案内説明より富澤山超願寺
初め加賀国(能登を除く石川県)に真言宗寺院として創建された。能登に法印栄智が、吉崎御坊(福井県あわら市)で本願寺蓮如上人の直弟子となり浄土真宗に改宗した。その後、佐渡、五十嵐浜(西区)から三転して元和五年(1619)に新潟へ移転した。
明和六年(1769)の火災で類焼し、蓮如上人から賜った聖徳太子像も罹災したが、不思議にも焼け残ったお首を胎内に納めた「お胎籠りの太子像」を造立し奉安している。
梵鐘
鐘楼
庫裡 会館
庫裡
経蔵
庭
庫裡
本堂 山号扁額
本堂
聖観世音菩薩(魚籃観音菩薩)左と
文殊菩薩(渡海文殊菩薩)右
實源山眞淨寺
親鸞聖人から法名を賜わった明慶房が、建暦二年(1212)信濃赤沼郷(長野市)に堂宇を建立開山した。戦国時代・川中島合戦等の度々の戦火で各地を転々とし、慶長二年(1597)新潟に移り、元和元年(1615)現在地に移転中興した。本堂は天明六年(1786)十月、二百両の工費で建立され、西堀寺町の中では最も古いと云われる建築物になっている。平成六年(1994)に修復し、現在に至っている。
案内説明より
法光山長照寺
肥前國長崎または京都で開山されたと云われている。天正三年(1575)第十一世・日長上人の代に篤信家「若狭入道大塩常安」の招きにより新潟にて中興開基した。古くは大圓寺と称したが、慶安二年(1649)第十三世・日言上人の代に「法光山妙玄院長照寺」と寺号を改めた。大塩常安は天正年間(1573〜1591)新潟湊をめぐる上杉景勝と新発田重家の戦いで、玉木屋大隅と力を合せ白山城攻略に功を立てた豪商で、常安が境内地三千三百坪を寄進して立てたと云われている。
案内説明より
浄土真宗本願寺派 鳥屋野院北山浄光寺 新潟市中央区西堀通5番町836
曹洞宗 海嶽山宗現寺 新潟市中央区西堀通7番町1569
高野山真言宗 片桐山吉祥院 新潟市中央区東堀通13-2949
浄土宗 海上山大悲院龍照寺 新潟市中央区横七番町通1-4524
天皇陛下即位二十年記念樹
境内樹木
浄土真宗本願寺派 興徳山長音寺 新潟市中央区夕栄町4494
開運稲荷神社 社号標
一之鳥居
二之鳥居
曹洞宗智泉院
智泉院の境内は歌手の小林幸子さんの実家があった場所として、NHKのファミリーヒストリーで取り上げられた。戦後、ここの境内に小林精肉店を開店、業績は好調だったという。幼少のころから歌がうまく、歌番組で小林幸子の歌を聞いた音楽関係者からスカウトされ鮮烈なレコードデビューを果たした。時短くして新潟地震に見舞われた小林精肉店は事業の継続を断念、東京に移り、音楽活動の後押しをすることになったという。その後、長く低迷気があったが、「おもいで酒」がヒットし復活を果たし、現在に至っている。
境内社 祭神:天鈿女命 猿田彦命
願掛けの狛犬阿形
願掛けの狛犬吽形
湊稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂大神、 大己貴神、 天鈿女命、 保食神、 太田神
平成二十八年、湊稲荷神社は御鎮座三百年の佳年を迎えました。享保元年(1716)、初代宮司・前川三城が、出羽國米沢の稲荷神社より勧請、新潟の地にこの地を開拓するようにとの御神託を授かり御鎮座されました。江戸時代末期より花柳界の信仰を集めて、通称「道楽稲荷様」と呼ばれております。現宮司は新潟に遷座されてから十二代目にあたり、米沢鎮座から数えて三十三代目にあたります。
湊稲荷神社は高麗犬を廻して願掛けをする「願懸の高麗犬」があることで知られています。昔、遊女が港から船乗りが出て行かないよう、高麗犬の向きを変え強風を呼び込み、荒天祈願をしました。いつしか、ここには様々な願いを持った人が訪れる場所となっています。全国的にみても例を見ることが無い廻る高麗犬は、台座と高麗犬像に軸を差し込み、像と台座との間に0.5p程の隙間を置くことで、回転できる構造になっています。
願懸けは、男性は向かって右の高麗犬(阿形)を、女性は左の高麗犬(吽形)を、願い事を念じながら廻し、諸願成就するのが習わしです。現在の高麗犬像は三代目になります。寛永七庚午年(1630)銘の二代目は風雨にさらされ、願掛けのため頻繁に廻されたため、損傷が激しく、平成七年より拝殿の中に安置されています。
二代目の高麗犬像は新潟巣有形文化財第一号に指定されております。また、平成二十九年新潟 北前船寄港地 船主集落の日本遺産構成文化財に指定されました。
湊稲荷神社HPより転載
また現地の案内板には次の由来が標されている。(願懸け高麗犬と道楽稲荷様の由来)
