東北のいろいろその8

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昭和町稲荷神社  鶴岡市昭和町3-4

鶴岡天満宮  鶴岡市神明町3-40

三光町稲荷神社  鶴岡市三光町6-15

陽光町猿田彦神社  鶴岡市陽光町15-40

新海町稲荷神社  鶴岡市新海町18-11

鶴岡市の神社その2



羽黒山三山神社   三宝荒神社   新海町八幡神社   新海町稲荷神社   猿田彦神社 


三光町稲荷神社   本町琴平神社   鶴岡天満宮   昭和町秋葉神社   昭和町稲荷神社

陸軍第八師団弾薬・火薬・武器庫
人家から隔離された明治の城門

二之丸辰己(巽 南東)櫓

   津軽藩津軽氏居城・弘前城(史跡) 昭和二十七年三月二十九日指定
弘前城は津軽藩主代々の居城で、慶長十六年(1611)に二代藩主・津軽信枚によって築かれた城である。面積約四十九万二千平方メートルを有し、本丸・二之丸、三之丸、四之丸、北之曲輪、西之曲輪の六曲輪より成り、三重の堀と土塁で廻らされた城郭である。現在城跡には、天守をはじめ隅櫓三棟、城門五棟が残されており、何れも重要文化財に指定されている。

  賀田御門跡
よしだごもん 築城当初は北門が城の表玄関で、ここにあった賀田門は、三之丸の北門として旧賀田城(旧岩木町大浦城)の大手門を移築したと伝えられている。門の内外は直進できないように折れ曲がった桝形が造られていて、堅固な構えを見せていた。

  弘前城北の曲輪北門 別名亀甲門 (重要文化財)昭和十二年七月二十九日指定
現在は搦手門(裏門)ですが、築城当初、大手(正面)の門として建設された城門です。現存する他の四棟の城門に比べて、規模が大きく、かつ、銃眼がないなどの特徴を持っています。大光城(現 平川市)の城門を移築したという伝承を持ちますが、転用材が多い事などからも、中世以来の系譜を持つことが想定される城門です。
構造: 脇戸付楼門、屋根銅瓦葺(瓦を銅板で包んだもの)

  西之曲輪未・申(坤 南西)櫓跡
西之曲輪には、西側の土塁に沿って御馬場や御矢場が造られたほか、各地の珍しい植物を植えた「御花畑」などがあった。この櫓は、宝暦六年(1756)の絵図によれば三層建てであったことがわかるが、明治三十九年(1906)に煙草の火の不始末の結果焼失した。

  埋門跡
埋門とは、石垣などの間に築かれる裏門の一形式で、延宝四年(1676)の規定によると普段は閉じられていた。石垣や土塁から上に出ることが無い門扉付冠木門が置かれることが多い。馬屋町一帯は外曲輪であったが、天和二年(1682)に川筋の整備に伴って、曲輪外の扱いとなった。現在の石垣は、紀念銘から天保年間(1831~1845)に整備されたことが知られる。

  二之丸未・申(坤 南西)櫓(重要文化財)
城郭に取り付く敵を攻撃したり、物見のために作られたもので、防弾・防火のために土蔵造りとなっている。現存する三ヶ所の櫓はいずれも三層建てで同じような形であるが、窓の形など細部の造作に違いがみられる。櫓の方向を今風に右回りで十二支で表したもので、未・申は南西にあたりる。因みに、北を子(ね)の方角といい、南を午(うま)の方角という。江戸時代下総国佐原の豪商・伊能忠敬が主目的であった地球の大きさを知るために求めた北極と南極の距離は、便利的に引いた子午線の長さの事である。また、二十四時間を十二で表すので十二支の夫々は平均で二時間の事であるが、午の時間帯は11時から13時の間をいい、太陽が午の方角の内、真南に来た時のことを正午と呼び、それを境に午前、午後と呼ぶのもその様な事からである。

  二之丸辰己(巽 南東)櫓(重要文化財)
城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られたもので、防弾・防火のために土蔵造りとなっている。一層・二層は四間四方の同床面積であるが、三層目を小さくして、屋根は入母屋造である。

  二之丸東門(重要文化財)昭和十二年七月二十九日指定
建築年代は、築城期まで遡ると考えられています。二之丸南門と同様に、一階正面の柱にケヤキ板を化粧のための鏡板として張り付けるなど、内廻りの門としての配慮がなされていると考えられる城門です。建築当初は本瓦葺でしたが、文化年間(1804~1818)に銅瓦を葺いた記録が残っています。
構造: 脇戸付櫓門 屋根銅瓦葺

  二之丸丑寅櫓(重要文化財)
城郭に取り付く敵を攻撃して里物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、銅板葺(当初はとち葺)となっている。軒下や出格子の木部は素木のままで飾り気がないが、独特の美しさを見せる。櫓の方角を十二支で示したもので、丑寅は北東(艮 鬼門)にあたる。

  二之丸東門与力番所
与力番所とは、城内の主要な箇所の見張り所として配置されたもので、藩政時代には追手門与力番所、三之丸東門与力番所など十二ヶ所に建てられていたようである。この与力番所は建築年代は定かではないが、柱や梁に残された墨書きには江戸時代初期に建てられた三之丸東門の墨書き跡と酷似し、建築手法は江戸時代中期の様相を呈していることから、古材を利用し、江戸時代中期に一度改修したものと推定される。明治廃藩以降取り壊されることもなく、そのまま放置されていたものを、大正四年頃に現在緑の相談所が建てられているその東側に曳屋移築し、以後、公園管理人宿舎や作業員詰所として使用していた。それを昭和五十四年から三ヶ月をかけ、文化庁の指導協力を得て再度復元移築したものである。

  二之丸南門(重要文化財)昭和十二年七月二十九日指定
建築年代は、築城期まで遡ると考えられています。二之丸東門と同様に、一階正面の柱にケヤキ板を、化粧のための鏡板として張り付けるなど、内廻りの門としての配慮がなされていると考えられる城門です。建築当初は本瓦葺でしたが、文化年間(1804~1818)に銅瓦を吹いた記録が残っています。
構造:脇戸付櫓門 屋根銅瓦葺

  三之丸追手門(重要文化財)昭和十二年七月二十九日指定
弘前藩津軽家四代藩主・津軽信政の代(1656~1710)に参勤交代経路が変更され、それに伴い、大手(正面)の門とされました。建築年代は築城当初まで遡ると考えられています。当初は本瓦葺でしたが、後に銅瓦葺に葺き替えられました。また、明和三年(1766)の大地震によって大きな被害を受けたことから、二層内部に素中・筋違・捨梁を入れて補強しています。
              案内説明より
           

