豊川稲荷神社は、京都伏見稲荷神社、宮城岩沼稲荷神社とともに日本三大稲荷神社に挙げられている。豊川稲荷神社は第八十四代・順徳天皇の皇子・寒厳禅尼が文永四年(1267)豊川荼枳尼眞天を守護神として、遠海国浜松の聖地に御開創鎮座せられました。
特に有栖川宮熾仁親王(戊辰の役東征総督)はじめ皇族の方々、・今川義元・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康はじめ、代々の将軍など、ならびに一般民衆からも熱心に帰依されていた。
水野忠邦は幕府首座の要職後、その子忠精は弘化二年(1745)浜松藩から山形藩に国替えとなった。その時、水野家藩士金森・岡部の両氏は豊川稲荷大明神を分霊頂き、水野家と御分霊を同道し、現在の第四小学校の銀杏の木の元に祭祀した。その祠が山形県でただ唯一の豊川稲荷神社である。それで別名銀杏稲荷神社とも称されている。
明治四十四年第四小学校建設に際し、豊川稲荷神社は豊烈神社に合祀されるところ、岡部・金森(子孫か?)は学校西方近くに敷地を購入し、先ず神殿を造営して御神体(荼呮尼天)を遷座申し上げ、次に社務所を建設し、祭祀と信仰の便に供している。
祭礼も本社浜松の豊川稲荷神社の祭礼日である四月二十二日に合せてて毎年春季大祭日として現在に至っているが、商売繁盛・家内安全・無病息災・学芸成就などに祈願する参詣者が多い。今も第四小学校の銀杏は豊川稲荷神社の御神木とし、また学校のシンボルとし、樹齢二百余年の巨木と成長して空高く雄大にそびえ立ちその昔を偲ばせている。
              案内説明より

豊川稲荷の荼枳尼眞天像は寒厳禅師の作と云われて伝わっている。寒厳禅師の開創されたと伝わる浜松・曹洞宗光澤山普済寺に祀られた荼枳尼天象は、豊川市に創建された普済寺の末寺・曹洞宗圓福山妙厳寺に伝わり豊川稲荷として崇められたとの説もあり、
又、寒厳禅師が開創したと伝わる肥後熊本・曹洞宗 大梁山大慈寺の六代・東海義易禅師が修業、大慈寺に安置されていた荼枳尼天象を浜松普済寺の末寺として妙厳寺を開いた際に、その荼呮尼天像を安置したと云われている説もある。
総ては伝承に域で、後の時代の書き留めもあろうと思われるので、本当の事はわかっていないと思われる。その他の説も当然あろうと思われる

  鳥海月山両所宮
この神社は鳥海月山両所宮と称し鳥海山の霊神大物忌神(倉稲魂命 稲荷神社の祭神)と、月山神(月読命 月夜見命)を合せ祀った神社であります。大物忌神も月山神も古くから国民崇敬の的となり、すでに平安時代の初め朝廷よりそれぞれ位が授けられたことが国史に記されております。
前九年の役に際し、その乱を平定すべき勅命を受けた陸奥守鎮守府将軍・源頼義および長男八幡太郎義家父子は、遥かに鳥海月山の両神を拝し、この戦いに勝利しその目的を達する事が出来たなら新たに神廟を建立してこの神恩神徳に奉謝すると約束祈願いたしました。両神の御加護によりめでたく戦に勝利した源頼義は誓願を守って康平六年(1063)正月十八日、出羽国最上郡山形金井荘に新しい祠を建立して篤くその神恩に感謝したしました。それがこの両所宮であります。
その後、代々の領主及び領民、最上家当主の信仰篤く、特に戦争のときはいつも霊験によって勝利をおさめ、山形の町を戦火より護る事が出来たので、「国家太平武門吉事之宮」とも呼ばれるようになり、桃山時代には社領壹万石を給せられたと伝えられております。郷民の信仰いよいよ篤く、山形北郷の総鎮守と崇められ、明治十二年八月十三日県社に昇格しましたが、終戦後は別表神社に列せられています。

