熊谷周辺

歓喜院聖天堂 (国宝)拝殿

御本殿は、奥殿三十四u 相の間(中殿)二十七u 拝殿百二十七uよりなる廟型式権現造で、奥殿は八棟造りである。建造物の各部材、各壁面を総て彫刻で装飾し、華麗な色彩がほどこされている。江戸中期の貴重な文化遺構である。
平成十五年より平成二十三年の八年間を要して保存修理工事がほどこされ、外壁は創建当時の華麗な色彩で復元された。総工費十三億五千万円(内本体工事は十一億六千一百万円)で、九億六千万円が国・県・市の補助金、三億五千万円が信者の寄付。
平成二十二年十一月十八日に竣工式を執行。平成二十三年六月一日に竣工奉告除幕法会を修行。以後、一般公開にした。

   聖天堂国宝指定(平成二十四年七月九日)
平成二十四年五月十八日(金曜日)に国の文化審議会から文部科学大臣に対して、妻沼聖天山の本殿である「歓喜院聖天堂」は国宝に指定するにふさわしいとの答申が出されました。同年七月九日(月曜日)の官報にて告示があり、同日付で正式に国宝として指定されました。
歓喜院聖天堂は享保二十年(1735)から宝暦十年(1760)にかけて、林兵庫正清及び正信らによって建立されました。これまで知られていた彫刻技術の高さに加え、修理の過程で明らかになった漆の使い分けなどの高度な技術が駆使された近世装飾建築の頂点をなす建物であること、またそのような建物の建設が民衆の力によって成し遂げられた点が、文化史上高い価値を有すると評価されました。
日光東照宮の創建から百年余りあと、装飾建築の成熟期となった時代に、棟梁の統率の下、日光東照宮の修復にも参加した職人たちによって、優れた技術が惜しみなくつぎ込まれた聖天堂は、
江戸時代建築の分水嶺」とも評価され、江戸時代後期装飾建築の代表例です。
この度の国宝指定は、埼玉県の建築物としては初の栄誉であり、昭和二十五年の文化財保護法の制定以降、熊谷市に於いては初めての国宝指定となります。

   参考・・・・・埼玉県の国宝
経典・・・・・法華経一品経・阿弥陀経・般若心経  (都幾山慈光寺)・・・・・非公開
工芸品・・・・・太刀・短刀  備前長船景光銘  (埼玉県歴史と民族の博物館)・・・・・非公開
考古出土品・・・・・埼玉古墳群 稲荷山古墳出土品 金錯銘鉄剣他  (埼玉県立さきたま史跡の博物館)
建築物・・・・・歓喜院聖天堂   (聖天山歓喜院)
           案内説明より            

旅行観光見聞録へ

まちさんぽへ

埼玉いろいろへ

愛宕山古墳 国指定史跡  

忍城址 水城公園    妻沼 聖天山歓喜院    


さきたま古墳群
 
  






瓦塚古墳  国指定史跡

奥の山古墳 中の山古墳  国指定史跡

さきたま古墳群へ

鉄砲山古墳  国指定史跡

二子山古墳  国指定史跡

さきたま古墳群へ

将軍山古墳

稲荷山古墳  国指定史跡

丸墓山古墳  国指定史跡

さきたま古墳群へ

浅間塚古墳(前玉神社古墳)

ページトップへ

瓦塚古墳    奥の山古墳    中の山古墳    鉄砲山古墳    二子山古墳  

将軍山古墳    稲荷山古墳    丸墓山古墳    愛宕山古墳    浅間塚古墳  

さきたま古墳群  

聖天堂の彫刻群

妻沼(熊谷市) 聖天山歓喜院

忍城址 水城公園

    稲荷山古墳
全長120m  前方部幅74.0m、高さ10.7m  後円部62.02m、高さ11.7mの二段墳丘前方後円墳です。
周囲には長方形の堀が注堤をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。古墳が造られた時期は、五世紀後半頃と考えられ、埼玉古墳群の中で最初につくられた古墳です。前方部は、昭和十二年に土取り工事で失われましたが、平成十六年に復元されました。昭和四十三年の発掘調査背は、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。そのうち礫槨は良く残っており、多くの副葬品が出土しました。その一つである鉄剣からは昭和五十三年に百十五文字の銘文が見出され、他の副葬品と共に昭和五十八年に国宝に指定されています。

