中山道てくてくその3



鴻巣~熊谷    熊谷~深谷  


深谷~本庄
      

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街道てくてく  

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  宝珠寺
開基開山は不詳。延命山地蔵院宝珠寺と称し初代廣源は寛永十二年(1635)三月二十三日示寂している。慶安二年(1649)八月二十四日には徳川三代将軍家光より御朱印石高十石を賜う。なお当寺は、文明九年(1477)五十子合戦により兵火が懸り古文書記録等はことごとく焼失し、その後檀家信徒の斡旋協力により再興を為し旧観に復したが寛政二年(1790)正月十日に至り村内より失火し、本村五十余戸を類焼し、その際宝珠寺建物を焼失したと伝う。
現在の本堂は文政二年(1819)二月二十九日建立し、これを斡旋したのは宝珠寺住職二十六世盛照法印代に檀信徒の協力一致により再興し旧蹟を失わず荘厳昔日に復した。また明治三十年(1897)一月二十六日には村内から失火し本堂に飛び火したが全焼を免れた。これを機会に茅葺きを瓦葺に改造した。
次いで明治三十五年(1902)十月より三十六年四月に至って山門の修理ならびに塗り替えを行い、その後昭和八年(1933)に三四世住職大野秀禅代に庫裡を新築する。
昭和三十二年(1957)三十七世住職伊藤秀定代に本堂の瓦葺の葺き替え及び山門の修理を行い、昭和四十六年(1971)四月には墓地整理、昭和四十八年(1973)には歴代住職の墓地の整理、、昭和五十三年(1978)には檀信徒の協力により本堂の土台取り替えを行い、現在に至っている。

熊野神社参道と常夜灯

当地は古くから開かれた土地であり、地内には家型埴輪が出土した古墳期の森末古墳、奈良期から平安期にかけての堂明様遺跡などが知られています。
当社の創建について、社記に
~ 延長五年(927)この地に枇杷の木を棟木にして小祠を建て上野国碓氷郡熊野本宮より奉遷し東方村と号す ~とあります。御祭神は伊邪那美命・速玉男命・事解男命の三柱です。現在の本殿は上野台の領主秋元但馬守景朝、その子秋元越中守長朝が、当社が館の東北にあたっていることから城の守り神として崇敬し天正年間(1573~1592)に当社に社殿を寄進したものであり、本殿正面の桁に秋元家の家紋の彫刻が施されております。文政二年と平成十一年の大修理を経て今日に到っております。本殿は昭和三十四年十一月三日に深谷市の指定文化財に指定されました。
中山道から一ノ鳥居をくぐって約三百メートルの参道に入ると両側に奉納された石灯籠が続き二の鳥居を過ぎ、四百五十二本の玉垣に囲まれた境内地に進むと右側に樹齢三百五十年の御神木の大欅がそびえています。更に歩くと、北に上毛三山(赤城山 榛名山 妙義山)を一望できる大パノラマが開けます。主な祭事は春の大祭(四月十五日)・秋の例大祭(十月十五日)です。幡羅小学校児童による浦安の舞の奉納・八木節の奉納など次代を担う人々の参加は心強いものがあります。又、初詣は年ごとに参拝者が増えており大変なにぎわいです。大晦日に「おたきあげ」の火を囲んで甘酒を戴きながら新年を祝う人々の輪は、平和のありがたさを実感させる美しい光景です。元旦は社務所で初釜を催しておりますので、気取らない茶席で新年はぜひおいでください。当社の氏子数は八百五十戸、また崇敬者は二千人ぐらいです。
                      案内説明より

    鴻巣地名の由来 (こうのとり伝説)
この伝説は、鴻の宮(鴻神社)に伝わるもので、「その昔この地に“樹の神”と言われる大樹があって、人々は供え物をして樹神の難を避けてきました。
ある時、鴻がやって来て、この木の枝に巣を作ったが大蛇が現れてその卵を飲み込もうとしたので、鴻は大蛇をくちばしでつつき殺してしまいました。ところが、それ以後、樹神が人々を害するすることがなくなり、この地を鴻巣と呼び、社を鴻の宮と呼ぶようになりました」
というものです。

