山梨・新潟のいろいろ3





城下町高田の寺院その2


城下町高田の神社

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高田の寺院へ

  陀羅尼八幡神社由来  祭神: 誉田別命(応神天皇)
当八幡神社の創建は、十六世紀後半上杉氏時代に春日山南方岩木村に邸宅を構えていた武将たちが、京都男山の石清水八幡宮(誉田別命 応神天皇)の御分霊を、いわきの的場今の甲山に祀った事にはじまる。しかし天正六年(1578)上杉謙信公の急死により、跡目相続争いの戦火に焼かれ、三十数年後の松平忠輝公の高田築城と共に當八幡宮も城下に移されたと伝えられている。
火の神・鍛冶の神である火産霊命の来歴については明らかではないが、大国主命は榊原家藩主が前任地播磨国姫路の鎮守・伊和大神(大国主命)の御分霊を祀ったものであるから、寛保元年(1741)榊原家の高田入封から間もない頃と思われる。
当社がここ陀羅尼町(昭和五年北本町に改称)に祀られたのもその頃らしく、その為一般に『だらにはちまん』と呼ばれるようにななった。上杉家時代は直江津の八幡社が総社であったが、陀羅尼八幡神社は榊原時代に総社になり、一合一銭の特権が与えられた。榊原藩主は供米を年々八表三斗九升四合八勺(約六百六十キログラム)を寄進することとし、また家臣たちも月々応分の供米を寄進する慣わしたったという。
明治維新には、日枝神社、春日神社(本町一丁目)、直江八幡宮、神明宮(南本町二丁目)などとともに市街の五大社といわれ、城下町の産土神として重んぜられたようである。
神社の建築様式は、切妻造平入りの社殿を二つ前後に並べてあるのが特徴である。八幡宮で明治時代の再建、現在残っているもので一番古い資料は御手洗の水盤である。寛政八年(1796)遷宮の際、寄進されたことが記されている。御輿は皇紀二千六百年記念事業として、昭和十五年に寄付金にて造られたものである。
  陀羅尼校の跡 (現神楽殿)
明治五年(1872)に定められた学制に基づき陀羅尼校が当社境内に開設され、東本町小学校の前身である高田第二尋常小学校が明治二十八年に現在のところに統合新築されるまでの二十数年間、地域指定の初等教育に重要な役割を果たした。
            八幡神社案内説明より

境内

本殿

秋葉神社

秋葉神社 社号扁額

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高田の寺院へ

本堂

本堂 新築

善福寺

高田の寺院へ

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城下町高田の神社


日枝神社   神明宮   榊神社   真福稲荷神社   直江八幡神社   稲荷神社   宇賀神社



八幡神社   五ノ辻稲荷神社   大町稲荷神社   乙吉稲荷神社   土橋稲荷神社   春日神社

  五ノ辻稲荷神社祭神
稲荷神(宇迦之御霊神)
五穀豊穣を司る神で、商工業などの生産に関わる仕事の守護神。  
  少彦名神
大国主命と共に国造りを進められた神で、医術を起こされた。淡島神社(淡島明神)、東京神田神社(神田明神)の祭神でもある。
  菅原天神
菅原道真公を祀り天満宮とも称し、学問、武術の神。受験期には特に参詣者が多い。
  境内摂社 雁田神社
子授け・開運・満病平癒を司る神。信濃国水内郡若槻村(現 長野市若槻)の蛟里田(蚊里田 かりた 雁田)八幡宮より勧請する。「むすび」の霊力を授けられる造化三神(天津国に最初に現れた三柱)。(天之御中主神・あめのみなかぬしのかみ 御産巣日神・たかみむすびのかみ 神産巣日神・かみむすびのかみ)

