旧第八師団について
明治二十九年(1896)の陸軍管区改正により、第七師団から第十二師団の六師団が新たに増設され、弘前には第八師団が置かれました。これまで仙台の第二師団に属していた青森・岩手・秋田三県は、新たに第八師団に属することとなり、弘前市には師団司令部と歩兵第四旅団(歩兵第五連隊と歩兵第三十一連隊で構成)が設置されました。
第八師団のほとんどの施設、歩兵第三十一連隊、騎兵第八連隊、工兵第八連隊(明治四十二年 1909に盛岡へ移転)、野砲兵第八連隊、輜重兵第八連隊、憲兵隊、予備病院(のち衛戍病院→陸軍病院)などは市の南郊に設置され、兵器支廠と陸軍火薬庫は弘前城旧三之丸に設置されました。
主に将校の社交場や物販・厚生施設として活用された、旧弘前偕行社(現・弘前厚生学院記念館)は明治四十年(1907)に名匠・堀江佐吉により設計されたものです。
弘前市と陸軍第八師団
明治二十二年(1889)四月一日、全国三十市と共に市制を施行した当時の弘前市の戸数は六千二百四十戸、人口は三万一千三百七十五人で、市役所は元寺町に設置されました。市制を施行した後、市内の人口は漸減傾向にありましたが、明治二十九年(1896)に弘前市に第八師団司令部の設置が正式に決定され、翌年に歩兵第三十一連隊ほかの部隊が置かれて人口は増加に転じました。
司令部は清水村富田に置かれ、同村から千年村にかけた地域に軍事施設が集中的に配置され、これからの地区と弘前市街とを結ぶ道路の拡張工事が行われ、軍都として歩みを続けてきました。幸い戦災を免れた戦後は、GHQの司令と新憲法の制定を受け、軍事施設の解体が進められ、軍事設備及び軍事施設跡地の多くが学校施設として利用され、弘前市は東北屈指の学園都市として成長を遂げていくことになります。
旧陸軍第八師団長官舎
旧第八師団長官舎は大正六年(1917)に現在の市役所前庭(追手門の向角)に建設され、昭和二十年(1945)まで師団長官舎として利用されました。官舎の最初の住人は、第五代師団長の大井成元中将(大正三年 1914 五月十一日就任)ですその後、歴代の師団長が終戦まで入居していました。
敗戦となって、昭和二十年(1945)九月二十七日にアメリカ軍が弘前に進駐した時は、接収弘前方面隊司令官・マンケン大尉が入居し、以後昭和二十六年(1950)五月に接収解除になるまで、アメリカ軍の進駐軍に利用されました。
昭和二十六年(1951)に旧第八師団長官舎の建物と敷地は国から弘前市が払い下げを受け、以後、弘前市長公舎として利用されました。昭和三十三年(1958)に市役所新築計画により建物のほぼ三分の二が解体され、残りが市役所中庭に曳屋により移転されました。平成二十四年(2012)に老朽化が激しい事から、保存修理工事を行い、また、より多くの皆様に見て頂けるよう現在の位置に再移転されました。
案内説明より
津軽剛情張大太鼓
夏の夜空を彩る「弘前ねぷたまつり」は、毎年八月一日~七日まで行われます。弘前のねぷたまつりは山車の影響を受けていると云われているが、津軽剛情張大太鼓は、このねぷたまつりで大型ねぷたの先陣を切って出発し、その大音響は人々の心と体を揺さぶり郷愁をかきたてる。
大きさは、長さ四メートル五十センチ、太鼓の直径が四メートルあり、五十人がかりで曳く大太鼓として、弘前市民の誇りとなっている。情っ張り(じょっぱり)とは津軽の人間の意固地さを示す津軽弁であるが、さらにその上を行くという意味で「剛」を付けている。弘前のものが一番という気概が見える大太鼓である。
大根山(茂森町)
町印は三番叟で天下泰平・五穀豊穣を祈り、能「翁」の中で演じられるものである。山車の二股大根聖天様(歓喜天)を表し、夫婦和合、家内安全、善事成就の神様として、商人、芸能人や女性たちから尊崇されていた。