天守台石垣修復工事

弘前城石垣修復工事へ

  弘前市古木名木

  イチョウ  幹周六百センチ 樹高約三十二メートル 推定樹齢三百年以上
このイチョウは藩政時代にあった矢場の土塁上に植えられたものと思われ、後年土塁が壊されたために根が露出することとなり、盆栽の根上がり仕立ての様になっている。イチョウは、元来気根(地上部から出る根)が発達しやすい特徴を持っており、長寿のものが多く見られる。中国原産で室町時代にわが国に渡来したと考えられている。雌雄異株で、この樹は雄木であるので実は結ばない。

  カスミザクラ  幹周百二十センチ、百十センチ 七十四センチ 樹高十三メートル 推定樹齢三百年以上
正徳五年(1715)に藩士が京都から桜の苗木を二十五本持参し、城内に植えたものの一本である。元の幹は朽ちてしまったが、ひこばえが成長して毎年美しい花を咲かせている。カスミザクラは津軽地方にも自生し、花が白いので遠くから見ると霞のように感じられることから名付けられたものである。

  ネズコ(ヒノキ科)  幹周五百五十八センチ 樹高十七メートル五十センチ 推定樹齢五百年以上
青森県が自生の北限であり、築城以前から自生していたものと思われる。ネズコの大木は全国的に珍しく、この樹はわが国でも最大級である。この樹の皮は、昔、火縄銃の火縄として利用されていたという事から、築城後も大切にされていたものと思われる。成木になると、上部でたくさん枝分かれするのが特徴である。 

  日本最高樹齢のソメイヨシノ  幹周四百十センチ 樹高九メートル 樹齢・明治十五年(1882)植樹 
旧弘前藩主の菊池楯衛から明治十五年に寄贈されたもので、現存するソメイヨシノでは、日本最古である。シメイヨシノは生長が早い割に寿命が六十年から八十年とされていたが、弘前公園のソメイヨシノは樹齢百年を超すものが三百本以上あって立派に花を咲かせていることから、その管理技術は多くの専門家から日本一と称賛されている。

  スギ(スギ科)  幹周五百十八センチ 樹高二十六メートル 推定樹齢五百年以上
スギは青森県津軽地方が自生の北限である。この樹は鷹揚園内(弘前公園)に現存するスギでは最古であり、築城以前から自生していたものと思われる市内では厳鬼山神社に推定樹齢千年以上、大沢の堂ヶ平に推定樹齢七百ん円以上の古木があり、何れも青森県天然記念物に指定されている。

  日本最大幹周のソメイヨシノ  幹周五百三十七センチ(地上1.7m計測) 樹高約十メートル
環境省が実施している全国巨樹巨木林調査により、日本最大幹周のソメイヨシノであるとされた樹である。植栽時期は最古のソメイヨシノと同じ明治十五年の可能性もあるが、少なくとも明治三十四年には植栽されていたものと思われる。
             案内説明より


                                          弘前城石垣修復工事へ          

  新海町稲荷神社
祭神は稲荷神である宇迦之御魂命(倉稲魂命)を祀る社である。神仏習合の寺院では荼枳尼天(稲の束や刈鎌・剣・宝珠などを持ち穀物の天敵鼠を狩る狐に乗る天女)を祀る。どちらも食物を司り、五穀豊穣・殖産振興・商売繁盛・家内安全に御利益があると信仰されている。

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社殿向拝 龍の彫刻

社殿

秋葉神社鳥居

  猿田彦神社
祭神・猿田彦大神は国津神(地の神)であることから、天八街に瓊瓊杵尊をお迎えし、高千穂に天孫降臨・瓊瓊杵尊を御案内したと云われています。その後、天宇受賣命と御一緒に本拠地である伊勢の狭長田五十鈴の川上の地(神宮内宮)に戻り、この地を始め全国の開拓にあたられました。そして、神宮第一の古典『皇大神宮儀式帳』等にあるように、垂仁天皇の御代、倭姫命が神宮(天孫・天照大神鎮祭地)を探しての御巡幸に際して、猿田彦大神が聖地として開拓された五十鈴の川上にある宇遅(宇治)の地をお勧めし、そこに皇大神宮(内宮)が造営されたと伝わります。
              猿田彦神社案内説明より
                

  三宝荒神社
出羽三山が蜂子皇子により開山された推古天皇元年(593)、今から約千四百年前蜂子皇子御修行の折、月山山中に三宝荒神様が現れ、大自然界から人間が学ばねばならぬ生き方を教示されたと伝えられております。其の処が月山の八合目・東補陀落の三宝荒神岳と云い、当三宝荒神神社の奥之院として修験道山伏たちを始め、多くの修行者信者が参拝しております。
この地に御鎮座なされたのは昭和三十八年であります。初代宮司・古木稔教より御奉りされ、二代目宮司・古木夏恵御神座により御神徳、御神力が広がりました。また、荒神様は仏教の仏・法・僧の守護神として各宗派の御寺・新興宗教の教団などにも崇拝されております。民間信仰として竈や火熱の神として尊崇され、家屋の台所に祀られるようになりました。
              案内説明より
              

南谷のカスミザクラ 天然記念物
若木のように見えるので何代目かの木

  二ノ坂茶屋
羽黒山の石段参道には、一の坂、二の坂、三の坂の急な上り坂があります。
なかでももっとも長く、急なのが二の坂。別名油溢し(あぶらこぼし)ともいわれ、
武蔵坊弁慶があまりの勾配に奉納する油をこぼしてしまった、と伝えられています。
そんな二の坂を登りきった左手にあるのが、二の坂茶屋です。
茶屋を営む高城さん一家はシーズン中毎日石段を登り、
手づくりの力餅やお抹茶をつくって、登山するみなさんをお待ちしています。

茶屋のおすすめは、きなことあんこの力餅とお抹茶のミックスセット七百円。
そして眼下に広がる庄内の景色です。
よく晴れた日には、日本海に浮かぶ飛島まで見えるほどの絶景。
田に水が張られた庄内平野を、
江戸時代の人々は「陸の松島」と呼んで愛でたそうです。

  羽黒山参道石段
羽黒山の入口、随神門をくぐり参道に入ると、ふっと空気が変わるのを感じるでしょう。敷き詰められた石畳の階段を下れば、遠くからせせらぎが聞こえてきます。参道沿いに立ち並ぶのは、樹齢三百五十年年から五百年を越す老杉。その中へ歩みを進めると、清々しさに満たされてくるこれが山頂まで1.7km続く、羽黒山の参道。新たに生まれ出るための産道と伝えられる山道です。
羽黒山中興の祖、五十代代別当天宥が江戸時代の慶安元年(1648)から十三年の歳月をかけて敷設しました。かつて観音菩薩を祀った由緒から石段には三十三個の彫り物が刻まれ、すべて探せば大願が成就するとも。山頂までは約一時間。それを見つけながら登るのも一興です。

