倉賀野宿近隣郷総鎮守

第十代崇神天皇四十八年、あるいは大同二年(807)創建と伝えられる。倉賀野宿と近隣七か郷の総鎮守。旧社名を飯玉宮といい、大国玉神社と呼ばれる時代も経て、明治四十三年(1910)の神社合併で現社名となる。
敷地の東側の鳥居をくぐると正面に見えるのが拝殿で、その向拝に見上げる彫刻は「飯玉縁起」の伝説を物語る。本殿は元治二年(1865)上棟(市指定重要文化財)。境内には、国魂池、北向道祖神、冠稲荷社、甲子大黒天、天神社、神楽殿、御輿庫、山車倉が配置されている。本社前の常夜灯は文久三年(1863)「三国屋つね」が寄進したもので、玉垣にも「金沢屋内りつ、ひろ、ぎん」「升屋内はま、やす、ふじ」「新屋奈美」など数多く刻まれている。また、元紺屋町の「糀屋藤治郎」、田町の「桐屋三右衛門」ほか高崎宿の名のある商家、職人も見える。倉賀野河岸ととともに宿場の繁栄を支えてきた旅籠屋、飯盛り女たちの深い信仰とやるせない哀歓を物語る貴重な石像文化である。
   飯玉縁起 飯玉神社(現倉賀野神社)
光仁天皇の御代、群馬郡の地頭群馬太夫満行には八人の子がいた。末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれ帝から目代の職をたまわるようになった。ところが兄たちは八郎を夜討ちにして、鳥啄池の岩屋に押し込めた。三年後、八郎は龍王の知徳を受けて大蛇となり、兄たちとその妻子眷属まで食い殺した。その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂い、年に一度の生贄を許した。やがて、小幡権守宗岡が贄番に当る年、十六歳の娘「海津姫」との別れを共々に嘆き悲しんだ。都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入った。頭を振り尾を叩く大蛇にむかい、一心に観世音菩薩を称名、琴を弾いた。これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、明神となって衆生を利益せんと空に飛んだ。鳥川の辺りに移り、「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。これが「飯玉縁起」のあらすじである。

中略

そして、今でも拝殿正面の光背に、宗光が琴を奏でる彫刻が見られるのは興味深い。社殿の彫刻が、祀る神の伝承縁起を物語っているということ自体が、まったく珍しいからである。
                        案内説明より



倉賀野~高崎

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新町諏訪神社

諏訪神社は、江戸時代の高崎について記した地志『高崎志』によれば、慶長四年(1599)、箕輪城下の下ノ社を勧請したことに始まるという。
本殿は土蔵のような外観を持つ珍しい総漆喰の塗籠造で、しばしば大火に見舞われた高崎の町にあって、大切な社を火災から守るための工夫だったとも考えられる。平入り・入母屋造りの建物は一見すると二層のように見えるが、実は裳腰つけた平屋建てで、外壁の下半は海鼠壁となっている。本屋根と裳腰の間には手の込んだ七賢人の漆喰彫刻が施されているほか、波しぶき、飛龍、四隅の牡丹、正面の鳥居につけられた躍動感あふれる昇り龍・下り龍など、随所に見事な漆喰彫刻を見ることが出来る。この神社は享保十四年(1729)、文化四年(1807)の二度に渡って火災に遭っており、近年の修復工事の際にも屋根材や彫刻の骨木の一部にその痕跡が確認されている。礎石背面には文化十一年(1814)の刻銘があり、建築的な特徴などを考え合わせ、この建物が元の社殿の部材を利用して再建が行われたことが推測される。高崎城下の名所の一つでもあったらしく、太田蜀山人の『壬戌紀行』の中でも紹介されるなど、当時から町の人々、往還を行く旅人たちの目を和ませていたことがわかる。
信州諏訪にゆかりのある御宝石は、重さ約八キロの鶏卵型の石で、宝篋印塔の屋蓋を裏返しにしたものを使った台座に安置されている。
                   案内説明より

頼政神社

元禄八年(1695)松平右京太夫輝貞公(大河内氏)が高崎城主に封ぜられるや、同十一年(1698)その祖先源三位頼政公(摂津源氏 従三位 源頼政)を祀って城東石上寺境内に頼政神社を建立した。宝永七年(1710)輝貞公、越後国村上藩に転封せらるるや、社も亦その地に移され、後、数年にして享保二年(1717)高崎に再転封されるや社はまた現在地に移されたのである。頼政公は、平安末期に、源家の正統に生まれた武将にして歌人である。白河法皇に」擢んでられて兵庫頭となり保元、平治の乱に功を立てた。後に剃髪して世に源三位入道と称す。後年以仁王を奉じて平氏の追討を図り事破れて治承四年(1180)宇治平等院で自刃した。家集『源三位頼政卿集』がある。当社の祭礼は、例年頼政公自刃の日、五月二十六日に行われ旧藩時代は上野国隋一の祭りであったといわれる。

飯塚久利著 橘物語より 書き始め文
いまはむかしゑちごの国に 良寛といふ禅師ありけり
  梅さかりなる頃人のもとへ こゝろあらバたづねてきませ うぐひすの
こづたひちらす うめの花見に 天保十とせまりよとせといふとし