当時の茂森町は藩主信政公が江戸や京都から役者や浄瑠璃語りらを招いて城下の民楽に倫理道徳を植えつける為常設芝居小屋(茂森座)を建てたところで、城下の娯楽場として、芸能とは深いつながりがあったと思われる。また、一説には当時、茂森町には津軽藩の御用八百屋・荒谷家があり、一切の野菜を納めていたため、藩主から茂森山車は大根にせよとのお声掛で、この大根山を選んだとも云われている。
布袋山(東長町)
山車の「布袋山」は、中国の布袋和尚が大きな袋を背に満面の笑いを湛えて唐団扇を手にし、傍らに唐人の子供たちが戯れている。それに練物は当初稲荷台乗ありが、文化三年(1806)からは「福禄寿と大黒天の角力場」に変わっている。人形といい、どれも皆、七福神の神様である。
福の神の和平遊楽の場面で、唐子たちを配したのは、古来より子は宝という人形製作の意図からであり、町内における商売の福徳を祈ったものと思われる。その邪悪祓いとして、町印の青竜刀が用いられたのであろう。一説によれば、藩政時代、東長町の呉服反物生・片谷家が布袋山や福禄寿、大黒天の相撲人形を京都から買って、寄付したものとも云われている。
猩々山(土手町)
山車の「猩々山」は昔、中国の揚子の里に高風という孝行者がいて、夢のお告げにより市に出て酒を売ったところ、次第に高貴の身となった。ところがある日、近くの海中に住む猩々がこの店に入り酒売りの酒に舞戯れるほど、幾度も盃を重ねても顔色一つ変えなかった高風の純朴さに感じて、くめども尽きぬ酒壺を与え祝福して海中に消えてゆくという能楽の祝言物である。
猩々は無邪気な愛酒家の妖精でありその姿は酔いと童心を示す笑いを湛えた赤い童顔の赤ずくめの扮装をしている。この「猩々」を土手町の山車飾り物にしたのは藩政時代、土手町に大酒造家が軒を連ねていたことから用いられたと云われている。
道成寺山(鍛冶町)
町印は平安時代の京都の刀匠・三条小鍛冶宗近で、藩政時代から鍛冶が盛んだった町らしく、精魂込めて鍛錬している姿を現わしている。山車の「道成寺山」は、和歌山県道成寺に伝わる縁起者・安珍と清姫の物語で、謡曲の代表的出し物である。それは清姫が恋に狂って執念のあまり、半身鬼、半身大蛇となって安珍の隠れている大きな釣鐘に巻き付き、二人の山伏がその側で誠心祈願している場面を人形で表現したものである。
鍛冶町々会の山車飾り物は、他の町会の飾り物と違って、町印(小鍛冶)も山車も(道成寺山)も変わることなく 、文化三年(1806)以来、、明治に入ってからも飾られ、運行されてきている。
山車 道成寺鐘巻
鍛冶町六ヶ町に保存されている「道成寺鐘巻」は、今から二百余年前に当町に伝来している至宝である。鐘巻の由来をたずねると、醍醐天皇の延長六年(928)四月の事、出羽国白川から熊野権現参詣の修験者、安珍という若い僧が、心願の途中紀伊国真砂村の庄司清治という庄屋の屋敷に一夜の宿を願って長旅の足を休めた。その家の娘・清姫に見初められた安珍は逃れて道成寺の鐘の中に隠れた。
ますます恋情にかられた清姫は、逃がすまいとその後を追いかけたが、増水した日高川を渡りかねた。しかし女の一念で忽ち大蛇となって川を泳ぎ渡り、この寺の鐘堂修理中の鐘を怪しんで七まといに巻き付いて火焔を吐き出した。一山の法師などが驚いて集り、祈り伏せようと珠数をつまぐって祈ったものの、安珍はついに黒焦げとなって悲愴な最期を遂げた。後世、謡曲又は長唄に作られたのは、広く人の知る所である。
町印 三条小鍛冶宗近
鍛冶町町印は、山車とともに二百余年前に当町に伝来した名作ですこぶる古雅の趣に富んでいる三条小鍛冶宗近は、平安時代中期の人と伝えられ、京都鍛冶の祖と云われていう人物である。宗近の刀剣の作柄の品格と、鉄味の優れたことは他に比べる事は出来ない。精錬にあたる時は斎戒沐浴して天下泰平国家安穏を祈念し、無想の境地に達していたと今でもその徳を讃えられている。天下五剣の一口(名物三日月宗近)は国宝に指定されている。また、謡曲(小鍛冶)はよく知られている。
黄石公張良山(本町)
