曹洞宗 蟠龍山隣松寺  弘前市西茂森2-12-1

  浄土宗貞昌寺
月窓山栄源院貞昌寺の創建は永禄年間(1558~1570)。後の初代弘前藩主となる津軽為信(大浦為信)が生母桂屋貞昌大姉の菩提を弔う為に開かれたのが始まりと伝えられています。寺号は生母の戒名に因んだもので当初は弘前藩領・津軽郡大光寺村(現在の平川市)に建立され、寺領三十石が寄進されていました。
慶長十三年(1608)に二代藩主津軽信枚の生母栄源院殿月窓妙林大姉が死去すると当寺に葬られ、戒名から山号が月窓山に改められ、さらに三十石の寺号が加増されました。慶長十六年(1611)に弘前城が完成した前後に弘前城下の寺町に移されましたが、慶安二年(1649)に寺町が火災により焼失すると弘前城の南方の防衛施設として新寺町の町割りが行われ、慶安三年(1650)に現在地に移されたと思われます。
その他にも貞昌寺には津軽為信の娘とされる伊喜や三代藩主信義生母の荘巌院(辰姫:石田三成の娘、豊臣秀吉の正室寧々・高台院の養女、津軽信枚の側室、元和九年:1623年死去)など津軽家縁の人々が葬られた為、歴代津軽家から庇護され、弘前藩内の浄土宗寺院の中で四ヶ方丈(誓願寺・本覚寺・法王寺)の格式を持ち、宝永三年(1706)には四代藩主津軽信政により堂宇の再建と境内の整備が行われています。
新寺町の中でも重要な位置に配置されたとされ、それを暗示するように造園された貞昌寺庭園は、鑑賞式と回遊式を兼ねた築山泉水庭として名を馳せ、特に領内を縮小した構成になっていて、岩木山や岩木川、津軽平野を模した縮景式庭園でさらに背後の山々を借景として取り入れています。貞昌寺庭園は宝永三年(1706)に信政が境内を整備した前後に、野本道玄(京都出身の数寄者)によって作庭されたものとも云われ、3240㎡が平成十四年(2002)に青森県指定名勝に指定されています。
寺宝である絹本著色当麻曼荼羅図は鎌倉時代後期に制作されたもので奈良当麻寺の浄土図を模し、4分の1の大きさであることから「四分一曼荼羅」と呼ばれています。絹本著色当麻曼荼羅図は作風に優れ制作当時の特徴をよく表しているものとして、
平成三年19911)に青森県重宝に指定されています。木造釈迦涅槃像(附:胎内納入文書二十三葉)は延宝八年(1680)に彫刻されたもので、像長さ約220cm、寄木造、漆箔、昭和五十三年(1978)に弘前市指定文化財に指定されています。
                青森県歴史観光より
禅林街 曹洞宗寺院

長勝寺    宗徳寺    革秀寺    赤門    藤先寺    月峰院    天津院   


常源寺    恵林寺    盛雲院    永泉寺    正傳寺    川龍寺    正光寺 


安盛寺    泉光院    京徳寺    海蔵寺    宝積院    鳳松院    照源寺 


寿昌院    清安寺    勝岳寺    長徳寺    嶺松院    蘭庭高徳院    宝泉院 


陽光院    福寿院    鱗松寺    万蔵寺    梅林寺    普門院 
 



新寺町寺院

真言宗智山派最勝院    天台宗袋宮寺    浄土真宗大谷派圓明寺    天台宗報恩寺 


日蓮宗法立寺    日蓮宗・本行寺 ・日蓮宗・満行寺・日蓮宗・受源院     浄土宗貞昌寺 


浄土宗・徳増寺・浄土宗・西福寺    浄土真宗大谷派眞教寺    浄土真宗大谷派正蓮寺


浄土真宗大谷派教應寺
    浄土宗・西光寺・浄土宗・天徳寺・浄土宗・遍照寺  


浄土真宗大谷派専徳寺    浄土真宗大谷派浄龍寺    浄土真宗大谷派明教寺


浄土宗誓願寺    浄土宗龍泉寺    浄土宗専求院     
真言宗智山派求聞寺

史跡 仙台城跡

感仙殿
伊達忠宗は慶長四年(1599)大阪に生まれ、寛永十三年(1636)政宗の薨去により三十八歳で二代藩主となる。忠宗は練成された人格と法治主義により、仙台藩の実質的な基礎を確立し、万時元年(1658)七月十二日六十歳にて、仙台城に没し、霊屋である感仙殿は、寛文四年(1664)四代綱村の時代に竣工した。昭和六年(1931)感仙殿は国宝に指定されたが、昭和二十年戦災により焼失した。昭和六十年瑞鳳殿に引き続き再建された。本殿左右の宝篋印塔は、忠宗に殉死した家臣十二名、陪臣四名の墓と伝えられている。

福島県
花見山公園・・・福島市     会津若松城の桜・蒲生氏郷の墓(興徳寺)・・・会津若松市 

会津若松城・御薬園・蒲生氏郷の墓・・・会津若松市 参照: 温泉その10→磐梯温泉

会津若松武家屋敷・松平家廟所・天寧寺・飯盛山

会津若松城・・・会津若松市
 参照: 温泉その11→東山温泉

会津地方の歴史と観光・・・保科正之墓所・喜多方と猪苗代 参照: 温泉その5→東山温泉

滝桜・・・福島県三春町    2013年 滝桜 参照: 温泉その5→東山温泉

道の奥への入口・・・白河関

塔のへつりと大内宿・磐梯山 参照: 温泉その10→磐梯温泉

蔵王山頂・吾妻スカイラインと二本松菊人形 参照: 温泉その5→飯坂温

秋田県
角館 桜・・・仙北市      角館 武家屋敷 参照: 温泉その2→あつみ温泉

青森県
弘前城 桜・・・弘前市      冬の弘前・・・弘前市 参照:温泉その8→ドーミーイン弘前

津軽家菩提寺と市内寺院・・・弘前市 

弘前市の神社 市内巡り 弘前城・・・弘前市 東北のいろいろ11
 
恐山菩提寺・・・むつ市 東北のいろいろ11
   
津軽鉄道ストーブ列車と太宰治斜陽館 参照:サンルート五所川原

五能線・・・青森県・秋田県 参照:八戸温泉

五能線・・・青森県・秋田県
 参照:黄金崎不老不死温泉

五所川原立佞武多の館 参照:サンルート五所川原

五所川原立佞武多の館 五能線車両 参照:鰺ヶ沢温泉水軍の宿


山内丸山遺跡・・青森市 参照:酸ヶ湯温泉

青函連絡船八甲田丸・・・青森市 参照:鰺ヶ沢温泉

岩手県
中尊寺・・・岩手県平泉町

厳美渓・・・岩手県一関市

宮城県
青葉城 瑞鳳殿・・・仙台市

鳴子峡・・・大崎市  参照: 温泉その7→中山平温泉

鳴子峡・尿前の関・・・大崎市  参照: 温泉その3→鳴子温泉

山形県
上杉神社・・・米沢市  上杉家・直江家廟所  参照: 温泉その6→銀山温泉

米沢市の寺社  東北のいろいろ12・13

   おびんずるさま
賓頭盧尊者は、釈迦の弟子である五百羅漢の内、大一番におかれる弟子です。賓頭盧尊者が、五百人の弟子の内大一番に位置しているのは、数多い羅漢の中でも別格であり、神通力に優れ、また病気を治す力の持ち主として、インドをはじめ、広く中国、日本でも『なでぼとけさま』として篤く信仰されています。足や腰の不自由な方は、賓頭盧尊者の足や腰をさすって「南無阿弥陀仏」と唱えながら自分の足や腰をさすり、目の不自由な方は賓頭盧尊者の目をさすって「南無阿弥陀仏」と唱えながら自分の目をさすり、頭のよくなることを願う時には賓頭盧尊者の頭を撫で「南無阿弥陀仏」と唱えながら自らはもとより、わが子、わが孫の頭を撫でると利発な子になると云われ、良き子孫に恵まれると伝えられています。
この賓頭盧尊者は、弘前市瓦ヶ町にお住いの篤信の方から寄贈されたものです。霊験あらたかな賓頭盧尊者のお力を徳増寺檀家信徒をはじめ、病に悩む多くに人たちに神通力を与えてくださり、病が治癒する事を願っております。     徳増寺住職
                案内説明より

      

東北いろいろ

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門前 南無法蓮華教石塔

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  誓願寺山門  国指定重要文化財
この山門は、京都誓願寺山門を模し、江戸時代中期に建立されたと推定されているものである。誓願寺は、慶長年間(1596~1615)に南津軽郡大光寺より本寺に移されたのであるが、以後数次の火災に遭遇した。しかし幸いにも山門は片扉を失っただけで今日まで伝えられている。
こけら葺き、妻入りの重層四脚門で、高さ六・九メートル、正面に切妻破風の妻を配置し、少しも小さく感じさせない重量感あふれる力作で、桃山時代の手法を残し、珍しい形と共に地方色豊かな建物として高く評価されている。屋根軒下部分に飾られている懸魚に鶴と亀とが付けられていることから、鶴亀門と呼ばれ市民に親しまれているものである。

  弘前藩初代藩主津軽為信公の軍師・沼田面松斎の墓碑
戦国の動乱期、陸奥の一角に突如大空に翔立つ鷹のように現れた一人の英雄がいる。弘前藩祖・津軽為信公である。前世からの宿縁に結ばれたかのように、固い主従の契りを結んだ軍師・田沼面松斎は、鬼謀秘計を駆使し、津軽平定という大きな夢の実現に尽力した。
尚、易学・風水・密教などの該博な知識を生かし、地方の一大名には過ぎた程の、堅固にして壮麗な城と城下町の縄張りを果たした。為信公没後、その遺言によって二代藩主・信枚公に仕え、天海大僧正との縁を活かして幕府との密接な関係を確立した。弘前藩の永代安泰の礎を築いた功績は計り知れないものがある。

