千葉のいろいろその2

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  麻賀多神社由来  祭神:稚産霊命(和久産巣日神 わくむすびのかみ)
伊勢神宮の内宮(天照大神)の姉神で、外宮(豊受大神)は子神と記されており、香取神宮の御祭神(経津主命フツヌシノミコト)と鹿島神宮の御祭神(武甕槌命タケミカヅチノミコト)は弟神であります。
古事記・日本書紀には、日本の国造りの神で、五穀の神様であり、産業を司る神として記されています。(古事記では和久産巣日神と記されています) また、この神社の社紋は麻の葉をデザインされており、最近まで赤ちゃんの産衣に麻の葉を入れて健やかなる成長を祈願しており、お子様の守り神でも在らせられます。
その昔、大和武尊御東征の折、この地方の五穀の実りが悪いのを知り、里人を集め大木の虚に鏡を掛け、その根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願いたしましたところ、その後は豊年が続きました。又三世紀の頃、印旛國造・伊都許利命(いつこりのみこと)は、この御鏡を霊代(たましろ)としてて祀られる稚日霊命(稚日女命 わかひるめのみこと)の霊示をうけ、玉を掘り御霊代として稚産霊命(伊勢外宮の親神)を祀り、麻賀眞の大神と崇め、八代神津の両郷を神領として奉斎しました。
その後推古天皇十六年(608)新たに宮居をこの地に建て、麻賀多の大宮となづけました。本地御鎮座以来千三百六十余年、印旛郡下の十八麻賀多の総社として、筒粥祭、豊年神楽などの古い儀式が継承され、御祭神にゆかりのある古い地名なども現存しています。
なお、平安時代中期に制定された国家の法制書である「延喜式」神名帳には、国幣社・麻賀多神社と記されている延喜式内社であります。往時勅使として大伴家持も参拝されております。この由緒ある神社の境内の神秘さは多くの参拝者の感動を誘っております。
また、本社(台方社)の北方1㎞のところに奥宮(船形社)があり、伊津許利命の噴墓があります。また当社の西方1kmの印旛沼湖畔の鳥居河岸というところには大伴家持が寄進したという大鳥居(一の鳥居)が建っています。
明治五年に郷社に、昭和十年御神木の大杉は、千葉県の天然記念物に、さらに近年御本殿は市の文化財に、神域は史跡に撰ばれ、産業、開運、長寿厄除けの守護神として崇められていることはよく知られています。ここに伊勢神宮御遷宮記念の麻賀多神社改修を機に、この碑を奉献して神徳のいよいよ万民に、光被されんことを祈る次第です。

  御神木大杉 (千葉県天然記念物)
今から約千四百二十年前の推古天皇の御代、現在の地・稷山(きびやま)に新たに宮殿を立て、麻賀多大宮殿と称されました。この大杉はその当時に植えられたもので、目通り周八メートル、高さ四十メートル余で、その樹形は誠に威容であります。正に東日本一と云われ、この大杉(御神木)は遠い々昔の日本の歴史を物語ると共に、数多くの伝説を秘めた此の年輪の雄大さは千古不動の御神威と御神徳が示されております。
今日では、特に不老長寿の御神木として崇拝され、昔から多くの祈願が行われ、大願成就前には梢より霊光が輝き神のお告げがあると云い伝えられております。

  麻賀多神社の社叢 (千葉県天然記念物)
印旛沼の東方約一キロメートルに位置する標高三十メートルの台地上に発達した社叢です。この社叢は大別すると、スギ林、スタジイ林、ヒノキ林、カシ林とから成ります。千葉県指定天然記念物である公津の大杉は、目通り十メートル。その他、樹高二十八メートルもあるスギをはじめ、アカガシ、ケヤキ、アカマツ、ヒノキ、スタジイの巨木が林立し、自然林の樹相を呈しています。少面積ではありますが、北総地域(旧下総国)に残された千葉県を代表する社叢といえます。

  麻賀多神社奉納神楽
毎年七月三十一日に行われる台方の麻賀多神社の大祭において奉納される神楽です。この神楽は今から四百から五百年ほど前に、常陸国(茨城県)からこの地方を訪れた万太夫一座が、由緒ある加賀多神社の尊厳さに感銘し、伊勢神楽の流れを汲む十二神楽の一つの獅子神楽を里神楽として奉納したことに始まると伝えられています。現在は、台方地区と下方地区が年番でその任にあたっています。
舞手は、年番にあたった地区の中でその年(二年間)の内に結婚した新郎の中から、特に選ばれたものが奉納する習わしになっています。神楽は、「御神楽」、「巫女神楽」、「里神楽」の三部から成り、さらに「四方固め」、「鈴振りの舞」、「御幣の舞」、「はながかり」等七種の舞に別れ、雄獅子と雌獅子の二匹で舞います。なお、この神楽は、印旛沼近くの鳥居河岸においても奉納されています。
               案内説明より
          

