前玉神社
前玉神社は、「延喜式神名帳」に前玉神社二座小と記載されている古社です。祭神は、前玉彦命、前玉比売命の二柱で、本来はさきたま古墳群を築造した豪族が祀った国神(土着神)であったと思われます。また、「新編武蔵風土記稿」では、成田氏の時代(室町時代)に忍城にあった浅間神社を勧請したとされており、江戸時代に富士講に伴なって浅間神社の信仰が盛んになり、社名も浅間神社と称するようになりました。明治になって旧に復し、前玉神社と称しました。
鳥居は明神系の形式で、笠木、島木が一体に造られ、両端に反り増を持ち、さらに笠木、島木は二本の石材を中央額束の上で組み合わせています。貫は一本の石材で造られて固定するための「くさび」はなく、柱はややころび(地に直角ではなくハの字に開く)を持ち、台石の上に建ちます。正面左側の柱の銘文によれば、延宝四年(1676)十一月に忍城主・阿部正能家臣と忍領内の氏子により建立されました。
さらに持住・宗融と刻まれていますが、前玉神社の明細帳によれば、かって神社境内に別当寺(神社を管理する寺院)である真言宗の養老山延命寺があったことが記載されており、宗融はこの延命寺の住職と考えられています。建立から三百三十年余経過し、江戸時代における浅間神社(前玉神社)の隆盛を伝えるとともに、廃寺となった別当延命寺の記録を残すものとして重要です。

  浅間塚古墳(浅間山古墳)は、埼玉古墳群の南東部に位置する古墳です。
直径約50mの円墳ですが、前方部が失われた前方後円墳であったという説もあります。古墳の頂には玉前神社、中腹に名前の由来となっている浅間神社が祀られています。前玉神社は平安時代の『延喜式神名帳』にその名が見られ、古くから埼玉郡の総社として信仰を集めていました。
浅間塚古墳については、比較的最近まで古墳であるのか、後世に築かれた塚であるのか議論が分かれていましたが、平成九・十年に行われた発掘調査で、幅十メートルに及ぶ周溝が廻らされていたことが確認され、古墳であることがほぼ明らかになりました。
埴輪がたてられていなかった可能性が高い事、古墳の南西部の絵馬堂付近に石室の石材と思われる角閃石安山岩が見られることから、埼玉古墳群の築造が終わりを迎える七世紀前半ごろに築かれた古墳と推定されています。埼玉古墳群の終わりを考える上で、重要な古墳であると思われます。

前玉神社社殿石段参道入り口にある高さ2mの二基一対の石燈籠は、
元禄十年(1697)十月十五日に、地元埼玉村(現行田市埼玉)の氏子一同が奉納したものです。
本殿に向かって左側の石燈籠には、「前玉之 小崎乃沼尒 鴨曾翼霧 己尾尒 零置流霜乎 掃等尒有斯」(前玉の小崎の沼に鴨ぞ翼ぞきる 己が尾に降り置ける霜を掃うとにあらし)と『万葉集』9巻ー1744の「小崎沼」の歌が、右側の石燈籠には、「佐吉多萬能 津尒乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曾祢」さきたまの津に居る舟の風をいたみ 綱は絶ゆともことばは絶えそね)と『万葉集』14巻ー3380の「埼玉の津」の歌が、美しい万葉仮名で竿の部分に刻まれています。
この石燈籠は、『万葉集』に収められた歌の歌碑としては、全国的にみて非常に古いものになります。江戸時代には『万葉集』の研究が盛んになり、関心も高まっていました。そうした中でいち早くこの歌碑を建立した当時のこの地域の人々の文化水準の高さと、江戸時代の『万葉集』への関心の高まりがうかがい知れる貴重な文化財といえます。
       行田市歴史文化財案内より
                  

