高田城の廃城と陸軍第十三師団
高田城は、慶長十九年(1614)徳川家康の六男、松平忠輝が築城し、本丸・二之丸・三之丸を合せ、十九万坪(約五十八ヘクタール)がありました。しかし度重なる地震や火災の被害を受け明治四年(1871)に廃城になり、城や池は陸軍省の所有となりました。
明治二十三年(1890)に政府は軍事費を得る為高田城の売却を決め、旧藩主である榊原家に払い下げることになりました。旧高田町は明治四十年(1907)に第十三師団誘致の為、榊原家から城や池を買戻し、陸軍に献納しました。陸軍第十三師団は明治四十一年十一月に入城を始めましたが、師団の入城の前に行われた大土木工事によって、土塁は崩され、堀の一部は埋められ、二之丸、三之丸の区画は無くなりました。
本丸の構造と三ヶ所の門
高田城の本丸郭(城の中心部で城主の生活していたところ 本丸御殿)は、静真郭御殿と呼ばれました。現在の広さは東西215m、南北228mありました。形状は鬼門除けや内桝形門などの関係で複雑でしたが、土塁の入隅・出隅、屈曲などを活用して御殿配置がなされました。桝形土塁の無くなった現状よりも、御殿用地はかなり狭かったと思われます。
鬼門とは、鬼の出入りする方角とされる北東(丑寅 良)の称で不吉とされ、城の場合は角を潰して変形にしました。高田城は大掛かりな鬼門除けの工事を行っています。本丸の虎口(出入り口)は、本城御門(南門)、東不明門(東門)、北不明門(北門)の三ヶ所ありました。南門と東門は内桝形門で、北門はカギ形門でした。現在の西からの入口は明治以降に切り開かれたものです。
桝形とは、出入り口になる所を土塁や石垣で四角に囲って区画し、その上に土壁、櫓などを築き防備を固めた施設です。カギ形門とは出入り口は基本的に桝形と変わりはありませんが、広場を設けず、道幅に拡、峡を付通り難さに防御の重きをおいたもの。郭の内側に設ければ内桝形と呼ばれ、郭の外側(出丸・外曲輪)に設けると外桝形と言います。高田城の本丸御殿は、江戸幕府の天下普請にふさわしい立派な御殿と云われています。
本丸・極楽橋
極楽橋は、コ川家康の六男・松平忠輝が慶長十九年(1619)、高田城築城完工入城しました。その際に二之丸から本丸に通ず木橋とした設けられたものです。明治四十一年(1908)に高田城を拠点とするべく入城した陸軍第十三師団によって土塁が切り崩され、それを以て堀も埋立てられ本丸と二之丸は陸続きとなった結果、極楽橋はその姿を消しました。
現在の橋は、高田公園開園五十周年及び上越市制三十周年(昭和四十五年市制施行)を記念して、平成十四年に復元されたものです。因みに上越市発足前の高田市は明治四十四年、上越市は昭和二十九年に市制施行がなされている。
極楽橋の復元にあたっては、古文献、資料及び発掘調査などにより可能な限り旧形状を再現するよう努め設計を行いましたが、すべてを木造とし旧形態を忠実に復元することは、安全性、構造耐力、法規制、維持管理などの面から様々な問題を生じる為、目に見えない構造の根本となる部分は鉄筋コンクリートやPHCパイルを使用した“近代的工法”を採用し、直接目に見えたり、手に触れる部分は木材や石などを使用した“伝統的工法”を採用し、復元を行いました。復元工事を行う前に行った発掘調査では、三列に整然と並んだ極楽橋の橋脚の一部が見つかっています。
本丸跡
高田城は慶長十九年(1614)、高田の菩提が原(ぼだいがはら)の地を主郭にコ川家康の六男・松平忠輝が築城した七十五万石(諸説あり 配下・与力諸藩を含める)の大規模な近世城郭でした。本丸は内堀(薬研堀)と土塁に囲まれ、現状では堀幅40〜50m、平均水深5m程あり、土塁は比高10m前後で総延長約1000mありました。石を用いず二ヶ所の内桝形門と一ヶ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁でした。
