温泉その16-2

金沢街巡り

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加賀藩前田家墓所     ひがし茶屋街      にし茶屋街   



主計茶屋街     長町・武家屋敷
         


     

前田利久公墓所 (前田家墓地の最高所)

前田利久公は尾張国荒子城主前田利春公の嫡男として生まれる。永禄三年(1560)父の跡を嗣いで荒子城主となったが、永禄十二年(1569)に織田信長公の命により弟利家公に家督を譲った。利家公は常に兄を重んじ、利家公が金沢城に入城(1583)後、利久公を金沢城に迎えた。利久公は客分として鄭重に待遇され、御隠居様と呼ばれていた。また利家公が末森の戦いなどで出陣したときには、金沢城の守護を代任したりもした。天正十五年(1587)に没する。利家公は野田山に墓所を定め、その最も高いところに利久公を初めて埋葬した。
              案内説明より

野田山 加賀藩前田家墓所

  高田家屋敷長屋門
この建物は、江戸時代にこの地にあった加賀藩五百五十石平士・高田家屋敷の長屋門を復元したものです。加賀藩の平士階級には、家禄八十石から二千四百石の藩士が属し、中クラス以上の屋敷には門だけではなく、ここのような「長屋」や「厩」を付けることが認められていました。その長屋には仲間や小者と呼ばれる武家奉公人たちが住み込み、門番やお供などの仕事をしていました。
当施設では、この長町などに住んでいた平士たちの姿やその屋敷に仕えていた仲間たちの姿を紹介しています。建物そのものと合せ、ごゆっくりご覧ください。また、現在は約二百七十坪ですが、かっては四百四十三坪の敷地にあった広大な武家屋敷を想像しながら、庭園を散策するのもよいでしょう。

  平士の屋敷と門構え
平士の屋敷地は、主屋の周りを土壁で囲み、入口に家格に応じた門構えを設けています。このような構えを「屋敷構え」と呼び、武士階層だけに許されていました。門には、ここにある長屋門のほか、薬医門、四脚門などの様式があります。主屋は、だいたい切妻妻入りで、緩い勾配の板葺石置き屋根でした。
土塀の高さも身分や禄高に応じた高さになっており、八家や人持などの大身の屋敷では、2.5~3mと高く、表に向かって偉容を示していましたが、普通の平士クラスでは1.5~2m程度でした。また、長屋門の建築規定としては、石垣を「切積み」にしてはならず、「野面積み」にするようになっていますが、実際は守られなかったようで、現存する長屋門はすべて切積みとなっています。
腰板はどんな木を使ってもよく、出来るだけ簡単な造作によることになっていました。また、門の横にある長屋は、奥行き二間という規定がありましたが、長さは武家奉公人の数によって異なるため、特に規定はありませんでした。

  加賀藩平士の収入
加賀藩前田家家臣の多くは平士階級に属し、幕末では千四百家にものぼりました。俸禄の少ないものを扶持米取や切米取といいましたが、そのほとんどは80石から2400石までの知行取でした。知行石数とは、領地で収穫される米の生産高のことであり、実収入ではありません。その実収入は、知行高の約四割でした。
この地にあった高田家の場合、知行高は550石だったので、実収入は220石となります。藩士たちは知行高に応じた俸禄を受け取ると、町や村の蔵宿に預け、1石に付き2升当ての蔵米を手数料として支払います。そして家族一年分の食費を引いた残りを米仲買人に売り払い、奉公人の給料など高田家の生活費としていました。
              案内説明より  
        

長町武家屋敷

浅野川大橋

  太鼓山車(木町一番町)
慶応三年(1867)に卯辰神社(天満宮)が完成し慶賀祭が盛大に行われました。これを祝って木町一、二、三、四番丁では三台の山車を作りました。残念ながら明治二十三年(1890)の火災で二番丁の船山車、三、四番丁の山車は焼失しましたが、木町一番丁の太鼓山車は無事に残り、ここに保存されています。旧市内では唯一の山車です。
市制百周年には百万石祭りのパレードに曳き出し市内を一巡し、華麗な時代絵巻の行列に彩をそえました。山車の中央には中国の故事にちなんだ「菊慈童」の人形が祀られており、後方には太鼓が埋め込まれた太鼓山車となっております。

  菊慈童(太鼓山車)
中国周王朝三代の穆王(ぼくおう)が寵愛せられた童子の名前である。故あって南陽郡鄧州レキケン酈懸(れきけん)に閑居するに、この地の甘谷の水(河)を飲んで不老不死となると云う。
酈懸は今の河北省信陽の北東百キロメートルの新蔡懸の中に属している。甘谷の水は「菊水」のことであり、甘谷の上に菊があって菊花が水に落ちて滋養のある菊水液を作り、下流の者たちがこれを飲んで長寿を保ったと云われている。菊には延年の別名があり、また菊は齢草とも云われている。

  経田屋米穀店(市指定保存建造物)
切妻屋根で平入り二階建ての外観を持つ建築である。向かって右手に通り庭を持っている。表構えは一階に蔀戸、庇下の下がり、二階には格子窓、袖卯建、大屋根軒先の風返しが設けられている。建築は明治後期と伝えられるが、往時の町屋の旧態をよくとどめている。

  ひがし茶屋休憩館(旧涌波家住宅主屋)
旧涌波家住宅主屋は、現地詳細調査の結果、金沢の古い町屋の建築要素を示す多数の痕跡が明らかとなり、このことから江戸時代末期の建築と推定された。平成十五年度にこの調査結果に基づき、明治初期の時代考証で復原修理工事が行われた。
建物は桁行四間、梁間六間半の規模で、明治初期に二階建てとなったが、建築当初は平屋で、板葺石置き屋根であったことが明らかとなっている。屋根を鋼板葺に変更した以外は忠実に復原されている。
建物正面の一階各柱間に蔀戸と呼ばれる横板戸が上下二枚入り、玄関の蔀戸にはくぐり戸がついている。軒の先端部には風返しと呼ばれる横板が付き、二階の隣接地境界部分の両側に袖壁(袖卯建)、窓面には古格子が付いている。
一階の板庇に下がる板張りの装置は「サガリ」と呼ばれる。当初からの変遷が明らかで元来の敷地に現存する歴史的建築は少なく、金沢における藩政期の町屋建築の旧状を知ることが出来る極めて貴重な遺構である。