   漂泊の文人 飯塚久敏
久敏は文化七年(1810)倉賀野宿の代々弥兵衛を名乗る飯塚家(仲町八幡大門)に生まれた。

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曹洞宗 陽雲寺

陽雲寺は曹洞宗の寺で、鎌倉時代初期の元久二年[1205)の創建と伝えられ、初め唄樹山満願寺と称したという。元弘三年[1333)新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したことが寺伝に見られ、以来、“新田勝軍不動堂”等と称され、室町時代には金窪城主斎藤氏の帰依が厚かった。天文九年[1540)斎藤定盛が諸堂を修復し、寺名を崇栄寺と改めたが、天正十年[1582)の神流川合戦の兵火で焼失した。
天正十九年、川窪の領主となった川窪(武田)信俊は養母である武田信玄夫人(三条夫人)を伴って入封し、信玄夫人は当寺境内に居住したが、元和四年[1618)に没した。信俊は、夫人の菩提を弔うため、その法号である陽雲院をとって寺号を崇栄山陽雲寺と改称した。元和五年には徳川幕府から御朱印五石が寄せられている。なお、境内には県指定文化財となっている元禄銘のある同鐘や、県指定旧跡となっている新田義貞の家臣であった畑時能の供養塔などがある。
武田信玄夫人は元亀元年に逝去(50歳)されていて、寺に伝わる「信玄夫人」とは他の人ではないかと思うが、もし縁者であるとすると父である武田信実か信玄の姉の南松院(穴山氏)の関係筋の人ではないだろうか。

金讃神社

小判供養塔 側面に金壹百円とある

  神流川合戦
天正十年[1582)関東管領として北関東を制圧していた滝川一益が本能寺の変の報に接し畿内へ引き上げようとしている中、この辺りで追撃する後北条氏の軍との間で激戦となった。この戦いの壮絶さは、命からがらたどり着いた滝川一益をみて、織田の諸将はその姿に驚いたといわれている。織田方総崩れの形態になったのは、寝返りの城主や、退却路が旧武田領の信濃を通るなど地の利が悪かったことがあると思われる。織田方は半数の負傷者と四千名近くの死者を出したという。

東門

高崎城十六の城門中、本丸門、刎橋門、東門は平屋門であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。この門は寛政十年正月(1798)と天保十四年十二月(1843)の二度、火災により焼失し、現在のように立て直されたものと考えられる。くくり戸は乗篭が通れるようになっている。門は築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。高崎和田ライオンズクラブは、創立十周年記念事業として、これを梅山氏よりゆずりうけ復元移築し、昭和五十五年二月、市に寄贈したものである。
                      案内説明より

高崎城址 高崎市指定史跡

天正十八年(1590)、北条氏の滅亡によって傘下にあった和田城も落城して、和田氏は滅びたが、その後、和田の地は箕輪の地として支配された。箕輪城に封ぜられた井伊直政が家康の命で、慶長三年(1598)中山道と三国街道の分岐点にあたる高崎に城を構えたのが高崎藩の起こりです。直政は箕輪から町屋や寺院を移転させて城下町の基礎を築きました。今は三の丸を囲む土塁と堀が残るのみですが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭式に構え、二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷をおきました。また、遠構えと呼ぶ城下町を囲む堀と土塁も築かれていました。
明治四年(1871)の廃藩までの二百七十三年間の高崎の近世の歴史は、高崎藩政を中心に展開されたと言っても過言ではないでしょう。都市化が進み、昔日のおもかげを残す箇所は少なくなってしまいましたが、「乾魯」や「東門」は復元整備されており、また明治初年の三層櫓の写真や「高崎城大意」などの資料が残されているため、当時の姿を知ることが出来ます。

愛宕神社本殿と左手水舎

当社は、江戸時代和田城(後の高崎城)の鎮護神として和田六郎兵衛義信氏が京都市嵯峨の北、愛宕山に鎮座する愛宕神社の御分霊を祭祀創建されたという。後に、元和三年(1617)に高崎城主松平安房守信吉氏が再建されたという。 
                     案内説明より

皇女和宮様御降嫁 
文久元年(1861)飯玉大明神三日間普請中止(音立て禁止) 行列のための役割方、随行人などの名簿

北向道祖神

男神・女神の双体道祖神である。もとは倉賀野古城跡の辺りに祀られていたが、昭和十二年にこの地に遷された。安政三年(1858)の倉賀野宿の大火の時には、延焼を食い止めた「火伏の神」としても語り継がれている。

   彫工北村家の系譜
三代 喜代松 越後市振村宮大工建部から入婿。信州鬼無里村を中心に宮彫りの巨匠として新潟、富山、長野にわたって活躍、善光寺仁王門復旧工事から元治元年倉賀野にやってきた。喜代松の作品は「鬼無里山国文化伝承館」に展示されている。群馬では当神社のみに残されており、拝殿光背の「飯玉彫刻」は特に素晴らしいものである。なお、喜代松たち彫師、大工、木挽たちの仕事ぶりについては、当神社伝来の造営資料に詳しく書き留めてある。
   四代長男北村四海
年少より父につき木彫を学びパリ遊学後は大理石彫刻の第一人者として数々の名作を残し、帝展審査員となる。
   五代孫北村正信
東京に在住し九十歳を超えるまで創作に励み、近代彫刻に貢献した。