  羽黒山参道杉並木  特別天然記念物 昭和三十年八月十三日指定
随身門から羽黒山頂までの一・七キロメートルの参道両側に立ち並ぶ杉並木で、右側二百八十四本、左側三百一本、推定樹齢三百年から五百年を超える老杉で、慶長初期から寛永にかけて、第四十八代宥源・第四十九代宥俊・第五十代天宥の三代に亘る別当が数十年の歳月をかけて植林したものである。

  祓川
随神門を下ると、川のせせらぎはだんだん近くに聞こえてきます。祓川(はらいがわ)と呼ばれるこの川は、その名のとおり羽黒山へ登るために身を清めた川である。戦後まもなく、まだ山頂まで車道がなかった時代まで、参拝者はみな衣服を脱いでこの川に身を浸し、清らかになって山頂までの生まれ変わりの道を歩いたそうです。

  須賀瀧
承応三年(1654)天宥別当が羽黒山から南に約八キロメートル隔てた水呑沢に堰を築き、杉ャ森の裾を巡って院主南へ引き、この懸崖に水を落としたもので、江戸時代までは不動滝とか祓川滝と呼ばれていた。明治三年(1870)初代宮司・西川須賀雄は、須佐之男命と櫛稲田姫神が結婚し、宮を建てる土地を求めて出雲の須賀の地に着いたとき、初めて清々しい気持ちになった事に因み、この滝を須賀瀧と改めた。

  羽黒山境内社
磐裂神社  祭神:磐裂神  御利益:生命力向上
根列神社  祭神:根裂神  御利益:生命力向上
五十猛神社  祭神:五十猛神  御利益:造船・豊漁・航海安全・商売繁盛・開運招福・疫病退散 
大歳神社  祭神:大歳神  御利益:五穀豊穣・産業隆昌・家内安全・開運招福・除災招福・夫婦和合・縁結び
天神社  祭神:少彦名神  御利益:国土安穏・産業開発・病気平癒・漁業守護・航海安全
豊玉姫神社  祭神:豊玉姫神  御利益:安産・子孫繁栄・農業守護・漁業守護・航海安全
白山神社(遥拝所)  祭神:菊理姫神・伊邪那美命  御利益(菊理姫神):五穀豊穣牛馬安全・縁結び  
御利益(伊邪那美命):産業繁栄・商売繁盛・国家鎮護出世開運・五穀豊穣・豊漁・家内安全・延命長寿・無病息災
祓川神社  祭神:瀬織津比咩神・速開津比咩神・気吹戸主神・速佐須良比咩神
岩戸分神社  祭神:天手力雄命  御利益:技芸上達・スポーツ向上・厄除

下居神社  
祭神:伊邪那岐尊  御利益:産業繁栄・商売繁盛・国家鎮護・五穀豊穣・豊漁・家内安全・病気平癒・縁結び
祭神:伊邪那美命  御利益:産業繁栄・商売繁盛・国家鎮護・出世開運・農業守護・漁業守護・家内安全・延命長寿
祭神:天照皇大神  御利益:国土平安・五穀豊穣・生命力向上
祭神:天八降神
祭神:句々延馳神  御利益:衣食住に徳を発揮・開運招福
祭神:彦火々出見尊  御利益:農業守護・漁業守護・畜産安全・商売繁盛・航海安全・縁結び・子宝・安産
祭神:水波女神  御利益:降雨祈願・水害阻止・治水安全・商売繁盛・子宝・安産

  注連掛け桜
祓川で禊をするとき、この桜の木に注連を掛けたことから注連掛け桜と呼ばれている。

  羽黒山の爺杉  天然記念物(国指定)  昭和二十六年六月九日指定
樹齢推定千年を超えると考えられている。根回り十・五メートル・目通り周囲八・二五メートルで、羽黒山で最大最古の巨木である。付近に婆杉があったが、明治三十五年(1902)の防風により倒木した。

  須賀瀧不動明王
不動明王は密教の佛で、大日如来の教令輪身で密教の守護神と云われている。密教の教え(大日如来の教え)に背く人々を導く悪の教えから救うために大日如来が姿を変え、憤怒の相で悪をくじき人々を教化する仏である。火焔と憤怒の相は悪を見張り、裏では密教の教えを信じ、修行するものを護るため、不動剣と羂索を持ち立ち向かう姿である。

  羽黒山五重塔  重要文化財建築物(国宝) 国宝指定:昭和四十一年六月十一日
総高さ二十九・四メートル(二十二・二メートル相輪除く)・素木造り・三間四方・杮葺き。宝塔山瀧水寺の本堂で、承平・天慶年間(931~940)平将門が建立したと伝わっている。その後幾度かの修復を経て、慶長十三年(1608)出羽国山形五十七万石藩主・最上義光による大修造が最も近いものである。現在の塔はその建築様式から文中年間(1372~1374)に建立されたものと考えられている。
明治元年(1868)の神仏分離令により別当寺の束縛から解放された?神官により廃仏毀釈を徹底され、羽黒山の寺院仏閣はことごとく破壊され、山中に残った数少ない仏教建築物である。それまでは塔内には聖観世音菩薩、宝生如来の化身とされる軍陀利明王(南方仏)などを安置していたと云われ、また、五重塔周辺には諸堂が建っていたと伝わる。
現在は千慿社が置かれ大国主命が祀られている。
祭神:大国主命  神格:国造神・農業神・商業神・医薬神
御利益:縁結び・子授け・夫婦和合・五穀豊穣・養蚕守護・医薬向上・産業開発・交通航海守護
              案内説明より
           

イチョウ

ソメイヨシノ開花 説明案内板より

日本最大幹周のソメイヨシノ



弘前城城門・櫓と弘前公園

埴山姫神社  祭神:埴山姫命  御利益:田畑開墾の守護・陶磁器業の守護・子宝・安産守護
          埴山彦命と共にあって、縁結びの神として崇敬されている
八幡神社  祭神:譽田別神(十五代応神天皇)  御利益:国家鎮護・殖産振興・勝運招来
尾崎神社  祭神:武甕槌命  御利益:武道守護・芸能上達・国家鎮護・殖産興業・豊漁・航海安全