  津軽為信公軍師・沼田面松斎顕彰像
誓願寺に眠る沼田面松斎祐光は、上野国(群馬県)沼田庄領主・沼田五郎家政の末裔と云われている。足利将軍家の重臣で、歌人としても知られている細川藤孝(幽斎)に仕えた後、浪人となる。永禄十一年(1568)弘前藩祖・津軽為信の軍師となった。
面松斎は、易学・天文学・兵法に秀で、識見深謀の才を発揮し、為信公の津軽統一の大望に軍師として大いに貢献したと云われている。慶長八年(1603)に新しい居城地の選定を命じられ、面松斎は、位置・河川・地形から嵩岡の地(現弘前城)こそ四神相応の地と進言し、町割りも施した。
津軽為信没後、弘前城の築城は、二代藩主・津軽信枚に受け継がれ、慶長十六年(1611)に城が完成した。また近隣から社寺も移転し町家も形成され、城下町として栄える事となった。面松斎は慶長十七年(1612)に歿し、誓願寺に葬られ、その際授けられた戒名は「清光院殿面松斎大居士」である。院殿大居士号はは、藩主意外には許されぬ格式高いものである。津軽信枚公が面松斎の功績を如何に評価していたかが推察できる。
ここに軍田沼面松斎を永久に顕彰するため、菩提寺である光明山誓願寺に石像を建立した。
                案内説明より

      

曹洞宗 唐糸山万蔵寺  弘前市西茂森1-21-1

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山門

山門 院号標札

  曹洞宗盛雲院
金龍山青雲寺は、元亀年間(1570~1573)に創建されたと伝える。開基は、乳井美作と美作夫人となっているが、美作は寛文二年(1662)、夫人は正保二年(1645)に亡くなっているので、時代が合わず、実際は美作の祖父・福王寺玄蕃もしくは父・大隅の創建であると推定されている。山号は金龍山であり、大鰐町三ツ目内に在った金龍寺に由来していると云われている。大鰐町金龍寺の末寺であったが、金龍寺が廃寺となった後は、耕春院(現 耕春山宗徳寺)の末寺となって現在に至っている。
盛雲院は昔 谷の寺 と呼ばれた頃があったとされるがその理由と云われているのは。慶長十五年(1610)に弘前城築城を始めたとされる弘前藩二代藩主・津軽信枚が、津軽の禅宗寺院を現在の禅林街に集結させる際、盛雲院は「できれば移りたくない」との言葉を発したため、禅林街三十三ヶ寺の中で最も移転が遅くなり、結果最も悪い場所が与えられ、移ることになった。
明治三十七年(1903)旧正月十六日、本堂裏からの不審火による出火で盛雲院は全焼した。この火災で、当時の住職・徳隣和尚が全身に火傷を負い亡くなっている。明治四十年になって本堂を建立した。その後約七十年という年月で老朽化が進み、昭和五十三年に新たに建立したのが現在の本堂である。
                  盛雲院案内説明より
       

禅林街赤門

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本堂 入母屋造銅板葺三間唐向拝

山門 院号標札

境内樹木 赤松

お堂 安置される仏は?

庫裡

護摩堂扁額 子安大善神?
子安鬼子母神を祀る

山門 内参道より

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曹洞宗 津軽山革秀寺

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山門入母屋造銅板葺三間一戸二重門

禅林街黒門手前の右側朱塗門(赤門)を入った裏禅林街?の最奥に位置している宗徳寺構の中心寺院。
また、慶長五年(1600)九月、関ヶ原の役後、石田三成直系が身を寄せて津軽家に仕え、その系統を守ったことでも有名な寺院で、豊臣と三成の名と墓地を守っている。
JR東日本「大人の休日」吉永小百合CMのフィルムに登場する禅宗寺院です。

山務所

二層部木組みと桟唐戸

曹洞宗 太平山長勝寺  弘前市西茂森1-23-8

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上杉神社  御祭神 上杉謙信公

天正6年(1578)3月13日、戦国の名将上杉謙信公が春日山城に49歳で急逝されたとき、その遺骸を城中不布き庵に仏式を以て鎮祭されたのであるが、2代景勝公が会津を径て米沢に移封されるに当たり、祠堂を米沢城内に移して仏祭を厳修し爾来260年におよんだ。明治の世を迎え祠堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して、上杉神社と称し県社に列し、同9年には新たに神殿成り初めて遷座祭を行う。
明治35年、往時の勤王の功により別格官幣社に列せられるが、(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。
大正8年米沢市の大火後同12年米沢出身建築家の泰斗伊東忠太博士の設計により、現在の神殿を始め一切を竣成したのである。境内は旧米沢城址本丸跡で例祭は4月29日(没年3月13日を太陽暦に換算)

  松岬神社
明治35年(1902)上杉神社から上杉鷹山を分祀し「松岬神社」と称し、大正元年に社殿を建立した。大正12年に米沢藩初代藩主の上杉景勝を合祀、昭和13年には景勝の重臣・直江兼続、鷹山の師・細井平洲、鷹山の藩政改革を補佐した功臣・竹俣当綱と莅戸善政を合祀して、祭神は六柱となった。社号は米沢城の別称「松岬城」に由来し、境内には鷹山が隠居した際、藩主治広に与えた藩主の心得三か条「伝国の辞」の石碑などが立つ。

  伝国の辞
一 国家は先祖より子孫に伝え候国家にして、我私すべきものにはこれ無く候
二 人民は国家に属したる人民にして 我私すべきものにはこれ無く候
三 国家人民のために立てたる君にて 君のために立てたる国家人民にはこれ無く候

天明五巳年 二月七日   治広殿 御机前
                        治憲 (鷹山)

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上杉神社 uesugijinjya

本丸石垣

政宗像

八幡堂

やおよろずの神々の中で、八幡神は最も早く仏教にとけ込み、八幡だ御菩薩と尊崇されてまいりました。祭神を応神天皇とする伝統的信仰から、皇室の祖神、国家の守護神として、ことに源氏の氏神として、八幡宮は諸国に造建され、広く信仰されてきました。
天喜五年(1057)鎮守府将軍源頼義、義家、安倍氏追討のためこの地に至り、ここ月見坂で戦勝を祈願しました。いわゆる前九年の戦いです。かくて長い戦いを収め、勝利の記念に京都石清水から迎えたのが鎌倉の八幡宮です。(のちそれを頼朝が鶴岡に移建)鎌倉時代「吾妻鏡」の中に「中尊寺年中恒例の法会」として「八月放生会」と見えます。これは八月十五日の宇佐、石清水、鶴岡など八幡宮における放生会の事例からも、当社八幡神前における法会厳修とみなされ、以って当山におけるその神威の主要なることがうかがわれます。明治の神仏分離で、八幡堂と称し阿弥陀如来尊像も合祀、庶民の熱心な御信仰をいただいております。
                別当  中尊寺塔中  別所坊

松本家  秋田県指定文化財 
仙北市角館町小人町4
Tel: 0187-43-3384 (仙北市文化財課)

入館料: 無料
開館時間: 9.00~16.30
休日: 無休 (11月~4月冬期休館)

岩橋家  秋田県指定文化財
(角館町観光協会 Tel: 0187-54-2700)
仙北市角館町東勝楽丁3-1
Tel: 0187-43-3384 (仙北市文化財課)
入館料: 無料  開館時間: 9.00~16.30
休日: 無休(12月~4月冬期休館)

虚空蔵堂

臥牛と寅 虚空蔵菩薩は
牛年と寅年生まれの守り本尊

浄土宗 諸光山龍泉寺  弘前市新町248

山門 鉄板葺薬医門
旧誓願寺末寺

山門 寺号標札

本堂 本尊阿弥陀如来

庫裡

地蔵堂

地蔵堂 扁額

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浄土宗 光明山無量院誓願寺  弘前市新町247

山門 切妻造杮葺妻入り四脚門

山門 飾軒屋根 左右の亀

山門 切妻懸魚の鶴

山門

寺号標札

本堂

本堂向拝扁額

庫裡 会館

筆塚

歴代住職供養墓

中興開山供養墓
神蓮社良悦上人恵音大和尚

境内墓地

観音堂 観世音菩薩と板碑

観音堂 南無阿弥陀仏木塔

境内櫻 ソメイヨシノ

沼田面松斎顕彰像

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梵鐘

山門 薬医門

山門

山門 山号扁額

武田源左衛門定清之墓がある
承陽大師(道元禅師)供養石塔

双体道祖神?
青森県ではこれまで見たことがない

曹洞宗 嶺應山梅林寺  弘前市西茂森1-22-1

有縁無縁三界萬霊石塔

お庭の掃除をしなくちゃ

犬猫動物供養塚

鐘楼

山門 寺号標札

不動明王

不動明王 半身のお顔だけ

六躰地蔵尊

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疲れたから一休み

山門 銅板葺薬医門 仁王像

本堂 入母屋造銅板葺千鳥破風唐向拝

山門 銅板葺薬医門

本堂 入母屋造銅板葺唐向拝

本堂 隅棟斗栱木組

本堂 唐向拝虹梁の龍彫刻

庫裡 会館

観音像

十一面観音菩薩石像 津軽四番とある

十一面観世音菩薩石像
津軽三番とある

境内祠

参道杉並木 北風の成せるわざ

地蔵堂扁額 応慈悲濟世?

本堂 向拝柱木鼻の獅子と獏

千躰地蔵菩薩を安置

山門 薬医門と寺号石標

山門 寺号標札

庫裡

本堂 入母屋造銅板葺千鳥向拝

本堂 山号扁額

千鳥向拝彫刻 龍と鳳

曹洞宗 黒長山福壽院  弘前市西茂森1-20-1

山門 銅板葺薬医門

山門 院号標札

雪帽子の庭

本堂

延命地蔵尊安置 悪戸御前建立とある
悪戸御前は三代藩主津軽信義の側室
悪戸とは津軽郡悪戸村で御前の出生地

庫裡

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曹洞宗 櫻庭山陽光院  弘前市西茂森2-11-1

十一面観世音菩薩石像
津軽五番とある

地蔵堂

庫裡 会館

本堂内 金剛力士吽形像

本堂内 金剛力士阿形像

本堂 切妻造銅板葺一間唐向拝

本堂 山号扁額

津軽三十三観音二番札所石標
清水観音(千手観世音菩薩)

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曹洞宗 赤倉山寶泉院  弘前市西茂森2-10-1

山門 銅板葺薬医門と山号石標

山門 赤門

庫裡

本堂 RC造銅板葺

本堂 山号扁額

境内 稲荷社?

寒かろう一休さん

十一面観世音菩薩石像
津軽八番とある

水かけ延命地蔵菩薩

山門銅板葺薬医門

山門 山号扁額

さすり(撫)大黒天(七福神大黒)

金毘羅権現堂

金毘羅権現堂扁額

山門 銅板葺薬医門 

山号院号石標

山門

本堂

庫裡

境内赤松樹

曹洞宗 金毘羅山高徳院  弘前市西茂森1-19-1

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地蔵堂
地蔵菩薩が多数安置
風車やぬいぐるみ等々が置かれているので水子供養の地蔵菩薩かと思われる

曹洞宗 金平山蘭庭院  弘前市西茂森2-9-1

山門 銅板葺薬医門と山号石標

山門 黒門

山門 山号院号標札

本堂 入母屋造銅板葺唐向拝

本堂 山号扁額

本堂 向拝飾蟇股

庫裡

境内社 祭神?