早くから国学者 橘守部に学び、才知抜群、歌人として名声を博す。かねて越後の歌人良寛の非凡さに着目し、解良栄重、僧遍澄、桂譽正たちの縁をたより、彼の地を探訪「藤波日記」を記し、没後十二年、初の良寛伝記「橘物語」を著わす。時に天保十四年(1843)久敏三十四歳であった。享年五十六 法名「学譽秀邦歌道居士」九品寺に葬る。
久敏は久利、松垣内とも号した。晩年妻子を相次いで失う悲運に多くの著書が散逸したのは誠に残念であるり、幕末上州の偉大な文人であった。
                          案内説明より

橘物語 石碑文

琴を弾く宮内判官宗光 (飯玉縁起)
彫人 三代北村喜代松

冠稲荷に奉納された玉垣 「金沢屋内 りつ、ひろ、ぎん」の文字
現倉賀野神社の玉垣

   倉賀野宿
江戸時代に入り中山道が整備されると倉賀野宿には本陣、脇本陣が置かれ、日光例幣使街道への分岐点も設けられた。また、倉賀野は中山道の宿場であったばかりではなく、鳥川、利根川を使った江戸通い物資運搬船の遡航終点河岸でもあったため、大いににぎわった。利根川最上流の河岸であったことから、西上州をはじめ中山道・三国街道を通じて信越方面へ送る物資輸送の水陸運輸の結節点として、近くは安中藩や高崎藩の外港として、また遠くは松本藩、飯山藩など信州の大名や旗本など四十二家の回米河岸として十軒の米宿を数えた。
その扱い数量は享保九年(1724)当時、松本藩の一万石を筆頭に、合計五万八千俵に及んだ。このように倉賀野は回米河岸としての性格の強い宿場であったが、同時に広大な後背陸地を抱えていたため、そこからの特産物の集荷地としてもにぎわった。享和三年(1803)の記録によると、本陣一軒、脇本陣二軒、家数四百五十三軒、旅籠六十四軒、人口二千百五十六人にもおよび、当時の繁栄ぶりが偲ばれる          
                     案内説明より

浄土宗 一行山光明院九品寺

延徳三年[1491)玄譽上人の開山。倉賀野五郎行信の開基 
山門をくぐると右手に鐘楼があり」、除夜の鐘の音がよみがえる。本堂には、善光寺三尊像、大黒天、書院には松久朋林・宋琳親子作の観音像がある。倉賀野宿の時代を感じさせる飯盛り女の墓石もある。また、飛び地境内に阿弥陀堂(通称 閻魔堂)がある。   阿弥陀堂(閻魔堂):倉賀野追分例幣使道道しるべにある
   善光寺三尊像   市指定重要文化財
鎌倉時代以降、長野善光寺の信仰が高まるにつれて、関東・東北地方を中心に広く各地で造立された。一光三尊(一つの光背の前に三尊を並べて配置)の善光寺式三尊仏。像は、南北朝時代後期に作られたと推定される。十二年に一度(巳年)四月八日に御開帳が行われる。          倉賀野マップ説明より

  倉賀野城跡
治承年間武州児玉党の余流秩父三郎高俊この地に来り居館を構え以来倉賀野を氏となす応永年間に至り室町幕府漸し衰え戦雲諸国を掩ふ
為に倉賀野三郎光行防禦急なるに迫られこれを改修し要害となす斯くして高祖三郎高俊より四百年倉賀野氏の旗風兵どもの雄叫び関八州に轟く
然るに時移って戦国動乱の世を迎ふるや時の城主金井淡路守景秀よく攻守の軍略怠りなしといえども噫々武運は空し

天正十八年相州小田原討死城も亦ともに興亡の歴史を閉づ今先人の足跡まさに消えなんとするに当り懐旧の情禁ぞ得ぬ人々心寄せ合ひ是の碑を建つ天日よここを照らせ大地よここを抱け                     
昭和四十五庚戌年四月  前沢辰雄撰文
                                       

  倉賀野河岸 鳥川
文献によると倉賀野河岸は永禄四年[1561)に倉賀野宿の住人十名が船により運搬営業を始め、舟問屋を開設したとある。事実上、問屋がかまえられて運営を始めたのは慶安年間(1648~1652)であったというから江戸期に入ってからで、この頃になって船利用の運搬が盛んになり、全盛期には七十六の業者があった。米麦・たばこ・織物・木材などの産物を目的地に運び、

著作には、大正四年雑誌「ホトトギス」に発表した「杉風論」、大正六年に刊行した「鬼城句集」などがあるが、月例句会を開いたり、新聞雑誌の選者をつとめるなど後進の指導にもあたっている。昭和十三年九月十七日七十四歳で死去、若松町竜広寺墓地に葬られた。代表作には次のような句がある。
榛名山 大霞して 真書かな    冬蜂の 死にどころなく 歩きけり

  養報寺の石仏  (高崎市指定重要文化財)   案内説明より
この五体の石仏は、諏訪神社西側にあった養報寺の末寺である長賀寺内に安置されていたと言われ、明治年間にここに移された。右から順に 地蔵菩薩坐像、聖観音菩薩坐像、胎蔵界大日如来坐像、不明(釈迦如来らしい)、阿弥陀如来坐像石仏は、五体とも凝灰質の砂岩で造られていてかなり風化している。