新潟港が船江の港として栄えた昔、海運業者は湊稲荷神社の森を目当てに船を進め、入港しては海上安全、船運長久を祈願した。かくて、海運業者の崇敬加わると共に上陸した船乗りたちは花柳界に遊び、その夜遊女に送られ船に帰るのが新潟の風俗であった。
たまたま船出に際し、遊女は別れを惜しみひそかに当神社の願懸け高麗犬を廻して、西の方角に犬の頭を向け、西風が吹き港口が荒れ海がしけて船が出帆できず、その夜再び遊びに来てくれることを祈願したと云う。「道楽稲荷様」という通称の由来も、この遊女たちの願懸けの信仰から来たものである。新潟市有形民俗文化財第一号指定の「願懸け高麗犬」は往古より遊女の祈願は勿論のこと、様々な願いを掛けて廻されてきた。伝承によれば男は右側の、女は左側の高麗犬を願事を心に念じながら廻し、諸願成就を祈願したと云う。
豊光稲荷大神さまの由来
豊光稲荷神社は、新潟証券取引所の前身である新潟米穀取引所が昭和九年十一月に新潟市上大川前通十番町にビル新築の際、京都伏見稲荷大社から御分霊を勧請し、ビル屋上に奉斎した。その後、上大川前通八番町の新ビルへの移転に伴い、昭和六十二年十二月遷座祭が執り行なわれた。以来六十五年の長きに亘り証券業界の守護神として篤い信仰を受けてきたが、平成十二年の新潟証券取引所の閉鎖により湊稲荷神社の境内の一角に平成十一年十一月五日、奉遷し鎮座ましました。
案内説明より
ここにある高麗犬の像は二代目の制作年代が寛永七年の銘が記されていると云う。それから約四百年、同じ寿命とするとそれより遡ってさらに四百年、八百年前と言えば鎌倉に幕府が置かれた頃。一代目は存在しないとしても二代目の高麗犬像は湊稲荷神社が創建する前約百年間はどこに安置されていたのでしょう。また、初めから「廻る高麗犬」として存在していたのでしょうか?、或は途中で加工され「廻る高麗犬」となったのでしょうか。但し、これらの事はあくまでも湊稲荷神社の由緒書きによるものであって信ずることは疑いのある所ではある。さらに、四百年間廻し続ける事は当時の製作精度技術や耐摩耗技術の点からも有得ないとも思える。ともあれ、興味のある事柄ではある。
浄土真宗大谷派 實源山眞淨寺 新潟市中央区西堀通2番町774
正道山妙覚寺
元禄九年(1696)、本覚寺(西堀通6番町)第四世・戒善院日尊を開基とし、寺町の鏡ヶ淵と称する沼畔に鬼子母神堂として建立されたと伝えられている。元誠院日教の代(1711〜1715)に現在地に移転建立された。現本堂は、明治二十八年(1885)に建立されたものである。
案内説明より
浄土真宗大谷派 富澤山超願寺 新潟市中央区西堀通2番町783
曹洞宗 金青山瑞光寺 新潟市中央区西堀通3番町797
真光山善導寺
浄土宗総本山・京都知恩院の末寺として、和泉国(大阪府の一部)出身の開山岌讃によって天文三年(1534)に開かれた。後奈良天皇に召されたが、越後国に赴き、新津の善導(秋葉区善導町)に寺を建立し、後に現在地に移転した。元禄時代、松尾芭蕉が北陸回遊のおり、立ち寄られたことを偲び、後人が「蓑塚」を建てたが、大正六年(1917)に宗現寺(西堀通7番町)へ移設されたと伝えられている。寛政年間(1789〜1801)、第十八世・興雲和尚は能筆で知られ、弟子には書家・巻菱湖、画家・鉄龍がいる。
案内説明より
鳥屋院北山浄光寺
承元元年(1207)親鸞聖人越後配流のおり、伊夜比古庄鳥屋野の里にこられ、これが我が引法の地と草庵を建て念仏を説かれる。建歴元年(1211)草庵を浄光寺と号されて、翌年弟子善覚を浄光寺の留守とし上洛後、遠近各地を巡り布教された。 承久三年(1221)に聖人に聖人常陸より再びこの地に来たり、善覚を後任と定められる。同年七月順徳上皇佐渡遷幸の折、当寺へ御幸し給い、鳥屋院の宸翰勅額その他御物を賜り勅願所とされた。 蓮如上人遺徳記に「宝徳元年(1449)三十五歳の折、北山浄光寺に入り給い、なお尊跡を見給いて感涙を交え給えり」とあり、また明治二十九年(1896)十二月、明如上人御消息を賜う。 鳥屋院北山浄光寺は、鳥屋野の草庵で慶長十年(1605)現在地へ移された。
http://www.najiranet.com より転載
長岡山本覚寺
京都本圀寺第三世・摩訶一院日印上人(三条本成寺開祖)の弟子である安住房日源聖人を開山とする。貞和五年(1349)始め蒲原の津にあったが信濃川出水害のため、十世・日継上人のときの天正十年(1582)の頃に現在地に移転したという。 現本堂は大正十一年(1922)大客殿は昭和三年、庫裡書院は昭和四十一年、経王殿は昭和四十六年の建造になる。