  五ノ辻稲荷神社縁起
現在から四百年ほど前、松平上総介忠輝公が、高田の地に城を築きました。それから高田は大きな城下町として栄えてまいりました。しかし、それ以前の高田の町はそれほど大きくはなく、古い記録によりますと、大町五丁目あたりが「高田村」としてその中心地だったとされております。
そして、この町の真ん中には大きな榎がありそれを町の中心に位置する「先代の遺木」と皆が呼んで崇めていたそうです。(越後騒動の際には城受取りに来た越後村上藩主榊原政倫がこの榎の根本に腰を下ろし、城と町の様子を見たとあります。ちなみにこの木は二百五十年近く前の安永年間まで残っていたそうです。)
その木の下には祠があり、「榎稲荷」と呼ばれておりました。その後、高田城の追手前にあった「社」が合祀され、享保年間には中島大炊介藤原義康が、伏見稲荷より勧請を受け、幾柱かの神さまとともに祀って神殿を建てました。それが今日の「五ノ辻稲荷神社」です。また、「先代の遺木」は、現在も御祭神の下にその切り株を残していると言われております。
           案内説明より                 

  榊原康政公
康政公は徳川四天王の一人で、幼少より家康公に仕え、十六歳の時三河国・上野の合戦で笹穂の槍をふるい武名を轟かせ、先陣の功により諱を賜り、康政と改名した。智勇兼備、忠誠無二、はかりごと帷幄に運らし、コ川三百年太平の基を翼成した。また、小牧長久手の戦いにおいて軍檄を草し、豊臣秀吉公の心胆を寒からしめた。後上野国館林十万石に封ぜられ、慶長寿一年五月十四日歿した。
享年五十九  「養林院殿上誉見向大禅定門」
           案内説明より

浄土宗 終南山見松院善導寺
参照: 旅行見聞録→群馬栃木のいろいろ→館林市→終南山善導寺

  関町神明宮  祭神:天照大御神
天正十一年(1583)蜂ヶ峰城(春日山城)に創立された。その後上杉景勝が陸奥国会津に転封、その後に入封した堀秀治は直江津福島に築城することとなり、慶長十二年(1607)、秀治の子・二代福島藩主掘り忠俊の代に福島城に移った。その際蜂ヶ峰にあった春日神社、神明神社その他の社殿を福島に遷座させた。
慶長十五年(1610)松平忠輝が越後福島に七十五万石で入封すると、高田築城に取り掛かり、その際、神明社も福島より新城下に再遷座した。松平忠輝慶は長十九年(1619)高田城に入城し高田藩を開府した。
           案内説明より

石祠 
寺院などに祀られていたものでしょうか

稲荷神が四社殿に祀られている各地に鎮座した社殿を遷座したものでしょう
四基の鳥居の形や材質が悉く異なっているのは面白く感じるが、神の統一感がないが、寛大な神様なのかもしれない。
一般には二番目の明神鳥居が稲荷神社ではよく見かける。

  猫又稲荷神社(土橋稲荷神社)
正式名称は土橋(つちはし)稲荷神社。別名「猫又稲荷」と称するのは次の謂れがある。

天和年間(1681-1684)の頃、重倉山というところに体長九尺にもおよぶ化け物「猫又」が住み着き、里に下りてきては家畜ばかりか人も襲い危害を加え村人は外出もままならなかった。そこで人々は高田郡代所へ訴え出て、岡当治郎兵衛が役人に弓鉄砲を持たせ、村人も合せて総勢千人余りを引き連れて退治に向かった。
中ノ俣という場所で化け物と遭遇して戦うが、矢も鉄砲の弾も撥ね返すような身体で、全く歯が立たない。そこへ中ノ俣に住む吉十郎という強力で大男が村人に懇願され退治を申し出てきた。単身で挑んだ吉十郎は長い死闘の末、遂に化け物を仕留めたのである。しかし自身も深手を負い、村人の介抱の甲斐も無く息絶えてしまったのである。
退治された化け物は郡代所の前に置かれ、人々が見物に来たが、子牛ほどの大きさの猫であった。この後、化け猫の死骸は土橋稲荷神社に埋められ供養されたことで人々から「猫又稲荷」と呼ばれるようになった。、
           上越タウンジャーナル、その他より転載

  榊神社由緒
明治四年、廃藩置県が行われ、高田藩有志が藩祖(上野国館林藩初代藩主)榊原康政公を祀る神社建立を思い立ち、広く領内より募金をあつめ、社名・榊神社として認可を得た。明治九年一月対面所(現在地)跡に社殿を建立した。神器に康政公の鎧、冑、刀剣類を保存する。
明治三十九年十月八日県社に昇格し、以後三代忠次公(陸奥国白河藩主)十一代政岑公(播磨国姫路藩主)十四代政敬公(越後高田藩主)を合祀、現在に至っている。
            案内説明より
                