  ひがしやま町空間 (こまちなみ保存建造物)
この建物は藩政時代より代々四十万屋こと、芝田生菓子店として金沢五色生菓子や、氷室饅頭を販売していました。此度その店先を「ひがしやま まち空間」と名付け、東山界隈(旧七連区)の町民文化を展示し、その心を観て頂く一息の安らぎの空間としました。

  こまちなみ保存建造物
米沢茶店所有の建物である。町屋建築の特徴を備えたこの建物は、旧観音町こまちなみ保存区域にあって、まちなみを象徴する貴重な歴史的建築である。
             案内説明より    
                

久保市乙剣宮

主計町茶屋街

浅野川岸

ひがし茶屋街近郊町並み

日本おもしろ文化博物館

太鼓山車庫

博物館看板

金沢金箔

箔座本店

黄金の茶室

金箔入り茶のおもてなし

  東山ひがし (重要伝統的建造物群保存地区)
藩政時代、金沢城下への入口にあたる北国街道の浅野川・犀川両大橋界隈には、お茶屋が建ち並んでいた。文政三年(1820)になり、正式に加賀藩の許しを得て、この「ひがし」の茶屋町が犀川外の「にいし」と共に開かれ、以来城下隋一のにぎわいを見せた。通りに面して一階を揃いの出格子、座敷を備える背の高い二階を吹き放しの縁側とする姿のお茶屋が並ぶ町並みは、藩制末期以来の茶屋町の特徴をよく残している。今も夕暮れ時には芸妓衆が行を交い、どこからともなく笛や三弦の音が聞こえる風情あふれる茶屋町である。

  旧中屋
この建物は、文政三年(1820)に建てられた茶屋建築で、創立時は「中屋」と称した。外部の格子は目の細かい木虫籠(きむすこ)で、腰は越前石が用いられている。一階二階の庇は軒の出が少なく、全体として優美な外観を呈し、玄関の大戸を含む全てが弁柄仕上げを残している。内部は往時の間取りを忠実に残し、優雅で繊細なお茶屋の造りとなっている。前二階及び広間の座敷は赤い弁柄、離れは鮮やかな群青の壁である。また、造作材は漆塗りで、お茶屋特有の「粋」を感じさせる大変貴重なものである。

  志摩  金沢市東山1-13-21  Tel 076-252-5675
文政三年(1820)茶屋町創設当初に建てられた茶屋建築である。茶屋建築は二階客間(座敷)とするため、二階部分を高くつくり、通りに面して高欄と張り出しの縁側を設けているのが特徴である。
一、二階の座敷廻りには要所に「面皮柱」と呼ばれる丸太の肌を残した柱を用い、漆にて全体に濃い色付けをほどこし、弁柄色の土壁や具象的な図案の金物などで、独特の瀟洒で華やかな室内を醸し出している。全国的にも類例の少ない茶屋建築であり、江戸時代後期における庶民文化の一端を知るうえでも貴重な建物である。平成十五年三月二十五日に国の重要文化財に指定された。

  懐華楼  金沢市東山1-14-8  Tel 076-253-0591
築百九十年を誇る歴史的建造物で、ひがし茶屋街では一番大きな茶屋です。現在でも夜は、一見さんお断りで「一客一亭」のお座敷があげられていますが、日中は館内の全てをご覧いただけます。うぐいす張りの廊下、裏階段から下りると金箔畳のお茶室、そしてお忍びの裏玄関など、ミシュラングリーンガイドから一星をいただいたお茶屋です。

  旧かみや主屋・土蔵
「旧かみや」は、明治六年(1873)頃の建築とされる茶屋建築です。主屋は瓦葺二階建て一部三階建てで、外観は一階に出格子、二階は階高が高く雨戸と戸袋を備えるなど、茶屋建築の特徴をよく表しています。内部は二階正面や中庭に面して、客をもてなす座敷や離れを配置しています。玄関の舟板や店の間の下地窓など数寄屋風の意匠が各所にみられ、襖の引手や長押しの釘隠しの意匠も変化に富んでいます。
土蔵は二階建て、瓦葺の置き屋根形式で、外観は基部を戸室石の切石積み、腰を薄青色の凝灰岩系の石張り、上部を白漆喰壁とし、窓には雨除けの霧除けを付けるなど、金沢で見られる土蔵造りの形式を踏襲しています。「旧かみや」は、明治初期の茶屋建築の外観と間取りの特徴をよく残す貴重な建物であり、また、建物を店舗活用する際、内部の建具などを土蔵で保管し、旧状への復原を可能とするなど、保存と活用を両立する事例としても評価されています。
                案内説明より

懐華楼

ひがし茶屋



ひがし茶屋街


ひがし茶屋街  金沢金箔  町並み

慶寧公夫人源朝臣崇子墓所(霊鑑院)

慶寧公継室鷹司通子墓所(顕光院)

吉徳公六女 橘子之墓

十四代藩主前田慶寧公墓所

十三代藩主斉泰公の長男として天保元年(1830)五月四日江戸に生まれる。幼名犬千代、後利住、通称又左衛門、十二代将軍徳川家慶から一字を賜り慶寧と改称した。 諡号恭敏公。慶応二年(1866)四月藩主に任じられたが、二年後に明治維新となったので慶寧公は最後の藩主となる。明治二年(1869)版籍奉還と同時に初代金沢藩知事に任じられたが、明治四年(1871)には廃藩となり、東京に移住した。まことにあわただしい時勢であった。
慶寧公の在位はわずか二年であったが、卯辰山開拓という大土木工事を興し、病院慈善殖産や娯楽施設まで備えた一大社会施設を新設している。これは公が福沢諭吉の「西洋事情」を読んで啓発され、社会福祉い事業の充実を期するため行ったものである。
元治甲子の変では父斉泰公の方針に反して勤王派であったが、事志と違い松平大弐らが責任をとって自害し加賀藩勤王派は壊滅した。このため明治維新以来長い期間勤皇派の薩摩・長門の下風に立たされたのであった。
明治七年(1874)五月二十二日熱海の地で没した。享年四十五 「松喬院慶雲良秀大居士」
                  案内説明より