  鳥海月山両所宮本殿 (山形市有形文化財)平成三年三月三十日指定
鳥海月山両所宮は、平安時代の勧請、創建されたという縁起をもつ神社です。鳥海山の神霊・大物忌神と月山の神霊月讀尊を合せて祀っています。
本殿は両宮とも同じ様式で、一間社、隅木入り春日造り、銅板葺の建物です。本殿前中央に向唐門の神門を設けています。元は現在の拝殿の位置にあったものを昭和元年に現在の位置に動座しています。正面右側鳥海宮本殿が寛政十二年(1800)、左側月山宮本殿が享和元年(1801)の再建であることが彫刻や墨書で記されています。
向拝虹梁中央にある蟇股は両宮とも古式で、その他の蟇股の形状や彫刻は、江戸時代後期の様式的特徴を示すもので、江戸時代後期に本殿の大改修又は再興が行われ、虹梁、蟇股の様な旧建築部材の一部を再利用したものと推測されます。両本殿とも再建後の改変も無く、江戸時代後期の様式的手法を示していること、意匠・技術とも優れているものがあり、地方棟梁の技量を知るうえでも貴重な建造物です。

  両所宮随身門 (山形市指定有形文化財) 昭和四十一年十二月十二日指定
鳥海月山両所宮は、遠く平安時代に勧請創建されたという縁起をもつ山形地方きっての古い神社で、遠郷・近郷の民衆より深く尊崇され、また歴代山形城主も厚く信仰し、特に最上義光は真言宗成就院を別当とし、千百五十石を寄進、文禄四年(1595)社殿を再建したこと等が記録として残っている。
随身門はもと金剛力士像を安置した仁王門で、天明三年(1783)同神社の社人・佐藤長太夫が尽力して完成し、建築費用として金二百両と米百俵を要したと伝えられている。三間一戸二階建て楼門で、一階の天井には当地の画匠・藤澤祐川春豊が、鳳凰・麒麟・竜を見事に描いている。江戸時代の楼門であるが当時代の粋を尽くした堂々たるもので、当地方稀に見る建造物である。
               案内説明より           

  里之宮 湯殿山神社
祭神: 大山祗命(おおやまづみのみこと)大已貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)
相殿神: 秋葉山大神(あきばやまのおおかみ)   黄金山大神(こがねやまのおおかみ)
明治九年、初代山形県令三島通庸は、県庁舎の建設の地を山形市旅篭町の万日河原と定め、出羽三山の奥の宮国幣小社湯殿山本宮の口之宮本導寺湯殿山神社より分霊を勧請、旅篭町雁島に祀りました。翌明治十年十一月、県庁舎が完成開庁すると、周辺には師範学校、警察本部、郡役所、銀行などが次々と建ち、雁島の湯殿山神社は県庁のみならず、山形中心部の鎮守と仰がれるようになりました。
明治十二年には県社に列せられ、明治二十五年旅篭町の秋葉山神社を合祀、さらに後年黄金山神社を合祀してますます信仰を集めてきました。明治四十四年山形市でおきた大火のために、焼失。本殿が仮拝殿とともに新たに完成したのは大正四年、拝殿が完成したのは昭和十一年のことでした。
昭和五十四年九月、山形市より新庁舎建築のため湯殿山神社移転の要請をうけ、翌十一月湯殿山移転建設委員会が発足。五十六年九月には地鎮祭が行われ、着工以来一年七ヶ月現在地に新社殿、末社市神神社、神門、社務所参集殿の造営が完成しました。今や県都山形市の鎮守として仰がれ、尊ばれています。


