北埼玉周辺の寺社

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  龍蔵寺三門
仁王像を安置した楼門造りで、明治の初期に羽生領大聖院から移築したものである。明治元年の神仏分離令により修行道場として仏と神道一体(神仏習合)とした大聖院は廃仏毀釈の波により廃寺となった。同じく京都知恩院の末寺である行田正覚寺?との交渉により買い取ったものである。正覚寺と交渉とあるのは大聖院は正覚寺の修行道場を兼ねた末寺であったのでしょうか?当時の古文書に次のように記されている

     覚 (本文書は縦書き)
一 金二百匹
右は大聖院楼門引取り候うに付ては樽代と為す 書面の通り御渡さるるもの成りたしかに受領せらるる候う
  羽生町村 惣兵衛 印
  同      新兵衛 印
四月十八日
  三ツ俣村 弥市右衛門殿
※樽代とは酒樽のことで祝儀などで酒の代わりとして贈る金銭のことである。
  二百匹とは寛永通宝で二千枚。 (一文寛永通宝換算 四文寛永通宝では五百枚)
山門は葛西用水を利用して運ばれた。楼門内には閻魔大王の坐像、釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩の釈迦如三尊像があり、その周囲には寄進された箱入りの阪東札所三十三観音、および秩父札所三十四観音像が安置されている。

  龍蔵寺の大銀杏 市指定天然記念物
樹齢約六百六十年の銀杏の木は、樹高約五十メートル、幹周四・三メートルで、市内では他に見られない大樹である。また、いちょうは昭和五十年四月に「市の木」に指定されている。
龍蔵寺縁起文によると、
「昔、この地に百丈(約300m)大白龍が棲息し、人々を悩ましたと云う。龍蔵寺開山・教蔵上人が白龍得度の際、白龍の首をもたげし地に龍蔵寺を創建し、龍の尾の止まりし地に弁才天を勧請し、龍頭・龍尾のありし箇所におのおの「いちょう」植えて形せり。」と記録されている。時に文和四年(1354)三月のことである。
惜しいもので龍尾のあったという諏訪神社境内に植えられたイチョウは落雷の為枯れてしまっている。このイチョウは、春の神馬と秋の紅葉が特に美しく境内を訪れる人も多い。

  龍水井戸
龍蔵寺境内に大きな白龍が棲み、境内の井戸に現れては毎日水を飲んでいたと云う言い伝えがあった。そこで人々はこの井戸を「龍水井戸」と呼ぶようになった。今でも釣瓶井戸の滑車が残されている。
多くの檀信徒は、この井戸水を飲み、極楽往生を願ってきたと云われる。また亡者たちは閻魔の庁まで来ると「龍蔵寺の龍水を飲んだか、高野山永福寺の施餓鬼会に詣でたか」と問われたとの言い伝えが語り継がれている。豊富な加須市の井戸水は、今は水道の水源として利用されている。

  鐘楼
天保五年(18349の打ちこわしの折の早鐘で、ひびの入った鐘であったが、戦争中の金属回収令により供出献納した。昭和五三年(1978)再建した。毎年、大晦日には除夜の鐘を打つ檀信徒で賑わっている。また、さまざまの儀式の折には鐘が撞かれることもあるが、日常は定時などに撞かれることはない。

  二十三夜堂
龍蔵寺中興・播誉上人の代の寛永十七年(1640)四月に建立されている。明治二十三年(1890)十月二十五日、境内別院龍光院を合併した。堂は正面からは宝形造りに見えるが、間口三間、奥行二間の寄棟造銅板葺一間流向拝付の堂である。
三夜まつり、二十三夜講が年中行事の一つであった。毎月二十三日、日の出を待ち、拝むために同信の人が集い、二十三夜様の前で謹行をし、飲食を共にする講であった。三夜待ち、三夜供養などとも言われ、近年まで引き継がれていた。
昭和六十一年(1986)五月に改築されている。扁額は竹之内大順の書で、西の二十三人衆、東の二十三人衆もともに掲げられている。

  淡島観音堂
淡島大明神の本地仏は観音菩薩で、女人の守り本尊とされている。天保三年(1832)壬申三月に建立されている。近郊の婦女子が詣でることが多い。また針供養は一ヶ月遅れの三月八日に行われていたが、最近は和裁を習う人も少ないため、詣でる人もまばらである。