地蔵菩薩

十一面観世音菩薩石像
津軽九番とある

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曹洞宗 龍澤山嶺松院  弘前市西茂森1-18-1

門前 山号院号標

庫裡

聖観世音菩薩石像
津軽十番とある

本堂 寄棟造
本瓦葺に似せているが材料が判らない

本堂 新築です

本堂 軒の木組み

山門 銅板葺薬医門

庫裡

地蔵堂

山門 銅板葺薬医門

門前 秋葉大権現石標

曹洞宗 大浦山海蔵寺  弘前市西茂森2-4-3

山門 銅板葺薬医門

寺号石標

山門 格天井の花鳥風月画

雪囲いの庭

本堂

本堂 山号扁額

庫裡

地蔵 虚空蔵堂

地蔵・虚空蔵堂扁額
視王地蔵大菩薩 福浦虚空蔵菩薩

多くの扁額が設置されている

本堂前の樅の木?

曹洞宗 別處山寶積院  弘前市西茂森2-5-1

山号寺号標札

山門 格天井仏画?

山門 門扉透かし彫刻

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曹洞宗 楽王山正傳寺  弘前市西茂森1-9-1

参道の植樹

稲荷社

寺号標

本堂 入母屋造銅板葺唐向拝

向拝彫刻

本堂 山号扁額

庫裡 会館

曹洞宗 石流山川龍院  弘前市西茂森1-10-1

山門

山門院号

山門 十四弁菊紋 由緒は分らない

本堂 入母屋造銅板葺唐向拝

向拝彫刻

庫裡

十一面観音石像 津軽二十八番とある

曹洞宗 松種山正光寺  弘前市西茂森1-11-1

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曹洞宗 金屋山永泉寺  弘前市西茂森1-8-1

寺号標札

本堂 デザイナーズテンプル

弘前百銘木指定「おおもみじ」
樹齢約四百年

小堂

本堂左側 佛足石 雪に埋もれて

本堂右側 水琴窟 雪に埋もれて

  曹洞宗 永泉寺
本堂前にある佛足石と水琴窟は見た如く雪に埋もれていた。案内説明標だけがそこに存在していることを表していたので記されていることを以下に。
  佛足石
ブッダ(釈迦)の足跡を彫ったものである。仏像が制作される以前からブッタそのものを表現したものとして礼拝の対象にされてきました。この佛足石の下には釈尊成道の聖地・インドブッタガヤの近郊尼蓮禅河の砂を埋めてあります。
  水琴窟「永泉の雫」
江戸時代、つくばい(蹲踞)、縁先の手水鉢から溢れた水が琴のような音を奏でたことから生まれたと云われています。地中に伏せたカメを埋め、永泉寺の井戸から湧き出た水が滴り落ちる水滴となり反響して美しい音が聴こえてきます。

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庫裡 会館

本堂 山号扁額

庫裡 客殿



曹洞宗 白花山常源寺  
弘前市西茂森1-5-1

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地蔵堂

子安 子育地蔵尊安置

赤門 棟門

山門禁葷酒

曹洞宗 長雲山藤先寺  弘前市西茂森1-3-2

境内 秋葉大権現を祀る

本堂 虹梁の彫刻

山門 切妻造銅板葺一間一戸薬医門

山門 寺号標札

境内墓地

本堂 入母屋造銅板葺千鳥向拝

観世音菩薩石像 津軽二十一番とある
禅林街三十三寺院を津軽三十三観音
になぞらえたものか?

曹洞宗 貴峰山月峰院  弘前市西茂森1-2-6

切妻造銅板葺薬医門

地蔵菩薩石像

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浄土真宗大谷派 三光山明教寺  弘前市新寺町157

本堂 切妻造鋼板葺妻入り

本堂 寺号標

庫裡

浄土真宗大谷派 専徳寺旧塔頭寺院  浄龍寺  明教寺

浄土真宗大谷派 和秀山浄龍寺  弘前市新寺町156

山門 切妻鋼板葺薬医門

山門 寺号標札

庫裡

本堂 入母屋造茅葺妻入り向拝

本堂 切妻懸魚飾蟇股

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浄土真宗大谷派 一乗山専徳寺  
弘前市新寺町156

本堂 入母屋造銅板葺三間流向拝

専徳寺案内看板

山門 薬医門

境内の赤松

本堂 山号扁額

本堂大棟のし
東本願寺大谷 東六条八葉藤

本堂大棟のし
東本願寺寺紋 抱牡丹

向拝木鼻獅子吽形

向拝木鼻獅子阿形

本堂 虹梁の彫刻

鐘楼

梵鐘

前庭

庫裡 客殿(会館)

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浄土真宗大谷派 無量山教應寺  弘前市新寺町127

教應寺

寺号標札

境内墓地

本堂

庫裡

浄土真宗大谷派 光明山正蓮寺  弘前市新寺町126

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浄土真宗大谷派 眞教寺旧塔頭寺院  正蓮寺  教應寺

山門 鋼鈑葺薬医門

山門寺号標札

本堂前雪だまり

本堂 入母屋造銅板葺流向拝

庫裡



浄土真宗大谷派 法輪山眞教寺  
弘前市新寺町124

  浄土真宗大谷派 眞教寺
天文年間(1532~1555)津軽郡坪貝村(現 弘前市岩木)に創建されたと伝えられている。変遷の後弘前城東方の寺町(元寺町)に移り、慶安二年寺町火災により弘前城南方の現在地新寺町に寺領を賜り移った。眞教寺にある庭園は弘前市の保存緑地として指定されており、その理由として「眞教寺は新寺町寺院街に位置し、庭園としての面積も大きく極めてよく整備された寺院庭園の一つとして、また緑地として貴重である」と記されている。
                案内説明より

赤松

老桜

山門

山門寺号標札

雪の境内墓地

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

木鼻 獅子頭彫刻

庫裡 客殿

向拝虹梁彫刻

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浄土宗 大福山天徳寺  弘前市新寺町113

天徳寺 柱門

寺号標札

宗祖法然上人(圓光大師)報恩紀念

本堂

本堂 山号扁額

本堂 大棟

庫裡 会館 

浄土宗 光明山遍照寺  弘前市新寺町107

山門 銅板葺一間一戸薬医門 

山門 寺号標札

本堂 入母屋造銅板葺

閻魔堂

浄土宗 行岳山金光院西光寺  弘前市新寺町109

山門 一間一戸高麗門 寺号標札

山門脇塀看板

西光寺開山 金光上人八百年遠忌
(平成二十八年)

本堂

庫裡

  青森県指定有形文化財(県重宝) 西光寺木彫阿弥陀如来立像 (昭和三十一年五月十四日指定)
中世奥羽浄土宗布教で名高い法然上人の直弟子・金光上人が、外ヶ浜の川(蓬田村阿弥陀川)から引き上げて祀ったという伝承を持つ一尺六寸像として造られた像である。寄木造漆箔玉眼の構造だが、表面が燻煙のため当初の箔や玉眼は推定に基づいている。左肩から袈裟を吊る服制は必ずしも古様な特徴ではないため、制作年代は江戸時代以前と大まかに推定されている。細かな造作を見せる挙身光の光背とと台座は江戸時代後半の補作である。なお、西光寺には文化十三年(1816)に江戸京橋の仏師・小林長五郎が制作した金光上人の坐像も伝わっている。
また、東津軽郡蓬田村の村史には金光上人と阿弥陀川について以下の記述がある。金光上人の津軽における経路は、南部の遠野から秋田大館、能代、土崎を経て阿弥陀川に出で阿弥陀像を拾いあげ、これを背負われて、津軽における念仏弘道がはじまるのである。
金光上人が阿弥陀川で阿弥陀像を拾いあげたことについて、西光寺文献を参照にして記すると、浄土宗の開祖法然上人の弟子金光上人は霊無のお告げにより「阿弥陀如来が汝津軽の外ヶ浜に至れば必ず逢わん」と三日、三晩続けて同様の夢を見たので上人が遠く尋ね来り、遂に承元四年津軽外ヶ浜蓬田村にたどりつき、一介の漁夫に問うて曰く、この辺で何か変ったことがないかと尋ねたるに漁夫曰く、この村の端れの川に夜になると毎晩川の中から光りを発すると云う。村人はこれを怖れ怪んで誰一人其所を通る人もないと云う。
この話を聞くや上人はこれこそ夢のお告げの阿弥陀如来であろうと、村の人々と力を合せて川を掘り探させたところ、暫にして上人様の手にした鍬に手応えがあった。早速拾いあげてみると一つの立派な筥が現われ、筥を開いてみると阿弥陀如来像であった。この尊像は現今弘前市新寺町西光寺にあり、昭和三十一年五月十四日青森県文化財に指定された。また爾来この部落を阿弥陀川村と云い、川を阿弥陀川と称するにいたった。
                   青森県文化財案内説明より

浄土宗 松林山西福寺  弘前市新寺町110

宗祖圓光大師七百年遠忌報恩紀念石塔

本堂

柱門

寺号標札

庫裡

   青森県指定有形文化財(県重宝)西福寺円空仏  
     十一面観世音菩薩立像  地蔵菩薩立像 (昭和三十七年六月二十九日指定)
青森県内に円空仏と云われているものは十七体あるが、二体を安置するのは恐山菩提寺と西福寺のみである。寛文七年(1667)頃、蝦夷地での造像修行の後、弘前城下再訪時に刻んだものと云われている。等身大に近い半肉掘りの形状の立像は、多数の円空仏の中でも津軽・下北と秋田に集中しており、良材に恵まれたこととそれらの地域から拝像としての制作依頼があったためと思われる。北日本の円空仏では珍しい地蔵菩薩立像が殊に印象的で、胸前に宝珠を捧げるシンプルな像容がかえって礼拝者に安心感を強く与えている。
                青森県文化財案内説明より