町印は昔中国で君主を諌めるための諫鼓。諫鼓の上に鶏が乗っているのは世の中が平和でよく治まっていることを表して居る。山車は一人前の軍師・張良が黄石公の六韜三略の兵法の極意を伝授してもらう為、黄石公が馬上から故意に落とした靴を拾って捧げる。
その誠に免じて黄石公は極意を教えるという古代中国の修心からとったものである。本町はその後、鰺ヶ沢から浦島太郎の練物と京都の祇園祭に掛けられた鳳凰と桐の見送りを譲り受け、山車飾りに付け加えている。
ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、張良に向かって「小僧、取って来い」と言いつけた。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「履かせろ」と言う。
張良は「この爺さんに最後まで付き合おう」と考え、跪いて老人に靴を履かせた。老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて「お前に教えることがある。五日後の朝にここに来い」と言った。五日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ」と言い「また五日後に来い」と言い残して去った。
五日後、張良は日の出の前に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「五日後に来い」と言い残して去って行った。次の五日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。老人は満足気に「おう、わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ」と言い、張の太公望の兵法書を渡して「これを読めば王者の師となれる。十三年後にお前は山の麓で黄色い石を見るだろう。それがわしである」と言い残して消え去ったという。
後年、張良はこの予言通り黄石に出会い、これを持ち帰って家宝とし、張良の死後には一緒に墓に入れられたという。この「黄石公」との話は伝説であろうが、張良が誰か師匠に就いて兵法を学んだということは考えられる。また、太公望の兵法書というものを『六韜』だと考える向きもあるが、現存する『六韜』の成立年代は魏・晋代と考えられているので、少なくとも張良が読んだ書物は、現存する『六韜』ではないと見られる。
この項wikipedia案内説明より転載
紅葉狩山(紺屋町・濱ノ町)
山車は、初め「和田酒盛山」であったが文化三年(1806)から「紅葉狩山」に変わっている。この「紅葉狩山」は、平安時代末期の武将・平維茂が信濃国戸隠山の狩に出たとき、紅葉見物の美しい女性たちに誘われ、酒宴や舞を楽しんでいるうち、ついうとうとと眠り、目覚めると夢に見た鬼女が目の前に現れ、維茂は神授の太刀で鬼女を退治するという謡曲の説話からとったものである。
練物は曽我兄弟の仇討で有名な曽我五郎が、夢の中で兄が敵の工藤祐経に捕われて救ってほしいと頼まれ、折から通りかかった馬子の馬を奪い、積んだ大根を鞭にして駆けつけるという場面である。これらの山車は、明治以降紺屋町と濱ノ町に分かれて飾られ、両町によって保存されてきた。
案内説明より
髙照神社
祭神: 武甕槌神、天児屋根命、伊波比主神、比売神、津軽信政命(弘前藩四代藩主)、軽為信命(同初代藩主)
高照神社は、四代藩主信政を祀る廟所に始まる。信政は宝永七年(1710)弘前で死去し、遺命により五代藩主信寿が吉川神道に基づいて高岡の地に神葬した。明治に至って同十年に初代藩主為信を合祀している。
社殿に就いては、五代藩主信寿が正徳元年に廟所、同二年に社殿群を建てて社頭景観を整えた。次いで七代藩主信寧が宝暦五年(1755)に拝殿を造り替え、九代藩主寧親が文化七年(1810)に随神門、同12年(1815年)に廟所門を建てた。