臨済宗妙心寺派 法林山正輪寺
  
上越市南本町3-10-12



浄土真宗本願寺派 真木山流源寺 
 
上越市南本町3-10-32

  瑞泉寺の「時の鐘」
瑞泉寺の鐘は高田城下に時刻を知らせた鐘で、寛文九年高田藩主・松平光長の母・勝子(高田姫)が鍋屋町(東本町五)の大鐘屋土肥左兵衛に鋳造させたものである。馬出町東角(大町二)の町年寄・吉田家の屋敷に設置し、日時計で時刻を測り鐘を撞いた。その音色は、世に「高田に過ぎたるものは、犬、寺、道心、時の鐘」の一つと謡われている。
瑞泉寺の梵鐘は明治の火災で形を失ってしまったため、明治九年にその時の鐘を譲り受け、幾多の危機を乗り越え、現在も「時の鐘」と称して祭事日にはその美しい音色を響かせている。
             案内説明より
                   



浄土真宗本願寺派  瑞泉寺  
上越市南本町3-9-13



浄土真宗大谷派 長徳寺 
 
上越市本町1-6-8



日蓮宗 妙音山顕本寺
  
上越市仲町1-4-5



浄土真宗大谷派 浄照寺
  
上越市仲町1-3-18



日蓮宗 榮樹山法顕寺 
 
上越市大町4-3-24



浄土真宗大谷派 穐岳山得願寺 
 
上越市大町4-3-28



浄土真宗大谷派 杉臣山光運寺 
 
上越市本町6-3-5



曹洞宗 高田山浅渓院 
 
上越市仲町6-3-30



浄土真宗大谷派 岩木山等正寺 
 
上越市北本町2-1-38



浄土真宗大谷派 本覚寺
  
上越市本町7-4-17

名号石  南無阿弥陀仏



浄土宗  金谷山大仙寺 
 
上越市東本町1-2-25



曹洞宗 水光山眞慶寺
  
上越市東本町2-4-1

本堂 宝形造桟瓦葺一間向拝



浄土真宗大谷派 安養寺 
 
上越市東本町3-4-72

無縁墓石供養塔 ?會一處



浄土真宗大谷派 羽林山照蓮寺 
 
上越市東本町4-3-60



曹洞宗 長盛山嘉楽院 
 
上越市北城町3-4-8

  金子大榮生家 大谷大学名誉教授
明治十四年(1881)五月三日、最賢寺住職・勇榮の長男として生まれました。少年期はこの地で過ごし、中学四年の時に高田を離れて真宗京都中学に編入学しました。明治三十七年(1904)真宗大学を卒業しています。
その後、高田に戻り布教と郷土の子弟の教育に専念していましたが、著書「真宗大谷派の教義及び其の歴史」が世に認められ、大谷大学教授に迎えられました。この間、宗教誌「精神界」「見眞」「佛座」の刊行などにかかわり、仏教界の発展に心血を注ぎました。昭和三年(1928)、教義の解釈上の問題から大谷大学を去りましたが、昭和十七年(1942)再び大谷大学教授に復職し、昭和二十四年まで教鞭をとりました。
以後も、思索と執筆を続け、「金子大榮選集」ほか、数多くの著書を残しました。仏教哲学一途に燃焼した生涯は、仏教界はもとより、日本哲学の道においても高く評価されている。昭和五十一年十月二十日入寂
享年九十五
            案内説明より
               