本覚寺二十三世・日長上人は本圀寺三十一世に、本覚寺三十四世・日昇上人は池上本門寺六十二世に、また、三十八世・日任上人は平賀本工寺五十二世に瑞世す。また安政期の勤王志士竹内式部は累代当寺の壇越であった故、現在その祠堂あり。経王殿は本覚寺稲荷様とて古来新潟名所の一つであり霊験顕著である。
http://www.najiranet.com より転載
日蓮宗 長岡山本覚寺 新潟市中央区西堀通6番町883
對嶽山正福寺
創建年代は定かではない。一説には常陸国(茨城県)那珂西郡中田村に創建、親鸞聖人の直弟子・教念(布川門徒教導)によって開山されたと伝わる。その後、信濃国(長野県)高井郡和田村、越後國袋津村(新潟市江南区)、曽川村(江南区)と移った後、慶長年間(1596〜1615)第十三世・明覚の時、新潟町に移った。
境内には江戸時代の歌人・松来満志女の墓 幕末・明治期の画家・本間翠峰の墓 明治期の歌人・日野資徳の墓、及び、新潟で最初の西洋医療が行われたことを記念する施蘭薬院跡の碑がある。
案内説明より
浄土真宗大谷派 對嶽山正福寺 新潟市中央区西堀通7番町1548
金潮山真城院
鎌倉時代、鑁照阿闍梨によって開創され、元亀二年(1571)葉海僧都の時寄居城主・寄居土佐守の祈願所となっていた。明治十三年(1880)の火災で本堂他諸堂を焼きつくしたが、現在は本堂内陣中央に大日如来、向かって左に地蔵菩薩、右に札所本尊の千手観音菩薩、摩利支天、歓喜天が祀られている。
弘法大師越後二十一ヶ所四番札所 越後三十三観音第二十五番札所 新四国八十八ヶ所霊場
案内説明より
真言宗智山派 密語山真福寺 新潟市中央区西堀通9番町1612-1
八幡神社
白鳥神社
神楽殿
真言宗智山派 椿澤山宝亀院真光寺 新潟市中央区西堀通9番町1612
浄土真宗大谷派 廣澤山泉性寺 新潟市中央区10番町1632
曹洞宗 吉塚山大仙寺 新潟市中央区田中町5178
弘長山本明寺
慶長元年(1596)三月、真宗大谷派から北眞淨寺(西堀通二番町)境内に開基。寛永年間(1624〜1644)、洲崎町(古町通十二番町)に移転した。延宝六年(1678)本明寺第四世・圓及の時に真宗大谷派から西本願寺派(本願寺派)に改宗するが、宝暦年間(1751〜1764)本明寺第六世・圓壽の時に再び浄土真宗大谷派に帰参した。
案内説明より
浄土真宗大谷派 弘長山本明寺 新潟市中央区古町通12番町2881
助賈地蔵院 新潟市中央区古町通13番町2927
曹洞宗 浮洲山興源寺 新潟市中央区附船町1-4352
神明鳥居
社殿
社殿扁額
永代供養墓
境内墓地
供養墓碑
本堂 向拝柱木鼻の獅子頭
本堂
本堂大棟 鬼瓦 懸魚
山門 桟瓦葺四脚門
山門
寺号扁額
本堂 宝形造桟瓦葺唐向拝
寺号標
向拝寺号扁額
本堂向拝
向拝柱木鼻獏の彫刻
境内墓地
三社稲荷神社 伏見、豊川、大友
歴代住職供養墓と歴代塔
歴代住職供養墓
弘法大師と石仏
庫裡
三重石塔
不動明王
不動明王
六角石堂 永代供養墓?
三界萬霊地蔵大菩薩
本堂
親鸞上人像
長照寺
本堂
境内の庭
いろいろな供養塔
合同永代供養墓
経王殿
本堂
本堂 入母屋造桟瓦葺妻入唐向拝
壁漆喰仕上げ
燈籠 竿と火袋は新しい
明治五壬申年
境内新築中 木造二階建一部三階
参道樹木
境内墓地
納骨堂?
本堂 山号扁額・對嶽山
本堂 海鼠壁の腰壁
寺号標 参道
歴代住職供養墓
有縁無縁三界萬霊塔
無縁墓石
宝形造桟瓦葺唐向拝
宗門標
越後三十三観音第二十五番札所
阿弥陀三尊像
左脇侍観音菩薩 右脇侍勢至菩薩
六地蔵尊
観世音菩薩
納骨堂
経堂
参道石庭
本堂 入母屋造桟瓦葺三間向拝
参道の緑
寺号標
本堂
寺号標
梵鐘
鐘楼
本堂向拝
境内墓地
参道
山号標
本堂
境内墓地と樹木
六道地蔵尊
弘法大師像
庫裡 信徒会館
門扉 獅子彫刻
寺務所
宗門標と順徳帝祈願所碑
船江神明宮 新潟市中央区東堀通1番町500
庫裡
本堂
庭
参道
阿弥陀如来
無縁納骨堂
庫裡
信徒会館
本堂
吉塚山大仙寺
昭和四年(1929)中蒲原郡横越村沢海(江南区)の曹洞宗専門僧堂大榮寺第二十九世・耕雲珍龍大和尚禅師が現在地に新潟曹洞教会所を構えられた。敷地は吉塚イチという実業家の屋敷であったが、珍龍大和尚に帰依し、寺に寄贈した。昭和二十七年(1952)教会所から宗教法人・大仙寺になり、昭和三十年大仙寺第二世中興・大徳龍仙大和尚が現在の本堂を建立された。
案内説明より
大榮寺別院(教会所)跡
稲荷神社
豊川、伏見、恵徳、妙法を祀る
歴代住職供養墓
吉塚山観世音
有縁無縁供養墓?
