温泉その18

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遠刈田温泉 アクティブリゾーツ宮城蔵王

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温泉名: 遠刈田温泉大和宮城蔵王
源泉名: 蔵王リゾート1号源泉
泉質: ナトリウムー塩化物・硫酸塩・炭酸水素塩泉
    低張性 中性 高温泉
    pH6.8  陽イオン 857.8㎎/㎏  陰イオン 1345.0㎎/㎏
    成分総計 2282㎎/㎏
源泉温度: 86.6℃
湧出量: 250L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 加水 循環ろ過 塩素消毒
効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ
    くじき 慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進 
    動脈硬化症 高血圧症 切り傷 やけど
利用料: 1000円
利用時間: 12.00~21.00
休日: 無休【問い合わせ)

ダイワロイヤルホテル アクティブリゾーツ宮城蔵王
宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉字鬼石原1-1  Tel 0224-34-3600

外観

大浴場

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落合温泉

露天風呂 桧の湯


黒石温泉郷 
ぬる湯温泉 落合温泉 板留温泉
  
黄檗宗 瑠璃山薬師寺  日蓮宗 壽量山遠光寺

ぬる湯温泉

温泉成分分析書

露天風呂

温泉名: 法師温泉法師の湯
源泉名: 法師温泉旭の湯
泉質: カルシウム・ナトリウムー硫酸塩泉
     張性 アルカリ性 高温泉
     pH8.5  陽イオン 358㎎/㎏  陰イオン 777㎎/㎏
     成分総計 1180㎎/㎏
源泉温度: 41.5℃
湧出量: 155.5L/min
湧出形態: 自然湧出
注入排出形態: 源泉掛け流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり 
    うちみ くじき 慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 
    疲労回復 健康増進 
    動脈硬化症 高血圧症 切り傷 やけど 慢性婦人病

温泉名: 法師温泉長寿の湯
源泉名: 法師温泉寿の湯
泉質: カルシウム・ナトリウムー硫酸塩泉
    低張性 弱アルカリ性 高温泉
    pH8.4  陽イオン 377㎎/㎏  840㎎//㎏
    成分総計 1260㎎/㎏
源泉温度: 42.2℃
湧出量: 87.6L/min
湧出形態: 自然涌出
注入排出形態: 源泉掛け流し  

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり 
    うちみ 慢性消化器病 くじき 痔疾 冷え症 病後回復期 
    疲労回復 健康増進 
    動脈硬化症 高血圧症 切り傷 やけど 慢性婦人病

温泉名: 法師温泉玉城の湯
源泉名: 法師温泉官行の湯
泉質: 単純温泉
    低張性 弱アルカリ性 微温泉
       pH8.3 陽イオン 152㎎/㎏  陰イオン 341㎎/㎏
    成分総計 530㎎/㎏
源泉温度: 28℃
湧出量: 190L/min
湧出形態: 掘削自噴
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ 
    慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進

法師温泉 長壽館
群馬県利根郡みなかみ町永井650  Tel 0278-66-0005



法師温泉 長壽館
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板留温泉



日蓮宗 壽量山遠光寺 青森県黒石市大字温湯字鶴泉31



黄檗宗 瑠璃山薬師寺 青森県黒石市大字温湯字鶴泉12-4

   温湯温泉の由来
温湯温泉は今より四百有余年前、神山右仲と云う人久しく此の地に居住せしが、汗石川辺の葦原に日々片足を傷つけたる鶴が来りて浴するのを見、不思議の感をいだきその処を検して湯を発見せりと伝う。後、天正十九年(1591)浪岡城主北畠家の重臣・工藤治郎左衛門此の地に移住し、寛永元年(1624)左大臣・定熈の長子・花山院忠長卿の入湯ありてより、その名次第に聞こえる。忠長卿は温泉の効験を激賞し、次の歌を詠まれている。「雲の上に聞こえあけはや葦田鶴のいえしいで湯のしるきしるしを」。
また、鶴羽立熱後湯などと称されていた地名も、ぬくもり(温)をながく保つ湯の特徴から、忠長卿の命名で温湯と呼ばれるようになったと伝えられる。明治十八年、内務省の温泉分析により、日本の名湯に指定され、尚現在全国名湯三百選にその名を連ね、その効能が高く評価されております。

温泉名: 温湯温泉
源泉名: 温湯鶴泉源泉
泉質: ナトリウムー塩化物・硫酸塩泉
    低張性 弱アルカリ性 高温泉
    pH7.89  陽イオン 496.2㎎/㎏  陰イオン 905.0㎎/㎏
    成分総計 1529㎎/㎏

源泉温度: 49.1℃

湧出量: 298L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉掛け流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり
    うちみ くじき 慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 
    疲労回復 健康増進 
    動脈硬化症 高血圧症 切り傷 やけど
    
利用料: 250円 小人100円
利用時間: 4.00~22.00
休日: 無休

一般社団法人 黒石市観光協会
青森県黒石市緑町1-187  Tel 0172-52-3488

温湯共同浴場 鶴の名湯  黒石観光協会→温泉・宿泊
青森県黒石市大字温湯字鶴泉79  0172-54-8591

温湯温泉

共同浴場 鶴の名湯

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寶川温泉 汪泉閣
 
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日帰り温泉施設 宝川山荘



土湯温泉 旅館向瀧 tutiyuonsen-mukaitaki



はちのへ温泉 hatinoheonsen

温泉名: 繋温泉愛真館の湯
源泉名: 新瑞光の湯・至光の湯 混合泉
泉質: 単純温泉  
    低張性 アルカリ性 高温泉
    pH9.0  陽イオン 185㎎/㎏  陰イオン 346.4㎎/㎏
    成分総計 630㎎/㎏
源泉温度: 72.5℃
湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加水 加温 循環ろ過 消毒

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 
    冷え性 末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 
    軽高コレステロール症 糖尿病 自律神経不安定症 うつ 
    痔症 睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進 不眠症 
利用料: 800円 フェイスタオル付
利用時間: 7.00~18.00 
休日: 無休 (必要問い合わせ)

繋温泉 愛真館
盛岡市繋字塗沢40-4  Tel 019-689-2111

利用料: 1000円
利用時間: 11.00~16.00 この間清掃時間あり
休日: 無休 (必要問い合わせ)

繋温泉 紫苑
盛岡市繋字湯の館74-2  Tel 019-689-2288 



繋温泉 愛真館 tunagionsenーaisinkan

温泉街より北アルプス展望 左は大滝山と前山の鍋冠山・奥に蝶ヶ岳方面  右常念岳・大天井岳・燕岳方面

食事は味付けも適度で塩分も薄め 青森県は平均余命・・・・王国
女将の食卓が広がれば最下位はおろか上位進出も確実

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大浴場付け露天風呂

  薬師堂
延宝二年(1674)松本藩主・水野忠直の母清陽院の祈願により堂を建立、薬師如来を安置した。昭和二十三年五月二十三日、付近の火災の飛び火により類焼、昭和三十三年、東京大学の藤島亥治郎博士の設計で藤原時代(平安時代)の御堂形式で再建された。本尊薬師如来坐像は、像高74㎝、桧材一木造、彫眼、左手に薬壺を持つ。藤原時代末期の様式を残し、神宮寺創建当時の古仏であるが、雨露にさらされ破損が目立っている。

