法要寺は深井寿命院(北本市)の末寺で、寺号は慈雲山医王院法要寺と称し、長禄元年(1457)亮恵上人の開基と伝えられ、本尊には行基作と伝えられる大日如来が安置されている。法要寺は梅に鉢の寺紋で、加賀前田家と同じ紋を使用している。これは慶安のころ(1648~1652)、加賀前田候が参勤交代における鴻巣の宿所として法要寺を利用することになった際に、寺紋としての使用を許されたものである。法要寺には市の指定文化財となっている庚申塔をはじめ、市神の狛犬、深井景周の碑、関弥太郎の墓など貴重な文化財が少なくない。

   深井景周の墓
深井勘右衛門は三河国生まれ、十五歳にて江戸に出て起倒流柔術を学び、その奥儀を得たが、夢想流鎖鎌の術をもよくした。諸国をめぐり、ここ鴻巣に至って深井家に入り婿し、八代勘右衛門を継ぎ、名を景周と改めた。後に邸内に道場を開いて多数の門弟を集め其の指導にあたり、世に無敵斉先生と称された。天保三年(1833)六月三日、七十三歳にて入寂。寿命院に埋葬される。碑は弘化四年(1790)門人一同の志により法要寺境内に建てられたものである。

   彰義隊士 関弥太郎の墓
関弥太郎は明治維新に際して彰義隊士として上野寛永寺で戦った徳川直参の旗本であったが、敗戦後は榎本武揚らと五稜郭にて抗戦し、その後どのような経路をたどったものか明らかでないが、明治九年ごろより鴻巣に居住し、名も岡安喜平次と改め長唄の師匠として風雅な生活の中に一生を送ったという。墓は薬師堂前にあり、門人一同と世話人によって建てられたものである。

   法要寺境内庚申塔 (市指定有形民俗資料)
庚申の信仰に基づく庚申塔造立は、室町時代以来次第にさかんとなり、江戸時代に至ると路傍の石塔として各所に造立されるようになった。市内の庚申塔はその数も多く、青面金剛神に日天・月天を配したもの、見ざる・言わざる・聞かざるのいわゆる三猿を配したもの、邪気を踏まえたもの、文字で庚申と書したもの等、その様式も多種にわたるが、この庚申塔は寛政二年(1760)の銘があり、右側面には庚申の由来を記した銘文を持つ市内でも有数の堂々たる庚申塔である。この庚申塔は当初よりここに建てられたものではなく、明治維新まで中仙道中央に鎮座したと伝えられる市神社の社側に建てられていたものであろうと推定される。
市神社は明治三年の大強風により破壊され、左右の狛犬だけが残り、法要寺薬師堂前に移されて現在に至っている。
                        案内説明より


中山道てくてくその2



浦和~大宮       大宮~上尾



上尾~桶川       桶川~鴻巣


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街道てくてく  

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孝女お玉の墓  廊室妙顔信女
親の為にと遊女となり若くして没した。憐れんだ主人により建立されたと云う

  雛屋歴史資料館
鴻巣は江戸時代よりひな人形の生産地で江戸十間店、武州越谷とともに「関東三大雛市」として栄えた。鴻巣人形は、江戸時代に京都伏見の人形師が移り住み、作ったのが始まり。吉見屋は土蔵を「武州鴻巣雛屋歴史資料館」として公開。江戸時代から現在までのひな人形や人形作りの道具、関係資料などを展示している。

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  松山道道しるべ
東松山市箭弓に鎮座する稲荷神社は、江戸時代中期ごろより招福、災害除けの神、箭弓稲荷として庶民の信仰が厚かった。各地に稲荷講が組織され、絶えず参拝者で賑わっていた。この道しるべは、天保七年(1836)二月に、桶川宿の北のはずれより分岐する松山道入口、上の木戸近くに建てられたもので、「松山いなり道・本小田原町」「天保七年丙申三月七日」と刻まれ、魚の字が図案化されている。

  桶川宿の木戸跡
江戸幕府は治安を維持するために、各宿場の出入り口に「木戸」を設けました。桶川宿の古絵図にもこの木戸は描かれており、文久元年(1861)に皇女和宮の通行を迎える前に木戸を立て直した記録も残されています。現在、木戸があったことを示す石碑は、当地と大国屋化粧品店脇(下の木戸跡)に建てられていますが、当地の石碑は道路の拡張などにより以前よりもやや南に移されています。