  市神神社
祭神: 八重事代主命(やえことしろぬしのみこと) 通称: ゑびすさま
山形の名物である初市は、近郷近在から数万の人々が集まり、縁起物を買って帰るのが習わしでした。今も昔をしのぶ大きな年中行事の一つです。この初市の中心をなすのが「市神」です。その御神体は安山岩の自然石で、羽州山形七福神のひとつ「恵比寿神」としても知られています。
江戸時代に発行された「東講商人鑑」にある当時の山形城下絵図にも十日町四辻にこの市神が描かれています。「この石は山形城下の町割をするときのかなめ石であったため、これを神聖して市神と崇む」とあり、山形の町にとって大切な石として注連縄を張り、毎年正月十日に市神を中心として立つ市を「初市」と呼びました。
明治六年(1873)、山形県庁からの布令に基づき「通行人の妨げになる」との理由から、山形の市神は早速取り除かれました。掘り出した自然石の市神は、当時の県庁(三の丸跡に所在)へ運ばれたのですが、撤去作業を指揮した県の役人が即日事故死したため、人々は市神様の崇りだと語り合ったといいます。 
市神はその後、県庁構内に放置され手を触れる者さえありませんでした。しかしその時、県庁舎は旅篭町(現、文翔館)に新築され移転が決定していました。「県庁が移転すれが市神だけが残ってしまう」と、旅篭町の人々が相談し、県に願い出て承認を受け、これを雁島の湯殿山神社境内に移転建立したのです。
現在は湯殿山神社ともに昭和58年に遷座し、商売繁盛の守り神として崇敬されてます。





  おもかる石
この二つの石はおもかる石の名で親しまれている石です。向かって左の石がかぶの石(市神神社)と称し、商売繁盛、金運、株が上がるなどの経済的願を、右の石がうしの石(湯殿山神社)と称し、安産、子授け、各種試験合格、良縁・就職成就など生活的願を試します。
石の前で手を合せ願事を記念し、その願事に見合うくらいの重さを想像し石を持ちあげます。その時に感じた重さが自分の想像していた重さより軽ければ願いが「叶う」重ければ「叶い難し」といわれ、益々精進努力せよとのお告げであるという。
             http://yudonosan.jp/より転載
        

厳島神社 
旧別当寺・真言宗成就院辨天堂と思われ習合神辨才天を祀っていたのかも知れない

鳥居扁額

池島の厳島神社社殿

稲荷神社

鳥居扁額

稲荷神社社殿 

金井之水

城輪神社

城輪神社社殿扁額

扁額

東北寺社めぐりその5

山形市の神社

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菅原神社
  
山形市相生町8-40

狛犬

鳥居と 神門

社号標

十日町歌懸稲荷神社    香澄町日枝神社    幸町福満稲荷神社  


鉄砲町六椹八幡神社   諏訪町諏訪神社    七日町熊野神社    緑町藤森稲荷神社 


山形県護国神社   薬師町医王稲荷神社    六日町熊野神社    湯殿山神社  


菅原神社(天満宮)   宮町稲荷神社  豊栄稲荷神社  尾萬稲荷神社  


鳥海月山両所神社    錦町神明神社    豊川稲荷神社

歌懸稲荷神社  山形市十日町1-1-26



藤森稲荷神社
  
山形市緑町4-3-23

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随身門(旧別当寺山門)

神門
入母屋造銅板葺三間一戸廊付楼門

医王稲荷神社

狛犬

拝殿

拝殿 社号扁額

鐘楼
八幡神社旧別当寺来吽院(廃寺 道路向かい側)のものでしょうか?

