福島県
白河小峰城と白河城下巡り   南湖公園 白河藩主墓所 白川城跡 白河寺社


白河小峰城その2 三階櫓と本丸



白河関  参照:東北のいろいろ1→道の奥への入口



宮城県
宮城松島  圓通院 観欄亭 天麟院 三聖堂 雄島


秋田県
象潟 寺社と島巡り  参照:温泉その19→さんねむ温泉


青森県
つがる西海岸深浦散歩  参照:温泉その19→深浦観光ホテル

白河小峰城その2

圓通院   解脱院   三聖堂・移築民家   天麟院   日吉山王神社 
 

雄島   観欄亭  
    

臨済宗妙心寺派 大白山天恩皇徳寺  白河市大工町-83

臨済宗妙心寺派 寶陀山大統寺 白河市馬町ー26

東北のいろいろその7

  臨済宗妙心寺派 天麟院
伊達政宗公娘・伊達五郎八姫の霊廟
ふるさと宮城路・百八地蔵尊 第九十二番札所 「子育水子地蔵菩薩」
延命地蔵尊 (松島町指定文化財)
本尊・釈迦如来坐像
三陸三十三観音 第二番札所 「いろは観音」
はり樅 (松島町指定保存樹・天然記念物) 樹高:四十メートル  幹周:約四メートル

  伊達五郎八姫御霊屋
五郎八姫は、仙台藩六十二万石を領する初代藩主・伊達政宗公の長女で、德川家康公の第六男である越後高田藩六十一万石の領主・松平忠輝公の正室である。五郎八姫は文禄三年(1594)六月十六日、京都聚楽第伊達屋敷にて生まれた。その後、慶長十一年(1606)十二月二十四日、信濃国川中島藩主・家康公六男松平忠輝と結婚した。忠輝は慶長十五年(1610)越後国髙田藩主となり、六十三万石を領し、前領川中島と併せて七十五万石の太守となった。
德川家康死去後、二代秀忠により改易、正室である五郎八姫は離縁、仙台に戻った。仙台城で暮らしたが、その後剃髪して仏門に入り、禅修行をし、寛文元年(1661)五月八日入滅した。
享年六十八  天麟院殿瑞雲全祥尼大姉
因みに夫忠輝は、伊勢国、飛騨国、信濃国と流刑地を経て諏訪高島藩に於いて死去した。浄土宗 迎冬山貞松院月仙寺に葬られ、後幕府より忠輝永代供養料として三十石を寄進されている。罪人とはなったが德川の血を引く人であった。
享年九十二  寂林院殿心誉輝窓月仙大居士
五郎八姫の死後二十年余を生きている。
寛文三年(1663)伊達家四代藩主・伊達綱村公によって御霊屋が創建され、瑞巌寺第百世・天麟院開山洞水和尚の筆になる「定照」の扁額が掲げられた。明治二年(1869)御霊屋が解体され、明治二十二年(1889)七月十四日、伊達宗基伯爵の墓銘になる墓が建立され、仮御霊屋として現在に至り、、五郎八姫の没後本年(2016)で三百五十五年になる。
墓前左側の大樹のハリ樅は、御霊屋創建当時に植栽されたもので、松島町の「天然保存樹木」である。ハリ樅は針樅、別名バラモミ、トラノヲモミ、シロモミなどとも称し、日本特産の常緑針葉樹であるが日光以南の御暖地にみられ、宮城県内での自生は珍しい。
幹周囲が四メートル、樹高四十メートル以上で、枝下長八・五メートル、枝張り東西二十メートル、南北十八メートルに及ぶ。
樹齢三百年以上と推定されています。

  西行法師像
西行法師(元永元年~建久元年 1118~1190) 鳥羽院北面武士 俗名佐藤兵衛尉義清
今より八百二十六年前の歌人として有名である。出家して西行と云い、法号を円位と称した。建久元年 庚戌((1190)二月十六日、七十三歳で入寂した。
河内国弘川寺の草庵にて、西行が陸奥国「松島」を六十九歳で雲水姿で訪れたのは、文治二年(1186)とされている。この石像は、松島の長老坂の中腹の松の下に在ったが、大正はじめ、天麟院に移されたもので、約二百年以上前の作像と推定されている。

西行法師の辞世に 「ねがわくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ」
像台座に刻まれている句は 「西行の 露坐像照らす 春の月」 -木庵子- 
             案内説明より、                

  曹洞宗 福聚山月心院
白河結城氏十二代義親が天正十四年(1586)に、母の七回忌にあわせて創建し、母の法号「福聚院月心宗悟大姉」から寺号を取ったと伝えます。 当時は関川寺境内にありましたが、白河藩主松平基知(結城松平家)の時代(1695~1729)に
現在の場所に移されたと伝えられています。

   境内の六地蔵には地蔵菩薩の説明書きがあり以下の内容が記されていました
六地蔵とは六つの世界、仏教で説く六道のことであります。つまり、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界です。能化とは、よく教化する、つまりお救い下さるということですから、六つの世界の衆生をもって教化し、能く救済して下さる菩薩様を六道能化の地蔵尊というのです。六地蔵の六道の分担や、持物等は経典によって若干の違いはありますが、地獄界~天上界の順番で、檀陀地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、日光地蔵とする六地蔵と金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵とする六地蔵が多いが、異なる場合もある。また持物については、持物を持たない合掌の外に蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠等があり、六道と持物とは関係なく持つ場合が多い。大地は色々なものを生み育てますが、それと同じで地蔵とはこの台地が種々なる宝を包蔵しているように、秘密神通力の力を包蔵して一切衆生のために「抜苦与楽」と申して苦を除き楽を与えるという大地の宝を持つ処の大きな徳を地蔵様と申し上げるのであります。ですから自然の恩、大地の恩を知ってくれよと私たちに働きかける地蔵様を信仰しますと、この大自然からいろいろな恵が採れますように、皆様がそれぞれ御信心の種を播けばその人その人の願事が必ず成就するというありがたい功徳が実るのです。

具体的には十種の御利益としては、
① 土地が豊穣で作物に恵まれる
② 家内安寧安全である
③ 亡くなったら天国に生まれ変わる
④ 現世ではできるだけ長生きできる
⑤ 願事が良く叶う
⑥ 水災・火災・地災等の災害が無い
⑦ 過ちやさわりを除く
⑧ 悪い夢を見ることがない
⑨ 旅先で災難に遭うことがない
⑩ 仏に巡りあうことができる       (地蔵菩薩本願経)

子供に大変親しまれている地蔵菩薩は、仏教の民間信仰の中で観音菩薩と並んで人気が高く、八月二十四日には「地蔵盆」が行われます。また、毎月二十四日は地蔵様の縁日です。
             曹洞宗 福聚山月心院                       

  南湖公園
十二代白河藩主(久松松平家三代白河藩主)・松平定信(楽翁公)が「大沼」と呼ばれていた湿地帯に堤を作って水を貯め、庭園の要素を取り入れて享和元年(1801)に築造した場所です。 当初は単に「南湖」と称されました。南湖の名は、中国唐時代の詩人李白が洞庭湖に詠んだ詩「南湖秋水夜無煙」からと小峰城の南に位置することからと伝えられます。 
定信は、「士民共楽(武士も庶民も共に楽しむ)」という理念のもと南湖を築造しましたが、身分の差を越えて誰でも憩える茶室「共楽亭」を建てたことからもその理念への強い思いがうかがえます。 
大正13年には「南湖公園」として国の史跡名勝となり、定信の理念とともに現在に受け継がれています。植えられた松・桜、楓などは四季折々に典雅な風趣をたたえ、多くの人びとを魅了し続けています。

  南湖十七景詩歌碑(南湖碑)
松平定信は、南湖二十七の景勝地を選び、一ヶ所ごとに和名・漢名、二つの風雅な名を付けました。例えば、和名「関の湖」→漢名「南湖」、和名「千世の堤」→漢名「使君堤」のように付けています。それらにちなんだ和歌や漢詩を交友のあった大名や公家・諸藩儒学者に依頼し、寄せられた自筆の和歌・漢詩を一石に刻み、文政三年(1820)に建立したのが、この「南湖十七景詩歌碑」通称南湖碑です。
文政六年(1823)松平家が伊勢桑名に移った際に別の場所に移されましたが、次の藩主となった阿部家が南湖に戻し、現在地に建てたと伝えられています。なお、景勝地ごとに建つ個別の石碑は、景勝の場所が忘れられないようにと明治四十二年(1909)に町の有志が建てたものです。

  松平定信
陸奥白河藩主、宝暦八年(1758)十二月二十七日、御三卿・田安宗武の七男として江戸城内田安邸にて生まれる。のち松平定邦の養子となる。天明三年(1783)家督相続、白河藩久松松平家三代藩主となり十一万石を領した。
折から天明の大飢饉にみまわれ陸奥・出羽の諸藩は多くの餓死者を出したが、この時定信公は緊急に食糧を分領地の越後や上方より輸入輸入、領民に供出救済を行った。この施策により領内からは餓死者を出すことはなかったと伝えられている。
殖産振興では、養蚕の普及、植林、製紙、製陶、たたら(製鉄)の設置など、自給自足の基礎を確立した。文化では、日本最初の公園「南湖」の築庭、中世の白河の関の検証、集古十種、花月草紙等多くの著述、郷学校敷教舎、藩校・立教館の設置など、教育に意を注いだ。藩政は、「政者正也」を理念としておこなった。このため名君として領民の崇敬を受けるに至っている。
天明七年(1787)幕府老中となり、首座、十一代将軍家斉補佐役となり、国政に深く関与した。のちに寛政の改革と称される幕府改革を断行、一定の成果を見る。文化五年(1812)家督を定永に譲り、楽翁(先憂後楽より)と号して白河、江戸で余生を送る。文化十二年五月十三日、江戸三田の伊予松山藩中屋敷にて死去した。
享年七十二  守國院殿崇蓮社天誉保徳楽翁大居士

「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」の辞世を詠んだ。武蔵国南葛飾郡深川(現 江東区白河)浄土宗 道本山霊巌寺に葬られた。
               案内説明より

因みに、田沼意次の悪政からの脱却を意図し幕府政策を推し進めた松平定信は江戸庶民から歓迎され、「田や沼や 濁れる御世をあらためて清く澄ませ 白河の水」と田沼意次と白河藩主・松平定信の違いを詠んだ。しかしながら定信公の改革が進むと江戸庶民の活気が弱まり倦怠感が広まり、「白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき」と期待感の裏返しとなって評価された。
米将軍と云われた八代将軍吉宗の孫として祖父の治政を理想とし、倹約・質素を基本にした政策は一定の業績として、江戸三大改革と云われることになった。しかしながら米中心の俸給制度は武士に甘く、庶民につらい政策になったため、特に庶民の大部分を占める農民は大変でした。田沼意次の政策は商人、職人を中心とした重商政策により米価経済から貨幣経済に重きを置いたものであったので、貧富の格差が広まり、富める者による賄賂がまた富を呼びそれが更に拡大した時代でした。賄賂(協定料 幕府の収入)によりカルテルが横行し物価が上昇、庶民が相対的に苦しめられることになった。
どちらがよかったのかは意見の分かれるところでしょうが、近代日本が田沼政策を継いで?現代を迎えていることは間違いのない事実として考えてもよいでしょう。多くの疑獄事件もまた事実を語っています。現代風に置き換えると職業の選択の自由はありますが、制度として見ると当時の将軍は総理、幕閣は内閣、武士は公務員、商人は商社・商店、工人・職人は製造業・町工場といったところでしょうか。国会議員にあたる者が見当たらないのは身分制度があった時代の宿命でしょう。

  三聖堂  松島町指定文化財
天和二年(1682)瑞巌寺第百一世・鵬雲によって建立されたこの堂は、方三間の素木造、屋根は宝形造で茅葺、正面に一間の向拝を付た質朴端正な建物である。向かって堂内正面中央に聖観世音菩薩、左に達磨大師、右に菅原道真公(天満大自在天神)を安置したことから三聖堂という。
もとは、瑞巌寺参道側北向きで建立されていた堂を宝永六年(1709)当山百四世・夢庵如幻が現在の南向きに変更した。これは江戸時代、瑞巌寺で女人禁制の日が、月に半分以上もあり、女性がおまいりになかなか来られなかったのを解消する為に禁制地の参道を通らずお参りできる様にしたものという。本尊の1体、聖観世音菩薩は「蜂谷観音」と言われ、鎌倉時代初め頃の作である。
創建以来、屋根葺き替え以外の修理は行われていない。「三聖堂」の扁額は創建者鵬雲の筆によるものである。また、創建当時の棟札も残されている。
鎌倉時代、北条時頼が家臣・蜂谷美濃守を松島円福寺(瑞巌寺)守護のために派遣しところ、子孫が松島に土着しました。そして、子孫・蜂谷掃部は、子宝に恵まれぬことから、観音さまに祈願したところ、やがて男の子が誕生、名は小太郎と名づけられました。
小太郎は、観音堂に梅の若木を植えてこよなく愛していました。小太郎が十五歳の春、父が伊勢参りで道連れとなった出羽・象潟の商人と親しくなり、小太郎と商人の娘との結婚を約束したのです。
ところが、帰国した父は小太郎が病死したことを知ります。掃部は泣きながら商人の娘に訳を話しましたが、娘は松島の人となり、掃部夫妻に孝養をつくしたのです。後に娘は髪をおろして名を紅蓮と改めました。
小太郎が愛した梅の木が軒端の梅で、娘のもとには紅蓮尼と小太郎の碑・比翼塚が建てられています。蜂谷氏が観音仏を守っていたことから、その後、瑞巌寺百一世・鵬雲が観音を本尊とし、左に達磨、右に菅公を配した三聖堂を建立しました。

  紅蓮尼
紅蓮尼和歌二首
植え置きし 花の主ははかなきに 軒端の梅は咲かずともあれ
咲けかしな 今は主とながむべし 軒端の梅のあらんかぎりは

紅蓮尼は約七百年前、出羽国象潟に生まれ本名を谷という。概に他界した許嫁小太郎に嫁ぎ、その父母に孝養を尽くし、義父母亡き後、瑞巌寺の明極禅師の弟子となって剃髪し尼となった。明極禅師より紅蓮の名を許され一生を小太郎にささげた。「軒端の梅、心月庵紅蓮尼物語」は、日本女性の鑑として語り伝えられている。
松島町と秋田県象潟町は小太郎、紅蓮尼の絆が縁で、昭和六十二年八月一日「夫婦町」となっている。