深谷本陣遺構

参勤制度を定めた江戸幕府は権力者の休泊施設の運営を民間人に申し付け本陣と名付けた。現今本陣跡は江戸時代の交通制度を物語る記念の場所として扱われる場合が多い。本陣は当初、深谷氏の遺臣であった田中氏が勤めていたが当主病弱により本陣職辞退を願い、そのあと武田氏遺臣の飯島氏に代わった。飯島家は宝暦二年(1752)より明治三年まで本陣職を勤めた。建物には上段の間、次の間、入川が古式を帯びてこの奥に現存している。
現在表通りには飯島印刷所の社名があり、貴重な遺構を守っている。一般公開はしていない。

商人町深谷の中心街

民家の門

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深谷~本庄

鴻巣~熊谷

富士浅間神社

三高院の山門

松平康直の墓所石碑(三高院)

  高城神社
平安時代延喜五年(905)約千七十余年前、宮中において延喜式、式内社に指定された、大変古い神社です。現在の社殿は、寛文十一年(1671)に忍城主、阿倍豊後守忠秋公が、厚く崇敬され遷宮された建物です。
「えんむすび」「安産」の神であり「家内円満」「営業繁栄」に導く神として崇敬されています。
                   説明案内より

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漬けのも樽? 漬物特産品 岡部

芭蕉句碑
原中や 物にもつかず 啼雲雀

国道と中仙道の分岐
㈱関東分岐器の看板がある

岡部六弥太忠澄の墓

岡部六弥太忠澄は、武蔵七党の一つ猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に居住し、岡部氏と称した。忠澄は忠綱の孫にあたる。源義朝の家人として、保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、保元・平治物語、源平盛衰記にかかれており、特に待賢門の戦いでは、熊谷次郎直実、斎藤別当実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人として勇名をはせた。
その後、源氏の没落により岡部にいたが治承四年(1180、)頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曽義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では平氏の名将平忠度を討ち、一躍名をあげた。恩賞として、荘園五ヶ所及び伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州藤原氏討伐軍や頼朝上洛の際の譜代の家人三百十三人の中にも六弥太の名が見える。岡部六弥太忠澄は武勇に優れているだけでなく、情け深く、自分の領地のうち一番景色の良い清心寺に平忠度の墓を建てた。
現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで立っているが、北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓、向かって右側が父行忠の墓、左側が夫人玉ノ井の墓と言われている。
岡部六弥太忠澄の墓石の粉を煎じて飲むと、このない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在、岡部六弥太忠澄の五輪塔は削られ変形している。

陣屋跡の畑の中にある
高島秋帆在所の碑 

深谷城址

深谷城は庚正二年(1456)、上杉房憲が古河公方方の軍勢の侵攻に備えるために従来の庁鼻和城からこの地に深谷城を築いた。豊臣秀吉の小田原攻めで前田軍に包囲されるが北条氏が降伏することにより落城寸前に開城した。徳川家康の関東移封後、松平康直らが城主になるが寛永四年(1627)に廃城となる。本丸を中心とした土塁や堀が輪郭式の縄張りになっており、「木瓜の花」に似ているので木瓜(ぼけ)城と呼ばれた。
                          資料説明より