加賀藩十四代藩主 前田慶寧

加賀藩十三代藩主 前田斉泰

十二代藩主前田斉広公墓所


十代藩主重教公の二男として、天明二年(1782)二月二十八日金沢で生まれる。幼名犬千代、俗称又左衛門、初めは利厚と名乗ったが十一代将軍徳川家斉に一字をもらい斉広と改名した。享和二年(1802)から文政五年(1822)まで在位した。
文政七年(1824)七月十日逝去。享年四十三 「金龍院文古雲遊大居士」
斉広公は時勢を深く洞察し、洋楽の移入を急務と考え蘭医学者宇田川玄真をはじめ、本多利明、伊能忠敬らの学者を招き、藩士に教えたので黒川良安、西村太沖、遠藤高璟らの科学者や富田景周、津田鳳卿、奥村栄実らの学者が輩出した。
特別名勝兼六園が完成したのも斉広公の事業の一つである。竹沢御殿という広大な屋敷を造営し、そこに時の鐘を置き人々に正しい時刻を知らした。「兼六園」という名称は白河楽翁(幕府老中陸奥国白河藩主松平定信)が命名したもので、宏大・幽遂・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ねることをいう。

  十二代藩主斉広公夫人鷹司隆子(真龍院)
名は隆、夙君と称した。前の関白太政大臣、鷹司政凞の二女として、天明七年(1787)四月二十八日に京都に生まれる。
文化四年(1807)十二月十八日京都から江戸本郷加賀藩上屋敷に入輿し、文政七年((1824)に斉広公が四十三歳で没した後隆姫は剃髪して真龍院と称した。三十八歳の時である。
天保九年(1838)八月二十二日に江戸より金沢に移り金沢城の金谷御殿に入った。文久三年(1863)には、十三代藩主斉泰公が真龍院のために造営した巽御殿(現在の成巽閣)に移り住んだのである。江戸より金沢への旅は、自筆の紀行文(道記一巻)として残されている。
明治三年(1870)六月八日逝去された。享年八十四 「眞龍院」

  前田斉広公世子 前田利命
十一代藩主治脩公が藩主の座を養子前田斉広公に譲位した後に生まれた(寛政二年1800)治脩公の実子。
斉広公の養子となり世子となったが六歳で夭逝した。
                 案内説明より

十一代藩主前田治脩公墓所


六代吉徳公の十男、幼名時次郎。延享二年(1745)一月四日金沢で生まれる。明和八年(1771)藩主となる。七代藩主から十一代藩主までの五人は、六代藩主吉徳公の実子である。まさか十男が藩主になるとはだれも予想しなく仏門に入れたが、十代重教公には後嗣がなかったので、越中古代国府伏木の名刹勝興寺の住職になっていたが呼び戻され還俗して第十一代を嗣いだのである。初め前田利有と名乗ったが十代将軍徳川家治の偏諱を授かり治脩と改名した。
治脩公は学門の振興に力を尽し、学者で家老の奥村尚寛を学校総奉行に命じ、藩の学校を創立させた。学問の明倫堂、武芸の経武館の両校で、初代明倫堂学頭には新井白蛾が任じられた。また、小松にも集義堂、修道館の二校を開校し、家臣の子弟は入学するためにきそって勉学に励んだのである。
なお七代から十一代まで短期間に藩主の入れ替えが行われたのでその儀式の費用が半財政を圧迫し、ひいては藩全体に影響したことは否めない。享和二年(1802)位を養子斉広公(十代藩主重教公二男)譲る。
文化七年(1810)逝去。享年六十六 「太梁院」
                  案内説明より

治脩公世子 前田齊敬墓所(夭逝)
生母金井操子(野田山墓地埋葬)

加賀藩六代藩主 前田吉徳

吉徳公三男 利和之墓

六代藩主前田吉徳公墓所

斉広公八女次子姫墓所

光高公次男 萬菊丸之墓

光高公長女 専子之墓

加賀藩五代藩主 前田綱紀

四代藩主前田光高公墓所

三代利常公の嫡男で、元和元年(1615)金沢にて生まれる。母は二代将軍秀忠公の娘珠姫(天徳院)、夫人には三代将軍家光公の娘(家光養女 德川水戸家二代光圀公の姉)を迎えたため、德川家とは至極円満な間柄となった。
珠姫は利家公の義孫(孫光高公の嫁)、家康公の曾孫(実の孫)
光高公は非常に聡明で学問を好み、江戸の儒家林羅山を師とし、和歌は烏丸光広について研鑽を積んだ。これについては数々の著書が残されている。
寛永十六年(1639)四代藩主となったが、わずか六年目の正保二年(1645)に三十一歳の若さで逝去されたので、藩にとっても大きな痛手であった。幸いにも実子に綱紀公が居られたので御家の存続の危機をまぬがれ、五代藩主となられた。重要文化財に指定されている尾崎神社は光高公の造営である。
享年三十一 「陽廣院殿將厳天良大居士」

  光高公夫人清泰院大姫
母は側室野沢氏、名を阿智姫 三代将軍家光の養女(大姫)となり、加賀藩四代光高公に7歳で嫁す。
十七歳で嫡子犬千代丸(後の綱紀公)を生んだ。明暦二年(1656)逝去 享年三十
               案内説明より

前田利常公殉死者五名の殉葬地(利常公墓地横)

加賀藩三代藩主 前田利常

御神木 (保存樹ケヤキ)

手水舎

西茶屋街町並み

西茶屋街町並み

西茶屋街町並み

旧涌波家住宅内部

旧涌波家住宅内部

ひがしやま町空間 

加賀藩十五代藩主 前田利嗣 

斉泰公長女菅原朝臣方子墓所

  十三代藩主前田斉泰公墓所
十二代藩主斉広公の嫡男として文化八年(1811)金沢で生まれる。幼名犬千代、俗称又左衛門、後利候、諡名温敬公。十一代将軍徳川家斉より一字を賜り斉泰と改名する。在位期間は文政五年(1822)から慶應二年(1866)、嫡男慶寧に家督を譲る。
明治十七年(1884)一月十六日逝去。享年七十四 「金龍院殿文古雲道大居士」
斉泰公の治政約四十年間は、新日本誕生の激動期であった。加賀藩においても藩論沸騰し、勤王佐幕に右往左往せざるを得ない状況で、外敵侵入に備え海岸防備を厳重にし、七尾に軍艦所を創設したりした。また藩内は豪商銭屋五兵衛の河北潟埋立て事件、黒羽織党事件、武田耕雲斎事件、元治甲子の変や天保、安政の大飢饉などの大事件が続発したが、穏健な処理につとめたのである。また、市川米庵を招いて書を学び大成され、能楽を奨励し自らも能の名手として知られる文化人であった。兼六園内の重要文化財成巽閣は、斉泰公が御母堂眞龍院の隠居所として文久三年(1862)に造営したものである。