御輿

扁額

御輿殿



日枝神社
  
山形市香澄町3-14-25

  福満稲荷神社由来   祭神:宇迦之御魂神(倉稲魂命

山形城初代城主 斯波兼頼公より十一代目最上義光公が城主となった文禄年間(1593~1596)に、城の規模を織田信長が築城した安土城に模して広大な城郭に修築したとき三之丸土畳内側に要衝として、城門十一口を設けその吉方頭に当たる一口を吹張口と定められた。しかし、その後かって最上氏時代最期の元和八年(1622)には五十七万石の東北第一の城と誇った山形城も、鳥居氏、保科氏、堀田氏と代が変わり世移るにつれ衰微の一途を辿り在る時は幕府直轄となり在る時は改易になる等してさすがの城提もただ空しく老松空に嘯く草茫々の古城となっていた。
最上氏の時から約百五十年近く過ぎた明和四年(1767)、秋元但馬守涼朝公武蔵国川越より入部するとき禄高僅か六万石であったが、山形城の衰微をいたく嘆かれ、早速藩士長屋を修復し続いて永朝、久朝、志朝の三公あとを継ぎ、弘化二年(1845)に至までのその間に亘り城の修復や紅花栽培の奨励などに意を用いられた。また、各公は敬神の念篤く各神社に多大の寄進を行い年々の祭典も盛大に執り行われた。
各城門口には各々稲荷神社を祀りその一つである吹張口にはその鎮護として福満稲荷神社を建立せられたと伝えられている。秋元氏が稲荷神社に特に力を入れられたのは氏が始めて城持ちになられた際一匹の白狐が尾をもって城の形を跡付けし、為その城を称して尾引城と名づけ以来稲荷神社を崇敬すること頗る篤かった事に由来する。
明治十七年(1884)羽前国南村山郡山形旅篭町矢作登という人が山城国(京都伏見)稲荷山より御分霊を仰ぎ、正式に正一位福満稲荷神社として世人の尊崇するところとなった。鎮座まします神の御名は宇迦之御魂神(倉稲魂命)と申し、保食、殖産、工業を司り給い生民安息と無辺なる御神徳を垂れ給う神である。
町内外を問わず古くより信心篤き者はいずれも家運隆盛、商売繁盛、武運長久の御利益を得、これまでの大戦において出征した町内の多くの将兵の殆どが無事帰還した事実からこれはまさしく福満稲荷神社の御神徳によるものであると信仰をあつめ、吹張町内の氏神様となつている。
なお、境内に道祖神が祀られており当神社例大祭の御開帳時には吹張町内はじめ近郊の信仰者の参詣が絶えない。また、神社奉納品なども拝殿に展示されている。近くには、吹張口の歓楽街であった「清水」がある。初夏になると境内は「おだまき」の花に彩られる

「福満稲荷神社由緒」福満稲荷神社元宮司 中館義雄氏、片桐重勝氏共著「吹張の由来」吹張町内 
編集委員会発行より   

ラジオと時計   ラジオ体操やシニア球技などが行われているのでしょう

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豊川稲荷神社
  
山形市相生町2-3

菅原神社
浄土宗浄光寺と隣り合わせにあるが寺と神社は背中合わせの位置にある 
江戸期は浄光寺側から参道があったのでしょう

鳥居扁額

手水舎と常夜燈

  神明神社  祭神:天照皇大神
神明神社は、延文三年(1358)出羽探題山形城主・斯波(最上)兼頼公の創建に依ります。社伝によりますと、天正年間(1573~1691)山形城主・最上義光公、城北門の守護神として崇敬されており、元和八年(1622)最上家改易後も歴代山形藩城主の鳥居家、保科家、松平家の諸侯も尊崇厚く、特に堀田家の崇敬が深く元文元年(1736)大神宮一宇(一切)を造立せられ、社殿建立にあたって城下及び郡中への勧進を許され広く寄進を得ております。
その後も歴代城主特に秋元家や水野家は厚く尊敬され、例祭に際し金品を献ずるを例とされております。第二次大戦後宗教法人とし神社庁より九級に序され、氏子、崇敬者の家運隆昌、商売繁盛、身体堅固、諸願成就を祈祷され、特に新旧の除夜祭、元旦祭には近郷近在からの参詣者でにぎわいを見ております。
                案内説明より       



錦町神明神社  
山形市錦町15-59



鳥海月山両所宮
  
山形市宮町3-8-41



伊賀町豐榮稲荷神社
  
山形市宮町5-1-27

山形県郷土館・文翔館 旧山形縣二代目縣廰舎(重要文化財)昭和五十九年十二月二十八日指定



湯殿山神社 里之宮
  
山形市旅籠町3-4-6



熊野神社 
 
山形市六日町5-57

社殿 小さな社ですが場所や位置から近くの柏山寺の境内社では?