社殿は弘前城の西方、岩木山麓に東西軸上に並んで配置されている。東から鳥居、随神門、拝殿及び幣殿、東軒廊、中門、西軒廊、本殿が建ち並ぶ構成で、津軽信政公墓のある廟所は本殿の約200メートル西方にある。
本殿は、桁行三間梁間三間の身舎に、一段低く一間の唐破風造の向拝がつく。四周に縁を廻し、屋根はこけら葺で千木と堅魚木を置く。内部は一室につくり、外廻りは丹塗、内部は朱漆塗。中央基壇上に方一間の宮殿を置く。
拝殿と幣殿は一体となった建築で、桁行七間梁間三間の拝殿の背後に正面三間側面二間の幣殿が接続し、したがって平面は背面が突出した凸型となる。拝殿は総円柱、入母屋造で正面千鳥破風付、三間の向拝に軒唐破風を載せ、極彩色の透彫の彫物で飾っている。内部は梁間方向の前一間通に円柱を立て、前方を外陣、後方を内陣に区切る。幣殿は角柱。背面中央間が両開板扉で、東軒廊に続く。拝殿、幣殿ともに外廻りは丹塗で、内部はともに弁柄塗である。
中門は一間一戸の平唐門で柱間装置は両開桟唐戸。本殿から中門に至る西軒廊、中門から幣殿に至る東軒廊はともに桁行四間梁間一間、天井はなく化粧屋根裏で石敷きの床に連子窓を連ねる。
拝殿前方の随神門は三間一戸の八脚門で、正面と両側面に縦連子を入れ、丹塗。高塀が左右に延びる。本殿後方に位置する廟所は、石造の津軽信政公墓二基が前後に並び、その前面の廟所拝殿、正面の廟所門で構成され、周囲に石垣と土塁を築き、瑞垣と木柵を廻している。廟所門は素木で、背面に立つ控柱と貫で繋ぎ、両開板戸を付ける。廟所拝殿は内部は一室で、床は板敷、天井は棹縁天井。外廻りは丹塗で、内部は床から天井まで朱漆塗とする。
高照神社は、吉川神道に基づいた独特な社殿構成であり、全国的にほとんど類例がなく、近世神社建築の展開の一端を示すものとして価値が高い。
弘前市文化財案内説明より転載
弘前山車展示会館 弘前市下白銀町2-1
神社高台より地蔵堂方面
薬師如来
高台に鎮座します
吽形狛犬
二之鳥居
高照神社 弘前市高岡神馬野87
こちらの一対の狛犬には文久二戌壬
(壬戌の間違い?)六月廿四日と刻す
三門(仁王門)内側より
恐山奥之院
地蔵菩薩は中心にして不動阿字の本体なり、若し衆生有って是の心を知らば決定して成就す「佛説延命地蔵菩薩経」より上の一句は地蔵菩薩は不動明王の化身というのであります。それ故に恐山伽蘿陀山地蔵大士を中心に、奥之院地蔵山不動明王、奥之院釜臥山嶽大明神本地釈迦如来が、一直線上に奉納された三者が一体であることを意味しております。
恐山菩提寺は伽蘿陀山地蔵大士を本尊に仰ぐ霊場であります。地蔵菩薩の「地」という字は大地をあらわし、「蔵」は生命を生み出す母胎、母の心をあらわしております。人に踏まれても、ひたすら人を支えていく大地と子の傷みをわが痛みとして、しかと受とめてくれる母の心こそ地蔵菩薩そのものなのであります。
即ち、釈迦如来の付属を受けた本尊の慈悲心と一切の煩悩を打ち砕く確固たる不動心の現成が蓮華の花びらのような八峰(地蔵山・鶏頭山・大尽山・小尽山・北国山・釜臥山・屏風山・剣ノ山)に囲まれた蓮華台の如き恐山そのものなのであります。
御参拝の皆様には「釈迦地蔵不動一体義」の本、右の三聖地をお参りなされることによって、恐山菩提寺参拝の結願が決定成就されるのであります。
案内説明より
むつ市街より 釜を臥せた(伏せた・逆さまにした)様な山容からの名称かなと思ったがその様な事ではないらしく、そのような言葉も見受けられない。粘度の高い火山によるドーム状の山体と思ったまで。山の名称は山の形状から名付けられることが多いのも事実ですが、文化・伝承由来の名称かもしれません。
旧東奧義塾外人教師館 弘前市下白銀町2-1
弘前市に明治・大正期に建築された建物のミニュチュアが展示されていた
弘前第八師団と師団長官舎 弘前市上白銀町1-1
二之鳥居
遷宮四百年記念 昭和二十四年建立
熊野奥照神社 弘前市田町4-1-1
紀念碑が建っています
手前は為信公三百年奉祭紀念碑
岩木山神社 弘前市百沢寺沢27
楠美冬次郎記念碑
津軽特産リンゴ栽培に尽した