島村家住宅土蔵 国登録有形文化財

桁行六軒、梁間三間の木造三階建ての土蔵で、江戸時代後期の天保七年(1836)の建築と伝えられています。
島村家は中山道桶川宿の本陣近くに店を構えた穀物問屋木嶋屋の総本家で、土蔵の屋根の両端にある鬼板には当時の屋号の一字を取った「木」の字が刻まれています。また、この土蔵の建築工事は、天保の大飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、その報酬により多くの民が飢えから救われたことから、「お助け蔵」といわれたとの伝承も残されています。現在は、黒漆喰壁がとたんで覆われていますが、建築当時の嶋村家(木島屋)の勢いを感じさせる堂々とした土蔵です。

道路と一体で橋には見えないが
道路の下には川がある

市指定天然記念物
宮原小学校のセンダンの木

石上神社

この神社は、江戸時代の中山道の絵図にも掲載されている古い神社です。疱瘡の神様として人々の信仰を集めてきたもので、今日のように医学が発達していなかった時代には疱瘡の伝染は大変おそれられ、村人はほかの村で疱瘡が発生すると村内へ伝染しないよう、また伝染しても軽く済むようにと神社を祀りました。
先の大戦までは露天が出るほどのにぎわいで、昭和30年代までは家々からもち米と小豆をもちより、小豆入りの餅をつきあげ子供たちに食べさせました。毎年の4月5日が祭礼日ですが、現在では4月上旬の良い日に行っています。 8月の夏祭りには、東大成2丁目の休憩所に当てられ多くの人でにぎわいます。
                       案内説明より

本堂
このように、東光寺は草創以来八百六十余年の歴史を有している。「新編武蔵野国風土記稿」巻一五三にとり上げられており、中山道を往還する文人墨客が足を止めたところでもある。漢学者上山寿山、近代漫画の祖である北沢楽天、大宮市発展のもとを築く駅の誘致に努めた白井助七ら名誉市民の墓碑も祀られている。また、明治期の碩学原坦山大和尚を生むなど、歴住には学僧も輩出している。
                      東光寺HPより

  大宮山 東光寺
寺伝によると、もと大宮黒塚にあり、平安末期(約800年前)武蔵坊弁慶の師匠、山城国京都鞍馬寺の東光坊阿闍梨宥慶法印が黒塚の鬼婆々を法力をもって退散させ、鬼婆々に殺された人々を葬るために、この地に庵を結び天台宗寺院として開創されたのに始まる。鎌倉時代梁室元棟禅師が開山となり曹洞宗に改宗、江戸時代中山道開設とともに現在地に移転して今日に到る。

往時大宮宿の辺りの中山道を横切って溝川の流れがあり、「中の橋」と呼ばれる橋が架かっていた。当時吉敷町の町外れ、高台橋に罪人の処刑場があって、その親類縁者が、「中の橋」で、この世の別れを惜しみ涙を流したことでいつしか「涙橋」と、呼ばれるようになったといわれている。
この碑は昭和42年3月、第四銀行大宮支店が、この地に開業するに当たり敷地造成の折、国道に架けられた橋桁の砕石が発見されたのを機に遺跡として顕彰したものである。

妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が大宮宿で病に倒れ、日一日と重くなっていきます。ある晩、夢枕に地蔵様が現れ二人の娘に塩断ちをするように告げて消えました。
娘は早速塩断ちをし、近くの地蔵堂に祈ったところ父の病が全快しました。そこで、たくさんの塩をこの地蔵様に奉納し、幸せに暮らしたとのことです。

浦和宿本陣跡

鴻神社は明治六年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といった。三社とは次の神社である。
   氷川社
鴻ノ宮氷川大明神あるいは端ノ宮ともいい、鴻巣郷総鎮守として崇敬された古社であった。氷川社の神額は現在も鴻神社に残されている。
   熊野社
熊野権現と称していた古社で氷川明神を端ノ宮と称したのに対し中ノ宮と呼んだ。合祀前は社地三〇〇〇坪を有し、巨木におおわれた森林であったという。
   竹の森雷電社
雷電社は現在地に鎮座していたもので、「竹の森」の名があるように付近には竹林が広く存在し、巨木と竹林によって囲まれた古社であり、天明期には遍照寺(常勝寺末)持ちとなり、鴻巣宿の鎮守として崇敬されていた古社であった。
現在の鴻神社社地は竹ノ森雷電社の社地だったもので、合祀決定後、社殿の造営が行われ、明治六年九月二十四日に社号を鴻三社と定めた。明治三十五年から四十年にかけてはさらに鴻巣町内に所在した日枝神社、東照宮、大花稲荷社、八幡社を合祀して、明治四十年四月八日、社号を鴻神社と改めて現在に至っている。
ここ鴻神社では十月十四日の例大祭のほか、ゑんぎ市や酉の市、夏祭りなど様々な行事が行われている。
                       案内説明より