医王稲荷神社
  
山形市薬師寺町2-16-28



山形縣護國神社
  
山形市薬師寺町22-8-75

社殿 何もない広場(境内?)に社殿のみがたっている

道路拡張の為伐採されなく残った境内樹木 自然保護と景観の両立を願う
道の景観賞です

  日枝神社(日吉神社・山王神社)  祭神:大山咋神

当神社は、元山王権現と称し延文元年(1356)出羽探題として山形に入部した斯波兼頼(最上家始祖)が山形城築城の時、近江国坂本の日吉神社の御分霊を勧請し城内に安置したと伝えられている。永正五年(1508)、中館山永正寺文性院を別当として城内二之丸に社を建立し、十一代最上義光(1546~1614)は社領八石を寄進、十三代最上義俊は慶長十年(1605)唐金の鰐口、元和六年(1620)金蒔絵の絵馬、菊目の銘石を奉納(神社宝物)され最上家代々の信仰が篤かった。
元和八年(1622)最上家が改易になり、鳥居忠政の時代に社を三之丸吹張口付近に遷座、明治維新の時の神仏分離令により、中館山永正寺は廃寺となり山王権現は日枝神社と改められた。明治三十七年(1904)山形駅前四辻から八日町への道路が開かれた時に現在の場所に再遷座された。
社殿は、大正十五年五月二十日の祭礼の夜、失火により全焼したが宝物は幸いにも焼失を免れ現存している。本殿は、昭和二年七月に青田地区内の大峯神社本殿を譲り受け、拝殿は、昭和二十八年十二月に再建されて現在に至っている。
古くからお山王様として親しまれ、旧町区名の二日町、八日町三区、大町住民が氏子となって崇敬しております。
               案内説明より        

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豊川稲荷神社

社殿

末社 愛宕神社

末社 若宮八幡神社

末社 熊野神社

社殿

稲荷神社参道と神明鳥居
稲荷神社の鳥居形状ではないが何かチグハグ

手水舎

境内

熊谷稲荷扁額

参道 明神鳥居
神明社の鳥居形状ではないが謂れはあるのでしょうか

鳥居扁額

山形市の神社へ

本殿

拝殿 神号扁額

拝殿 神号扁額

社務所 授与所

拝殿

拝殿
入母屋造銅板葺三間流向拝

鳳凰

随身門天井板絵 麒麟

随身

随身

鳥除けネット

初重軒木組み

社号扁額

社号標

天照大神宮石塔

尾萬神社

社殿

本殿

豐栄稲荷神社
栄続稲荷神社とは目と鼻の先に鎮座

社殿

神号扁額 旧伊賀町忍者の里

社殿

境内社 稲荷神社

社殿

福満稲荷神社 社号標札

山形県郷土館・文翔館 旧山形縣二代目縣会議事堂(重要文化財)昭和五十九年十二月二十八日指定

記念石塔

おもかる石

境内社 市神神社

扁額

願牛(撫で牛)

参集殿扁額

祈祷受付 授与所

参集殿 社務所

拝殿 一間唐向拝

拝殿扁額

本殿 流造銅板葺

狛犬

手水舎

拝殿
入母屋造銅板葺平入り飾千鳥破風

山形市の神社へ

本殿 切妻流造平入り銅板葺

神額

拝殿 入母屋造銅板葺流向拝

境内池

境内樹木

御神木 夫婦欅 
夫婦円満 家庭円満

出てこい出てこい池の鯉

山形市の神社へ

祭礼社務所

山形市の神社へ

朱鳥居

鳥居扁額

社号標

手水舎

獅子形狛犬阿形

獅子形狛犬吽形

境内社 敷島神社

護國神社会館 山形県神社庁

社務所

境内は敷石(拝殿前の一部を除く)

山形市の神社へ

市指定保存樹・欅に囲まれた社殿

社殿

藤森稲荷神社

公園の奥隅に鎮座している

神社横の藤森公民館 
祭礼時には社務所になるのかも

九月三日 熊野神社の祭礼のお知らせ

山形市の神社へ

御輿殿

車両祓い所?