宝物殿と思ったがそれらしくもなかった
神明宮 弘前市東城北2-7-3
血の池地獄の水口(赤石)
如来像
永代無縁霊碑
左棟・古滝の湯 右棟・冷抜の湯
この日は両湯とも女湯の看板
冷抜の湯
参道左側にある
参道右側
薬師の湯
浴槽 緑がかった白濁
恐山関係者通用門
稲荷神社
稲荷神社 右側に鎮座
龍王神社 八大龍神を祀る
龍王神社
龍王神社向拝の龍
無間地獄
寺務所 宿坊棟
重罪地獄
金堀地獄
宇曽利湖
展望台
どうや地獄 活発な地獄活動
どうや地獄
修羅王地獄 この地獄は鎮まっていた
胎内潜り道
脇侍・鎮魂の鐘
脇侍・希望の鐘
延命地蔵菩薩
血の池地獄の実
血の池地獄
奉納水子地蔵尊
水子地蔵尊
延命地蔵菩薩
六角堂扁額 地蔵堂
六角堂
大師説法の地碑 「空・風・火・水・地」
亀岩
イグアナ岩
大師堂
奥之院参道より
奥之院参道より賽の河原
奥之院参道から宿坊
名刻石と風車
忿怒のお顔はギリシャ風
奥之院 不動明王像
千手観音 地蔵菩薩の仏像
霊水(冷水)案内板
恐山参道の霊水
地蔵堂(開山堂)
地蔵堂扁額 伽蘿陀山
地蔵堂(開山堂)入母屋造妻入り本瓦葺
覆屋根千鳥・下屋根唐破風向拝
狛犬
狛犬 この一対の狛犬は新しい
宝篋印供養塔
永室徳壽大姉・大雄廊笑居士・瑞岳臺榮大姉と刻されている
手水舎
塔婆群
千手千眼観世音菩薩像
角柱塔婆
「何況造立者 必生安楽国」
御札授与所 宿坊受付 寺務所
名前を刻した小石と風車
本堂
本堂向拝
向拝破風彫刻
本堂 向拝柱の獅子と象
三門
入母屋造本瓦葺五間三戸回廊付楼門
三門 山号扁額
三門重層屋根木組み
金剛力士阿形像
石畳参道
案内板には四十八燈とあるので多くの奉納燈籠が並んでいる
総門
総門 本瓦葺三間一戸八脚門
六大地蔵菩薩前の供養台
荒涼とした石庭
六大地蔵菩薩
恐山 来迎の像
社務所
奥之門
本殿
釜臥山のシルエット
宇曽利湖
宇曽利湖より流れ出る三途の川と
朱塗太鼓橋
最後の道標 壹丁
東奥義塾歴代教師とその年表
子供部屋
寝室
二階資料展示場
外観
一階はカフェ
書棚
書斎調度品
教師・アレキサンダー一家の写真
年表によると夫人が火災で焼死
青森銀行記念館
青森銀行記念館
弘前図書館
三条小鍛冶宗近(鍛冶町)
猩々山(土手町)
弘前ねぷたミニミニ
紅葉狩山(紺屋町・濱ノ町
紅葉狩山(紺屋町・濱ノ町
黄石公張良山(本町)
布袋山(東長町)
大根山(茂森町)
津軽剛情張大太鼓(ごうじょっぱり)
和館より庭園を眺める
蹲踞(つくばい)
和館
洋館
燈籠
多層石塔
市指定保存樹 枝垂桜
下の庭園から上の庭園の坂
台地から流れ落ちる滝と朱橋
燈籠
木橋
池
芝の散策道
並木の散策道
下の庭園の坂
下の庭園から台地を望む
庭園入口
大正浪漫喫茶室が入る洋館
洋館利用のみ入園料は無料
記念公園入口
茶屋 松風亭
境内杉林
社務所
本殿
手水舎
拝殿
拝殿
稲荷神社
薬師宮
御志羅様
奥之門・唐門前の狛犬
弘前市有形文化財
阿形狛犬
参道杉木立
手水舎
本殿 奥之門
拝殿
拝殿
天満宮
神馬舎 御輿舎
御輿
末社 石塔には田代大神とある
戦前の小学校のシンボル
壊すに忍びなくなのでしょう
弘前八幡宮 弘前市八幡町1-1-1
無事帰るの像
交通安全祈願碑
拝殿 社号扁額
拝殿
吽形狛犬
阿形狛犬
燈籠
参集殿・宝物殿
石造狛犬一対 弘前市指定有形文化財
稲荷神社
稲荷神社鳥居
稲荷神社社殿
建武之板碑 市指定有形文化財
ウラジオモミ
弘前市指定天然記念物
拝殿 社号扁額
拝殿
随身門
二之鳥居
神橋と三之鳥居
境内庭園
稲荷神社 祭神:宇迦之御魂神
本殿
本殿 向唐門
本殿
稲荷神社社殿
白雲大龍神 社殿
龍神池に玉子が投げ入れられていた
立札には禁止と記されているが
岩木山神社永世維持会記念碑
会員に依る基金を設けている
随身門 (旧百沢寺仁王門)
入母屋造銅板葺五間三戸楼門
神橋
御札授与所
随身門 足立ち神獣
随身門 逆立ち神獣(猿?)