  稲荷山古墳埋葬施設
昭和四十三年(1968)の発掘調査で、後円部の頂上から二つの埋葬施設を発見しました。一つは素掘りの堅穴で、粘土を敷いた上に棺を置いた粘土槨、もう一つは、船形に掘った堅穴に河原石を張り付けて並べた上に棺を置いた礫槨です。粘土槨は、掘り荒されていて遺物はわずかでしたが、礫槨からは、金錯銘鉄剣をはじめとする豊富な副葬品が出土しました。それらは博物館に展示されています。

  稲荷山古墳・礫槨
昭和四十三年の発掘調査で、後円部の頂上から発見された埋葬施設です。船の形に掘った堅穴に河原石を張り付けて並べその上に棺を置きました。棺や衣服などの有機物は残っていませんでしたが、副葬品の出土位置などから被葬者と木棺の位置が推定できます。実物の礫部は、地下1mに保存されています。

  稲荷山古墳・粘土槨
この埋葬施設は素掘りの堅穴に粘土を敷き、その上に棺を置いたと推定されます。盗掘の被害を受けたため、出土した副葬品は少量の武器や馬具などの破片でしたが、礫槨出土品と共に国宝に指定されています。

  国宝・武蔵埼玉古墳文化遺物金錯銘鉄剣
百十五文字が刻まれた金錯銘鉄剣には、剣を造らせたヲワケという人物の八代にわたる系譜と、ヤマト王権に代々仕えていたことなどが記されています。多彩な副葬品と共に、古代国家の成立を読み解く第一級資料として、昭和五十八年に国宝に指定されました。これらの史料は詳しい解説と共に博物館に展示しています。
            案内説明より                    

利根川を越える手前妻沼町にある聖天様によってみた。20年前は郷里の松本に行くときにはR17号の混雑回避のためによく使った経路。で、斎藤別当実盛のかの有名な白髪を黒く染め、北陸道の陣中に後れを取らずに死んだとされる銅像がある。この歓喜院は、開基を斎藤実盛としており、1179年仏像を安置し、長井の庄の鎮守府としたことがが始まりとされている。
私はwebのニックネームで悪源太義平を名乗っている関係上興味があったんで、館跡といわれている所によってみた。堤防横にひっそりとしてそれはあった。
時は移れども関東武士団をささえた武蔵のいにしえが堤防のうねりと共にふと過ぎる。郷里の長野県には信濃の国と題する県歌がある。その最終章に、朝日将軍義仲も仁科五朗信盛も〜♪の一節がある。強引に因縁つけて、悪源太義平・朝日将軍義仲・斎藤別当実盛の物語。
八幡太郎義家の孫為義に義朝、義賢の兄弟がいて相争っていた。義朝の長子源義平(悪源太)は叔父の源義賢を攻め殺してしまう。当時義賢の幕下にいた実盛も義朝に従属するが、義賢の長子を関東から遠い信濃の仲原兼遠のもとに落ち延びさせる。義平はのちの平治の乱で斬首、弟たちは伊豆へ遠島や仏門へ。
代は平氏にあらずんば人にあらずで、実盛も草木もなびくごとく平氏へ。
時はたち信濃の木曾で成長した義賢の長子は源(木曾)義仲と名乗り、平氏打倒の令旨をむねに立ち上がる。越後、越中を進軍し加賀国境の倶利伽羅峠で勝利しこの先篠原での戦いに挑む。だが、相手陣中には命の恩人である実盛が平氏方として参陣していた。NHK風には「そのとき歴史は動いた」となって、白髪染め像になる。
後日談として、兜首の検証で実盛として晒された首は青黒く、義仲は実盛ならば白髪のはずと疑ったが、池の水であらってみると白髪が現れ、恩人を討ち取った後悔であわれなものだったそうな。
最後は平氏方として戦ったが、ご恩と奉公で戦った生粋の関東武者であったでしょう。都武士に関東武士の強さを聞かれ、弓の強さは尋常でなく、親は子を、子は親を踏みつ乗り越え戦い,嘆き悲しみ戦いをやめ葬儀を行うことはない。
都武士にとっては恐怖の武士集団であり、実盛にとってはこの上のない自慢であったことでしょう。