  斉泰公夫人源朝臣偕子(景徳院)
十一代将軍徳川家斉の二十一女として文化十年(1813)三月二十七日に生まれる。母はお美代の方(専行院) 名は偕、溶姫と称した。文政十年(1863)十一月二十七日江戸本郷加賀藩上屋敷邸に入輿した。文久三年(1863)に初めて金沢に国入り、翌年江戸に戻り明治元年(1868)再び金沢に入ったが、同年五月十一日逝去した。
享年五十六 「景徳院」
溶姫輿入れの際藩邸内に溶姫御殿を造営し、御殿正門も新たに造営された。東京本郷通り(旧中山道)沿いの東京大学赤門はその時造営されたものである。
                 案内説明より

斉泰公次女菅原朝臣初子墓所

加賀藩祖 前田利家

  枯木橋の由来
枯木橋は、現在架かっている橋でも百年以上の歴史を有していますが、その歴史はさらに遠い昔に遡ることが出来ます。金沢古蹟志という書物に枯木橋の由来が載っていますのでご紹介します。
  由来その一
久保市乙剣宮の社記に、「織田信長の命をうけた佐久間盛政と一向一揆勢力が争った元亀・天正の乱で、神社一帯が焼き払われ、境内の林も焼かれて枯木の林になってしまった。その枯れた林が年を経てもそのまま立っていたので、この辺りの橋を枯木橋と呼んでいる。
  由来その二
「越登加三州記」という本に、「この橋は、正保年間の頃までは丸木を並べていて山間の渓谷に架かる橋の様であったが、その橋の傍らに枯れ木が一株あったので、世人が枯木橋と呼んでいる。」
  由来その三
「亀の尾の記」という本には、「この橋も丸木を縦に並べたものであるが、橋の脇に榎木があったが、後に枯れてしまった。その木が近年まで残っていたので橋の名前になった。」
これらのことから、橋の歴史は今から約四百年も前に遡ることができ、その名は、橋の傍らに枯れ木があったことに由来するといえそうです。

  惣構掘と枯木橋
枯木橋は、東内惣構堀という堀に架かっています。惣構というのは、城の最も外に巡らした土や石の囲いのことで、その堀が惣構堀です。慶長四年(1599)、加賀藩前田家二代藩主利長は、城下の防備のために家臣を総動員してわずか二十七日間で金沢城を取り囲む二つの堀を築きました。これが東内惣構堀と西内惣構堀です。
さらに慶長十六年(1611)には、東西の外惣構堀が造成されました。東内惣構堀は、小尻谷町に始まり小将町、賢坂辻を通り味噌蔵町、橋場町を経て枯木橋をくぐり抜け浅野川に注ぐもので、全長が十一町三十間(約1.3㎞)あります。残念ながら、今では惣構堀の面影を残すところは、ほとんど見られなくなってしまいました。

  金沢文芸館 金沢五木寛之文庫(旧石川銀行橋場支店)
建物は浅野川大橋近くのランドマーク的存在として市民に親しまれ、市指定保存建造物・国登録有形文化財にもなっています。金沢ゆかりの作家五木寛之氏の全著作品、愛用品や直筆原稿、金沢市が制定している泉鏡花文学賞受賞作品が展示されているほか、文学・文芸の活動場所として利用できます。
               案内説明より 
                          

久保市乙剣宮より主計町に通じる小路を指し、日中も日の当らない暗い坂道なのでこの名で呼ばれている。
暗闇坂ともいう。

加賀藩初代利家公墓所

利家公夫人まつ墓所

前田利家公は幼名犬千代、後孫四郎、永禄五年(1562)に又左衛門と改める。天文七年(1538)尾張国荒子城主前田利春公の四男として生まれる。利家公は十四歳の時に織田信長公に仕え、生涯四十数回の戦いに参加、数々の武勲を挙げていた。中でも初陣の海津の戦い(1551)、桶狭間、長篠、賤ヶ岳の戦いや末森城の激戦(1584)は有名である。また、「槍の又左」と異名をとるほどの槍の名手であったという。
天正十三年(1585)九月、豊臣秀吉公から羽柴筑前守の号を譲られている。秀吉の天下統一の大業は利家公に負うところが多大であったといわれている。
大名としては、元亀元年(1570)近江国長浜で一万石を領したのに始まり、越前府中(福井県武生市)で三万三千石余、次いで能登一国を領有し、加賀国石川、河北両郡を秀吉公から増封され、天正十一年(1583)四月二十五日(新暦六月十四日)に金沢城(当時尾山城)に入城した。利家公が金沢入城と共に加賀藩の時代が始まったのである。この日を記念して毎年六月十四日には封国祭りと、百万石祭りが盛大に行われている。慶長四年(1599)大坂城で逝去。
享年六十二  「高徳院殿桃雲浄見大居士」
金沢の尾山神社は利家公を祭神として祀っている。

  前田利家公夫人まつ(墓標 菅原朝臣松子之墓)墓所
利家公没後芳春院と号した。名は松、又は昌。
天文十六年(1547)尾張国海東郡沖の島に生まれる。天文十九年利家公の邸に入り、後に利家公の正室となる。
当時利家公は尾張国荒子城主であった。
利家公が戦国時代を生き抜いて百万石の太守に出世したが、その夫人としてのまつの内助の功は高く評価されている。関ヶ原合戦(1600 利家公が没した翌年)の後德川方と加賀藩との融和のために進んで人質となって、江戸の向かわれたのである。
慶長十九年(1614)までの十五年の長い間、加賀藩のために忍従の月日を過ごされたのである。子にも恵まれ?11人の子女を生んだ。
元和三年(1617)金沢で歿した。享年七十一 「芳春院殿花巌宗富大禅宗定尼」
              案内説明より