  斎館(旧花蔵院)  鶴岡市有形文化財 (平成十七年三月六日指定)
元禄十年(1697)第五十六世住職・清海によって再建されたものである。明治時代までは三先達寺の一つとして格式の高い寺であった。この建物から見える庄内平野の景色は美しく、羽黒山八景にもあげられている。明治八年(1875)花蔵院の持ち主である花岡安記が職を辞するにあたり、この建物を神社に寄附し、神社では斎館(潔斎所)として出羽三山登拝者の宿泊施設となっている。

  羽黒山参道杉並木 特別天然記念物 (昭和三十年八月十三日指定)
山麓の随身門から山頂に至る延長一・七メートルにわたる羽黒山参道杉並木は、樹齢三百年以上を経た巨杉がならび、その樹勢がきわめておうせいである。この杉並木は、江戸時代の初期羽黒山五十代執行別当・天宥法師の造跡で、最大の物は直径一・三メートル余、直径一メートルを超えるもの百八十四本に及び、総数四百四十五本である。
杉の幹や枝を毀損しないよう心がけ国の宝として大切に愛護しましょう。参道で火のついたたばこの吸い殻を捨てたりたき火などをしないようにしましょう。

  能除太子御坐石
開山能除太子が登上の折に休憩された場所であるとか、昇天のとき召された沓がこの場所にあったことからとも伝えられている
               案内説明より

弘前城石垣修復工事



弘前城石垣工事    弘前城城門・櫓と弘前公園   



  本坊跡
二の坂を登りきると、しばらく平らな道が続きます。少し進んだ右手に、広がる緑とその中にひっそり赤い鳥居が立つのが見えるでしょう。ここは、かつて羽黒山をおさめていた「若王寺宝前院」があった場所で、「御本坊平」と呼ばれています。この寺院は奥行31間建坪662坪の大伽藍。浮島のある池には美しい蓮が咲きほこっていました。奥には石の割れ目から「石割桜」と呼ばれるオオヤマザクラを見ることができます。参道をはさんで向かいには、当時の各代別当の供養塔や石地蔵があります。
  南谷 玄陽院跡  県史跡・名勝・天然記念物  昭和二十七年四月一日指定
南谷は俳聖・松尾芭蕉が奥の細道行脚の際、門人・河合曽良と六日間逗留し、一句を吟じた場所です。今から約三百年前の寛文二年(1662)、時の第五十代・羽黒山執行別当・天宥法印が拓きました。当時、羽黒山頂には幾つかの寺院があり、本社・寂光院(今の三神合祭殿の前身)が類焼するのを防ぐため、それらの寺院を山内に下ろして移築しました。寛文二年に築かれた南谷の紫苑寺もその一つで、豪華絢爛な大寺院でありました。しかし、参道から奥に位置していたため、何かと不便だったので、自然に迎賓館のような機能を果たすようになり、いつしか別院と呼ばれるようになりました。芭蕉の滞在所にあてられたのも、こうした関係から選ばれました。その後、文政年間(1818~1830)に覚諄別当がこの地の静寂を愛し、しばしば句会を催したりしましたが、覚諄別当隠居後はほとんど足が踏み入られる事なく、庭園も荒れるに任せ、建物も荒廃、ついに雪の重さに耐えきれず倒壊してしまったので、その跡には八幡坂上(今の三の坂の上)に在った玄陽院という寺を移し、秋の峰の一の宿にあてられるなどになりました。その後、明治の神仏分離の際、すべて破壊され、今残っているのは玄陽院の一部の建物の礎石のみです。覚諄別当が建立した松尾芭蕉の「有難や 雪をかほらす 南谷」の句碑があり、最近では環境省認定「かおり風景」百選にも選ばれ、俳句愛好者も多数訪れています。また、芭蕉来山当時の南谷の風景を復元させようと地元・手向の若者を中心としたボランティアの人々により心字池などが整備・復元されたので、院を巡って池を配し、周囲の自然を巧みに取り入れ閑寂幽邃名園の面影を偲ぶ事が出来ます。
  羽黒神社境内社
日枝神社
祭神:大国主命 御利益:縁結び・子授け・夫婦和合・五穀豊穣・養蚕守護・医薬・交通航海守護
祭神:大山咋神 御利益:諸産業隆盛・家系繁栄・醸造守護

愛宕神社 祭神:日産霊神  御利益:鎮火・火難除け・郷土守護
               案内説明より

その始め鶴ケ岡城は大梵寺城又大宝寺城と云ってその起源は鎌倉時代に遡りこの地を支配した大泉氏によりなされた。室町時代の正平年間(南朝 1346~1369)、大泉氏は大宝寺の地に城を築き大宝寺氏と名乗ったと伝わる。その後文明年間(1469~1486)城郭鎮護のため京都天満宮を勧請し城内に祀ったという。よって伝承によることであり今容易に断定し難い。
その後城郭は荒廃したが八幡宮は鎮座され続けたと考えられ、会津上杉景勝、江戸時代最上義光により支配を受け、義光が大宝寺城を拡充するため城内にあった天満宮を城下に遷したという。酒井氏の延宝二年(1674)八月二十五日に現在地に遷宮した。それ以来三百五十年となるので、最初に創建されてから五百三十年になるものと推計されています。
また他には、天保十一年(1840)に由諸書上帳によれば、慶長八年(1603)最上義光公が大宝寺城城代・原美濃守に命じ、城池改築のおり、城内西門脇に在った天神社を城下五日町に遷座したと記されている。また、御正体を奉安してある御厨子の作すこぶる逸品で、総桧柾目材であることから少なくとも文明年間直前の頃が当社の創建と推定される。
その後、最上家・酒井家各代藩主の崇敬篤く、特に最上・酒井の藩侯の敬神寄進の歴史が由諸書に明記されている。天満宮は学問の神としてだけではなく、五穀豊穣・災難除けなどの祈願が広範囲にわたり、元和五年(1619)石高を増加改定されるにあたって航海安全の祈願も行った。酒井家藩主時代も海難除けの祈願が寛保二年(1742)城米二十七彼の回送にあたって以来、明和三年(1766)に至るまで二十五年間も親けられている。
また、雨乞いの祈顕も寛保二年(1742)、明和四年(1767)、文化十年(1831)、文政元年(1818)、文政七年に行われたことが記録されている。その他、明和三年(1766)清光様の奥方の病気平癒、寛文七年(1667)藩侯参勤登上の際の道中無事の祈願などが行われている。
              鶴岡天満宮案内説明より
            、

  羽黒山神社境内社
子守神社  祭神:天之水分神・国之水分神
天満神社  祭神:天満大自在天 御利益:詩歌・文筆・芸能・学問の上達、受験合格・農業守護・病気平癒
保食神社  祭神:保食神 御利益:牛馬畜産安全・航海安全・産業開発・満願出世・必勝祈願・五穀豊穣・養蚕繁栄
大直日神社  祭神:大直日神 御利益:穢れを袚う
葉山祇神社  祭神:葉山津見神 御利益:農産守護・山林守護・鉱山業守護