手水舎

曹洞宗 眞龍山超林寺  千葉県成田市台方10-2

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麻賀多神社  千葉県成田市台方1

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佐倉惣五郎(木内惣五郎)旧宅  千葉県成田市台方569

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真言宗豊山派鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂  千葉県成田市宗吾1-558

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真言宗智山派 成田山新勝寺ー2 千葉県成田市成田1

  平貞胤 供養板碑 (成田市指定有形文化財)昭和四十五年十一月三日指定
超林寺には観桜二年(1351)の紀年銘をもつ平貞胤(千葉貞胤)供養碑があります。平貞胤(1292~1351)は千葉氏十一代当主で、京都で没しました。その恩に報いるために在郷の人々がこの供養碑を建立したと思われます。銘文については、現在判読不可能です。しかし、昭和初期の調査記録によりますと、「平貞胤 □□霊□也 観応二年辛卯四月日 當郷諸人 各々敬白」と刻まれていたと記されています。

  鋳銅雲版 (千葉県指定有形文化財)昭和五十二年三月八日指定
鋳銅雲版は、応永十五年(1408)の紀年銘があり、超林寺の寺宝になっています。雲版とは、輪郭が雲の形をしていることから名付けられたものです。合図(修行のための時間、坐禅行、食事等々)の為に撞木で打ち鳴らす仏具で、特に禅宗寺院で使われました。木製のものも多く使われて、超林寺手現在使用されている青銅製の半鐘もその目的のために吊るされていました。この雲版の表面には「小見 永徳寺打板也(中略)応永十五年戌子三月廿二日」という銘文が刻まれています。小見 永徳寺という寺院の所在ははっきりしていません。
              案内説明より
          

  額堂
額堂とは、奉納額や絵馬を掲げる建築物であり、この堂は文久元年(1861)に當山で二番目の額堂として建立されました。建物は、桁行正面が六間(約11m)梁間三間(約5.5m)で、屋根は入母屋造桟瓦葺です。現在は四方が解放されていますが、当初は背面が板壁になっていました。組物は平三斗、中備蟇股、二軒の半繁垂木です。額堂としては虹梁や木鼻など細部まで本格的な建築物で、近世における庶民信仰をあらわす代表建築物の一つであります。建物の各部にみられる龍や獅子などの彫刻は後藤勇次郎経慶の作です。
なお、當山には江戸歌舞伎界の名優・「成田屋」こと七代目市川団十郎丈により寄進された額堂(第一額堂)が三重塔脇に在りましたが、昭和四十年に焼失しました。中央部にある石像はその七代目団十郎の像であります。これらの額堂には絵馬類がたくさん掲げられていましたが、貴重な文化財として、現在は成田山霊光館に保存されています。

  成田屋七代目・市川団十郎の石像
江戸歌舞伎の名門・市川団十郎家は、代々成田山新勝寺を篤く信仰し、初代団十郎は自らの屋号を「成田屋」と称して不動明王を崇敬しました。なかでも七代目団十郎は江戸時代末期に活躍した名優として知られていますが、それまで大名や武士の芸能であった「能」を歌舞伎の中に取り入れ「安宅」の題材を「勧進帳」に芝居化して初演し、荒事を中心とした歌舞伎十八番を制定するなど、それまでと違った斬新な発想で江戸歌舞伎界に新風を吹き込みました。その一方で一千両をもって成田山に額堂を寄進し、天保の改革の折には成田山内の延命院に身を寄せ、成田の人々に芝居や俳句を広め、成田山参詣の隆盛に寄与し、この地方の文化向上にも大きく貢献しました。
               案内説明より
            

寺号標 五十メートル先超林寺

椿井(台方村の七井戸の一つ)

惣五郎父子地蔵尊(身代わり地蔵)
像姿は水子地蔵尊

墓塀には寄進された多くの人の名が刻まれている
左は講釈師の神田伯山、代は不明 右浪曲師春日亭清吉、佐倉義民伝を得意とした

開山堂 宝形造本瓦葺一間向拝

成田山新勝寺開山・寛朝大僧正の御姿を安置する堂です。この堂は昭和十三年に奉修された成田山開基一千年祭記念事業の一つとして新築されたものです。
                案内説明より             

町火消二番組奉納の石柱垣根
せ組と百組(へ(屁)組を百と称した)