加賀藩前田家家臣高田家跡

庭園

長屋門 内

旧加賀藩士高田家跡は、藩制時代の長屋門(武家屋敷などに特徴的な、細長い長屋の中央に位置する門)を修復して公開しています。敷地内の庭園は、藩制時代の面影を残しています。

長屋門 表 

長家墓所

前田利家六男前田利貞系墓所

村井家墓所

吉徳公五女 益子之墓

吉徳公七女 暢子之墓 

加賀藩七代藩主 前田宗辰

吉徳公八女 保子之墓

前田利長公は初代利家公の嫡男として永禄五年(1562)尾張国荒子で生まれる。母は芳春院まつ、幼名利勝、後に利長と改めた。利家公と共に戦国歴戦の武将である。
慶長三年(1598)二代藩主となったが、同年四月には利家公が逝去され、翌五年には関ヶ原の合戦が起きるなど、徳川方と大坂方との関係が悪化し、雄藩たる加賀前田家の去就は天下の注目を集め、利長公の心労は並々ならぬものがあったのである。
利長公の在位はわずか七ヶ年であるが、金沢城の修築にキリシタン大名高山右近を用い百間掘りの石垣などを作らせている。
慶長十年(1605)弟利常に藩主の座を譲り、自らは富山城に住まわれた。慶長十四年(1609)に居城富山城が焼失したので、海陸交通の重要な地である高岡に城を築き移り住んだ。この間に高岡の開発に努め、今日の商工都市高岡の発展の基礎を築いたのである。慶長十九年(1614)高岡城で苦難の多かった生涯を閉じた。
高岡の名刹「瑞龍寺」は公の菩提寺である。享年五十三 「瑞竜院殿聖山英賢大居士」

  二代藩主利長公夫人
名は永(永姫)、天正二年(1574)織田信長公の四女として生まれる。天正九年(1581)越前国府中(福井県武生市)利長のもとへ入輿した。豊臣秀吉公側室淀君(茶々)、德川二代将軍秀忠公夫人崇源院(江)とは従姉妹である。織田信長公とお市の方(浅井三姉妹の母)は兄弟。利長公逝去後は玉泉院と称し、高岡より金沢城に移り、元和九年(1623)二月に没した。
享年五十 「玉泉院殿松厳永寿大姉」
金沢城の西の丸館跡は玉泉院丸と称され、樹木・泉石を配し露地が造られ庭園とした。

  前田利長公長女 満子姫
利長公ただ一人の実子。享年七 「蓮成院殿妙侃大姉」
                 案内説明より  
 

  香林坊地蔵尊
越前朝倉氏に仕えた向田兵衛は、天正八年(1580)当地に移り町人となって薬種商を営みました。その後、比叡山延暦寺の僧であった縁者の香林坊を婿養子に迎え、店の名を香林坊としました。ある夜、兵衛の夢枕に立った地蔵尊のお告げにより処方した目薬が、加賀藩祖前田利家の目の病を治し、香林坊は大いに名をあげました。この夢に現れた地蔵尊を造り店の小屋根に安置し、商売も大いに繁昌しました。寛永八年(1631)四月十四日の大火の時、地蔵尊の辺りで不思議と火が止まった為、香林坊の火除け地蔵とも呼ばれるようになりました。
                案内説明より 
     

流用水

枯用水

金沢老舗記念館

金沢老舗記念館

長町の一般家屋

犀川大橋より犀川
十代藩主前田重教公墓所

六代吉徳公の七男。
寛保元年(1741)金沢で生まれ、幼名健次郎のち利篤、母は実成院辻流瀬子。宝暦四年(1754)三月十一日藩主となる。九代将軍徳川家重より諱を授かり、、重基と改名する。その後明和八年(1765)将軍家重の世子の諱、重基を憚って重教と称した。明和八年(1771)藩主を異母弟に譲して余生を送った。天明六年(1786)逝去。
享年四十六 「泰雲院殿仁彭寿大居士」

  重教公夫人寿光院
紀伊和歌山藩主七代徳川宗将の娘 千間姫。
六代吉徳公以後、藩主の交代は七・八・九・十代と矢継ぎ早に行われ、そのため藩の財政は窮迫を告げた。その救済策として銀札という紙幣を発行したが、極度のインフレが生じ、各所で一揆がおこり、藩内は騒然とした。銀札は一年で発行を停止したが、藩の財政に尾を引く結果となった。宝暦九年(1759)には大火が起き(宝暦の大火)金沢の市街は二日間燃え続け、その九割ほどが灰燼に帰すという惨事があった。さらに天明の大飢饉に見舞われるなど、事件が続発したのであった。                                案内説明より

重教公夫源朝臣千間墓所(寿光院)

重教皇生母実成院辻流瀬子墓所

加賀藩十代藩主 前田重教

  豪姫の墓(中納言宇喜多秀家夫人)
加賀藩祖・前田利家公の四女、母は芳春院(お松の方)、天正二年(1574)に生まれる。幼少の頃、豊臣秀吉の養女となり、天正十六年(1588)、備前岡山城主・宇喜多秀家に嫁ぐ。
関ヶ原の合戦後、宇喜多秀家は二人の男子、秀高(秀規とも)秀継と共に八丈島に流罪。豪姫は、生家前田家にて余生を送り、金沢にて寛永十一年(1634)五月二十三日死去。
享年六十一。 法名 樹正院殿 命室寿晃大禅定尼。
この墓は三百有余年の間、代々前田利包(修理)の子孫によって守り続けられてきた。現在は、豪姫を偲ぶ会(大蓮寺)にて守られている。豪姫の菩提寺は、野町浄土宗 宝池山大蓮寺である。
                  案内説明より 
                        