  随身門
明治時代までは仁王門(山門)と呼ばれ、仁王尊(金剛力士阿形・吽形像)も安置されていた。元禄八年(1695)出羽国由利郡矢島(現 秋田県由利本荘市矢島)の領主・生駒讃岐守親興が、家運繁栄と極楽往生を祈って寄進したものである。門に祀られる随身は櫛石窓神と豊石窓神で、門から侵入する災厄・疫病などを除く神で、宝暦二年(1752)六月、大仏師・大熊宮内の作である。

  天地金神社
随神門の右手前にある朱塗りのお社で、応永四年学頭法性院尊量により創建されたが兵乱のため大破し、後に羽黒山智憲院宥然により安永八年(1779)再興された。もと「元三大師像」を御本尊としてお祀りしたので大師堂と称していたが、昭和三十九年、須佐之男命をお祀りし、天地金神社となり現在に至っている。

  天拝石
この奇岩を通し天を祭ったもので、その昔修験者の行法を行った場所の石と思われている。麓桜小路安藤太美彌宅前にあったものを、昭和十六年三月移転したものである。

  松例祭引綱の由来
毎年師走に斎行される松例祭は俗に歳夜祭とも言われている。出羽三山神社御開祖・蜂子皇子命が、この地方より病魔を退散せしめて故事により、山麓山伏の内から位上、先途の二名の松聖が選ばれ、羽黒山頂の斎館で百二竹簡参篭、斎戒沐浴し、天下泰平・国土安穏・五穀豊穣・疫病退散を祈願する。
その満願の日が松例祭であり、夜を徹して繰り広げられる諸儀は、百日勤行の両松聖の修行の験力が御神意により何れの方に顕われるかを奉仕の若者によって競われる神事である。
この綱は疫病や病魔の形に模した大松明(ツツガムシ)を引いて焼き払う神事に用いられたもので、この綱をおまつりすることによって、災いが近寄らない、所謂除災招福のご利益があります。
              鶴岡観光案内説明より
           

埋門跡と石垣

二之丸未・申(坤 南西)櫓

ネズコ

カスミザクラ

日本最古のソメイヨシノ

櫓塀

場内からの亀甲門

鶴岡市寺社巡りへ 温泉その13→いろり火の里
(別ページで開きます)



鶴岡市の神社その2 

羽黒山三山神社  三宝荒神社  新海町八幡神社  新海町稲荷神社  猿田彦神社 
鶴岡天満宮  三光町稲荷神社  本町琴平神社  昭和町秋葉神社  昭和町稲荷神社 



弘前城石垣工事  弘前城城門・櫓と弘前公園



新海町八幡神社  鶴岡市新海町17-8

三宝荒神社  鶴岡市みどり町16-15

昭和町秋葉神社  鶴岡市昭和町3-18

本町琴平神社  鶴岡市本町2-13-22

三之丸追手門(重要文化財)

二之丸東門与力番所

西之曲輪未・申(坤 南西)櫓跡

賀田門跡 土塁間に櫓門が置かれ
手前右に一之門がある桝形門

北之曲輪桝形門
橋の向端に一之門(高麗門?)

櫓門と桝形



天守台石垣工事

鶴岡市の神社その2へ

二之丸南門(重要文化財)

鶴岡市の神社その2へ

万緑や 神畏能径 躓きつゝ

社務所

道すがら稲荷神社がありました

力餅抹茶セットをいただく

最大幹周

スギ


羽黒山三山神社
  
鶴岡市羽黒町手向字手向-7

神門(随身門)

随身像

随身像

南無阿弥陀仏石塔 神仏習合の名残

門前 双子大杉

天拝石

天地金神社

社号標 出羽三山神社

鳥居

鳥居扁額

社務所

いでは文化記念館

出羽三山 宿坊・橋本坊

歓迎 宿坊看板

八坂神社 明神両部鳥居

鳥居扁額

八坂神社拝殿

本殿

拝殿 松例祭引き綱

社号扁額

岩戸分神社

祓川神社

不動明王像

祓川

白山遥拝所

朱橋(神橋)

豊玉姫神社

天神社

大歳神社

五十猛神社

参道石段

根裂神社

磐裂神社

羽黒山の杉並木 特別天然記念物

杉並木参道

参道 継子坂 下り石段です

出羽三山石塔 月山・羽黒山・湯殿山

羽黒山五重塔

爺杉 天然記念物

爺杉と五重塔

注連掛け桜

下居社

須賀瀧

相輪

初重屋根

三手先木組み

五重塔正面

五重塔を見守る石仏

二ノ坂茶屋より庄内平野

二ノ坂茶屋 力餅をいただく

二ノ坂

鉄輪が嵌められた杉 
落雷に在ったのでしょうか

ゆるやかな参道杉並木

葉山祇神社

湯殿山遥拝所

切株に育った数種の樹木
勝のは誰だ!

こちらは新しい切株 
芽を出したばかりの苗木

火石

一ノ坂

大直日神社

天満神社・保食神社

子守神社

休み処が見えてきた

御本坊跡 現地案内絵図

御本坊跡

日枝神社・愛宕神社

ゆるやかな参道

多くの石仏や石塔が並んでいます

僧籍者の墓所であろう 

芭蕉翁三日月塚

出羽三山 無縁塚

  西条八十の歌碑

五十路の夏にわけのほる 
羽黒の峰の梅雨雲や
また見んことの阿りやなしや
ふり返りゆく山つゝじ 

西条八十歌碑

南谷

史跡 南谷これより五百メートル
道がぬかるんでいるので防水靴でないと

盤水句碑

月山に 速力ある 雲の峰

桂郎句碑

玄陽院仏堂跡

仏堂礎石

南谷

風雨に洗われた根 規模が違うが
兼六園にも似たような樹木が

芭蕉句碑
有難や 雪をかほらす 南谷

湿地

水辺

心字池

水草に覆われTれ心字池

水辺に立つ訳有りそうな石

休み処 東屋

別院跡より奥に続く径

切株風の腰掛

この一角だけ天井が高い

近年手入れがされているようです

尾崎神社

八幡神社

三ノ坂

三ノ坂

杉並木

埴山姫神社

右八幡神社 左尾崎神社

参道杉 樹齢五百年?