                       サイト内より転載   

忍諏訪神社 東照宮

   諏訪神社
当社の鎮座したのは、八十二代後鳥羽天皇の建久(1190)の昔、忍三郎・忍五郎家時などの一族が、館・塁などを築き住居したころ、と言い伝えられている。また、「持田村誌」には、成田親泰が延徳三年(1491)に忍城を構築し、この時、持田村鎮守諏訪社を城鎮守としたのが、当社であると伝えている。
その後、成田氏代々の崇敬があり、寛永十六年(1639)、城主となった安部忠秋は城郭を修築し、併せて正保二年(1645)、当社の本殿を造営、寛文十二年(1672)拝殿を新たに建立した。現在の社殿は、昭和三十六年の造営である。
文政六年(1823)、松平松平忠堯は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、更に城内へ多度社と一目蓮社を勧請した。これらは明治六年、城郭取り壊しの際、当社境内に移される。
また、城内各所にあった小祠、科斗社・八幡社・久伊豆社・荒神社・春道稲荷大明神・神明社・二の丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大明神の九社も、同時に当社へ配祀された。

   東照宮
当社は、家康公の娘、亀姫が父の肖像を頂き、後にこの松平忠明公に伝え、忠明公が寛永二年(1625)、大和国郡山城内に社殿を造営して、肖像を安置したことに始まる。以来、藩主・藩士崇敬の社となった。
その後、移封のつど遷座され、慶応四年(1868)、鳥羽・伏見の戦いの折、大阪蔵屋敷内の東照宮を、当社に合祀した。社領は、郡山当寺より百石を受け継ぎ、明治維新まで続く。その地は、埼玉古墳群の辺りであったと伝えられている。
明治四年(1871)、藩主東京移住のために祭祀断絶の危機を迎えるが、旧藩士ら相計り、同七年に下荒井の地より、本丸の一部である諏訪郭内の、諏訪神社境内の一隅に本殿を移し、同三十三年に藩祖松平忠明公を配祀した。
現在の拝殿は、昭和五年の造営である。

   愛宕山古墳  全長53m 前方部幅30.0m、高さ3.3m 後円部幅30.0m、高さ3.4m
祭T真古墳群の中で最も小さな前方後円墳です。最少ではありますが、他の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の堀が二重に巡ることが、発掘調査により確認されました。墳丘内部埴調査である為、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など詳しい事はまだわかっていません。出土した遺物は、円筒埴輪のほか、人物・太刀・楯・蓋(貴人の傘)などを表現した形象埴輪があります。円筒埴輪は、高さが40p前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。古墳の造られた時期は、出土した遺物から六世紀前半と推定されています。
             案内説明より               

  丸墓山古墳  直径105mあり円墳では日本最大古墳です。
墳丘は埼玉古墳群の中では一番高く、約19mあります。墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。出土した埴輪から、六世紀前半ごろ築かれたと推定されています。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。
南側から古墳に至る道は、天正十八年(1590)に石田三成指揮約八千の軍勢が忍城攻略戦に於いて、忍城水攻め作戦の堤防を築いた跡とで、石田堤といわれているものです。ここ丸墓山古墳はその際石田三成軍が本陣を置いたと伝わります。
忍城側は大いに奮戦成果を上げたが、同年七月六日小田原本城が降伏したためこの忍城作戦は不発に終わり、後に石田三成の戦采配に汚点となり、後々豊臣政権内の武断派と文治派の対立の起点ともなっている。因みにこの忍城作戦に参加した武将は、石田三成、直江兼続、真田信繁(幸村)と云われ、結果的に時代の先読みが可能となる戦いであった。

  石田堤
この一段高い桜並木は、天正十八年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、忍城を水攻めにした際の堤の一部です。長さ二十八キロメートル(一説には十四キロメートル)に及ぶ堤をわずか五日間で築き、利根川と荒川の水を流入させたと云われています。三成の陣は丸墓山古墳の頂上に張られました。
              案内説明より           