  神宮寺の木造薬師如来坐像 (松本市重要文化財 昭和六十三年三月十七日指定)
像高73.6㎝、桧材一木造、彫眼。神宮寺薬師堂本尊で、納衣は左肩からわずかに右肩をおおい、左手は屈臂し、膝上に安じて薬壺を持つ。右手も屈臂、施無畏の印を結び、両手、鼻は後から補修されている。
螺髪、面相、躰の感じの弱さから藤原時代の作と推定されている。神宮寺は医王山神宮寺と云われ、浅間神社(御射神社)の別当寺であり、平安・鎌倉時代を通じての古刹である。

  薬師堂の石燈籠
延宝二年(1674)七月、薬師堂が松本藩主水野忠直の母・清陽院の祈願により此処に建立された時、
藩士・鈴木助左衛門、三輪長左衛門が寄進した石燈籠である。
               案内説明より                 

薬師堂 宝形造銅板葺

薬師瑠璃光如来

参道に並ぶ石塔

三界萬霊塔・・・・・桂州居士香

薬師瑠璃光如来・・・・・縁日 毎月八日
延命地蔵菩薩・・・・・縁日 毎月二十四日  
大正七年八月二日 神宮寺現住徹応勇禅代

梵字 南無阿弥陀仏
寛永四辛未(1751)七月十五日 湯久間村 願主一心と刻まれている
湯久間は今の下浅間のことである    

庫裡右横のAvalo Hall (葬送会館)
住職の高橋さんは生と死の狭間をわかりやすく語っていただけ、死を送る生の覚悟を優しく見届ける。
仏教の本質をあらゆる生活にも広める活動に力を注いで、多くの人々に教えを請われる方丈さんです。

臨済宗妙心寺派 醫王山神宮寺

三門 桟瓦葺薬医門

三門扁額

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東泉部薬師堂

  東泉部薬師堂
古くは湯薬師として下方の荒湯源泉の所にあったが、寛保二年(1742)横谷沢の大水害で流されした浅間へ移転再建した。昭和六十三年浅間文化財修理の寄付の際、本尊薬師如来を新たに安置した。平成五年浅間全町会有志の寄付により、現在地にお堂を新築し本尊を安置した。毎年四月に薬師保存会によって大祭が執り行なわれている。

  開道記念碑
大正十年九月、浅間から三才山へ行く浅間峠の登り口の道路改修をした記念に建立した碑である。碑面の文字は、江戸神田生まれで俳諧の大家・八世其角堂となった老鼠堂機一の書である

  篠田焼登り窯跡
篠田義一氏は、多治見市の荒廃していた窯跡の耐火築窯煉瓦うぃ入手し、京都清水焼式の登り窯の四分の一に設計し、すべて手造りで昭和二十一年完成させた。昭和三十七年近代的焼成窯が導入されるまで、日展入選作品のほとんどを焼いた。現在中信地方(長野県・信濃の中央部)に遺る唯一最後の登り窯である。
              案内説明より           

登り窯跡

登り窯跡石標

開道記念碑

碑の横の道がその道なのか?

  御殿山天満宮
浅間温泉天満宮は、松本城主の入湯所であった御殿の湯の東側にある御殿山中腹にあります。この神社は松本城主水野氏が勧請した社で、明治十六年(1883)に記された『二木実録年代記』によれば、万治二年(1659)の創建とされています。また、明治三年の『諸社委詳取調書上』には江戸時代には松本藩が二十年毎に修理を行っていたと書いてあります。
本殿は間口五尺の規模の一間社流造・銅板葺の社殿で、向拝内に高い床を設けた見世棚造りの形式となっています。昭和六十二年(1987)に修理が行われ、屋根葺替え、土間取替え、柱根継ぎ、縁長押取替えなどが行われていますが、それ以外の場所では創建当時の部材をよく残しています。
当時の部材には彩色がよく残っており、胡粉・朱・黒・茶・緑青などで全体が塗られていたことがわかります。このように見世棚造りという簡素な形式でありながら彩色を施すのは、信州では江戸中期までの特色です。 さらに特徴的な点としては、虹梁上に扠首を組み、斗を置いた形式の妻飾りを持っている点です。通常、扠首は豕扠首という形式で、合掌形に組んだ材の頂点から垂直に扠首束という材を立てるのですが、この社殿は扠首束が省略され、合掌形に組んだ材のみの扠首となっているため、軽快な印象のつくりとなっています。
このほか、本殿の向拝の蟇股の輪郭や、海老虹梁)の渦の絵様などは塩尻市の小野神社と共通する技法です。小野神社の大工棟梁は松本藩大工頭の中村四郎右衛門であったので、この天満宮本殿も中村四郎右衛門が建てたと考えられます。
            松本のたからより転載

  天満宮の手水鉢
元治元年三月、松本藩の上級武士六人により奉納されたものである。六人の氏名と、この石は山辺の桐原から出た石で、その謂れのある石であることが刻まれている。碑文 元治元年甲子三月吉日 鶴見次温 安保實美 玉生完忠が見えるが、他の碑文は土中に埋もれて読みきれない。

  鶯止山の碑
歴代松本藩主は天満宮を崇敬し、浅間御殿へ湯治に来たときは参拝した。特に戸田家八代の光庸は文人で崇敬深く、碑文を作り藩学者の雪江関思に筆書きさせ、万延元年(1860)八月これを建立した。碑文は漢文で難解であるが、概要は以下の通りである。
「君主が仁政をし、家臣が君主を敬い、父が子を慈しみ、子が孝行すれば国内は平穏無事で、禽獣も恩に感じる此の山に登り参拝すれば、君臣百性も楽しみ鶯も丘に止まって鳴く」

  天満宮の石燈籠
社殿前の一対の燈籠は文久四年(1864)三月、枇杷の湯湯守・小口湯庵が奉献したものである。
他の一基は慶応二年(1866)三月、堀内謙拝が奉献した。
             案内説明より

美鈴湖(灌漑用湖)・美ヶ原高原方面への道 美鈴湖はスケート場として六十年以上前には25~30㎝の厚さがあった

ウェストンホテル 
10年ほど前に休業

温泉街大衆浴場 仙気の湯

浅間温泉界隈

湯けむり公園 (チンチン電車浅間線終点駅跡)
大正十三年(1924)から昭和三十九年三月まで四十年間運行されていた路面電車(チンチン電車)の終点で、浅間温泉の玄関口としてたいへん賑わった。駅跡地は平成八年三月松本市が公園として整備し浅間温泉街づくり協議会は愛称名を募り、「湯けむり公園」と名付けられた。
明治も終わりごろになって鉄道が東京・名古屋方面へと通じ善光寺詣りの団体はじめ文人墨客等来客が増え、旅館は専業化していきました。大正十三年(1924)には松本駅前からの「チンチン電車」が開通し、旅館は軒を接して大厦高楼となりました。芸者衆もおり松本の奥座敷でもあり県下有数の温泉地として栄え、住む人のステイタスも高まりました。電車は西在新村の資産家・上条信によるものですが、自動車時代となり昭和三十九年(1964)廃止されました。この場所は終点浅間温泉駅の跡地です。
            案内説明より