随身門 二層軒木組み
中門
中門扁額 北門鎮護
中門 阿形狛犬
拝殿
拝殿
拝殿
拝殿 向拝破風の彫刻
青銅製燈籠
拝殿天井の龍の絵
下側の彩度の落ちた絵は分らない
大きな切株から子孫が育っています
杉木立
手水処
山頂まで所要時間 四時間十五分
岩木山参拝登山口
出雲神社境内社・白龍神社
出雲神社参集殿・社務所
本殿
出雲神社二之鳥居
拝殿
拝殿 社号扁額
大国像
恵比寿像
参道左側に鎮座する出雲神社
出雲神社社号碑
日露 ノモンハン戦役勇士慰霊碑
三之鳥居
二之鳥居
岩木山神社 社号標
明神 両部鳥居
一之鳥居
津軽民謡碑
周囲には右の四文字が刻されている
じょんがら
よされ
おはら
甚句
車両お祓い所
奉納燈籠 紀元二千六約年紀念
八月 南津軽郡光田寺村・小林譽作
寺務所 宿坊棟
歌碑らしきものがありました
詳細は分からない
恐山 境内温泉
古滝の湯・冷抜の湯・薬師の湯・花染の湯 花染の湯は参道から離れた所にある
三門(仁王門) 金剛力士吽形像
両像とも高さ3.03m 大阪・四天王寺、千葉・新勝寺などの仏師・松久宗琳作像
下北 曹洞宗 恐山菩提寺 むつ市田名部字宇曽利山3-2
旧弘前図書館 弘前市下白銀町2-1
藤田謙一氏が、弘前市に公会堂を建設、寄贈された時(大正十二年)、氏と親交のあった政界の要人・後藤新平氏から「弘前公会堂」と題して、そのあるべき意義について市民に寄せられた書です。
「壱是皆以自治為本」 新平
大正甲子 秋日 題「弘前公会堂」
「公会堂は先ず第一にみんなで以て市の自治を行う本となるところである」
大正十三甲子 秋日 「弘前公会堂寄せて」
藤田記念公園 弘前市下白銀町8-1
青森県護国神社 弘前市下白銀町1-3 (弘前公園内)
絵馬堂
扁額に天照大神宮とあるが神明宮社殿に掲げられたものと思われるが、堂内には同種の額が奉納されており、そのうちに一つとも思われる。
平和観音
展望台 釜臥山監視レーダー
展望台 五智如来
展望台標識
唐堂
英霊地蔵像
正面から
手水舎傍の置物 亀?横から
地蔵堂へ
石像群
地蔵菩薩が祀られている
塔婆堂 入母屋造鉄板葺一間流向拝
塔婆堂へ
一対の燈籠は常夜燈の名称がある
冠木門
常時閉ざしているようです
参道の樹木
参道の樹木
釜臥山頂の監視レーダー
むつ市 下北駅
恐山行きのバスが発着している
姿見調度品
書斎
母の居ないあの日のブランコ
鍛冶町
道成寺山(鍛治町)
座敷
座敷
参道鳥居
社号標
参道
一之鳥居
一之鳥居
社号標
髙山開運稲荷神社
授与所 社務所
鳥居扁額
参道 明神両部鳥居
社号標
交通安全 運輸区神社
JR東日本弘前運輸区社員一同奉納
社殿
拝殿向拝
旧百沢寺歴代住職墓所
白龍神社
祭神:多岐都比売神(湍津姫)宗像三神の一柱
龍神池
龍神橋
随身門吽形狛犬
随身門阿形狛犬
随身門 初重回廊下の木組み
中門 吽形狛犬
左随身
右随身
常夜燈
参道
宝物殿?
社務所冠木門
参集殿・社務所
恐山 菩提寺
田名部海辺三十三観音霊場 三十三番札所 (聖観世音菩薩・十一面観世音菩薩)
恐山は貞観四年(862)に天台宗の慈覚大師によって開山されたと伝えられている。康正二年(1456)蛎崎の乱の際焼き払われ、いったん廃寺となるが、享禄三年(1530)に円通寺開山の宏智聚覚和尚が再興した。札所観音様はこちらの開山堂に安置され、中央の聖観音、十一面観音ともに円空作で、ナタ彫りという独特の技法で作像されたものであり、巡礼の結願所(三十三番札所)としてふさわしい霊場である。
大王石
賽の河原
納骨塔
無間地獄
みたま石
。
鳥居社号扁額
一之鳥居
髙照神社 社号標