鋳銅雲版 千葉県文化財資料より
現在超林寺で使われていない

左 阿弥陀如来梵字板碑と
右 平貞胤(千葉氏)供養板碑

歌舞伎狂言上演記念植樹

  中村勘三郎(十七代目)
佐倉義民伝 昭和五十五年十一月歌舞伎座狂言上演記念樹
  松本幸四郎(六代目) 
東山桜荘子浅倉當吾傳(佐倉惣五郎) 昭和六十年三月花形歌舞伎上演記念樹
  中村勘九郎(五代目 後十八代中村勘三郎)
佐倉義民伝 平成十四年十二月歌舞伎座宗吾堂三百五十年遠忌上演記念樹

奉納庭園 豊秋石進苑

照心大僧正頌徳碑
題字 勲一等子爵後藤新平の篆額

聖天堂 歓喜天を祀る
夫婦和合、子宝、福徳、女難などの功徳がある

  弁才天堂
弁才天を祀る。勧請年代は不明ですが、内外丹塗宝形造の現在のお堂は元禄年間(1688~1707)に建立されました。成田山境内では最古の建築物であります。

  大師堂
明治二十一年(1888)再建された。堂内には弘法大師をはじめ、理源大師、興教大師、成田山代々の前師、法類(家族など)、戦没受難者各霊、日月牌有縁精霊の位牌が安置され、朝夕供養が行われています。
             案内説明より
           

  光明堂 重要文化財
元禄十四年(1701)に建立された旧本堂で、寛保二年(1742)と明和五年(1768)の改修を経て、安政年間(1789~1801)新本堂(現 釈迦堂)の建立にあたり、本堂の後方に移築、さらに昭和三十九年大本堂建立の時現在地へ移されました。
本尊には真言密教の教主である大日如来が安置されています。建物は桁行五間(約9m)梁間五間で、屋根は入母屋造桟瓦葺です。組物は三手先を詰組とし、軒は二軒の繁垂木としています。安政年間の移築の際に周り縁と外陣部の床を撤去して吹放しの土間とし、珍しい形になっています。
また、彫刻装飾(島村円徹の作)には、創建当初の構造がよく残され、江戸時代中期における密教寺院の遺構の一つとして貴重な建物です。また「明王堂」の掲額は東大寺の別当道恕上人の筆、柱の聯(現在成田山霊光館保存)は三井親和の筆になります。
               案内説明より
               

山門 入母屋造銅板葺正面千鳥破風
軒唐破風付三間一戸八脚門

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宝篋印供養塔

成田山門前 近江屋うな重

扁額

妙覚院

本堂 半鐘

霛堂 尊者像

慈母観音

歴代住職供養墓

寺号標から見た麻賀多神社

本堂 補修中

寺号扁額

永代供養塔 釈迦牟尼佛と表示されているが、阿弥陀如来定印を結ぶ

開山 貴田州裔大和尚像

霛堂

庫裡 多層石塔

慈母観世音菩薩像

檀信徒墓地

境内社

麻賀多神社社叢

御神木 スギ 県指定天然記念物

御神木

御神木

御神木

手水舎

拝殿 工事中のための仮拝殿

拝殿社号扁額

御輿

御輿殿

創建 推古天皇十六年(608)

境内社 三峯神社、古峯神社等々

麻賀多神社社殿奥に鎮座する
天日津久神社

宗吾氏舊家碑 
木内利左衛門 大正十一年六月建立

R464より狭い坂道を下る

坂を降り切ると木立の奥に

寄棟造茅葺平入り
屋根は鉄板で覆われている

宗吾霊神 奉納木札

旧宅

椿井の説明板

参道商店

庭園

客殿

向拝虹梁

本坊大棟鬼瓦 旧屋根は瓦葺?