            龍蔵寺刊行「龍蔵寺の歴史」より
  

北埼玉の寺社

臨済宗妙心寺派 海東山天祥寺 行田市埼玉5209

浄土宗 遍照山臺獄院光明寺 加須市本町14-43

北埼玉の寺院

浄土宗・光明寺    浄土宗・龍蔵寺    臨済宗妙心寺派・保寧寺    


臨済宗妙心寺派・天祥寺

西門 こちらがよく見る三門

庫裡

西門 高麗門

忍藩松平家初代藩主・松平忠堯墓所
戒名・大休院殿仙翁道閒大居士

忍藩松平家三代藩主・松平忠国墓所
戒名・泰嶺院殿忠峰道秀大居士

忍藩松平家四代藩主・松平忠誠墓所
戒名・霊源院殿潤渓了澤大居士

浄土宗 無着山龍光院龍蔵寺 加須市大門町18-51 

北埼玉の寺社

庫裡

梵鐘

鐘楼 宝形造銅瓦葺

北埼玉の寺社

弁天堂

弁天池

観音菩薩石仏

地蔵菩薩石仏

新しい墓石が多い一角

歴代住職の墓所

本堂屋根 逆立獅子

本堂より 境内墓地

本堂 入母屋大棟

本堂 向拝龍彫刻

本堂 内陣阿弥陀三尊のように見えるが
観音菩薩と地蔵菩薩である

本堂廻廊

向拝柱木鼻の龍と獏

向拝

虹虹梁

向拝 唐破風龍彫刻

本堂礎石

本堂 寺号扁額

本堂 入母屋造桟瓦葺三間唐向拝

供養碑?
観世音菩薩が線画で彫られている

観音堂

観音堂扁額

供養塔

釈迦如来像台座 3・11で?

浄土宗寺院で阿弥陀如来と思ったが
印相から釈迦如来 

知識技量に長じ観世音菩薩に帰依
不動岡住・髙橋ゆみ(清誉智月妙泉大姉)

修行する勢至丸 法然上人の幼名

地蔵菩薩 左手宝珠が欠損

不動剣と羂索?優しい不動明王

上層入口 常設階段は無い。閻魔大王と
釈迦如来・文殊・普賢の釈迦三尊像安置

山門周囲拾柱を守る十四の獅子頭 

高楼 三手先斗栱

参道 供養塔

山門後面扁額「鬼島」

金剛力士阿形像

金剛力士吽形像

遠忌記念碑 小坊主石像

山門 山号扁額

山門 入母屋造桟瓦葺
回廊付三間一戸八脚楼門

門柱 獅子彫刻

斗下の彫刻

斗下の彫刻

斗下の彫刻

境内境界の樹木

参道 場所柄重要な石標でしょうが
文字が解らない

加須市指定文化財ページより

  光明寺の釈迦三尊像  市指定文化財
光明寺の本尊は阿弥陀如来で、像高七十八・七センチメートル、
左脇侍は観世音菩薩、右脇侍・勢至菩薩で、三尊共に寄せ木造りの立像である。
三尊とも無名ながら同一の作者、同一の技法によって造られたもので、
室町時代初期と推定されています。
衣紋は、金箔に載金文様の総模様ですばらしいものです。
三尊の光背や蓮台、本尊の顔面と胸あたりの金泥は、
文政時代(1818~1830)に補修した旨が、荒廃の裏面に記されています。