  天照山 良忠院 勝願寺 浄土宗大谷派
勝願寺の開基は約700年前、浄土宗の第三祖阿記主禅師良忠上人によって蓑田松ヶ丘に創建された。江戸時代には、浄土宗関東七大寺の一つに数えられている。
結城秀康が結城から福井へ転封になったとき、結城城の御殿の一部をこの寺に賜ったといわれており、寺域は約6万坪に7堂を呈していた。徳川家康は中興の二世不残上人に帰依し、しばしば勝願寺を訪れていたといわれている。関東十八檀林の一つで30石を受領している。初代関東郡代伊奈忠次・忠治父子の墓がある。また大名家ゆかりの人物の墓もある。
檀林とは、僧侶を養成するための組織で、現在の大学と本山の役割を兼務していた。浄土宗では江戸増上寺を中心に18の檀林が制定されていた。
                      案内説明より



桶川~鴻巣

   「五街道中細見記」の上尾宿付近
上尾と書かれた下部には、鍬大明神(氷川鍬神社)が、その左には高札場の印と細井、井上の脇本陣に名が記されています。また、上尾宿と大宮宿の間には英泉の「木曾街道」にも描かれている賀茂社も見られます。
   鶴亀の松
鎌倉街道と中山道が交差する辺りに、土手松の呼び名で知られた老松がありました。一方を鶴松、他方を亀松と称し、街道筋でかなり目立った存在でした。
   鐘馗様
鬼屋根瓦の家に対して鐘馗様を以って対峙する意味で置いていたものです。これは中山道の他の宿場町では見ることが出来ない上尾特有のものでした。鐘馗様は疫病神を追い払う神といわれています。
   「木曾街道上尾宿加茂之宮」 渓斎英泉作
鉄鋼脚絆にわらじがけで、道中笠をかぶった武士、文箱のようなものをかついだ飛脚、こもを背負った六部などの旅姿が描かれています。この作品は、大宮宿と上尾宿の中間にある賀茂神社を描いたものです。
   中山道と中仙道
中山道を通っていると、標識に中山道と中仙道と書かれてあることに気が付きます。そのむかし、初めて中山道六十九次が定められたときには「仙」と(山」、特に統一されていませんでした。享保元年(1716)当時の学者新井白石が道中奉行に命じて、「中山道は東山道のうちの中筋の道であり、古来、東山道、山陰道、山陽道と読んでいるから、今後は、山の字を使用するように」とあって、その後は中山道と書くようになったのです。  

上尾宿総鎮守 氷川鍬神社

   中山道上尾宿と本陣
上尾市の市街の中心は、中山道に沿った上尾宿をその源にしていますが、この上尾宿はすでに後北条時代に宿駅として成立したようです。宿駅として整備されたのは、慶長七年(1603)の伝馬制施行以降のことです。幕府は中山道各宿駅に、五十人五十匹の人馬を用意させ、主要幹線路としての役割を果たさせました。また、各宿に本陣・脇本陣を置いて大名などの宿泊所としました。中山道を通行した大名は、加賀藩の前田家をはじめ三十四家ほどでした。上尾宿は、中山道の中では比較的小さな宿場でした。江戸時代末の家数は、百八十二軒、人口は七百九十三人、旅籠屋は、四十一軒でした。上尾宿には本陣が一軒(林八郎右衛門)、脇本陣が三軒ありました。これ等は主として参勤交代の大名たちの宿で、本陣のことは「大名宿」とも呼ばれました。脇本陣は副本陣のような性格をもち、本陣の代理もしました。
                     説明案内より

  浦和宿二七市場跡
浦和の市場は戦国時代に開設されたものと考えられ、豊臣秀吉が小田原攻めの際に浅野長政が人心安定のために市を開くことを許したとされています。天正十八年の「御免毎月二七市場定杬(定杭)と刻まれた石碑がある。同年、長政より浦和宿の市に対して喧嘩公論などを禁じた「禁制」が出されています。
浦和の市は月六回開かれる六斎市と呼ばれるもので、毎月二と七の日に開かれたため二七市場といわれていました。二七とは、二、七、十二、十七、二十二、二十七日の六日をさす。浦和宿の内上宿市場は二、十七、仲宿は七、二十二、下宿は十二、二十七と3ヶ所で2回ずつ分散で開いていた。
江戸時代、十辺舎一九は「代ものを 積み重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑い」と詠み、浦和の市の賑いを表現しています。又、川口芝の長徳寺住持である龍派禅珠は、ある年の暮、浦和の宿で萩、屠蘇、麹、膠、末醤(味噌と醤油)、新暦などを購入しています。周辺では、蕨(一・六の市)、鳩ヶ谷(三・八の市)、与野(四・九の市)、大宮(五・十の市)で市が設けられており、毎日どこかで市が開かれていたことになります。
                      案内説明より