みかへり乃松 

平成十八年二月枯れ死により伐採  二代目が植えられている。深谷に泊まった旅人が情けをかけた遊女に見送られ、別れを惜しんだといわれ「みかえりの松」と呼ばれた。

宮沢賢治が盛岡高等農林時代に熊谷地方の地質調査に来た時の詠んだ歌が刻まれている

熊谷の 蓮生坊が たてし碑の 
          旅はるばると 泪あふれぬ

  星渓園  市指定文化財
星渓園は回遊式庭園で、熊谷の発展に数々の偉業をなした竹井澹如翁によって慶応年間から明治初年にかけて作られました。元和元年(1623)、荒川の洪水により園の西方にあった土手(北条堤)が切れて池が生じ、その池は清らかな水がわき出るるので「玉の池」と呼ばれ、この湧水が星川の源流となりました。澹如翁が、ここに別邸を設け、(玉の池)を中心に木竹を植え、名石を集めて庭園としました。明治十七年に時の皇后(昭憲皇太后)がお立ち寄りになり、大正十年には秩父宮がお泊りになるなど、知名士の来遊が多くみられました。
昭和二十五年熊谷市が譲り受け、翌年星渓園と名付け、昭和二十九年市の名勝として指定されました。建物の老朽化が著しかったので、平成二年から四年にかけて、建物の復元と庭園の整備がなされました。現在は玉の池の湧水も枯れ、荒川の水を間接的に取り入れ園内を潤している。入園は無料となっているが、建物(星渓寮 積翠閣 松風庵)などの利用は有料としている。
                      案内説明より

熊谷宿竹井本陣跡  市指定文化財 史蹟

本陣は、江戸時代初期の寛永十二年(1635)諸大名に対する参勤交代制度が確立されてから、各街道の宿場町に置かれたものである。 
諸大名や幕府役人・公家貴族などのための特別な旅館であり、門・玄関・上段の間を具えることができて、一般の旅館(旅籠)とは区別されていた。従って、本陣の経営者も土地の豪家で、名字帯刀を許されるものが多かった。熊谷宿の本陣は、明治十七年(1884)の火災と昭和二十年(1945)の戦災で跡形もなく灰燼に帰してしまったが、嘉永二年(1849)一条忠良の娘寿明姫宿泊の折道中奉行に差し出した本陣絵図の控えが、竹井家に残っており、その絵図によって内部の模様が細々とわかる。
中山道に面し、間口十四間五尺(約27m)で、奥は星川まで至り(1600坪)、上手の御入門・下手の通用門・建坪・部屋数・畳数など(47部屋)、全国に現存する旧本陣と比べての規模・構造供に、屈指のものである。
                      案内説明より

あついぞ!熊谷
市内八木橋デパート前に設置

2007年8月16日 40.9℃
岐阜県多治見市と共に記録された。

旧中山道はのぼりの左側、店内を通っていたので涼しい店内に入る

千形神社

祭神は天津彦火瓊瓊杵尊。熊谷直貞が熊退治をした熊の頭を埋め、そこに日頃信仰している熊野権現を勧進した。千形相撲といわれる相撲の定場所。熊谷寺と共に熊谷氏館の一画であったと言われている。

  常夜灯
この燈籠は高さ二百七十五cmという青銅製の大きなもので、天保十二年(1841)に建てられました。
燈籠の台座には、県内はもとより江戸・川崎・桐生・高崎・京都など、広範囲に及ぶ百五十名もの紺屋(藍染業者)の名前が奉納者として刻まれています。このうち熊谷の奉納者は約四十名に及んでいます。
当地では、江戸時代中頃から藍染業が活況を呈したことが知られており、明治時代後半は紺屋の最盛期であったと言われています。常夜灯は高城神社が藍染業者から厚い信仰を受けてきた事実を語る資料として、また、藍染業の盛況を知る記念碑とも言える貴重なものです。
                 説明案内より

  熊野神社
永治年間、この付近一帯に猛熊が往来し庶民の生活を脅かし悩ましました。熊谷次郎直実の父直貞が熊を退治し、熊野権現堂を築いたと言われています。
明治維新後、熊に神社と称し、その祭神伊邪那岐命を祀り、明治四十年一月十四日に当高城神社境内に遷し祀られました。また同年四月二十日に熊野神社地六十二坪を高城神社に譲与されました。この熊野神社と千形神社、圓照寺の関係は深く、直貞によって築かれ、熊谷の地名を生んだとも伝えられている。      
               説明案内より



熊谷~深谷

曹洞宗 梅龍山 東竹院 久松寺
丸に一文字の久下氏家紋

久下一里塚跡
江戸日本橋を起点とする中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県に入る。慶長九年(1604)幕府は、大久保長安らに命じて、この街道に一里塚を築かせた。
一里塚は道の両方に方五間(約80㎡)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり憩いの場所にもなった。
柳樽には “くたびれた 奴が見つける 一里塚” という句もある。
                説明案内より

