加須周辺のいろいろその2



玉敷神社と大藤  


加須 欄稜王山車 旧江戸日本橋鉾山車


加須のうどん









加須のうどん

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現在、加須市内の26軒のうどん屋さんが加入している「加須手打うどん会」では、
加盟店それぞれ異なる味わいを多くの方に愉しんでいただきたいと、「食べ歩きスタンプラリー」を実施しています。

また、手打うどんファンの方へのサービスとして、同一店舗で10回食事していただくと“もりうどん”か“かけうどん”のいずれか一杯が
サービスとなる「ポイントサービス」も実施しています。

「スタンプラリー」や「ポイントサービス」の台紙(リーフレット『加須うどん』)は
加須市商工会館1階の物産情報センターや加盟店店頭で配布しています。
このリーフレットでは史料をもとに加須の手打うどんのルーツや食習慣なども紹介しています。どうぞご利用ください。

加須手打うどん会は「手打うどんのまち 加須」を全国に知ってもらおうと、
県内外で開催される観光イベントや物産展に参加するなどPRに励んでいます。

最近では市内農家と連携し「地産地消運動」にも積極的に取り組み、
加須産小麦“あやひかり”を使用したうどんの試作研究にも取組んでいます。



   起源
埼玉県北東部に位置する加須市周辺では、江戸時代のはじめの頃は畑地が多く、小麦の生産が盛んでした。
その当時からうどんを食べる習慣が広く定着したと考えられています。
特に加須うどんは、そのルーツを元禄時代(1688〜1704)にまでさかのぼることを確認できる古文書があります。

関東三大不動に数えられる、市内の古刹、不動ヶ岡不動尊総願寺には、
加須名物の『饂飩粉「うどんこ」』を贈られた館林城主(松平清武)からの礼状が残されています。

この古文書には、作成年(日付は六月二十五日の付書あり)が書かれてありませんが、
松平清武(江戸幕府六代将軍家宣の弟 1688〜1704)の生没年や総願寺との結びつきなどを詳しく分析した結果、
加須うどんの歴史は300年以上にまでさかのぼることがわかりました。
(礼状の推定年月日は正徳元年(1711)六月二十五日)


   加須の食文化とうどん
「朝まんじゅうに昼うどん」と言われたくらい、加須市は小麦食文化が盛んな地域です。
お米が年貢として供出された昔、米の裏作として作られた大麦を混ぜた麦飯が主食とされており、
農家の人々にとって「ツルツルシコシコ」したうどんは、お祭りなどの特別な日に大切なお客様をもてなすときの御馳走でした。
この名残からか、現在も冠婚葬祭などの締めくくりには、うどんが良く振る舞われています。

また、春・秋の彼岸や正月などに日頃の女性の労苦をねぎらって男性がうどんを打つと云った昔ながらの習慣も残されています。
ここ加須市に於いてうどんは、暮らしの中に深く根付いた非常になじみ深い食べ物なのです。


   加須うどんの特徴
加須うどんの特徴は、ピカピカの光沢、みずみずしさ、手打ちならではのコシの強さとのど越しの良さです。
コシの強いうどんを打つために、季節によっては、塩や水加減、麺の太さを変えたり、
「足踏み」や「寝かせ」に時間をかけるなどの工夫をしています。

つゆなしでそのまま食べても十分においしいですが、
水洗いしたての冷たい“もりうどん”にあっさりとした冷たいつゆでいただくのがこの地域での基本の食べ方です。

これに加え、大葉(青じそ)の香りとごまみそ風味の「冷汁」、ナスやネギを油で炒めた温かい「なす南蛮」や「ねぎ南蛮」、
さらには「けんちんうどん」「味噌煮込みうどん」など加須独自のメニューも味わえます。
各店が創意工夫を凝らして打ち上げた加須うどんの食べ歩きも飽きることなくご堪能いただけます。

                                      加須うどん案内説明より

玉敷神社と大藤 tamasikijinjya & ohfuji

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加須本町欄稜王山車  旧日本橋三町鉾山車

玉敷神社の大藤 (県指定天然記念物)

この藤はノダフジの一種で、樹齢は四百年と推定される。幹回り約四・八メートル、枝張り約七百平方メートルにも及ぶ、県内でも有数の巨木である。
この木は、戸室の若山家にあったものを「騎西の町に観光資源を・・・・・」という町商店街有志の度重なる要請により、昭和八年に玉敷神社に奉納されたものである。
藤は町のシンボルとして多くの人に親しまれ、昭和五十年に町施行二十周年を記念して騎西町の花に制定されました。「玉敷神社の大藤」としてその名が知られ、花房は一メートルにも達する。ほのかに漂う芳香は、見る者の心を癒してくれる。
                案内説明より