高さも一級品

十五丁道標 約千六百メートル

月山遥拝所

能除太子御坐石

特別天然記念物 羽黒山杉並木碑

手水舎

水盤

山頂鳥居

鳥居扁額 

山頂鳥居が見える

斎館

唐破風式台玄関

斎館扁額

斎館参道

旧寺院山門

斎館業務棟

参道杉並木 特別天然木難物

厳島神社 向拝柱・海老虹梁・木鼻獏

厳島神社 向拝柱龍の彫刻

厳島神社 宝形造杮葺一間向拝

厳島神社虹梁上の彫刻

神号扁額

向拝

蜂子神社 宝形造杮葺一間唐向拝

蜂子神社 向拝柱・海老虹梁

蜂子神社 向拝部軒木組み

蜂子神社 三手先「木組み

蜂子神社 向拝虹梁彫刻と獅子頭

厳島神社  祭神:宗像三神 (多紀理比売神・市寸島比売神・多岐津比売神) 
        御利益:豊漁・海上安全・商売繁盛・芸能上達・財運増大
津速魂神社  祭神:津速魂神  天兒屋根命の祖神とも云われ、火産霊神と同神とも云われている。
          御利益:火災防除・鋳鍛造工業発展・諸厄諸病祓祈願・家内安全・商売繁盛
蜂子神社  祭神:蜂子神  第三十二代崇峻天皇の皇子で出羽三山を創建した神で、旧開山堂本尊

  鏡池(神池)
東西三十八メートル、南北二十八メートルの楕円の形をした池である。山中にある池や沼は神誕生の聖地として鏡池あるいは御手洗池と呼ばれている。この池も羽黒神が姿を顕す池として鏡池と呼ばれている。この池より出土した百九十面の銅鏡は、昭和二十五年(1950)重要文化財に指定されている。
               案内説明より

            

黄色の花

石水鉢

水鉢に映る三神合祭殿

鏡池 一面に水草が繁殖している

参道燈籠

大きな台座が残っています
何が建っていたのでしょうか

蜂子神社 唐向拝

蜂子神社 神号扁額

羽黒山 三社合祀殿 
入母屋造茅葺三間唐向拝

三社扁額 月山・湯殿山・出羽神社

大棟銅板造り鬼瓦

茅葺屋根葺き替え中

霊祭殿 向拝海老虹梁・向拝柱

霊祭殿 回廊

巫女さん

霊祭殿 入母屋造銅板葺三間唐向拝

霊祭殿扁額

五三桐蟇股

参集殿扁額

参集殿

香炉舎 宝形造銅板葺

鐘楼

鐘楼

竜頭と釣金具

儀式殿

儀式殿扁額

松例祭の引き綱

  羽黒山三社合祭殿  国指定重要文化財 平成十二年五月二十五日指定
社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ二十六メートル(9丈3尺)桁行二十四・二メートル(13間2尺)梁間十七メートル(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚二・一メートル(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。
現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は三万五千百三十八人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて五万五千四百十六人、手伝人足三万七千六百四十四人、これに要した米九百七十六余石、建設費五千二百七十五両二歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足五万六千七百二十六人程が動員された。
建設当時は赤松脂塗であったが、昭和四十五年~四十七年にかけ開山千三百八十六年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。平成十二年、国の重要文化財に指定される。
月山・湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することが出来ないので、三山の年中恒例又臨時の祭典は全て羽黒山頂の合祭殿で行われる。古くは大堂、本堂、本殿、本社などとも称され、羽黒修験の根本道場でもあった。
内陣は三戸前の扉に分かれ、正面中央に月読命、右に伊氏波神(稲倉魂命)左に大山祇命,大己貴命,少彦名命を祀る。本社は大同二年建立以来、度々造替を行ない、近く江戸時代に於いては四度の造替が行われた。慶長十年、最上義光の修造を始め、明和五年に再造、二十九年を経た寛政八年炎上、文化二年再建されたが、同八年またまた炎上した。東叡山寛永寺では再度の炎上に文化十年荘厳院覚諄を別当に任じ、本社の再建に当たらせ、文政元年(1818)年完成した。これが現在の本社である。
              羽黒山HPより転載

  梵鐘  
国指定重要文化財(羽黒山寂光寺・建治元年(1275)八月二十七日刻銘) 昭和四十八年六月六日指定
鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口径一・六八メートル(5尺5寸5分)、唇の厚み二十二センチメートル(7寸1分)、また鐘身の高さ二・〇五メートル(6尺7寸5分)、笠形の高さ十三センチメートル(4寸4分)、龍頭の高さ六十八センチメートル(2尺2寸3分)あり、総高二・八六メートル(9尺4寸2分)である。
上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。

  鐘楼  国指定重要文化財 平成十二年五月二十五日指定
鐘楼は桁行一・八二メートル、梁間三・六四メートル、一重、切妻造り、茅葺
元和三年(1617)台風で倒れたのを翌年元和四年、山形城主・最上源五郎家信により再建された。寛延二年(1749)柱の根継修理が行われる。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。

  参集殿
地上二階、地下一階総床面積二千百七十九平方メートル入母屋造り銅板一文字段葺、従来の直務所の機能に参拝者の受入施設、神職養成所機能さらに儀式殿をも附設多目的な出羽三山に相応しい立派な参集殿が昭和六十三年七月二日に見事完工された。

  霊祭殿
出羽三山は往古より祖霊安鎮のお山とされ、深い信仰をあつめており、ご先祖の御霊を供養する風習が現在も盛んに行われている。単層入母屋千鳥破風五間社造りの本殿に次ぐ、荘厳な建物で昭和五十八年に再建されたものである。
天井画の「天女と龍」は熊沢富士男画伯の作品である。天女の住む天上界は八千年もの長寿が得られる世界とされ、龍神に守護されたこの世界に祖霊が昇天することを願う意味が込められている。

  松例祭引綱の由来
毎年師走に斎行される松例祭は俗に歳夜祭とも言われている。
出羽三山神社御開祖・蜂子皇子命が、この地方より病魔を退散せしめて故事により、山麓山伏の内から位上、先途の二名の松聖が選ばれ、羽黒山頂の斎館で百二竹簡参篭、斎戒沐浴し、天下泰平・国土安穏・五穀豊穣・疫病退散を祈願する。その満願の日が松例祭であり、夜を徹して繰り広げられる諸儀は、百日勤行の両松聖の修行の験力が御神意により何れの方に顕われるかを奉仕の若者によって競われる神事である。この綱は疫病や病魔の形に模した大松明(ツツガムシ)を引いて焼き払う神事に用いられたもので、この綱をおまつりすることによって、災いが近寄らない、所謂除災招福のご利益があります。
               案内説明より
               