チンチン電車が走った道

駅舎跡地の公園

浅間温泉駅とチンチン電車

チンチン電車

公園浅間温泉案内板

温泉街への道

浅間温泉については宿の説明書には次のように書かれていた。 (説明文転載)

浅間温泉が歴史の上に現れたのは古く、日本書紀によれば天武天皇が白鳳十四年(685)に、「信濃に遣わして行間を造らしむ 蓋し 束間の温湯に幸せんと擬すか」と記されており、信濃の国の国府が平安時代の初めには市内・惣社(信濃国総社)在ったとされることからして「束間の温湯」は松本市東山山麓に点在する浅間、藤井、湯の原、御母家の一体を指していたことは、考古学者によって明らかにされています。
万葉集などに詠まれている浅葉の里、麻葉の湯は、束間の湯とともにあさまおんせんの古称だったと考えられています。鎌倉時代初期には「浅間社」という名称が登場しています。何故その名前になったかは文献が残っていませんので詳しくはわかっていません。また、言語的には、南方民族では火や煙のことを「あすむ」と呼び、山が噴煙を上げるのと同じく、湯煙が立ち込めていたこの地方を「アッサ」→「アサ」→「アサマ」という風になまったのではないかといわれています。アイヌ語と関わったという説もあり、確かなことは解りませんが、縄文時代の遺跡がこの地方から発掘されていることから、浅間の歴史もとても古いと考えられています。
藩政時代には松本藩の藩主の御殿湯が浅間温泉に置かれ、湯守によって厳重に管理されていました。現在日帰り温泉施設である「枇杷の湯」がそれであった。
また近代においては、若山牧水、与謝野晶子、らの文人が訪れたことがあります。川島芳子(清朝の皇族第十代・粛親王善耆の第十四王女・第14王女顯㺭、 日本・中国の間で活動した女性スパイ、元名は愛新覚羅顯㺭)は東京赤羽より養父の故郷松本浅間温泉に移住し、松本高等女学校(現 松本蟻ケ崎高等学校)に聴講生として通学しています。毎日自宅から馬に乗って通学したと云われています。後、髪を短くし世間から「男装の麗人」と呼ばれた。

浅間温泉はアルカリ性単純温泉で、源泉温度は概ね40~53℃である。源泉は七カ所にあります。 (第一号源泉・第二号源泉・第四号源泉、東北源泉・山田源泉・大下源泉・鷹の湯源泉)この他に旧松の湯源泉がありましたが、昭和二十九年に枯渇してしまいました。しかし、温泉街中心から南東300mを隔てた山林内に未使用の源泉が自噴しています。みやま荘の湯船には第一号源泉を使用しています。

巡業場所 力士の色紙と御嶽海優勝

温泉名: 板留温泉
源泉名: 板留3号源泉
泉質: カルシウム・ナトリウムー硫酸塩・塩化物泉
    低張性 中性 高温泉
    pH7.39  陽イオン 520.4㎎/㎏  陰イオン 1223.0㎎/㎏
源泉温度: 60.6℃
湧出量: 438L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉掛け流し
効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
    慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進 
    動脈硬化症 高血圧症 切り傷 やけど
利用料: 500円
利用時間: 概11.00~15.00
休日: 無休(問い合わせ)

旅の宿 斉川
青森県黒石市板留字宮下8-1  Tel 0172-54-8308
温泉名: 落合温泉
源泉名: 平山温泉1号源泉、2号源泉 混合泉
泉質: 単純温泉
    低張性 中性 高温泉
    pH7.1  陽イオン 126.8㎎/㎏  陰イオン 279.6㎎/㎏
    成分総計 460㎎/㎏
源泉温度: 51.5℃
湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加水 掛け流し

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 
    冷え性 末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 
    軽高コレステロール症 糖尿病 自律神経不安定症 うつ 
    痔症 睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進 不眠症 

利用料: 150円  小人100円
利用時間: 6.00~21.00
休日: 無休

一般社団法人 黒石市観光協会
青森県黒石市緑町1-187  Tel 0172-52-3488

落合温泉共同浴場  黒石市大字袋字富田60-1  

   黄檗宗 瑠璃山薬師寺略縁起
藤崎出身の僧・宗運は江戸に上り、明国より渡来した隠元禅師の伝えた臨済正宗(明治以降黄檗宗)の禅を修行した。その後、黒滝山不動寺(群馬県甘楽郡南牧村塩沢)の潮音禅師(緑樹派始祖)の弟子となる。陸奥国帰国後、温湯へ湯治に来た宗運は薬師堂の傍の庵を譲り受け、延宝七年(1679)津軽における黄檗宗最初の道場を開いたと伝えられている。
天和三年(1683)黒石領主二代・津軽信敏(津軽藩祖・津軽為信の曾孫)より寶巌山法眼寺の山・寺号が与えられた。宗運示寂後、潮音禅師の弟子・南宗元頓が入山するが、元禄四年(1691)黒石領主三代・津軽信全(後、弘前藩主津軽信政より政を与えられ政兕と改名)より黒石舘に近い山形町に移転を命じられた。
享保九年(1724)九月、弘前藩五代藩主・津軽信壽が湯治のついでに当山薬師堂に参詣、四方の紅葉美しく、「山寺」なる詩を詠まれ、瑠璃山薬師寺の山・寺号を与えた。この機縁により当時の監寺・秀國が翌年弘前城下新寺町に法雲山慈雲院を開創した。明治七年(1874)伽藍全焼したが、明治四十三年(1910)本堂を再建した。
また、大正四年(1915)前の法雲山慈雲寺が廃寺となったのを機会に当山に合寺するとともに、祀られていた釈迦三尊像、石敢當碑、石黒宗石句碑、歴代石塔などを移設、祀った。
津軽三十三観音霊場第二十七番札所(白山姫神社袋観音堂安置)
津軽八十八観音霊場第三十番札所施薬観音

黒石市薬師寺の石割楓(黒石市天然記念物)
敷地入口から正面に見え、薬師寺への訪問者を出迎えているようにも見える。樹齢推定500年であり、盛岡市の石割桜に風貌が似ているために名付けられた。実際に石を割るように生育し、木の生命力が感じられる。
樹高約11m  目通り周約6m