浄土真宗大谷派 善福寺
  
上越市南本町2-12-29

高田の神社へ

高田の神社へ

  春日神社由緒  祭神: 天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売神

天徳二年(958)当時の国府府内一般の鎮守の神として、蜂ケ峯(現 春日山)上に勧請された。北朝・貞治年間(1362〜1367)、上杉憲永は越後の国を賜り蜂ケ峯に築城し当社を城内鎮護神として崇敬した。後に上杉謙信公在城するにおよび築城増築に際し、城の鬼門の守り神として蜂ケ峯の麓に移され、蜂ケ峯を神社名をとり春日山と称するようになり、城を春日山城と称するようになった。天文二十二年(1554)謙信公除地(年貢免除地)十八石を付与、および神輿を納めた。
慶長十二年(1607)四月、春日山城主堀忠俊は春日山城を廃し福島城(上越市港町 現 古城小学校)を築くや、城の守り神である春日神社も新城下の春日町(現 上越市春日新田)に移し勧請した。慶長十九年(1614)、松平忠輝は福島城を廃し高田城(上越市本城町)を築城の際も、同じく新城下の竪春日町(ここ上越市本町一丁目)に当社を勧請した。
明治五年、村社に列し、同七年二月さらに第八大区小五区の村社に列す。
             http://niigata-jinja.jugem.jpより転載
                   
  春日町(春日神社)に伝わる「倶利伽羅不動尊御旗」の由来

永禄三年(1560)三月二十八日、上杉謙信公が越中へ出陣の途中、名立・筒石海岸まで進んだところで海が大荒れし行く手を阻まれた。困った謙信公は海が鎮めることを祈願した。すると不思議なことに筒石山の西南の雲の中に「倶利伽羅不動尊」(剣に龍が巻き付いた不動明王の化身)が現れ、大荒れの海も忽ちに鎮まったという。
謙信公は大変喜ばれ、能生の権現堂に参拝し、早速、絵師・狩野直信を呼ばれ倶利伽羅不動尊像を描かせたという。翌、永禄四年(1561)甲斐の武田信玄と戦った信濃國更級郡川中島での戦いの時は本陣とした関山の下鳥家の床の間にその倶利伽羅不動尊像を掛け奉り戦いに臨んだ。そして見事に勝利した謙信公は、林泉寺六世・大室和尚にこの「倶利伽羅不動尊御旗」の開眼供養を仰せ付けられた。倶利伽羅不動尊は、後の大火災や大干ばつの際も大雨を降らせて人々を助けたと云われる。
(この「御旗」は大変ご利益があるので「龍」の字で表し、主に戦いの際に用いられたという。
元亀元年(1570)謙信公は領内の人々の家内安全・商売繁盛・五穀豊穣・子孫繁栄を妙高山上の三尊の弥陀に祈願することを思い立ち、林泉寺六世・天室和尚にこの「倶利伽羅不動尊御旗」を捧げ持って御自身の代わりにお参りする事(代参)を依頼した。「御旗」のお供は春日町に命ぜられ、他にも領内の村々から一村一名が小旗を持ってお供をし、その数千三百五十九本という実に盛大なものだったという。
その後、本城の移動(春日山城→福島城→高田城)の度毎に春日町と春日神社も移りましたが、ここ高田城下町春日町(現 本町一、南本町三)は、この「倶利伽羅不動尊御旗」を大切に受け継ぎ、謙信公亡き後もその意を継承し、代参登山の歴史行事を今なお途切れることなく実施している唯一の誇るべき地域です。
            案内説明より                   

本殿

拝殿唐向拝彫刻

拝殿

一之鳥居 参道

神橋

二之鳥居 奉納燈籠

社殿

狛狐 修復成る

鳥居 参道

明神鳥居

狐狛犬 狛狐

鳥居 参道

稲荷神社扁額

本殿

自治会会館 祭礼社務所



大町三丁目稲荷神社
  
上越市大町3-3-9

高田の神社へ

大東亜戦争戦没者慰霊碑

観音堂

観音堂

高田の神社へ

御輿殿

御輿殿

御輿殿

神馬舎

国技 相撲処

境内樹木

弊本殿

拝殿 扁額

拝殿

遊郭開設紀念碑
明治四十二巳酉五月建立 場所?