  羽黒山東照宮  鶴岡市有形文化財 平成十七年三月六日指定
永十六年(1641)、第五十代天宥別当は徳川幕府の宗教顧問である東叡山の天海僧正の弟子となり、羽黒一山を天台宗に改宗する条件の一つに、東照権現の羽黒山勧請の周旋を申し出た。天海僧正は鶴岡城主酒井左衛門尉忠勝に働きかけ、正保二年(1645)藩主は社殿を寄進した。爾来、歴代の藩主の崇敬庇護のもと維持されてきた。
明治時代に東照宮は東照社と改められ、現在の社殿(3間5間)は昭和五十五年(1980)に解体復元したものである。天宥別当の勧請のねらいは、東照権現を山中に祀ることによって山威を高め、この頃緊張の度を加えつつあった庄内藩との関係を円滑なものにすることにあった。
              羽黒山HPより転載

  東照宮前手水鉢  鶴岡市有形文化財 平成十七年三月六日指定
東照宮建立にあたり、第五十代別当・天宥が自作し奉納したものである。四面に装飾を施し、東は波と鯉に天女、西は釣をする翁、南は牡丹に獅子、北は波に龍である。

  世界平和塔
昭和二十四年(1949)十二月八日、手向村神林茂丸氏が世界平和を願い奉納したものである。台座に乗る球は地球をあらわし、縦と横の線は日本人と外国人が手を繋ぎ平和であるようにとの願いが込められている。球は開祖・蜂子皇子を羽黒山に導いた三本足の八咫烏を戴いている。
              案内説明より
           

世界平和の塔

世界平和塔 八咫烏

杉大樹の洞から広葉樹が

卒塔婆供養

水子供養地蔵菩薩

水子供養風車

供養石塔・五輪塔

供養石塔

水子供養石塔・地蔵菩薩

社殿扉 三ツ葉葵紋

東照宮扁額 羽黒山東照宮

東照宮社殿

神門 切妻造銅板葺一間向唐門

唐門 徳川紋

東照宮手水鉢

供養五輪塔墓所

北白川房子歌碑(明治天皇七女)

高浜虚子親子三代句碑 

北白川房子歌碑

芭蕉句碑 三句

句碑の傍に立つ松尾芭蕉像

秩父宮・高松宮植樹紀念碑

記念樹と杉木立

蜂子皇子供養墓

境内相撲土俵道場

車両交通安全祈願所

茅の輪くぐり神事

出羽三山歴史博物館

手水鉢

手水舎

八坂神社

思兼神社

白山神社

大山祇神社

稲荷神社

大雷神社

健角身神社

健角身神社 下駄・下足奉納
健脚を祈願して奉納するという

健角身神社扁額

大雷神社扁額

稲荷神社扁額

大山祇神社

八坂神社扁額

思兼神社扁額

白山神社扁額

羽黒山御神木

昼くらい境内杉並木

天宥神社
羽黒山五十代執行別当・天宥法師を祀る

天宥神社向拝蟇股

天宥神社扁額

天宥神社海老虹梁と向拝柱木鼻

天宥神社側面屋根と木組み

山頂鳥居(駐車場)

山頂鳥居扁額

山頂参道

山頂境内大杉

  天宥神社  祭神:天宥霊神
羽黒山中興の祖・第五十代別当天宥法師を神として祀ったものである。
天宥は寛永七年から寛文八年(1630~1668)までの三十九年間、羽黒山の別当として一山の発展に全力を傾けた人物である。在任中数々の事業を成したが、山内衆徒との不和が原因で伊豆国・新島に流され、延宝二年(1674)十月二十四日同島にて入寂。
享年八十一

明治元年(1868)一月十五日罪が許された。
明治十三年(1880)天宥を神として祀ることが許可され、社殿の建立が許可された。
明治十七年(1884)地蔵堂を修復し神社社殿とし、天宥の命日である十月二十四日を例祭日と定めた。
大正十五年(1926)新島に葬られた墓が見つかっている。

昭和十三年(1938)四月十日、第十五代宮司・遠山正雄は新島に渡り、十日には盛大な墓前祭を執り行った。
同年九月羽黒山祓川の自然石で造った墓碑を新島に建立した。
昭和三十年(1955)現在の竹之院跡に社殿を移築し、平成四年(1992)開山千四百年を記念し現在の社殿が再建された。

  羽黒山境内社
八坂神社  祭神:素戔嗚命  御利益:水難除け・火災除け・病難除去・五穀豊穣

思兼神社  祭神:八意思兼神  御利益:家運降昌・出世開運・技術向上・学問向上・入試合格
        祭神:大市姫神  御利益:商売繁盛・家運招福・五穀豊穣
        祭神:しぎ山姫神  御利益:山の重なるところを司り守護する
        祭神:稲荷神  御利益:五穀豊穣・産業興隆・商売繁盛・家内安全・芸能向上
        祭神:天八百日魂命  御利益:事蹟不詳
        祭神:猿田彦大神  御利益:縁結び・延命長寿・災難方位除け・開運・商売繁盛・殖産興業
白山神社  祭神:菊理姫命  御利益:五穀豊穣・牛馬安全・縁結び
大山祇神社  祭神:大山祇神  御利益:農業守護・林業守護・鉱山業守護・漁業守護・航海守護
稲荷神社  祭神:保食神  御利益:牛馬畜産安全・航海安全・産業開発・出世祈願・必勝祈願
大雷神社  祭神:大雷神  御利益:農業守護・国家鎮護・殖産興業・豊漁・航海安全
謙角身神社  祭神:建角身命  御利益:健脚祈願・旅先安全
            案内説明より
          

        

社号碑

鳥居 社と比べると特大鳥居です

水口 吐水青龍

手水舎

参集殿

社務所 兼住居

三宝社殿 燈籠

社殿扁額 三寶神社

社殿

吽形狛犬

阿形狛犬

本殿

本殿 位置を変えて

社務所

社号標 八幡神社

拝殿

拝殿扁額

八幡神社 両部鳥居

鳥居社号扁額

  八幡神社
八幡神社は、主祭神である八幡神(誉田別命=応神天皇)、神功皇后(気長足姫命・応神天皇の母)、比売神の八幡三神を祀る社である。比売神は通常宗像大社に祀られる宗像三神(田心姫神、湍津姫神、市杵嶋姫神)の総称と云われている。
その他として神に仕える神官女神・玉依毘売命を祀る社もある。

大聖不動明王  酒田市新海町18-30 稲荷神社の横に鎮座

稲荷神社石塔

稲荷神社両部鳥居

玉を載せる石塔 名称は分らない

稲荷神社社殿

社殿社号扁額

社務所

三重石塔

大聖不動明王石塔

不動堂でしょうか

石が置かれていましたが?