                      案内説明より                         

   宝川温泉の由来
記紀の古代神話の時代、当地に伝わる話として日本武尊が東国征伐の帰途に武尊山(武尊連峰主峰2158m)に上りました。病に伏せって困っていると、遙か下界より白い鷹の飛び立つのを見つけ、その地に赴いてみると温泉が湧いていました。そのお湯に浸かったところ病が治り、旅を続けることができたと伝えられています。そのため宝川温泉はその昔、『白鷹の湯』と呼ばれていました。
宝川温泉がいつ頃から温泉として利用されていたかは、今のところはっきりした史実や遺跡は発見されていません。しかし近くで縄文人の遺跡が発見されており、その時代から利用されていたのではないかと考えられます。草津温泉などでも縄文の遺跡が発見されていますが、その地形や標高などから考えると、決して古代人にとって住み良い場所ではなかったと思われます。
実際遺跡が発見されている事実から、古代人にとって温泉が非常に重要な役割を果たしていたのだと考えられています。お湯を沸かす技術はとても難しく、まして全身を温めることは、温泉を除いては不可能だったのではないでしょうか。現代人と同じように、温泉は病を治す有効な手段であり、貴重なものだったと考えられます。猿が学習によって温泉に浸かっている温泉地(湯田中温泉郷・地獄谷温泉野猿公苑)もありますが、その姿が古代人のそれに重なって見えます。
宝川温泉の名前は、旅館を分けて流れる利根川支流・一級河川宝川に由来しています。宝川とは文字通り、宝がとれる川の意味で、昭和の初めまで銅山として採掘が行われていました。古くは江戸の昔から、掘られていたと思われます。
宝川温泉が現在のかたちになったのは大正時代で、そのころに湯治場としての宿泊施設が作られています。しかし当時は交通の便が悪く、水上から徒歩でこの地を訪れていました。当時の産業は林業しかなく、材木を引き出すトロッコが唯一の交通手段でした。現在のように発展したのは、昭和二十年代後半から始まる一連のダム工事によって道路が建設され電気が通るようになってからです。昭和三十年に約二年の大工事により、現在の本館が造られ温泉旅館としての形が整い、次々と施設が作られていくようになりました。

   宝川温泉汪泉閣守本尊・薬師如来の由来(子宝の湯湯殿安置)
宝川温泉薬師如来は、藩政時代に先祖が湯宿創建と共にお祀りした由緒ある薬師如来です。古くから温泉地には湯治と称して、病を癒す場所としてそこに薬師如来をお祀りしておました。体の病は温泉に浸かり、心の病は薬師如来に祈ることでその病の治癒を願ってきました。この伝承は現在も露天風呂庭園の各所にそれぞれの各人々の信仰を基に多くの仏の像が祀られております。これはすべてここを訪れた人々の心の病、体の病の平癒を願い、又完治した感謝の心を現わしたものです。また、道中の安全を祈願して安置されたものでもあります。
   宝川温泉 汪泉閣  https://takaragawa.com/ より

温泉名: 宝川温泉
日帰り施設 宝川山荘
源泉名: 宝川温泉3号源泉、4号源泉、5号源泉混合泉
泉質: 単純温泉
    低張性 中性 高温泉
    pH7.6  陽イオン 209㎎/kg  陰イオン 374㎎/kg  
    成分総計 700㎎/kg
泉温: 3号泉59℃  4号泉65℃  5号泉54.5℃
湧出量: 3号泉142L/min  4号泉469.1L/min  5号泉318.5L/min
湧出形態: 掘削動力用湯
注入排出形態: 加水 かけ流し
効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 
    冷え性 末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 
    軽高コレステロール症 糖尿病 自律神経不安定症 うつ 
    痔症 睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進 不眠症 
利用料: 1500円 小人1000円
利用時間: 9.00~17.00
休日: 無休(問い合わせ)

宝川温泉 汪泉閣
日帰り温泉施設 宝川温泉宝川山荘
群馬県利根郡みなかみ町藤原1899  Tel 0278-75-2614

温泉名: 下風呂温泉親湯
源泉名: 新湯1号泉、2号泉、3号泉、4号泉の混合泉(下風呂温泉管理区)
泉質: 含硫黄 ナトリウムー塩化物泉
    低張性 中性 高温泉
    pH7.4  陽イオン 1807㎎/㎏  陰イオン 2966㎎/㎏
    メタケイ酸 128.0㎎/㎏  メタホウ酸 378.7㎎/㎏

源泉温度: 78.5℃

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 
    冷え性 末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 
    軽高コレステロール症 糖尿病 自律神経不安定症 うつ 
    痔症 睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進 不眠症 
湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉掛け流し

下風呂温泉郷
風間浦村商工会 Tel 0175-35-2010

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温泉名: 土湯温泉
源泉名: 土湯2号泉、15号泉、16号及び17号の混合泉(土湯源泉)
泉質: 単純温泉
    低張性 弱アルカリ性 高温泉
    pH7.5  陽イオン 94.0㎎/㎏  陰イオン 187.7㎎/㎏
    成分総計 436.2㎎/㎏
源泉温度: 62.2℃(土湯源泉)
湧出量: 1130L/min (土湯源泉合計)ガス造湯合計1800L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯 掘削自然湧出 噴出ガスによる造湯
注入排出形態: 加水 消毒 放流式
効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 
    冷え性 末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 
    軽高コレステロール症 糖尿病 自律神経不安定症 うつ 痔症 
    睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進 不眠症 
利用料: 700円
利用時間: 12.00~16.00
休日: 無休(問い合わせ)

土湯温泉 向瀧
福島市土湯温泉町字杉の下63  Tel 024-595-2121 

扁額

奉納燈籠 延宝二年奉納燈籠は後方の一対

宗門標

三号標

唐門

  猫石
盛岡市のつなぎ温泉は湯ノ館山の山裾の湯ノ沢に開かれ、温泉の玄関口に猫石と呼ばれる石があります。昔は、巨大な猫の形をした大石が両側に立っていたことから、招き猫とも呼ばれています。平安時代の前九年の役のおり安倍貞任と源八幡太郎義家の戦いは激戦を極め、八幡太郎義家は追われるように湯ノ館山に兵を引きました。
食糧に困り果てた義家は、木の実山の獣を集めて食物として食べ、骨を山裾に投げ捨てました。投げ捨てられた骨は、一夜にして猫の形をした石になって義家の殺生を戒めました。里人は猫の形をした大石を猫の霊、猫石と呼んで赤飯を上げてお祀りする人が多かったと云われます。
温泉街の玄関口の両側にあった事からお客を招く招き猫とも呼ばれた大石は壊され、今は、道路の東側だけにその一部が残されています。昔は、今の五倍もあったと云われています。西側の猫石は無く、昔話だけが伝わっています。
            案内説明より              

小笠原貞慶
大隆寺殿前親衛校尉以清宗得大居士
文禄四乙未年五月十日 小笠原右近太夫貞慶
小笠原秀政
臨済寺殿前兵部侍郭儀窓宗玄大居士
元和元乙卯年五月七日 小笠原兵部太夫秀政
小笠原忠脩
法性じ殿前信州太守正甫宗中大居士
元和元乙卯年五月七日 小笠原信濃守忠脩