奥村家高祖系墓所

加賀藩八代藩主 前田重熈

前田土佐守家

加賀藩二代藩主 前田利長

七代藩主前田宗辰公墓所

六代藩主吉徳公の長男。享保十年(1725)四月二十五日金沢にて生まれる。幼名勝丸のち犬千代、又左衛門利勝と名乗った。八代将軍徳川吉宗に拝謁しその諱を贈られ宗辰と改めた。延享二年(1745)七代藩主となったが、延享三年(1747)十二月八日在位わずか一年半で没した。
享年二十二 「大応院殿梅観雪峯大居士」 在位期間が短く、治政上著名なものはないが、加賀騒動の張本人といわれる大槻伝蔵朝元が越中五箇山へ追放され、その牢屋で自殺するという事件があった。

  宗辰公夫人梅園院常子
陸奥会津藩三代藩主保科正容の娘として享保十年(1725)に生まれる 常姫。加賀藩七代藩主宗辰公に嫁し、長子をもうけるもその後夭折した。
延享二年十一月没する。享年二十一 梅園院


                        

宗辰公夫人源朝臣常子墓所

宗辰公生母浄珠院上坂與子墓所

奥村家墓所

玄関と前の間

奥の間

切妻平入り家屋

芳春院(利家夫人松)実家篠原家墓所

利長公墓所 (富山県高岡市)

加賀藩九代藩主 前田重靖

長女 前田満子之墓

玉泉院墓碑と墓地

足軽とは戦闘時に駆り出される歩兵のことを指しています。戦国時代には弓・鉄砲の部隊を編成して活躍しましたが、江戸時代には武士の最下層に位置付けられていました。
              案内説明より

足軽屋敷資料館

妻側壁板張り

奥村家宗家墓所

八代藩主前田重熈公墓所

六代吉徳公に二男。享保十四年(1729)江戸で生まれ、幼名亀次郎のち利安 母は心鏡院鏑木民。寛保三年松平生を与えられ、松平利安と称した。九代将軍徳川家重より偏諱を賜り重熈と改名する。延享四年(1747)八代藩主となり宝暦三年(1753)までの六年間在位し、江戸藩邸で没した。
享年二十五 「謙徳院殿緝甫尚古大居士」
              案内説明より

重熈公生母心鏡院鏑木民子墓所

二代藩主前田利長公墓所

利長公墓碑と墓地

利長公夫人玉泉院墓所

  大野庄用水
藩政時代前からある用水で、犀川から取水、旧石川郡大野庄の灌漑、物資の運搬、市街地の防火・防ぎょ、融雪などのための多目的用水で、御荷川、鬼川、オホノヒ川の別名があり、下流は木曳川という。現在も庭に「やり水」するなど城下町に景趣をそえている。
  薦掛け
薦掛けは、雪から土壁を保護するもので、浸透した水分の氷結による損傷や、付着した積雪による土の剥がれを防いでおり、毎年十二月から翌年三月まで設置され“金沢の冬の風物詩”となっています。

茶屋街模擬ガス灯支柱?

旧中屋

旧中屋 お茶屋文化館

金箔 興福寺五重塔

プレスによる金箔製造

金箔製品販売

慶寧公長女順子墓所

長町武家屋敷界隈にようこそお越しくださいました。この界隈は藩政時代の面影をよく残しており、尚且つ住民の静かな生活が営まれているところです。路上駐車や家の中を覗き込んだり、大声での会話等ご遠慮いただき、環境の美化に協力をお願いいたします。

大野庄用水に架かる長町二の橋 

薦掛け

景観留意金沢中央公民館長町支館

樹高 20m
幹廻り 3.88m
枝巾 18m

欅は公園、街路樹、防風樹などに
多く植えられるほか、
社寺建築、漆器、彫刻などに利用されている

久保市稲荷社

拝殿懸魚社紋

主計町から境内へ

拝殿

本殿

狛犬

浅野川大橋南詰

  浅の川暮色  昭和四十六年六月(1971)
森口は川に面したガラス戸を開けると、手すりに両肘をのせて目の前の暗い並木の通りと、その向うの浅野川の河面へ目をやった。川は光った銀色の網を打ったように小さな白い波をたてて流れており、対岸の古風な家並みが舞台の書割のように黒いシルエットで浮かびあがっている。付近の料亭で打っているらしい太鼓の響きが、風向きに応じて低くなったり高くなったりしながらかすかにきこえてきた。

  泉鏡花記念館(生家跡)下新町 泉鏡花生誕の町
我が居たる街は、一筋細長く東より西に爪先上りの小路なり。両側に見好げなる仕舞家のみぞ並びける。市中の中央の際めて好き土地なりしかど、此町は一端のみ大通りに連なりて、一方の口は行留りとなりたれば往来少なかりき。朝より夕に至るまで、腕車、地車など一輌も過ぎるはあらず。   (照葉狂言より)

  立花北枝(研屋源四郎)宅跡
北枝はその居を転々としており、一応旧観音町(現東山)に始まり、旧下新町(現尾張町)、春日町と住かわり、そこに「源意庵」を構えていた。芭蕉が訪れたのは、尾張町が有力で、そこで「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」の句も初めて披露されたものと言われている。

  泉鏡花照葉狂言にちなみ 照葉さくら命名の記(新保千代子)
てり葉輝く 桜のひともとを われら植えたり   年々歳々 花あたらしく 浅野川流れてやまず
美しき 歴史生きるる町 旅人も訪ないたまえ
新保千代子(1913~2004)  石川近代文学館館長後名誉館長
                案内説明より  
         

浅野川大橋緑地 復元火の見櫓

浅野大橋と浅野川と桜

泉鏡花記念館 (生家跡)

立花北枝(研屋源四郎)宅跡 手前

浅の川暮色石碑 (五木寛之)

にし茶屋街

西茶屋資料館

西検番事務所(芸妓事務所?)