北埼玉周辺その2

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前玉神社 行田市大字埼玉字宮前5450

上新郷・愛宕神社 羽生市上新郷6728

諏訪町諏訪神社 埼玉県加須市諏訪町1-8-4

若宮八幡神社 加須市北下新井461

千方神社 埼玉県加須市中央2-5-27

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石敢當表面 右に文化十四年丁丑十一月長至月 左に鵬齋陳人興書 

  改修記念碑
本村民往古より摂津国高津宮祭神大鷦鷯尊「仁徳天皇」を信仰し元和四年祠を創立。
該神を分霊し勧請す。不老山若宮八幡と称す。
例祭を毎歳四月十五日と定め以て五穀豊穣を祈る。

しかし本村地は利根川と古利根川の間に位置し洪水氾濫幾度と知れず。文政十一年村民協力して現在地に築土し祠殿を再建するも爾来尚数十年多発する水害の為稲熟は年毎に減り村民は疲弊を極む。天保九年から利根川の築提工事と中小河川の整備により 田数百町歩を得て排滞水 水防事業が亦緒につく。村民漸くにして愁眉を開き炊煙益々盛る。これ関係者の努力の致す処なれど、神徳に非ざれば何をもってここに至る。 
明治三十年八月村民相図り 社殿を大修理し以て祭典を挙げる。大正十二年九月一日関東大震災の為本社殿全壊 境内神社崩壊。被害箇所整理の後大正十四年春社総代 役員協議して再建に着手。大正十五年十月完了後吉日御遷宮祭典を挙げる。

平成元年 再建以来六十余年の歳月を経て本殿 境内社共に老朽化著しく各役職 氏子の諸賢 対策協議会を結成す。機熟して今上天皇即位御大典記念事業として 財源を北下新井区財産から金七百四拾貮萬圓八幡社準備金より金四百萬圓 奉賛寄進金壹千七百六十参萬貮千圓 川辺領記念碑移設工事補助金壹百萬圓収入合計参千五萬貮千圓 総工費貮千九百五拾萬圓をもって平成三年十二月二十日着工。平成五年三月十日完了。御遷宮の祭典を挙行しこの事業を子々孫々に伝えんが為奉賛者各位の芳名を記し拠ってこに記念碑を建立す。

平成五年三月吉日       若宮八幡社総代文選    改修記念碑記述より

若宮とは八幡神社の祭神である第十五代応神天皇(誉田別尊)の皇子(若宮)・十六代仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀っている神社である。故に一般には若宮八幡神社と称しているが、社殿を造営し八幡神を遷座した神社も若宮と称していることもある。
この若宮神社は仁徳天皇の分霊を勧請していると石碑には記されていた。

修復 両柱とも中央で継いでいる
(黒の部分)大正五年建立とある

  御神木
前玉神社は、平安時代の『延喜式神名帳』に「前玉神社二座小」と記されている古社です。その入り口に植えられているこの大木は「イヌマキ」と称される常緑の高木の雄木です。
御嶽山信仰の奉納植樹の御神木で、推定樹齢600年、樹高20m、目通り4mです。現存する槇としては埼玉県内最大のものです。樹幹北側の中心部には大きな空洞があり、その中には木曾御嶽神社の石碑が置かれています。
       案内説明より
               

  本殿改修並社務所新築記念碑
私たち郷土の氏神である諏訪神社は、本殿を始め覆殿・社務所等幾星霜を経て損傷がひどく御改修は長年の課題であったが、今般氏子崇敬者各位の深いご理解と熱意溢れるご奉賛により、ここに「平成の大改修」が見事に完成し、竣工奉告を挙行した。この大改修事業を永く子々孫々に伝えたく、氏子崇敬者各位の御芳名を記し、記念碑を建立した。
本殿彫刻彩色塗装 本殿覆殿銅板葺 向拝新設 社務所新築 境内整備
昭和十一年十月吉日

合祀之碑 大正五年四月奉遷
雷電・琴平・稲荷・猿田彦・熊野・神明・三峯の七座

  力石 三十二貫(百二十キログラム)
江戸時代から明治時代にかけて力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、若衆たちが集まり、お互いの力を競い合い、娯楽として楽しんでいました。若宮八幡社の祭りでも、出し物の一つとして力試しの催が行われていたようです。
              案内説明より

歌碑?