五輪塔 右より秀政・貞慶・忠脩

  御殿山 小笠原家廟所 (松本市特別史跡 昭和六十年七月十八日指定)
小笠原家廟所は、松本城の基礎を築いた初代小笠原家の城主小笠原貞慶と秀政・忠脩父子を祀った廟所で、三基の五輪塔が建てられています。三基の五輪塔は向かって右から秀政、貞慶、忠脩で、秀政は臨済寺殿、貞慶は大隆寺殿、忠脩は法性寺殿と、それぞれ埋葬された寺名に関係の深い戒名がつけられています。 
秀政と忠脩父子は元和元年(1615)の大坂夏の陣で戦死し、二男忠政も負傷しました。二人は京都で荼毘にふされ、忠政は遺骨を奉じて松本に帰城しました。父秀政は市内埋橋の宗玄寺に葬られ、忠脩は戦死した島立貞正ら七人の家臣とともに浅間の大隆寺跡へ設けた法性寺墓地に葬られました。したがって、この廟所に実際に遺骨が埋葬されているのは、忠脩のみです。
貞慶は秀政の父で、天正十年(1582)に父祖の旧領であった松本地方を回復しましたが、同十八年に家督を譲った秀政とともに古河に転じています。 その後、忠政は元和三年に明石に転封となり、(後、肥前国・小倉)また、忠脩の嫡子長次は肥前国中津の城主となり、寺を移したので廟所は荒廃しました。
現在の五輪塔は、貞享二年(1685)に荒廃の様を見て嘆いた松本城主水野忠直の呼び掛けにより、小笠原家の旧臣の子孫たちが協力して九尺四面の御霊屋とともに建立されたものです。御霊屋は天保七年(1836)に焼失し、その後再建はされていません。廟所の大きな石垣は平積形式で古く、往時を偲ばせます。前面の平地は大隆寺、のちの法性寺が建てられた場所です。 
なお、里山辺の廣澤寺にも小笠原秀政・忠脩父子の墓所として五輪塔が建てられており、「廣澤寺の小笠原家墓所」として松本市特別史跡に指定されています。
            まつもとのたからより転載              

  西の宮恵比寿神社
大正時代に西ノ宮から勧請、商売繁昌の神として信徒は松本商業組合をはじめ遠近の各地に多く、えびす講は賑やかである。玉垣は大正六年浅間公園を造った時造立、拝殿は昭和三十年に建立したものである。

  太子殿
明治三十一年、浅間の職工により太子講が設立された。その後、他の地区から入会者も多くなったので寄付を集め、大正十一年太子殿を新築し聖徳太子像を安置し奉った。太子殿には大日如来、不動明王なども安置し奉っている。大正十四年に太子橋と石段を造る。現在会員四十五名(平成十一年)、毎月二十一日に例会を開き会い談している。
              案内説明より               

   じっさ、ばばさの石
以前、延命地蔵の西南の道端に突き出した二つの丸い大岩があり、石の形からじっさ、ばばさ石と呼んでいた。婚約中の人がここを通れば破談となると云い伝えられていたので、この道を避けて通ったという。
先の大戦後、道路拡張のため一つは破壊され、残った一つはここに移された。ここに移された石がじっさかばばさかは見た処ではわからないが、じっさの石の方が大きかったと思われるので運びきれず、破壊されたと想像する。

浅間涌出摩訶澄
諸聖不知久遠〇
密亦春秋降雨露
無邊羊果〇天然

台座に彫られた文字
読める字と、感で想像と、〇わからず

天満宮からの戻りの案内板 この先に天満宮あり?
実はTの字で坂から降りてきた人に知らせる道案内板である。
支持ポールに固定出来なくて案内板のみが回転した結果でした

  不動院
江戸時代に上浅間の三才山道の上段にあった羽黒山系修験者の不動院は、明治四年廃寺となった。この不動院は昭和十五年宗教結社して復興が成った。本尊不動明王は、眼病と火災に霊験があり、多くの人々が参集したという。参道には三十三番観音像の石仏が一部ではあるが祀られている。
大音寺不動堂の本尊は不動明王である。不動明王は破邪顕正、ことに悪を亡ぼす神である。仏滅後三千年、今は当に末法の世である。虚飾と巧言と偽善とあらゆる悪に満ちたこの世の中を真に救う事の出来るのは不動明王である。
大智の剣を執り、三昧の索を持ち、難状の者すなわち信心から最も遠い所の人々を救うのが不動明王の誓願なのである。人間、やがて死ぬだろう、善人も極悪人もすべて死ぬ。臨終に際して真の心を持たない人にも済度を垂れる仏が不動明王である。初七日の本尊を不動明王とするのはその謂れである。この不動明王のお堂は昔よりこの地に在り、旧不動院の水行場として、滝と共に往古より続いている。滝も堂宇も何度となく再建を繰り返してきた。
・・・・・・ 大音寺不動堂
               案内説明より            

温泉名: 浅間温泉
源泉名: 浅間第一号源泉
泉質: 単純温泉  
    低張性 アルカリ性 高温泉
    pH8.9  陽イオン 117.7㎎/㎏  陰イオン 243.2㎎/㎏
    成分総計 413.1㎎/㎏
源泉温度: 46.5℃
湧出量: 287L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 加水 循環ろ過 消毒
効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 
    冷え性 末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 
    軽高コレステロール症 糖尿病 自律神経不安定症 うつ 痔症 
    睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進 不眠症 
利用料: 500円
利用時間: 11.00~16.00 (最終受付15.00)
休日: 無休(問い合わせ)

公立学校共済組合浅間保養所 みやま荘
長野県松本市浅間温泉3-28-6  Tel 0263-46-1547

天女の壁画
https://temple.nichiren.or.jp

本尊 釈迦如来坐像
https://temple.nichiren.or.jp

聖観世音菩薩像

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与謝野晶子歌碑

草まくら 手枕に似じ 借らざらん
山のいでゆの 丸太のまくら

法師の湯

EV自動車 充電施設

従業員宿舎

給湯暖房(ボイラー室)
防振・防音に優れている施設

薬師堂

鳥居があるが雪深い

雪を被った石塔群

上越新幹線 上毛高原駅
駅前より路線バス 猿ヶ京温泉へ

法隆殿

別館

葷山荘

泉質掲示板

玉城の湯 露天風呂

玉城の湯

長寿の湯

長寿の湯

長寿の湯 

上流より 別館

本館ロビー 囲炉裏の部屋

別館

大棟の飾り板 (名称が分らない)

本館 帳場?

本館

法師の湯 日本秘湯を守る会

法師の湯 

法師の湯

法師温泉本館帳場入口

法師温泉

板留温泉
この温泉も花山院忠長卿の謂れが

掛け流しの内風呂

温泉成分分析書

半露天の壺湯

板留温泉一番手前の旅の宿斉川

双体道祖神が入口に祀られている
立体的でかまくらに遊ぶカップル

黒石市案内板
かおり高い文化のまち文学碑探訪

黒石温泉郷では最大の施設
花禅の庄

神木? 銀杏

白山姫神社鳥居扁額

白山姫神社

三之鳥居

津軽三十三観音霊場第二十七番

参道中腹にある堂 観音堂だろうか

津軽こけし館

津軽伝統工芸館

浴槽

脱衣場

温泉成分分析書

落合温泉共同浴場

山号扁額

重塔と講堂(信徒会館)

庫裡

庭園だろうか

雪に埋もれた境内

つり革 Bunkamuraもそのままに

東急電鉄2000系車両

芭蕉句碑 
山中や 菊はたおらじ 温泉(湯)乃匂ひ

庫裡

山号扁額

大棟

向拝唐破風彫刻

参道 石燈籠

薬師寺

本堂 
入母屋造銅板葺妻入唐破風向拝

薬師如来石塔傍のお堂
薬師堂でしょうか

薬師如来石塔

石割楓

本堂前の銀杏の気根

忠魂碑

供養塔群

小堂 祀ってあるのは?