  奥の山古墳  墳丘全長66mの前方後円墳です。
奥の山という名前は、古墳群を東から見たとき、戸場口山古墳・中野山こふ・奥の山古墳と並び、一番奥にあることから名付けられました。発掘調査により、それまで一重と考えられていた周囲の堀が二重であることや、墳丘が二段に築かれ、段上には埴輪列が廻らされていることなどがわかりました。また、古墳が造られた当時の地面も確認されました。
後円墳墳丘西側には張り出し部があり、子持壺や大型器台といった祭祀に使われた須恵器が出土しています。こうした出土遺物から六世紀中ごろから後半にかけて造られた古墳であると考えられています。

  中の山古墳  全長79.0m、前方部幅40m、高さ5.5m  後円部幅39m、高さ4.4mの前方後円墳です。
古墳群内の前方後円墳の内、第六位の規模の古墳です。最近の発掘調査で、二重の堀が巡っていたことがわかってきました。
古墳の築造年代は、六世紀末から七世紀の初めと考えられ、古墳群中の前方後円墳としては最も新しい可能性があります。
                 案内説明より

ページトップへ

本殿修復中に訪れたときの聖天山歓喜院

聖天様ふるさとの森(妻沼町指定)

身近な緑が姿を消しつつある中で、埼玉らしい豊かな武蔵野の緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、四季折々の風情に富んだこの聖天様を中心とした杜が「ふるさとの森」に指定されました。この森は、古くは大我井の杜と呼ばれ、昼なお暗いほどうっそうとしていて、春は桜と新緑、秋は紅葉の名勝地でした。今もその面影を偲ぶことができます。樹木は、イチョウ(樹齢約四百五十年)、ケヤキ(樹齢約四百年)、エドヒガン桜(樹齢約三百五十年)をはじめ五十種類以上あり、特に珍しいものとして、本殿の北にあるアラカシ、本殿の南にあるムクノキ、仁王門の北にあるタラヨウがあります。
   石舞台
本殿保存修理にあたり、創建当時に復原するために後から設置した石段や敷石・縁石などは取り除かれました。その取り除かれた石材を再利用してこの石段を設置いたしました。平素は危険防止の観点から上に登らないでください。集合写真を撮るときのみ許可をとって石段の部分のみを使うことができます。
            案内説明より
                   

  瓦塚古墳  全長73mの前方後円墳です。
他の前方後円墳と同じく周囲には長方形の堀が二重に巡り、墳丘のくびれ部には造出しと呼ばれる張り出しがあります。また、造出し正面の外堀には、通路とみられるブリッジ状の堀残しがあります。整備に先立つ発掘調査の結果から、その周辺の中堤には、琴を弾く男子、踊る男女、武人などの人物埴輪、盾形埴輪、家型埴輪など多種の埴輪が立て並べられていたと推定されています。墳丘内部は未調査であるために、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など詳しい事はまだわかっていません。古墳の造られた時期は、出土した遺物から六世紀前半から中頃と推定されています。
             案内説明より

さきたま古墳群へ
さきたま古墳群へ
さきたま古墳群へ
さきたま古墳群へ
さきたま古墳群へ
さきたま古墳群へ

祈念 平和の礎の御霊の碑
行田市内戦役の御霊
西南の役、日清戦争、日露戦争、満州事変、大東亜戦争、満州開拓団員
満州開拓団員の英霊は十九人で、内女性が九人である。

  金錯銘鉄剣歌碑
東方より 光は射すと 玉の柩 
現れて輝る 一ふりの剣     
                    梨花枝

濱 梨花枝 本名榎本美佐夫
埼玉県北埼玉郡埼玉村(現 行田市埼玉)生まれ           

  将軍山古墳  全長90m 前方部幅68.0m、高さ9.4m 後円部幅39.0m、高さ8.4mの前方後円墳です。
明治二十七年(1894)に横穴式石室が発掘され、多数の副葬品が出土しました。この石室には、千葉県富津市付近で産出する「房州石」が用いられており、古墳時代の関東地方における地域交流を考える上で重要な古墳です。
周囲には長方形の堀が中堤を挟んで二重に巡らせ、後円部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。稲荷山古墳・二子山古墳と同じ形態です。古墳の造られた時期は、出土した遺物から六世紀後半と推定されています。
            案内説明より              

