神奈川のいろいろ

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横須賀三笠公園 三浦城ケ島



城ケ島

記念戦艦三笠

  三笠公園
三笠公園は昭和三十六年五月二十七日に完成を見たもので、公園の名称はこの公園の一角に保存されてある記念艦「三笠」に由来するものである。戦艦三笠は日本海海戦(明治三十六年五月二十七~二十八日)の際、日本海軍連合艦隊の旗艦として参戦し、時の司令長官・東郷平八郎の大号令「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ 各員一層奮励努力セヨ」世界の海戦史上希に見る一方的な勝利を得、不滅の名声をとどめた。

  行進曲「軍艦
行進曲軍艦は明治三十年海軍軍楽長・瀬戸口藤吉氏によって作曲された日本の勃興期における行進曲として親しまれ、未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである。また、軍艦マーチとも呼ばれ、世界三大行進曲の一つとして、音楽史を彩る稀有の名曲で、作曲されてから一世紀を迎える年にあたり、瀬戸口 軍楽長がこよなく愛し、青春の日々を送り、己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。

  記念戦艦三笠
戦艦三笠は、明治三十七年(1904)に始った日露戦争に於いて、東郷大将が率いる連合艦隊の旗艦として、終始敵の集中砲火の中で奮戦し、同年八月十日の黄海海戦では露国東洋艦隊に大打撃を与え、遂に明治三十八年(1905)五月二十七日の日本海海戦では、遠来のバルチック艦隊を全滅させる偉功をたてた日本海軍の代表的な軍艦であります。
日本海海戦の大勝利は、世界史の流れを大きく変えたと言われますが、この偉業を成し遂げた日本民族の誇りと自信を新たにするとともにその栄光を永く後世に伝えるために、その「シンボル」として三笠は大正十五年(1926)以来収蔵する多数の記念品と共に、ここ白浜海岸に保存され、多くの人々に親しまれてきました。
戦艦三笠の戦闘火力は、排水量15140トン、全長122m、幅23m、軸馬力15000HP、速力18ノット
30㎝砲四門、15㎝砲14門8㎝砲20門、発射管(水中魚雷)45㎝四門

  横須賀市非常用飲料水貯水槽
この蒸気機関車は、いつかは来るであろう大地震、大火事などの災害のために、生活に欠くことのできない「水」を貯えておく為の非常用貯水槽(通称100トンタンク)です。大災害が起こったとき、この三笠公園に避難してくる一万人の人たちに、一人当たり一日3リットルの水を約三日間配ることができるように、100㎥(十万リットル)の水道水が新鮮な状態で循環しています。
本来の蒸気機関車に積み込まれる水に加え、石炭、蒸気室、火炎室、煙室を改造し水を貯めるようにしている。因みに機関車は「D51101」のプレートがある。

  東郷平八郎元帥銅像台座プレート 日本海海戦後言志
火の本乃 海にとどろく かちときは 御稜威かしこむ 聲とこそしれ

                                        案内説明より

横須賀三笠公園 三浦城ケ島・・・海軍カレー   諏訪神社

トンネル抜ければ海が見えるから
  そのままドン突きの三笠公園で
     あの頃みたいにダサいスカジャン着て
       お前待っているから急いで来いよ    タイガー&ドラゴン by クレイジーケンバンド

ホルトノキ

名前はオリーブをさす「ポルトガルの木」の意味で、実がオリーブの実に似ていることによります。
南関東以西に生える木で、関東では珍しく、名前がわからないので「ナンジャモンジャノ木」と呼ばれることもあります。