浦和宿本陣跡 (市指定史跡)

中山道は江戸と京都を百三十五里余で結ぶ街道で、木曾の山間部を通るため「木曾街道」 「岐蘇路」などともいわれました。中山道の宿場は、本来板橋宿(東京都)から守山宿(滋賀県)までの六十七次ですが、東海道と宿場を共有している草津・大津宿を加えて六十九次とするのが一般的です。浦和宿は日本橋を出て三番目の宿駅になります。江戸時代後期の浦和宿には本陣一、脇本陣三、旅籠十五があり、この辺り一帯が本陣の跡になります。本陣は大名などの宿泊や休憩に当てられる家で、浦和宿では星野権兵衛家が代々務めていました。二百二十二坪の敷地内には母屋や表門、高札場、問屋場などがありましたが、明治時代になってすべての建物が取り払われ、当時の姿を偲ぶものは大熊家表門(さいたま市緑区大間木に移築)のみになってしまいました。なお、明治元年及び三年の明治天皇による大宮氷川神社行幸に際して、ここが行在所となりました。

玉蔵院地蔵堂(市指定有形文化財)

 <構造・規模>
三間四方、入母屋造り、一間向拝つき、桟瓦葺き、間口・奥行きとも八・三四メートル。
 <概要>
軸部は、ケヤキ材を用いた重厚な建築で、柱は円柱、柱上三手先の斗栱で桁を受ける。中備は、十二支の蟇股を配している。軒は、二重繁棰となる。内陣は、裏側壁面から半間出して来迎柱を立て、来迎壁に須弥壇をつけている。内陣の天井は、花鳥などを描く格天井となっている。他に、欄間の彫刻、外陣天井の画など装飾が多い。内陣蟇股墨書銘により安永九年(1780)の建立であることが知られる。三間仏堂ではあるが、本格的な造営を受けた仏堂建築でしかも建立年代が明らかであり、保存価値がきわめて高いと言える。

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浦和~大宮



上尾~桶川

狛犬の主はどこ?   穴をまくってイジケル狛犬?

真言宗 慈雲山 医王院 法要寺

猿田彦大神

鴻巣本陣跡の碑

鴻巣から巣立ちのコウノトリ

東照宮入口の奥の御成町神社

東照宮入口の石碑
鴻巣御殿があったとされる

  芭蕉忌千句塚
横田柳几(1716~1788)が芭蕉七十年忌で俳句仲間と詠んだ千句を、死期の迫る天明七年(1787)塚下に奉じ、建立したといわれる。

碑には けふばかり 人も年よれ 初時雨  芭蕉 と刻まれている。
背面には夕暮れを こらえこらえて 初時雨 横田柳几の句がある。

左三角の石には笠島庵春友(1825~1893)の句で紫陽花や 人の寄るのも おもしろき とある。

慶長四年(1599)従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた(のち大正元年正五位を追贈)。慶長十五年(1610)六十一歳で没した(五十七歳との説もある)法号は勝林院殿秀誉源長久運大禅定門。
伊奈忠治は忠次の二男で、元和四年(1618)関東郡代を嗣ぎ、武蔵国赤山(川口市)に陣屋を構えて七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開削などに努めた。その在任は三十五年の長きに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績は極めて大きい。
承応二年(1653)六月、六十二歳で没した。法号は長光院殿東誉源周大居士。
                       案内説明より

  伊奈忠次 伊奈忠治の墓
伊奈忠次は三河幡豆郡小島の城主伊奈忠家の嫡子として生まれた。初め徳川家康の近習となり、のち関東郡代に任ぜられ、武蔵鴻巣・小室で一万石を賜った。関東各地を検地し桑・麻・楮の栽培や水利の便を開くなど、関八州は彼によって富むといわれた。茨城結城地方特産の紬織もその奨励によるものである。彼の功績は江戸幕府財政の基礎を定めたことで、その検地徴税の方法、すなわち、地方の方式は伊奈流といって江戸幕府地方の基本となった。

  真田信重(右側) 真田信重室左側)の墓
信重は真田信之(松代藩初代藩主)の三男。慶安元年(1648)二月二十三日鴻巣で病没した。母小松姫の縁で当山に葬る。また、信重の室は鳥居左京亮の六女で、慶安二年(1649)十二月九日に没した。
長野市松代の西楽寺には夫妻の霊屋があって、位牌が安置されている。