亀趺
亀趺座の六面石幢墓碑
庫裡
境内墓地
白山神社 新潟市中央区1番堀通町1-1
山号扁額
題目碑
庫裡
大山祇神社
如意輪観音と供養塔
秋葉神社 新潟市中央区古町通11番町1688
竹内式部先生顕彰碑建立の由来
住吉神社からの風景
案内板の昔の写真より
境内庭
庫裡
千躰地蔵堂
向拝虹梁 龍彫刻
本堂 入母屋造桟瓦葺一間向拝
柱門
宗門標
参道中程にある保育園
拝殿扁額
拝殿 金狐
慶安年間に奉納されたと云う 金箔の痕が残っている
金狐
四之鳥居
四之鳥居扁額
社殿
向拝 虹梁
向拝 海老虹梁 向拝柱
寺号銅板標札
本堂 虹梁の彫刻
有明山願隋寺
願隋寺は長岡にて創建されました。享保十八年(1733)長岡藩より新潟に領地を与えられ、寛保元年(1741)新潟に諸堂を建立移転した。藩政時代、境内に屋敷地があって、寺はそこを町人に貸し、借りた町人のことを「門前名子」と呼んでいました。敷地、建物の規模は大きく格式の高い寺であり、横門前(正門はあったのでしょうが、藩主や勅使などの位の高い人が利用し常時は閉門?)には下馬札が立っていました。そのため、奉行(長岡藩新潟奉行、後幕府新潟奉行)も笠をとって籠から降りたと伝わっています。
安政五年(1858)、安政の五ヶ国条約によって、開港五港(函館、新潟、神奈川、兵庫、長崎)の一つに選ばれた新潟は、欧米諸国の関心を集めました。翌、安政六年(1859)二月、江戸幕府から新潟奉行に対してオランダ船が来航するとの連絡がありました。この来航に備えて新潟奉行は、湊口近くにある大きな建物であった願隋寺を、外国使節と応接する場所に撰び、表門等の必要な施設を造りました。
ところが、四月二十二日に初めて新潟に来航した外国船はオランダ船ではなく、港の水深と町の様子を探りに来たロシアの軍艦・ジキット号でした。オランダの軍艦・バーリー号が来航したのはその翌日でした。上陸した船長たちは、市中を見学した後、願隋寺で休息をとり、幕府奉行所の役人と会談しました。画家・井上文昌(1818〜1863)は、相次いで来航した外国船の様子を「新潟湊之真景(1859)」に描いています。また、十月にはイギリス船二隻が新潟に来航し、その船長ら三人と奉行所の役人が願隋寺に於いて筆談で会談をしています。願隋寺は、新潟における対外交渉の最初の「玄関口」でありました。
親鸞聖人舊迹碑
境内には親鸞聖人舊迹之碑がある。願隋寺の創建は判らないが、親鸞聖人が流罪となったのは越後國の国府(現 上越市)であったので、その元寺は上越市に開かれた草庵であったのかもしれないので、創建は古く鎌倉時代の初期・約千二百年頃。また、越後国で帰依した長者が開基した寺に立ち寄ったのかも知れませんのでそれが願隋寺の元寺か?
案内説明より
チーター並の俊敏そうな狐 吽形
阿形
船江稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂大神
北陸瓦斯(株)新潟支社の敷地内に鎮座されています。新潟県は石油で約六割、ガスで約七割を生産する日本一の産油県である。新潟県で産出されるガスの内北陸瓦斯がどの程度の割合かはわからないが、この稲荷神社はそのガス産出に感謝し供給体制の安全を願い勧請し奉ったと伝わっている。いわゆる屋敷の神で、祀られた神が稲荷神(宇迦之御魂大神)であった。境内は綺麗に清掃がなされているので、北陸瓦斯が担当していると思える。この大事な作業を外部の人にやってもらうことはないと感じるが本当のところはどうでしょう。
開運稲荷神社 新潟市中央区四ツ谷町3-5132
鳥居
手水舎
社殿前鳥居
本堂
標札
境内社 新地観音新潟地震の津波で
流れ着いたものを祀っている
豊光稲荷神社
境内社
庫裡
六地蔵 海川遭難萬霊塔
地蔵菩薩
豊照稲荷神社 御祭神 豊受姫命
越後國蒲原郡新潟湊の住民・本間次右衛門が文政十二年(1829)稲荷神を勧請して敷地内に社殿を建立稲荷神社を創立した.。
勧請した稲荷神社の詳細は伝わっていないと云う。その後、嘉永四年(1851)稲荷神社創立者・本間次右衛門を合祀、豊照稲荷大明神の神号を賜わったと伝わる。慶応四年(明治元年・1868)、本間家敷地内に在った稲荷神社を現在地に遷座、同時に現在地に祀られていた御嶽神社(蔵王権現)を合祀した。
その後、明治政府の神仏分離令により蔵王権現を分離、現在に至っている。稲荷神社の祭神・稲荷神・宇迦之御魂神と豊照稲荷神社の祭神・豊宇気毘売命(伊勢外宮祭神豊受姫命)は、共に穀物・食物・豊作などの神として祀られることから同一視されたものと思われる。
案内説明より
智恵の狛犬
穀物倉の狛犬
観海上人塚
如来、馬頭、聖観音、地蔵、明王
本堂
真言宗豊山派 鏡智山大圓寺 新潟市中央区新島町通3ノ町2288
新潟市の寺院
大圓寺 善光寺 興源寺 智泉院 願隋寺 長音寺 龍照寺 浄信院
吉祥院 助賈地蔵院 薬王寺 本明寺 往生院 大仙寺 泉性寺 林松寺
蒲原浄光寺 真光寺 真福寺 真宗寺 傳教寺 勝楽寺 真城院
宗現寺 勝念寺 正福寺 淨泉寺 本覚寺 法雲院 長照寺 北山浄光寺
善導寺 真剣寺不動院 法音寺 瑞光寺 超願寺 妙覚寺 眞淨寺 本浄寺