  いぶき (柏槙)
ひのき科の常緑小高木 いぶきは和名 幹周:一・八メートル 樹高:三メートル 樹齢七百年以上と推定される。枝は東西七・六メートル 南北九メートルほどに広がっている。臨済宗圓福寺時代から今に伝わる名残りに樹木という。
いぶきは、禅問答で取り上げられることから禅寺に好んで植えられる樹木である。瑞巌寺の前身圓福寺の姉妹寺である鎌倉・巨福山建長寺の境内には、開山・大覚禅師蘭渓道隆が手植えした巨木がある。
               松島町案内説明より                   

  臨済宗 天恩皇徳寺
大同年中(806~810)に現在の寺小路付近に法相宗の僧、勝道が建てた勝道寺が前身と伝えます。 のち、平安時代末期には三十三間堂などの堂宇をもつ寺院として再興され「大白山天恩皇徳寺」と号しました。現在の地に移ったのは白河藩丹羽家統治の時代とされています。
              白河観光案内説明より

  戊辰戦争戦死者供養碑
白河では、慶応四年(明治元年 1868)の戊辰戦争における犠牲者を、新政府軍・奥羽越列藩同盟軍共分け隔てなく弔い、多くの供養碑が地元の人々によって建立されました。皇徳寺境内の「戦死人供養」とある石碑は、中町の大庄屋(名主・肝煎)桑名清兵衛(卜圓と号した)によって、明治二年(1869)に建立されした。慶応四年(明治元年)閏四月二十五日と五月一日の戦いで戦死した列藩同盟軍のうち、手代町・大工町などに個別に埋葬されていた十一人を合葬した際に建てたものである。

  新選組隊士・菊池央之墓
もと陸奥国・津軽藩士の三男として、弘化四年(1847)に生まれた。慶応三年(1867)六月以降に新選組隊士となった。京都鳥羽・伏見の戦い、甲斐国・勝沼の戦いに参戦したがことごとく敗戦し、陸奥会津に向い戦況を立て直す戦いに加わった。慶応四年閏四月二十五日の白河口の戦いにおいて戦没した。
享年二十二 墓碑の正面に「誠忠院義勇英劔居士」、左側面に「弘前 菊池 央五郎」、右側面に「慶応四年戊辰閏四月廿五日戦死」と刻まれている。

  傳小原庄助之墓(会津塗師・久五郎)
徳利に盃を被せたような形の墓は、会津塗師・久五郎のはかである。蒲生羅漢に絵を学びに来たが、安政五年(1858)に白河で没した。戒名は「米汁呑了信士」。
「朝によし 昼になおよし晩によし 飯前飯後その間もよし」の辞世の句が墓石に刻まれている。
この酒好きを思わせる墓石や戒名、辞世の句等で、いつの頃からか民謡「会津磐梯山」に登場する「小原庄助」であると伝えられている。

  長尾仙鼡之墓
長尾仙鼡の名は隠居後の名で、もとは三輪弥右衛門と称した。長尾姓は先祖から受け継いだものと云われている。父が早世し、五歳で家を継いでいる。のち松平定信公に認められ家老に昇進して千石まで加増されている。
茶道・詩歌・故事などに通じ、白河以外からも教えを請う者が長尾仙鼡の下に集まったと云う。
享和二年(1802)八十歳で没した。
なお、現在南湖神社にある福島県指定重要文化財の「蘿月庵」(蘿月とは蔦の葉の間に見える月)は、仙鼡の子・三輪権右衛門(待月と号した)が父のために建てたもので、松平定信の命名と云う.。

  蒲生羅漢之墓
蒲生羅漢ッは、天明四年(1784)に生まれ、谷文晁に絵を学んだ。羅漢山の下に住み、会得した中国や日本の様々な画風の絵を描いたと云う。酒好きとして知られ、小原庄助とも言われる会津塗師・久五郎とのみ明かし、久五郎は羅漢居宅で死んだと云われ、皇徳寺に葬られたが、羅漢もそれから四年後の慶応二年(1866)八十三歳で没した。墓は小原庄助こと久五郎の墓の隣に葬られた。
              案内説明より                       

  白川城主・結城宗廣公と曹洞宗 東光山関川寺
白河結城氏の初代・結城祐廣は、鎌倉時代後期に白河に下向したと伝わっている。二代目の結城宗廣の時に「白川城」を築き本城とし、以後数百年にわたって白河結城氏の拠点となった。宗廣の嫡男・結城親朝が、阿武隈川に面した独立丘陵に築いたのが「小峰城」で、以後一族の居城となり、後に白河結城氏の本城となった。現在、関川寺境内の西側から北西にかけて、土塁や堀を遺構を見る事が出来る。
江戸時代の文化五年(1808)に作成された「白河城下絵図」の記載から、ここは谷津田川の河岸段丘を利用した東西に長い長方形居館であったと判断されている。館跡の具体的な年代は明らかではないが、以降の規模・形態などから、その始まりは鎌倉時代後期頃の結城氏の居館であった可能性が考えられ、現存する土塁が際立って高いことなどから、戦国時代にも使用されていたと推測されている。現存する土塁・空堀は、白河市の史跡に指定されている。
関川寺は「白川城主・結城宗廣」が延元元年(1336)に七堂伽藍を造営寄進し、結城家の菩提寺として開基したと伝えられている。曹洞宗の古刹で、中世に白河を本拠とした白河結城氏の菩提寺として古くは市内の関川窪に所在したが、十六世紀末に現在地に移転し、その時に洞光山の山号を東光山に改められたと云う。
明和二年(1765)火災で七堂伽藍を焼失した。その後、慶応元年(1865)の「烏火事 からすかじ」といわれる火災に見舞われるなど、再三火災で堂塔を焼失したが、都度再建され現在に至っている。境内墓地奥には、結城宗廣が陣没、延元三年(1338)五輪塔墓碑の墓所がある。
関川寺では、昭和十三年(19938)、宗廣公六百年大遠忌法要にあたり、宗廣公の遺徳を白河市民あげて顕彰し、記念事業として後世に伝えるため、「結城廟」を創建し、結城祭として盛大に挙行した。白川城跡の主郭(本丸跡)には、福島県西白河郡教育部会の発起にて、福島県教職員・児童・生徒一同による「忠烈碑」が建立された。
昭和六十二年(1987)秋、創建後五十年が経過した「結城廟」の破損甚だしく、六百五十年大遠忌墓前祭の準備に際し、結城廟の大修理(内部坐禅堂の増改築)を世話人・檀家信徒各位を始め、白河観光物産協会・白河商工会議所・結城会・白河商店会連合会等の関係団体の結束のもとに完修され、東光山関川寺での「結城宗廣公六百五十年大遠忌法要墓前祭」が、立派に執行する事が出来た。
「結城廟」左側の大樹「結城桜」・「柳の大樹」の双樹が春陽に映える色彩は、一間に値する観光の一翼を担っている。

  関川寺舘跡(城郭跡)
東光山関川寺は、曹洞宗寺院の古刹で、中世に白河を本拠地とした武家・白河結城氏の菩提寺として、古くは市内関川窪に所在したが、江戸時代初期に現在の館跡に移転した。
当時院の境内地には、中世の城郭遺構である土塁と堀が遺存している。館跡の形態については、文化五年(1808)の「白河城下絵図」の記載から、谷津田川の河岸段丘を利用した、東西に長い方形居館であったと判断されている。規模については絵図から推定すると、東西二百二十メートル、南北百八十メートル程と推定されている。
館跡の年代や性格については、現在も発掘調査が行われていないことから具体的な事は分らないが、遺構形態や規模から、鎌倉時代後期の白河結城氏の居館であった可能性が高いと云われている。また、現存する土塁が際立って高いことから、戦国時代の十六世紀にもこの舘が城郭として使用された可能性も考えられている。白河の中世史を解明する上で重要な城郭遺構である。なお、境内墓地には南北朝の武将として活躍した結城宗廣の墓所が所在している。

  結城宗廣之墓
結城宗廣は、白河結城氏の祖・結城祐廣の子で、今から約四百年前の南北朝時代初期に鎌倉幕府討伐に活躍した武将です。宗廣は鎌倉幕府の重要な御家人として陸奥国の南部の統治を任されていましたが、元弘三年(1333)、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐の命に従って上毛国の新田義貞らと共に鎌倉を攻め、北条氏を滅亡させ、建武の新政に於いては、陸奥守・北畠顕家の下陸奥国支配の重要な役割を担いました。
建武三年(1336)、足利尊氏が京都で反乱を起こすと、宗廣は顕家と共に京都に上り、後醍醐天皇と対立した足利尊氏の軍を京都などで破り、後醍醐天皇を護る大功を挙げました。その後敗走した足利尊氏が都に攻め上ると、足利軍と再三戦いましたが、戦いの最中陸奥国の太守顕家の戦死により、軍を立て直す事が出来ず吉野に逃れ再起を誓っていました。吉野より顕家の父・北畠親房と関東・陸奥の南朝勢力の拡大を目指し、陸奥国に向かう際、伊勢国にて病のため死去しました。
享年七十余  と云われています。
その後、白河結城家は室町幕府に従い戦国時代末期の豊臣秀吉の陸奥国仕置きに至るまで家系を守っている。関川寺は白河結城家の菩提寺で、宗廣の開基と伝えられ、関川寺境内は元結城氏の居館であったと考えられている場所で、土塁や堀などの遺構が残されています。

  関川寺「銅製梵鐘」  白河市指定重要文化財・工芸  昭和三十九年三月六日指定
宝暦十一年(1761)に鋳造されたもので、材質は青銅、法量は総高百四十八センチメートル、口径八十四・五センチメートル、乳の間の乳(丸い突起物)は五段五列が周囲四面で百個、縦帯(縦に入った条帯で此の梵鐘は四本)にも二個づつで八個、合計百八個が陽鋳(凸)されている。
この鐘は、小峰場内の太鼓に対して、町民に時報を知らせた鐘として知られている。池の間には銘文が鋳込まれており、願主は畝定院慧林妙照大姉(藤田七左衛門の娘)、冶工(鋳物師)本州磐城藤原椎名国克である。

  永平半杓水
曹洞宗大本山永平寺開祖・道元禅師様は「水は生命なり」と申され、御生前谷川の水を使われるにも一杓の半分をお使いになり、残りの半分は千億人のためになればと、もとの谷川へお戻しになられたと伝えられ、これが「永平半杓水」の御遺訓であり、「この五文字」は単に水だけについてのお示しではなく、総てのものに対する道元禅師様の家風、更には道元禅でもあり、即仏法でもあり、「作法これ宗旨」と申すべきでしょう。
昭和五十八年永平寺二代・懐弉禅師様の七百回御遠忌の折、一婦人いたく心をうたれて相談あり、時に山僧、観世音菩薩像建立を勧め、名付けて「杓底観音」と称しました。
作家・司馬遼太郎先生は関川寺を訪ねられ(昭和六十三年七月)著書「街道をゆく三十三」の中で次のように話されています。旧城下町の町内の一つである愛宕町の一部に入ると、曹洞宗の大きな寺があった。入ってみて、本堂の前の泉が気に入った。住職もこの泉を大切にしているらしく、「永平半杓水」と説明板を掲げている。
                          (中略)
この寺は関川寺とある。当代は四十八世とあるから、よほどふるい。

  棚倉藩士・小池理八供養碑
棚倉藩士・小池理八の供養のために建立された碑である。小池理八は慶応四年(明治元年 1868)五月一日、白河口の戦いの桜町方面の戦闘で足に重傷を負い、立って戦いを続けられないと悟り自決した。当時の白河の歌人・長瀬文豊は、「武士の 心の駒は いさめども 黄泉までとは すすめざりしを」 と詠んでいる。

  赤穂義士・中村勘助の妻の墓
赤穂義士の一人である中村勘助は、白河藩主を務めた松平大和守家(結城松平家)の家臣・三田村小太夫の子で、赤穂藩士・中村庄助の養子となりました。元禄十五年(1702)、勘助は妻子を白河の実弟三田村繁右衛門に預け、吉良家に討ち入り本懐を遂げました。
この事件により、長男忠三郎(十五歳)は遠島、二男の勘次(五歳)は浅草曹源寺に預けられ仏門に入る処分が下されました。妻と娘はそのまま三田村家に預けられ、妻は享保七年(1722)六十三歳で白河にて没し、関川寺に葬られました。

  本田東陵墓碑
本田棟梁は通称龍蔵、諱を常安、字を文仲といい、享保十年(1725)熊本に生まれ、熊本藩儒学者・秋山玉山に朱子学を学び、のち京都の伏見に住んだ。白河藩主・松平定邦(松平定信の養父)の時代に召し出され、定信が家督を継ぎ、寛政三年(1791)に藩校・立教館を創設すると教授に就任し、藩士子弟に教育を行った。寛政八年に歿し、関川寺に葬られた。
享年七十二
墓碑銘は門人の廣田憲令らが記したものである。
               案内説明より
                 

  白河桜町
「白河風土記」(文化二年1805完成)によれば、明治元年の神仏分離令により沸き起こった廃仏毀釈運動により廃寺となった桜町西蓮寺の境内に「薄墨桜」という名の名木があったため、町の名が付いたと伝えられています。
城下の東側の入口といえる町で、鹿島神社方面からの道と関山方面からの道が町の東端に設置された木戸の手前で合流しています。この合流点が「宗祇戻し」と伝えられているほか、道を行きかう人のために文政五年(1822)には「白河城羅郭岐路碑」が建立されました。
また、町の中央付近には「御旅所」があり、現在に続く鹿島神社祭礼で、御輿を一時留める場所となっていたほか、東端におかれた木戸の外側には小峰城の瓦を焼く藩窯がありました。文政六年(1823)に作成された城下の各町の明細帳には、家数が百七軒と記されています。

  芭蕉句碑
早苗にも 我色くろき 日数かな   はせを(芭蕉)翁 
松尾芭蕉(1644~1694)が、「おくのほそ道」きこうにおいて、白河を越えて詠んだ句です。葉の色が若々しい早苗の時期でありながら、自らは旅立ちから日数を経て、日焼けで黒くなっているという様子を詠んでいます。この句は、芭蕉に同行した河合曽良の「俳諧書留」に記されています。
芭蕉の百五十回忌である天保十四年(1743)に、乙丸(白河藩士・太幡六郎)ら、白河の俳人によって建立されました。