山門 切妻造銅板葺妻入門

山門 山号扁額

山門 寺号標札

延命地蔵尊

山門 懸魚

佛足跡尊石

庫裡

賓頭盧尊者

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

浄土宗 縁亀山徳増寺  弘前市新寺町112-1

浄土宗 旧貞昌寺境内塔頭寺院及び境外塔頭寺院


徳増寺  西福寺  西光寺  天徳寺  遍照寺

本堂

本堂山号扁額

庫裡

ソメイヨシノ老木

慈母観世院菩薩

墓石 燈籠雪帽子

法然上人四百八十年 
圓光大師号御賜紀念碑  
諡号・天下上人無極道心者
 

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浄土宗 月窓山貞昌寺  弘前市新寺町108

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   日蓮宗 本行寺
本行時は、天正六年(1578)ころに津軽為信(後弘前藩初代藩主)が,京都伏見・日蓮宗 深草山宝塔寺の僧日健上人を迎えて、堀越城内に建立したのが始まりと伝えられている。その後、慶長十六年(1611)に弘前寺町(現 元寺町)に移り、やがて現在地に移転した。
護国堂(持佛堂とする記録もある)の創立や沿革についての詳細は不明であるが、享保元年(1716)に領内から広く寄付を集め、十二ヶ年かけて造立したものとも云われている。近世の三間堂としては珍しい装飾彫刻が見られ、内部には極彩色の模様が描かれていたことが明瞭で、十八世紀という時代性を示す華麗な佛堂として貴重である。
なお、内陣中央には法華経(日蓮宗)主要仏・鬼子母神が祀られている。また、護国堂は平成七年四月十九日、青森県指定有形文化財(県重宝)に指定されている。
                   案内説明より

    、

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弘前社寺へ

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会館(客殿)

妙法山受源院  弘前市新寺町93

入母屋造銅板葺妻入り流向拝

受源院山門 銅板葺一間一戸薬医門

山門 院号標札

庫裡・会館

庫裡・会館

妙法山満行院  弘前市新寺町94

満行院山門 銅板葺棟門

日蓮大菩薩 遠忌紀念供養塔

稲荷堂扁額 妙智力稲荷大明神

稲荷堂

護国堂 三間宝形造・銅板葺・一間流向拝・廻り縁側付

境内社 一間社流造 祭神?

本堂 切妻通用口

永代供養塔

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

本行寺柱門

五輪供養塔

山門 銅板葺一間一戸薬医門(赤門) 

本行寺案内板
旧本行寺塔頭 受源院・満行院

日蓮宗 本行寺旧塔頭寺院 妙法山満行院 妙法山受源院

日蓮宗 妙法山妙覚院本行寺  弘前市新寺町92

雪の境内

  日蓮宗 法立寺
京都本満寺塔頭・玉持院二世の日尋上人により開山された。天文二年(1533)、陸奥国鼻和郡大浦城下の下賀田(旧岩木町)に一寺を創建したのに始まるといわれる。日尋上人は本満寺修徒で文亀二年(1502)、秋田・土崎に久遠山法華寺(秋田市旭北寺町)を建てたが、ゆえあって北海道に蟄居を命ぜられ、大永元年(1521)江差に成翁山法華寺、享禄元年(1528)松前に妙光山法華寺をそれぞれ中興開山し、その後賀田に来たことになっている。日尋上人はこれら寺院建立や伝道の功績が認められ、天文八年(1539)に京都へ帰ったが、同十七年遷化したといわれる。
弘前城がほぼ完成した慶長十六年(1611)、法立寺は賀田から寺町(元寺町)へ移転したが、翌十七年、二代代藩主津軽信牧と重臣の高坂蔵人が争いとなった“高坂の乱”のとばっちりを受け、寺禄没収、廃寺の憂き目にあい、時の住職日元上人は除歴の上、国外追放となった。本寺の一大事に弘法寺二世・日正上人(八世)が三代藩主津軽信義に再興請願し、努力が実って慶長十八年(1613)再び寺は継続されることとなった。寛永二十年(1643)信義公より寺領五十石を賜わっている。
また、慶安二年(1649)五月二日、民家からの火災で類焼焼、翌三年(1650)に現在地(新寺町)に移転した。文化七年(1810)二十九世日顗上人代にも火災に見舞われ古書・古器物等も全て消失した。しかし日顗の尽力で直ちに再興され、その後三十四世・日住上人代の安政六年(1859)に再び本堂が新築され、後四十一世・日理上人は中門創建・鬼子母神堂・位牌堂・庫裏改築等本堂大修理したが、老朽化が進み、平成十三年(2001)立教開宗七百五十年記念事業として四十四世・(前住職)日正上人が現本堂を新築。また、今後の少子化傾向を鑑み、同十六年(2004)永代(無縁)供養塔を建立し、寺観を一新、現在に至っている。
法立寺は日蓮宗中本寺で、末寺・塔頭六ヶ寺を擁していた。現在門前に元塔頭寺院・境智窟本迹院、南栄院が存在している。
また境内には加藤清正の「清正公三百年紀念碑」が建っているが、津軽領統一を成した南部為信公が、日蓮宗大本山・大光山本圀寺から招いて、法立寺住職となった妙覚院日律に因むものである。加藤清正が篤く日蓮宗に帰依し、本圀寺の大檀那であったことから遠く津軽の地にも清正信仰(清正公)が伝わった故であろう。
  境智窟本迹院
本迹院は、本寺・法立寺の十世・本迹院日運が、正保二年(1645)三月十五日、法立寺境内に自身を開山とする隠居寺を建立したことに始る。以来、約三百五十年(1990年基準)現在三十八世の住職が法灯を護っている。
  南栄院
南栄院は、寛文四年(1664)、本寺・法立寺十二世・日成の弟子で南栄院日浄により開山された寺院である。以来、約三百三十年(1990年基準)現在三十三世の住職(本寺法立寺持住兼務)法灯を護っている。
              日蓮宗寺院案内説明より
           

清正公紀念碑

庫裡の狛犬

庫裡

日蓮大菩薩 五百五十年供養

本堂 唐破風向拝

本堂 入母屋造銅板葺一間唐向拝

山門 冠木門

日蓮宗 寶幢山法立寺  弘前市新寺町73

  天台宗 報恩寺
天台宗一輪山桂光院報恩寺は、明暦元年(1655)十一月、江戸藩邸で亡くなった三代藩主・津軽信義の菩提を弔うために、信義を開基として、四代藩主・津軽信政が翌明暦二年に創建されたと伝えられている。開山は天台宗・東叡山寛永寺の塔頭僧・本好と云われる。津軽家では德川家菩提寺寛永寺の重要さを慮って曹洞宗から天台宗に改宗した。以来、歴代藩主の菩提寺として、その伽藍は壮麗を極めたが、貞享四年(1687)の火災により焼失、諸堂を失った。
現在の本堂は、津軽信義公の五十回忌を期して、宝永元年(1704)再建されたものであり、棟札に記されている。随所に古式と高い格式を示す大規模な本堂であり、貴重な近世本堂建築として、青森県内では長勝寺、革秀寺に次いで三番目に古い本堂建築物である。平成六年四月二十五日、「青森県重要文化財建築物」として指定された。
昭和二十九年、津軽家の菩提寺として寺格を保っていたが、曹洞宗・長勝寺に墓が遷されている。本尊の釈迦如来は左脇侍文殊菩薩、右脇侍普賢菩薩の三尊として安置されていると云う。境内には文殊菩薩銅像が置かれており、説明文には次のように記されていた。

  文殊菩薩
この御尊像は文殊菩薩と云い、報恩寺の御本尊・釈迦如来の脇侍として、白象に乗った普賢菩薩と共に獅子に乗った姿で祀られております。普賢菩薩は佛の慈悲を表し、文殊菩薩は佛の智慧を表しています。これらの事から「文殊の知恵」の言葉が発せられそれに由来する「三人寄れば文殊の知恵」と云う諺がながれています。
古来より中国の五大山を文殊の霊山・霊場とする信仰が盛んで、日本では天台宗第三祖・慈覚大師円仁が比叡山に安置したのが始まりと云われ、一般に学業成就、息災延命の御利益があるとされ尊崇されております。当山では御参詣者皆様の諸願成就を祈念しています。
天台宗 報恩寺  奉納:二階堂家(平成二年六月吉日)
             案内説明より

            

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天台宗 一輪山桂光院報恩寺  弘前市新寺町34

弘前社寺へ

報恩寺参道

山門 銅板葺一間一戸薬医門

山門 寺号標札

本堂 寄棟造銅板葺一間唐向拝

庫裡

文殊菩薩像

浄土真宗大谷派 法涼山圓明寺  弘前市新寺町62

圓明寺本堂(県宝)

入母屋造り 向拝一間 こけら葺胴板覆
桁行 17.19m  梁間 18.145m  建築面積 344.74㎡

  圓明寺本堂
圓明寺は、明応八年(1499)に青森市油川に創立され、慶長九年(1604)弘前藩祖津軽為信が津軽地方統一に協力した褒賞として寺録を賜り、弘前城築城当初に元寺町、慶安三年(1650)に現在地に移った。
現在の本堂は、明和二年(1765) 頃に再建された県内に現存する浄土真宗の建築物としては最古のものとされている。屋根の造りが高く、立柱はほとんど角柱を用いて、挿肘木で支えられた雄大な虹梁や内陣の金箔貼りや漆塗りなど意匠的にもすぐれ、江戸時代以降の本堂建築の特徴を表している貴重な遺構となっている。
平成十六年から三年間で、全解体による耐震補強を施した平成の大修理が行われ、天井の仕上げや雨戸の取り付けなどをはじめ、ほぼ建築当初に復元されている。
                   案内説明より

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境内墓地

山門 切妻造一間一戸薬医門

山門 表札には圓明寺と浄徳寺

浄徳寺 参道右にある

柱門より圓明寺境内

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

庫裡

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天台宗 那智山袋宮寺  弘前市新寺町26-9

   本堂(観音堂 県宝)
藩政時代は、天台宗の報恩時の末寺であった無量院の観音堂だったが、明治の神仏分離の際に市内樋ノ口の熊野宮別当であった天台四山の一つ、那智山袋宮寺が現在地に移転、合併して以来、同寺の本堂となった。
五間四方と小規模だが、均整のとれた美しい堂建築の典型で、延宝五年(1677)の頃の建立と伝えられている。本尊の十一面観音に合わせた高い天井には天女が描かれ、軒下に庇を付けた形態や組物などにも、優れた珍しい技法が駆使されている。