  例幣使街道の常夜灯及び道しるべ (高崎市指定史跡)   案内説明より
江戸時代、日光東照宮には毎年四月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使という。例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国楡木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例幣使街道は、一般的に倉賀野から楡木までとされる。この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。
常夜灯の基台には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人三百十二名の寄進者の名前が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五右衛門など三十八名も含まれている。勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五料(玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人たちから寄進を仰いで建立したとある。
   常夜灯
正面「日光道」  右側面「中山道」  左側面「常夜灯」
裏面「文化十一年申戌(1814)正月十四日高橋佳年女書」
総高 373㎝  台石高 67㎝  灯篭高 305㎝  灯篭屋根幅 105㎝
   道しるべ
正面「従是  右 江戸道  左 日光道
裏面「南無阿弥陀仏 亀湧水書」
総高 172.8㎝  台石高 8.8㎝  石柱幅 一辺33.7㎝

  閻魔堂
正式には阿弥陀堂(江戸時代)で、倉賀野宿の東側、中山道と例幣使道の追分にある。御堂の真ん中に閻魔大王が鎮座。
閻魔大王は地蔵菩薩の化身と言われ、信仰すれば地獄に落ちず救われると言われている。八月十六日には例大祭がおこなわれ、夜には数珠をみんなでまわし、鉦を叩きながら念仏を唱える百万遍がおこなわれる。

閻魔大王

上下線が離れている為単線に見える
高崎線  八高線との共有区間

  真言宗 福聚山観音寺    案内説明より
境内には初代岩鼻代官吉川栄左衛門の墓や岩鼻刑場にあった刑場供養塔がある。
  岩鼻代官吉川栄左衛貞寛の墓
吉川栄左衛門貞寛は、江戸の人で出身地は相州中原村(神奈川県)であり、祖先は代々御殿番を勤めた家柄である。寛政三年[1791)幕命により近藤和四郎とともに上野国八群の幕府領(天領)の代官となり、岩鼻陣屋初代代官となる。
寛政五年[1793)岩鼻陣屋落成、その後親しく岩鼻に住居し、文化七年[1810)十一月十三日、六十九歳で病死するまで十九年間、代官の職にあり善政を行った。
骸はこの墓に埋葬され、菩提寺である江戸の今戸村慶養寺に遺物を葬ったと「追悼碑」にある。岩鼻代官については、初代吉川栄左衛門貞寛を始め良史が多く、伝えられている国定忠治の代官所への切り込みの話は全くの作り話である。

岩鼻代官所(陣屋)及び岩鼻県庁舎跡

寛政五年(1793)徳川幕府によりこの地に岩鼻代官所が設置され、初代の代官に吉川栄左衛門と近藤和四郎が任命された。慶応元年[1865)には木村甲斐守が関東郡代として着任し、上野の幕府直轄地、旗本領、寺社領、大名の預かり所と、武蔵国六群を支配し、世直し一揆の鎮圧に江戸の北辺の守りの中心となる。
慶応四年[1868)岩鼻陣屋崩壊するや新政府は六月岩鼻県を設置し、大音龍太郎を軍監兼当分知事に任じ、旧代官所跡が岩鼻県庁となり、旧代官所時代とほぼ一致する地域を支配した。また明治二年[1869)には吉井藩を併合した。
明治四年[1871)十月二十八日岩鼻県は廃止され第一次群馬県が成立し、県庁は高崎城内に移された。

  柳瀬の渡し場跡
この渡しは定まった渡し船はなく両岸の中島村と岩鼻村の船の所有者が相談の上船賃を決めていた。その後、宝暦九年[1750)に新町宿の問屋二名と、倉賀野宿の三者で馬船五艘、平田船二艘を準備し、一人十文、荷駄は一駄につき十四文と定めた。

弁財天


温井川の中ノ島に祭られた弁財天は治水の都合で昭和四十八年に現状となったが、七福神中の女神であり音楽、弁舌、福徳、財宝をつかさどる神として信仰を集めている。社は天明三年五月に建立された。
石の祠で本年は祭祀二百年にあたるので、参道改修大鳥居を地区有志により奉納した。例祭は毎年春巳の日に行う。
境内には芭蕉の句碑があり、この島には清冽な清水が湧き出ていて、旅人の喉を潤したとの句である。句碑は安政二年[1855)に建てられた。

  於菊稲荷神社    案内説明より
新町宿は中山道の宿場町として宝暦[1751)から文政[1818)にかけ人馬の交通量もまし、神社は多くの参詣人で賑わい、奉納された鳥居、絵馬、算額など、価値ある文化財が多い。とくに、水屋の彫刻は、精巧を極め水鉢の 冰香 の筆跡は、寛政の四大詩人 大窪 詩仏 によるものである。同時代に生きた蜀山人の狂歌に「詩は詩仏・画は文晁・芸者は小万に狂歌こそ我」と詠まれていることから、詩仏の高名さがわかる。

  明治天皇新町行在所跡
明治天皇は、明治十一年八月から十一月にかけて、北陸・東海地域の御巡幸(視察)を行いました。その途中の九月二日に新町に宿泊された施設がこの行在所です。
当時は木造瓦葺き平屋建ての本屋と付属家の二棟で、旧中山道に面して正面を設け、周囲は高さ九尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてありました。
昭和五十五年一月に新町の史跡文化財としての指定を受けました。