戦艦三笠

皇国興廃在此一戦の碑
揮毫 元海軍大将・長谷川清

東郷平八郎銅像

記念戦艦三笠艦尾

記念戦艦三笠艦首

横須賀市非常用飲料水貯水槽

諏訪大神社 現代風鳥居

カレーの街横須賀 認定証

カレーショップ

待ち時間一時間で断念

メニュー看板

やむなく海鮮シラス丼定食

諏訪大神社

鳥居と社号標

手水舎

社務所

ソメイヨシノ

拝殿

  諏訪大神社  御祭 建御名方命  事代主命
康歴二年(1380)三月二十三日、室町幕府三代足利義満のころ、横須賀城主・三浦貞宗が横須賀の総鎮守として城の入口であったこの古谷山に信濃国諏訪から上社・下社両諏訪明神を勧請した。その頃は城主と城下の村人によって祀られていたが、三浦氏が滅んだあとは諏訪神社の祭祀権は地頭、郡代を指導者とする村人たちの手に移った。
慶長八年(1603)德川家康が征夷大将軍になり平和な世になったので、早速慶長十一年(1606)二月二十七日、代官の長谷川三郎兵衛の発起で社殿や境内の大改修をし(棟札の記載より)以後永く代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所となり、村人も協力して神社を立派に維持し崇敬を続けた。明治六年十二月村社に列格、明治四十年四月三十日弊帛供進指定社となり,昭和三年五月二十一日郷社に昇格、昭和十七年十月二日神祇院一七神総第二号通牒を以て県社昇格の内許を受け指定工事中終戦を迎えた。
建御名方命は、武勇に優れた神で、東国の守り神と云われています。事代主命は、恵比寿様とも言われ、開運の神として広く信仰されています。
神社前の坂道は、横須賀村と言われたころまで、浦賀道に通じる主要道路でした。八幡山の名で親しまれている裏山は、元は古谷山と呼ばれていました。明治初期、大津にあった佐倉藩の陣屋を解体して横須賀製鉄所(後の海軍工廠)に移した時,陣屋内にあった八幡宮を横須賀製鉄所の鎮守として古谷山に祭ったところから八幡山と呼ばれるようになりました。頂上近くから神社の裏手に接する区域は、諏訪公園として整備されております。
明治三十三年、当時皇太子であった大正天皇の御成婚を祝って公園化事業が進められ、明治四十五年に完成しました。かつては、熊や猿などの大小動物が飼われていたほか、小栗上野介忠順とレオンス・ヴェルニーの胸像や海軍工廠殉職職工の鎮魂塔が建っていました。明治四十年の市制施行直後には、山頂に八幡山小学校が、聖ヨゼフ病院の所に諏訪小学校と市役所があり、まさに文教地区の観がありました。

  御祭神 建御名方命 事代主命 
建御名方命・事代主命は共に出雲国の大国主命の御子で、日本の先住民族蝦夷を征服して出雲という部族連合国家を建設し、
日本古代国家の基礎をつくった。
建御名方命は山の神で狩猟と採取経済とによって山を生活の場とした部族の祖神であったが、後にこの部族の経済の発展にともなって農耕の神ともされた。元来、山での狩猟に射撃の上手な部族の神だったので、後に武士からも崇敬された。もとの出雲国から周防に行き、後に伊勢から美濃を経て信濃国に入り蝦夷を征服して諏訪の神となった。御神体、「矢」に神霊を祭ってある。
事代主命はもと北九州から丹波・丹後地方を勢力範囲とした漁猟部族蜑族(たんぞく)の祖神である。航海漁猟を得意とした部族なので自然と貿易によって富強となった。その祖神事代主命は一般には恵比寿様と呼んで漁業商業の守護神として祀られるのはそのためである。
蜑族は富山湾から姫川を遡って上高地下流の安曇の旧湖水で生活していたが、安曇旧湖水を干拓して農地とした。その後山を越え諏訪の地に移り水上生活をした。当社祭神・事代主命は下諏訪の下社から勧請し、御神体「玉」に霊神を祭ってある。
一説には蜑族は中国より渡来した民族で、北九州・山陰地方に住みつき、神話の世界をへて日本海を海伝いに北上し、日本海に注ぐ川を見つけては遡り、大山塊を越えた姫川を遡った部族の一部がその先に大きな湖を発見し、海洋民族として暮らし始めてた。さらにその一部の人たちが山を越えて諏訪の地に生活の拠点を設けた。その地に祭られた神が今の諏訪の大神であるという。
現在の地形から見ると安曇野の雨水は犀川となって筑摩山地を峡谷となった流れているのですが、筑摩山地の入口側に今でいうダム(高さ200m位)を築くと南北100㎞にもなろうかという、日本でも有数の湖が出来うる地形を見て取れる。干拓したと云われているのは、その堰が崩れ落ちたか、浸食された結果ともうけとれる。実際に干拓などは出来なく、出来るとすれば諏訪湖の方が数千倍容易い。安曇地方(穂高神社)にはお船祭りと称する祭事が残っているのは、海洋民族の名残でしょうか。