本堂宗吾霊堂 向拝柱・木鼻

宗吾霊堂扁額

本堂宗吾霊堂 入母屋千鳥破風

聖天堂扁額

観音堂 子安観音菩薩

観音堂

寺務所 授与所

地蔵堂

地蔵菩薩石像 子育・延命

宗吾霊宝殿

薬師堂

薬師堂 向拝奉納掲額

慈眼閣

山門より

金剛力士阿形像

金剛力士吽形像

東勝寺宗吾霊堂

手水舎

惣五郎と子の墓所

一切経堂 扁額

一切経堂

光輪閣

成田山新勝寺旧本堂 薬師堂

薬師堂 宝形造桟瓦葺庇向拝

宝珠

明治天皇行在所 紀念碑と公札

寺号標

二十四孝彫刻

二十四孝彫刻

釈迦堂軒三手先木組

香炉

奉納 青銅燈籠

唐向拝 龍彫刻

聖徳太子堂八注宝珠

聖徳太子堂

奉納 燈籠と香炉

阿弥陀堂

成田山参篭道場

水行堂

水行堂 不動尊像

座禅堂

水行堂 水行道場

立石燈明塔 明治二十七年建立
奉納 永代燈明料五百圓

大師堂

辨天池 亀石と親亀・子亀・孫亀

辨天堂

狐狛犬

荼枳尼堂

切妻彩色彫刻

向拝柱獅子頭

境内樹木

観音菩薩 地蔵菩薩

稲荷宮大小祠

出世稲荷より釈迦堂・多宝塔

成田街道・道標 ぬ組奉納 
萬延二年辛酉正月吉日

聖天堂

聖天堂扁額 歓喜天を祀る

お手植樹木 沙羅双樹
三笠宮崇仁殿下・百合子妃殿下

百日紅 千葉県樹木医会奉納

樹齢約三百五十年

本堂軒

護摩受付所・授与所

本堂 香炉

天満宮

句碑

成田公園

新築中の医王殿 宝形造本瓦葺三間唐向拝付 成田山開基千八十年記念事業

手水舎

多宝塔軒

修行僧像(弘法大師?)

本殿 背面より

医王院山門

多宝塔

多宝塔(大塔)

光明堂大屋根 鬼瓦・懸魚

開山堂傍の青銅像

額堂

旧梵鐘説明文

奉納 山号扁額

奉納額

奉納額

旧梵鐘

七代目市川団十郎石像

開山堂 回廊に置かれた喚鐘(半鐘)

開山堂 向拝柱・虹虹梁

奥之院

この洞窟は奥行き約十一メートルあり、正面に不動明王の本地仏である大日如来(大日如来の化身が不動明王)が安置され、毎年、成田山新勝寺祇園会の日(七月七・八・九日)に限り開扉されます。入口左右の板碑は考古学上貴重なものです。
              案内説明より
             

大日如来(胎蔵界)梵字板碑

大日如来(胎蔵界)梵字板碑

三重塔

三重塔

初重 彩色塗

二・三重 黒漆塗

倶利伽羅剱

宝冠釈迦如来

八大童子・三十六童子像

奉納銅製燈籠

山門(重要文化財) 山号扁額

不動堂側面彫刻

不動堂(こわれ不動堂)

吽形狛犬

阿形狛犬

石造倶利伽羅不動剣

石橋

吽形狛犬

阿形狛犬

奉納不動剣

奉納不動剣

亀石に乗る親亀・子亀・孫亀

山門 軒斗栱

宗吾霊之称賛碑

山門 大草鞋

供養碑 左 すっぽん供養
右 山川草木・虫魚鳥獣供養

山門 奉納大提灯

大提灯奉納記念札

多聞天(北)立像

木遣睦会記念碑

境内樹木

広目天(西)立像

宗吾顕彰碑

手水舎

手水舎 龍の水口

左狛犬

右狛犬

金剛力士阿形像(那羅延金剛)

寄進記念碑群

金剛力士吽形像(密迹金剛)

総門 三手先斗栱と獅子頭

総門 山号扁額

総門 門柱

門柱 獅子頭

申 蟇股彫刻 子から亥まで

総門背面中央(北)十二支の子

総門正面中央(南)十二支の午

鐘楼

梵鐘

  宗吾顕彰碑建立の由来
宗吾顕彰碑は明治の先覚者・福沢諭吉の発意により、長沼村・小川武平が発起人となり建立されたものであるが、碑文は福沢諭吉が敢えて時の衆議院議長・星享に、題額は貴族院議員議長・蜂須賀候に、書は明治の書家巖谷修一に依頼し記されたものである。明治二十六年五月のことである。
福沢諭吉はその書「学問のススメ」の第七編の末尾に、「人民ノ権義ヲ主張シ正理ヲ唱テ政府ニ迫リ其の命を棄テテ終ヲヨクシ世界中に対シテ恥ル事ナカル可キ者ハ古来唯一名ノ佐倉惣五郎アルノミ」と絶賛している。
時あたかも福沢諭吉が新紙幣の人像として掲載さるるを記念しこれを永く後世に伝えんとするものである。
昭和五十九年十一月二日