曹洞宗 智泉院 新潟市中央区元下島町4630
御神木 トネリコ(モクセイ科)
幣殿本殿
舞殿(神楽殿)
明照山傳教寺
応仁二年(1468)越前國(福井県の一部)坂井郡矢地村にて創建された。開基は蓮如上人の弟子・法教坊で、出身は細川家家老識・里村家である。
後年里村家は、丹羽長秀の重臣溝口家に仕え、上杉景勝会津移封後の溝口家が新発田に入ると傳教寺も里村家に従い、慶長五年(1600)新発田藩領の新潟町へ移転した。明治四十二年(1909)の大火により本尊を安置するのみで、寺宝・古文書、及び新潟日日新聞社主の一人、傳教寺第二十一世・里村太利が収集した郷土史編さんに関わる幾多の文献を焼失した。
案内説明より
ここから連なる寺院は参道が無い
寺前を横に走る道路
長照寺前の縦の道路 旧参道
金青山瑞光寺
出羽國大山町(山形県鶴岡市)善寶寺第二世・天与是準大和尚(文明三年・1471寂)から数えて、現住職は第二十七世に当り、開基より五百年以上の歴史を持っている。寺宝の木造菩薩立像(新潟県指定文化財)は、平安時代前期の特色を持ち、「不轉観音」・(ころばずのかんのん)と呼ばれ信仰を集めている。
案内説明より
石上山不動院
山城国(京都府南部)醍醐・報恩寺の末寺として、永禄十一年(1568)にすでに創建されていた寺院である。本尊の大日如来は坐像(90p)で、再三の火災にもかかわらず、その難を逃れている。明治の初め、境内には英語学校が開設された。
境内には上杉謙信、景勝に仕えた商人・玉木屋大隅の墓、初代萬代橋の架橋に尽力した・八木朋直の墓、亀井算開祖・亀井津平の墓、池坊流師範で川開き花火の考案者・五十嵐半木の碑、越後の石彫師・高橋三広の代表作十一面千手千眼観世音菩薩像などがある。
案内説明より
日蓮宗 法光山長照寺 新潟市中央区西堀通5番町854
浄土真宗大谷派 祐櫛山淨泉寺 新潟市中央区西堀通6番町888
浄土真宗大谷派 長崎山真宗寺 新潟市中央区西堀通9番町1600
法華宗陣門流 邦衛山薬王寺 新潟市中央区古町通13番地5157
浄土宗 紫雲山浄信院 新潟市中央区本町通14-3069
浄土真宗本願寺派 妙徳山善光寺 新潟県中央区稲荷町3460-30
境内から山門
境内墓地
納骨堂
納骨堂
境内墓地
庭
梵鐘
鐘楼
鐘楼
本堂入母屋造桟瓦葺妻入り向拝
不轉観世音菩薩霊場標
入母屋千鳥破風
犬猫ペット供養墓
庫裡
境内墓地
日蓮聖人七百遠忌題目塔
鐘楼
経堂 納骨堂?
歴代住職供養墓碑
施蘭薬院跡の碑
旧本堂大棟瓦
宝篋印塔
境内墓地
境内墓地 凶暴カラス
越後弘法大師二十一ヶ所霊場
第二番札所
?会堂
?会堂 納骨堂
庫裡
境内墓地
境内墓地
献体慰霊塔 (新潟医科大学)
境内墓地 本堂裏の道を挟んだ所
六地蔵 寺院と思わせる一角
本堂 ウミガメの甲羅 助賈地蔵尊
賈とは買ではなく 商う、行商する
本堂 一見民家の様です
道路に面して鎮座
社号標
鳥居と社殿
子安地蔵菩薩
境内墓地
庫裡 信徒会館
梵鐘
鐘楼
境内庭
境内庭
境内庭
社号標
湊稲荷神社
朱鳥居扁額
手水舎
社殿と茅の輪
全国善光寺会木札
本堂
宗門標
永代供養墓
不動明王
境内樹木 新潟市保存樹木 けやき
竜王殿 朱色の門の内側にある
扁額
燈籠
厩島・金刀比羅神社 新潟市中央区厩島町2338-1
浄土真宗本願寺派 光會山本浄寺 新潟市中央区西堀通1番町771
曹洞宗 松樹山法音寺 新潟市中央区西堀通3番町804
真言宗智山派 石上山真剣寺不動院 新潟市中央区西堀通4番町814
浄土宗 真光山光明院善導寺 新潟市中央区西堀通4番町824
日蓮宗 長岡山法雲院 新潟市中央区西堀通6番町880
浄土真宗大谷派 光暁山勝念寺 新潟市中央区西堀通7番町1558
真言宗智山派 金潮山寶蔵寺真城院 新潟市中央区西堀通8番町1583
浄土真宗大谷派 隣陀山勝楽寺 新潟市中央区西堀通8番町1588
浄土真宗大谷派 明照山傳教寺 新潟市中央区西堀通9番町1600
浄土宗 決定山往生院 新潟市中央区西堀通11番町2874
浄土真宗佛光寺派 有明山願隋寺 新潟市中央区元祝町4828
庭
梵鐘
鐘楼
庫裡
本堂 入母屋造桟瓦葺三間流向拝
宗祖聖人真弟開基明慶房從
信州赤沼郷飛菩提樹旧蹟
庫裡
境内墓地
庭
墓の奥にあるお堂 何でしょうか
庫裡 会館
本堂大棟
會津八一(秋艸道人)歌碑
地蔵菩薩
永代供養墓
庫裡 信徒会館
境内墓地
宝篋印塔
地蔵菩薩と祠堂
如来 菩薩
弘法大師像
小学校から移設された?金次郎像
境内庭
境内墓地
境内墓地
五十嵐浚明翁之墓 墓碑
境内墓地
墓地無縁墓整理中
無縁墓石
庫裡
歴代住職供養墓
寺号標
境内庭
境内墓地
庫裡 客殿
鐘楼
梵鐘
三門を守護する四天王 左から持国天、増長天、広目天、多聞天 それぞれの位置関係が不可解
境内庭
境内庭
境内墓地
庫裡
弘法大師越後二十一ヶ所四番霊場
イギリス領事館跡の碑
境内墓地
境内樹木
向拝
向拝柱 獅子頭
本堂
樹木
境内墓地
冠木門
本堂 入母屋造桟瓦葺三間向拝
蓮如上人舊跡
庭
永代合同供養墓
宝篋印塔供養塔