吽形狛犬

阿形狛犬

参道鳥居

自然石燈籠

凱旋紀念碑 明治三十七年〜三十八年
日露戦役



八幡神社 
 
上越市北本町2-1-11

社殿 祭礼の準備中でした



稲荷神社
  
上越市東本町2-1-23

高田の神社へ

  直江八幡宮由緒  祭神: 誉田別命(応神天皇)
康平年間(1058〜1064)源義家が父・・陸奥守鎮守府将軍源頼義と共に阿倍氏討伐の時戦勝を祈願して勧請したと伝わる。その後、義家から四代の孫源義経が、兄頼朝に追われ陸奥国平泉に向かう途中、武運長久を祈願したという。
天正年間上杉謙信に篤く保護されたが、謙信死後の内乱(御館の乱 上杉景勝と上杉景虎)のため焼失した。乱後越後を統一した上杉景勝により社殿を再建し、景勝会津移封後に入部した堀秀治によって社殿が整備された。関ヶ原後の慶長十五年(1610)福島城に入封した徳川家康六男・松平忠輝は海に近い場所を嫌い、内に入った高田に築城を開始した。その際、高田城の北斗にあたる現在地に社地を得て移転した。
           案内説明より
                

社殿

社号扁額

境内社 稲荷神社

社務所

拝殿扁額

弊本殿

唐破風正面扁額

拝殿

直江「八幡宮

鳥居扁額 〇〇神社  〇〇の字は?

手水舎

境内樹木

扁額

社殿 祭神:宇賀廼御魂命

手水舎

境内社 何れも祭神は分らない

境内社

境内社 石板の参道

社務所

舞楽殿

境内樹木

境内樹木

境内



榊神社 
 
上越市大手町4-12

高田の神社へ

二之鳥居

一之鳥居

社号標

拝殿向拝彫刻

狛犬

狛犬

従軍兵士像

日露戦役従軍紀念碑



神明宮
  
上越市南本町2-6-30

高田の神社へ

三峯神社

菅原神社

庚申宮 庚申信仰(庚申塔)を祀る

神馬

神馬舎

日枝神社 拝殿

日枝神社 本殿

社務所

稲荷神社

稲荷神社

稲荷神社社殿

稲荷神社社殿懸魚の狐

境内社

高田の寺院へ

  芭蕉句碑
「景清も 花見の座には 七兵衛」
この句は、松尾芭蕉が武士たちの花見を、通りすがりに見て詠んだものと思われる。「景清」とは平家の侍大将で「悪七兵衛景清」と言われた人並み外れた剛勇の士のことであり、「悪七兵衛と呼ばれた景清のような強意武士でも、花見の席ではただの七兵衛になって花見を楽しんでいるようだ」という内容の句で、翁草に掲載されている。
宝暦十三年(1763)、地元南本町の俳人で、芭蕉の孫弟子と言われる南嶺庵らによって建てられた句碑である。芭蕉は、正保元年(1644)伊賀上野に生まれ、俳句の道を志し、二十歳の頃に初めて俳書に掲載された。寛文十二年(1672)江戸へ出て創作活動を続け、奥の細道はじめ多くの紀行を残し、元禄七年(1694)五十一歳で他界した。
           案内説明より
                    