本殿

普賢神社
普賢菩薩が祀られている 諏訪大明神は普賢菩薩の化身と考えられた(本地垂迹)

普賢神社扁額



諏訪神社
  
山形市諏訪町1-1-55

山形市の神社へ

境内で最も樹齢の高い欅?

  六椹八幡宮
祭神: 誉田別尊(応神天皇)  息長帯姫命(神功皇后)  比咩大神(玉依毘売命)

当神社は古来六椹八幡宮と称し第四十五代・聖武天皇の御代(724~749)の天平年間(729~749、陸奥鎮守府将軍廉按察使・大野東人の創建するところである。
その後、前九年の役に際し、陸奥守鎮守府将軍源頼義、義家父子 勅書を奉じ、陸奥国の豪族・阿部頼良(頼時)、貞任父子を討伐に来たりたる折、六椹の里に八幡宮有ることを知り、「陸奥の苦抜き」に通ずるとして祈願参拝し勝利と平和を招來してより益々有名になったのである。
歴代の山形城主は特に信仰篤く、江戸幕府もまた四百十八石の御朱印を献じて崇敬した。出羽探題・初代斯波(最上)兼頼、宮殿の造営を創め、十一代最上義光を経て鳥居忠恒の代となり、現存する神殿の完成を見るに至ったのである。
爾来近郊近在の尊崇極めてたかく、明治六年五月県社に列せられた。神徳またあらたかにして、各種の祈祷、祈願日とともに旺んにして、神威の昂揚をみるにいたっている。
              案内説明より

天平年中、鎮守府将軍大野朝臣東人の創建と伝える。平安時代康平六年、源頼義、義家前九年の役に際し当地に至り、里人より「この地に椹の木6本有り、故に六椹と称し祀れるは八幡大神也」と聞き、「それ陸奥の苦を抜く」と喜びて厚く戦勝を祈願。争乱平定後、神恩報謝に社殿を造営、絹黒地金泥日章旗一旒を奉納したと伝える。
南北朝時代延文元年、斯波兼頼山形に入部するや、斯波氏元来源氏の名流なるを以て、累代の祈願所と定め社殿を造営。その子孫最上義光、慶長五年関ヶ原合戦の余波戦に上杉軍と戦い勝利、愈々崇敬を厚くし、社殿の修営、軍旗、社殿等を寄進する。
最上氏改易後の寛永七年、山形城主鳥居忠恒宮殿を造営、これ今の本殿と伝え、八双金具に鳥居家家紋「巻鶴」が彫られている。江戸時代、慶安元年以来御朱印四十八石を寄せられ、爾来、保科正之、堀田正亮、秋元涼朝、水野忠精等、歴代藩主から厚く崇敬される。
明治六年五月、山形市最初の県社に列し、同四十年四月、神饌弊帛料供進神社に指定される。 往古より、山形城下南一円を当八幡宮の氏子区域として崇敬され、現在氏子戸数6,500余戸、40余町区に及んでいる。
に、市街地の真中にあっても広大なる境内に樹齢数百年という巨木が多数そびえ、神厳清浄の気に満ちている。
              http://www.u-6kunugi.com/より転載              