   十一面観世音立像(県宝)
本像十一面観音は、四代弘前藩主津軽信政が延宝五年(1677)に、父信義の菩提を弔うために、弘前城内の老木を使用し、無量院観音堂の本尊として造らせたものと云われる。
木を前後に割って内部をくりぬく技法で、頭部と両腕は金具で取り付け、前身を漆と金箔で仕上げている。
素朴な造りながら、江戸時代の地方にある仏像としては総高が6mを超える大型であり、「背高観音」と呼ばれる津軽地方を代表する仏像である。
観音像の前には阿弥陀如来が置かれている。
      案内説明より

       

西国三十三観音御奉安についてのお知らせ(境内立て看板より)
古来津軽三十三霊場第一番札所でありました那智山袋宮寺(旧樋ノ口在所)並びに、八番札所無量院観音堂をこの地に復興し、三十三観音を奉安することを発願いたしました。
篤信皆様のご奉納をお願い申し上げ、「家内安全・身体健全・各願成就」をここに御祈願いたします。

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護摩堂扁額 密厳舎

手水舎

鐘楼

護摩堂

六角堂(如意輪観世音菩薩堂)

法華経三十三観世音菩薩像
いたずらにより鼻欠け像が多い

最勝院旧参道

旧山門(仁王門)

保存樹木(弘前市)

市内最古級の桜(エドヒガン)
樹齢推定 250年 最勝院門前

仁王像(吽形)

仁王像(阿形)

正面参道は雪捨て場

山門 

山門 山号扁額
最勝院三十七世權大僧正・昭典揮毫

凹平均台

庫裡・山務所

五重塔三手先木組

真言宗智山派 金剛山光明寺最勝院  弘前市銅屋町63


参照: 雪の最勝院 温泉その8 ドーミーイン弘前

最勝院山門(仁王門)
向唐門本瓦葺三間一戸八脚門

本堂 入母屋造本瓦葺
平入正面千鳥破風 唐向拝

   最勝院五重塔(重要文化財)
縁起によれば、弘前藩祖津軽為信による津軽統一の際に戦死した敵味方を供養するため、三代藩主信義が明暦二年(1656)に着工したが中断、寛文五年(1665)四代藩主信政により再開され、同年七月完成されたと云われるが、平成四年から六年の全面解体で寛文四年の銘が初重の部材で発見され、この頃の建設開始と推定されている。
また、当初の露盤や伏鉢などの相輪部分は、鋳物師として有名な渡辺近江大掾源正次の作と伝えられている。塔の総高は約31.2mを測り、総高に対して相輪部分が長く、更に五重目の柱間が初重の約半分となっているなど、均整のとれた美しい姿として有名である。
また塔の芯柱は継ぎ目のない一本の杉材であり、二重目で止まるほか、組物に和様三手先を置き、初重の蟇股に十二支の文字が書かれ、各層の窓の形が異なるなど、細部にわたりすぐれた意匠の建築物である。
               案内説明より

          

本堂扁額

弘前社寺へ

津軽為信廟所入口木戸

津軽山革秀寺は、弘前藩初代藩主津軽為信が自分の禅の師匠である長勝寺八世住職格翁禅師のために建てた寺と伝えられている。為信は、慶長十二年(1607)に京都で亡くなったが、為信の遺骨を二代藩主信枚が持ち帰り、格翁禅師を導師として葬儀を行い、革秀寺に廟所を置いた。
この霊屋は、桁行一間、梁間一間の平面が正方形の建物である。柱は円柱、軒は二重繁棰入母屋造り、妻入りで前面に小さく唐破風を設けている。内部には四十九院板塔婆を張り付け、後ろの壁に寄せるように石造り塔婆を安置している。小振りではあるが、彩敷豊かな体裁の整った美しい建物である。
                 案内説明より

霊屋唐門

御霊屋(重要文化財)

新町にある案内板
革秀寺まで300mとあるが間違い

革秀寺境内社 革彦稲荷神社

銘酒松緑本舗 (株)斎藤酒造店

 

革秀寺 朱橋と山門
津軽山革秀寺は、長勝寺格翁禅師に師事した弘前藩祖津軽為信が、慶長三年(1598)藤崎町に造営したのに始まり、間もなく現在地に移築したが、いくばくもなく火災に遭い、その後再建され今日に至ったと伝承されている。その再建年代は、慶長十五年(1610)とも慶長十七年とも云われ定かではない。
現存する本堂は、正面桁行九間、梁間八間、屋根は一重入母屋造の茅葺き平入りで、正面玄関を式台構えとする。いかにも古雅な外観ではあるが、内部の扉や欄間、木鼻などの彫刻、あるいは、天井などに桃山時代の手法を数多く残している本格的建築物で、津軽地方における曹洞宗寺院の古い典型をしめすものとして極めて貴重です。
                案内説明より

本堂(重要文化財)

鐘楼

庫裡?

武田家墓地 

手水舎

僧堂・坐禅堂

萩の花

禅宗寺院の山水

山門 寺号標札

二層への階段

冬の山門 

本堂 入母屋造銅板葺一間千鳥向拝

向拝 鳥の彫刻

能登總持寺末寺元輪番地寺院

津軽三十二番と刻されている
十一面観世音菩薩

僧堂・坐禅堂

墓石 燈籠 雪深く

枝垂れ桜の老木

五重石塔と高床祠

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弘前社寺へ

曹洞宗 耕春山宗徳寺

山門から本堂(奥)

庫裡

   黒門(一ノ門)
黒門は外桝形、土居、濠跡及び曹洞宗寺院群とともに史跡弘前城跡長勝寺構を構成する重要な遺構の一つであり、長勝寺山門杉並木などと相まって西茂森禅林街の歴史的好環境をつくりだしている。
現位置における記録上の所見は貞享四年(1687)作成「長勝寺耕春院惣構」の図に見られ、それは長勝寺境内入口を示す総門(表門)としての機能を有していたものである。なおこの門が城郭建築に見られる高麗門形式となっているのは、長勝寺一帯が弘前城の出城として性格付けられていたことによるものであろう。
本城(現弘前城址)にない高麗門形式が出城としての長勝寺構えに現存することはまことに興味深い事ではあるが、建造当初からの形式によったかどうかは定かでない。

   弘前城跡長勝寺構
慶長十六年(1611)弘前城を造営した津軽藩二代藩主信枚公がここに禅宗寺院三十三ヶ寺を集め、宗教、思想文化の上に大きな役目をして今日に至っている。昭和二十七年、弘前城址と共に特別史蹟地に指定された。
戦国時代に堀越城を拠点として津軽統一を成し遂げた津軽藩祖、津軽為信が新城(弘前城)を計画し、二代信枚が慶長十五年(1610)築城に着手した。
信枚は、新城建設着手と共に、領内の寺院神社に対して新しい城下に移るように命じた。そしてこれらの寺院は城下の要所に配置されたが、西南の押さえとなったのが長勝寺を中心とする寺院街である。元和元年(1615)に入り口と空堀と土塁を築いて桝形をを設けたもので、曹洞宗の寺院三十三ヵ寺が配置された。このように、江戸時代初期に同一宗派によってつくられた寺院街は、全国でも類例が無い。

   栄螺堂(六角堂)
この御堂は栄螺堂と云われ、天保十年(1839)時の豪商東長町の中田嘉兵衛翁が年々歳々の海難で死亡したもの、及び天明天保の大飢饉で数万の餓死死亡者の無縁の諸霊冥助のため発願して建立された御堂で、八角の稜形であるが内部は栄螺型の廻り階段になって全国でも稀な建築様式で観音菩薩他諸佛体安置し、信仰の対象として有縁、無縁の諸霊冥福を祈り永く後代の人々のために遺して伝える所以であります。

   保存樹木カスミザクラ
このカスミザクラは、正徳五年(1715)に、弘前城内に家来が持ち寄って植えたと云われる桜と同年代のものと思われる。この桜は、寿命期を迎えてているが、ここでは根本の保護と樹勢回復手当の効果で樹勢が保たれている。樹齢推定三百年。
              案内説明より

庫裡

葺き替え済の庫裡屋根

廟所列

山門の山号扁額

津軽藩初代藩主廟所

手水舎

山門仁王像

山門仁王像

坐禅堂

栄螺堂

長勝寺構 桝形門跡
防御施設の役割を持つ長勝寺

黒門

本堂 

   三門 (重要文化財)
この山門は寛永六年(1629)津軽藩津軽家二代藩主津軽信枚により建立されたものである。以後数回の改造を経て、文化六年(1809)には火燈窓を設けるなど、ほぼ現在の形となった。
上下層とも桁行9.7m、梁間5.8mで棟の高さ16.2mである。組物を三手先詰組とし、上層縁回りの勾欄親柱に逆蓮柱を用いるなど、禅宗様式の手法を基本としている。また、柱は凡て上から下までの通し柱で、特殊な構造となっている楼門である。

   本堂 (重要文化財) 
本堂は慶長十五年(1610)に造営されたと伝えられていて、桁行22.7m、梁間16.3m、入母屋造である。内部は板敷廊下があるが、以前は土縁であった。
中央に両折桟唐戸を吊り、上に筬欄間を設け、部屋は八室構成とし、間仕切りは一間毎に角柱を立て二本溝の仕切りを置く。古い形式を随所に遺し、津軽氏菩提寺の本堂として記念すべき遺構である。

   庫裡 (重要文化財)
庫裡は、桁行18.1m、梁間13.9m屋根は切妻造りで茅葺きである。大浦城台所(文亀二年(1502)建築)を移築したものと伝えられている。各柱に登梁を架け渡し、これに小屋束を立てて和小屋を構成する。一部改造箇所もあるが、当初の姿で保存され、中世まで遡りえる構造形式を残している遺構として貴重である。

   銅鐘(梵鐘) (重要文化財)
鐘は、嘉元四年(1306)の紀年名があるところから「嘉元の鐘」と呼ばれている。寄進者の筆頭に鎌倉幕府の九代執権だった北条貞時の法名(崇暁)があり、さらに津軽曽我氏の統領や安藤一族と考えられる名前なども陰刻されている。中世の文献がほとんどない当地において、北条氏と津軽の関係を示す貴重な資料である。

   津軽家廟所 (重要文化財)
北から南へ次の廟所が一線に並んでいる。

環月薹(初代藩主津軽為信御霊屋)・・・寛文十二年造営
碧巌薹(二代藩主津軽信枚御霊屋)・・・寛文八年造営
明鏡薹(二代藩主正室御霊屋)・・・寛永十五年造営  徳川家康養女
白雲薹(三代藩主津軽信義御霊屋)・・・明暦二年造営
凌雲薹(六代藩主津軽信著御霊屋)・・・宝暦三年造営  没10年後