高田の寺院へ

本堂

正輪寺

お堂の向拝彫刻

境内樹木

境内樹木

無縁墓供養塔

庫裡

参道花木

庭園

本堂

明厳寺の奥にあります

上宮寺

高田の寺院へ

本堂

本堂 扁額

庭園

客殿・庫裡

瑞泉寺

境内庭園

境内墓地

無縁墓供養塔

庫裡

本堂向拝 龍の彫刻

長徳寺

本堂 虹梁と向拝柱

南無妙法蓮華経石塔

庫裡

本堂

高田の寺院へ

庫裡

本堂

浄照寺

高田の寺院へ

納骨堂でしょうか

庫裡

本堂

西光寺

土蔵造りの経蔵 覆い屋

施無畏与願印の如来石像
腰より下は失われている

境内墓地

本堂 入母屋造桟瓦葺一間向拝

願重寺

本堂

光照寺

高田の寺院へ

本堂 鬼子母神堂

扁額

境内花木

境内花木

本堂

山門

地蔵菩薩像 紅を付けている

地蔵堂

庫裡

本堂 妻側より

本堂

林西寺

本堂 寺号扁額

本堂

等正寺

高田の寺院へ

庫裡

納骨供養塔

境内樹木

高田の寺院へ

庫裡

地蔵堂

水子地蔵菩薩

本堂 扁額

本堂

金光寺

高田の寺院へ

庫裡・会館

高田の寺院へ

照行寺

本堂

本堂向拝

庭園

庫裡・会館

本堂向拝天井画

地蔵堂

地蔵菩薩

地蔵堂

高田の寺院へ

地蔵堂

墓地

山門

高田の寺院へ

本堂・庫裡

嘉楽院

地蔵堂 七地蔵損

高田の寺院へ

大銀杏



浄土真宗大谷派 最賢寺
  
上越市南本町3-4-18

高田の寺院へ

境内樹木

庫裡

墓地

常念寺

本堂・庫裡

墓地

境内樹木

二宮金次郎像 
学校にあったものでしょう

芭蕉句碑 宝暦十三癸未十月十二日
南嶺庵連中建と刻されている

草花

庫裡

親鸞聖人像

本堂向拝彫刻

境内樹木

庫裡

境内墓地

樹木

庫裡

境内墓地

六地蔵尊

境内樹木

墓地

地蔵堂

聖観世音菩薩

境内樹木

高田の寺院へ



真福稲荷神社
  
上越市東本町3-4



五ノ辻稲荷神社
  
上越市大町5-5-2



浄土真宗本願寺派 乗原山明厳寺
  
上越市南本町3-10-35

本堂 入母屋造桟瓦葺

本堂 入母屋造桟瓦葺三間流向拝

山門 主柱と控柱の間が雁木の歩道



浄土真宗大谷派 岡田山林西寺 
 
上越市仲町6-4-28



浄土真宗大谷派 金光寺 
 
上越市本町幸町2-2

名号石 南無阿弥陀仏 読める?



浄土真宗大谷派 春日山雲妙寺
  
上越市東本町3-2-51

本堂 切妻土蔵造妻入り向拝

大銀杏樹幹 気根が多い

南無阿弥陀仏 無縁墓石供養

鐘堂のような物倉

人物像を載せた大きな石塔がある



浄土真宗本願寺派 南樹庵常念寺
  
上越市南本町1-4-8

社務所

薬師堂 薬師如来

菅原神社 天満宮

狛犬

狛犬

手水舎

社殿扁額

  乙吉稲荷神社の由来
元弘・建武の時代(1331〜1336)新田義貞の長子・新田義顕がこの地方を領有していた頃、藤原乙吉麿という人が、、稲荷の社(祭神・宇迦之御霊神 農業の神)を建立したいと思い、全国神社の総管理者であった吉田兼澄に願い出て土地を賜り、この神社が造られました。
それから数百年、南北朝より戦国騒乱の世にかけて、上野國・新田、安房國・里見両氏(新田氏・里見氏は同族)の深い崇敬をうけながら、人々の心のより処として、祭祀の灯を絶やすことなく受け継がれてまいりました。慶長十九年(1614)高田築城に伴なう住民の強制移転(斐太地区乙吉)の際にも社殿は動かされず、その後も長く風雪に耐えて人々の篤い信仰を集め、地域繁栄の基盤として今日に至っております。
江戸幕府が開かれる前からある神社で、現在でも元の場所に鎮座しているのはこの神社だけであり、昭和元年からは、毎年奉幣使(勅命により幣帛を奉幣する使者)が参向されるという貴い実績がありました。現在の社殿は昭和三年に再建されたものです。
           案内説明より                

本殿

社号扁額

拝殿

町内奉納御輿

御輿殿 

石祠

社務所

吽形狛犬

稲荷神社

稲荷神社2

子安神社

稲荷神社

稲荷神社2

子安神社

吽形狛犬

阿形狛犬

境内樹木 サクラ

高田の神社へ

御輿殿

扁額

御神木

境内

石祠

雙輪館 (榊原家資料館)