  相殿
御祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 稲荷神社の主神
      誉田別命(ほんだわけのみこと) 八幡神社の主神
      白日別命(ひらしわけのみこと) 九州筑紫(北九州)守護神
      大己貴命(おおなむちみこと) 出雲大社主神
      賀夜奈留美命(かやのなるみのみこと) 出雲大社守護神

                                        案内説明より

本殿

相殿 狐の狛犬 稲荷神社

社殿裏の社叢

ホルトノキ

東郷平八郎銅像

天ぷらうどんです

三笠公園傍のカレーショップ

メニューです

海軍カレーセット

海軍カレーレ・トルト販売店?

  海への祈り像
海は無限の可能性とロマンを人類最後のフロンティアである。古くから日本はタンパク質の資源を海に大きく依存し、今も海との共存を大切の守っている。そして、果てしなく広がる大海原には、海に殉じた多くの男たちの物語がある。母なる海は、時には怒りの海ともなり、怒涛渦巻く海の彼方で妻子を忍びつつ奮闘したあなた達がいたからこそ、今の水産国日本がある。
この海への祈り像は、海に係わる有志がつどい、はるかなる海へ、航海の安全と豊漁、家族の幸せを祈って、この岬の丘に建立したものである。あなた達の勇姿を永遠に顕彰するものである。

  城ケ島灯台
城ケ島灯台の歴史は古く、慶安元年(1648)、当時の三崎奉行であった安部次郎兵衛が江戸幕府の命によって航行する船の為島の東端の安房崎に烽火台を設けたのが始まりで、延宝六年(1678)にこれを廃して島の西端に灯明台を設けました。その後、享保六年(1721)代官河原清兵衛が再度かがり火に替えましたが、この火光については晴夜光達距離約三十キロメートルと伝えられ、燃料費は浦賀入港の船舶から徴収したと云われます。此のかがり火による灯台は明治三年八月十二日夜まで続きましたが、以降フランス人技師の設計造築による新灯台に代わりました。この新灯台は、わが国五番目の洋式灯台で、関東大震災(1923)で損壊しましたが、大正十五年に改築しました。現在の灯台は「灯質 閃白光十五秒に一閃光、光度三十一万カンデラ、光到達距離約二十九キロメート、灯高基礎上九・一メートル 海面上三十・一メートルで、今日まで城ケ島沖を航行する船人の心の灯となっています。

  角川源義句碑
「火の島へ 一帆目指すよ 芋の露」 源義
この俳句は、角川源義(かどかわげんよし)、昭和三十九年の作で、城ケ島より望む伊豆大島への願望である。帆をいっぱいに追風をはらんだ帆掛舟が大島に向かって走っている情景や、秋の季語・芋の露とは成長した里芋の葉に夜露や雨が溜ってきらきらと輝いている様子を海面に表したものです。
角川源義(俳号・源義 げんぎ)は大正六年十月九日富山県中新川郡東水橋町(富山市水橋)で生まれた。折口信夫、武田祐吉を慕い国学院大学に学んだ。文学博士、国学院大学講師、慶應義塾大学大学院講師。昭和二十年角川書店を創立し、二十七年総合雑誌「俳句」、翌年には「短歌」を創刊し、三十三年俳句の叙情性を目指し、俳句誌「河」を創刊して俳句の指導にあたった。
源義は殊に三浦半島の風光をこよなく愛し、しばしばこの地を訪れている。
昭和五十年十月二十七日死去。 享年六十
十月二十七日を「秋燕忌」と名付け、翌昭和五十一年句碑を建立した。

                                          案内説明より

三崎から相模湾と富士山

城ケ島土産屋さん

展望台

海への祈り像

城ケ島灯台

灯台創設八十年記念碑

灯台より海岸岩場

灯台より富士山

灯台より伊豆大島

相模湾 富士山 伊豆半島 伊豆大島

角川源義句碑

仕事に向かう?

朝食セット