仙石秀久の墓 左側
秀久は信州小諸の城主で、始め羽柴秀吉の家臣で淡路国洲本城主であったが、天正十八年(1590)小田原征伐の武功により、小諸を賜った。のち徳川家康に仕え慶長十九年(1614)出府しての帰途発病、同年五月六日当地で没した。当山にて殯し同年十一月八日小諸の歓喜院に葬る遺命により当山に分骨建墓。
本廟は芳泉寺(長野県上田市)にある。

  丹後国田辺城主牧野家累代の墓所 (墓所は非公開)
天正十八年九月(1590)牧野康成は石戸領五千石を領した。その子信成は加増により大名に列し石戸藩主となる。のちに関宿に転じた信成嫡子親成は京都所司代を勤めたのち寛文八年(1668)丹後国田辺城主三万五千石の譜代大名として約二百年続き明治維新を迎えた。ここには歴代の当主夫妻が眠っている。

東間浅間神社 再建の碑抜粋

当社は東間の鎮守として約八百八十年の歴史を有し、御祭神木花開耶姫命は古来子育ての神として崇敬され、初山例大祭には近隣市町村はもとより遠方からも子供のし健やかな成長を祈る多くの参拝者で賑わっている。平成十七年六月一日深夜、築約二〇〇余年の社殿が不審火によろ全焼した。
東間各自治会及び氏子の積極的な再建要望に対しまた、その活動により平成十九年六月再建竣工を迎えられた。このたびの社殿再建に至る経緯を石刻しこの地域伝統の文化を後世に伝えることと御祭神の神徳を広く宣揚することを祈念する。毎年夏祭りが六月三十日に開催され、出世初山と称する神事が執り行われる。文面通りに、世に生まれた赤子が当山に参り、安産の報告とこれからの無事息災を願って神事を賜るという。

勝林寺

当山は、久運山勝林寺と号し、寛永元年(1624)、日譽源貞上人が亡父の菩提を願って創建した寺院である。開山玉蓮社日譽眞至源貞上人は、小室領丸山(現伊奈町大字小室)に陣屋を構えていた。関東郡代伊那備前守忠次の三男であり、幼名を忠武といった。生来病弱のため伊那家の菩提寺であった檀林勝願寺第七世圓譽不残上人について得度、勉学修行し、その後上人は寛永八年(1631)に檀林勝願寺第十一世の御貫主となり、さらに鎌倉の関東総本山光明寺(現在大本山光明寺)第三十六世の御法主になられ、慶安五年(1652)七月十九日鎌倉で亡くなられた。
当山は慶長十五年(1610)六月十三日に没した父伊那備前守忠次の法号から初めは七寶山勝林寺と号した。そののち宝暦九年(1759)第十代関東郡代伊那忠宥が初代関東郡代伊那忠次の百五十回忌の法会を行った。その時、檀林勝願寺第三十一世の御貫主忍譽上人が忠次の法号に久運の二字を贈られたので、当山の七寶山を久運山と改め今に及んでいる。
                       案内説明より

天神社
天神社は寛文二年(1662)頃、名主岡野家が京都北野天満宮の分霊を勧請して祀ったのが始まりと伝えられている。
御神体は菅原道真公。学問の神様として、湯島天神にならい、絵馬が売られている。

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   稲荷神社
この地は、昔、芝川の水源地帯であり、高崎線の線路近くにあった湧水が中山道を横切って、この付近を流れていたという。境内は約四千平方メートル。建物は本殿、幣殿、拝殿、社務所、手水舎、神楽殿、合祀した社、倉庫などからなる。氏子は旧町内の人々に広がり、町の鎮守様として祀られている。
創建は長承三年(1134)とも嘉禄年間(1225~1227)ともいう。元禄六年(1693)桶川宿の鎮守となり、明治六年(1873)郷社となる。

   紅花商人の石灯籠
拝殿の前面に立ち並ぶ灯篭で、安政四年(1857)桶川宿を拠点に活躍した紅花商人二十四名が寄進したもの。当時、桶川地方は、口紅や食紅の原料となる紅花を盛んに栽培しており、その紅花は、「桶川蒸脂」として全国的に知られていた。

   力石
「大磐石」と刻まれた力石は、拝殿に向かって右手前にある。長さ一・二五メートル、下幅0・七十五メートルあり、重量はおよそ七〇〇キログラムと推定される。表面に嘉永五年(一八五二)二月、三ノ宮卯之助がこれを持ち上げられたと刻まれている。併せて、世話人の名前十二名と石主・石工の名前も刻まれている。力石とは、一般の祭礼などに若者が、力比べにもと上げる石を言う。
                          案内説明より