   荒川の水害
荒川は埼玉県中央を流れる母なる川として広く地域の人々に親しまれていますが、反面古来から荒れる川として洪水により沿川の住民を苦しめてきました。近年には、昭和二十二年九月のカスリーン台風による洪水のため熊谷市久下地先のこの地点で濁流が堤防を越え決壊しました。流れ出た洪水は埼玉県北部の村を襲い、おりしも利根川の決壊した濁流と合流し、はるか東京まで達し尊い多くの人命を奪うとともに付近一帯に甚大な被害を与えました。あの恐ろしい洪水から約半世紀経った現在、決壊跡付近の整備は概成しましたが、昭和五十七年の洪水の時のように、水位が堤防天端近くまで達したことを考えると、いつまた大災害が起きないとも限りません。沿川の都市化の進展により、氾濫区域内の人口や資産はさらに増加しています。このため、堤防や護岸等を整備し、周辺環境にも配慮した河川改修を推進して、地域の発展を支えています。

                      国土交通省荒川上流河川事務所 説明より

白井(平井)権八が路銀に困り地蔵前で旅の商人を襲い金子をを強奪した。それを見ていた地蔵様が、「お若への お待ちなせ~」と言ったかはわからないが 権八が地蔵に、このことは誰にも言っちゃならね~と口止めすると、地蔵は、俺は口が堅いがお前こそペラペラしゃべるなよと、返事をしたという。このことから物言い地蔵尊と言われることもあるという。
この地蔵尊が建立されたのが元禄十一年(1698)とあり、権八が鈴ヶ森で露と消えたのが延宝七年(1679)となっているから、実際にはこの問答が交わされるはずもなく、この地蔵が権八の名を冠したのかは、わかる人に聞いてみる以外にはない。

二宮尊徳像 白井権八と二宮尊徳 どんな気持ち?

吹上「間の宿」       岐岨街道 鴻巣 吹上富士遠望    英泉画

中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の「あいの宿」として発展した町ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではありませんでした。しかしそれにもかかわらず重要視されたのは、日光東照宮を警護する武士たちの「日光火の番道」と、中山道が町の中央部で交差すること。また鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として「お休み本陣」や、馬次の「立場」を設置する必要があったからです。年に三十家もの大名が江戸や国元へと行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足をとどめた「吹上宿」。中でも信濃の俳人小林一茶や加舎白雄、狂歌師で戯作者でもあった太田南畝、浮世絵絵師の池田英泉などはそれぞれ得意な作品を残しています。そして江戸以来、吹上の名物は「忍のさし足袋」と荒川の「うなぎ」、「榎戸の目薬」も街道の名品に数えられていました。
                     案内説明より

渡辺綱守本尊吹張山観音由来 石碑

当箕田観世音は、今を去る一千有余年前、平安時代中期の武将渡辺綱公を開祖とする由緒ある馬頭観世音である。この馬頭観世音は六孫王(清和天皇第六皇子の子)と言われた源経基公が、戦いの折に兜に頂いて出陣した一寸八分(約33㎜)の尊像である。
承平の頃、経基公が大間の箕田城に在城の折、ある夜不思議な霊夢をみて、箕田の源仕公(渡辺綱の祖父)に譲り下された。箕田の仕公は、周囲の征夷を行った功績により武蔵守に任ぜられたが、これは他ならぬ観世音の「畏怖軍陣中 念被観音力 衆怨悉退散」のご加護のたまものである。それより、源仕公から源充公へ、源充公から渡辺公にと相伝えられ渡辺綱公がこの地に安置されたものである。。時、正に永延元年(987)のことであった。れゆえに当観世音を「渡辺綱守本尊」と称し奉った。また、当観世音は別当真言宗吹張山平等寺でもある。この寺は宇治の「平等院」をここに移し「吹張山圓通寺殿」の別所と称したものである。当観音堂舎は、従来は大堂であったが明治五年二月に日の火災により焼失し、同年直ちに同地内の別当平等寺を引き直し本堂として修復工事を行ったものである。また従来より言い伝えられていた一寸八分の尊像もこのたびの本堂解体工事の際に無事見出され、百数十年ぶりにその御姿を現しになった。更に当観世音は忍領三十三観音霊場の七番観音にあたり、元禄の頃より巡礼者も多く賑わったと言い伝えられている。
数百有余年の風雪に耐えた本堂も老巧化が進み、この度「開山一千年の記念事業」として、信徒の総意に基づきここに本堂の改築を行ったものである。この大事業が無事完成を見たのも、観世音菩薩の広大無辺なるご加護と共に、信徒各位の一層のご多幸、御繁栄を至心に祈願して、これを永代に残すものである。