大藤棚全景

宮目神社

白山神社

稲荷神社

玉敷神社 拝殿

当神社は第四十二代文武天皇の大宝三年(703)、東山道鎮撫使〈多治比真人三宅麿〉により創建されたと伝えられ、(一説によると第十三代成務天皇六年(136)、武蔵国造〈兄多毛比命〉によって創建されたという)平安時代第六十代醍醐天皇の延長五(927)に公布された律令の施行細則「延喜式」の神名帳にその名を載せる、いわゆる「延喜式内」の由緒ある古社である。以後、幾多の歳月を経て戦国時代に至り、天正二年(1574)越後の上杉謙信が武蔵国に出兵の折、当時正能村(現加須市騎西町正能)に在った当神社はその兵火にかかり炎上、古文書・社宝など悉く失われた。従って、それ以前の神社の歴史は明らかではない。
江戸時代に入り、寛永四年(1627)の頃、騎西城主〈大久保加賀守忠職〉によって現在の地に遷座、以後明治維新に至るまで、当神社は、「勅願所玉敷神社久伊豆大明神」と称されて、埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守、また騎西領四十八ヵ村の総氏神として尊崇され、厄除けを始めとするその多くの御神徳は厚い信仰を集めていた。この広範な領域に及んだ信仰は今日なお受け継がれ、二百年以上の昔から伝わる当神社独特の祓の行事「お獅子様」を行う所は、当騎西町(現加須市)を中心とする県東北部の二十三の市町村並びに群馬・茨城両県の町の大字小字の地区にまで広がっている。
また当神社には三百年を越える伝統を持ち、江戸神楽の原形を伝える国指定重要無形民俗文化財「玉敷神社神楽」が保存され、年四回の祭礼の折に素朴で優雅な舞を披露している。
               案内説明より

琴平神社

神馬社

天神社

大イチョウ 町指定天然記念物

この境内には二本の大イチョウがある。いずれも雄木で、神楽殿北側にあるものが樹高約三十メートル、幹回り五メートル、枝張り十五メートルである。社殿の西側のものは樹高約三十メートルで、途中から三本に分かれている。
幹や根には乳房状になった気根が見られるが、これは古くなった表皮の呼吸を助けるためのものと考えられている。幹回り六メートル、枝張り十五メートルで、ともに樹齢は五百年と推定されている。
古くからこの辺りの人々は、当社のイチョウが色づくのを見て、麦播きの時期が来たことを知ったという。そうした親しみもあって、昭和五十年の町制施行二十周年には「町の木」に制定され、昭和五十五年には町指定天然記念物に指定されている。

手水舎

イチョウの気根

御神水

この「御神水」は江戸時代寛文年間に掘られたと伝えられる古い井戸から汲み出されています。古来霊験あらたかな「薬水」と尊重されて「お水」と呼ばれ、近郊の多くの日地人が、お茶や炊事に、更にお風呂用にと折に触れて“お水買い”に来ておりました。
また、戦後間もない頃までは、この「お水」を沸かした「御神湯」と称する入浴料が任意の湯治場が現在の社務所裏手にあって、持病や農作業の疲れをいやす人々で四季を通して賑わっておりました。
『ご神水』を頂きたい方へ・・・・毎月一日、皆様にご自由に『ご神水』をお汲み頂いておりますが、一日以外の日でもお水をご希望の方には差し上げておりますその時は、社務所へご連絡の上、持参された容器を神主にお渡しください。お預かりした容器にお水を入れて、すぐにお渡しできます。

八坂社内の神輿

八坂社 御輿社殿

玉敷神社神楽殿と神楽

江戸神楽の源流をなすと言われる玉敷神社神楽は、素朴な中にも雅な舞を伝えている。この神楽の発生は定かでないが、正保の元号を記した面や、享保四年(1719)に神楽を奉納した記録がある。また、古く当神社は正能地区に鎮座しており、その氏子が連綿と神楽師をつとめている。このことから、その成立は江戸時代初期まで遡るものであろう。演目は番外を含めて十七座。題材は神話によるものや、演劇的な舞で構成され、楽は笛・太鼓・羯鼓をもちいる。

本殿の彫刻 軒部と腰部

拝殿唐屋根の鳳凰 龍の彫刻

本殿 (祭神出雲大国主神)