戦捷記念碑 明治三十八年日露戦役
題字 海軍大将・東郷平八郎揮毫

車両祓所

住吉神社

梵鐘

北参道鳥居

八幡宮社殿

撫で石

吽形狛犬 

阿形狛犬

社号標

拝殿 入母屋造銅板葺一間唐向拝

拝殿扁額

本殿 銅板葺平入り流造り

社殿扁額 常盤稲荷神社

社殿

稲荷神社

山形市の神社へ

氏子会館

本殿

社号標



福満稲荷神社
  
山形市幸町12-6

山形市の神社へ

唐向拝

向拝 木鼻彫刻

氏子集会場

拝殿
入母屋造銅板葺妻入り唐向拝付

本殿 銅板葺流造

拝殿

社号標

鳥居 
明神型ですが特徴のある山王鳥居ではない

狛犬

市神様石塔

火防神石塔

火防神

大国主神石塔

大国主神(国津神・出雲大社祭神)

  歌懸稲荷神社  主祭神:稲倉魂命  合祀神:大市姫命 大国主命 猿田彦命 大和武尊 火産霊神

当神社は、出羽探題山形城主・斯波兼頼(最上)が山形城の守護神として城内に建立したのがそのはじめと伝えられています。それより最上氏九代目・最上義定が山形城の内部に社殿を建て、十一代・最上義光の時、天童城主との開戦に際して勝利を祈願するなど、最上家代々の信仰が篤いものがありました。城主や城下の人々が、短冊に歌を書いて神社に奉納する風習があり、歌を詠まないものは渡らせない橋も付近にはあったことから、歌懸の名が残ったと伝えられています。
元和八年1622)、最上家が改易されて山形に移封となった鳥居忠政は、人心一新を図り、部内稲荷口(現 山形駅付近)に鎮座した当神社を三之丸の外の現在地に遷しました。それ以降、稲荷社ご縁日である毎月十日に定期位置が門前で開かれ、十日町の名の起こりとなり、歳の最初の十日一(一月十日)を初市とよ呼ぶなど、城下町の人々と深く結びつき信仰をあつめ、現在に至っています。
当神社が所蔵しているものに山形城の城下絵図がありますが、これは元和年間(1615~1624)の城下絵図を天明年間(1781~1789)頃に写したものと伝わっています。それによりますと当神社は現在と同じ位置、三之丸十日町口のたもとに吉祥院として描かれています。神仏習合時代のことで、当神社は五仏山如来寺吉祥院を別当寺とした神社でありました。明治維新の神仏分離令により全国で吹き荒れた廃仏毀釈の流れの中で如来寺吉祥院は廃寺となりましたが、境内社・稲荷神社は歌懸稲荷神社と称して地域の尊崇されております。
              案内説明より          

山形市の神社へ

本殿

手水舎

社務所 授与所

拝殿 扁額

拝殿

三之鳥居扁額

社号標と一之鳥居

二之鳥居

三之鳥居

  金井之水
平安時代、寶沢村(東澤)に炭焼籐太という長者があり、其の子に吉次というものがあった。彼は鉱山師であるところにより金売吉次と呼ばれていたが、この泉で金を洗ったので、それより「金井水」と称するようになったと伝えられている。又、この金井水より荘名ができ、この辺り一帯を金井荘と呼ぶようになったという。
城輪神社は、鳥海月山両所宮の摂社で、社殿は一間社隅木入り春日造り、銅板葺の建物です。梁間十尺六寸(321㎝)桁行九尺五寸(288㎝)を測ります。向拝の柱や蟇股、木鼻などは古式で、天正年間(1573~1592)頃の特徴が見られ、正面の板扉の内側に、漆塗り金箔置きで「おさめたてまつる 天正七 己 卯年 林鐘仲八日云々」の銘文が確認されていることから、創建は安土・桃山時代に遡るものと考えられます。
その他の工法には、江戸時代中期以降の特徴がみられるため、その頃に大改修され旧建築部材を再利用したものと推測されます。この城輪神社社殿は、鳥海月山両所宮本殿と建築手法が酷似しており、創建年代や当地方の建築技術を知るうえでも貴重な建造物です。
  末社・愛宕神社  祭神:火産霊神(迦具土神)
火があって人々の生活がはじまります。日は毎日の暮らしの中心で、火が無ければ何も生産できませんが、一度その火を粗末に扱えば大変な災いをうけます。「火産霊神のおわす所生活あり」です。防火即ち火伏の神として愛宕大権現・秋葉大権現として信心をあつめております。
  末社・若宮八幡神社  祭神:誉田別命(応神天皇) 神功皇后
古来戦えば必ず勝つという戦いの神々で、今日では入学、就職等の祈願をあつめ、夫婦の神であるために子授け、子育ての神としても祭られています。また同名の若宮神社で、応神天皇の子である仁徳天皇(八幡神の子で若宮と称す)を祀る神社もある。
  末社・熊野神社  祭神:熊野大神
熊野三神(熊野本宮・家都御子大神、熊野新宮・熊野速玉大神、 熊野那智・熊野夫須美大神)の御分霊を祀る。何事の願いも成就すると云われる霊験あらたかな神様です。特に無病息災を本願としております。
               案内説明より