現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、この中に城主の御殿や多くの政庁の建物が存在していました。天守を造らず、塁上には南西隅の三重櫓を「御三階」と呼んで城のシンボルとし、他に多聞櫓二棟、矢倉台一ヶ所、御茶屋台一ヶ所等が設けられていました。この高田城も、寛文五年(1665)の高田地震、宝暦地震(1751)、善光寺地震(1847)及び享和二年(1802)の火災などに遭い、その都度規模が縮小されましたが、明治三年(1870)の火災によってふたたび焼失し、以後再建されませんでした。
高田城は、慶長十九年(1614)から八家十八代の城主が交替し、二百五十七年間続きましたが明治四年七月十四日の廃藩置県令によりその幕を閉じました。明治四十一年(1908)の陸軍第十三師団入城の際土塁が切る崩され城跡は変形しましたが、基本的な原形は保存されており、新潟県の史跡に指定されています。
三重櫓(御三階櫓)
高田城三重櫓は、本丸南西隅の土塁上に構築され、当時は「御三階櫓」と呼ばれて天守に変わる城の象徴になっていましたが、廃城後、明治十九年(1886)頃取り壊されました。平成五年に復元されたこの三重櫓は資料調査と発掘調査の成果を十分踏まえて再建されたものです。
内容は三層三階で、東西五間(約9.1m)、南北六間(約10.9m)を基底とし、高さ15m程で外観は御殿風造りを基調としています。屋根は一層・三層が入母屋、二層が寄棟形式で、一層・三層に切妻屋根の出張り(千鳥破風)を付けています。一階・二階は展示室で、三階は展望室になっています。櫓の東側に付随して50m程の塀も同時に再建されました。
国友末蔵翁顕彰像
国友末蔵翁は明治十四年京都に生まれる。明治三十九年京都帝国大学を卒業直ちに上越電気株式会社の技師長に赴任、後専務取締役に選ばれ、次いで越後電気中央電気株式会社と拡大するに従い、終始天の恵みの開発に心血を注ぎ、関川水系を悉く電化し且つ野尻湖に揚水貯留して発電・灌漑用水の完全利用を大成せられた。
これより上越地方の工業並びにに農業著しく進展して、世人皆その徳を仰いだ。さきに藍綬褒章の栄に浴し、又高田市発の名誉市民に推薦された。ここに電源開発五十周年に當り、この像を建立して偉功を讃える。
案内説明より
小林古径邸 (国指定登録有形文化財)
小林古径邸は、文化勲章受章建築家(元東京藝術大学教授)・吉田五十八氏が古径の依頼により設計し、京都の宮大工棟梁・岡村仁三氏が施工・完成した木造二階建・数寄屋造りの住宅です。大正九年、古径は東京都大田区馬込の農家を改造した画室を設けました。昭和九年、その画室の隣接したところに設計・吉田五十八設計、棟梁・岡村仁三によって新築されました。その後は大田区が管理し、建築後約六十年を経た平成五年一月、早稲田大学の調査によって惜しまれながら解体されました。
上越市は平成七年に本邸の解体部材を購入し、解体時に作図された図面に基づいて平成十年九月、高田城二の丸跡内に復原工事を行いました。また、古径の作品制作の場であった画室をあわせて復元し、平成十三年春に完成しました。施設は本邸と、画室、庭園で構成されています。本邸・画室には古径の作品や資料も展示されています。また、一階二十五畳の画室は、主として日本文化に関する活動にお使いいただけるよう貸出しをしています。ご利用の際は、事前にお申込ください。
小林古径の居宅は、現存する数少ない吉田五十八の数寄屋建築の初期作品として日本建築史の上でも重要な建築物であり、当時の文化人が好んだ数寄屋住宅例であります。また、伝統の技を継承していた当時の宮大工の高い施工技術力を伝える建物として、古径芸術とともにこの建築物を市民によって保存し、後世に伝えるべく努めています。なお、小林古径邸は隣接する小林古径記念美術館と一体的に運営されています。あわせてご観覧いただくことによって、小林古径の業績や人柄をより深く知ることができます。