  宗祇戻しの碑
室町時代の連歌師・宗祇(1421~1502)にまつわる伝承の碑です。
文明十三年(1481)、白河の領主・結城政朝は一日一万句の連歌興行を催しました。それに参加しようとした宗祇はここで会った女性に興行が終了したことを告げられ、ここから引き返しました。その際、戯れに宗祇が女性の持つ綿を売るのかと聞くと、「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそうるかと言えるわたはありけれ」と、「売るか」と「鱁鮧」(鮎のはらわた)、「綿」と「腸」(わた)を掛けた歌で返されました。宗祇は、奥州では庶民でも即興でこのような歌を詠めることに感心したと云います。
また、芭蕉の門人、曽良の日記では別の話として伝わっています。連歌興行で句が難しく、続く句が三日出なかったのを、白河に居た宗祇が聞きつけ会場に向かう途中、、この地に現れた女性が自分が解決したいと云い姿を消したので宗祇もこの場を去ったという伝承です。
道路改修によってこの場所が忘れられることを惜しみ、昭和九年(1934)に白河川柳能因会によって建立されました。白河川柳能因会は、白河を詠んだ和歌「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」を詠んだ平安時代の歌人・僧の能因法師を冠に頂く和歌・川柳の愛好会です。
             案内説明より           

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解脱院 地蔵堂  宮城県宮城郡松島町松島字町内

曹洞宗 福聚山月心院  白河市金屋町-108

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  雄島
雄島(御島)は、「立ち帰り またも来てみん 松島や 雄島のとまや 浪にあらすな」(藤原俊成『新古今和歌集』)、「心ある 雄島のあまの 袂かな 目やどれとは ぬれぬものから」(後鳥羽院の官女・源師光の女『前同』と、歌枕として詠まれている。
元禄二年五月九日(1689 太陽暦六月二十五日)、芭蕉は塩釜から船で松島海岸に着き、瑞巌寺に詣でた後、雄島を訪れた。芭蕉に同行した河合曽良の『旅日記』には、「御島 雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス」とある。
『奥の細道』には、雄島の印象を、雄島が磯は地つゞきて海に出たる嶋也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え待りて、落穂、松笠など打けぶりたる草の庵閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむとしている。文中「地つゞきて」は誤りであろう。
雄島は瑞巌寺とゆかりが深く、島内には岩窟が数多くあり、卒塔婆、仏像が安置され、昔より諸国から集まってきた僧侶や巡礼の人々が修業した場所で、全島が霊場といった雰囲気である。島の南端に建長寺一山一寧(寧一山)の撰文による国指定重要文化財『頼賢碑』(徳治二年三月十五日 1307)があり、島の歴史は碑文に詳しい。
すなわち、十二世紀のはじめ見仏上人が妙覚庵を建立し、十二年間法華経読誦に過ごし、十二世紀末には、頼賢がこれを嗣ぎ二十二年間島に籠り、見仏の再来と仰がれたことなどである。「草の庵」は頼賢の妙覚庵址に万治二年(1660)建立された「松吟庵」(大正十一年焼失 後再建)である。見仏の堂は島の北側にあったと云われている。雲居の坐禅堂である「把不住軒」は、島の中央に形だけが残っている。

  奥州御島 頼賢の碑 (国指定重要文化財 昭和三十年六月二十二日指定) 
この碑は、徳治二年(1307)に松島雄島・妙覚庵主頼賢の徳行を後世に伝えようと弟子三十余人が雄島の南端に建てたものである。頼賢の碑は、中世奥州三古碑の一つと云われるものであり、板状の粘板岩の表面を上下に区画し、上欄には縦横おのおの7.8㎝に一条の界線で区切り、その中央よりやや上に梵字の阿字を大きく表し、その右に「奥州御島妙覚庵」、左に「頼賢庵主行實銘井」と楷書で記してある。
下蘭には、縦1.68m、横0.97mに一条の界線をめぐらし、その中に十八行六百四十三字の碑文が草書で刻まれている。また、碑の周囲には雷文と唐草文、上欄と下欄の間には、双竜の陽刻を配している。碑文は、松島の歴史を物語るだけでなく、鎌倉建長寺の十世で、唐僧の一山一寧の撰ならびに書になる草書の碑としても有名である。
               案内説明より
              

松島雄島  宮城県宮城郡松島町松島字波打浜-24

松島観欄亭  宮城県宮城郡松島町松島字町内-56-

日吉山王神社  宮城県宮城郡松島町松島字町内-4

臨済宗妙心寺派 青龍山瑞巌寺三聖堂  宮城県宮城郡松島町松島字町内-68

臨済宗妙心寺派 菁龍山瑞巌寺圓通院  宮城県宮城郡松島町松島字町内-67

愛宕町将軍地蔵堂  白河市愛宕町-75-2

真言宗智山派 成田山圓養寺  白河市天神町-43

浄土真宗本願寺派 平荘山善永院常瑞寺  白河市大工町-84

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曹洞宗 東光山関川寺  白河市愛宕町-94

浄土真宗大谷派 法永山妙徳寺  白河市金屋町-113

曹洞宗 筑波山萬持寺  白河市巡り矢-65

日蓮宗 開會山妙関寺  白河市金屋町-116

浄土宗 龍水山正法院常宣寺  白河市向新蔵-136

黄檗宗 大雲山龍興寺  白河市向新蔵ー131

天台宗 星琳山運光院永蔵寺  白河市本町-26

浄土宗 大慈山専念寺  白河市横町ー86

曹洞宗 亀岳山長壽禅院  白河市本町北裏ー30

真言宗豊山派 雨寶山慈雲院龍蔵寺  白河市年貢町ー60

空蔵堂  白河市金屋町56

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馬町由来案内説明

釈迦如来石像

梵鐘

鐘楼

  浄土宗 専念寺
徳庵上人が陸奥国白河郡・関山観音寺にて、一夏百日間、「法華経一万部読誦」を行い修業した。その際、参詣の信者大いに感激し、徳庵上人に帰依した。信者らは白河郡の領主・会津藩主蒲生秀行の与力大名で白河城主・関長門守一政に寺地を願い出て現在地を賜り、徳庵上人を開山として関大和守移封後の慶長六年(1601)創建した。
その後、文政十二(1829)年四月一日、火災により諸堂を失う。明治二十一年(1888)七月二十六日、当山二十六世・力誉上人が諸堂を再建したが、歳月の経過とともに頽廃甚だしく、宗美上人は堂宇の改築を図り、昭和三十五年に着工、幾十年を経て現在の耐火構造の本堂改築、庫裡・鐘楼等檀家信徒の協力により竣工し、当山の興隆に貢献した。
             浄土宗寺院案内説明より                

明治初年に廃寺となった法雲寺境内のお堂が現在まで残っているものです。
本尊は虚空蔵菩薩。
法雲寺は慶長年間(1596~1615)に快智上人によって中興されたと伝えられています。快智上人の発願による慶長六年(1601)銘の鍍金装笈が伝わっています。
明治六年廃寺
真言宗 慈久山 密蔵院法雲寺
          白河市歴史文化説明より           

  時宗 白河山小峰寺
鎌倉時代に時宗の開祖・一遍上人が遊行の途中、白河藤沢の地に創建したと伝えられます。藤沢の地には後に白川城(搦目城)が築かれ、また小峰寺は南北朝時代に小峰(白河)城内に移っており、白河結城氏と密接な関係がうかがえます。現在の場所に移ったのは丹羽氏(1627年入封)の時代です。なお、小峰寺は歴代の遊行上人が全国を遊行する際、逗留して布教を行う場所となっていました。
              白河市観光案内より             



天神神社(天満宮) 
白河市天神町2



小峰八幡神社 山王寺 
白河市馬町18



愛宕神社  
白河市白井掛下ー27

  鹿嶋神社  御祭神 武甕槌尊
宝亀年間(770~780)光仁天皇の御代この地に祭られ、弘仁二年(811)坂上田村麻呂が東夷征伐の際、改めて常陸国鹿島大明神を勧請した神社で、白河地方の総鎮守とし、武の神、白河以北を守る神として、戦勝を祈願したと言われています。延喜式神名帳(成立延長五年927)にのこる式内社でもあります。その後も歴代城主の尊崇あつく、城主自ら奉幣、参籠し、祭田や社殿の寄進もありました。文明十三年(1481)時の城主小峯政朝が神社において一万句奉納の連歌会をおこないました。著名の連歌師宗祗が西国からはるばるこの地にやって来たのも、この会に出るためでした。このことは、当時の白河地方の文化が相当高い水準だったことを示しています。文化三年(1783)松平大和守により『鹿嶋大神宮』の額が、また大正十四年(1925)海軍元帥東郷平八郎により『鹿島宮』の額が奉納されています。この両額は今も神社の正面に掲げられています。寛政七年(1796)松平定信公により『楯無しのよろい』(市文化財)も奉納されています。
明治四十三年(1910)不幸にして火災にあい、建造物、備品のほとんどを焼失しましたが、大正元年(1912)再建され、現在に至っています。また、古来より歌枕にある転寝の森(うたたねのもり)は、当神社の飛地境内で、東へ300メートル程のところにあります。

  白河提灯祭
日本三大提灯まつり(白河・弥彦・一色)の一つに数えられている白河提灯まつりは、白河地方の総鎮守として、古くから人々の尊崇を集めてきた鹿嶋神社の例祭として、四世紀に渡り隆盛を極め、白河の人々の精神文化の歴史、いわば心のよりどころとして、伝えられてきました。
             案内説明より             



白河の建物

  日本庭園翠楽苑
平成七年に造園完成された池泉回遊式庭園である。園内には休み処東屋、各種催事室松楽亭、茶室秋水庵などがある。

  松楽亭
松林に囲まれてたたずむ様子と、松平定信にちなんで松楽亭と名付けられました。書院造りのこの建物は、茶道や華道、句会をはじめ、様々な伝統文化活動を行うことができる施設になっています。また、松楽亭の広間、小間には「南湖」の十七景を四季に折り込んで、春の千代の間、夏の松風の間、秋の錦の間、冬の常盤の間と名付けられています。

  秋水庵
松平定信は、茶道に深く、「茶道訓」など茶道観を著したものもあり、定信の茶道観も遠州流と共通するところが多いことから、茶室の建設も、四畳台目高台寺遠州好茶室を模して建設されており、定信ゆかりの茶室となっています。この茶室は、南湖の命名にも通じる李太白の詩から「秋水庵」と名付けられました。
              翠楽園案内説明より
                                                   

日本庭園南湖公園 翠楽園



南湖公園 南湖神社 翠楽園



転寝の森  白河市鹿嶋前



白川城跡 感忠銘碑

  友好都市締結記念碑 (平成十一年十月一日設置)
白河市制五十周年を記念し建立されたものである。
友好都市締結三市 三重県桑名市ー福島県白河市ー埼玉県行田市
  三方領地替え
文政六年(1823)三月二十四日幕命により、陸奥白河藩松平家が桑名へ、伊勢桑名藩松平家が忍へ、武蔵忍藩安部家が白河へ、と国替えになった。



小峰城跡 (城山公園)

おんこ樹(イチイ科) 樹齢七百年以上
八方睨みの名木と称されている

戊辰戦争供養塔 「南無阿弥陀仏」

武甕槌尊と月讀尊は兄弟(伊弉諾尊の子)ですが、兄弟の神々が数多くいる中で
月讀尊が選ばれたのは分らないが、夜の神事があるのかも知れません

  白河城(別称小峰城)
白河城は、那須山中を水源とする阿武隈川の氾濫原に東西に細長く伸びた独立丘陵を利用して、興国・正平(南朝 1340~1370)に結城宗廣の長子・親朝が居城として小峰ヶ岡に築いた。天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥羽仕置きにより、結城氏四百年の白河支配は終わった。以後、白河は会津領となり、蒲生氏、上杉氏、関ヶ原の戦い(1600)の後再び蒲生氏が会津に入り白河を支配した。
寛永四年(1627)丹羽長重が棚倉から十万石の大名として白河に入封し、ここに白河藩が確立した。長重は幕命を受け寛永六年から白河城の大修築に着手し、三年を費やして寛永九年に完成した。本丸を北側の一隅に設け、その両側に二之丸・三之丸・外曲輪と拡げ、それらの郭を石垣・土塁・板塀・土塀・堀などで区分した代表的な悌郭式平山城で、東北三名城といわれる城郭の一つです。丹羽家の二本松転封後は、松平(榊原)、本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平久松)、阿部の七家、二十一藩主の居城となった。

慶応二年(1866)六月十九日、阿部家が棚倉に転封となり白河領は幕府直轄領となった。
慶応三年八月十一日から城は二本松藩主・丹羽長国の管理するところとなったが、
慶応四年(明治元年)五月一日の戊辰戦争・白河口の戦いで落城した。
現在は本丸・二之丸などと濠、石垣の一部が残存し、当時の面影を偲ぶ事が出来る。

  天守(三階櫓)復元にあたって
この三階櫓は、正保年間の「奥州白河城絵図」(国指定重要文化財)・「白河城御櫓絵図」(市指定文化財)、その他白河城郭絵図・古文書などの調査研究を行い史実に基づき復元したものである。
特に、「白河城御櫓絵図」h城郭の建造物の建地割(設計図)が詳細に書かれており現存する貴重な資料で、これにより設計を行う事が出来た。資材も発掘調査で出土した瓦片、釘、鯱片などをもとに製作した。その他、材木等も地元で入手可能なものは努めて使用した。


  天守について
本丸の主要部にある三重以上で最も大きな櫓を天守と称する。白河城の天守は三層三階の櫓で二方に切妻造りの単層付櫓を伴う複合天守である。東・北に石落としと狭間が設けられている。この天守は、日本城郭氏の中で初期から後期にかけての過渡期に建てられた特徴をもっている。即ち建物は一階から最上階まで方形で、最上階は一回に比べて甚だ大きな逓減を有し、廻り縁や高欄が無く内縁となっていることなどである。
内部は外観の美しさとは裏腹に軍備専門の造作のため殺風景で、内部を武者が走り回れるように広くとる為、必然的に階段が急傾斜となっている。十万石の権威と格式を現わす天守である。

  櫓について
櫓の機能は第一に物見台、第二に矢・鉄砲を射かける構造物、第三に武器や米・塩等の食糧を格納するための倉庫の役目を持っている。構造は塗込め造りで腰板が張られている。腰板には漆や柿渋等が防雨水のため塗られ、狭間や石落としなどの防御施設が設けられている。
白河城本丸には三重櫓(天守櫓)に隣接して八幡台平櫓、西南に二重隅櫓(富士見櫓)、北西にも二重隅櫓(雪見櫓)等が建てられていた。櫓の名称は伝承、地名、特徴などによってつけられていいる。