将軍山古墳展示館 
古墳内部に入ると石室が復元されている

墳丘は二段につくられている

  二子山古墳  全長138m 前方部幅90.0m、高さ14.9m 後円部幅70.0m、高さ13.0mの前方後円墳です。
かっての「武蔵国」(埼玉県、東京都、神奈川の川崎・横浜の大部分)で最大の古墳です。周囲には長方形の堀が中堤を挟んで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。現在は遊歩道になっている高まりが中堤にあたります。
内堀は、今は水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。
本格的な発掘調査はされていない為、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しい事はまだわかっていません。出土した埴輪の形から、古墳の築られた時期は、六世紀初めごろと推定されています。
           案内説明より                  

  鉄砲山古墳  全長112.0m 前方部幅73.0m、高さ9.8m 後円部幅56.0m、高さ9.0mの前方後円墳です。
古墳中三番目に大きな前方後円墳で、西側くびれ部に造り出しがあります。掘りは調査の結果他の古墳と同様二重に巡らされた堀であることがわかりました。彫からは、円筒埴輪のほか、土師器、須恵器の破片が発見されています。
古墳の築造年代は、六世紀後半と考えられています。なお、古墳の名称は、江戸時代に忍藩が鉄砲練習場として使用したことに由来します。
                案内説明より

高野山真言宗 聖天山歓喜院
埼玉県熊谷市妻沼1627  Tel: 048−588−1644

名物 いなりずし 2個分の大きさ
以前は」もっと大きかったそうな

板石塔婆

表面の主尊仏に、阿弥陀如来、右脇侍に観音菩薩、左脇侍に勢至菩薩(三尊像に向かっては左右が逆になります)を半浮き彫りにし、光背部に七化仏を配した所謂「善光寺式一光三尊像」板碑で、通称「ひら仏」と呼ばれている。裏面には釈迦如来と文殊菩薩・普賢菩薩の種子真言(梵字)が刻まれている(釈迦如来三尊)。
紀年銘は無いが、鎌倉時代のものである。この板碑はかって妻沼小学校の敷地内(もと大我井森)にあったが、昭和三十年十二月、校舎増築のため現在地に移転したものである。  高さ178p 幅59p

歓喜院別当本坊長楽寺山門

聖天山歓喜院は治承三年(1179)この地方の庄司斎藤別当実盛公が本尊聖天さまを総鎮守としてお祀りし、民衆の祈願所として開創されました。本坊歓喜院長楽寺は実盛公の次男良応僧都が聖天行者の修業所として建立されました。
聖天さまは仏法の守護神でありますので、多くの密教寺院では、寺院を守るため祀られています。当山では直に祈願を篭める人を守る本尊様ととして祀られています。開運・厄除け・縁結びの御利益がいただけます。
聖天さまは秘仏でありますが、その御姿は宇宙の真理、仏法の悟りをお示しになっておられます。信者は自らの信仰によって心理を体得すれば、心眼で御姿を拝することができます。
           案内説明より             

不動明王を中心に置く五大明王の一つ南方に位置して守護の任に当たる四天王で言う増長天と同役
額に一目を置いている髪は逆立ち 憤怒の形相多臂の姿で左右一手目を胸前で交差し指先はよくは見えないが三本表現の印相

貴惣門 (総門 重要文化財)

妻沼聖天山聖天堂の正門として建てられた参道一番目の門で、雄大規模の八脚門。側面に破風を三つ重ねた類例の少ない奇抜な形式に特徴がある。この様式は日本には三棟現存しますが、規模の大きさ等では全国に例がありません。
右側に多聞天、左側に持国天の像があります。(門に向かっては左に多聞天、右に持国天)多聞天像は手が損傷しているので宝塔は持っていない。四天王像は足元に邪鬼を踏んだ像としてあらわされています。
寛保二年(1742)、幕府の命令で利根川大洪水(中条堤決壊 行田市北河原付近)の復旧工事に妻沼を訪れた周防国吉川藩の作事棟梁長谷川重右衛門に聖天堂の大工棟梁林正清が設計を依頼したもので、約百年後の嘉永四年(1851)正清の子孫林正道が棟梁となり完成した。
総欅造の精緻なつくりに、多様な技法の彫り物で要所を飾るなど、江戸末期の工芸芸術の粋が発揮されている上、主要部分に寄進の名を残すなど、郷民信仰の証を伝える貴重な建造物である。
             案内説明より
                 