神流川合戦跡石碑には次の説明がある。
天正十年(1582)六月十九日、織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領滝川一益は信長の敵を討たんと京へ志し、これに対し好機至れりと北条氏は五万の大軍を神流川流域に進めた。滝川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍一万六千を率いて、石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、滝川軍は戦死三千七百六十首級の戦史に稀なる大激戦で「神流川合戦」と呼んでいる。後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。

この神流川上流は、日航機が墜落した上野村がある。いま、上野村には大規模な水力発電所が建設中で(一部稼働)完成時には約300万Kwの世界最大揚水発電所となる。揚水上部ダムは長野県の信濃川水系にあるが、その水系の水は水利権の問題で利用できないので?(信濃川水系も現地水量が少ないが標高は高い)、もっぱら神流川の水のみで発電をしている。今神流川橋の上から見た水量はとても発電に供する量はなく自然消失水量を補完するのにいっぱいいっぱいの感じです。発電効率はマイナスでもピーク電力対策には有効な発電方法であるという。

大光寺 本堂

大光寺は、臨済宗円覚寺派の寺で、山号を勅使山という。建保三年[1215)に武蔵七党の一党である丹党の、勅使川原権三郎有直が創建したもので、勧進開山は日本へ初めて禅宗を伝えた栄西禅師である。
その後、応永十八年(1411)に現伊勢崎市の泉龍寺白崖宝生禅師により再興された。しかし、天正十年[1582)の神流川合戦により総門のみ残し焼失した。明治四十二年二月に高崎線の灰煙を被り全焼したため、本堂等を再建し現在に至っている。なお、当寺には栄西禅師直筆に扁額と総門、忠臣直重父子の冥福を祈った不背碑(親子地蔵)、六角のガン部をもった石憧、神流川の渡しの標準と旅の安全を祈った見透かし灯篭などが現存し、貴重な文化財として知られている。毎年四月二十三日に勅使川原氏の慰霊祭でもある蚕影山が行われ、養蚕の道具に加え、最近では植木市などが立ち大変なにぎわいを見せている。                  
                             案内説明より

  鐘楼と銅鐘 (県指定有形文化財)       案内説明より
この銅鐘は、頂部の竜頭が上向きで朝鮮式と呼ばれている鐘である。
高さ190㎝、口径98.3㎝ 縦帯に仏像四体を陽鋳し、下帯に唐草文駒の爪には蓮弁を施し、乳頭は各面に二十五個ずつ百個、縦帯に二個ずつ八個、計百八個を鋳出す。これは百八つの煩悩を表わしたものである。池の間に長文の銘があり、天命鋳物として栄えた下野国佐野(栃木県佐野市)の鋳物師井上元峰によって、元禄八年[1695)に鋳造されたことがわかる。

畑時能供養祠 (県指定旧跡) 左下隅

参道わきにある石の祠は、新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ金窪城に住した畑時能の供養祠と伝えられているものである。時能は秩父郡長瀞町の出身で義貞戦士後も南朝方のために孤軍奮闘したが、暦応二年[1339)越前国で足利方に討たれた。
従臣児玉五郎左衛門光信が時能の首級を携えて敵陣を脱出し、当地に持ち帰り供養したものという。後に光信も時能の墓側に葬られ二石祠が建立されて、両者の姓を取り「畑児塚」と呼ばれている。

金窪神社(八幡神社)

斎藤別当実盛の子孫と言われる金窪城主斎藤盛光が鶴岡八幡宮を勧進したといわれる。その後、斎藤氏の没落により村民の鎮守として受け継がれている。

浅間山古墳

浅間山古墳は、上里町東部から本庄市西部の本庄台地の先端部に広がる旭・小島古墳群を構成する一基です。墳形は、直径38m、高さ6mの円墳と考えられます。主体部は、角閃石安山岩を使用した胴張両袖型横穴式石室です。石室の規模は、全長約9.48m、埋葬部にあたる玄室は長さ6.48m、奥壁幅2.2m、最大幅2.4m、天井部高2.5mです。入口にあたる羨道は長さ約3m、幅1.2m、高さ1.8mです。

金讃神社のクスノキ (県指定天然記念物)

クスノキは、元来暖地方に自生し、わが国では主に九州地方、近畿地方南部および東海道関東地方の太平洋沿岸地方に生育する植物で北関東でこのような巨木になったには珍しい。
目通り五・一メートル、根回り九・八メートル、枝張りは東へ十四・二メートル、西へ十五・六メートル、南へ十五・〇メートル、北へ一三・八メートルと四方へ平均して伸び樹齢およそ三百五十年と推定され、樹勢盛んである。このクスノキは寛永十六年(1639)金讃神社社殿改修のおり小笠原忠貴が献木したものと伝えられ、金讃神社の御神木として今日に到る。

金讃(かなさな)神社     案内説明より

金讃神社の祭神は天照皇大神、素戔嗚尊、日本武尊の三神である。社伝によると、創立は欽明天皇の二年[541)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が厚かった。境内は、ケヤキやイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、御輿殿などが立っている。本殿は享保九年[1724)、拝殿は安永七年[1778)、幣殿は嘉永三年[1850)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。

普寛上人の墓 (市指定史跡)