いずれも方二間、入母屋造、こけら葺きで妻入りである。また正面は桟唐戸、他は板壁で各棟各面とも外面に津軽家家紋の牡丹が描かれているが、二代信枚正室の満天姫が徳川家康の養女として嫁いだことから、明鏡薹の各面には牡丹ではなく葵の紋が描かれている。
内部はそれぞれ石造無縫塔が安置され、壁に板卒塔婆が張り巡らされているほか、鏡天井には白雲薹に天女、他の四棟に龍の絵が描かれている。江戸時代前期から中期にかけて建築されたもので、本格的な造りの霊屋が建ち並ぶ景観は優れており、年代の明かな近世の霊屋群として重要である。
             案内説明より

            

鐘楼

三門

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津軽家菩提寺と弘前の寺社

  宝物殿
御祭神上杉謙信公の遺品を主として二代景勝公、直江兼続公、中興の名君鷹山公の遺品遺墨等がほとんどで、平安より江戸期に亘る絵画、書跡、刀剣、甲冑、武具、仏器、陶漆器、服飾類等多種多様で、重要文化財、重要美術品、県文化財、を含む収蔵品は、優秀な美術工芸品として或は貴重な資料として往時を語り伝え、燦然たる光輝を放っている。
上杉神社再建にあたりその宝物殿として創設されたもので、神殿と調和を保つ日本風の外観を見せた重層建築である。名づけて稽照殿という。

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稽照殿

米沢上杉博物館

上杉鷹山公 上杉家十代藩主
窮乏の淵にあった米沢藩を、卓抜な発想と大胆な政策によって再建した江戸時代隋一の名君として知られる。宝暦元年(1751)7月20日高鍋藩主秋月種美(3万石)の二男として誕生。幼名松三郎または直松、母は秋月藩黒田長貞の娘春姫。春姫の母は上杉家五代藩主上杉綱憲の娘である。
宝暦10年上杉家九代藩主の養子に迎えられ、明和3年治憲と改名、翌4年17歳で米沢15万石の藩主となる。幼少から折哀派の儒者細井平洲に師事し、実学一致の経世論を身につけた。
藩主となるや大倹令・産業開発・藩校興譲館の創立・政務の革新などを断行し、隠居後も政務に参与して再建に努めた。米沢織・米沢鯉・深山和紙など鷹山の興した産業は現在に伝承されている。
天明5年(1785)養子治広に家督を譲って隠居し、鷹山と号した。民主政治の原点を示した「伝国の辞」はこの時新藩主治広に与えたものである。
文政5年(1822)3月12日没、春秋72(享年七十二)  上杉家廟所に眠る

なせば成る なさねば成らぬ 何事も   成らぬは人の なさぬなりけり

上杉謙信公

米沢城址水堀

伝国の辞 石碑

松岬神社

城址公園内の護国神社

仙台市街遠望

仙台駅

welcome仙台 仙台雀踊り

政宗山 瑞鳳寺

当山は藩祖政宗公の菩提寺として寛永十四年(1637)二代忠宗公によって創建された御一門格寺院である。御本尊は釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の三体で平泉毛越寺より遷したもの、梵鐘は寛永十四年忠宗公の寄進によるもので県指定の文化財である。本堂前の冠木門は三代綱宗公、側室椙原お品邸にあったもので俗に高尾門といわれている。
栄西堂は臨済宗の宗祖であり又日本に初めてお茶を伝えた、栄西禅師の御像をあんちしたもので、人間国宝、香取正彦氏の作である。
茶室瑞新軒は十四代淡々斉好裏千家又隠席写、二畳台目の二席。花塚は、本源流の奥儀を示す石の組みかたで、仙台の詩人土井晩翠の詩が記されている。その他伊達安芸の献灯、先代萩の亀千代、正岡、仙松の像などがあり境内には多数の花木があります。

善応殿
伊達綱宗は、寛永十七年(1640)八月八日仙台城に生まれ、忠宗の薨去により十九歳で三代藩主となる。万時三年(1660)二十一歳の時、故あって幕府より逼息を命ぜられ、二歳の亀千代(後の四代綱村)に家督を相続し、伊達兵部宗勝が後見にあたる。このことにより世に云うところの伊達騒動へと発展してゆく。正徳元年(1711)六月四日綱宗七十二歳にて江戸品川屋敷に没し、霊屋である善応殿は、享保元年(1716)五代吉村の時代に竣工した。
昭和二十年(1945)善応殿は戦災により焼失し、昭和六十年感仙殿とともに再建された。

瑞鳳殿

瑞鳳殿は「霊屋」(たまや、おたまや)と呼ばれる霊廟です。霊廟は、遺体や遺骨を埋葬した上部に設けた霊を祀るための建物のことです。このような霊廟建築には、瑞鳳殿のほかに、草創期のものとして藤原三代の霊廟に建立された中尊寺金色堂、神式のものとして徳川家康を久能山から日光に改葬していとなんだ日光東照宮などが挙げられます。また、位牌を納めた建物や、埋葬した墓所の近くに設けられた参拝するための建物のことも、霊廟と呼びます。
政宗が寛永十三年(1636)五月二十四日に江戸の桜田屋敷で亡くなると、直ちに仙台に送られ、ここ経ヶ峰に葬られました。
(政宗は生前、ホトトギスの初音を聴くために経ヶ峰に登り、当行の家臣に死後ここに墓所を作るよう命じていました)
瑞鳳殿は翌年十月、二代藩主忠宗によって完成しています。木造三間四方、宝形造り、銅瓦葺きの建物は漆極彩色によって仕上げられた彫刻など、日光東照宮につぐ桃山様式の豪華絢爛たる廟として昭和六年(1931)国宝に指定されましたが、昭和二十年(1944)七月十日の戦災により焼失しました。
現在の建物は昭和五十四年(1979)に再建されたものです。
本殿の扉は普段は閉ざされており、政宗の命日(五月二十四日)、新年の礼拝式など特別な場合に御開帳されます。中には政宗の木像が安置されています。
  瑞鳳殿再建の経緯
伊達政宗公の霊屋(墓所)瑞鳳殿は、桃山様式の廟建築として国宝に指定されていたが、昭和二十年(1945)戦災により焼失した。瑞鳳殿の再建工事は昭和四十九年(1974)着手され、焼失前の実測調査に基づき様式、装飾等、おおむね旧瑞鳳殿と同様に復元され、本殿、拝殿、御供所(瑞鳳殿資料館)、涅槃門、殉死者の宝篋印塔など、八億の巨費と五年の歳月を要し昭和五十四年(1979)に完成した。
本殿左右の宝篋印塔は、政宗公の葬儀に先立って殉死した家臣十五名と陪臣五名の墓と伝えられる。
                案内説明より

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青葉城 瑞鳳殿 aobajyo-zuihoden

瑞鳳殿 涅槃門

瑞鳳殿の正面門は「涅槃門」と呼ばれています。「涅槃」とは「煩悩を取り去った悟りの境地となる状態」を意味し、広くは「来世(死後の世界)」という意味にもなります。瑞鳳殿の涅槃門は、樹齢数百年の青森檜葉を用いて焼失前と同様の豪華な飾り彫刻が施されています。正面には菊紋があります。菊紋は、皇室の御紋として知られますが、皇室に功労があったものに下賜され用いる場合があります。豊臣秀吉が下賜されたものを、伊達政宗が拝領したといわれ、伊達家の家紋として用いました。     
                 説明案内より

空飛ぶだんご かっこうだんご茶屋

滑降?団子 

厳美渓レストハウス
岩手県一関市厳美町鴻ノ巣132
Tel: 0191-29-2015

社団法人一関観光協会
岩手県一関市一関駅前1商工会館
Tel: 0191-23-2350

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厳美渓 genbikei

白山神社

仁明天皇の御代嘉祥三年(850)中尊寺の開祖である慈覚大師が加賀の白山をこの地に勧請し、自らは十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号された。配佛としては、樋爪五郎季衡の持佛で運慶作の聖観音と源義経の持佛毘沙門天が配案されてありましたが、嘉永二年正月八日(1849)の火災で焼失した。現在ある能舞台は嘉永六年(1853)伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納されたものであります。(平成十五年国指定重要文化財)
現行の能舞は、天正十九年時の関白豊臣秀次と藩主伊達政宗両公が当社参拝の節観覧に供し以来続行今日に到っている。明治九年秋には明治天皇が御東巡の折に当社に御臨幸あらせられ、古式及び能舞を天覧あらせられました。

関山 中尊寺
岩手県磐井郡平泉町平泉衣関202  Tel: 0190-46-2211
拝観料: 大人 800円  高校生 500円  中学生 300円  小学生 200円
拝観時間: 8.30~17.00(3月~11月3日)  8.30~16.30(11月4日~2月末日)
休日: 無休

梵鐘
康永二年(1343)に金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。撞座は長い歳月にわたる打鐘で窪み、現在この鐘が撞かれることはない。
鐘身の銘文には建武四年(1337)山上の堂塔が火災により焼失したと記し、奥州藤原氏後の歴史を伝える資料としても貴重である。

本堂
明治四十二年(1909)の再建。中尊寺の山内十七ヵ院を包括する中心道場。
奥州藤原氏の追善、天台宗各祖師の御影共、正月修正会など、一山の法要はほとんどがここで勤修される。また写経、座禅の修業道場でもある。
本尊は阿弥陀如来。
壇の両脇には、総本山比叡山延暦寺より分灯された「不滅の法灯」が護持されている。

金色堂

五月雨の 降り残してや 光堂

能舞台

橋掛かり

金色堂覆堂

辧慶堂

この堂は通称辧慶堂という文政九年の再建である。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀愛愛宕宮と称した傍に、義経公と辧慶の木像を安置す。弁慶像は文治五年四月高館落城とともに主君のため最後まで奮戦し、衣川中の瀬に立ち往生悲憤の姿になり、更に宝物を陳列、国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。

三春町役場
福島県田村郡三春町字大町1-2  Tel: 0247-62-2111

三春町観光協会
福島県田村郡三春町字大町1-2  Tel: 0247-62-3690

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関山 中尊寺 tyusonji

六道能化の 金剛宝地蔵大菩薩

薬師堂

夏草や 兵どもが 夢の跡

中尊寺参道

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滝桜 fukusimaken-miharumati-takizakura

安達太良サービスエリア

名物?さくらソフトクリーム

滝桜 まわり一周

弘前昇天教会

えこへいき? えこひいき

桶屋町 現住所?