記念石碑等々

衆議院議員・湯本義憲顕彰碑

恵比寿大国社

天神社

左 天神社  右 恵比寿大国社

龍神池幟

向拝虹梁彫刻

前玉神社拝殿
入母屋造銅板葺唐破風三間向拝

拝殿

本殿

浅間神社社殿

浅間神社向拝の絵馬

奉納燈籠

二之鳥居

二之鳥居 社号扁額

社務所 授与所

狛犬

一之鳥居より参道

一之鳥居 鳥居銘文

御神木

前玉比売命の幟

舞殿

大鳥居説明板

社殿 社号扁額
伊邪那美命 豊宇気毘売命

地蔵菩薩と榛名講記念碑

御輿舎

不明の祠

二之鳥居 
柱には延寶五丁巳と刻されている

社殿両側の巨樹 檜?

手水舎

社務所?

伊勢講記念碑

富士嶽神社

地区氏子集会所

合祀社 
秋葉・三峯などが祀られている

薬師堂

薬師堂祭壇

八坂神社

恵比寿・大黒神社 扁額

恵比寿 大国(大国主)神社

富士塚石段

狛犬

鳥居 明神鳥居

本殿改修・社務所新築記念碑

裏参道

社務所

氏子山車庫
北大門・東大門・諏訪町山車庫

諏訪町太鼓屋台

北大門町御輿

諏訪町御輿

明神両部鳥居

社殿竣工記念碑

石敢當

浅間神社 富士講石碑

稲荷神社

浅間神社玉垣 溶岩を積んでいる

浅間神社 鳥居と祠

拝殿前 
神社と結びつける樹木なのか

水鉢

境内の樹木 欅 保存樹木

手水舎

境内

境内

社号標 諏訪神社移築工事完成記念
三十八年十一月二十三日建立

お稲荷様?

祠が幾つか

R125沿いの玉垣

御神木の根元の巨樹の株跡
白龍伝説の樹木か?

御神木 銀杏

奉納燈籠 明治四十四年十月十七日

同 小御嶽大神(富士小御嶽神社祭神)

富士塚 金毘羅社殿背の浅間大神

狛犬

子取り狛犬の子獅子が愛嬌

社号扁額

金毘羅神社社殿

拝殿 入母屋造銅板葺一間流向拝

拝殿 社号扁額

拝殿大棟懸魚 千木と鰹木

手水舎

鳥居扁額 正一位諏訪大明神

本殿 切妻造銅板葺

本殿棟と拝殿屋根の「立ち梶の葉紋」諏訪大社御神紋とは図案が異なる

社殿に向かって左に阿形狛犬 右に吽形狛犬 一般の配列とは逆

改修記念碑

元和村住 大塚鷲太郎顕徳碑
昭和十八年一月吉日建立

元和村耕地整理組合竣工記念碑
昭和十一年四月吉日建立

川邊領水害噴火被害耕地整理記念碑
農商務大臣・高橋是清篆額

顕彰碑
明治三十年八月吉日建立

造営記念碑 
大正十五年十月十五日建立

改修記念碑

拝殿 入母屋造銅板葺

本殿

境内樹木

地区公民館

力石

辨天堂と辨天池

辯財天石塔

本殿裏樹木

稲荷神社

金毘羅神社

子安神社

境内社 雷電神社

熊野神社

御神木

御神木

手水舎 新築 完工式は近々?

拝殿

左は対ですと吽形ですが阿形に見える狛犬と右阿形狛犬

鳥居 社号扁額(新設か?)