  豊秋石心苑
この庭園は船橋市西船在住の篤信・川野辺豊秋氏が宗吾霊三百六十年祭を記念して造園、奉納されたものである。
                案内説明より
               

   義民・佐倉宗吾様と宗吾霊堂
平成二年宗吾参道を改良整備するにあたり、地域の特徴を活かした「義民の里にふれあいあふれる道づくり」をテーマとして実施したので標題について説明します。
わが国の代表的な義民である佐倉宗吾様は、本名を木内惣五郎といい、慶長十七年(1612)下総国印旛郡公津村台方(現 成田市台方)に生まれ育ちました。当時割本名主であった惣五郎は、打ち続く凶作と過酷な重税に苦しむ領民を救うため苦心惨憺して国家老や藩主に嘆願しましたが聞き入れられず遂に死を覚悟し、家族に後難が及ばぬよう離縁状を差し出して、江戸幕府四代将軍徳川家綱公に直訴を決行しました。
このことによって領民の窮状は救われましたが、直訴御法度の罪に問われて捕えられ、助命嘆願もむなしく四人の子供と共に公津ヶ原で処刑されました。時に承応二年(1653)八月三日、惣五郎四十二歳の時でありました。それ以来惣五郎は農民の神様と崇められ、今日なお香華の絶える日はありません。
後の失政を悔いた佐倉藩は、宗吾道閑居士の法号をおくり手厚く冥福を祈った事から佐倉宗吾様と呼ばれるようになり、義民佐倉宗吾様の名は全国に知れ渡りました。その御魂を祀る鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂は是より参道を経て北東の方向一キロメートルに位置し、徒歩約十五分で行けます。
            京成電鉄宗吾参道駅前説明板より
            

  公札 (明治天皇行在所 説明)
明治十四年六月千葉県下に行幸の際六月二十九日及び明治十五年六月千葉県下行幸の際六月六日行在所となりたる処にして主要部分は極めてよく舊規(旧跡)を存せり
昭和十年四月 文部省
  明治天皇行在所
明治十四年と明治十五年の二度、明治天皇は下総種畜場に行幸され成田山を行在所(仮宮)とされ、昭和八年十一月史跡に指定され昭和十年 紀念碑と公札を表示している。

  多宝塔(大塔)
昭和五十九年(1984)に建立された平和の大塔は、真言密教の教えを象徴する塔です。総高は58mで、一階は大塔入口、成田山の歴史展、写経道場各種受付があります。二階の明王殿には、大塔の御本尊不動明王、四大明王、昭和大曼荼羅、真言祖師行状図が奉安され、三・四階の経・法蔵殿には、ご信徒による掛仏、五階の金剛殿には五智如来が奉安されています。

  清滝権現堂・妙見宮
享保十七年(1732)に建立され、天明八年(1788)、安政五年(1858)に修理されています。清滝権現と地主妙見を合祀した成田山の鎮守宮である。

  天満宮
明治二十年(1887)再建されたものである。祭神は菅原道真公である。

  観音堂(朝日観音堂)
慶応三年(1867)建立されたものである。朝日観音菩薩を本尊とする。

  包丁塚
包丁塚は、永年愛用し使い古した庖丁を納めてその功徳に感謝するとともに、調理した鳥獣魚菜の霊を慰め供養するために建立したものである。
            案内説明より
               

  一切経堂 成田市文化財
一切経堂は、享保七年(1722)成田山中興第一世・照範上人によって建立されました。中央の転輪経蔵に収まる一切経約二千冊は、仏典の集大成である。彩色鮮やかな輪転経蔵周囲の桟唐戸には、四天王十二神将の彫刻が施され、この輪転経蔵を八体の鬼神が支えている。入口上部の扁額は白河楽翁(白河藩松平家三代藩主・松平定信)の揮毫になるものです。経蔵周囲の八つの火頭窓は中国の故事説話を題材とした見事な木彫刻で飾られている。堂内には、中国・南北朝時代に輪蔵を創案された傅大士と普建、普成が祀られている。

  鐘楼
元禄十四年(1701)に成田山中興第一世照範上人によって建立されました。楼上の梵鐘は大本堂建立を記念して鋳造したものです。鋳物師は香取正彦氏の設計・鋳作で、重量1068㎏である。

  座禅堂  数息観「密教座禅」
数息観とは、御本尊不動明王の加持力のもと自身の呼吸を整え心の雑念を取り除く真言密教の瞑想法です。心静かに精神統一することであらゆる苦難に打ち勝つ「不動心」を習得できます。
受付: 参籠堂  場所:修法道場  時間: 10.00~14.00

  水行場
天保六年(1835)建立され、昭和四十一年改築。本尊に祈誓をこめて水行する所であり、古くは道誉上人、二宮尊徳などもこの水に浴し、尊い霊験を授かっています。