妻沼聖天山は斎藤別当実盛公が、当地の庄司として、祖先伝来の本尊歓喜天を治承三年(1179)にお祀りしたのに創まる。実盛公は平家物語、源平盛衰記や謡曲実盛、歌舞伎実盛物語などに、武勇に勝れ、義理人情に厚い人柄がたたえられている。
次いで、実盛公の次男斎藤藤六実長が出家して阿請坊良応となり、建久八年(1197)に本坊の歓喜院を開創した。御本尊聖天様は、正しくは「大聖歓喜天」と称され、また聖天・天尊とも呼ばれ、弘法大師が唐より密教と共に仏法の守護神として請来されてから、日本でも祀られ、福運厄除けの神として信仰されている。
一般に歓喜天は、古代インドの魔人で、修行の邪魔をし、修行者を惑わし、煩悩の海に引き込む悪行であった。その後、仏教に帰依し、修行者の魔性を取り除く神となって崇められるようになった。
密教での重要な修法の一つである歓喜天法の本尊であり、その御姿は魔王と観音の化身である人身頭象の男女が抱擁し、頭肩上に載せ合う双身像であらわされている。また、独立象としても多臂の姿をとるものもある。像は多くは小形の銅像の場合で、多くは厨子に納められ、歓喜院と同じく秘仏とされることが多い。
妻沼聖天さまの御本尊は由緒正しさでは日本最古の聖天尊像として知られ、特に縁結びの霊験あらたかで、夫婦の縁はもちろんのこと、家内安全・商売繁盛・厄除け開運・交通安全・学業進学等のあらゆる良縁を結んでいただけるので、祈願を篭める人々が後を絶たない。
御本尊は錫杖の中央に祀られているので御正体錫杖頭として国指定重要文化財であるが、秘仏であり開帳はされない。
            案内説明より                

欅の御神木

樹齢四百年以上の大欅群で最大目通り約四メートル、高さ二十メートル。落雷のため幹に洞穴が有るものもありますが、樹勢はきわめて旺盛です。

佐間天神社

佐久間天神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取り入れ口とし、天神坊を出口としたと伝えられている。その天神坊を慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請した。今から五百年前のことである。
享保五年(1720)十二月京都の隋一の神道、吉田殿より「正一位天満天神」の神格を与えられた。その後、文化十年(1800)八月二十五日本殿が再建された。本殿に安置される天神坐像は春日の作と伝えられている。また、境内の欅の樹齢は行田市教育委員会の推定によると四百年とされている。
佐間天神社には学問の神様、菅原道真公が祭神として祠られている。以前は慈眼山安養院が守護神であったが、その様子は今でも白山社、伊奈利社、厳島社、明神社・・・・などの合祀社が多く両部神道の名残を留めている。神門は安政三年(1850)の大火で類焼したがここで火が止まったため、火防の門と呼ばれた。
明治二十二年、佐間村、成田町、行田町が合併し忍町となり、妙音時にあった温智学校を廃止し天神社社務所に佐間学校が開校した。正式には忍学校第三教場といわれた。大正四年三月、行田尋常小学校第三校舎(現在の新町会館)が新築されるまでここに存在したのである。
                案内説明より

  本丸土塁跡
本丸西側を囲む土塁で旧状をよく残す。南に二の丸、西に土蔵曲輪と橋で結ばれていた。

  加須市 総願寺黒門   参考:埼玉いろいろ→加須周辺→総願寺
この黒門は、忍城の北谷門を移築したものである。忍城は文明年間(1469〜1486)に築城され、明治六年(1868)に取り壊されるまでの間約四百年続いた。
黒門は、行田から熊谷に抜ける県道工事を請け負った不動岡在住の土木請負師田村重兵衛に払い下げられ、重兵衛が日ごろ信仰する総願寺に寄進したものである。
黒門は、総欅造りで、門扉は一枚板からできている。

伝進修館表門 (高麗門)

この門は、行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したもので、かっての藩校「進修館」の表門であったと伝えられている門です。一間一戸、高麗門、切妻造、桟瓦葺で、当初は赤彩された赤門であった可能性も指摘されています。
また、解体時に発見された冠木柄表面の墨書銘から、天保三年(1832)に御奉行後藤五八、大工町世話方大工宗兵衛によって建立されたことが判明しています。
戦災によって一度移築されていることなどから、藩校「進修館」の表門であるのかは確定していませんが、現存する行田市隋一の武家屋敷の表門として貴重な歴史的建造物であると言えます。