向拝柱獅子の彫刻

温泉成分分析書

内風呂 白鷹之湯浴槽(源泉掛け流し) 施設で唯一洗い場があるが、
湯水ともチョロチョロで洗い場の役目がなされていない

田名部海辺三十三観音 十二番札所

皇太子殿下 妃殿下行啓記念碑
(天皇明仁陛下 美智子妃殿下)

大国殿 弁才天像

休み処に掲示 全国露天風呂番付
私企業による番付評 

般若之湯

子宝之湯

摩訶之湯

摩訶之湯

宝川温泉 汪泉閣  https://takaragawa.com/ より

雪景色の露天風呂

浴槽

露天風呂群

吊り橋・白鷹橋
宝川温泉汪泉閣への橋、汪泉閣からの橋

白鷹橋

汪泉閣

守護神 持国・増長・広目・多聞像 
正確な配置で安置されていた

大和武尊像 
東国征討の折宝川温泉を発見したと云う

十一面千手観世音菩薩

駐車場の看板

看板 宝川温泉絵図

成分掲示 公的な文書ではない

日帰り温泉施設窓口

一間一戸の薬医門
日本最大級の薬医門であろう

釈迦堂

釈迦如来

薬師如来と大黒、恵比寿等々

子宝の湯

子宝の湯 閻魔大王

女性専用露天風呂

大黒殿 洗心道場

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西宮恵比寿神社

日本秘湯を守る会

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猿ヶ京温泉
バス停より村営バス法師温泉

摩耶之湯

本堂 無住寺 兼務住職がおられる

寺号標

観世音菩薩

山門

浄土宗 観音山浄土寺

若宮稲荷神社

自由寺三門

本堂

庫裡

海上守護観世音

石仏と住職供養墓

曹洞宗 自由寺

拝殿

幣殿本殿

手水鉢 ロダン作?

三之鳥居

二之鳥居

若宮稲荷神社 一之鳥居

右 吽形狛犬

左 阿形狛犬

拝殿 虹梁彫刻

拝殿 木鼻彫刻

日清・日露戦役 戦没者忠魂碑
陸軍大将・一戸 兵衛 揮毫

境内は約海抜50m

稲荷神社境内より

境内樹木

対岸は北海道

漁港

下風呂温泉郷 ようこそ

津軽海峡と漁船団

大畑駅観光案内看板 鉄路表示

下北駅 旧大畑線始発駅

温泉郷

温泉郷

大湯

共同浴場 大湯

新湯

共同浴場 新湯

温泉成分分析書 新湯

湯の花収集 販売あり

源泉投入口

浴場

坪田旅館 居心地が良い

大畑駅鉄路遺構

旧大畑線大畑駅

大畑駅待合 下北バス発着

旧大畑線 大畑駅

計画鉄路遺構

計画鉄路遺構

大間線(大畑~大間)計画鉄路遺構

日帰り温泉施設 中ノ湯

食事処みらく 満月餃子がうり

足湯

土湯こけし

源泉まで遠い 湯量が少ない

分析書

外観

近くの八食センターの市場棟は休業日
食堂街は通常通りの営業

八戸三社大祭ポスター

温泉分析書

前回と同じ評価

はちのへ温泉旅館

猫石

繋温泉神社

足湯

縄文土器(複製)展示

夢枕の湯

堅穴の湯 深さ120㎝

縄文の湯

縄文の湯

愛真館外観

温泉成分分析書

抱影塔

鶯上山之記碑

松枯れで伐採された赤松

石段参道と左女道

  湯薬師
この場所は古くから湯が湧きだしており、浅間御殿もここから引き湯し、薬師堂があった。万治二年(1659)松本藩主・水野氏が浅間御殿を改修した時、湯谷神社を祀って湯薬師と名付けた。遠近から病気平癒祈願に参拝する者も多く多数の絵馬が奉納されている。薬師堂は明治十三年の上浅間の大火で類焼し、明治三十一年やや上方の現在地に再建された。
               案内説明より                 

与謝野晶子歌碑

上原三川句碑

  高橋玄一郎詩碑
春愁 遠くなだれて散り止まぬ雪解の終夜…  灯に打つ藁の手の暈ゆれて隔里ゆくものよ
肌にしめりのしづかに移り来る涓滴に臥ね  ああ胸の掌の心臓に秘め運行する歌章よ


吉田一穂をして〈幻の宿〉の主・信州の耆宿と呼ばしめた「詩の家」 「リアン」の詩人・高橋玄一郎(小岩井源一 1904~1978)は、詩宗マラルメの象徴を文学の革命としてとらえ、前衛的な詩造型を求めて長い詩法遍歴を続けた。その独自の詩風と詩観は詩界に広く影響を与え、晩年には思想韻完成の方法を自由連句に向けて、現代詩の新分野開拓に意を傾注した。また、本名・小岩井源一として地域行政にも貢献するところ多大であった。この詩碑建立については(高橋玄一郎詩碑を建てる会)がこれに当った。       1981年6月

  上原三川句碑
「五月雨や 山の温泉のさゝ濁り  三川」
三川の名は良三郎、和田の人。小学校校長で子規の高弟で、病のため浅間温泉千代の湯に逗留療養した。
この句は明治三十九年療養中の作で、翌年死去した。碑陰にこの句の色紙を西石川旅館で所蔵していることを聞き、関係者の協力を得て拡大し、昭和五十一年二月に建立したことが刻まれている。

  与謝野晶子歌碑
「たかき山 つゝねる雲を前にして 紅き灯にそむ 浅間の湯かな   晶子」
与謝野晶子が昭和十一年秋、上高地からの帰途浅間温泉「富貴の湯」に泊まった時詠んだ歌である。
昭和三十二年春、色紙を拡大して旅館主・滝沢久馬雄が建立した。碑陰に建立のいわれが刻まれている。
               案内説明より              

 

高橋玄一郎詩碑

  六地蔵・嘯月橋 嘯月橋碑
六地蔵尊は天保五年(1834)主として幼児の死後の冥福のため、六道をめぐる魂を救う為、念佛講中で建て寄進したものである。また、滝沢氏・赤羽氏も先祖の供養のために建て寄進した。

嘯月橋は寛政十二年(1800)住職独園の橋碑と共に造られ、その後一部補修されている。
嘯月橋碑には漢文では橋の意味や詩が刻まれているが、風化してよく読み取れない。
橋の上に立ち、東山から出る月を眺めて吟じたものと思われる。

  浅間学校跡
明治四年(1871)神仏分離令に伴なう松本藩の廃仏毀釈運動により神宮寺は廃寺となり、明治六年(1873)現本堂に浅間学校が設けられた。通学区域は、浅間・水汲で後に原・洞が加えられた。明治九年(1876)神宮寺の倉庫を改築し本堂の東に移転した。明治十七年(1884)校舎を増築し、明治二十六年(1893)教室を増築した。明治四十四年(1911)に現在の本郷小学校の地に移転した。
                案内説明より           

浅間学校跡之碑

浅間学校跡

嘯月橋碑

嘯月橋

境内墓地

境内墓地

境内墓地

六地蔵尊

歴代住職供養墓

歴代住職供養墓 住持職芳塔

合同納骨堂供養墓

合同供養納骨堂

一味和合芳名碑

扁額

太子殿

太子堂

じっさ ばばさの石

台座刻文

脇の観音菩薩?