本堂 入母屋造本瓦葺三間向拝
本堂
歴代住職供養墓
梵鐘
鐘楼
合同供養墓
境内樹木
ブロック塀
境内墓地
境内墓地
顕彰碑
本堂 大きな倉の様です
片桐家碑 大檀那でしょうか
文字は読めない
魚介供養塔 魚介観音
魚介を持っている
竹内式部先生顕彰碑
六道地蔵尊
住吉神社
扁額
開運稲荷神社 御祭神 豊受大神 大己貴神 事代主神
藩政時代の初め、長岡藩の御用穀物蔵に携わる廻船問屋達により御用仕事の守護神として、京都伏見稲荷の御祭神・宇迦之御魂を勧請し社殿を建立祀られたと伝えられている。天明七年(1787)御用穀物蔵が諸事情により移転、それに伴って神社もしばらくして遷座、開運稲荷大明神と称しました。天保十四年(1843)新潟湊は幕府の支配所(直轄地・天領)となり奉行所が置かれました。
明治を迎、御用穀物蔵は廃止され、遺された稲荷大明神は現在地に遷座、程なくして、大己貴命(大国主神)と事代主命(えびす神)の出雲国津神二柱を勧請合祀した。豊受の大神の御神徳五穀豊穣等に加えて、無病息災、縁結び、家運長久、商売繁盛の御利益のある神社として、開運稲荷神社と称し、住民の益々の尊崇篤く、多くの参拝者でたいへん賑わったと伝えられている。
また神社境内の案内板には次のように記されています。
中央区四ツ谷町の開運稲荷神社は、慶安二年(1649)関谷にあった長岡藩の蔵所(米蔵)の守り神として祭られたのが、その始まりと伝わります。最初は「野手稲荷大明神」と名乗っていましたが、天明七年(1787)に蔵所が新潟の白山神社近くに移転すると、
後この神社も移転して「開運稲荷大明神」と名を改めました。その後、明治七年(1874)に蔵所は廃止され撤去されました。この神社は明治十年(1877)現在地に移って大黒様と恵比寿様を一緒に祭るようになりました。今でも照行漁業、海運、倉庫業に関係する人たちからあつく信仰されています。
参道には「こんこん様」と呼ばれる一対の狐の石像があります。明治時代の初め、出雲国(島根県の一部)の廻船が越後の米を買うために新潟にやってきます。その時往路は空船で安定に走れないので、出雲石(出雲で産出される砂岩)を重りとして船に積み込んできました。「こんこん様」は、この石を狐の像にして神社に奉納されたものであると云われています。
参拝者は、この「こんこん様」の御利益を頂こうと、その両足を撫でた手を額に当ててまじないを掛けたと云います。また、この神社の付近にはかって遊郭があって隆盛を極めたと伝わっています。その遊郭に居た遊女の中には、好みの客が逃げないようにと、「こんこん様」の足を麻糸でしばって祈った者もあったと云う。明治十三年(1880)の新潟大火では、氏子たちが神社に降り注ぐ火の粉を振り払っていた時、白狐が現れてピョンピョンと跳ね回り、社殿を守ったと云う伝説も伝わっています。
案内説明より
境内諸堂
向拝 海老虹梁 向拝柱木鼻
庫裡 信徒会館
納骨堂?
境内墓地
境内句碑二基
庫裡
聯芳塔(住職家の供養墓)
水子 子育地蔵菩薩
如意輪観世音菩薩
海川死者萬霊碑
信濃川・阿賀野川・日本海に生活基盤を置く湊町の寺院です
漁業・機舩遭難者供養碑
庫裡
境内墓地
神号標
明神鳥居
扁額
寺号標
手水舎
拝殿
拝殿扁額
金波山蒲原浄光寺 由緒・沿革
天喜四年(1056)、真言宗「放光院」として蒲原の津、鳥屋野に創建した。建暦二年(1212)、住職印信の時代、越後国府流罪の親鸞聖人が、放光院に一夜の宿をとられた。親鸞聖人の法徳に帰依した住職は「放光院」を「鳥屋野院」と改め、浄土真宗に改宗弟子となった。聖人の竹の御杖が根付き逆さ竹となったと伝わる。今日その御杖が浄光寺の寺宝となっている。
承久三年(1221)順徳天皇(当時順徳上皇)が佐渡流罪の途中当寺に行幸された。上皇御念持仏・阿弥陀如来像を御寄進された。故に勅願所金波山鳥屋野院浄光寺と称された。寶徳二年(1449)本願寺八世・蓮如上人が来寺され、親鸞聖人の遺徳をしのばれたと云われる。以後、本願寺歴代法主の来寺が明治まで続いた。寛文十一年(1671)度々の水害のため、鳥屋野に本堂(現西方寺)を残し現在地に移転した。
案内説明より
社号標
社務所
本殿
拝殿扁額
神明鳥居
拝殿
浄土真宗本願寺派 金波山鳥屋野院蒲原浄光寺 新潟市中央区西堀通10番町1618
園児が境内で楽しく
閉門していたので門は潜らなかった
光會山本浄寺
永禄五年(1562)加賀国大聖寺、現在の石川県加賀市「大聖寺」の地に於いて加賀国郷士が開基したと云われる。加賀国郷士は蓮如上人の弟子となり、「信解」という名前を賜り加賀国大聖寺に一宇を建立し本浄寺と称しました。その後、加賀国で起きた様々な騒動や戦乱を避けて、本浄寺中興・第三世願正が侍従を伴い寛永七年(1630)、新潟に移転し、様々な法難や苦難を乗り越え今日に至っています。また、新潟に移転した年は大永七年(1527)であるとも伝えられています。