小堂が有りました

不動明王の石仏が安置されている

猿田彦神社

鳥居扁額

社殿

社殿扁額

吽形狛犬

阿形狛犬 漫画チックな形相

寺号石標 稲荷神社

社殿

社殿扁額 正一位稲荷社

向拝 獅子彫刻

向拝柱 龍彫刻

庚申塔

除雪されていました

社号標 琴平神社

琴平神社

鳥居扁額 琴平神社

境内樹木

社殿

社殿

地主神社

八幡神社

稲荷神社

境内社

御輿殿扁額

御輿殿

稲荷神社扁額

梅の木

梅の木

参道

拝殿向拝 唐破風

本殿

絵馬

拝殿

拝殿扁額 大宰府神社

境内樹木

吽形狛犬

阿形狛犬

鶴岡天満宮

鳥居扁額 鶴岡天満宮

手水舎

社務所

社号標 大宰府神社

稲荷神社

社殿

社殿

手水舎

社殿横の松 
上は切られているが樹勢は旺盛

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二之丸東門(重要文化財)

二之丸丑寅櫓(重要文化財)

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鶴岡市の神社その2へ

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城門前 石標でしょうか

三之丸追手門

雪囲いの城内

二之丸 大枝垂れ桜

開花 現地写真より

朱橋 杉の大橋

天守台石垣 下乗橋より

天守台石垣 二之丸より

天守台石垣 本丸より

三之丸より追手門

彫沿いの桜並木

雪燈籠

弘前枝垂れ

仮転地天守

仮転地天守

天守土台 石垣に見えるが

張り子の石垣

天守 ライトアップ

天守移転 体験模型

鶴の松

御滝桜

  弘前城二之丸大枝垂れ (シダレサクラ)
この枝垂れ桜は、大正三年(1914)に宮城県人会から寄付された内の一本である。弘前公園内では最も大きい枝垂れ桜として親しまれており、さくらまつり期間中にはライトアップが施され、写真スポットとして人気があった。平成二十三年十二月二十六日の大雪により根元から倒れたが、平成二十四年一月に主幹の三分の一を切除して立てなおしたものである。殆どの根が切断されたため、再生に向けて現在治療中である。

  弘前枝垂れ (シダレザクラ)
大正三年に在弘前・宮城県人会の寄付により植栽されたシダレザクラの内の一本である。この樹は、似た環境にある御滝桜よりも開花が三~四日早く、時々花弁の枚数が七~八枚となり普通のシダレザクラとは異なることから「弘前枝垂れ」と呼んでいる。
幹周:三百七センチメートル  樹高:五・四メートル

  御滝桜
大正三年に在弘前・宮城県人会の寄付により植栽されたシダレザクラの内の一本である。この時のシダレザクラが成長して、今ではシダレザクラの名所に数えられるまでになった。この樹は、石垣の上から水面に向かい長く枝を垂らしており、故棟方志功画伯が「御滝桜」と命名した銘木である。
幹周:三百五センチメートル  樹高:七・四メートル

  鶴の松 (アイグロマツ)
鷹揚園内随一の名木である。老鶴形に仕立てられ美しく優雅な形をしているところから「鶴の松」と呼ばれている。向いの石垣の中心にも「亀の石」と呼んでいる大石があり、鶴・亀と並び称されている。
幹周:二百四センチメートル  樹高:六メートル  推定樹齢:三百年以上

  弘前城天守台含む両袖石垣修復工事
弘前城本丸東側の石垣には以前から膨らみが確認されていたため、弘前市は調査・測量を継続してきました。平成二十年からは、「弘前城跡本丸石垣修理委員会」を組織し、石垣をどのように修理するのか検討してきました。その結果、天守を曳屋し、天守台と東側石垣の膨らみ部分を中心に「解体修理」することになりました。

  弘前城と石垣
史跡・津軽氏居城弘前城跡は、弘前藩初代藩主・津軽為信により築城が計画された江戸時代初期の城郭である。築城着手前に為信が死去したため、城は二代藩主・信枚の時代の慶長十六年(1611)にほぼ完成したと伝わります。本丸東側の石垣は、築城時には一部「築掛」(完成途中)の状態でした。この部分に石垣が築かれるのは、築城から約八十年後の元禄年間(1688~1704)のことです。
その後、文化七年(1810)、現在に残る三層の天守建設に伴う天守台石垣の修築を経て、明治時代中頃、天守台下石垣の崩落が起こりました。そのまま放置すると天守まで崩落する危険性があったため、明治三十年(1897)に弘前市出身の大工棟梁・堀江佐吉が、天守を西側に曳屋しています。その後、天守台の北側に続く石垣も崩落したという記録が残っています。最終的に石垣を現在の形状に修復し終えたのは、大正四年(1915)のことでした。

  平成の修理に至るまで
明治~大正の修復以降、安定していた東側石垣ですが、昭和五十八年五月の日本海中部地震を契機として翌五十九年、石垣を定期的に測量する「定点観測」に着手しました。この観測は平成十四年度まで継続されています。
また、平成十二年度と十五年度には石垣概要診断調査を実施し、その結果膨らみが明確となり、このまま変異が進行すると地震などの衝撃により、石垣が崩壊する危険性があるとの報告を受けました。この報告を受けて弘前市は文化庁などとの協議を重ね「石垣修復計画」を策定、それを基に地質調査・変位測量・三次元測量・地下水位観測といった石垣の基礎調査に着手しました。
平成二十年度には、石垣の調査方法・修理方針などについて指導を得るため、歴史・石垣・耐震等各分野の専門家で構成された「弘前城跡本丸石垣修理委員会」を組織し、基礎調査で得られた様々なデータを基に修理の方向性について検討を重ねてきました。その結果、平成二十三年八月に石垣を解体修理する方針が決定し、さらに翌二十四年度には、修理範囲が確定しました。
具体的な修理範囲は、東側石垣南端(天守台)から北へ約百メートル、天守台石垣南側約十メートルの部分です。平成二十五・二十六年度で本丸の発掘調査を実施、平成二十七年の夏以降に天守を約七十メートル本丸の内側に曳屋した上で、平成二十八年度から石垣の解体工事に着手する予定です。明治~大正以来、実に百年ぶりとなる今回の本丸東側石垣修理は、重要文化財に指定されている天守の曳屋を伴う、全国的に見ても例のない大事業となります.。
初めに修理範囲全体の石垣を解体し、積直しは二工区に分け、南側の天守台付近から行う予定です。天守台の石垣が完成次第、天守を曳戻すとともに残りの石垣の積み直しを行います。修理期間は、平成二十六年から平成三十五年度までの十年間を見込んでいます。
                案内説明より