神饌所

東参道鳥居

榊原康政公墓所

本堂

境内樹木

地蔵堂

西宮神社 扁額

諏訪神社 扁額

三峯神社 社号扁額

天満宮扁額

庚申宮 扁額

稲荷神社 

御輿

御輿殿

阿形狛犬

吽形狛犬

稲荷神社 社号扁額

瑞泉寺境内にあります

いづみ幼稚園

境内墓地

境内樹木

鐘楼

鐘楼 鐘はない

如来堂

本堂向拝 彫刻

庫裡

境内

傍の神明鳥居

御輿殿

境内墓地

庫裡

庫裡

境内墓地

安養寺

本堂と墓地

境内墓地

高田の寺院へ

コスモスのお堂

裏(南)門

墓地

最賢寺 大銀杏と金子大榮生家

城下町高田の寺院その2

  大仙寺と名号石の由来
大仙寺は浄土宗にして総本山知恩院の末寺、金谷山寶池院大仙寺と号す。室町時代の永享元年(1429)曇冏の開基。当初境内は東西三十五間、南北七十四間の除地である、別に隠居寮、道心寮の二寮を有していた。春日山時代は、吉田周防守(諏訪入道)の菩提所であったが、後酒井家の菩提所となった。
元和二年(1616)十月、酒井左衛門尉家次が高田藩酒井家初代藩主として十万石を領して入府、長子忠勝が信州松代藩に転封までの二年六ヶ月の間、當山が菩提寺となる。家次藩主たること一年六ヶ月、五十五歳にて薨去。その際葬儀を執行し解脱号を授与した。幾度かの火災で文献資料を焼失、詳細は不詳。
門柱横の三メートル余の高さを誇る名号石は、念仏の行者・徳本上人(1758〜1818)が當山で教化の記念として、文化十四年に建立されたものである。和歌の達人でもある徳本上人は、紀伊国日高の生まれ、不断念佛に精通し大乗仏教の奥義を究めてから各地を巡錫、多くの人達に法然上人の念仏の教えを広めた。
文化十三年(1816)八月、五十九歳の時、越中から糸魚川を経て當山に錫を留め、自筆や木版刷りの名号を施与し日課念仏を誓約させた。南無阿弥陀仏の名号石はこのときの感激が結集されたものである。巡錫の地にこのような碑が建てられ、全国各地に約千基があると言われる。独特の書体は徳本上人ならではのものである。
             案内説明より
               

  墓地移転完工記念碑
善念寺の墓地は三百有余年本堂の南・中島田圃に臨む処にあり。昭和三十九年春、高田市都市計画北城土地区画整理事業が起こり、基幹線街路によって墓地境内が分断されることになり、関係門信徒はいち早く期成同盟会を以て縣・市に要請する事十数回、調査研究を重ね昭和四十年夏、円満に了解の上境内東側の田畑を埋立て現墓地を造成し四十一年移転を完了した。
整然とした有縁墓・三百二基、無縁塔に合祀した二百二十九基、更に四十二年五月市の直営工事にて舊墓地(旧墓地)整地中に出た火・土葬の九百餘を無縁の碑に納めた。関連して山門の改修、経堂、石碑の移転、本堂の補強などを行い、庫裡の改築を以てすべてを完了
その間、市当局及び石材組合の絶大な厚意と共に同盟会役員、世話人の功績また甚大にて、実に寺檀の大事業であった。此処に墳墓関係者、檀信徒の浄財を以てこの記念碑を建立したものである。
         昭和四十二年七月
碑文転載
              



浄土真宗本願寺派 専念寺
  
上越市南本町1-4-8

高田の神社へ



乙吉稲荷神社
  
上越市大町2-73-1

高田の神社へ

拝殿

拝殿 奉納燈籠

稲荷神社

雁田神社

雁田神社社殿

拝殿

手水舎

鳥居 参道

参道 奉納燈籠

手水舎

八幡宮石塔

参道

石祠

福善稲荷神社

扁額

拝殿

宇賀神社  祭神:宇迦之御魂神



宇賀神社 
 
上越市東本町1-3-47

高田の神社へ

社殿

手水舎

稲荷神社

境内の顕彰碑・記念碑?