                  案内説明より

太子堂

太子堂扁額

多層石塔

迷子子息・岡安仁義 岡安紀元句碑

岡安迷子 句碑

枯山水

ケヤキ

ソメイヨシノ

境内黒松

地蔵菩薩

子育観音・稚児観音

観音堂

乳房観世音菩薩と愛染明王・不動明王

境内社 招福稲荷神社

石庭

梵鐘鋳造 寄付者御芳名記念碑

梵鐘

鐘楼

庫裡

本堂大棟鳳懸魚

本堂 院号扁額

入母屋造桟瓦葺一間流向拝付

本堂外陣扁額 光明浄寺

宗祖 法然上人像

奉納燈籠

供養塔群と境内樹木

地蔵三躰水子供養奉納

水子地蔵尊

梵字五輪供養塔

無縁墓石供養塚

山門 寺号木札

乳房観世音 石塔

光明寺 参道

山門 桟瓦葺一間一戸薬医門

清秋の澄みて本来無一物   迷子
行春や一会の心離れざる   仁義
築山の峙つ寺の月涼し   紀元

岡安迷子氏は高浜虚子の弟子であり高濱虚子小諸疎開時代の支援者であった。戦後の荒廃期、雑誌「ホトトギス」の仮事務所が岡安邸に置かれた。

客殿・生忘庵

本堂

三門 外壁付薬医門

  天祥寺由来
幕藩時代の大名の数は二百余藩と云われているが、十万石以上は五十余藩のみである。而も大名格の中でも黒書院留間詰は最高の格式であり、彦根・井伊家、会津・松平家、奥平松平下総守家のほか五家に過ぎず、御三家・御三卿・加賀・薩摩・仙台等諸藩より上位であった。因みに五家とは、酒井家・久松松平家・榊原家・本多家・小倉松平家(小倉小笠原家)を指す。
初代松平忠明公は徳川家康公の外孫であり、初代唯一の大坂城主として大坂復興に当り、後に姫路城主となり西国探題の任を託された名君であった。大和郡山に天祥寺を開基、歿後天祥院殿を贈られた。臨済宗妙心寺派の本山・京都妙心寺の塔頭「天祥院」は天祥寺の末寺である。
奥平松平家九代・松平忠堯公が桑名藩より忍藩に国替えの際、天祥寺もそれに従い、公は忍藩領に天祥寺を建立した。同十一代松平忠国公、同十二代松平忠誠公の三君、この蛍域の地下に眠っている。
近時、この地は風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園となった。現在松平家の墓所は行田市の文化財の指定を受けて目下大方の檀家のご協力を得て、伽藍建立の途中にあります。

  旧藩主松平家の墓 (行田市指定文化財)
臨済宗妙心寺派・天祥寺は、忍城主松平下総家(奥平松下家)の菩提寺で、文政六年(1823)に松平家が桑名より忍城に移った後にこの地に移転されました。この墓地には、向かって右側より松平家九代(忍藩松平家初代藩主)忠堯、同十一代忠国、同十二代忠誠の三代の忍城主の墓が並んで建てられています。因みに同十代(忍藩松平家二代藩主)松平忠彦公の墓は、江戸の置ける松平家の菩提寺である臨済宗妙心寺派・楞伽山天眼寺に歴代当主と共に葬られています。
九代松平松平忠堯は、忍城にうつったときの当主で、桑名から天祥寺、東照宮などを移転し、天保七年(1836)には藩校「進修館」を再興するなど、家と家臣団の忍城への移転を見事に遂行しました。十一代松平忠国は、天保十三年(1842)に幕府の命令で異国船警備のために房総半島に出兵、その後品川沖二番台場の守備に当るなど幕末の国防に深く携わりました。十二代松平忠誠は、明治維新時の当主で、新政府が忍城下に迫った際に恭順の意を示し、無事に難局を乗り切りました。
これら城主の墓は、当初は墓地の北側に並んでいましたが、墓地の改修で現在の場所に移されました。墓石の形状は皆同じで、高さ4.5m 三重の台石の上に石の玉垣が巡らされています。
            案内説明より

水鉢

地蔵菩薩

堂内

左の扁額には 「醫王殿」とある

二十三夜堂 寄棟造銅板葺

供養塔笠と墓石の色が違っている 墓石の文字はしっかりと刻まれているので
再生彫でしょうか。享保19年甲寅仲春 奥の供養塔は宝暦五乙亥 四月吉日

浄土宗紋と徳川紋(寺紋?) 
寺と德川家の関係は分らない

山門 山号扁額

臨済宗妙心寺派 東安山保寧寺 加須市日出安1286

墓地と樹木

墓地と樹木

大銀杏

大銀杏根元

境内赤松

宝篋印塔

龍水井戸

真言宗智山派・総願寺 参照: 加須市のいろいろ1→総願寺


鷲宮神社 参照: 春日部周辺→鷲宮神社


玉敷神社 参照: 加須市のいろいろ2→玉敷神社


妻沼聖天山 歓喜院 参照: 埼玉のいろいろ→熊谷周辺→妻沼聖天山・歓喜院



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