金剛山最勝院 山門と五重塔

仁王像  漫画チックお姿です

阿形像

鐘楼

重要文化財 青森銀行記念館(旧第五十九銀行本店)

この建物は、当行の母体となった旧第五十九銀行本店として明治三十七年(1904)に建築されたものである。昭和十八年(1943)十月第五十九銀行ほか数行合併して青森銀行が創立された後は弘前支店に転用してきたが、昭和四十年(1964)五月に支店新築にあたりこの地に移転し、第五十九銀行時代の貴重なる記念物として又当地方における明治期の文化財として永く保存することにしたものである。設計施工は、当時名匠といわれた当市の棟梁堀江佐吉氏の手によるもので構造は木造(欅材を多く用う)ルネッサンス様式の洋風建築としてこの地方に極めて貴重なものとされる。        
                青森銀行説明より

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山門 銅板葺薬医門  山号石標

山門 寺号標札

山門 新しい山門です

弘前城址 さくら hirosakojyosi-sakura

青柳家

境内社

十一面観世音菩薩石像
津軽十一番とある

切妻造銅板葺平入唐向拝

本堂 山号扁額

庫裡 会館

二の丸大枝垂れ

天守 破風の無いシンプル

本丸戌亥の櫓跡

青柳家 秋田県指定有形文化財
仙北市角館町表町下丁3  Tel: 0187-54-3257

入館料: 大人 500円  中高校生 300円  小人 200円
開館時間: 9.00~17.00 (11~3月 9.00~16.00)
休日: 無休

青柳家参照ページ  旅行見聞録→温泉と観光その3→あつみ温泉

水子地蔵菩薩

曹洞宗 八重山長徳寺  弘前市西茂森2-8-1

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弘前社寺へ

旧松本家住宅母屋 
(秋田県指定有形文化財) 平成十四年三月十九日指定

松本家は、佐竹家の重臣今宮家の組下で佐竹氏の国替えにより主家に従って常陸から角館に移った。今宮家組下は武家屋敷から離れた田町に、集団で住居を構えたので、松本家も当初は田町に住居したが、後佐竹北家の組下となり現在の小人町に移り今日におよんでいる。
松本家は郷校弘道書院の教授を勤め「烏帽子於也」の著者として知られる須藤半五郎を出している向学の家であった。屋敷は万延元年(1860)製作による屋敷割絵図(仙北市指定文化財)に表六間裏十五間とあり、現在はほぼ同規模で遺っている。
建物は茅葺きの簡素な造りで下屋をおろした入口を入って居間、その右に座敷兼仏間が配され、裏側は水屋に続いて広縁があり、その奥に寝室が配されている。
建築年代は幕末ごろと推定され、離れの寝室は後に増築したもののようである。屋敷の廻りには柴垣をめぐらしている。旧藩時代には、殖産事業の原料となる植物や食用植物が植えこまれていた。この住居は、近世武士住宅の姿を知るうえで貴重である。
               仙北市教育委員会 
                  

地蔵堂

梅花流御詠歌を唱え仏心を学ぶ会

庫裡

切妻造銅板葺平入流唐向拝

本堂 山号扁額

本堂 唐向拝鳳彫刻

右手前が母屋 左奥が寝室

山門 力強い蟇股

母屋入口 

本堂 入母屋造銅板葺唐向拝

庫裡

佐藤尚武(ソ連対日参戦時のソ連大使)
先生頌徳碑

武家屋敷 「石黒家」

屋敷には、角館では最古の母屋(築200年)があり、唯一、母屋の中に上がることができます。又、母屋の中では係員が随時、他の施設では行っていない、昔の生活様式などの案内説明をしており、意匠を凝らした建具や生活道具、武具甲冑類、「解体新書」の挿絵などの古文書、茅屋根修復工事の概要など見学することができます。

山門 銅板葺一間一戸薬医門

山門 山号扁額

山門 棟木と梁の板蟇股

十一面観世音菩薩石像
津軽十三番とある

禅林街 黒門長勝寺参道

曹洞宗 石神山勝岳寺  弘前市西茂森1-17-4

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弘前社寺へ

石黒家  仙北市指定文化財 
入館料: 大人 300円  小人: 150円
開館時間: 9.00~17.00
休日: 無休

庫裡

曹洞宗 三嶽山清安寺  弘前市西茂森2-7-1

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弘前社寺へ

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曹洞宗 金澤山照源寺  弘前市西茂森2-6-1

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弘前社寺へ

庫裡 客殿(信徒会館)

六地蔵尊

角館 屋敷通りさくら kakunodate-bukeyasiki-sidarezakura

寺号標札

本堂RC入母屋造妻入唐向拝

境内祠 お祀りしている?

大イチョウ 樹齢300年以上

安寿と厨子王と母の像
弘前との関係?

弘前駅

恵林寺再興五十年紀念石碑

恵林寺三十五世以降持住供養
地蔵菩薩像

十一面観音石像 津軽二十五番とある

弘前社寺へ

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山門 棟木と梁の蟇股

山門 寺号標札

六体地蔵尊

曹洞宗 龍負山京徳寺  弘前市西茂森1-14-1

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弘前社寺へ

山門 銅板葺薬医門

山門 院号標札

本堂 RC構造

切妻銅板葺一間一戸薬医門

本堂 入母屋造銅板葺唐破風向拝

本堂 院号扁額

地蔵堂 
延命地蔵菩薩と説明されているが
水子地蔵尊にも似た像姿

本堂 入母屋造銅板葺一間唐向拝

本堂 向拝寺号扁額

客殿 (信徒会館)

十一面観世音菩薩 津軽十五番とある

山門 銅板葺薬医門

山門 院号扁額

山門 棟木と梁と桁

観世音菩薩輪王石像
津軽十八番とある

本堂 入母屋造銅板葺唐向拝

本堂 向拝山号扁額

本堂 虹梁蟇股

岩橋家

稲庭温うどん 1000円也

稲庭うどんメニュー

屋台村

さくらむすめ

曹洞宗 頓川山壽昌院  弘前市西茂森1-16-1

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弘前社寺へ

十二支堂 宝形造銅板葺
生れ年の絵馬を奉納し
祈願恩謝をするという

十二支堂扁額

庫裡

桧木内川堤のソメイヨシノ並木

本堂 山号扁額

唐破風向拝二段蟇股

山門 寺号木札

角館駅

駅前通りの飾り

綺麗に除雪された駐車場

祠があるが

雪囲いの庭

曹洞宗 金龍山盛雲院  弘前市西茂森1-7-1

武家屋敷通りの枝垂れ桜

千手観音菩薩石像
津軽二十番とある

花見山公園は地元花卉生産者が事業農地を一般公開している。生産者住居前を通り裏山斜面いっぱいの花を楽しませてくれている。花卉生産を営むので春夏秋冬その時々の花が植えられている。苗木販売から切り花まで忙しいときにも開放するらしい。最盛期はやはり春の開花期でしょうか。
春の開花期には福島駅より定期路線バスと臨時の直通バスが便利。マイカーは阿武隈川河川敷の阿武隈親水公園よりシャトルバスが運転される。


花見山情報
社団法人福島市観光物産協会
Tel: 024-531-6432

山門 鶴亀彫刻? 

山門 銅板葺薬医門

寺号標 曹洞宗松種山正光寺

庫裡

十一面観音石像 津軽二十二番とある

本堂 RC造 木骨向拝

山号院号石標 貴峰山月峰院

庫裡 客殿

龍水口

凍結水鉢

手水舎 天井格子の梵字

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花見山公園 hanamiyamakoen

五重塔

直線に揃っています

手水舎

枝垂れ桜

本堂 入母屋造銅板葺唐破風向拝

向拝 鳳凰彫刻

本堂 山号扁額

本堂 入母屋造銅板葺唐向拝

本堂 山号扁額

向拝 向拝柱の獅子

曹洞宗 白鷹山天津院  弘前市西茂森1-4-2

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手水舎四面の「護法喜怒哀楽四善鬼」

権現堂

権現堂扁額 秋葉大権現

秋葉大権現社

向拝 虹梁上の龍の彫刻

山号院号石標

雪に埋もれた五輪供養塔

三重供養石塔と地蔵菩薩石仏

弘法大師像

本堂 風雪除け

庫裡

歴代住職墓所

住職供養墓石

境内墓地

曹洞宗 萬松山安盛寺  弘前市西茂森1-13-1

本堂 RC造

本堂 山号扁額

庫裡

護摩堂

護摩堂扁額 密厳舎

建築家 堀江佐吉翁記念碑

真言宗智山派 金剛山最勝院

十一面観音石像 津軽十七番とある

曹洞宗 種里山鳳松院  弘前市西茂森1-15-1

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弘前社寺へ

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弘前社寺へ

境内祠 お祀りしているのは?

十一面観音石像 津軽二十三番とある

山門 銅板葺一間一戸薬医門

山門 門扉鳳透かし彫

安盛寺

本堂 切妻造銅板葺妻入庇付向拝

本堂 山号扁額

参道入り口

寺号石標

赤門 棟門

山門 門扉鳳透かし彫刻

山門 院号標札

本堂

本堂 外陣前の達磨大師衝立

曹洞宗 金崋山泉光院  弘前市西茂森2-3-4

弘前社寺へ

山号寺号石標

庫裡

十一面観音と六地蔵尊石像
津軽二十四番とある

本堂 向拝虹梁鳳彫刻

本堂

本堂唐破風向拝彫刻

本堂山号扁額

曹洞宗 梅峰山恵林寺  弘前市西茂森1-6-1

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弘前社寺へ

アイグロマツ 樹齢250年

本丸から津軽富士

山門 切妻造銅板葺高麗門

寺号標

貞昌寺山門銅板葺一間一戸薬医門

埋門跡

住宅前の築山

本堂 向拝柱獅子阿形彫刻

本堂 唐向拝天女彫刻

庫裡

山門 向唐門(赤門)