土蔵造り建物 

高田城大手門礎石

本殿

拝殿 社号扁額

拝殿

榊神社由緒書

社号標

鳥居

拝殿 向拝彫刻

拝殿

手水舎

石祠

鳥居の先に多くの祠がある

日枝神社(日吉神社) 三猿

諏訪神社

西宮神社

日枝神社 社号標

日枝神社

日枝神社玉垣



日枝神社
  
上越市寺町3-1-19





浄土真宗本願寺派専念寺   浄土真宗本願寺派常念寺   真宗大谷派善福寺   真宗大谷派最賢寺  



曹洞宗嘉楽院   真宗大谷派善念寺   真宗大谷派雲妙寺   真宗大谷派照蓮寺   真宗大谷派安養寺 



曹洞宗眞慶寺   真宗大谷派照行寺   浄土宗大仙寺   真宗大谷派金光寺   真宗大谷派本覚寺 



真宗大谷派等正寺   真宗大谷派林西寺   曹洞宗浅渓院   真宗大谷派光運寺   真宗大谷派得願寺 



日蓮宗法顕寺   真宗大谷派光照寺   真宗大谷派願重寺   真宗大谷派西光寺   真宗大谷派浄照寺 



日蓮宗顕本寺   真宗大谷派長徳寺   浄土真宗本願寺派瑞泉寺   浄土真宗本願寺派明厳寺



浄土真宗本願寺派上宮寺   浄土真宗本願寺派流源寺   臨済宗妙心寺派正輪寺



直江八幡神社 
 
上越市東本町4-3-100



浄土真宗本願寺派 安寧山上宮寺 
 
上越市南本町3-10-34

浄華堂 納骨堂でしょうか?



浄土真宗大谷派 愛宕山西光寺
  
上越市大町1-4-29



浄土真宗大谷派 願重寺 
 
上越市西城町3-13-8



浄土真宗大谷派 光照寺 
 
上越市西城町3-11-36



浄土真宗大谷派 放光山照行寺 
 
上越市東本町1-3-48

本堂・庫裡
善念寺と同じ地内に在る、旧塔頭寺院でしょうか

墓地移転に伴う無縁墓石供養塔

墓地移転完工記念之碑



浄土真宗大谷派 白鳥山善念寺 
 
上越市東本町3-2-51

本堂向拝 龍の彫刻

本堂 左に大銀杏

本堂 入母屋造銅板葺一間向拝



春日町春日神社 
 
上越市本町1-6-22



土橋稲荷神社
  
上越市大町1-3-33

高田の神社へ

拝殿破風扁額

拝殿扁額

社務所

神楽殿

高田の神社へ

東参道 社号標

手水舎

手水舎 水口

  日枝神社由緒  祭神:大山咋命
仁寿三年(853)越後権守坂上正野が関川東岸(直江津の対岸)の衾野に、近江国坂本に鎮座する日吉大社の御分霊を勧請したことに始まる。慶長三年(1598)領主の堀秀治が衾野に福島城を築き、春日山城から移った。その際、社地が城内に含まれることになったため、城内の鎮守として崇敬された。

次いで領主となった松平忠輝が入城していた福島城から高田に築城し居城を移すと、当社も高田城下の裏寺町に遷り、高田城鎮護および城下三十ヶ町の総鎮守とされた。
寛文五年(1665)地震で社殿が大破し、現社地に遷座する。寛文九年年(1669)正一位を授けられる。明治六年(1873)村社に列格、明治十五年年(1882)郷社に昇格、さらに昭和八年(1933)県社に昇格した。
           案内説明より
                

日枝神社 拝殿

手水舎

日枝神社

稲荷神社社殿

稲荷神社 社号扁額

左稲荷神社  右八幡神社

二つの祠

境内樹木

奥行が長いお堂です

何のお堂でしょうか

地蔵堂

高田の寺院へ

本堂 寺号扁額

本堂

流源寺

高田の寺院へ

梵鐘

鐘楼

高田の寺院へ

高田の寺院へ

顕本寺

高田の寺院へ

南無妙法蓮華経石塔

山門 一間薬医門

高田の寺院へ

庫裡 リホーム中

本堂

得願寺

高田の寺院へ

高田の寺院へ

高田の寺院へ

本堂

本覚寺

本堂

大仙寺

庫裡

眞慶寺

本堂

高田の寺院へ

庫裡・会館

本堂

照蓮寺

庫裡

高田の寺院へ

梵鐘

鐘楼

最賢寺

庫裡

庫裡

本堂

専念寺

墓地

高田の神社へ

境内樹木

阿形狛犬 下顎が欠損していた

阿形狛犬

吽形狛犬

境内樹木

境内墓地

境内墓地

庭園

墓地

墓地

庫裡

本堂 宝形宝珠

境内樹木

境内樹木

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鳥居 参道

社号標 真福稲荷神社

拝殿扁額

本堂

浅渓院

高田の寺院へ