  連子窓について
連子とは菱形の木材を縦に並べた窓で、三重櫓ではすべて漆喰の塗込め格子である。柱を挟んで左右につけられている。外部から内部を見透かされない事と、少しでも矢玉を防ごうとする目的から、また内部からの視野や攻撃角度を広くする等の目的から造られた。内側には表面を漆喰で塗込めた土戸と明り障子が入れられている。何れも片引き戸である。

  鯱鉾について
櫓などの建造物の大棟両端につけられている一対(雄・雌)の魚の形をした構造物である。造作は一体で作る焼物や、大型の物は分割して作り金物で繋げるもの、青銅などの鋳物がある。大棟の大凡南が雄(阿形)、北側が雌吽形)とされている。
鯱はイルカ科の最大種の動物で、古代の中国でこれを想像上から意匠化したものである。その姿は勇ましく鉾を逆さまに立てた形に似ているので鯱鉾といわれ、琵琶湖畔安土城の天主に使われ、以来天守には鯱が付けられるようになった。鯱(哺乳類)は水を噴き上げるように見える様子から、火災除け、災難除けのまじないでもある。高さ1.2m、重さ約180㎏である。

  和釘について
材木・板などを継ぎ合わせるために打ち込んで使用するもので、わが国古来の核型断面をもっている手製の釘をいう。この釘は、打込みにくいがその分抜けにくいもので、使用する用途に応じ一本づつ手作りで造られたものです。

  使用杉材と弾痕について
慶応四年(明治元年 1868)戊辰戦争白河口の戦いで最大の激戦地は松並の稲荷山であった。東軍の兵はこの丘陵の老杉を楯として西軍を追撃し、猛烈な銃撃戦となったため数多くの鉛玉が老杉に打ち込まれた。四百年の歴史を見続けてきた老木もたおれる危険が生じ伐採されることになった。
奇しくも三重櫓の復元が決まり、この杉を使用することになり製材したところ、戊辰戦争の時の鉛玉が数多く検出された。ここに示した弾痕は一階の通し柱・床板・二階の板材に見る事が出来る。

  棟札について
建築物の最上階の棟木や梁などに建築の趣旨や建造の年月日、修理した記録、棟梁名、建設者など、建物に携わった事の記録を残した木札を打ち付け又は縄などで括り付けたものである。また、木札を用いず直接梁や棟木に同様な事柄を記録したものもあるが、この場合は札とは言わず棟銘と称する。両方の方法とも板あるいは構造材に墨で事柄を書き留めたものである。

  櫻之門跡
櫻之門は清水門(修復中)から入って左側に廻った場所にあり、本丸御殿の南側入り口にあたる門です。門を入った咲は御殿の庭部分に通じており、藩主の居住区に近く、藩主などの出入りに利用されていた門と思われます。石垣の上に櫓を渡す「櫓門」の形式で、門の高さは約七メートルでした。櫻之門付近に桜の木が数本植えられていたことがわかる絵図があり、門の名はこの桜から付けられた可能性も考えられます。

  おとめ櫻
白河藩丹羽家初代藩主・長重は、幕府の命により小峰城の大改修を行い、石垣造りの城郭を築きあげました。その際、本丸の一角にある石垣が幾度となく崩れ落ちてしまうことから、人柱を立てることになりました。たまたま父に会うためにやってきた藩士・和知平左衛門の娘「おとめ」が不運にも捕えられ、人柱となったと伝えられています。
小峰城の完成後、人々は「おとめ」の悲運を哀れんで桜を植え、この桜を「おとめ櫻」と呼ぶようになったと云われています。
            案内説明より
           


                                                        ページTOPへ

  解脱院 地蔵菩薩坐像
地蔵堂は江戸時代初期に建造。屋根は宝形造の茅葺きです。
地蔵堂は最初五大堂の裏手の丘にあり、寛永十七年(1646)また一説では寛永十九年(11648)に、瑞巌寺第九十九世・雲居希膺によって、元水族館の地に移され、昭和十二年、水族館の建設によって現在の地に再移転しました。
本尊の地蔵菩薩坐像は、別には造営者の名前・真山玄川の名前に因み真山地蔵とも呼ばれ、彫刻年代は不明です。高さ105㎝の桧造りで、右足を左腿にのせ、左足は垂れ、地蔵菩薩としては珍しい半跏像です。全体に金箔が施されていて、造られた当時の輝きを留めています。
             案内説明より                       



臨済宗妙心寺派 瑞雲峰天麟院  
宮城県宮城郡松島町松島字町内-51

(伊達五郎八姫墓所)

三聖堂傍の移築民家

  圓通院山門  松島町指定文化財
圓通院は、伊達政宗公の嫡孫・伊達光宗の霊廟で、正保四年(1647)瑞巌寺第百世・洞水和尚により開山されました。山門は創建時に建立されたと考えられ、茅葺で一間一戸の薬医門です。礎石に立つ角材の本柱、控え柱の間に控貫と足元貫を通し、柱の上に構架した冠木と直角にその上に渡した腕木で疎垂木の一軒を支え、腕木には三本とも中央に蓑束を立てて、大棟を支えています。側面妻飾りに六葉をうった梅鉢懸魚を付けています。反りの優美な軒出しの深い屋根と清楚な角材の構成が調和しているのが特徴です。

  圓通院本堂・大悲亭  松島町指定文化財
この本堂は、伊達光宗が江戸で納涼の亭として使用していた建物を海路で運び、この地に移築されたもので、圓通院本堂大悲亭と名付けられています。屋根は寄棟造、茅葺平屋の二間造りで、右室の奥に本尊「聖観世音菩薩坐像」(松島町指定文化財)を安置しています。円通院には、約三百五十年前に造られた心字池と観音菩薩が住む補陀落山を中心にした庭園があり、この庭は小堀遠州 (江戸時代の日本を代表する作庭家) 作と言われています。また、境内奥にある光宗の霊廟「三慧殿」は、昭和六十年に国重要文化財に指定されています。
               案内説明より                       

  真言宗 龍蔵寺  国認定文部省重要美術品(工芸品) 昭和十八年十月一日指定
龍蔵寺の創建は万寿三年(1026)に当時の白河城主だった太田行隆が開創したと伝えられる古寺で、その後結城宗広が寺号を龍蔵寺と改めたと伝える寺です。近世に入ると寺勢も増し、周辺地域の真言宗の中で触頭として統括する立場にありました。修行僧の学問所(林壇寺)でもあった為、門末寺院は三十七ヶ寺を数え大きな影響力のある寺院で修験の袈裟頭も歴任しています。
この境内に高さ、百三十五・五セントメートル口径九十三センチの大きな鐘で、乳の間(上の部分)には乳(丸い連続する突起物)が無く、胎蔵界五仏(大日如来、宝幢如来、開敷華王如来、無量寿如来、天鼓雷音如来の種子(梵字)が五本の縦帯に区切られ鋳込まれている。
中段の池の間といわれる部分には銘文と真言が刻まれている。銘文には大壇那源忠弘(当時の小峰城主松平忠弘)元禄四歳四月十九日、鋳物師・太田権兵衛重久、藩町奉行、町内名主・年寄の名がある。
中帯撞き座(撞木の当る場所)には金剛界五仏(五智如来)大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の種子が蓮華文(蓮の文様)の中に鋳込まれており五本の縦帯上に配されている。このような特徴から古くから奥州白河のいぼなし(乳無)の鐘として知られている。 
              案内説明より                 

  小峰八幡神社  天台宗 
山王寺慈覚大師(円仁)が出羽国最上郡の宝珠山立石寺に下る際に建立した寺院が山王寺の前身と伝えられています。はじめ市内久田野に建立されたと云い、今の「山王窪」という地が山王寺の跡であると云われています。白河結城氏が鬼門鎮護の目的で祈願寺として三百石を寄進するほどの諸堂が建つ寺院でした。現在地に移ったのは関ヶ原の後会津藩六十万石藩主となった蒲生氏郷の子・秀行の時代に、白河城代を務めた蒲生家重臣・町野長門守幸知の時です。
神仏混淆時代にあって山王寺は守護神として境内に八幡神を勧請し建立したものであろう。明治元年、神仏分離令により小峰八幡神社として存続を図って廃仏毀釈の荒波を乗り越え、立場を変えて山王寺の檀家などの助力を得て墓地などを守ってきた。
             案内説明より                 

社号碑
如意輪 弥勒 勢至菩薩等が安置されている



鹿嶋神社  
白河市大鹿嶋-8

  白川城跡 感忠銘碑
白川城は別名搦目城ともいわれている。白河市街東方、阿武隈川の南に連なる丘陵にあり、中央から北にかけて遺構群がある。山頂平坦部には土塁と空濠があtれ、御本城山といわれ、ここが白河城の中枢部にあたる。それより北に半島状に伸びた二つの出丸があり、その下の谷を下門入りという。これが搦手で、搦目城の名の起源と云われている。
御本城の東には谷を隔てて鐘撞堂山、その東には美濃輪という谷がある。感忠銘のある絶壁の南には乗馬場、さらに南に一つの壇跡があり、今は稲荷神を祀っている。御本山城の北西方の宇藤沢山には、延文五年(1360)銘の供養塔が出土した平坦地があり、その他約二十ヘクタールにわたり遺構が現存している。
源頼朝の平泉藤原氏との合戦ののち、白河庄の地頭職となった結城氏は、宗廣・の代になって威を張り、子親光と共に南朝方の柱石として本城により勇戦し、元弘三年(1333)には、後村上天皇の皇子・太守義良親王と陸奥国国司・北畠顕家を白川の地に迎え、建武二年(1335)の西上、延元元年(1336)の下国、さらに翌延元二年再び西上と、白川城は南朝方の重要な拠点となった遺跡である。
感忠銘は城跡の一部である北東の搦目山二番地の断崖に、」宗廣・親光父子の忠烈を後世に伝えるため、内山重濃が文化四年(1807)に白河藩主・松平定信の感忠銘の三文字を得て、広瀬典の撰文、千里啓が書いた磨崖碑である。
             案内説明より             

後村上天皇聖跡之碑
後村上天皇九十七代天皇(南朝二代)



桜町鹿嶋神社御輿御旅所と追分

菱形格子窓(連子窓)

初層

上階から白河市内を望む

修復完成までは時間がかかりそう

最上層と棟札
木造小峰城三重櫓一宇 平成二年四月吉日

戊辰戦争当時の弾丸の痕と
説明されているが、弾痕のあった原材を使用した復元天守です 三重櫓の弾痕ではない

和釘

最上層

最上層木組み

そこに置かれている礎石
原位置にあったものかは分らない

会津門跡といわれる場所

修復された石垣

修復石垣

横矢掛櫓跡石垣
打込接ぎの乱積みと布積み

富士見櫓 月見櫓跡石垣

本丸 忠魂碑

おとめ桜 何代目でしょうか?

本丸御殿跡

復元三重櫓・付櫓

宮城松島へ

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  将軍地蔵堂  白河市指定歴史的風致形成建造物
将軍地蔵堂は、明治初年に廃寺となった真言宗西光寺の境内に残された将軍地蔵を安置した堂宇が現在に引き継がれているものである。堂宇は、小柳氏の先祖が払い下げを受けて歴代にわたって管理しているものである。
この地蔵堂は棟札によれば天明五年(1785)の建立で、屋根中央部に宝珠を載せ、屋根が四方に流れる宝形造りの形式である。堂内には、正徳二年(1712)に製作された像高約百三十センチメートルの銅造地蔵菩薩坐像(将軍地蔵)が安置されている。将軍地蔵は、西光寺で管理していた愛宕神社(現存 白井掛下-27)の本尊であり、愛宕町の町名もこれに由来すると考えられる。

  愛宕町
町に在った西光寺(現在は将軍地蔵堂のみが残っている)が白井掛下にある愛宕神社の別当(別当寺)を務めていたことが町名の由来と伝わっています。「白河風土記」によれば、家数七十八軒と記されています。
他の町は城下町特有の「カギ形」が町と町の境に設けられているのに対して、愛宕町は町の中央部(関川寺参道入り口に「カギ形」が設けられている。この変則的な形は関川寺が城郭に形を保ち、入口にいわゆる城門的な桝形を残した名残りでもあろう。ここを境に西を上愛宕町、東を下愛宕町と記す城下絵図もあります。
              案内説明より                 

  臨済宗妙心寺派 大統寺
大統寺の起源は弘仁年間(810~823)に遡ることが出来ます。当初は現在の金勝寺の近傍にありました。その後、白河法皇の時世にこの地を京の都に似ており、京の都を学ぶべしとし、「白河」の名がふさわしいとしたことは良く知られていますが、法皇は勅願を以て大統寺を創建された。
「大統」とは皇統が連綿として絶えず永い事を祈願するという意味です。その後、寺院は廃れましたが、古城主小峰(結城)親朝公がそれを惜しみ、現在の円明寺の当たりに結城家の廟として大統寺を再興しようとされた。当時は境内は八丁四方に及び、東福寺の平川国師が四方を教化し寺運を再興された。
その後、再び荒廃し慶長四年(1600)妙心寺派に属するようになった。寛永年間に丹羽長重公御廟の候補地に當りやむなく、現在の馬町小池に移転した。

  大統寺梵鐘
松平定信公が白河在城中の折に、御鋳物師として山形より招致された安斎延世氏が、今から約二百年前の文化四年(1807)八月に鋳造したもので、第二次世界大戦時に供出させられたものの、その由緒あることから、そのままで無事に戻されたものです。安斎氏の子孫は、斎藤氏と氏が変わりましたが、今も変わらず大統寺の護持に尽力されておられます。毎年12月31日23時過ぎから除夜の鐘を皆さんに撞いて戴いております。毎年続けますのでどうぞお越し下さい。
              大統寺HPより転載
                  
  賓頭盧尊者(おびんずるさま)は十六羅漢と称されるお釈迦様の高弟の一人で、
正式のお名前は賓度羅・跋囉惰闍(びんどら・ばらだーじゃ)と称します。お釈迦様にめぐりあって発心し、出家修行して神通力を得て阿羅漢(聖者)となりました。その神通力を用いて、病気や体の不自由な人を助け、悪人を懲らしめ、仏教の教えを説いて、たくさんの人々を救いました。
おびんずるさまが祀られているのは自分の体の治したい部分とおびんずるさまの体の同じ部分とを交互に触って撫でれば、病気が治り頭もよくなり節々も軽くなるという霊験が深く信仰されているからです。