  二宮尊徳翁開眼の地
代表的日本人の一人、二宮尊徳翁(天明七年~安政三年 1787~1856)は、不世出の才と堅忍不抜の行いとをもって小田原藩主・大久保忠眞候に抜擢され、下野国桜町領(栃木県二宮町)の復興に一身を捧げました。
内外の妨害に進退きわまり、行方を暗まし、数十日後に成田山に参拝した。「禍を転じて福と成し」にはじまる七大誓願を胸に成田山に参籠し、断食水行三七・二十一日、霊験感応あり心願開けて大悟した。此処こそ誠に二宮哲学開眼の地である。
実を捨ててここをせんどとつとむれば月日の数も知らぬなりけり心あらば成田の山にこもりなん石の上にも岩の上にも
この二首は満願の日の翁の歌であり、「予が今日に至は不動心の堅固一つにあり」とは後世に繰り返し口にしたところである。成田山の修行を伝え聞いた領民はその心根を知り、二宮尊徳に指導に従い桜町は豊な地となり、子々孫々までその偉業を語り継がれたのである。
              案内説明より
              

佐倉惣五郎旧宅とあるが、三百五十年以上経ているとは思えないしっかりとした建物です。極普通の農家の主屋といったところでしょういか。
想像ですが、打首の犯罪人の家が当時のままに残っていることが不思議である。後に神と崇められたにせよ、当初は家の存続は無く名主も親族によって受け継がれることもなかったと思えるのである。罪親族親類にも及びかねない時代の事である。
つまり佐倉惣五郎の生家が保存されているものではなく、生家のあった処に許されて建てられた子孫の住居であろうとおもわれる。入口の石碑に刻されている宗吾氏舊家はそのようなことを云っているのであろう

寄進記念碑
人の世の情けを知るや佐倉の地親子の絆語りつがれし

  鐘楼堂
宗吾霊三百年祭記念事業。
昭和二十七年建立
梵鐘鋳物師は香取秀真、香取正彦氏
全国百鐘の一つであります

  成田山出世稲荷大明神
ここにお祀してある御本尊(荼枳尼天)は佐倉藩稲葉家初代藩主・稲葉正往(丹後守 幕府老中)より宝永年中(1704~1710)に成田山に寄進せられた尊像で、古来より出世稲荷大明神と称されています。御稲荷様の御本体は倉稲魂神(うたのみたまのかみ)と申し、五穀の実りと一切の食物を守護する施福の神として尊ばれております。
稲荷神は形として世に現れないことから神仏習合思想により仏教の神・荼呮尼天と混淆され、同一のものとされ稲荷神社に祀られる。
その昔、弘法大師が嵯峨天皇より京都・真言宗東寺を賜りし時この明神が翁の姿を現わし、色々有り難い教えを垂れられましたので東寺の鎮守として祀られてから大いに盛んになったのであります。

  荼枳尼天堂
桜城主稲葉丹後守正往が宝永年間に寄進した荼枳尼天尊を本尊としています。古来より{出世稲荷」と称せられ、毎年二月の二の午の日に出世稲荷祭礼がおこなわれます。
              案内説明より
          

  釈迦堂
安政五年(1858)に建立された前本堂であり、大本堂の建立にあたって昭和三十九年現在地に移築されました。御本尊には仏教を開かれた釈迦如来安置され、普賢菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩・千手菩薩の仏も安置しています。周囲の板壁には、修行僧として最高位に到達し、高徳をそなえた五百羅漢像を見事な浮き彫り彫刻で八面、また扉には、中国の代表的な孝子物語である「二十四孝」十二面を付けるなど堂内の華麗な欄間彫刻と共に、時代の特徴をよく表しています。
板壁の五百羅漢は、絵師・狩野法眼一信の下絵をもとに、仏師・松本法橋良山(通称不動金兵衛)が十年の歳月を費やして彫刻したものです。また扉の二十四孝は、無関堂島村俊表の作です。
建物は五間堂で、中央の柱間が広くとられています。屋根は入母屋造の瓦棒銅板葺で、正面には千鳥破風や軒唐破風付の向拝を設け、荘重さを加えています。組物は、三手先を詰組とし、軒は二軒の繁垂木で総欅を用いています。

  五百羅漢彫刻八枚
狩野一信の下絵に基づき松本良山が十年の歳月を費やして彫刻したものである。五百羅漢一人々々の表情をよく視ると亡くなった親族や知人の面影が、必ず見受けられると云われています。