石敢當裏面

希ふはかり 人茂としよれ 初時雨

国旗掲揚台 
陸軍大将・井上幾太郎書

拝殿欄干の彫刻

拝殿の彫刻

向拝 向拝柱と虹虹梁と木鼻獅子頭

本殿 入母屋造桟瓦葺 覆殿?

燈籠 大正七年十一月建立

芭蕉句碑

午の口の神橋

子ノ口の鳥居

吽形狛犬

阿形狛犬

町内氏子 山車庫

向拝虹梁の彫刻

拝殿 入母屋造桟瓦葺一間流向拝

鳥居から拝殿

社務所 授与所

手水舎 新設

北埼玉の神社

千方神社     諏訪町・諏訪神社    大利根・若宮八幡神社    

上新郷・愛宕神社    前玉神社  

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  石敢當  加須市文化財 昭和三十一年九月指定
この「石敢當」は、中央二丁目の塩田鉄工所の裏にあったものを昭和二十九年十月この地に移したものである。
文化年間(1804~1818)に加須の六斎市(五・十・十五・二十・二十五・三十の六日)の世話人たちによって、市の神様として信仰されたと云う言い伝えがある。そもそも「石敢當」とは、中国の力士の姓名で、この人の名を石に刻んで守護神としたのが始まりであるが、また、よくありがちな信仰から疾病除けとしたものと思われ、九州地方にはよく見られるが関東地方にはきわめて稀である。
この「石敢當」の筆跡は、当時江戸でも有名な漢学者であり、書家でもあった亀田鵬斎の揮毫によるもので、「文化十四年(1817)丁丑十一月長至日、鵬斎陳人興書」と刻まれている。裏面の文章は穂積恭という博学の人物が記したものである。破損した部分をセメントで補修したため、全文を読み解くことは極めて難しい。「五・十の市が禍事なく朝日の如く栄え、日夜の守護永からんことを祈る。」と結んでいる。
また、裏面の最後には次の和歌が刻まれている。恵梨そめぬ石能軍の君可代頃裳八千代の数の里農万母里述(石の様に強い石敢當の神様、八千代に亘り数をお守り下さい)この和歌は国文学者として名を成した小山田興清が「石敢當」の建立を祝って贈ったものと云われている。

  芭蕉句碑
けふはかり 人茂としよれ 初時雨
楽天堂紅林経書
裏には、大正十年(1921)十月十二日建立とある。十月十二日は芭蕉忌である。
(元禄七年(1694)十月十二日死去 墓所:近江国大津・義仲寺の木曽義仲墓所隣)
            案内説明より
                     

浅間神社 

三之鳥居

神橋

奉納燈籠

石碑があるが文字は分らない

御嶽神社祠

寄木神社
日本武尊 弟橘姫命

八坂神社

根本神社 神代天神五柱
天之御中主神~天之常立神の五代

向拝虹梁彫刻

扁額

明治神社

前玉神社一之鳥居

一之鳥居社号額 富士山

鳥居脇に置かれた社号扁額

一之鳥居

向拝柱 獅子頭彫刻

参道 奉納燈籠

愛宕山の社殿 
古墳跡とも云われている

社号標

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御輿・祭事収納庫

神明鳥居

狛犬

伊勢講石鳥居建設記念碑

鳥居 神明鳥居

井戸跡

伊勢・出羽三山講記念石塔

日露戦役紀念碑
従一位大勲位侯爵 山縣有朋揮毫

金毘羅神社 二柱が合祀されている

鳥居 3.11東日本震災により倒壊
平成二十三年六月吉日 修復建立

拝殿前 狛犬鎮座

参道

銀杏 保存樹木

欅 保存樹木

告知標

神橋

一之鳥居 社号扁額

社号標

龍神池

龍神社

社殿??

参道石段よこの燈籠 一対

参道石段

手水舎彫刻

手水舎彫刻 

手水舎

吽形狛犬

阿形狛犬

記念碑