  大統寺住所馬町の由来
町名馬町の由来はよく分りませんが、十七世紀後半ごろと推測される絵図には「寺町」とも記されていることから、のちに現在の「馬町」という町名に変わった可能性が考えられます。
「白河風土記」(文化二年1805完成)によれば家数は三十五軒とあり、また町の西側に並ぶ大統寺と山王寺は、結城氏との関係が伝えられる寺院で、江戸時代初期にこの地に移転してきたとの由緒があります。山王寺には後白河法皇に仕えた女性、葵の前の墓があると伝えられています。
               案内説明より
                 

  曹洞宗 長壽院
長壽院は、もと陸奥国石川郡小高村(現 石川郡玉川村)に建立されたが、江戸中期の白河藩主結城松平家(大和守家)の菩提寺・孝顕寺の住職がこの地に再興したと伝えられている。孝顕寺は下総結城氏の菩提寺で、結城氏が越前松平家を興した後結城家を継いだのが結城松平家である。
孝顕寺は松平家の姫路転封に従って共に姫路に移ったが、長壽院には孝顕寺の僧一人を留め、白河の地に葬られた藩主の霊廟を護るための寺としたと伝えている。白河藩主・松平基知治政の正徳元年(1711)牧隠和尚が開山と伝わる。

  白河役陣亡諸士碑
この碑の篆額「捐躬報国」は有栖川宮熾仁親王、撰文は重野安繹、書は秋元興朝によるものである。碑陰には、白河口戦線へ出兵した官軍諸藩の旧藩主家・長門=毛利氏、薩摩=島津氏、土佐=山内氏や、明治政府の錚々たる高位顕官・大山巌、川村純義、板垣退助ら二十二名の氏名や爵位が発起人として列刻されている。

  慶応戊辰殉国者墳墓
この墓群は、慶応四年(明治元年1868)の戊辰戦争白河方面における戦死者を祀ったもので、西軍各藩である長州藩、土佐藩、大垣藩、館林藩、佐土原藩各藩の戦死者が眠っている。墓は全部で百十六基(薩摩二十九、長門三十、土佐十八、大垣十三、館林七、佐土原十九)在ったが、大正期に薩摩藩の墓所は小峰城東側の鎮護神山に改葬された。
戊辰戦争白河口の戦いでは、東軍(奥羽越諸藩)と西軍(官軍)による大規模な戦争が行われ、両軍合わせて千名近い戦死者を出している。東軍諸藩の戦死者の墓は、白河市内各所に所在している。
墓地入口両側には、明治九年(1876)の明治天皇の東北巡行に随行した岩倉具視、大久保利通により奉納された角柱型燈籠が立っている。
              案内説明より



麓山神社  
白河市南町ー35



白河藩主の墓所

  転寝(うたたね)の森
江戸時代後期の文化二年(1805)に完成した白河の地誌「白河風土記」によれば、源義家が陸奥に下った際、林の下でしばらく休み、うたた寝をしたことからこの名が付いたと伝える。
また、「八雲集」にある清少納言曽弥の歌の「陸奥のうたたねの森の はしたへて いなをふせとりも かよはさりけり」がこの場所であると云う。かっては林であったが、「白河風土記」が編纂される頃には杉が二本と桜の若木二株が残っているのみであったと云う。根元にある石碑には阿部正方の「いにしえのもの見の杉も跡たえて 名のみぞのこる うたたねの森」の歌が刻まれている.。
            案内説明より           

  御水主町の民家  松島町指定文化財
御水主町は瑞巌寺の東に隣接した一画で、仙台藩主などが松島遊覧の際の御座船を操った水主衆が集団で住んでいた。水主は瑞巌寺造営当時地元や和歌山、静岡、愛媛などから雇用されてここに住み、往時には四十八軒を数えた。彼らの住居は、藩の定めにより茅葺、寄棟造、表通りに面して出格子と蔀戸を設け、冠木門などを構え天上は上げなかった。昭和五十一年に最後に残った一棟をここに移築復元したものである。
              案内説明より              

  日吉山王神社  宮城県指定重要文化財
天長五年(828)円仁(後天台宗延暦寺三代座主,死後諡号慈覚大師)が師である最澄の東北布教の命により、瑞巌寺の前身である延福寺創建の時にその守護神として近江国坂本の山王社の分霊を勧請し、天竜庵(五大堂向いの小高い丘)のほとりに祀ってあったものを、寛永十七年(1639)瑞巌寺住職・雲居禅師によって現在の地に遷座祀られた。宝永八年(1711)とその後数回にわたり修復が行われた。
社殿は江戸中期の秀作とされ最近では昭和四十三年春、本殿・拝殿の修理が行われている。
主祭神は大山祇神、相殿に国常立神・日仲彦神・伊弉諾神を合祀している。
             案内説明より                 

  浄土真宗本願寺派 平荘山善永院大網奥之房常瑞寺
常瑞寺は、如信上人によって開基されました。上人は、親鸞聖人の子息である慈信房善鸞大徳の長男として誕生しました。つまり如信上人から見て、親鸞聖人は祖父にあたります。幼少のころから祖父親鸞聖人のもとで修学し、浄土真宗の御教えを継承しました。浄土真宗の各派は、如信上人を第二世と位置づけています。
如信上人が親鸞聖人のもとを離れ東国に旅立たれたのは、弘長二年(1262)初冬(十月)中旬であると当寺には伝わっています。聖人が御遷化になられる一ヶ月半前のことです。祖父は旅立つ孫へ聖人御自作の御影像(御木像)を付属され、「自身の東国での思い出・善鸞の廃嫡は浄土真宗の教えにない加持祈祷を行ったこと・如信には自分と同一の信心に生きてほしいとの願い・東国門弟の教化の委託の御遺言を伝えます。
上人が奥州白河大網(現、西白河郡泉崎村大字北平山字古寺)を終の棲家とするのは、三十歳代半ばの文永六年(1269)のことです。庵は、お弟子乗善房が所有していたものです。
この庵の前身は、源義経の忠臣であった佐藤継信・忠信兄弟の母が二人の死をこの地で知り、菩提を弔うために建てた阿弥陀堂(大網堂とも、大海堂とも)でした。
如信上人は、乗善房の庵(現茨城県大子町上金沢)で御遷化になります。毎年、上人は親鸞聖人ご往生の日(十一月二十八日)には京都の御廟所を参拝していました。この如信上人のお勤めが、のちに報恩講という形式に整っていったと伝えられています。
正安二年(1300)、上人は京都からの帰路、いつものように上金沢の地に立ち寄りましたが、急の病に倒れ二、三日寝込んで正月四日に息絶えました。本願寺第三世覚如上人はこれを知り、三回忌までの法要を京都でお勤めになり、正和元年(1312)、上人終焉の地である上金沢に至って仏事を営み、さらに大網の本坊に詣でて十三回忌の法要をお勤めされます。
ご遺骸は、正和四年(1315)、上金沢の地で火葬にし、本坊(大網奥之坊)へ改葬しました。翌年、如信上人廟所(大網本廟)において十七回忌が営まれました。寺基は、寛永四年(1627)の頃、十五世信円(号如祐、白河風土記は法祐と記載)の代に領主丹羽長重の命によって、大網本廟を北平山の地に残して現在地へ移転しました。
移転当初は、西念寺という寺院名でしたが、ほどなくして常瑞寺を名乗ります。『白河風土記』は「此弥陀の像火焔の中より免れ出て霊場不思議を顕せし云々」と、寺院名が変わった訳を記します。中庭の句碑には、庭造営の年号が「正保四丁」(1647)と刻まれており、信円は句碑が建った四年後、86歳で示寂しました。その後当寺は、何度かの火災にあいました。記録にあるだけでも安永年間の大火、明治十五年の大火に被災しました。また、近くは昭和十一年に全焼しています。
これらの火災により、親鸞聖人の御遺骨を彩色した御自作の御影像(御木像)、如信上人の絵像、親鸞聖人・善鸞大徳・如信上人筆のお名号などを残し、多くの宝物・記録類が焼散失しました。現在の本堂は、昭和二十九年に建立しました。お内陣は平成四年に修復し、平成六年には大網本廟を改修しました。宗祖灰骨の御影と如信上人御本廟をお守りして七百有余年、常に上人の御心を帯し、真宗法血脈を次第相承してきたのが大網奥之坊常瑞寺です。
              常瑞寺HPより転載
                   

  浄土真宗大谷派 妙徳寺
妙徳寺の創建は慶長年間に当時の小峰城の城代だった会津藩主・蒲生秀行家臣・町野長門守幸和が常陸から招いたとされます。何度か移転を繰り返し、現在地には江戸時代中頃になってからで、関川寺など共に寺町を形成し城下町の南方の防衛ラインを担っています。
境内には枝垂桜の大木があり白河市を代表とする桜の名所となり、よく整備された八幡小路沿いには戊辰戦争の戦死者の供養塔があります。案内板によると「この地は、慶応四戌辰年五月一日の戦いでは、最大の激戦となり東軍の戦死者は六百八十二名を数えた。この供養塔は、この日の戦いで敗走する途中、この地で戦死した東軍兵士を祀ったものである。市内に数多く点在する供養塔は北裏(南湖)の戦死霊魂供養とともにもっとも小さな塔である。
             福島旅ネット案内説明より

  市川方静之墓
白河藩阿部家家臣の子として天保五年(1834)白河で生まれる。通称運八郎、不求庵と号した。天文学や数理学を学び、測量技術を習得した。
明治時代には師範学校の算術教授となるが、研究のため職を辞し、明治十九年(1886)には自らの測量器「方静儀」が工部省に採用された。私塾では多くの弟子を教え、外務大臣などを務めた後藤新平もその一人でした。又諸芸にも通じ、特に和歌は毎週歌会をしたという。
明治に十年には国家事業として行われた白河水神原での皆既日食観測に地元学者として協力している。
明治三十六年に病を患い歿した 享年七十 
             案内説明より
                    

  日蓮宗妙関寺
開會山妙関寺は、白河藩主松平大和守家(結城松平)の位牌所を祀っていた永寿寺が、大和守家の転封にともなって姫路へと去った後、その跡地に留まった永寿寺の僧が創建したと伝えられます。明治初年に火災に遭い、記録などを失ったため、詳しい事は分かっていません。
              白河市観光案内説明より

  乙姫桜  白河市指定天然記念物 昭和三十八年一月十八日指定
樹齢約四百年と推定されるベニシダレザクラで、高さは約十三メートル、幹周り約四メートルを測ります。花色は濃いピンクで花弁が美しく、白河地方には数少ない、あでやかで美しい桜のため「乙姫桜」と称されています。
江戸時代の初め、仙台藩初代藩主・伊達政宗(1567~1636)が徳川将軍家へ桜の苗木を献上する途中、白河城下で休息した際に住職がその内の一本を望み、現在の場所に植えられたと伝えられています。
その後、寛保元年(1741)に日蓮宗の寺院、妙関寺がこの地に移転し、以来現在まで妙関寺の境内となっています。同種のベニシダレザクラは前橋・宇都宮にも植えられたと伝えられますが、現存する桜は妙関寺の桜だけとされています。
              案内説明より              

  浄土宗常宣寺
本尊は恵心僧都の御作で元京都誓願寺の内仏尊像だったものを、和泉式部がしばしば利益を蒙ったので乞いにより守本尊としたものと伝えられております。式部が実父の病気見舞いのため下向の折、この地の兵乱のため通行ができず、やむなく白河の関付近中野の地に小さな草堂を作り、御本尊を安置してしばらく滞留していましたが、残念ながら戦乱は鎮まらず、「白川の関にこの身はとめぬれとこころは君か里にこそ行け」という歌一首を詠じて故里に贈り、空しく帰洛したといわれております。
その後、天台宗の沙門正法という僧が、草堂を再興して正法院となり、永禄二年(1559)、咥霊という僧が、この天台宗正法院を当市本町に移し、浄土宗に改宗、水戸瓜連常福寺の末寺となり、寺号を常宣寺に改めたと伝えられております。その後、寛永元年(1624)年、丹羽長重築城の時、現在の地に移りました。
              浄土宗寺院紹介より                 

  天台宗 永蔵寺
永蔵寺の創建については、鎌倉時代末期、幕府調伏の罪で白河の結城宗廣に預けられた僧・圓観が宗廣の尊崇を受け、弟子の永意を留めて寺を建立したと伝わる説。また楠正成が後醍醐天皇から賜った千手観音が圓観を媒介として結城宗廣に渡ったので、千手観音を安置する寺院を建立し、圓観を開山としたという説があります。両説とも創建は建武三年(1336)と伝えています。白河結城氏の領内では格式の高かった寺院といわれています。
              白河観光案内説明より                 

  南湖神社
定信公が二十六歳で藩主になられた当時は天明の大飢饉でしたが、定信公は関西地方に使者を出して、食料を大量に買いこんで人々に施されたため、白河藩からは飢饉による死者を一人も出さなかったといわれています。 また、日本最古の公園である「南湖」を築庭し身分制度の厳しい時代ながら一般庶民にも開放されるなど、様々な立派な施政を行われ名君と称えられております。
南湖神社は初代宮司である中目瑞男の首唱で、公の偉大な御遺徳を敬慕する白河市民を始め、各地の崇敬者の熱烈な至誠と、当時のわが国財界の巨頭であられた渋沢栄一先生の御尽力により、大正九年五月十日、神社設立が認可され、大正十一年六月十一日竣工・御鎮座大祭が執行されて今日に及んでおります。 平成二十三年は御創建九十周年を迎え、百周年に向けてご神威がますます輝きを増しているところです。
願一切成就の神・守国大明神として白河地域の人々より篤い崇敬を集め厄除開運・方位除けを始めとして、初宮詣・七五三交通安全・家内安全・商売繁盛などのご祈願をなさる方々で一年中参拝客が絶えることはありません。 近年は楽翁公が学問に非常に長けた方でおられたことから学業成就の神として受験生のお参りが非常に増えております。 さらに、楽翁公が白河在住の男性と会津の女性を引き合わせて縁を取り持ったということから「縁結びの神」として名高く、創建当時より神前結婚式が数多く行われております。
また、四月中旬になると南湖公園内のソメイヨシノや神社参道沿いの御神木「楽翁桜」が咲きだし、境内は参拝客であふれかえります。「楽翁桜」は南湖公園築造当時に楽翁公によって植えられたと伝えられ、樹齢二百年です。また、南湖神社創建の時に桜の木が中央になるように参道を作ったといわれております。
平成二十三年三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で南湖神社は甚大な被害を被り社号標・灯篭・常夜灯・本殿基礎・社務所・茶室・宝物館などなどが多数倒壊・損壊いたしました。現在は多くの皆様からのご協賛をいただき大半の修繕工事を終えておりますが、一部にその爪痕がまだ残っており一日も早い完全復興を目指しているところです。