  二十四孝彫刻十二枚
島村俊表によるものです。二十四孝の物語が扉一枚に二話ずつ彫られています。

  聖天堂
人法繁昌のために勧請された成田山の秘仏「大聖歓喜天」を祀り、古来より毎月初めの七日間當山の僧侶によって天尊浴油が修行されている。聖天堂は成田山開基千七十年記念事業として建立されました。
                案内説明より
         

真言宗智山派大本山 成田山金剛王院新勝寺

  総門
開基1070年の記念事業により、平成十九年(2008)建立。荘厳な雰囲気の総門は、高さ15mの総欅造り。蟇股という欄間にあたる部分には十二支の木彫刻が施されています。また、楼上には八体の生まれ歳守り本尊が奉安されています。成田山の表玄関として、多くのご参詣者をお迎えしております。

  三門(仁王門) 重要文化財
文政十三年(1830)に建立された八脚門で、正面向かって左側には密迹金剛、右側には那羅延金剛が安置され、境内の入口である山門にあって、諸堂伽藍を護っています。特にこの金剛力士像はむかしから「朱振りの仁王尊」と称され信仰されてきました。また、仁王像裏には左側に人々に福徳をさずける多聞天像を、右側には仏心を起こさせる広目天像を安置しています。
屋根はいる母屋造銅板葺で、正面に千鳥破風、背面に軒唐破風をつけています。組物は三手先の詰組とし、軒を二軒の扇垂木としているところ等、八脚門としては類例が少なく、材料工法とも極めて優秀で、江戸時代末期の特色をいかんなく発揮した建物といえます。頭貫上の各柱間には、後藤亀之助作の「竹林の七賢」や「司馬温公瓶割」等の彫刻が施されています。なお正面に掲げられている「成田山」の扁額は、東大寺の別当・道恕上人が揮毫されたものです。

  大本堂
昭和四十三年(1968)に建立されました建立。大本堂は当山で最も重要な御護摩祈祷を行う中心道場です。堂内の御本尊不動明王は、向かって右に矜羯羅童子、左に制咤迦童子を従えています。また、四大明王や平成大曼荼羅などが奉安されています。堂内には、どなたでもお上がりいただけます。

  三重塔 重要文化財
正徳二年(1712)に建立され、宝暦七年(1757)、享和元年(1801)、安政五年(1858)に大修理が行われています。また、昭和五十八年に現在の姿に復元されました。塔の初層内陣には金剛界大日如来の「五つの智慧」を現わす五智如来が安置されています。因みに五智如来とは、大日如来・阿閦如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来の五仏です。
塔の高さは相輪頂上まで約26mで初重の柱、長押、台輪などに地紋彫を、各重の尾垂木の先端部は龍の丸彫りで飾り、脇間板壁には十六羅漢の彫刻をめぐらしています。また、板軒には雲文を浮彫りにして極彩色を施すなど、江戸時代中期の極めて華麗な塔であります。
昭和五十六年から五十八年にわたり、漆塗・彩色工事を主体とした保存修理工事を行いましたが、この小路は享和三年(1803)の古文書に書き留められていた漆塗、彩色の仕様をもとに復元されました。
           成田山HP案内説明より

総門 
入母屋造本瓦銅板葺五間三戸楼門

本殿

阿形狛犬

吽形狛犬

社号碑と鳥居

神楽殿

天日津久神社

客殿 慈眼閣

永代供養塔

向拝柱木鼻

本坊 入母屋造銅板葺 唐式台

本堂宗吾霊堂  

本堂宗吾霊堂

本堂 入母屋造本瓦棒引銅板葺
軒唐破風三間向拝付

扁額

山門(仁王門)
入母屋造本瓦棒引銅板葺三間一戸回廊付二重門

二層部

一層屋根庇

参道途中の棟門

駅前参道

京成電鉄 宗吾参道駅

墓塀

本堂宗吾霊堂 向拝虹梁龍彫刻

寄進記念碑

唐破風脇門

光輪閣山門

釈迦堂 明王堂扁額

釈迦堂 重要文化財

鐘楼

梵鐘

聖徳太子堂 八角堂

地蔵堂木札

地蔵堂

正面向拝虹梁の彫刻

奉納扁額 出世稲荷大明神

出世稲荷参道

鳥居扁額 荼呮尼天
稲荷神と仏教女神・荼呮尼天は習合され同一とされていた

稲荷神社鳥居

五百羅漢彫刻

五百羅漢彫刻

奉納記念石塔群

包丁塚 調理師組合奉納?

観音堂

観音堂掲額

三社合祀殿
左より白山明神・金毘羅権現・今宮宮

光明堂 入母屋造桟瓦葺

向拝 不動剣奉納額

奥之院へ

本堂

西翼殿

東翼殿

山門(仁王門)参道 奉納燈籠

護摩祈祷 授与所

阿形狛犬

吽形狛犬

境内樹木 高野槇?

