神社   真言宗智山派勝行院 
浄土宗名越派惣善寺   八坂・三峯神社



瀬見温泉 喜至楼      鳴子温泉 早稲田桟敷湯    



浅虫温泉 辰巳館      肘折温泉 上の湯・三浦屋旅館 



伊香保温泉 岸権旅館   伊香保神社 榛名神社



赤湯温泉 十文字屋旅館
熊野神社   正徳寺   蓬莱院禅寺   東正寺 
八幡神社   烏帽子山公園

浅虫温泉乗り換えで八戸駅で下車、昼食と買い物をする。八戸三社大祭の置物を展示した八戸駅構内

   八戸三社大祭(ユネスコ無形文化遺産 山・鉾・屋台行事)登録
青森県南地方最大の夏祭り。三百年の歴史と伝統を誇る、豊年祈願の祭礼行事「八戸三社大祭」。
平成二十八年(2016)にユネスコ無形文化遺産に登録された、東北を代表する祭りの一つです。
一番の見どころは、おがみ神社・長者山新羅神社・神明宮の三神社の行列と、二十七台の山車の合同運行。特に、神話や歌舞伎を題材にして制作された、最大で八メートル、高さ十メートルにもなる山車は圧巻で、山車が仕掛けを動かし、変形しながら迫りくるたび、沿道から感嘆の声が上がります。
毎年七月三十一日から八月四日までの期間中、日本一の山車祭りとの呼び声も高い八戸三社大祭を一目見ようと、毎年百万人を超える人々が訪れ、八戸の街が熱気に包まれます。
八戸三社大祭の山車製作者は、いわゆるプロの制作者ではなく、他に本業を持つ人々がほとんどで、祭り直前になると、作業は深夜まで続けられることも多くみられます。そして苦労して作り上げた出しは、祭りが終わると解体され、翌年、また違う題材で作り代えられます。二つと同じもののない二十七台の山車が、八戸三社大祭をより印象深いものにしています。
            案内説明より



浅虫温泉 辰巳館
 asamushionsen tatsumikan

釈迦堂扁額

三重塔

温泉名: 肘折温泉上の湯(大衆浴場)
源泉名: 肘折温泉1号源泉
泉質: ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉  低張性 中性 高温泉
    pH6.4  陽イオン 798.7㎎/kg   陰イオン 1539㎎/kg
    メタケイ酸 160.9㎎/kg  メタホウ酸 24.6㎎/kg 
    遊離二酸化炭素 468.8㎎/kg  成分総計 2993㎎/kg
    
源泉温度: 50℃

湧出量: 50L/min
湧出形態: 自然湧出
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 打身 捻挫 慢性消化器病
    冷え性 病後回復 健康増進 関節のこわばり 腰痛
    きりきず やけど 慢性皮膚病 

利用料: 大人300円  小人150円
利用時間: 8.00~18.00
休日: 不定休


肘折温泉共同浴場 上の湯
山形県最上郡大蔵村字南山  Tel 0233-76-2211(肘折温泉観光案内所)
    

拝殿
入母屋造銅板葺唐向背