西茶屋緑松園

森八和菓子店 寛永二年創業

経田屋米穀店 市指定保存建造物

妻入り二戸の大町屋建築

ひがし茶屋休憩館(旧涌波家)

街中の表具店

菊慈童像(太鼓山車)

ああああああ

あああ
ああ
あああ

茶屋町並み

東料亭組合事務所

茶屋町並み

茶屋町並み

茶屋町並み

茶屋町並み

旧加賀藩上屋敷御守殿正門
(東大赤門)

十三代藩主前田斉泰公墓所

斉泰公夫人源朝臣偕子墓所(景徳院)

斉泰公生母小野木百合子墓所(栄操院)

斉泰公次男鈞次郎墓所

斉泰公六男純六郎墓所

綱紀公長男 千代松之墓

綱紀公三男 久丸之墓

綱紀公六男 雅十郎之墓

綱紀公四女 良子之墓

五代藩主前田綱紀公墓所

松雪院。寛永二十年(1643)江戸で生まれる。
四代光高公が夭折されたので、正保二年(1645)嫡男綱紀公がわずか三才の時、五代を継がれたのである。三代利常公が存命であったので、その後見となっている。将軍家綱の一字をもらい初め綱利といったが後に綱紀と改めた。正室は会津の保科正之(三代将軍家光の弟)の娘であり、徳川家とは一段と密接な関係になった。
公の治世は七十九年の長きにおよび、この間に素晴らしい業績を残された。自らも学者として著名であるが、その著は中国の乾隆四庫にもまさるといわれ、かの有名な新井白石が加賀は天下の書庫なりと感嘆したほどである。また多くの名工を招き美術工芸の発達をうながし、薬学の研究、加賀宝生の奨励など文化面での功績は数えきれぬほどである。さらに内政面においても、藩職制の整備をはじめ土木事業、農政施策や救貧事業などみるべきものが多かった。中興の英主といわれている。
享保九年(1724)五月逝去 享年八十二 「松雲院殿徳翁一斎大居士」

  綱紀公夫人松嶺院摩須姫
松嶺院は、陸奥会津藩初代藩主・保科正之(江戸幕府第三代将軍徳川家光の異母弟)の四女(母は側室 徳性院 )として、正保五年(1648)年に生まれ、摩須と名乗った。万治元年(1658)七月二十七日)に加賀藩 第五代藩主前田綱紀に嫁いだ。三代に渡り德川家との縁組により幕藩体制の中でより強固に前田家の地位を高めることとなった。
寛文六年(1666)逝去 享年十八
                案内説明より

綱紀公夫人松嶺院墓所 墓標源朝臣摩須子

加賀藩四代藩主 前田光高

光高公夫人清泰院墓所 墓標源朝臣阿智子

斉広公三男為三郎君墓所(夭逝)

斉広公四男延之助君墓所(夭逝)

斉広公長女直子姫墓所(夭逝)

斉広公六女郁子姫墓所(夭逝)

斉広公生母山脇喜機子墓所(貞琳院)

斉広公五女珍子姫墓所

前田光高公殉死者二名の殉葬地(光高公墓地後)

小篠善四郎之墓

浅井源右衛門之墓

品川雅直之墓

古市左近胤重之墓

原三郎左衛門之墓

堀作兵衛義勝之墓

竹田市三郎忠次之墓

利長公銅像(高岡市)

利長公菩提寺 瑞龍寺(高岡市)

高岡城址(高岡市)

前田土佐守家資料館

交差点脇の香林坊地蔵尊

香林坊交差点

九代藩主前田重靖公墓所

六代藩主吉徳公五男。
享保二十年(1735)金沢で生まれ、幼名嘉三郎のち利見、母は善良院石川縫。宝暦三年(1753)五月十八日、九代藩主の座に就く。九代将軍徳川家重より偏諱を授かり、重靖と改名する。藩主の座についてからわずか五ヵ月間の在位したが宝暦三年九月に没した。
享年十九 「天珠院殿嘯月仁勇大居士」
             案内説明より

重靖公生母善良院石川縫子墓所

重靖公長女 邦子墓所

結構な上りになります

横山家墓所

ヨゼフさんの墓地

十五代当主前田利嗣墓所

無縁墓地の整理中です

懐華楼屋号額

十五代当主夫人前田(鍋島)朗子墓所

吉徳公六男 八十五郎之墓

前田家墓地入口

黄金の蔵

旧かみや

十五代当主生母前田挺秀墓所

前田吉徳公は元禄三年(1690)、五代藩主前田綱紀の三男として江戸で生まれる。第五代将軍・徳川綱吉の一字をもらい吉治、後に吉徳と改めた。享保八年(1723)綱紀が高齢と病のため、家督を譲られて第六代藩主となる。
吉徳公は資性温良で、享保の西国飢饉には八万両を贈ってこれを助け、朝廷の荒廃を嘆いてしばしば金品を贈っている。公の存命中は元禄・享保の文化爛熟期であり、一般に贅沢の気風が流れ、その反面、家臣の窮亡、藩財政の逼迫など、
いわゆる台所の苦しさが加賀藩の課題であった。
そこで藩政の一新で財政の立て直しを図るため、身分は低いが財政的手腕のある大槻伝蔵朝元を起用し、一時大いに実効をあげたが、あまりにも急激な施政の為他の老臣達から反発をこうむり、いわゆる加賀騒動の原因になったとも言われている。
延享二年(1745)逝去 享年五十六 「護国院殿佛鑑法性大居士」

  吉徳公夫人光現院
元禄十二年尾張德川家三代綱誠公の十七女として生れる松姫、
後五代将軍綱吉公の養女となる。宝永五年(1708)吉徳公に入嫁する。
享保五年(1720)逝去。享年二十二 光現院磯子

  吉徳公七女暢子
天文五年(1740)に生まれる、母は寿清院。
播磨国姫路城主酒井家世嗣忠宜に嫁ぐも二代藩主になる前に死去。
嫁家離別後郷里に帰る。寛政七年逝去、享年五十六

吉徳公四女、五女、六女は共に夭逝。
           案内説明より

吉徳公四女 幻智院之墓

長左衛門窯の神木赤松

金沢文芸館 五木寛之文庫
旧石川銀行橋場支店

大樋長左衛門窯

近代、現代前田家当主墓所

煉瓦造り建築 入口には骨董とある

金沢蓄音機館

蓄音機館のHis Master`s Voice

  にし茶屋街(西料亭)
加賀藩前田家十二代斉広は、文政三年(1820)金沢奉行山崎頼母らの口添えにより、公許を与えて妓楼を区域を限定して集め、石坂茶屋町が出来上がり、営業が開始された。しかし、天保二年(1831)には茶屋制度が廃止され、さらに慶応三年(1864)九月に再び公許されるなど、幾多の変遷を辿りながら百有余年の歴史と伝統の面影を今に伝えている。
茶屋町は上町(西茶屋)と下町に分れ、上町は金沢での紳士の社交場としての役割を果たし、数多くの名妓を生んでその伝統と格式は現在でも受け継がれている。茶屋街の入口にはかって大門があり、番所が置かれて茶屋街の象徴でもあったが今はない。茶屋街の建造物の特徴は、格子作りと掛行灯であるが、特に金沢の格子は桟が細くて間隔が狭いのが京都の島原や江戸の吉原と異なる点で、以前は紅殻の漆で塗られていた。
             案内説明より 
        