  松風亭蘿月庵
松平定信公はご自身で「鎮信流」という流派を立ち上げたほどの江戸時代を代表する茶人の一人です。寛政年間、白河藩の重臣三輪権右衛門が茶人であった父仙鼠のために茶室を建てようと府内九番町にあった別邸内に藩主松平定信公より拝領した茶室図面に基づいて建立されたと伝えられています。
定信公は蘿月庵を何度も訪れて茶会を催しており、いくつかの逸話が残っています。寛政七年(1795)二月、茶室の傍らのしだれ桜の素晴らしさに目を見張り公はすぐに茶筅に墨をつけ「垂櫻」とき揮毫されました。これは茶掛にされ現存しております。
享和二年(1802)八月、公は水盥に「蘿月」と揮毫され、その裏には「壬戌秋八月ここに来りてこれを書すこと蚯蚓(とかげ)の如し、人の笑わんことをそこの月たか笑ふともおけやおけ」と即興で狂歌をしたためられました。これは「蘿月庵」という名称の由来を伝えるものといわれており、その水盥も現存しております。
蘿月庵は文政六年(1823)に松平家が桑名に移封されるときに家臣常盤惟親に譲渡され府内道場小路にあった屋敷内に移築されたのですが大正十二年(1923)、南湖神社創建を奉祝して寄贈され再度南湖神社境内に移築されています。
また蘿月庵は「由緒が明確で原型をよく保った数少ない近世茶室の一つである」とのことから昭和三十八年(1963)には白河市重要文化財に指定され平成六年(1994)には福島県重要文化財に指定されています。
              南湖神社HP案内説明より                       

新白河駅前 松尾芭蕉像
「心もとなき日数重なるまゝに白河の関にかゝりて旅心定りぬ」の紀行文

石落とし 登りくる敵に石を落す装置
名称は山城の時代の遺物で、灯台下を照らす装置で敵兵を鉄砲で防ぐ

桜門跡石垣
櫓台は布積みに積んである

修復中

修復中の石垣

前御門

桑名市と行田市は昭和四十八年に友好都市を締結していたが、新たに白河市を加えた三市友好都市として発足した。
三方領地替えを基にして友好都市を結んだのなら、昭和四十八年時点で白河市に話があろうかと思うのですが、白河市がそれを嫌ったのか、あるいは他の二市が白河市を嫌ったからのどちらかであろう。忍藩の殿さまが白河藩の殿様になっているし、白河藩の殿様が桑名藩の殿様になっているのですから。白河市としては三方領地替えは三度に及び慣れっこになっていたのかも知れない。姫路市、上越市、村上市との友好都市も結ばれていない。

  小峰城跡 国指定史跡 (平成二十二年八月五日指定)
小峰城跡は、南北朝時代の興国・正平年間(1340~1369)頃に、結城親朝により築城されたのが始まりとされています。現在に残る石垣造りの城郭は、寛永四年(1627)に白河藩丹羽家初代藩主となった丹羽長重が、寛永六年(1629)より約四年の歳月をかけて改修したものです。白河藩主は丹羽家以後、松平家(榊原氏)、本多家、松平(奥平氏)、松平(結城氏)、松平(久松氏)、阿部家といった德川譜代・親藩の七家二十一代の居城として、また奥州の関門としての役割を担いましたが、慶応四年(明治元年1868)の戊辰戦争白河口の戦いにより焼失落城しました。
明治以降、城郭はその多くが民間への払い下げとなりますが、本丸を中心とした範囲は陸軍省の所管となり、のち明治二十六年(1893)に白河町に払い下げられました。本丸・二之丸を中心とした範囲は、城郭遺構活かした都市公園としての整備が進められ、平成三年(1991)には三重櫓、平成六年(1994)には前御門が発掘調査の結果と絵図の記載を基に木造で復元されました。そして、小峰城は奥州の関門としての歴史的重要性や今なお本丸・二之丸を中心とした範囲に、石垣や堀といった遺構が良好な状態で残されていることが高く評価され、平成二十二年(2010)に国の史跡に指定されました。

  会津門跡
小峰城の西側に設けられた会津町の武家屋敷から三之丸への入口にあたる門で、城からみて会津町に通じる門のため、この名称が付けられたと云われています。会津門は入り口が南に向いて建てられており、高さ約七メートル、屋根は杮葺きとなっていました。
門の上部には部屋はありませんが、二階部分の下部には「腰板並」と記載があり、一見すると腰板を装備した櫓門に見える建て方をしていたようです。また城郭の外周にあたるため、門の周辺が石垣のほかは主に土塁となっていました。
会津町の名称については、文化二年(1805)に完成された「白河風土記」によると、藩政時代会津藩領であった白河が藩として発足するにあたり旧会津藩士を召し抱え、住まわせたことに由来する、とあります。
              案内説明より            

小峰城復旧説明板

白河駅

水堀

会津門跡

白河集古苑

長石垣 打込み接ぎ落し積

長石垣 積み方が異なる接合部

長石垣 打込み接ぎ布積み

工事中で立ち入り禁止

本丸 二段石垣土塁

本丸 二段石垣土塁

小峰城遠望

城山公園 漆喰土塀

城山公園入口

小峰城二之丸跡

三層三階櫓と城門

三層三階櫓

桑名市・白河市・行田市友好都市紀念碑

桜町鹿嶋神社 神渡御旅所

鹿嶋御旅所社殿

社殿扁額

追分 左阿武隈の渡しを経て鹿嶋神社へ

追分 道標石碑

左宗祇戻し碑と右芭蕉句碑

宗祇戻し碑

現在の旭町追分

道標

白川城址入口道標

途中の平地 白川城の遺構でしょうか

白川城址石標

上の郭

下の郭

山頂郭の祠

奉斎 結城宗廣公神霊とある

忠烈碑

忠烈碑 題字

山頂の木々

土塁

土塁

  白川城跡  福島県指定史跡 昭和二十八年十月一日指定
白川城は、白河市街の東方、阿武隈川の川筋を南から一望できる丘陵につくられました。御本城山(館山)と呼ばれる山頂の平坦部は空濠と土塁で守られた白川城の中心部にあたり、この周辺に防御のためにつくられたたくさんの平坦地や土塁が広がっています。源頼朝による奥州合戦の結果、白川庄の地頭となった結城白川氏は、この城を本拠地として北関東から欧州にかけて活躍しました。特に、南北朝時代には宗廣・親光父子が南朝(吉野方)の中心的存在として奥州軍を率いて京都周辺まで二度も遠征し、北朝方の足利尊氏軍と戦いました。江戸時代になって、内山重濃が宗廣・親光父子の業績を伝えるために、白河城主・松平定信の撰んだ「感忠銘」の三文字と、当時の白河藩最高の学者であった廣瀬典の文章を城跡の北東部分の断崖に彫ったものが感忠銘です。
           案内説明より              

感忠銘

感忠銘のある断崖

感忠銘が刻されている岩

碑文

土塁の間の堀 城門跡?

転寝の森の木

転寝の森 田んぼに囲まれた狭い所

県立自然公園 南湖公園
国指定 史跡・名勝

千世の堤 和歌

千世の堤石碑

千世の堤 漢詩

関の湖石碑

関の湖 和歌

関の湖 漢詩

南湖

南湖

南湖

関の湖

松平定信公像

南湖十七景詩歌碑

詩歌石碑

南湖神社

楽翁公像

社号標

鳥居 新しく建立された

鳥居社号扁額

手水舎

手水舎 龍の水口

茅の輪

社務所

吽形狛犬

阿形狛犬

御神木

御神木 楽翁桜

燈籠と拝殿

本殿

南湖稲荷神社

稲荷神社社殿

松平定信 渉世十法

南湖公園 躑躅園之碑

神社創立に貢献した渋沢栄一顕彰碑

多数の祠が集められています

松風亭御門

茶室 蘿月庵

稲荷神社 狛犬 倒壊は免れたか

東日本震災で倒壊した鳥居

倒壊した燈籠群

 

鳥居社号扁額

翠楽園碑

松楽亭

池越しの松楽亭

東屋

秋水庵門

茶室秋水庵

東屋

花菖蒲 友好都市桑名市より寄贈

古代蓮 友好都市行田市より寄贈

万葉の道 和歌の道

秋水庵

鎮魂碑

明治元年戊辰戦争慰霊碑
二本松藩慶応戊辰役戦死之霊

寺院庭園の跡

丹羽長重公廟所石標

霊廟参道

御霊屋

御霊屋正面扉

松平基知墓所

松平基知墓石

松平直矩墓所

松平直矩墓石

奥平・松平清照墓所

奥平・松平清照墓石

  白河藩大名家墓所 白河市指定遺跡
三方を丘陵に囲まれ、北側に谷が開く地形をしているこの地は、歴代の白河藩主の菩提寺などが置かれた場所で、江戸時代の絵図にも寺院の名称や池が描かれています。文化二年(1805)に完成した「白河風土記」には、寛永年間(1624~1643)に初代白河藩主となった丹羽長重が、この地を菩提寺建立の地としたと記されています。
文献資料などから、丹羽家の大隣寺、榊原家の隋寶寺、本多家の久松寺、奥平松平家の天祥寺、結城松平家の孝顕寺、久松松平家の圓明寺、阿部家の正法院が置かれたことを確認することができます。白河藩を治めた大名家は、七家二十一代を数えますが、この地に墓地が築かれたのは丹羽長重、結城松平直矩、結城松平基知、奥平松平清照で、丘陵の斜面を平坦に造成し、墓地としています。
谷の中央に存在する池は、絵図から寺院の一角に存在したものと考えられますが、明治時代の末に、有志により池園として整備が図られ「小南湖」と称されるようになり、現在もこの名で親しまれています。

  丹羽長重墓
丹羽長重は、織田信長の重臣・丹羽長秀の嫡子で、越前・若狭など百二十三万石の大名であったが、前田利長と争い、所領を没収された。慶長八年(1603)德川家康より常陸国古渡に一万石を与えられ大名に復した。元和八年(1622)に陸奥国白河郡棚倉藩五万石、そして寛永四年(1627)白河藩成立とともに十万石で入封した。
長重は、小峰城の改修、町割りの整備など現在の白河の町並みの基礎を築いたが、寛永十四年(1637)閏三月四日、江戸桜田上屋敷で没した。
享年六十七  大隣寺殿前参議三品傑俊浄英大居士
遺体は現在地に埋葬され、塔身四・二七メートルの宝篋印塔が建てられた。御御霊屋は、天保七年(1836)に建立された。

  結城松平直矩・基知墓
松平直矩は、德川家康(豊臣秀吉養子で命により陸奥の名族結城家を継ぐ)の次男結城秀康(越前松平始祖)の孫で、七歳で播磨国姫路十五万石を継いだが、越後国村上、姫路、豊後国日田、出羽国山形と転封し、元禄五年(1692)山形より入封し、白河藩十五万石の城主となった。
元禄八年(1695)江戸藩邸にて死去した。享年五十四  天祐院殿鐡舩道駕大居士
遺体は荼毘に付されて現在地に葬られた。墓石は、高さ三・六メートルの五輪塔である

平基知は父直矩のあとを継いで白河城主となった。享保十四年(1730)江戸屋敷にて死去した。
享年五十一  仰高院殿寶性英堅大居士
遺体は備前焼の大甕に納められて江戸より運ばれ現在地に葬られた。墓石は高さ三・六メートルの五輪塔である。

  奥平松平清照墓
奥平松平家は、三河国の武将・奥平信昌と德川家康の長女・亀姫の間に生まれた松平忠明を初代とします。忠明の長男忠弘は、天和元年(1681)、下野国宇都宮藩より白河に入封しました。以後、元禄五年(1692)まで十一年間、白河藩十五万石を治めました。
清照は、忠弘の嫡男でしたが、病弱であったことから廃嫡され、貞享三年(1686)小峰場内で歿し、この地に埋葬されました。
享年三十五  涼雲院殿南峰道葷居士
墓は安山岩質凝灰岩(白河石)で造られた五輪塔で、高さ二・八メートルです。元禄五年(1692)松平家は出羽国山形藩に転封となり、家督は清照の子・忠雅が継ぎました。

  二本松藩士慶応(明治元年)戊辰役戦死之霊
この慰霊碑は、二本松藩戦死者二十三名を供養するため、旧二本松藩と白河町有志で組織された丹羽長重公追遠会が建立した供養碑です。現在は、丹羽会として供養・墓前祭がおこなわれています。碑文には、戦死者二十三名の氏名が刻まれています。
              案内説明より              

しみずや跡 水車小屋復元

復元小屋内部

白河ハリストス正教会聖堂

教会正面入り口

尖塔の十字架

谷津田川紫陽花の小路
左の森は常宣寺

歴史的風致形成建造物 大谷忠吉本店(白陽酒造) 萩原朔太郎妻・美津子生家

白河ラーメン元祖 亀源跡

  白河ハリストス正教会聖堂  福島県指定重要文化財建築物 平成五年三月二十三日指定
木造平屋建て、一部二階建て(鐘塔)
間口 八・一七メートル  奥行一四・四四メートル  平面積一〇一平方メートル

白河ハリストス正教会聖堂は大正三年(1914)七月に着工され、翌大正四年五月に成聖式(竣工)が行われ、ハリストス教会として現存するものでは、全国で五番目に古い洋風建築です。平面は聖所を中心として、西に啓蒙所廉玄関(上階は鐘塔)、東に至聖所を配し、全体は十字型平面です。屋根は切妻造や八稜屋根、中央の聖所には緩勾配の方形屋根を二段にかけ、中央部白塗りのドラムの上に緑色のクーポル(丸天井)を重ねており、一方、屋内は白漆喰型、聖所の天井には、球面三角形八個を組み合わせた見上げのドームを構成し、ビサンチン様式の雰囲気を漂わせています。
設計は当時副輔であった河村伊蔵(現 豊橋聖堂や函館聖堂も担当)で、建築には地元の中村信太郎等があたり、費用は白河の信徒を中心に集められ、当時の金額四千円で建設されました。なお、聖所には、福島県の重要文化財に指定されているイコン(聖画像)四十八点があり、その内五点は当時の画家山下りんの筆によるものです。

  しみずや跡 谷津田川流域水車跡群
谷津田川水車小屋しみずや跡で確認された遺構は、水車小屋、導水路、排水路が確認されています。谷津田川流域には、江戸時代後半より昭和時代の前半にかけて精米(米つき)をはじめとする水車が数多く存在していました。谷津田川の河川改修に伴い、九つの水車跡で発掘調査が行われています。