小林古径邸は、平成十七年四月に国の登録有形文化財として認められ、あらためて古径芸術の高次元での影響力を再認識できることと思います。
http://www.city.joetsu.niigata.jp→小林古径美術館より転載
町家交流館高田小町
町家交流館高田小町は、明治時代に建築された町家「旧小妻屋」を再生・活用した交流施設です。 集会、イベント、文化活動のほか、城下町高田のまちなか散策の休憩・案内所としてご利用ください。二つのギャラリーでは、高田の歴史や雁木などの展示をご覧いただけるほか、定期的に音楽ライブや絵画・写真等の展示も行っています。
新潟観光ナビ案内説明より
お馬出し公園の謂れ
「馬出し」とは、城郭の出入り口(虎口)につくられ、敵の侵入を防ぐために設けられた施設です。高田城の「馬出し」も、正面玄関である大手門を守るための大切な場所でした。高田城の築城(慶長十九年 1614)と共に造られたものと考えられています。
この公園が周辺の住宅地より低い位置にあるのは、昔ここが「馬出し」の堀だったからです。「馬出し」は城の内と外を結ぶ接点で、周辺には公の施設も多くありました。絶えず人馬が行き交う城下で一番の賑わいを見せる場所でした。
今はなくなってしまった「馬出し」の地名を残そうと、まちづくり市民団体「お馬出しプロジェクト」の活動により、二千十二年「大町公園」は「お馬出し公園」に名称変更されました。
お馬出し公園 五郎八紅葉植樹
五郎八姫は仙台藩主・伊達政宗の長女で、高田藩初代藩主松平忠輝に嫁いできました。松平忠輝改易後仙台に帰り、仙台で没しました。平成二十四年、大町公園と呼ばれていた名称を「お馬出し公園」に変えたとき、五郎八姫にちなんで、イロハ紅葉を植樹しました。
案内説明より
大手橋端の明治天皇高田行在所碑
建国記念日制定記念碑石塔
旧師団長官舎
この建物は、旧陸軍第十三師団の第三代師団長・長岡外史中将が「師団長官舎」として明治四十三年に建てたものです。旧所在地は、南城町三丁目(高田高校の西隣)でしたが、老朽化したため、初代と二代目の師団長が居を構えていたと云われている「旧市長公舎跡地」に移築・復元したものです。
解体・移転・復元に際しては、古記録・古写真・痕跡などにより、出来るだけ建設当初に近い形にすることをめざし、門柱および建具の一部や家具・カーテン・洋室の照明器具なども当時の写真によって再現しました。また、外壁の塗装色も科学的分析により、最初に塗られたペンキの色を採用しました。アプローチ、前庭、後庭の珍しい下がり池などによって構成される回遊式庭園とも調和したこの「旧師団長官舎」は、市内に残る数少ない明治期の洋風木造建築物であり、貴重な歴史的遺産として保存・活用し、市民の「明治期のアルバム」として後世に残すことにいたしました。
長岡外史中将
この胸像は、明治四十三年六月から二年七ヶ月の間、当時の旧陸軍第十三の師団長を在任し、また、上越市が日本のスキー発祥の地となった基を築いた「長岡外史中将」の像です。明治四十四年一月、中将はこの地を訪れた当時のオーストリア・ハンガリー帝国の軍人・レルヒ少佐に、スキー専修将校を対象としたスキー術の伝授を要請し、レリル少佐による指導がこの地で始まりました。
これが後に「日本スキー発祥の地上越市」を全国的に決定付ける歴史的瞬間でありました。その後軍隊だけではなく、広く民間に普及させるため、日本スキー倶楽部を上越市に創設し、さらに、全国に支部を設けるなどスキーの普及と発展に務めました。
また中将は、櫻をこよなく愛し、その育成に務めました。桜の名所百選の地に選ばれ、日本三大夜桜とも云われる高田公園の桜の美しい景観の礎も中将が築いています。
胸像は、本山白雲の作で、ご遺族から寄贈されたものです。これを受け、有志の方々が中将の業績を永く伝えようと、昭和五十年十月十三日、高田公園内に設置されました。その後、旧師団長官舎の移築、復元に伴ない、ここに移設したものです。
案内説明より