寺号標

山門扁額

本堂 入母屋造銅板葺千鳥向拝

本堂 山号扁額

向拝切妻屋根

白河神社

石垣の若松

西国観音
如意輪観音・聖観音・千手観音

庚申塚

境内樹木

大般若経石塔 観音講中建立
嘉永三庚戌

一光三尊阿弥陀如来

庫裡 寺務所

境内墓地

歴代住職供養墓

延命地蔵堂

閻魔大王 奪衣婆

閻魔堂

鐘楼

観音堂

身代り観音堂

本堂 観音堂扁額

境内

本堂

手水舎

境内

杉木立
弘前市指定保存樹木

山の観世音石塔

参道

  十一面観音像(円空仏) 弘前市指定有形文化財
ヒバ材の厚板に彫刻した立像で、一木造り。正面観照形式の造像で表面ナタ彫りできれいに仕上げ、裏面は平滑に荒削りしている。総高175.3㎝  最大幅46.0㎝  厚さ14.6㎝
像は、頭上に十一面仏を頂き、左手で空瓶を持し、右手は掌を開いて身側に垂れ、足は蓮華を踏まえ下に岩座がある。造像当時は白木のままであったと考えられる。円空仏の独特な手法が明らかなうえ、作者円空が寛文年間(1661~1672)頃、当地方産のヒバ材を用い、当地方で彫造したもので、しかも長い間庶民信仰の対象(身代わり観音)として現在に及んでいる等、貴重な意義を有するものである。
                 案内説明より

弘前社寺へ

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曹洞宗 観音山普門院  弘前市西茂森2-17-4

  真言宗智山派 求聞寺
当山は真言宗智山派の寺であり、その本尊は古くから虚空(大空)のように広大無辺の智慧と福徳を授ける菩薩として、また、求聞持法の修行の本尊として古くから信仰されてきた虚空蔵菩薩である。山号は岩木山、明治四年(1871)廃寺となった岩木山百沢寺の流れを汲むものであるが、その開創は寛永二年(1625)津軽藩津軽家二代藩主・津軽信牧が津軽家と領民の安泰と子孫長久、国土豊饒を祈願、求聞持法の荒行を行ったのが始まりとされ、念願成就した寛永六年、この地に虚空蔵堂(求聞持堂)を建立したものであり、寺号は虚空蔵求聞持法から取った由緒ある寺である。
本尊は信牧の寄進によるものであったが、明治九年旧暦八月、火災に遭って焼失、現在のものは、明治十二年斉藤法善和尚が焼け跡に小さな庵を結んだ時のものである。明治二十六年本堂の再建を見たが、現在の本堂は昭和三十二年(1957)改装されたものである。明治三十九年(1906)寺内から、堂建立の際用いたと思われる銅製の宝瓶が発見されている。
求聞寺は古くから「百沢の虚空蔵様」と親しまれ、丑寅生まれの一代様として、また、津軽三十三霊場の第三番札所としても知られている。
                案内説明より

       

弘前社寺へ

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弘前社寺へ

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弘前社寺へ

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虚空蔵菩薩石標

庫裡

観音堂扁額

観音堂

梵鐘

鐘楼

参道杉木立 狛犬も鎮座

参道

観音霊場観音菩薩石像

虚空蔵堂扁額

修業大師像

地から救いを求める手に手をかざす

利生地獄図像

絵馬堂 神馬像が置かれています

絵馬堂

真言宗智山派 岩木山求聞寺  弘前市百沢寺沢29

山門 本堂

境内墓地

六地蔵尊

山門

庫裡

本堂 山号扁額

浄土宗 無一山専求院  弘前市新町249

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出羽・鼠ヶ関 温泉その2→湯田川温泉→鶴岡市→鼠ヶ関

白河関の森公園
福島県白河市旗宿白河内7-2
Tel 0248-32-2921

県道沿いにある芭蕉句碑

白河ラーメン

白河関の森交流センター広場に立つ芭蕉と曽良の紀行道中像で、台には芭蕉、曽良の句碑が彫られている。
風流の 初やおくの 田植うた  芭蕉
卯の花を かざしに関の 晴着かな  曽良

  白河だるま
毎年二月十一日の建国記念日に、だるま市が白河市内で開かれる。このだるまは、白河城主松平定信公がお抱えの絵師「谷文晁」に命じて考案彩色させたものである。だるまの眉は鶴、ひげは亀、口の下に松、顔の両方に梅、顔の下よりに竹を模様化したもので、全体に福々しい感じが特徴で、その品の良さは日本一といわれている。

  芭蕉句碑
西か東か 先早苗にも 風の音
                  案内説明より

                        

白河駅

新白河駅と芭蕉像

白河のだるま

ビジュアルハウス

関所役人

弓張提灯

江戸時代の関所(復元)

大百姓の民家でしょうか

白河地方茅葺き民家(移築)

芭蕉 曽良 紀行道中像

水車小屋

白河関の森公園

白川の関名所案内文の石碑

社務所横の芭蕉句碑
関守の 宿を水鶏に 問はふもの

白河神社 社務所

関の森公園

境内案内板

境内社 国津神社

境内社 稲荷神社

七社神社

境内休み処

境内休み処

  境内社七社神社
天神神社 熊野神社 大山祇神社 神明神社 愛宕神社 若木神社 雷神社 

  土塁 空堀
土塁・空堀は敵の攻撃や侵入を防ぐため、曲輪の縁に土を盛りあるいは掘り下げ築いた堤・谷状の防御施設です。

  古歌石碑
平兼盛 能因法師 梶原景季の白河関を詠んだ歌三首を刻んだ歌碑です。
便りあらば いかで都へ 告げやらむ けふ白河の 関は越えぬと  平兼盛「拾遺和歌集」
都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞふく 白河の関  能因法師「後拾遺和歌集」
秋風に 草木のつゆを はらわせて 君が越ゆれば 関守もなし  梶原景季「吾妻鏡」

  矢立の松
治承四年(1180)源義経が平家討伐のため平泉を発し、白河神社に戦勝祈願に立ち寄ったとき、この松に矢を射立てたと伝えられている。現在は少量の松の根株が残るのみである。実際にはそれを見出すことは困難である。

  母衣掛の楓
源義家が安部貞任(前九年の役)討伐のため白河関を通過する時、この楓に母衣をかけて休息したと伝えられている。

  旗立の桜
治承四年(1180)源義経が平家討伐のため平泉を発し、白河神社に戦勝祈願に立ち寄り旗揃えをした際に、この桜に源氏の旗を立てかけたと伝えられている。

  従二位の杉
鎌倉時代前期の歌人、従二位藤原宮内卿定隆が手植えをし奉納したと伝えられる老木である。
推定樹齢約八百年、周囲約五メートル

  奥の細道紀行文の一部 白河の関石碑
心許なき日数重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此の関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白砂に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

卯の花を かざしに関の 晴着かな  曽良
              案内説明より

      

奥の細道紀行文 白河の関石碑

従二位の杉 根元

従二位の杉

旗立の桜

幌掛の楓

矢立の松石碑

空堀 土塁

空堀 土塁

境内の小路

境内の森

拝殿前の御神木

古歌石碑

狛犬

参道

  延喜式内社 白河神社   御祭神 白河国造命 天太玉命 中筒男命 衣通姫命
第十三代政務天皇五年(135)白河国造命と天太玉命を奉祀し、勅命により鎮座、のち白河の関設置にあたり、関所南北に住吉、玉津島明神を祀る。延暦十年(792)平兼盛、永承七年(1053)源頼義・義家父子が稲田を奉献し、寿永三年(1184)三月九日源義経、文治五年(1189)源頼朝らが金幣を奉献、
元和元年(1615)仙台藩主伊達政宗公、社殿を改築奉納(本殿の棟紋に九曜星、縦三引きの紋あり)、享和元年(1801)に白河藩主松平定信公が神庫を奉納。
奥の細道曽良日記にも記された二所の関明神として、現在国技である大相撲二所の関部屋の発祥地、八月に二所の関の関古式相撲が風祭りとして奉納される。白河の関を境内とし、境内は昭和四十一年九月十二日付で、文化庁より国指定史跡「白河関跡」に指定された。
                 案内説明より

       

白河神社

本殿

拝殿

白河神社 社標
大正三年十月十七日奉納 

緑川茂市  伊藤新作

白河関跡遠望

  白河関跡
白河関は古くより道の奥の関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所である。関の位置については久しく不明であったが、江戸時代後期、時の白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると断定され、寛政十二年(1800)に「白河古関蹟」の碑が建てられ、今日に至っている。関が置かれた年代については不明であるが、延暦十八年(799)、承和二年(835)の太政官符には「白河剗」の名が認められる事や歴史的な背景から見て、大化の改新以後の七~八世紀ごろには存在していたものと考えられる。
昭和三十四年から三十八年まで実施された発掘調査では、竪穴住居跡や掘立柱建物跡、空堀、土塁、柵列などの古代から中世にいたる遺構が発見され、縄文土器、土師器、須恵器、灰釉陶器、鉄製品などの古代から中世にいたる遺物が出土している。出土した土師器の中には、「門、大室、□船」等の墨書土器が見られる。白河関の全体像についてはまだ未解明な点もあるが、現在も奥州三関の一つとして多くの人々に親しまれ、歴史のひとこまに触れることが出来る場となっている。また、春には藤やかたくりの花が咲き、訪れる人々の心を和ませている。

  白河関跡(関の森遺跡)発掘調査
発掘調査は、この地が古代の白河関跡であることを実証することを目的として実施されたものです。昭和三十四年から五ヶ年にわたり、遺跡を大きくA・B・Cの三地区とに分けて行われた調査では、各地点から多くの遺構、遺物の存在が明らかとなりました。

  A地区 
空堀と土塁に囲まれた平坦地を中心に行われ、掘立柱建物跡、奈良・平安時代頃の土器が出土しました。

  B地区
白河神社の社殿裏の平坦地を中心に調査が行われ、竪穴住居跡、鍛冶跡、柵列が確認されました。遺物は、墨書土器や鉄製品が多く発見されています。

  C地区
遺跡の北側斜面部を中心に調査が行われ、柵列跡、門跡の可能性が考えられる柱穴が確認されています。
この五ヶ年にわたる調査に於いて発見された遺構・遺物の特徴や遺跡の立地条件などを総合的に考察した結果、この地が古代関跡の条件にかなうことが明らかにされ、昭和四十一年に「白河関跡」として、国の史跡に指定されました。
                   案内説明より

白河古関蹟碑

白河関跡石碑

白河関跡

道の奥への関所跡

会津若松参照: 旅行見聞録→温泉と観光→温泉その10→磐梯温泉 
 
              温泉と観光→温泉その11→東山温泉・会津巡り 
               

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会津藩主松平容保公 歌碑

興徳寺本堂

蒲生氏郷公墓所

興徳寺裏門

天正18年8月9日
豊臣秀吉公興徳寺滞在(伝)

東北仕置き途中に?


百年を 三たびかさねし 若松の
さとはいくちよ 栄えいくらん

自筆書写し彫り

会津若松城 さくら aiduwakamatujyo