山車に取り付けられた轅

一之鳥居

二之鳥居

三之鳥居

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加須のうどん

現在、加須市内の26軒のうどん屋さんが加入している「加須手打うどん会」では、
加盟店それぞれ異なる味わいを多くの方に愉しんでいただきたいと、「食べ歩きスタンプラリー」を実施しています。

また、手打うどんファンの方へのサービスとして、同一店舗で10回食事していただくと“もりうどん”か“かけうどん”のいずれか一杯が
サービスとなる「ポイントサービス」も実施しています。

「スタンプラリー」や「ポイントサービス」の台紙(リーフレット『加須うどん』)は
加須市商工会館1階の物産情報センターや加盟店店頭で配布しています。
このリーフレットでは史料をもとに加須の手打うどんのルーツや食習慣なども紹介しています。どうぞご利用ください。

加須手打うどん会は「手打うどんのまち 加須」を全国に知ってもらおうと、
県内外で開催される観光イベントや物産展に参加するなどPRに励んでいます。

最近では市内農家と連携し「地産地消運動」にも積極的に取り組み、
加須産小麦“あやひかり”を使用したうどんの試作研究にも取組んでいます。



   起源
埼玉県北東部に位置する加須市周辺では、江戸時代のはじめの頃は畑地が多く、小麦の生産が盛んでした。
その当時からうどんを食べる習慣が広く定着したと考えられています。
特に加須うどんは、そのルーツを元禄時代(1688〜1704)にまでさかのぼることを確認できる古文書があります。

関東三大不動に数えられる、市内の古刹、不動ヶ岡不動尊総願寺には、
加須名物の『饂飩粉「うどんこ」』を贈られた館林城主(松平清武)からの礼状が残されています。

この古文書には、作成年(日付は六月二十五日の付書あり)が書かれてありませんが、
松平清武(江戸幕府六代将軍家宣の弟 1688〜1704)の生没年や総願寺との結びつきなどを詳しく分析した結果、
加須うどんの歴史は300年以上にまでさかのぼることがわかりました。
(礼状の推定年月日は正徳元年(1711)六月二十五日)


   加須の食文化とうどん
「朝まんじゅうに昼うどん」と言われたくらい、加須市は小麦食文化が盛んな地域です。
お米が年貢として供出された昔、米の裏作として作られた大麦を混ぜた麦飯が主食とされており、
農家の人々にとって「ツルツルシコシコ」したうどんは、お祭りなどの特別な日に大切なお客様をもてなすときの御馳走でした。
この名残からか、現在も冠婚葬祭などの締めくくりには、うどんが良く振る舞われています。

また、春・秋の彼岸や正月などに日頃の女性の労苦をねぎらって男性がうどんを打つと云った昔ながらの習慣も残されています。
ここ加須市に於いてうどんは、暮らしの中に深く根付いた非常になじみ深い食べ物なのです。


   加須うどんの特徴
加須うどんの特徴は、ピカピカの光沢、みずみずしさ、手打ちならではのコシの強さとのど越しの良さです。
コシの強いうどんを打つために、季節によっては、塩や水加減、麺の太さを変えたり、
「足踏み」や「寝かせ」に時間をかけるなどの工夫をしています。

つゆなしでそのまま食べても十分においしいですが、
水洗いしたての冷たい“もりうどん”にあっさりとした冷たいつゆでいただくのがこの地域での基本の食べ方です。

これに加え、大葉(青じそ)の香りとごまみそ風味の「冷汁」、ナスやネギを油で炒めた温かい「なす南蛮」や「ねぎ南蛮」、
さらには「けんちんうどん」「味噌煮込みうどん」など加須独自のメニューも味わえます。
各店が創意工夫を凝らして打ち上げた加須うどんの食べ歩きも飽きることなくご堪能いただけます。

                                              加須うどん案内説明より

幅が狭まっているので一頭用牛車

唐破風に掲げられている欄稜王扁額

正面

左側面

背面 前大車輪2 後小車輪1

上段高欄と人形

人形 織田信長人形とも伝わる

山車庫

背面 

右幕
左右幕及び後幕三枚で一景を表す

左幕 

大前車輪と台座

本町山車

  加須本町欄稜王山車 (加須市指定有形民俗文化財 昭和四十七年六月十七日指定)
加須本町の欄稜王山車は、文久二年(1862)江戸日本橋の通油町・田所町・新大坂町の三町合同により新たに建造された山車で、いわゆる「江戸型鉾山車」と言われているものである。人形は三代目・仲秀英の作とされており、人形につける欄稜王面は高村東雲(高村光雲の師)の作である。また、飾金具は鋳物師・太田貞治郎勝房及び彫物師・玉木大助義延の作である。
昭和四十七年六月十七日に加須市有形民俗文化財の指定を受けている。