  歴史的風致形成建造物 大谷定吉本店(白陽酒造)建造物群
大谷忠吉本店は、明治十二年(1879)に酒造業の蔵元として初代・大谷忠吉氏によって創業され、現当主で五代目を数えます。三代目・大谷忠一郎は詩人としても活躍した人物で、酒造業の傍ら詩人萩原朔太郎に師事し、福島県詩人教会長なども務めた。
建造物群は、旧奥州街道に面した店舗の両側に漆喰の蔵が並立し、白河を代表する景観の一つとなっている。奥には、規模の大きい酒蔵が三棟連担し、その中に煉瓦造りの煙突がある。これらの建造物は、創業当時の明治十二年頃に建築されたものと考えられる。
また、白陽酒造は日本を代表する大正・昭和の詩人・萩原朔太郎の妻・美津子の生家である。三代・大谷忠一郎は、家業の酒造業を営みながら詩人として活躍、萩原朔太郎にも師事し、「北方詩人」などを主宰した。萩原朔太郎は、当地の忠一郎のもとを度々訪ねており、そのような縁で忠一郎の妹・美津子と昭和十三年に結婚した。

  白河ラーメンの元祖 亀源跡
明治中期より初代・木伏源兵衛が「おしるこ屋」を開きました。二代目・木伏源松が大正十年に手打支那そばを始めました。その後、十数軒の白河ラーメン店の指導を行ったことから、白河ラーメンの元祖と云われている。
              案内説明より                     



白河の神社

境内には月讀尊の石塔が多い

神門 随身と背中合わせに 左金剛力士吽形像と右金剛力士阿形像

左随身

右随身

神門の扁額

拝殿

拝殿前吽形狛犬子獅子取り

多数の石碑が建立されています

弥勒堂左の釈迦如来石像 

旧別当寺・鹿王山最勝寺弥勒堂

車両交通安全祈祷所

旧別当寺・鹿王山最勝寺観音堂

観音堂石塔

奉納水鉢一対 昭和七年喜之壽記念 昭和七年還暦記念

御神木 杉樹齢約千年

弥勒堂向拝虹梁と海老虹梁

向拝柱木鼻 獅子と獏

祈祷殿

祈祷殿

本殿

神饌殿

手水舎

手水舎 水口

神門

境内

太鼓橋

御神橋 太鼓橋

参道燈籠 こちらは右側 

二之鳥居と参道燈籠 左が欠けています

台座が残る 燈籠の台座でしょう

参道並木と社務所

参道狛犬

社号標 鹿嶋神社 御祭神武甕槌尊

一之鳥居

鳥居社号扁額

阿形狛犬玉取り

吽形狛犬子獅子取り

月讀尊石塔

境内社

左から 稲荷神社(宇迦之御魂神) 神明神社(天照皇大神) 天神神社(菅原道真)

松尾神社(大山昨神、中津島姫命)

松尾神社鳥居 社号扁額

松尾神社社殿

金刀比羅神社(大物主神)

磐座(いわくら)

御神磐

鹿嶋神社     麓山神社    愛宕神社    小峰八幡神社    天神神社  

麓山神社鳥居 
御祭神 大山津見神(大山祇神)

鳥居社号扁額

社殿が見つかりませんでしたが
石塔類が多くありました

鳥居傍に祠が二宇鎮座しています

南無阿弥陀仏石塔

  麓山神社境内 南無阿弥陀仏碑
慶応四年(明治元年 1868)の戊辰戦争では白河も戦場となりました。白河で激戦となった五月一日の戦いで捕えられた数十人の東軍(奥羽越列藩同盟)の兵士は、翌日谷津田川に架かる二つの橋の傍で斬首され、遺骸は川に流されたと伝えられています。この碑はその兵士たちを弔う二つの碑の内の一つと云われます。もう一つの碑は、はじめ常宣寺(向新蔵)の前に架かる橋(土橋)のそばにありましたが、現在は常宣寺境内に移されています。
              案内説明より                 

参道石段

鳥居と狛犬

鳥居社号扁額

境内

庚申塔

二十三夜塔

拝殿

本殿
御祭神 火之迦具土神

拝殿社号扁額

拝殿右側面 扁額

仏像・墓石 無縁供養塔

裏山門

多層石塔

境内墓地

境内墓地

枝垂れ桜

収蔵堂?

庫裡

観音堂でしょうか

本堂左の佛堂

本堂

本堂

本堂扁額

六面地蔵尊

宝篋印供養塔

佛足跡

線描石仏画 薬師如来でしょうか

弘法大師修行像

地蔵菩薩

地蔵菩薩

不動明王

境内の仏像 地蔵菩薩

福島八十八ヵ所霊場二十三番札所

鐘楼

梵鐘

山門 銅板葺四脚門

山門扁額

白河役陣亡諸士碑

慶応戊辰殉国者墳墓

犬猫畜等萬霊塔

馬頭観音石塔

釈迦如来 永代供養墓

聖観世音菩薩と六躰地蔵尊

狛犬

稲荷神社

社殿

社殿扁額 読むことができない

庫裡

山門

手水舎 水盤と龍水口

水瓶を持つ聖観音菩薩

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

本堂 院号扁額

松平家家紋 
結城松平家では右三つ巴を継いでいる

石碑らしき二基 カバーは何のため?

境内の庭

境内樹木

境内の庭

庫裡

地蔵堂

地蔵堂扁額 子安地蔵尊

鐘楼

梵鐘

寺号標

山門 銅板葺薬医門

門前 子安地蔵石標

本堂 入母屋造本瓦葺唐破風向拝

本堂 山号扁額

内陣本尊 阿弥陀如来立像
左脇侍観音菩薩 右脇侍勢至菩薩

山門と寺号標 桟瓦葺薬医門

六地蔵尊

水子供養地蔵尊

本堂 入母屋造桟瓦葺唐向拝

庫裡

手水処

境内樹木

境内墓地

歴代住職の墓所

稲荷神社祠

  黄檗宗 龍興寺
前身は白河藩主本多忠義が明暦三年(1657)に建立した弁財天を安置する堂宇で、これを本多氏と関わりのあった黄檗宗の僧が管理したことで黄檗宗になったと伝えられます。その後の白河藩主松平大和守家(1692~1742)の帰依も受け、松平定信の養祖父松平定賢(藩主在位1742~1770)から「龍興寺」の寺号を与えられて現在に至っています。
             白河観光案内説明より

  会津藩松平家家臣・海老名衛門供養碑
会津藩松平家家臣・海老名衛門は実名を季久といい、公事奉行・郡奉行・軍事奉行・大目付などを歴任して隠居したが、慶応四年(明治元年1868)の戊辰戦争に際して軍事奉行に復職し、白河に派遣された。最も激戦だった五月一日の戦いにおいて、この付近の山中で切腹した。享年五十二
この「海老名衛門君碑銘」は、明治十七年(1884)に長男・季昌が建立、文章は会津藩士で当時東京大学教授を務めていた南摩綱紀が作ったものである。

  戊辰戦争奥羽越列藩同盟戦死者供養塔
黄檗宗龍興寺境内周辺は、慶応四年五月朔日(一日)の戊辰戦争白河口の戦いにおいて、稲荷山周辺に付近していた奥羽越列藩同盟軍が、新政府軍の攻撃に圧倒されて敗走した道筋の一つであった。境内には戦死塚と刻まれた同盟軍を埋葬した墓と、会津藩軍事奉行であった海老名衛門の慰霊碑が所在していいる。海老名は敗戦の責任をとりこの地で自刃したと伝えられている。
              案内説明より                      

寺号標 大雲山龍興寺

参道の石仏

鐘楼

梵鐘

本堂 寄棟造銅板葺

本堂 寺号扁額

海老名衛門碑

戊辰の役戦死者供養塔

石仏群と僧籍墓碑

庫裡

浄土宗常宣寺参道

寺号標札

山門 燈籠門

石仏墓石供養塚

観音・地蔵菩薩石仏塚

地蔵堂

正面六地蔵石塔

境内樹木

境内中域石敷き参道

境内墓地

境内墓地

山門 銅板葺四脚門

庫裡

お堂が有りました 名前は?

本堂 寄棟造桟瓦葺

本堂 寺号扁額(市指定文化財)

境内の庭

境内の庭

鐘楼

梵鐘

門前 日蓮大菩薩石塔 遠忌紀念か?

山門桟瓦葺薬医門脇門付

鐘楼

梵鐘

本堂 切妻造桟瓦葺寄棟妻入向拝

本堂 寺号扁額

乙姫桜

庫裡

境内社

社殿 御祭神?

乙姫桜

山門 銅板葺棟門

山門扁額

六地蔵尊

本堂 入母屋造本瓦葺千鳥向拝

本堂山号扁額

庫裡

不動堂・薬師堂

不動堂・薬師堂扁額

不動堂 不動明王

境内墓地

永代供養墓 観世音菩薩坐像

  曹洞宗萬持寺
天正三年(1575)、関川寺の住職を退隠した得峯和尚が開山したと伝えます。 
その後、万治元年(1658)になって、呑陂和尚が同寺を中興し「萬治寺」と号したと言われています。のち「治」は現在の「持」に改められ現在の寺号・萬持寺となりましたています。奥州戊辰戦争・会津藩討伐が終わり新政府軍が郷里に帰るまだ戦争の高揚感がある白河の地で、明治元年(1868)十一月三日、安芸国広島藩の新政府軍指揮下の・鉄砲組の志願兵・加藤善三郎が、長門国萩藩の軍属(手伝い人足)である地元民を斬殺した事件が起きる。長州藩の仕事を請け負っていた者を訳もなく殺された長州藩は加藤を捕え、広島藩との協議により十一月四日切腹と決まった。広島藩としては自軍の兵士を助けたい気持ちは大いにあったと思われるが、時の勢いとして長州藩と広島藩の関係を考えるとき長州側の意見が通るのは当然の事だったのでしょう。加藤善三郎の切腹場所として拘束されていた萬持寺にて行われ、境内に埋葬後供養墓が建立された。
             案内説明より               

南無阿弥陀仏供養塔 観世音菩薩

市川方静之墓 左は夫人でしょうね

真宗大谷派 妙徳院

鐘楼

梵鐘

本堂 入母屋造銅板葺流向拝付

本堂 山号扁額

参道脇庭

庫裡

庫裡・会館標札

石川方静之墓

石川方静墓横の地蔵・観音等石仏

曹洞宗 月心院

寺号標札

庫裡

本堂

本堂 山号扁額

六地蔵菩薩

境内墓地

荼枳尼堂 境内稲荷社かも

荼枳尼堂扁額

鐘楼と庫裡

梵鐘

本堂入母屋造本瓦葺一間唐向拝

僧堂(坐禅堂)

僧堂扁額

僧堂と結城廟

杓底観世音菩薩

水瓶観世音菩薩

白川城主 結城宗廣公像

観世音菩薩永代供養塔

結城桜 枝垂れ桜

境内墓所の桜 ソメイヨシノ

結城舘 水堀と土塁跡

結城宗廣御霊廟落慶記念燈籠

参道 銀杏並木

鳥居がありましたが

この築山に祠があるのでしょうか

稲荷を祀る鳥居でしょうか
大震災で台輪・島木が落下しています

弥勒菩薩半跏思惟像

釈迦如来石像

地蔵菩薩石像

結城宗廣墓石 中央五輪塔

本田東陵墓碑

境内 歴史を見る事が出来る墓石群

赤穂義士・中村勘助の妻の墓

棚倉藩士・小池理八供養碑

山門 二ノ門

山門 一ノ門

一ノ門 山号標

東陸奥壇林寺・関川寺石標

禅宗 不許葷酒入山門石標

結城宗廣墓所

臨済宗 大統寺

山門

賓頭盧尊者

境内庭 休み処

ミニ石庭

信徒会館

会館扁額

庫裡

参道左側に在る笠原稲荷神社

鳥居の扁額

蒲生羅漢之墓

長尾仙鼡之墓

戊辰戦争死者供養碑

老師の像 寺に縁の禅師でしょうか

鐘楼 梵鐘は無い

小原庄助之墓
二本松・大七 白河・千駒が供してある

新選組隊士 菊池央之墓

案内板

天恩皇徳寺墓所

境内墓地

石仏・墓石供養塚

山門

庫裡

本堂 入母屋造桟瓦葺一間唐向拝

向拝唐破風 獣懸魚

五重石塔

常瑞寺 歴代住職供養墓

永代供養墓

境内墓地

山門 

寺号標 大網奥之房常瑞寺

大網奥御坊石標

本堂

太子殿 聖徳太子を祀る

太子殿扁額

庫裡

鐘楼

梵鐘

七福神・大黒天

不動明王

不動明王

慈悲観音と称されるプレートがある

五輪供養塔 謂れは分らない

本堂

本堂 山号扁額

会館・庫裡

地蔵堂

子育地蔵尊と呼ばれている

将軍地蔵堂 宝形造銅板葺流向拝

向拝 虹梁・木鼻・蟇股の様子

地蔵堂扁額 将軍地蔵堂

地蔵菩薩坐像

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宮城松島

山門 主柱と冠木

山門扁額 読めない!