平成三年二月吉日           案内説明より

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本庄駅

二十二夜供養塔石碑

毎夜点灯される常夜灯の燈明料として、永代燈明、田三反が講の所有となっていた。天保十四年には、深谷宿は約1.7㎞の間に八十間もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場をひかえ中山道きっての賑やかさであった。
東の常夜灯は稲荷町にある。

黒門  深谷市指定文化財
位置が本堂~楼門より右側にある

延命山地蔵院宝珠寺

  円心寺
円心寺は浄土宗の寺で山号を要行山先救院といい、本尊は阿弥陀如来です。寺伝によれば、当山は天正年中(1573~1592)の建立で、開山は教譽及天と称し、天正九年(1581)に示寂。のち慶長八年(1603)に小笠原左衛門佐信之がその帰依僧円心坊を三河国から招いたと伝えられる。山門は天明年中(1781~1789)の建立と云われている。
三間一戸(柱間が三つで真中があいている)重層の建物で、木割を縦横に駆使し社寺建築技術がもっとも発達した時期の所産で構造だでなく相対的に安定した美観を表現するように工夫されている。昭和五十三年に解体修復し、翌五十四年に本庄市指定の文化財となっている。

子育地蔵尊  

「以下の文言を三~四回唱えてください」と記してある
「おんか、か、か、びさんまえい、そわか  おんか、か、か、びさんまえい、そわか  おんかか、か、びさんまえい、そわか」
横奥には石仏様や庚申塔

百庚申塚 大小約六十基

長屋門

岡部陣屋長屋門を移築したといわれている

山門

  源勝院
曹洞宗源勝院は、岡部の地を領地とした安部家の菩提寺として造られた寺で、境内墓地の一角に二大信盛りから十三代信寶まで、十二基の屋根つき位牌型の墓碑が東向きに南から北へ世代順に並んでいる。天正十八年(1590)、德川家康関東入国とともに、初代安部弥一郎信勝に岡部領が与えられた。信勝は、亡父大蔵元真追福のため、人見村(深谷市)昌福寺八世賢達和尚を招き、源勝院の開基とした。初代の信勝は、当時德川家康と石田三成との対立が激しくなったので、家康に従い大坂城に詰めていた。慶長五年(1600)に、大坂城詰め所で死亡し、大阪の鳳林寺に葬られた。安部家は、初代以降岡部の地を領し、大字岡部の一画に陣屋を置いた。
源勝院表門を入ってすぐ左手に安部家の祖、安部大蔵元真(信勝の父)の碑がある。安部氏は信州諏訪の出で、駿河国(静岡県)安部川の上流、阿倍谷に移り住み、元真の時初めて安部氏を名乗った。元真は、はじめ今川義元に仕えたが、後に德川家康に仕え、甲斐の武田信玄、勝頼父子と戦い、おおいに戦功をあげた。安部家歴代の墓及び、阿倍大蔵元真の碑は、町(岡部町)指定文化財となっている。
                        案内説明より