小林材木店

江戸末期の建立と推定されている旅籠建築である。棟の札筆には古久屋基吉右衛門とあり、保存されている。その後、現在の小林家が旅館を買収し、大正十三年に改築を経たのち木材商として創業した。今は旅籠を想像される外観ではないが、基礎の梁棟をみると大きな旅籠だったと思われる。

 武村旅館
嘉永五年(1852)に建立され、江戸時代末期には約三十六軒の旅籠があったとされる。
この武村旅館は現在も営みを続けており、文久元年(1861)皇女和宮下向の時の間取りを今もそのの姿を保っている。その後、はじめ6部屋であった平屋の建物を今見る二階に改築し、今日に到っている。

女郎買い地蔵(右端)他は濡れ衣地蔵

桶川宿の飯盛り女を買いに夜な夜な出かける地蔵がいた。それを見聞きした住職が出歩けないように背中にかすがいを打ち込んで鎖で木に縛り付けたといわれている。本当は、寺に住する若者が羽目を外さないようにと、見せしめのたとえとして話したのでしよう。仏の道に仕える者の心構えでしょうし、ましてや曹洞宗の修行ですからね。

府川本陣遺構

本陣は代々府川家が勤めた。 脇本陣は、内田家と笠武家が勤めた。屋敷は千坪あまり、建坪も二百坪に達していた。瓦葺、切妻、建物の一部が現存し、勝手の奥座敷にあたる。内部は数寄屋造りとなっている。
一万五千人の行列といわれた「皇女和宮」が江戸へ下る宿として利用された。また、明治天皇宿泊地として使用された部屋は、当時の姿そのままに残っている。

山門・梵鐘・仁王像 山門二階に梵鐘

浄念寺のシンボルというべきこの朱塗りの仁王門は、「新編武蔵国風土記稿」に「仁王門ハ楼門ナリ楼下ニ仁王ヲ安シ、上ニ鐘ヲ懸ク、元禄十四年ノ銘文アリ」と記されてあるように、元禄十四年に再建されたものであります。この仁王門のうえには梵鐘が懸かっています。浄念寺のかっての梵鐘は寛保元年(1741)に鋳造されたもので、浄念寺の御詠歌に「浄念寺 鐘の響きや法の音 子安誓い深き桶川」と詠われているように、その美しい音色は、人々に時を知らせるために桶川宿の隅々まで鳴り響いたといわれています。残念ながら、この梵鐘は第二次大戦の際、求めに応じて供出され現存しておりません。現在、仁王門にかかっている梵鐘は、昭和四十年に鋳造されたものであります。仁王門の楼下にいらっしゃるのが、二体の仁王像であります。明和五年(1768)に開眼されました。口をあけているほうが阿形像、口を閉じているほうが吽形像といい外から侵入しようとする法的から仏法を守護しております。

浄念寺 本堂

浄念寺は正式名称を清水山報恩院浄念寺と申します。室町時代の後期の天文十五年(1548)、下総の国小金(現在の千葉県松戸市)東漸寺の團誉桂全善寿上人が浄念寺を開創しました。
江戸時代後期にまとめられた「新編武蔵国風土記」に、「往古の開基を朗海と云い、貞治七年正月朔日寂せり則境内に其の人の古碑あり、因りて思ふに朗海の開基せしはわずかの庵室なりしを後、團誉桂全善寿上人、寺を取建しによりこれを開山と云ふなるべし」と記されているように、室町時代初期に朗海上人が桶川のこの地に建てた修行のための庵をもとに、戦国時代に團誉桂全善寿上人が寺院として整えたのが浄念寺の始まりであります。浄念寺は開創されたころより、桶川宿と深い関係があったと考えられます。江戸時代初頭には、桶川宿を治めた西尾隠岐守吉次によって、地蔵菩薩像(本堂内に現存)・薬師如来像(薬師如来が納められていた石塔のみ現存)が奉納されたことからも、このことが伺えます。阿弥陀様に対する信仰が盛んであっただけでなく、「足立新秩父観音霊場」の札所として、観音様への信仰も篤いものがありました。また明治以降は、桶川不動尊の御所としての信仰も集めております。また、昔の人たちの信仰の様子は、現在でも境内地に残っている様々な石塔、仏像からうかがい知ることが出来ます。なお現在の本堂は平成十六年に新築されました。
                      案内説明より

下の木戸址石碑 (江戸側入り口)
京都側入口は上の木戸

本堂 修復?改築?新築?