  加須本町欄稜王山車由来
伝承によれば、この欄稜王山車は、日本橋の三町から明治十六年に加須下町(現本町)に売却された。明治の初めごろ、日本橋あたりは米が高価で手に入り辛く、大変困っていた。この話を商売できていた加須の青縞買継商・清水善兵衛氏が耳にし、「それは御困りでしょう。私どもの手持ちの米でよろしかったらお譲りいたしましょうか」と申し出てくれ、しかも格安で分けてくれたので、たいそう喜ばれた。
その当時、東京は文明開化で道路の至る所で電柱が立ち、電線が張り巡らされて、電線を引掛けるなどの障害を理由に出しの運行が禁止されたのであった。通油町など三町合同の人形山車は建造後年数も浅く、しかも評判の山車であったので、これの売却話を聞いた善兵衛氏は何とか地元で譲り受けたいものと町内会の有志に相談せた。相談の結果買入れでまとまるや、善は急げとばかり先方に譲渡を申しでた。
善兵衛氏の狭義心を伝え聞いていた先方の世話役たちは「あのお方の町ならばこの山車を必ずや大事にしてくれること間違いなし」と衆議一致して、加須に譲られることが実現したと伝えられている。山車は船積みで江戸川を上り関宿を経由して利根川をさかのぼり、大越河岸で陸揚げし、馬車で加須まで運んだと云う。

  山車は江戸を離れた地に売却されたのか
欄稜王山車が加須に売却された明治十六年頃、日本橋界隈の他の町内でも、その所有する山車を地方に売却している。山車が売られた先は、八王子・青梅・飯能・栃木・石岡・鴨川・熊谷等であり、売値は加須の山車も含めて一様に五百円と云われている。明治新政府は江戸庶民が三百年の永きに亘る江戸コ川家の治政を懐かしく思い出す伝統的なお祭りを嫌い、その象徴たる山車を、街々に電線等が張り巡らされ曳行出来ないことを口実に、地方に売却させようと仕組んだのではないかとも云われている。
売却する方にとっては残念なことであったろうが、ただ、現在から考えると幸いなことに地方に売却されたため、関東大震災や昭和二十年の東京大空襲から逃れる事が出来、現存しているともいえるのではないだろうか。(川越・本庄等の江戸型山車は職人に発注して自前で造ったものである)

  天下祭りと日枝神社・山王祭二十一番山車 欄稜王山車
江戸時代、人々は毎日の生活に追われ、特に楽しめる娯楽が少なかった。そして、人々の楽しみはお祭りが最も楽しい娯楽であり、中でも一年交替で行われた日枝神社の山王祭と神田明神の神田祭は「この祭だけは山車が江戸城内に曳行され、コ川将軍に上覧された」ために天下様が見る祭すなわち「天下祭り」と称された。
そして祭りに参加する山車の番付一覧が発売され、それぞれの町内の山車に番号が付された。一番は大伝馬町の「諌鼓鶏(かんこどり・お祭りが出来る太平の世であることの象徴)の山車、二番は南伝馬町「猿人形」の山車と最初から決まっており、欄稜王山車は山王祭二十一番の山車であった。文久二年(1862)の天下祭りに新しく建造して参加した山車は「欄稜王」山車であったが、それまでの山車は「竹生島龍神」山車であった。「竹生島龍神」山車は存在しないが、現在千葉県佐倉市に山車の人形のみが保存されている。

  欄稜王は織田信長と言い換えられたわ理由
山車人形の「欄稜王」は織田信長の人形とも云われているが、なぜこのような云い伝えが起こったのでしょうか。日清・日露戦争の時代、お祭りの象徴たる山車人形が、敵国の中国の人物であることは好ましからずと言うことで、欄稜王高長恭(中国の南北朝時代の北斉(549〜577)実在の武将)を織田信長と言い換えて、破壊を免れたのではないだろうか。織田信長は「欄稜王」と同様戦国時代を代表する武将であり、また、欄稜王舞装束の「唐花文」が織田家の家紋である「織田木瓜」と同一であることからこのような言い換えが起こったものと考えられる。
このような云い伝えは加須だけではなく、八王子・川越にもあるとのことである。栃木市では三国志の英雄の人形を造り替え「日本武尊」としたとの例も見受けられる。因みに信長は出陣に際し幸若舞を好み、「人間五十年下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と敦盛を舞ったと伝えられている。

         加須市本町欄稜王山車修復記念講演会資料より


                                     

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