御岳講の祖とあがめられている上人は、本名浅見好八といい、享保十六年(1731)秩父大滝村に生まれた。のち剣道を以って、江戸で酒井公に仕えたが、明和元年[1764)武士をやめて天台の修験となり、名も本明院普寛と改めて修行生活に入った。上人は広く各地を巡って山を開いたが、その中で木曾の御嶽山、沼田の武尊山、越後の八海山は名高い。御岳を開いたのは寛政四年[1792)六十二歳の時であった。また木の実その他を常食したと伝えられ木喰普寛上人とも言われている。享和元年[1801)特に縁を求め本庄宿にとどまり同年九月十日、泉町米屋弥兵衛宅で亡くなられ安養院に葬られたが、大正十一年[1922)道路改修により霊堂と墓は現在地に移された。
                         案内説明より

安養院山門

安養院は曹洞宗の寺で、山号を若泉山、寺号を無量寺という。本尊は無量寿如来で、ほかに脇立ちとして観音菩薩と勢至菩薩がある。寺伝によると、創立は文明七年[1475)という。
武蔵七党の一党である児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎雪茂が仏門に帰依して、当時の富田村に安入庵を営んだが、水不足に悩まされたため、土地を探したところ、現在の地を発見し、安養院を開基したと伝えられる。以後、付近は水不足に悩まされることもなく、周辺の人々から“若泉の荘”と呼ばれるようになったという。なお、慶安二年[1649)には江戸幕府三代将軍徳川家光より二十五石の御朱印を拝領されている。安養院の山門、総門、本堂、三棟の木造建築は本庄市指定文化財で、本堂は本庄最大の木造建造物としてそびえている。
                        案内説明より

近代化遺産復元計画

ここに仮設復元を行っている煉瓦構造物は、旧富士瓦斯紡績本庄工場ののこぎり屋根工場建造物の側面の一部にあたります。-中略-様々な経歴を見て、富士機工㈱本庄工場として平成20年まで活用されてきました。養蚕市場で栄えた本庄の近代化を物語る数少ない近代化遺産ですが、老朽化が著しく、現状保存できない状態でした。今回、町づくりを研究実践している市民団体「本庄まちNET」の皆様方の提案により、測量調査などによる記録保存や、壁面の一部を敷き詰め近代化遺産のモニュメント化として活用する試みがなされました。-以下省略-

田村本陣門 (本庄市指定文化財)

この門は本庄宿の北本陣と言われた田村本陣の正門です。本陣とは宿場を往来する大名や幕府役人などの公用旅館のことです。田村本陣があったのは現在の中央一丁目六の区域で、寛永十九年[1642)から宿泊記録が残されています。

  小笠原掃部太夫信嶺公夫妻の墓 (本庄市指定史跡)
公は徳川氏の家臣で、もと信州松尾城主、天正十八年[1590)豊臣氏の関東攻めにより、本庄氏滅亡のあと当城を賜り、同年九月入城し本庄領一万石を領した。慶長三年[1598)二月十九日、五十二歳にして逝去した。法名開善寺殿徹抄道也大居士、夫人は久旺院殿月清永秋大姉、元和九年六月二十四日逝去。なお公の墓石宝篋印塔は古墳上に築かれている。

開善寺 山門

開善寺は、山号を畳秀山と称し、天正十九年[1591)本庄城主小笠原信嶺が開基し、球山宗温和尚の開山で、本尊は聖観世音菩薩である。
和尚は、城主信嶺の夫人久旺院尼の兄にあたる人で、武田信玄の弟武田逍遥軒の子で、仏門に入り甲斐国永岳寺にあったが、信嶺に招かれ当寺を開山した。その後、三世桃嶽祖源の代慶安二年[1649)徳川家光より朱印地十五石が下されている。
当寺に伝わる開善寺境内地図は、その当時の境内古地図である。西は旧伊勢崎通りから、東南は愛宕神社まで含まれており、その面積は、現在の五倍ほどであった。なお、当寺には、本庄市指定の文化財である小笠原信嶺夫妻の墓、朱印状を収めた御朱印箱、開善寺境内地図、武田信玄公画像などがある。

愛宕神社 社殿

愛宕神社は、旧開善寺境内の南東にある古墳上に祀られている。天正十九年[1591)本庄城主小笠原信嶺が勧進したといわれている。祭神は火之迦具土命で、天手長男命、若宇迦能売命が合祀されている。
神殿に至る石段の左手にあるケヤキは神木とされており、根元から南北二樹に分かれている。南樹は目通り周囲3.7メートル、枝張り東西約十六メートル、北樹は目通り周囲4メートル、枝張り東西二十メートル、一本で社叢を形成している。
このケヤキは、昭和四十三年本庄市指定の文化財となっている。

本庄城跡  城山稲荷神社

本庄城は、弘治二年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたという。本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄十年(1567)に後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服したが、実忠の子隼人正の代に至って天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにより落城した。
德川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が一万石を賜って新城主となったが、慶長十七年(1612)その嗣子信之の代に古河城に移封され、本庄城は廃された。元禄十三年(1700)の城跡検地帳には三町四反五畝二十九歩(約3.4ha)と記されている。その区域は、北側は元小山川が流れ、南東は久城堀で切断された自然の要害であった。なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は昭和三十三年本庄市指定の文化財となっている。