熊野神社
  
山形市七日町5-8-17



六椹八幡神社
  
山形市鉄砲町1-3-5

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  諏訪神社
祭神: 建御名方命、大国主命 事代主命 (出雲系の神々 神話上では父と子)

文明六年(1474)この地方は晴天が続き、水がすっかり枯れ果ててしまっていました。その影響は人々の生活は勿論のこと農作物にもおよび、収穫を期待することはほとんどできないありさまでした。あてにしていた農作物が採れず、精神的にも肉体的にも苦しみ、疲れ切っていました。
そんなある日、山形城主・斯波右京太夫義春(最上氏五代)の夢の中に「汝信仰の心あらば辰己(東南)の方角樹木蒼にして荘厳の城に遷座せよ」とのお告げがありました。当時この辺りは河原になっており、縁がありませんでした。まさに神に祈る思いで早速起工に踏み切り、雨乞いも続けられました。
一日目が過ぎ、二日目が過ぎ、三日目の雨乞いの最中に突然空が曇り、大雨が降り出しました。待ちにまった大雨に城主も農民も大喜びをしました。この雨によって収穫物の収穫が行われ、茄子などの野菜もたくさん採れました。それ以来、人々は茄子を神の御加護と仰ぎ今日まで言い伝えてきました。この時に祀った神が諏訪の神で、諏訪神社の創建でした。
今でも例大祭の折には茄子を供えて人々の願を請願しております。また、参拝者は茄子を五個ほど持参しお供えし、お供えの中から二個ほど持ち帰り神の御加護を頂く習慣が残っています。平成十四年に諏訪神社前の道路拡張に伴い境内整備を行い、今の社殿を建立しました。
               諏訪神社案内説明より            

境内

境内

弁天池

拝殿

拝殿社号扁額

拝殿・本殿と御神木

社号標 
村社の刻字が消されていた

狛犬

手水舎

参道 鳥居

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手水舎

参道

社号標

拝殿

拝殿扁額

境内社



尾萬稲荷神社 
 
山形市円応寺町5-31

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境内樹木 市保存樹・銀杏
ぎんなん稲荷の別称がある

社号標

栄続稲荷神社



榮續稲荷神社
  
山形市宮町5-2-6

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狛犬

拝殿 入母屋造桟瓦葺

里之宮 湯殿山神社

神門

神門 社号扁額

御祭神

熊野神社

社号標

狛犬

手水舎

参集殿 授与所

境内社

稲倉稲荷神社

社殿

旧社号標 招魂社

拝殿前 狛犬

拝殿

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稲荷神社扁額

稲荷神社
福禄寿 寿老人が祀られている

境内社鳥居

御神木

鳥居扁額

六椹八幡宮

祈祷・御守札・御朱印授与所

社務所

手水舎

境内樹木

境内樹木

鳥居と拝殿

拝殿扁額

地蔵堂 子育地蔵尊

神明社(伊勢神宮分霊)

御輿殿

山形城三之丸外郭土塁跡 (国指定史跡)昭和六十二年七月九日指定

一之鳥居扁額

一之鳥居 
大正十四乙丑年五月建立