台座礎石 

輪王座に似た思惟の像形

延命地蔵尊

休み処

燈籠

燈籠 

拝殿扁額 天満宮

狛犬

狛犬

本殿

天満宮本殿

拝殿

二之鳥居

落ち葉を踏みしめて

道標

一之鳥居扁額

一之鳥居

天満宮案内板

直した正常な位置の道案内板

毛筆で書かれた薬師如来扁額

天満宮

双体道祖神

神饌所 参籠所

湯薬師堂

湯薬師堂

御神木

鳥居の横に道がある 鳥居参道と直角の平入り社殿

本殿裏の松枯れ

御射神社維持金寄付者記念碑

宮沢雅楽翁筆塚

道祖神と石燈籠

寛政十一年 双体道祖神

左・文字道祖神 右・宝暦七年双体道祖神

拝殿棟瓦

左燈籠

右燈籠

右狛犬

左狛犬 阿形

拝殿扁額 判読できない

本殿

拝殿 鯱と逆さ獅子

拝殿

参道

参道

神橋

明神両部鳥居

松枯れが進んでいる周囲の赤松林

御射神社鳥居向かって右に鳥居

扁額には正一位稲荷大神

御射神社里宮

浅間公園之碑

旧法音寺 枝垂桜

馬頭観世音

松鶴斉一茂之碑

旧大音寺境内付近のあれこれ

廟所入口石垣

御殿山小笠原家廟所

日蓮宗 大法山安立寺別院

寺号標

本堂 庫裡

神饌所

本殿

拝殿扁額 西宮大神

社号標 西宮恵比寿神社

石鳥居

拝殿

飯田屋別館 ノスタルジック
浅間の宿跡

飲泉所 第一号源泉

松の湯源泉

第二号源泉

第一号源泉

東北源泉

まさごの湯

湯煙の湯川

住民専用湯

露天風呂と料理自慢の山映閣

ホットプラザ 浅間松明祭の松明

ホットプラザ 足湯

日帰り温泉施設 ホットプラザ

梅の湯

梅の湯 ウェストン牧師所縁の宿

梅の湯 大乗玅典一千部供養塔

温泉街の坂道

土産物商店

ホテル おもと

日帰り温泉施設 枇杷の湯  参照:温泉その5→浅間温泉枇杷の湯

右の建物が温泉施設

百日紅

枇杷の湯 旅館時代の宿泊棟

ホテル 小柳

温泉街で見かける看板

外湯 仙気の湯

ホステル&スパ (旧よしの湯)

相部屋(ドミトリールーム)併設の温泉付き宿泊施設 食事付きタイプと素泊まりタイプ(館内食事処で食事する事も出来る)

梵鐘

稲荷社と観音堂

正一位稲荷大明神

聖観世音菩薩

鐘楼

露天風呂

駐車場から全景

不動堂

不動堂扁額

不動堂

庫裡 妻入り

庫裡

大浴場

脱衣所

温泉成分分析書

半鐘(喚鐘)

廻廊の打板

庫裡

不動滝

三十三観音石仏

双体道祖神

湯処

外観

石庭

石庭

石庭

不動堂への道と二十三夜塔

露出した赤松の根

河川改良 土石流対策

河川改良

左 恵比寿碑 右 神社再建芳名碑

社務所

浅間温泉 みやま荘    岩手県 繋温泉    青森県 はちのへ温泉   



福島県 土湯温泉
    青森県 下風呂温泉   群馬県 寶川温泉 汪泉閣  



宮城県 遠刈田温泉 アクティブリゾーツ宮城蔵王



青森県 黒石温泉郷 ぬる湯・落合・板留・青荷
黄檗宗 瑠璃山薬師寺  日蓮宗 壽量山遠光寺



群馬県 法師温泉 長壽館   

浅間温泉 みやま荘 asamaonsen-miyamaso

浅間温泉界隈



下風呂温泉 坪田旅館 simoburoonsen -tubotaryokan

温泉名: はちのへ温泉
源泉名: 尻内温泉
泉質: ナトリウムー塩化物泉
    等張性 中性 高温泉
    pH7.2  陽イオン 5626㎎/㎏  9402㎎/㎏
    成分総計 15170㎎/㎏
源泉温度: 49.2℃

湧出量: 160L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加水 放流式

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 
    冷え性 末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 
    軽高コレステロール症 糖尿病 自律神経不安定症 うつ 痔症 
    睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進 不眠症 
利用料: 450円
利用時間: 5.00~22.00
休日: 無休 (問い合わせ)

はちのへ温泉旅館
八戸市尻内町島田17-5  Tel 0178-27-3337

浴槽の容積からは掛け流しとしては湧出量が男女別で80Lは少ない。
それが加水、新湯投入率、源泉の評価の結果でしょうか?

   下馬のシダレザクラ
昔、ここは三国街道関所前で、殿様(中越の諸藩)も馬から降りたことからこの場所を下馬と言い、いつからか下馬のシダレザクラと呼ばれるようになった。また三国街道は佐渡送り罪人の街道でもあり、その人々により採掘された黄金の道でもあった。

品種 ベニシダレザクラ
樹齢 約百二十年
目通り周 二メートル八十センチ     案内説明より

  御射神社 春宮
古代は浅間社(宮)と称し、当春宮は三才山の山の神の里宮で、春には里へ下って田の神にな成り、冬は三才山へ帰って山の神になった。
今からおよそ八百余年前、文治二年(1186)吾妻鏡にのる荘園(社寺や貴族の領地)の那珂にある古社で、本郷村(浅間、水汲、原、洞、稲倉、三才山)を社領とする古くて大きい社であった。当社は別当寺として神宮寺を持つ格式高い社で、およそ七百年前の正応五年(1292)中国の僧「円空」が神宮寺にて大般若経を写経し、浅間社に奉納しており、その一部が社宝として保存されています。
およそ六百五十年前の建武年間(北朝1334~1338 南朝1334~1338)浅間郷の地頭・赤沢氏が諏訪の地から御射山神社を勧請して、御射神社と名称が変わり、浅間の社が春宮、三才山の社が秋宮となった。当社の祭神は古く大山祇命であったが、諏訪から勧請してからは諏訪大社と同じ祭神である建御名方命・八坂刀売命・事代主命が合祀され、地域の平安、家運長久、五穀豊穣、繁栄の守護神として崇められてきた。
当社の祭りは、神を押鉾に載せて運ぶ祭が主体であったが、後に松明祭が取り入れられて有名になってきた。松明祭のいわれは、田の虫送り行事(害虫駆除)や神様が松明の煙と共に、三才山の秋宮へお帰りになる行事から始められたと云われ、以前は二晩行われていたが、現在は十月三日の晩に行われている。現在の社殿は明治二十七年四月横手の大火で類焼し同年九月に再建され、本殿は神明造になっている。