ページトップへ

さきたま古墳群へ

境内社 五大明王右より  諏訪・
灌頂・井殿・稲荷・神明の大明神祠

歓喜院を開創した斎藤実盛像

ページトップへ

行田音頭作品記念 昭和九年九月四日
作詞:西条八十 作曲:中山晋平

門扉上部の欄間の構造が忍城主松平氏の菩提寺である桃林寺本堂の欄間と同様であることから天保十三年(1842)の建造と伝えられる。忍城の現存建造物としては高麗門とこの黒門のみである。

歌碑文

金錯銘鉄剣歌碑

稲荷山古墳 礫槨

堀跡

手前方墳部

後円部 登り道

稲荷山古墳 右方墳部

案内板 稲荷山古墳構造図

稲荷山古墳 前方部より将軍山古墳を望む

復元古墳

案内板 二子山古墳構造

案内板の航空写真

二重堀の内 外堀跡

二重堀の内 内堀

二子山古墳 前方後円墳 手前方墳

手前方墳

手前方墳

中の山古墳 前方後円墳

整備された緑地

右側方墳

右側円墳

手前方墳

側面

方墳側より

手前方墳

稲荷山古墳 前方部より丸墓山古墳を望む

古墳近くの親子像

台座の銘板

親子像脇の用水路

円墳 道が付けられている

手前円墳

案内石標と案内板

忍城址案内図

館風の門

常夜燈

門の裏

丸墓山古墳 登りやすい石段

墳墓頂き

頂上から忍城を望む

よく似た博物館入口門

反対側の登り口・降り口

石田堤の跡とされる

蓮池

土塁基礎部の石積み

本丸西側の土塁と八重桜
枝が折れないうちに支えが必要

本丸の古を知るのはこの松のみ

高麗門横の土塁

三階櫓の松平家家紋瓦

取り壊された三階櫓石垣

本丸跡の石碑

忍城の鐘と鐘楼

新本丸庭園

古墳上の野仏 かって愛宕神社が
祀られていたのでその名がある

近くの小高い丘 資材置き場?

郷土博物館の竹林

役に立っていないもの

円墳側より

方墳側より

囲み堀と思われる低地

松平忠堯 忠国公隠居邸跡の石碑

民家の生け垣

三重橋跡の石碑

前玉神社

後方の丘 浅間山古墳

浅間山古墳

  浅間塚古墳(浅間山古墳)は、埼玉古墳群の南東部に位置する古墳です。
直径約50mの円墳ですが、前方部が失われた前方後円墳であったという説もあります。古墳の頂には玉前神社、中腹に名前の由来となっている浅間神社が祀られています。前玉神社は平安時代の『延喜式神名帳』にその名が見られ、古くから埼玉郡の総社として信仰を集めていました。
浅間塚古墳については、比較的最近まで古墳であるのか、後世に築かれた塚であるのか議論が分かれていましたが、平成九・十年に行われた発掘調査で、幅十メートルに及ぶ周溝が廻らされていたことが確認され、古墳であることがほぼ明らかになりました。
埴輪がたてられていなかった可能性が高い事、古墳の南西部の絵馬堂付近に石室の石材と思われる角閃石安山岩が見られることから、埼玉古墳群の築造が終わりを迎える七世紀前半ごろに築かれた古墳と推定されています。埼玉古墳群の終わりを考える上で、重要な古墳であると思われます。
            案内説明より
               