  真言宗智山派 日乗山秀善寺遍照院。
本尊は不動明王で、高さ約30㎝の立像、右手に剣を左手に羂索を持ち、口の端に2本の牙が出ている。諸願成就、災害回避、商売繁盛を願う人々の信仰厚く御不動様といわれ親しまれている。20石の御朱印地を領した寺で、境内には寺子屋も開設された。

東大成の庚申塔

高さ142㎝、幅45㎝の庚申塔で、江戸時代前期の元禄10年(1697)に建てられました。地元の井上、清水、黒須、吉田、坪居、小川など14名と、おまつ、お加めなど22名の女性の名が刻まれ、平方村(上尾市)の石屋・治兵衛の注文したものです。
正面に青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻されています。地元では“耳の神さん” “目の神さん”と大事にされ、耳や目の病気の時には団子を供えるなどしてお参りしたそうです。また、庚申講は春3月と秋の収穫後に行われていました。戦争で一時中断していましたが、戦後に復活、現在も年1回の講を開催し昔からの伝統を受け継いでいます。
                       案内説明より



大宮~上尾

氷川神社は今から凡そ二千年有余年前、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日の御創立と伝えられます。
当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造りとなって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預かり又臨時祭にも奉幣に預っています。
武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われていました。
明治の御代に至っては明治元年、都を東京に遷され当社を武蔵野国の鎮守・勅祭の社と御定めになり、天皇御親ら祭儀を執り行われました。ついで明治四年には官幣大社に列せられました。
昭和九年昭和天皇御親拝、昭和三十八年今上陛下が皇太子時に御参拝になられ、昭和四十二年十月、明治天皇御祭百年大祭が執り行われ社殿、その他の諸建物の修復工事が完成し、十月二十三日昭和天皇・皇后両陛下御揃いで親しくご参拝になられました。
昭和六十二年七月には天皇・皇后両陛下(当時皇太子・同妃殿下)が御参拝になられました。
祭神は素戔嗚尊、稲田姫尊、大己貴命。
徳川家康は江戸幕府開幕(1603)後社参して朱印領300石を寄贈。

「氷川」の由来ははっきりとはしない。社記によると氷川神社は、素戔嗚尊が高天原を追い出された時、最初に下った出雲の「簸川(ひのかわ)」にちなむと言われている。明治十七年(1884)にこの神社の周囲の一部が県内初の県営公園となり、今では大宮公園として親しまれている。
                        案内説明より

一本杉の石碑

文久四年(1864)正月の朝、ここで仇討が行われた。討たれたのは千葉周作門下、丸亀の浪人河西祐之助、討ったのは水戸藩家臣宮本氏鹿太郎ほか4名。河西は宮本の父を討った後、僧となるため江戸に向かう途中だった。
河西を哀れんだ村人が供養等を建てたが、今は失われてしまっている。敵討ちは、その身分が武士であること、討たれた人が主従関係の目上の者か尊属に限られた。しかし江戸時代の後半には武士道に関係のない百姓や女子による敵討ちが発生した。

廓信寺山門 金剛力士像

浄土宗。浦和郷一万石の代官中村弥右衛門尉吉照が、旧主高力河内守清長(岩槻城主)追福のために建立した寺。本堂、地蔵堂、鐘楼がある。本尊は木造阿弥陀如来坐像で、鎌倉時代頃の造像といわれている。境内には、樹齢300年と推定されるカヤがあり、さいたま市指定天然記念物となっている。

  守護侍不入石杭 (市指定有形文化財)
この石杭は高さ98・5㎝ほどで、正面に「守護侍不入」裏面に「天正十九年十二月と刻まれています。もとは門前に建てられていたものです。
玉蔵院には天正十九年(1581)十一月、徳川家康から寺領十石と寺中不入を認めた奇進状が出されていますが、この石杭はこの不入(支配者の検断権を拒否する意)を受け建てられたものとみられます。
なお、刻まれた守護侍の文字は守護使の誤りと思われます。

玉蔵院は、寶珠山玉蔵院延命寺と号し、真言宗豊山派の古刹で、その創建は平安時代といわれ、関東十壇林に数えられている。弘法大師を開山とし、印融(室町時代に関東で活躍した高僧)を中興開山としている。古くは醍醐三宝院の直末であった。
徳川家康から寺領十石が寄贈され、江戸時代には、住職が豊山長谷寺から派遣されるという格式の高い寺院となり、歴代の中には、のちに江戸の役寺さらには本山である長谷寺に出世していった僧が少なくない。
現在の伽藍は、元禄十二年(1699)の災火後、徐々に復興されたものである。