  浄土宗 清心寺
この地は、荒川扇状地の末端で湧水豊富で古代より人が住み、六~七世紀古墳が多く築かれました。
十二世紀源平一の谷の戦いで、岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)が平氏きっての知勇にすぐれた平薩摩守忠度を打ち、その菩提を弔うため忠澄の領地の中で一番景色の良いこの地に五輪塔を建てました。忠度ゆかりの菊の前が墓前で差し出した桜が紅白の二花相重なる夫婦咲きとなり、忠度の桜として有名です。戦国期深谷上杉氏の三宿老皿沼城主、岡谷清英は、天文十八年(1549)萬譽玄仙和尚を招いて、清心寺を開きました。江戸期幕府から寺領八石の朱印状が下付されました。境内に忠度供養塔、腕塚千姫供養塔、秋蚕の碑、岡谷繁実の墓がある。

忠度桜の碑
平忠度(たいらのただのり)は薩摩守を名乗りしゆえに後世(さつまのかみ)と言えば無賃乗車を意味し(ただのり)こちらのほうで名をあげたようだ

  旧深谷宿西常夜灯(田所町)
江戸時代中山道深谷宿の東と西に入り口に、常夜灯が建てら旅人の便がはかられた。天保十一年(1840)四月建立。高さ約四メートルで、中山道筋最大級の常夜灯である。深谷宿の発展を祈願して、天下泰平・国安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中ごろから盛んになった富士講の人たちで、身に透かし彫りになっている㊂はこの講の印である。

深谷城址公園  公園として整備されているようで、石垣、水堀など
            往時の跡では無い事が解りやすい

  天神社
御祭神「少名彦名大神」は医薬、子育ての守護神として、熱く崇敬され、特に当社玉垣内の赤石は御神徳・御神威のやどった御石として、往古よりこれを拝借し「丈夫な歯が生えますように」との願いを込めて、御食初めの儀式を行い、赤石は二個(倍にして)返納する風習が受け継がれております。
      
                     説明案内より

幅2.7m長さ282.4m制限重量3t,、中央に4.5mの待避所があり、44本の橋脚で、ムカデに似た貴重な冠水橋でした。
昭和30年架設から48年間地元の生活道路とて
利用されました。
平成15年6月新久下橋が完成し役目を終了

久下神社

久下直光が三島神社を勧進した。明治に入り三島神社に周辺の神社を合祀し、その後大正時代に十数社を合祀して、久下神社と称した。この久下の地に館を構えていた久下氏と隣接する熊谷氏との境界争いで幕府に調停するもうまく言い立てがならず、この訴訟が熊谷直実の一の谷敦盛と共に出家の原因の一つとなったといわれている。

吹上神社

当日枝社は宝暦六年七月火災により焼失し、その後の再建年月は不詳。明治六年四月に村社に列せられる。
明治四十年四月十六日大字中耕地稲荷社、同境内社八坂社、字下耕地氷川社、同境内社琴平社、天神社の五柱を合祀する。
当社は近江国大津市坂本の日枝大社(山王社)より神霊を分ち捧持してまいりましたが、明治四十年五社を合せ吹上神社と改称する。

  忍領界石標
天正八年(1590)徳川家康が江戸に入ってその領地となった関東は、幕府直轄地や旗本領社寺地など入り組んで諸所境界争いが絶えなかった。そのため各領主は、自分の領域を示す杭を立てた。
御分木ともいったが忍藩では安永九年(1780)六月領主阿倍正敏の時、「従是西忍領」の石標を旧中山道で隣接する中井村との境南側に建てた。
本石標は高さ二メートル、幅三十センチメートル、厚み二十一センチメートルの、堂々たるものである。

曹洞宗 曹傳山美原院寶持寺

当山は、今より一千年前に渡辺綱が、祖父(箕田源氏の祖源仕)父(源宛)の菩提を弔うために建立したと伝えられています。渡辺綱は源頼光に仕えた四天王随一と言われ、大江山の酒呑童子退治や京の一条戻橋では、付近に出没する鬼婆の腕を切り落としたことで有名な武将で、渡辺氏を名乗り嵯峨源氏一統の総領となりその名を残した人物です。
永正年間(1504~1520)に東松山市「永福寺」の第二代住職堅雲玄巨大和尚によって曹洞宗寺院として再興され、徳川幕府により五石の御朱印を賜り伽藍も立派で勢力を誇っておりましたが、相次ぐ火災のため昔日の面影を失ってしまいました。従来の本堂が、大正十一年に古材を再利用して改築されたもので、老朽化も進みとこの軋みや天井からの雨漏りなどの憂べき現状のありました。
本堂改築造立の経緯の説明・・・・・平成十八年三月吉祥
                       案内説明より