本浄寺新潟移転は寛永七年(1630)と大永七年(1527)両説が伝わると説明にはあった。蓮如から法名を賜るような直弟子関係となると大永七年説が順当なところと思われる。北陸の拠点吉崎御坊により布教活動が行われたのは十五世紀後半の1470年頃からで、そのときに師弟関係を持たれたのでしょう。であるとすると本浄寺の開基は1480年前後と推測され、その後に起きた様々な騒動、戦乱は歴史上記録が数多ある。それより三代目となれば寛永年では約百五十年経過後となるので大永年の約五十年経過後が安定して見える。
また違った角度で考えると永禄五年の開基とすると、蓮如上人入寂から六十年後の事で、信解和尚は三十才推定で九十歳の高齢で開山したことになるり、当時の平均年齢?から考えると稀有の事です。新潟移転が加賀国の騒動や戦乱により寛永年に移転するのはすでに藩政時代(二代藩主・利常)に入っており、そのような事柄が起こりえない時代、加賀藩前田家のお家断絶にも値することで、それを理由にするのは苦しい。これはあくまでも本浄寺に伝わる二つの新潟移転の年代から推測した年代の考証に過ぎませんので、基準の事柄が変わると全く違ったことも見えてくると思います。
案内説明より
日蓮宗 正道山妙覚寺 新潟市中央区古町通3番町660
祐櫛山淨泉寺
文明十八年(1486)、加賀国(石川県の一部)江沼郡櫛村に於いて道林によって開山された。淨泉寺第五世・祐善の時、元和五年(1619)新潟町に移転した。また一説には慶長二年(1597)に移転されたとも伝わっています。現在の本堂は大正五年(1916)に建立されたものである。
案内説明より
海嶽山宗現寺
元亀年間(1570〜1573)真言律院として開創されました。慶長元年(1596)十月二十五日、現在の新潟市中央区西堀通三番町法音寺七世・不巌梵学大和尚(慶長十八年一月十五日寂)によって曹洞宗に改宗されました。歴代住職中、特に、加賀(富山県)高岡の瑞龍寺に昇住した十三世霊源活湛大和尚、数次の祝融に遭遇しながら堂宇を再建された二十五世再中興薬欄文獅大和尚、(現本堂を明治三十八年上棟、昭和14年4月17日寂)新潟市西船見町満福寺開山、相模大雄山最乗寺、晋んで大本山總持寺独住二十世として曹洞宗管長に就任された二十六世重興形山瑾映大和尚(昭和五十七年十二月六日寂)と世代は連綿と継承されています。
境内には松尾芭蕉翁の蓑塚があります。俳聖芭蕉翁が奥羽行脚の途次、この地に寄って古き蓑を捨てて新しきものに着替え、後人が偲んで碑を建てたものでありますが、市内数次の火災に際し、大正六年(1917)、降雨庵、蓑塚は当寺に移設されました。
案内説明より
宗現寺の三門(向唐門)の四隅には四天王像が置かれていて守護している。三門の入口正面には左に持国天、右に増長天 裏面からは向かって左に多聞天、右に広目天の配置となっている。一般的に持国天は東方、増長天は南方、広目天は西方、そして多聞天は北方に位置すると云われている。この三門に配置は持国天の右側に南方の守護神増長天が置かれ、持国天の対面に北方の守護神多聞天が置かれていた。つまり、上から見ると正面から時計回りに南方の増長天、東方の持国天、西方の広目天、北方の多聞天となっている。方角のみをとり出すと、南→東→西→北となり通常の東→南→西→北と大きく異なっていて何となく落ち着きが悪い。通常の配置より異なっている理由は分らないが、本尊の守護としても同じく落ち着きが悪い。
隣陀山勝楽寺
文永十年(1273)越前國(福井県の一部)今立郡和田村において親鸞聖人の直弟子・圓善坊によって開山された。文明三年(1471)第七世・圓金坊が加賀国(石川県の一部)能美郡安宅村に移ったのに因み、通称を安宅山とも呼ばれている。当時、能美郡一帯の中本山格で多くの末寺、道場を領しており、今なお道場及び檀家が残っている。慶長十年(1605)第十二代・了覚坊は大檀那安宅氏らとともに新潟町へ移住し、今日に至っている。明治の開港時にイギリス領事館が勝楽寺に置かれた。
イギリス領事館跡 (明治二年一月〜明治十年十月 明治十一年七月〜明治十二年八月)
明治元年(1868)十一月十九日(新暦一月一日)新潟は、開港五港の一つとして世界に開かれた。明治二年一月、勝楽寺にイギリス領事館が置かれた。これは新潟に置かれた最初の領事館であった。明治十二年八月に閉鎖されるまで、ラウダ・ツループ・エンスリー・ウイルソンの四人の領事が執務した。勝楽寺は慶応三年開港を前に新潟港を調査に来港した外国使節と新潟奉行の会談場所として使われたり、武器商人・エドワード・スネルが奥羽越列藩同盟をもてなす宴を開いたりと、歴史の舞台となった。
案内説明より
浄土真宗大谷派 大田山林松寺 新潟市中央区西堀通10番町1628
紫雲山浄信院 千躰地蔵尊
浄信院は慶応元年(1865)関川貞信尼により開山された。明治二十六年(1893)、当山開基・関川貞信尼が発願し、海上安全・諸願成就のため、村上町當時汽船三吉丸船主・樋口治郎平氏及湊町一丁目・小杉健吉氏の両篤志家を始め、北国諸国(北海道・・・函館、小樽、釧路、〜富山)の通船五十隻超の船主並びに、新潟県内(新潟、佐渡、長岡、直江津、三条、新発田、村上)、長野、山梨、栃木、東京、大阪、広島、朝鮮国など、県内外の十方信者約千人からの随喜奉納により、明治三十六年に千躰佛堂を建立し、千四百七十体の金色地蔵尊立像(総丈七寸五分)及び人生一代の十二支守り本尊坐像(総丈に尺三寸)八体を安置する。