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山門

石庭 左下石橋の欄干

本堂

守護侍不入の石杭

秘密放光 地蔵尊 縦扁額

地蔵堂の内部の厨子

玉蔵院

当時、江戸の人口は百万人を数え、幕府は、その食糧流通機構として、神田多町に青物市場、日本橋に魚市場を開設した。 本小田原町とは、日本橋のたもと北側、魚市場のあったところで、この市場の人々が、稲荷講を組織して、神社参拝のしるべとしたものである。松山道は、この辺りから西に折れて、下石戸村(北本市)を過ぎ、荒川の渡しを経て松山に通じている。
                      案内説明より

御免毎月二七市場定杬
天正十八年七月の石杭

成就院 延命地蔵尊

さつまいも「紅赤」発祥地

観音無縁故者供養塔

何代目かの一本杉

与野駅近くの欅の大木

女郎地蔵

子育て地蔵

塩地蔵

庚申塔

旧史蹟 涙橋

参道

楼門

拝殿 本殿 

神楽殿

武蔵一宮

  真田小松姫の墓 左側
小松姫は本田忠勝の女で、家康の養女となり、真田信之(信幸)(信濃松代藩初代藩主)に嫁し、元和六年(1620)二月二十四日没した。
生前当山中興二世貫主圓譽不残上人に深く帰依した。そのような縁で元和七年一周忌に際し信之の二女松姫が当山に分骨造塔した。本廟は長野県上田市の芳泉寺にある。

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庚申塔

八百姫大明神

賀茂神社

本殿

拝殿

天満宮

南方神社(建御名方命)

愛宕神社

庚申塔

庚申塔
見ざる 言わざる 聞かざる

和菓子の伊勢屋は全国区

屋根の守り神 鐘馗様

上尾駅

赤子の浅間神社登山

素封家の屋根を再利用?

辻辻の庚申塔たち

山門

鐘楼

山崎武平治碩茂の墓

各地に放置?された石仏様の団地

町角々の庚申塔  二つとも青面金剛彫と三猿彫

薬師如来供養塔

絵師 狩野法眼伊白の碑

板石塔婆 中央高い塔婆が
浄念寺礎の朗海上人供養塔

不動明王 (不動堂)

阿形金剛力士像

吽形金剛力士像

うどん屋で昼食

「木」 木嶋屋の鬼板

土蔵外観

銀木犀

明治43年」の桶川

髪の赤い外人雛

土蔵内展示物 ひな人形

武州桶川宿館 桶川観光協会

屋根上の針金は?

鶴亀の松

屋根の鐘馗様

木曾街道上尾宿賀茂之宮 英泉画

武州桶川宿館 展示資料より

昭和4年の新聞
上野松坂屋4月1日開店

明治天皇桶川行在所の石碑

庭園 内部は非公開

背中に括り付けの金具がある

山門 開かずの山門

龍谷山 大雲寺 (曹洞宗)

本堂

鐘楼

上の木戸址(京都側)

稲荷神社

桶川神社拝殿 稲荷神社境内

日本一の力石

奉納の石灯籠

寄進者 中入商花紅 ←右読み

北本宿石碑

駅通り

桶川駅

北本宿 (本宿)
今日の北本のもととなる街並みが作られたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりです。現在の本宿付近は、その頃本鴻巣村と呼ばれていました。その宿駅も中仙道が整備されたころには、現在の鴻巣の地に移されました。
宿場のあったところは、その後、本宿(元宿)村と呼ばれ、これが北本の地名の起こりともなっています。街道沿いに旅籠や店はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二ヶ所には立て場がおかれていました。人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れを癒し、次の宿場へと向かいました。

無患子(むくろじ)樹齢約400年
天然記念物

記念物より若い木

多聞寺

本堂

鐘楼

永代供養墓地

天満天神社

天神天満宮

天神社

塚上の稲荷神社の祠

原馬室一里塚石碑

馬頭観音 集積供養

再建された社殿

観音堂

人形の鴻巣の人形店

宇佐神宮御分霊と刻まれている

富士山本宮浅間神社分霊浅間神社

鴻巣 人形町

天ぷら マグロ うどん三点定食

山門と檀林勝願寺石標

総門と仁王立像

鐘楼

漆喰の欄間絵

本堂

本堂

渡ると長寿間違いなし

内裏ひな人形

武者人形

羽柴秀吉と賤ヶ岳七本槍の面々

勝願寺

墓所木戸前説明書き

小松姫

仙石秀久

真田信重夫妻

芭蕉忌千句塚 (勝願寺境内)

さいたま新都心

昼食

山門

鐘楼

庚申塔安置供養

岡安喜平次(関弥太郎)の墓

鴻神社 参道

社殿

浄念寺