六地蔵板石塔婆
板面に六体の地蔵が彫り込まれている

真言宗 松岡山 勝願寺

山門

林の中に望む本堂

観音堂 

三星に一文字の渡辺紋

氷川八幡神社 参道

本殿

箕田碑 碑文

箕田は武蔵武士発祥の地で、千年ほど前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄のもとを築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる。源仕(みなもとのつごう 嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は源頼光(摂津源氏)四天王の隋一として豪勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は万願寺の南側の地と伝えられている。箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維碩の筆による碑文がある。
裏の碑文は約二十年後、安永七年(1778)に刻まれた和文草体の碑文である。
      初めに渡辺綱の辞世
  世を経ても わけこし草の ゆかりあらば あとわたづねよ むさしののはら 
を掲げ、次に芭蕉、鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱らの文武の誉れをしのんでいる。
鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を尋ねて滞在した折に刻んだものと思われる.
                        案内説明より

  氷川八幡社と箕田源氏
氷川八幡社は明治六年箕田郷二十七ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、宇龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。八幡社は源仕が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を戴いて帰り箕田の地に鎮祀したものであり、宇八幡田は源仕の孫、渡辺綱が八幡社のために奉納した神田の地とされている。また氷川社は承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだと言われている。ここ箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、源仕、源宛、渡辺綱三代がこの地を拠点として活発な活動を展開した土地であった。

   源仕 (みなもとのつこう)
嵯峨天皇の第八皇子河原左大臣源融(嵯峨源氏の祖)の孫で、寛平三年(891)に生まれ、武勇の誉れ高く、長じて武蔵国箕田庄に居を構え、自らを箕田源氏と称し、土地を開墾し、家の子郎党を養い、知勇兼備の武将として武蔵介源経基に仕え、承平・天慶の乱に功を立てて従五位上武蔵守となった。天慶五年(942)没、享年五十二歳であった。

   源宛 (みなもとのみつる)
源仕の子で弓馬の道にすぐれ、天慶の乱に際しては仕に従い、西国におもむき武功を立てたが、天歴七年(953)二十一歳の若さで逝った。今昔物語には宛の武勇を物語る平良文との戦いが逸話として残されている。

   渡辺綱 (わたなべのつな)
源宛の長子として天歴七年(953)箕田に生まれた。幼少にして両親を失ったが、継母である多田満仲(源経基の子)の娘に引き取られ、摂津国渡辺庄で養育されたので渡辺姓を名乗った。綱は幼少より勇名をはせ、長じては源頼光に属して世に頼光四天王の一人と称された。後に丹後守に任じられたが、万寿二年(1025)七十三歳で逝った。
八幡社右手奥の寶持寺にが綱の位牌が残されている。法名を「美源院殿大総英綱大禅定門」という。

鐘楼

十三仏

山門

真言宗豊山派 龍珠院 龍昌寺

本堂

文化財  朱印状十一通と
絹本着色両界曼荼羅二幅

本堂

鐘楼

箕田源氏と渡辺綱

忍領界石標 

妙徳地蔵尊石仏

明治天皇 御駐輦址の石碑

明治天皇聖蹟入口の石碑
折れて並んであった

いぼ地蔵尊 石像

馬頭観世音菩薩石塔

石仏塔

瑠璃光山寶壽院東曜寺本堂

鬼子母尊神堂

蘭渓堂碑

荊原の権八延命地蔵 扁額

地蔵堂

地蔵菩薩(別称物言い地蔵) 石像

二十三夜講本尊 勢至菩薩

広大な荒川河川敷

荒川水害

決潰の跡の石碑

土手下の一里塚 

本殿

街道沿いの素封家屋敷門

久下の権八地蔵尊

久下の渡し 冠水橋跡

みかりや(御狩屋)跡

達磨石

六地蔵尊

山門

本堂

庚申塔 石仏群

七福神

地蔵尊

久下直光公 重光公 墓所

一級河川元荒川起点 石標

元荒川の流れ

民家魔除けの獅子

旧中山道

水不足? 暑い 熱い

街道沿いの祠

境内で土用干し

撤去前の冠水橋(沈下橋)