  城山稲荷神社
城山稲荷神社の祭神は、宇加之御魂神である。当社は、弘治二年(1556)本庄宮内少輔実忠が、本庄城の守護神とするため、西本庄の地より椿稲荷明神を城内に奉斎したといわれている。天正十八年(1590)小笠原氏が社殿を再興し、慶長三年(1598)九月上州赤城山麓より松樹百本を取り寄せて社内に植え、深く尊崇したといわれる。現在の社殿は天保十五年(1844)六月に再建したものである。社殿近くにあるケヤキは、本庄城築城の折献木されたと伝えられる。現在、目通り周囲6.3メートル、高さ30メートルで県指定の天然記念物となっている。また境内に祀られている八幡神社は、応永年間(1394~1428)村民が勧請したのを、慶長十年[1610)小笠原家の家老脇屋金左衛門が信仰して社殿を再興したものであるといわれており、その後、明治四十一年この地に移転された。
                     案内説明より



本庄~新町

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泪橋の由来 石碑

鐘楼

  安楽寺 本尊
七仏薬師如来  行基作(聖武天皇の天平九年)脇立 右:大日如来 左:不動明王
本堂裏にある古墳石室内の三方の壁面に彫られた七体の石仏で、「巳年」に一度御開帳を催し一般公開をしています。

  安楽寺古墳
昭和五十六年五月群馬県指定史跡に認定される

曹洞宗 大用山永泉寺

天正元年(1573)、倉賀野城主、金井淡路守の開基で、境内の「幽霊石」にまつわる伝説が残されている。

井戸八幡宮 倉賀野城跡内

正保三年(1646)倉賀野城、三の曲輪跡の古井戸から一夜にして水が湧き出て、八幡大神が現れたのが起源と伝えられる。町の人たちには井戸八幡と呼ばれ親しまれている。井戸は今も残りその上に御輿が保管されている。八月二十二日には八幡社宵祭りがおこなわれ、翌二十三日に山車が曳かれていた。
井戸は十年に一度開帳される。
                         倉賀野マップより

拝殿

本殿

  大杉神社跡
当初は雷電神社として元和元年[1615)に創建と伝えられ、文化四年(1807)の倉賀野河岸問屋衆の寄進により、茨城県阿波の大杉神社から大杉大明神(水運の神様)を勧進。
弘化三年(1846)に再建と伝えられる。明治四十二年(1909)八幡神社に合祀された。
六月二十七日には大杉神社跡の碑の前で神事が行われる。

  養報寺の鬼城句碑  (高崎市指定重要文化財)  案内説明より
小鳥この頃、音もさせずに、来て居りぬ  鬼城
この句碑は、大正十三年に建てられた鬼城最初の句碑である。村上鬼城は、名を壮太郎といい、鳥取藩士小原平之進の長男として、慶応元年七月二十日江戸藩邸で生まれた。俳句を志したのは明治二十八年のことで、正岡子規に手紙を送って教えを受けたのが始めと言われる。

いずれの石仏も鎌倉時代末期の造仏と推定され、倉賀野町所在の安楽寺古墳(県指定史跡)内の石仏以前の鎌倉時代の信仰の一つの形態を示す貴重なものである。なお、土地の人々は、これ等の石仏を木喰五行(上人)の彫刻になる五智如来と言い伝えてきた。

その曽孫斎藤定利の時天正十年六月(約四百年前)織田武将滝川氏、後北条氏の神流川合戦の際兵火にかかって焼失し、北条方の城主斎藤家は没落した。その後、德川家康の関東入国にともない、川窪氏の所領となり陣屋がおかれたという。川窪氏は元禄元年(1698)丹波国に転封となり、陣屋も廃されたという。現在、城跡の大部分が畑地や雑木林に変っているが、所々に遺存する堀や土塁の一部に戦国の昔を偲ぶことが出来る。
                        案内説明より

  金窪城跡  埼玉県指定史跡
館跡は西と北に清水が流れ、東に小溝があり東から南へは平らな地続きである。今でも土塁が三ヶ所残っており、中央の一区域を太琊城あるいは金窪城といい上野と武蔵国境にあり要害の地でた。治承年間(約七百八十年前)に加治家季が築城したと伝え、元弘年間(約六百三十年前)新田義貞が築城し、その武将畑時能が城主であったととも伝えられている。
後、寛正の頃(約五百年前)斎藤実盛の子孫斎藤盛光の居城となり、

本庄の市街見聞

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中山道てくてくその4



本庄~新町      新町~倉賀野



倉賀野~高崎

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稲荷神社の大欅 県指定天然記念物

境内の曼珠沙華

愛宕神社

大欅二本樹 市指定文化財

本堂

鐘楼

小笠原信嶺夫妻の墓

皇女和の宮
  涙をさそう 田村門

現代いろはかるた この札

旧本庄警察署  
県指定有形文化財建造物    

この旧本庄警察署は、明治十六年に建てられた洋風建造物として、県内に残る遺構のは白眉であります。木造二階建て、瓦葺、漆喰塗大壁造りの、この建物は、吹き抜けのベランダや、石造りを模した木彫りの列柱、手すり金物、出入り口の半円形窓、左右対称の上下窓、壁面の隅飾りなどに、明治初期の洋風建築の特徴が見られ、大変モダンな警察署として、市民の間に長く親しまれてきました。昭和五十四年、歴史民俗資料館として活用するため、国と県の補助を受け復元工事が行われ、創建当時の外観に、よみがえりました。

玄関上二階ベランダから

古代出土品展示

復元壁完成予想図

総門と奥本堂

境内の小倉家石墓供養

煉瓦造りの洋菓子店

纏を作っている纏屋 極当たり前

製作中の纏

逆さ看板の理容店

透明人間のようなポスト

半世紀前の典型的開業医建築

普寛霊堂

安養院

猿田彦大神神社

閉ざされたままの大門

本殿

神社参道

手水舎

屋根の魔除け

十一柱の神々が祀られている

街道沿いの民衆が街道維持のため苦役を強いられ泪したという

古墳上の稲荷神社

扁額には八幡宮とある

屋根には家紋が乗っているが権威付け?