山門 院号木札

切妻 梅鉢懸魚

梅鉢懸魚

山門 大棟と腕木

遠くから認識できる圓通院看板

山門 切妻造萱葺一間一戸薬医門

本堂 寄棟造萱葺

本堂 聖観世音菩薩坐像

本堂 書院

本堂 書院

巌上の松

石庭

石庭

石庭 板橋

石窟墓

石窟墓

精進・懐石料理 雲外

雲外

心字池

心字池

東屋

建武五年記銘板碑

伊達宗高供養墓

三慧殿説明板 読み難い

ばら園

三慧殿 宝形造本瓦葺高欄回縁側

三慧殿厨子 伊達光宗像

厨子正面屋根木組み

厨子 左扉

厨子 右扉  日本最古のバラの絵

厨子前に置かれた法名木板

観庭屋

棟門

三慧殿参道

三慧殿 側面

三慧殿 背面

  三慧殿  国重要文化財
伊達政宗の嫡孫・伊達光宗の霊廟として、正保四年(1647)瑞巌寺第百世洞水和尚により三慧殿が建立され開山されました。三慧殿は別名御霊屋(おたまや)とも呼ばれています。建物は宝形造、本瓦葺で、四周に高欄付の縁を巡らす。東北地方では数少ない 格式ある方三間霊屋の遺構であり、霊屋建築としては宮城県下最古とされ、三百五十年もの間秘蔵とされた国の重要文化財です。

  バラ園 「日本最古の西洋バラと支倉常長」
伊達家が鎖国という時代背景に関わらず、支倉六右衛門常長を通じて伝わった様々な西欧文化を、伊達家の秘蔵として圓通院三慧殿内の厨子に図案化して残してあります。その中にローマを表す「日本最古の洋バラ」の絵があります。このバラ園は当時の偉業の象徴として造成されたものであります。このバラ園には日本最古と云われる洋バラもあり、初夏のころには満開を迎え圓通院がバラ寺とも呼ばれる所以でもあります

  伊達宗高並びに殉死者供養塔
大小供養塔ともに安山岩製の宝篋印塔で、中央の宗高供養塔塔を、殉死者供養塔群が囲んでいる。伊達宗高(慶長十二年~寛永三年(1607~1629)は仙台藩藩祖・伊達政宗の七男として生まれた。母は側室柴田氏 幼名長松丸 長じて右衛門を称し、十五位下に叙任 刈田郡・柴田郡で三万石を領した。
寛永元年(1624)、蔵王が噴火し、領民の迷惑を憂えた政宗の命で、中国明人・王翼と共に蔵王に登り、鎮静祈願を行った。寛永三年(1626)、父と共に上洛、同年八月十七日、京都二条・要法寺で疱瘡(天然痘)に罹り逝去した。
享年二十   龍島院殿涼山英清大居士
墓は領邑・柴田郡村田の宗高の法名を冠した曹洞宗龍島院に葬られた。
家老・福地右近、近習・赤坂兵部を始め、小姓、乳母を含む十名が殉死したことは、宗高の人徳を示すものと伝えられている。松島に供養塔が建立されたのは、松島の地が古来、浄土往生の霊場と認識されていたことによる。

  建武五年記銘板碑
宮城県石巻井内産の粘板岩を使い、中央上部に密教胎蔵界大日如来を表す梵字ア字、その下の年号を挟んで左右に二行ずつ造立の理由が刻まれている。銘文には藤原氏出身の女性が、板碑造立の功徳によって自分の死後の成仏・安楽を願い、その功徳を法界に広く及ばさんとある。松島に近接する有力者の藤原氏は、国府(仙台市宮城野区岩切近辺)在住の留守(伊澤氏)が考えられる。建武五年(1338)は北朝年号で、北朝延元三年である。

碑文は、
右塔婆造立之志趣者藤原氏女恭営逆
修之作善専結末来之好因者也伏氏

建武第五寅戌八月 日 藤原氏女 敬白

五障雲散而菩提月現業海枯而功徳山
高乃至法界衆平等利益者也

右塔婆造立の志趣は藤原氏女 恭しく逆修の作善を営み 専ら未来の好因を結ぶ者也 伏して願わくば氏女
五障の雲散じて 菩提の月現じ 業の海枯れて 功徳の山高く 法界から衆生に至るまで平等に利益の者なり

  覚満禅師の墓と防火石
覚満禅師(鎌倉時代末期千三百年頃の僧)は、瑞巌寺の前身である臨済宗圓福寺第六世住職である。鎌倉五山第一位巨福山建長寺開山の中国南宋の人・大覚禅師蘭渓道隆の教えを受け継ぐ高僧である。
ある時、この石を見て中国の径山寺が火災であるという異変を感じ、寺中の僧を集めて石に水を注がせ、径山寺の火災を治めたことから、防火石として今に伝わっている。なお、後に御礼として贈られてきた鈴は、瑞巌寺の宝物として伝わり、今でも除夜に行われる火伏の儀式に使用されている。
             案内説明より                

板橋の甌穴か?

三慧殿扁額 三慧殿

覚満禅師之墓と手前防火石(一部分)

三聖堂 宝形造茅葺一間向拝

三聖堂扁額 三聖堂

堂左前に立つ石塔
文字が刻まれているようですが読めない

手水鉢

小太郎・紅蓮尼 比翼石塔

さるすべり

いぶき 
三聖堂から道を挟んで向かい側に在る

比翼石塔 刻碑文

http://www.miyatabi.net/松島町 天麟院より

伊達五郎八姫之墓 供養墓碑

御霊屋建立 宝形造銅板葺
旧仮御霊屋 下写真

西行法師像

庫裡前の猫 ネコ寺?

御霊屋・境内墓地への階段

永代供養墓 聖観世音菩薩
石碑には「いろは観音」とある

延命地蔵菩薩

水子・子育地蔵菩薩

本堂向拝 海老虹梁

本堂向拝 虹梁蟇股

天麟院殿瑞雲全祥尼大姉

本堂祭壇 釈迦如来坐像 右・天麟院(五郎八姫) 左・開山禅師像か?

西行法師像台座銘板
西行の露座像照ら春の月-木庵子-

本堂扁額 瑞雲峰

本堂 入母屋造桟瓦葺一間流向拝

国道にある天麟院案内碑

参道?突き当りが天麟院

天麟院 境内案内板

こちらも案内板 文字が途切れ読み難い

天麟院山門

はり樅

社務所

祭事蔵?御輿蔵?

天麟院からの参道石段
定番の鳥居ではありません

手水舎

社殿

参道途中の 鐘堂・梵鐘

神社方向から正面南参道

松嶋雪月花碑

百日紅

観欄亭 大ケヤキ

どんぐりころころ歌碑

観欄亭 ケヤキ

松島博物館 手水盤

松島博物館 阿吽の龍

観欄亭

観欄亭中門

セコイヤ樹珪化木

観欄亭より松島湾

観欄亭中庭の松

天皇皇后両陛下 御製碑

説明板

  観欄亭 松島博物館
「観瀾」とは、さざ波を観るという意味です。観瀾亭は、もともと豊臣秀吉の伏見桃山城にあった茶室を政宗がもらい受けて江戸の藩邸に移築していたものを、二代藩主忠宗が一本一石も変えぬようにと命じ、海路ここに移したと伝えられています。
記録によると藩主姫君、側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の巡視の際の宿泊、接待用の施設「御仮屋」として利用されていました。江戸時代の終わりまで、この敷地内には藩主等に随行する侍の部屋、台所、馬屋など11棟あまりの建物が存在しており、観瀾亭はその中の一部分が現存している貴重な建物です。
建物は東南に向きこけら葺きの京間十八畳二室からなり、四方縁をめぐらし、屋根は寄棟造りで軽快な起りを持つ簡素明快な建物で、県有形文化財です。 床の間の張付絵や襖絵は、壮麗な極彩色で、仙台藩絵師佐久間修理の作で、国重要文化財に指定されています。
藩主の納涼観月の亭として初めは「月見御殿」といわれており、「観瀾亭」は五代藩主吉村の命名です。中秋の名月の頃は「お月見の会」が催されるので、風流に浸るののも一興です。

  御座の間
藩主などの賓客の間。床の間や襖、障子腰板には金箔を張り付け、極彩色で描かれた林木花卉と渓流の図がある。床の間の「雨奇晴好」の額は五代藩主吉村の筆で、宋の詩人蘇軾の詩から採った句。 欄間にかけてある「観瀾」の二文字は七代藩主重村のものと伝えられています。

  松島博物館
伊達家伝来の什宝物や、武具、装身具、化粧道具、書画が陳列され、松島のジオラマもあります。中でも仙台城本丸大広間上段の障壁貼付画てあった「鳳凰図」は初期仙台藩の美術にとっても、また、藩で最初の画員(お抱え絵師)となる作者・狩野左京にとっても最盛期の作品であり、宮城県の重要文化財に指定されています。また、寛文元年(1661)の仙台領内絵図は、時代、大きさとも仙台市博物館所蔵の正保年間に次ぐものです。

  どんぐりころころの碑
松島町出身で文部省の小学校唱歌教科書編纂委員でもあった青木存義(あおきながよし)が、在職中に松島で過ごした幼い日を想い作詞された童謡を碑に刻んだもので、昭和59年(1984)4月3日に建てられました。碑面裏側には青木氏の経歴が記してあります。生家があった松島町幡谷の松島第五小学校にも同様の碑が建てられています。
           松島観光協会案内説明より転載

  セコイヤ樹珪化木
三千年前にさかえたといわれるセコイアの化石で、現存のものは明治九年六月、明治天皇東北御巡幸のときご覧いただく為、仙台青葉城より移したものです。セコイアは世界で最も大きく、世界でも長寿のスギ科の植物で、現生樹としては、ただ二種アメリカ西部フロリダに自生しているだけです。


  奉献手水盤 松島博物館
仙台藩祖伊達政宗は寛永十三年(1636)五月二十四日歿した。霊廟である瑞鳳殿は翌年落成した。その三十年後、大修理の任を終わった柴田外記朝意は、藩の唐銅鋳物師・高田六兵衛作製のこの水盤を奉献した。家老であった外記は五年後伊達騒動で没した。瑞鳳殿は世界大戦の空襲で焼失し、戦後、水盤は観欄亭と共に伊達家より松島町に譲渡されてここに保存展示されている。

  阿吽の龍 松島博物館
玄関左右の龍は、寛永十四年(1637)に瑞鳳殿の降り棟にとりつけられた阿形・吽形の一対の龍で、高田久兵衛の作であります。

  観欄亭の大ケヤキ
ケヤキは欅、別名ツキ ニレ科ケヤキ属の落葉広葉樹 宮城県の県木にされています。
観欄亭(藩政時代の藩主等の別荘、納涼御殿、国主御茶屋とも呼ばれた)の敷地の北崖地上にそびえ立つこのケヤキは、幹の周囲が七・八二メートル、高さ三十五メートル程の巨木で、「宮城県のけやき番付」の第一位、県の横綱に推挙されました。樹齢は約八百年と推定されています。
             案内説明より
               

小峰八幡神社

八幡神社 社殿 右山王寺本堂

社殿社号扁額

参道 勢至菩薩等の石塔

山王寺 本堂

山王寺本堂前の狛犬と庫裡

天神社 新設鳥居と石段参道

狛犬

狛犬 阿形

拝殿

弊拝殿

境内社 秋葉神社

秋葉神社 社号扁額

白祐稲荷神社

稲荷社 社号扁額

稲荷社 狛狐

稲荷社 狛狐

筆塚 学問の神様

月讀尊(夜の神)
昼の神・天照大御神の弟

聖徳太子

正岡子規句碑

  子規句碑
二十一日朝 町はづれをありく。森を見かけてのぼれば果して天満宮あり。境静かにして杉古りたり。
「夏木立 宮ありさうな ところかな」 はて知らずの記」より
明治二十六年(1893)七月二十日、俳人正岡子規(1867~1902)は、東北地方旅行の折白河に立ちより、白川城址の感忠銘や白河の俳人を訪ねて一泊した。翌朝、天神山にのぼって、この句を詠んだ。
( 昭和三十二年 俳人・今井竹翁建立)  案内説明より              

阿部内膳正熈之墓

阿部家墓所

松平定業墓所

松平定業之墓

貞順院墓所

貞順院之墓

戊辰戦争供養塔
戊辰戦争会津藩十二士之墓

  阿部内膳正熈之墓
棚倉藩家老・阿部内膳正熈の墓で、戊辰戦争白河口の戦いで桜町口を守る十六人組の隊長を務めた。彼らは甲冑・槍や弓矢などの古来からの武器で戦い、仙台藩の細谷十太夫の隊(衝撃隊)とともに「仙台烏に十六大角豆(ささげ)、なけりゃ官軍高枕」と新政府軍に恐れられたが、明治元年(慶応四年戊辰)五月一日の戦いで金勝寺で戦死した。
法名 良安院殿仁譽義勇都外居士
幕末から明治期に歌人・俳人として活動した阿部秋風は父である。十六大角豆(ささげ)はマメ科の植物。莢は1mにも達するものもあり、種子(種実)が十六~十八入っている。

  松平定業之墓
白河藩主・松平定永の三男で、松平定信の孫にあたる。文化十年(1813)に生まれ、幼名を永三郎といった。健やかに育ち、定信も「才もあり云々行く末たのもしく」と将来を期待していたが、文政五年(1822)七月、熱病にかかり白河で亡くなった。
享年十  聡聴院
墓石の裏には、白河藩の儒学者・廣瀬典により死を悼む文が刻まれている。

  貞順院之墓
貞順院は松平定信の側室で、中井氏の出身と伝わっています。定信との間に二男定栄(真田幸貫)と四人の女子をもうけました。
寛政十二年(1800)に白河で死去した。享年三十三  貞順院
二男松平定栄(1791~1852)は信濃松代藩主・真田幸専(ゆきたか)の養子となり真田幸貫と名乗りました。藩主に就任すると佐久間象山を登用し、実父・定信に倣った殖産興業、文武奨励、人材育成などを中心とする藩政改革を行いました。天保十二年(1841)には老中・水野忠邦に抜擢されて老中に就任し、三年にわたって幕府政治にも関わっています。

  南無阿弥陀仏供養塔
この碑は、戊辰戦争白河口の戦いで最も激しかった五月一日の戦いで捕まり、翌日に新政府によって処刑され谷津田川に流された奥羽越列藩同盟の諸藩兵士を供養するために建立されたものです。以前は新橋のたもとにあったが、この常宣寺に移されました。なお、馬町にも同じ形の碑が建てられている。

  會津藩戊辰戦死十二士之墓
白河口の戦いで無くなった会津藩の兵士を弔った供養碑最右側は会津藩士・三坂喜代助之墓 其の左側は会津藩士・笹沼金六之墓 その他境内に多数の列藩同盟戦死者の墓がある。
              案内説明より                 

慈久山  虚空蔵堂 石柱

狛犬が鎮座 春日社?

虚空蔵堂 宝形造

金屋町氏子会館

湊川碑 大楠公ゆかりの碑?

芭蕉句碑 案内
朝よさを 誰まつしまぞ 片心

曽良句碑 案内
松島や 鶴に身をかれ ほととぎす

頼賢の碑 六角堂内に保護

六角堂横の碑 風化で難しい

左 芭蕉句碑 右 曽良句碑

句碑 歌碑が松島を望んで立つ

島内遊歩道石碑

島内遊歩道石碑

朱橋

橋の名は 渡月橋

御島真珠稲荷神社

真珠稲荷神社鳥居と扁額

坐禅堂

解脱院 地蔵堂

地蔵堂扁額

地蔵堂下 津波避難地 田町歩道橋
頑丈な歩道橋でしょうね 

小峰寺 参道

山門 銅板葺薬医門

山門 山号扁額

本堂 入母屋造本瓦葺向拝欄干付

本堂 院号扁額

一遍上人開基道場碑

鐘楼

梵鐘

六地蔵尊

枝垂れ桜 

南門 墓所入口

石碑 供養塔

庫裡

阿弥陀如来三尊
左脇侍観音菩薩 右脇侍勢至菩薩

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