宗吾一代記館

奥之院

本堂宗吾霊堂 向拝虹虹梁

戸袋の板には名刺が挟んであった
千社札のつもりで貼ったのでしょうか

手水舎

  成田山新勝寺旧本堂 薬師堂  成田市有形文化財
薬師堂は明暦元年(1655)に建立された成田山の旧本堂で、德川光圀公や初代市川団十郎が参詣した成田山現存最古の御堂です。元禄十四年(1701)の本堂「現 光明堂」建立の折、この旧本堂は新本堂の後方に移築され、約百五十年にわたり伽藍の一端を担いました。安政二年(1855)の本堂「現 釈迦堂」建立を機に明暦の旧本堂を薬師道路改称、この地に移築し現在に至っています。
             案内説明より
             

釈迦堂軒隅木組

向拝 向拝柱木鼻

向拝 虹梁・虹虹梁

真言宗智山派 成田山新勝寺その2


真言宗豊山派 鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂 


木内惣五郎(宗吾郎)旧宅 


麻賀多神社    曹洞宗眞龍山超林寺 
 







  山門(仁王門) 
宗吾霊三百二十五年記念事業として昭和五十三年十一月十一日施工された。入母屋造本瓦棒引銅板葺三間一戸二重門。間口9.73m 奥行5.4m 高さ14.563m。楼上には高村光雲氏作による聖観世音菩薩が安置されているまた、左右に安置されている金剛力士像は、人間国宝・香取正彦しの作である。

  宗吾霊宝館集蔵品
  
  板石塔婆(下総式板碑)二基 成田市指定文化財(昭和四十四年十一月三日指定)
二基の板石塔婆は、卒塔婆の一種として造立された供養塔です。阿弥陀の種子(キリーク)のほかに年号、願文、願主などが刻まれています。年代は正徳二年(1391)、康永元年(1342)に造立されたものです

  梵鐘 千葉県指定文化財(昭和四十八年三月二日指定)
宗吾霊宝殿に保管されている梵鐘です。「下州印東庄八代郷船方薬師寺」(下総国印旛郡印東荘八代村船方薬師寺 現成田市船方219-1・薬師寺)という銘文から、船方の薬師寺に奉納されたことがわかり、応長元年(1311)十一月に鋳造されたことも記されております。この梵鐘は、橦座(橦木を当てる場所として鋳込まれた円形の標)が一つという珍しいものである。

  薬師堂 
本尊の薬師如来は正式には薬師瑠璃光如来といい、東方浄瑠璃光界(現世)に現れて人々の苦しみ、とりわけ病気の苦しみを救う仏として尊崇されている。法要道場として建てられ、檀家信徒の位牌安置所であり、明治四十四年九月に建立されたものである。

  別格本山・宗吾霊堂(本堂)
宗吾霊堂は真言宗豊山派東勝寺の管理する佛堂であります。今より三百六十年余年前、下総国佐倉藩の悪政により生活に苦しむ人々を救うため、公津村名主・木内惣五郎は江戸幕府四代将軍徳川家綱公に直訴し、十万人の人々の命を救われました。
しかし直訴御法度の罪により承応二年(1653)に本人と四人のお子様は刑に処され、その遺骸を当山住職などが現在のお墓の地(当時の公津刑場跡)に埋葬されました。その後、百年祭の時(1752)に佐倉藩主・堀田正亮公により「宗吾」の法号を贈られ、立派な佛位を得られてより宗吾様を祀るお堂を宗吾霊堂と称することとしました。すなわちお墓では偉大な宗吾精神(大慈大悲の広い心)を敬慕し、お堂では信徒の方々が所願成就を御祈祷し、現世の利益を授かるのであります。

  奥之院
宗吾霊三百五十年記念事業で平成十四年十月に建立しました。御本像は大仏師・松本明慶氏作「十一面観世音菩薩」です。宗吾様のご供養と感謝の誠を捧げるとともに永きに亘って当山を支えて頂きました御篤信・御檀家の皆様方の菩薩を弔う為、謹彫致しました。世に「佛縁」という言葉がありますが、私たち人間の一生はすべて佛の掌にあるわけですが、人と人との出会いもまた仏の深慮なる心の成せるところということかもしれません。宗吾様との出会いもまた佛縁の至らしめる事と考えます。人々を愛する人がいる限り平和な世の中が続くに違いありません。それが宗吾様の願いであると考えられるところです。
              案内説明より
               

本殿

拝殿 神額

清滝権現・地主妙見宮