案内説明より
樹木
海難者招魂之碑
「越海津梁」碑
秋葉神社 御祭神 秋葉大権現(火除け、火伏の神)
明治元年の新政府による神仏分離令により多くの神社の別当寺が廃寺となった。ここ秋葉神社の別当寺もその流れに抗することが叶わず廃寺となったと云われている。その寺院に祀られていた秋葉大権現が神社として発足し、新潟の火除け、火伏の神として尊崇を受けている。境内には神仏習合の名残は見られず、廃仏毀釈運動が徹底されたのでしょう。
社殿扁額
阿形狛犬
吽形狛犬
豊照稲荷神社 新潟市中央区東湊町通1ノ町2545
庫裡
本堂
参道
本堂向拝 向拝柱 海老虹梁
本堂 入母屋造本瓦葺三間向拝
参道 巌松
寺号標
會津八一歌碑 (鹿鳴集から「望郷」より
ふるさとの ふる江のや奈ぎ は可くれに ゆふべのふねの ものかしぐころ
(ふるさとの 古江の柳 葉隠れに 夕べの舟の もの炊ぐころ)
私の故郷の古い川べりには柳が並んでいる その柳の葉がくれに舟が浮かんでいるが
夕飯の煮炊きのしたくをする頃となったのかなあ
寺号標 参道
瑞光寺 案内板
庫裡
水子観世音と稚児地蔵尊
本堂 宝形造桟瓦葺唐向拝
本堂
地蔵菩薩
千手千眼十一面観世音菩薩
寺号標
本山寺号標(西本願寺)
長岡山法雲院 (旧本覚寺塔頭寺院)
享保十四年(1729)本覚寺第二十世宣陽院日正により塔頭寺院として建立された。明治十三年(1880)、道四十一年(1908)の二度の大火で類焼し、寺暦などは不詳である。大正十五年(1926)に本堂、庫裡が再建された。
案内説明より
庫裡
本堂
入母屋造桟瓦葺腰板張り三間向拝
寺号標 参道
本堂 山号扁額
本堂 入母屋造桟瓦葺妻入り
手水舎
三門 佛海和尚
三門 向唐門
寺号標
聖観音菩薩 合同供養墓
地蔵菩薩
庫裡 信徒会館
長崎山真宗寺
鎌倉幕府の執権・北条高時の臣・長崎為基が本願寺覚如上人に帰依し、圓海と称した。正平八年(1353)加賀国(石川県の一部)能美郡長崎浜で一宇を建立し証名寺と号した。文明二年(1470)中興の僧で蓮如上人の弟子であった称名寺第五世・道光が寺号を真宗寺と改めた。真宗寺第十世・了心の時、天正年間(1573〜1592)戦乱を避ける為出羽国秋田へ移住、天下統一後の慶長元年(1596)新潟に移転、諸堂を建立した。蓮如上人の由緒により当寺は蓮如上人旧跡に数えられている。
案内説明より
本堂 旧寶亀院塔頭寺院
寺号標
椿澤山寶亀院
寶亀院の寶亀は真言宗の開祖・弘法大師(空海)生誕(寶亀五年)の年号である。元禄十一年(1698)の「新潟寺社古来記」によれば、中興開基の恵弘法印が本寺に両部曼荼羅を祀ったのは応永年間(1394〜1428)のことである。神明宮(古町通一番町)の享保十二年(1727)の記録には、本寺の創建は応永二十七年(1420)となっている。また、藩政時代には白山神社の別当寺となっていた。
案内説明より
参道
芭蕉句碑
境内樹木
芭蕉句碑案内板
寺号標
本瓦葺薬医門
参道
鐘楼
梵鐘
親鸞聖人像
庭園
旧本堂大棟鬼瓦
大田山林松寺 (旧泉性寺塔頭寺院)
信濃国(長野県)水内郡大田庄長沼(親鸞聖人直弟子善性所縁の地)に住んでいた松永という篤信者が、祖師(親鸞聖人)の舊跡を訪ねて越後に入り、、新潟の泉性寺(本寺 西堀通十番町)の教化に遇い直ちに出家した。寛文五年(1665)四月に名を圓宗と改め、泉性寺隣地に坊舎を建立、本尊を安置し祖師御影を賜わり林松寺と号した。
案内説明より
本堂 入母屋造桟瓦葺三間向拝
冠木門
寺号標
参道工事中
地蔵菩薩半跏像 珍しい
寺号標
本堂 寄棟造桟瓦葺平入り
本堂扁額
本堂大棟 鴟尾をのせる
庫裡 信徒会館
本堂 入母屋造桟瓦葺
参道 寺号標
本堂 入母屋造本瓦葺
寺号標
本堂 寄棟造桟瓦葺妻入唐向拝
変形四つ角の鈍角にあります
日和山住吉神社 新潟市中央区四谷町1-2964
本堂 入船地蔵尊扁額
本堂
柱門
庫裡
古銭文字で綴った寺号扁額
本堂 唐破風向拝
参道途中のこんこん狐様
こんこん狐様
社務所
本堂 入母屋造桟瓦葺三間向拝
本堂
親鸞聖人舊迹
境内墓地
佐藤荘松先生顕彰碑
新潟県図書館の礎となった人
社殿
社殿
社殿 社号扁額
船江稲荷神社 新潟市中央区附船町1丁目4401
社務所
宮司宅
御神水の池
梵鐘
本堂
寺号標
燈籠
一切皆空 色即是空
宝篋印供養塔
観海上人塚 大受苦菩薩・観海上人
上人は湯殿山大日坊の塔頭・本覚院で生まれ明治二年大圓寺の住職となった。自ら即身仏と成り、我々の苦しみを代わって受けようとの大悲願を起こした。
以来、難行苦行に励み、五穀十穀(木食行)を断つこと二千日目、ついに、明治十一年八月二十四日。地蔵菩薩の縁日を期し、生きながら土中に入る。
上人五十二才の時であった。南無大受苦大菩薩 南無観海大上人
案内説明より
さざれ石と思ったが尊い御神体です
金刀比羅神社案内板
金刀比羅神社 明神鳥居
狛犬
狛犬 表情が失われている
庫裡
本堂 宝形造桟瓦葺
宗門標
本堂 入母屋造本瓦葺
本堂前 不動明王像