西茶屋街緑地

西茶屋街石碑

西茶屋街町並み

熊がいるらしい 怖い

旧中屋 軒提灯掲げ屋根

野田山墓地入口

茶屋 志摩

前田吉徳公夫人 光現院墓所

両側には一般墓地

箔座 ひかり蔵 金箔押し体験処

茶屋 志摩

生母預玄院三田村町子墓所

加賀藩祖前田利家が天正十一年(1583)金沢城に入城し、加賀藩前田家百万石の礎を築く際に直臣として従った野村伝兵衛信貞は、禄高千石のち千二百石と累進してこの地に千有余坪の屋敷地を拝領して御馬廻組組頭、各奉行職として代々続いた由緒高い家柄である。
明治四年廃藩に至り庭園、土塀の一部を残して一帯は菜園となったが、大正に入って現在の住宅街と変遷したのである。しかしいまだに一部に藩政時代の面影を留めている。当野村家もいくたびか住人を替えたが、藩政時代北前船として樺太、蝦夷に通商し藩政を支えた加賀支藩の大聖寺藩下の傑商久保彦兵衛が藩主を招くのに造った豪邸の一部である上段の間、謁見の間を移築したものである。いまさらに往時の文化栄華を知る数少ない貴重なる文化遺産であり、たたずむ此処に歴史の重み「加賀文化」の深さを感じられてならない。
             案内説明より 
                    

滋養強壮まむし黒焼 東田薬店

門構えの家屋

割烹料亭 金城摟

枯木橋の流れ

枯木橋

主計町茶屋街町並み

主計町茶屋街町並み

主計町茶屋街町並み

暗がり坂小路

暗がり坂

前田家家臣墓地 (場所がはっきりしないので大凡の見当なので間違いがありそうです)

利家公六男 利貞・七女千世 墓

利家公四女 豪(宇喜多秀家室)墓

利家長女 幸(前田長種室)墓

利常公四女富子墓所

利常公夫人天徳院墓所

三代藩主前田利常公墓所

利常公生母小幡千世子(寿福院)墓所

  前田利常公
初代利家公の四男として文禄2年(1593)金沢に生まれる。2代利長公に男子がなかったので慶長10年(1605)その跡を継いで13歳で藩主となる。2代将軍秀忠の二女珠姫を正室に迎え、徳川方との融和政策を進めたのである。
利常公は改作法という画期的な農政を実施した。このため加賀藩百万石の治世が安定したのである。また美術工芸の振興に努め、さらに神社・仏閣の造営にも力を注ぎ、名工をまねいてこれに当たらせた。羽咋の妙成寺、小松の小松天満宮と那谷寺、高岡の瑞龍寺などはいずれも前田利常の時代に造営されたものである。
(高岡市の瑞龍寺は国宝に指定されている)
寛永16年(1639)長男光高に継がせ、小松に隠居所としての居城を作り晩年を過ごされた。その間に小松の商工業振興に務め、今日の隆盛の基礎をつくられたのである。
万治元年(1658)小松で逝去した。享年六十六 「微妙院殿一峯克厳大居士

  三代藩主利常公夫人
名は子々または禰々、後に珠姫。江戸幕府二代将軍徳川秀忠の二女で、慶長四年(1599)京都伏見邸内に生まれる。
慶長六年(1601)江戸より金沢へ入輿、利常公へ来嫁する。珠姫三歳の時である。(現在の年齢で二歳)
公子女八人を産み元和八年(1622)七月、二十四歳で没した。
金沢小立野に葬り一寺を建立、諡をとり天徳院と称した。五十年後の寛文十一年(1671)に利常公の墳墓のあるこの地、野田山に移葬された。長男光高公は加賀藩を嗣ぎ、二男利次公は分藩し富山藩の藩祖となり、三男利治公は大聖寺藩藩祖となった。
「天徳院殿乾運淳貞大禅定尼」

  利常公四女富子(墓標 八条宮智忠親王王妃富子御墓)
元和七年(1621)、三代藩主利常公の四女として生まれる。母は天徳院。八条宮智忠親王の妃となる。
寛文二年(1662)京都にて逝去され、霊柩を利常公の墳側に帰葬した。御墓は明治三十六年より宮内省(現宮内庁)の管轄となっている。
京都の桂離宮は八条宮初代智仁親王のとき創始されたが、二代智忠親王が加賀百万石のお姫様を奥方に迎えられたので、加賀藩という大きな後ろ盾が出来て、新御殿を増築し庭園も現在みられるような美しいものに完成することが出来たのであろう。

  利常公生母小幡千世
越前朝倉氏の家臣上木新兵衛、同じく朝倉氏家臣の娘を父母として元亀元年(1570 織田信長の朝倉氏討伐年)生れる。父の死後、母が小幡九兵衛と再婚し養父小幡氏の姓を名乗り、小幡ちよと称した。その後、利家夫人まつの侍女となり、利家公の近くに居りました内懐妊、利家公四男幼名猿千代を生んだ。享年六十二 「寿福院殿華岳日栄大姉」
                案内説明より 
              

弘法大師造の地蔵菩薩像らしい

鳥居石造り扁額

歓喜天堂

養知院本堂 延命地蔵菩薩

御願成就地蔵菩薩石像

治脩公夫人菅原朝臣正子墓所(法梁院)

斉広夫人藤原朝臣隆子墓所(真龍院)

斉広公世子前田利命墓所
十一代治脩公実子 斉広公養子

加賀藩十二代藩主 前田斉広

菅原神社

菅原神社拝殿

拝殿の扁額と祀られる三柱

菅原神社手水舎

天神牛(撫で牛?)

養知院 歓喜天に鳥居?

加賀藩十一代藩主 前田治脩