古墳か祠跡のような塚山

塚から流れ落ちる滝

塚の頂

太陽電池と風力発電で園内の街路灯を燈している

田山花袋石碑
田舎教師より 絶望と悲哀と・・・

忍池

つつじ丘陵

築山水庭園

東屋と中ノ島の松

公衆トイレ しのぶ庵

拝殿

本殿

御燈明とゆかりの梅の木

御神門

神楽殿

三峰神社

慈眼山安養院跡の石碑

伊奈利神社

手水舎と御神木

佐間学校跡の石碑

ページトップへ

  足袋蔵と行田の近代化遺産
行田市は江戸時代中頃から足袋づくりが大変盛んで、最盛期の昭和十三年には年間約八千五百万足、全国シェアのや約八割に足袋を生産する“日本一の足袋のまち”として繁栄していました。
市の中心部には、足袋倉と呼ばれる足袋の商品倉庫を中心に、その繁栄を伝える洋風足袋工場、北側〜西側だけを蔵造りにした行田独特の店蔵や住宅など、足袋産業関連の近代化遺産が数多く残されています。
近年行田市では、こうした近代化遺産の保存が進められており、武蔵野銀行行田支店店舗、十万石ふくさや行田本店店舗、大澤家旧文庫蔵などが国登録有形文化財に登録されています。また、忠次郎蔵、彩々亭、足袋蔵まちづくりミュージアム、足袋とくらしの博物館など様々な形での再活用も行われています。

                 案内説明より

郷土博物館 武者の出迎え

歴史資料特別展示展

三階櫓から行田市街中心方面

忍城の鐘

C57の展示

忍池周遊道 平面と階段道

つつじ山開花

公園口にある出店

ゼリーフライ一本60円  大きさは投影面積で約12cuで厚みはこれ位

拝殿

本殿

諏訪神社 

本殿

稲荷神社

境内の巨木

公園と神社を隔てる国道125

拝殿唐破風彫刻(龍・虎・朱雀・玄武)

歓喜院聖天堂 奥の殿・中の殿

貴惣門 多聞天(毘沙門天)像

貴惣門 持国天像

聖天堂奥殿隅柱に示された
長谷川重右衛門の名前

貴惣門の扁額 「皆興願満足」

切妻破風(千鳥破風)三重屋根

貴惣門 彫刻(龍)

中門

観世音菩薩立像

山門(仁王門)
万治元年(1658)創建と伝えられています。明治二十四年の台風で倒壊、その後明治二十七年に再建されました。

   中門
懸魚の模様などに室町期の特徴をよく残し、寛文の大火で唯一残り、聖天山の建造物群の中でも最古のものと云われます。平成二年の解体修理により瓦葺の屋根を銅版に葺き替えました。柱には明治四十三年の大洪水の痕跡が残っています。郷人はこの門を甚五郎門と称しています。
             案内説明より

吽形像

阿形像

仁王門 扁額

大師堂

大師堂 扁額

庫裡

庫裡堂 扁額

手水舎

弁才天堂

弁天池と弁天橋

軍荼利明王と明王瀧

軍荼利明王

地蔵菩薩石造立像

境内つるべ井戸

御輿倉

新設の石舞台

相撲土俵舎

多宝塔(平和の塔)と朱橋

拝殿の鬼瓦と懸魚

奥殿の鬼瓦と懸魚

香炉

御百度石

境内社 三寶大荒神

境内社 天満宮

本殿横の井戸

聖天宮 石造扁額

扁額の歓喜天 人身象頭

平和祈願の多宝塔

聖天 仁王安置の仁王門

仁王 阿形像

仁王 吽形像

聖天寿し

境内の白梅

境内のさくら

長井庄 斎藤別當實盛館跡の石碑

斉藤 実盛像  歓喜院

貴惣門 (国重要文化財)
右:多聞天  左:持国天

仁王門より本殿を望む

本堂

内陣

寺ゆかりの墓所

歴代住職の墓?

本堂 扁額

池と庫裡

境内樹木

実盛うどん 他にそばもあり
うどんに板海苔をのせ、その上に妻沼産山芋の千切りを置く 山芋の白を白髪、海苔の黒を染めた黒髪と云う

実盛うどんの騎崎屋

聖天寿司

三聖吸酸 孔子・老子・釈迦の三聖

鷲と猿 左甚五郎の作と云われている

親子猿
琴・棋・書・画

布袋・恵比寿・大黒の囲碁囲み

北面鳳凰

朱雀

玄武 (四獣) 龍・虎・朱雀・玄武

南面鳳凰

奥殿 南面

奥殿 西面

奥殿 北面

向拝と向拝柱の彫刻

向拝柱正面からの彫刻

高欄下の彫刻群

高欄下の彫刻

高欄下の彫刻群

奥殿主壁の彫刻

奥殿主壁の彫刻

奥殿主壁の彫刻

奥殿主壁の彫刻

鐘楼と梵鐘

妻沼町キャラクター「えんむちゃん」

聖天様ご利益 縁結びに因んで