  御射神社・春宮の道祖神
双体道祖神・・・・・寛政十一年(1799)正月吉日 浅間村と刻されている。
文字道祖神・・・・・天保十年(1839)己亥正月建立  上浅間村と刻されている
双体道祖神・・・・・宝暦七年(1757)(丁)丑正月 と刻されている
本郷地区では古い部類の道祖神である
三体とも上浅間や師も浅間の辻道にあったが、道路拡張のため神社境内に移された。

  御射神社春宮の狛犬・石燈籠
狛犬は、皇太子裕仁殿下(後 昭和天皇)と久邇宮良子女王(後 香淳皇后)御成婚(大正十三年一月二十六日)記念に、大正十三年二月に同年生の柳沢磯一他七人が左狛犬(向かって右)阿形を、滝沢龍一他六人が右狛犬(向かって左)吽形を寄進。石工は白鳥文次郎である。
一燈籠は、明治二十八年九月、藤岡喜代蔵他一人が右の燈籠を、山本きな子他六人が左の燈籠を寄進した

  宮沢雅楽翁筆塚
宮沢雅楽は御射神社の神職で、父・小源太は寛政の頃寺子屋を開く。雅楽も父の跡を継ぎ師匠となり、門弟は40~50人をかかえていた。天保十一年(1840)三月、特を称えて門弟中で筆塚を建立した。
寛永二年(1849)没した。
              案内説明より            

  旧大音寺跡の六地蔵尊
念佛講中で建立したもので、享保七年(1722)が三基、文化三年(1806)が一基ある。六地蔵は地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道の六道をめぐり、苦しみ迷っている死者の魂を救い、極楽に行けるようにしてくださると信じられてきました。

  浅間公園之碑
大正六年六月、広く寄付金を集め浅間公園を造った時に建立したものである。題額揮毫は赤星典太県知事(第十七代長野県知事)によるもの。撰文と書は市内和田出身の窪田畦夫(松門)で、浅間の風光明美、古蹟に富み、温泉浴客で賑やかな事、大音寺の廃墟を公園となし、不動の滝を造ることなどが名文で記されている。

  松鶴際一茂之碑
東筑摩郡本郷村在の山本寿作の三男、本家・山本勘四郎の家を継ぎ、松住斉一饗に遠州流生花を学び免許皆伝、指南役となる。なお、謡曲や水引折方なども優れた。門人に学者が多く、昭和九年門弟一同で頌徳碑を建立した。書は松本市長小里頼永(初代松本市長 三代松本町長)によるものである。

  大音寺跡のシダレザクラ(松本市保存樹)
目通り周囲2m 「咲いて見せ 散って見せたる 桜かな」 と詠まれた老木。情報にも二本の老木シダレザクラがあったが、先年伐採された。

  芭蕉句碑
「春雨の木の下につとふ 雫かな はせを」
碑陰に天保十一年(1840)義仲寺(滋賀県大津市)現住閑亭謹書 庚子孟春日 百瀬尚司言樹建立 浅間三浦仁佐郎之寄贈 大正六年五月真観寺ヨリ移ス とある元禄元年(1688)作の句
「松に景のこして入りぬ春の月  蔵六」
右の側面に刻まれている 百瀬尚司は松本の町人、蔵六は下波田村(現 松本市波田)の俳人

  老鼠堂機一句碑
「咲て見せ散て見せたる さくらかな  老鼠堂機一」
碑陰に千時大正十稔九月建立 その他其角一門の発起人六人の俳人名を刻む
この句は近くにある保存木・シダレザクラの花を詠んだ句で、明治三十三年門人の立机祝に来た時のものである。機一は江戸神田須田町の生まれで、俳諧の大家で八世其角堂となる。
昭和八年七十八歳で没した。
               案内説明より              

  仙気の湯   400円  6.30~20.00
江戸時代からの共同浴場で温度が高く仙気(大腸・小腸や腰部などの痛む病気)に効く名湯として入湯者が多かった。以前、上浅間温泉中央分湯場の隣にあったが、昭和二十五年にこの場所に移転した。平成五年八月に共同浴場「昭和の湯(昭和六年開設)」を合併し、平成元年新築した。

ホットプラザ浅間   650円  10.00~24.00
大浴場、露天風呂、サウナ、水風呂を設置、シャンプー、ボディソープ備え付けで手ぶらで楽しめる。
休憩用大広間あり

枇杷の湯   800円  9.00~21.00
大浴場、建物外に露天風呂、大浴場にシャンプー、ボディソープ設置
バスタオル フェイスタオル、カミソリ等は有料又はレンタル
休憩処あり

  第一号源泉 (平成十九年三月)
この辺りは昔より湯が湧出しており、浅間御殿もここから引湯した。現在第一号源泉と称している。昭和二十七年、本郷村村議会は浅間温泉発展のため源泉掘削の地質調査の予算を計上し、翌二十八年、浅間温泉事業協同組合と協議し着工した。この一号源泉は、昭和二十八年十月十七日着工し、十二月十日終了した。掘削深度45m、毎分約一石五斗(270リットル)以上噴出した。温度45度、現在十六の施設に供給している。

  第二号源泉 (平成十二年十二月)
昭和二十八年掘削開始、二十九年終了  掘削深度21.3m、温度51.3度 湧出量 毎分228リットル

  東北源泉
浅間温泉に残る唯一の自然湧出源泉  震度3.6m 温度51.3度 湧出量 毎分107リットル

  松の湯源泉 (平成十四円三月)
古くからの源泉で、40㎝ほど掘れば52度の高温の湯が湧出した。大正十五年東山温泉試掘涌出により水位は低下した。昭和二十九年源泉掘削まで七軒で維持管理をしていた。

  浅間の宿跡
浅間の宿は、ホテル小柳の湯角から飯田屋別館までで、その所見は建武二年(1335)である。信濃国・国府(惣社)は北条党(鎌倉幕府残党)と足利党(東下向の足利尊氏)と戦った「中先代の乱」で焼かれ、信濃の大小の領主は浅間の宿へ参集して後任の国司を迎えた。浅間の宿は一時期、信濃の政治的中心となった。
           案内説明より           

本堂 入母屋造銅板葺妻入向拝

寺号標札

題目碑

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  御殿山の御竹藪
浅間御殿裏山一帯は松本藩主の山で御殿山と称し、明治以降は国有林となり、現在は森林管理署の管轄となっている。ここの御竹藪も石川氏以来、武士の矢竹に使用された。
享保九年(1724)松本藩の記録には、「浅間村竹藪 長五間幅二間 同村紋九郎・与五兵衛預り」とある。

手水鉢 元治元年甲子三月吉日

老鼠堂機一(八世其角)句碑

芭蕉句碑

旧大音寺境内六地蔵

墓地

石塔 供養墓

温湯温泉の由来書 薬師寺境内碑  
以下その掲示文

鶴の名湯館内

唐門正面

羅漢像

本堂

不動院

松枯れが進んでいる