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札の辻跡

熊谷駅

駅前庇の気温降下噴霧器

熊谷鳥瞰図 (新幹線開通記念)

市役所通り中央並木道

高城神社

天神社

熊野神社

欅の御神木 樹齢800年

常夜灯

人形の長野屋

陣屋跡 市指定文化財史蹟

本堂

山門 (蓮生山 当行院 熊谷寺)

天正年間(1573から1592)に播隋意上人が熊谷直実の草庵跡に建立された。
熊谷直実は源平の戦い(一の谷)で、沖の船に逃げようとする平氏の若き一門武将平敦盛に「返せ 返せ 卑怯成り」と呼び止めその首を討ち取ったことで知られる武将。十五、六歳の幼顔にわが子とてらし、涙ながらに討ち取り、後の出家の原因になったといわれる。後に、久下直光との所領争いにも敗れ、後出家し蓮生坊と名乗った。境内には熊谷直実の墓と言われている宝篋印塔がある。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬものの有るべきか」

振袖石

玄関横の名札

星渓由来記念石碑

山口青邨先生記念句碑
夕紅葉 鯉は浮くまゝ 人去りぬ

宮沢賢治歌碑

くまがや賢治の会 建立石碑

旧中山道跡石碑

寶登山 道しるべ

左 秩父道 道しるべ   
右 秩父観音巡礼道 道しるべ

現在の中山道と秩父道の
熊谷警察署前交差点

一里塚跡の欅 

従是南忍領 領界石標

山門  浄観山 松原院 新照寺

地蔵堂

本殿

拝殿

庁鼻和館跡 土塁と空堀

上杉憲英公墓所
手前に深谷上杉氏歴代の墓所もある

本堂

大屋根鬼瓦

楼門

鐘楼

深谷上杉家家紋  竹に雀

臨済宗 常興山 国済寺

中山道深谷松並木

深谷宿東常夜灯(稲荷町)

明治調の深谷駅

青淵 澁澤栄一 像 深谷駅前 

うだつの上がった民家

屋敷門の民家

大谷石の倉庫と黒格子の民家

深谷鉄道軌道跡
深谷は煉瓦や瓦の製造で栄えた

ぎょうにんはし 深谷宿下入り口

200年の歴史のきん藤旅館
近江国の藤平さんで(近藤)

深谷まつり 2008/7/25

明治天皇もお休みになられた

深谷駅銘板 年代物と思いきやJR 

笛吹童子

みかんの花咲く丘 歌碑

作詞家 加藤省吾顕彰碑

深谷城外濠跡 市指定文化財

風格のある造り酒屋の建物

平忠度供養塔

忠度桜 三代目の若木

浄土宗 石流山八幡院清心寺

本堂

鐘楼

岡谷家の瓦紋三つ葉桔梗

岡谷繁実の墓

源勝院

漬物の町 岡部

岡部神社  源勝院に隣接

丸に梶の葉 安部家の家紋

本堂

山門

六道地蔵 

安部氏歴代の墓

曹洞宗 普濟寺

本堂

底抜けの柄杓を奉納

島護産泰神社

曹洞宗 大桂山 全昌寺

本堂

鐘楼

岡廼宮神社

角々の獅子

色彩鮮やかな龍彫刻

精細な彫刻 本殿周囲に施されている

拝殿

本殿

右 旧中山道

楼望山門 キンピカ仁王様

山門屋根の天女

本堂

神楽殿

本殿

八幡大神社

屋根上にはお使いの八幡鳩

庚申塔

鐘楼山門

岡廼宮神社