中央
正四位 南朝忠臣 畑時能之墓

第一師団長陸軍中将 (後大将)
畑 英太郎の銘がある
祖先の思慕賛辞碑か?

三条夫人の墓と言われている

六地蔵尊

江戸時代中頃の優れた銅鐘に一つとして、すでに国認定重要美術品の指定を受けている。

鐘楼

旧総門 (鎌倉時代)

見透かしの灯篭

勅使川原 阿弥陀堂

堂の脇にある勅使川原一里塚跡の碑

境内庭園

六地蔵尊

不背碑 親子地蔵

開基廟 勅使河原有直公墓地
享年六十二歳

県境は神流川群馬側土手近くにある

神流川橋から赤城山

神流川古戦場跡石碑

芭蕉句碑 (八坂神社境内)

諏訪神社

本殿

浄和泉寺 山門

本堂

上州名物 焼きまんじゅう

新町駅

本殿の彫刻



新町~倉賀野

木曽海道六十九次の内新町  広重画 
榛名山か赤城山であろうか、それとも浅間山か

新町から赤城山を望む

中山道最中とまんじゅう

手水舎屋根の菊の紋瓦

奉納鳥居

境内の相対道祖神

於菊稲荷神社

於菊稲荷大明神 石塔

新町八幡宮

鳥除け(鳩除け)金網設置

中に入ると警報が鳴るよ
御用の御方は・・・・

高尾山 宝勝寺

落合山 宝勝寺 開かずの門?

宝勝寺は山号を二つ称している

望楼式鐘楼

大和郡山藩藩主夫人の墓 柵の中
貞護院殿の法名が見える

本堂

小林本陣跡の碑

塀の中の民家?

石造りの祠

芭蕉句碑    むすぶより 
  はや歯にひびく しみずかな

歩け歩け運動記念碑
日本スリーデーマーチ発祥の地

伊勢島神社 旧稲荷神社

境内には常夜灯、庚申塔、二十二夜塔、宝篋印塔などがある

稲荷神社の名残 狐

川端家住宅 表門
国指定登録有形文化財

漆喰腰黒板張塀と土蔵

伊勢島神社元宮

鳥川柳瀬橋から赤城山遠望

岩鼻樋管 水位調整用? 
柳瀬の渡し辺り

岩鼻天満宮

群馬県立歴史博物館

群馬県立近代美術館

巨きな馬 
群馬の森いこいの広場

群馬県立公園

県庁跡

初代代官 吉川栄左衛門の墓

本堂

刑場供養塔  南無阿弥陀仏

常夜灯と閻魔堂

常夜灯より高崎方面 ここから倉賀野宿にはいる   街道沿いには栄えていたころの民家が点在する
左中山道 右例幣使道

勘定奉行小栗上野介忠順公と
江戸幕府埋蔵金ゆかりの地の碑

川の流路跡 暗渠か?

真言宗 倉賀野山養報寺

山門 奥本堂 手前御燈

色彩鮮やかな山門天井画

帰り船で干し魚・油・茶・塩・砂糖などの荷を運んだ。当時は旅籠屋七十一軒、茶屋九軒、商家三十四軒、造り酒屋二軒があり倉賀野宿の賑やかさは大変なものであった。明治十七年[1884)高崎~上野間の鉄道開通に伴い、これまでの輸送の大動脈だった船運は役割を終え、倉賀野河岸は急速にさびれ、今では面影を残すだけとなっている。
                       案内説明より

大杉神社跡地の碑 民家庭内

境内地蔵堂菩薩石像

高崎線倉賀野駅

本堂

墓石 石塔群 供養
遊女・飯盛り女の墓石がある

上町(京都側)下町の間の中町

双体道祖神

表札には須賀とある

須賀脇本陣跡

屋敷

倉賀野宿勅使河原本陣跡
勅使河原氏が代々勤む

脇本陣須賀家横の復元高札場

定め書き  越前とは間部越前守詮房?

倉賀野神社拝殿

本殿

冠稲荷神社

本殿彫刻

御輿

天台宗 巌堂山常行院安楽寺

本堂

本堂裏の円墳 安楽寺古墳
御嶽山座王大権現の石碑がある

古墳を削った本堂石室
昔に削ってよかった?

浅間山古墳 全長137m前方向円墳

境内末社

白龍山興禅寺 山門

本堂

地蔵堂 延命地蔵菩薩(子育地蔵)

井戸 明治天皇も飲まれた名水

水堀と土塁

乾二階魯 復元

ハクモクレン高崎城主安藤重信埴

城跡内 歩兵第十五連隊記念碑

立っている獅子

本殿

高崎駅

秩父鉄道SL C58363 オレンジエクスプレス

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舞殿

御輿