東北の社寺めぐりその2


仙台の社寺その2北山の寺社


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仙台の社寺 北山 
 


日浄寺    東昌寺    資福寺    光明禅寺    覚範寺    輪王寺    秀林寺 


光圓寺    正圓寺    称念寺     昌繁寺    稱覚寺    龍雲院    満勝寺 


超光寺    江厳寺   大法寺    大願寺    荘厳寺    充国寺      永昌寺 


恩慶寺    仙岳院    清浄光院    延寿院    寿徳寺    龍寶寺    来迎寺




大山祇神社・御嶽三吉神社    青葉神社    鹿島神社    北山羽黒神社 


八雲神社 
 

山門 切妻造 桟瓦葺 三間一戸棟門

伊達家霊牌(位牌)所石碑
初代念西公(朝宗)二代念山公(宗村)

門前の子平町歯科医院(林子平より)
但し、医院のある所は隣町の八幡町

万城目正之墓 万城目家之墓
旅の夜風 りんごの唄 この世の花

  曹洞宗龍雲院
金臺山龍雲院は、慶長二年(1597)に伊達政宗公によって建立されました。天正十九年(1591)、豊臣秀吉が政宗の領地を南奥州・会津、出羽国米沢より陸奥国玉造郡の岩出山に移転させた。政宗はこれを機に仙臺進出を心に秘め、その先遣として龍雲院を造営したと云われている。
  林子平の墓
林子平は、元文三年(1738)江戸にて生まれ、名を友直という。父岡村良通は幕臣(旗本・御家人)として務めていたが、その後役を辞め浪人となった。やむなく叔父・林従吾の下で育てられ、養子となって林友直と称することになる。
後、姉の直子は仙台藩江戸屋敷に奉公に上がり、五代藩主・伊達吉村の憶えもよく、嫡子(六代藩主・伊達宗村)の側室となり「お清の方」と呼ばれた。その縁もあって養父・林従吾は仙台藩江戸藩邸医術方の禄を受けるようになり、養父の死後は兄・林友諒があとを継ぎ仙台藩医となり正式に仙台藩士として召し抱えられ、後仙台の地に移住した。林子平は兄の部屋住みとして仙台藩士であったが故あって禄を返上し、北は蝦夷・松前から西は九州を旅し、見聞を修めた。
その見聞中各地に在った蘭学者・西洋医学者などとの交友を温め、時代の流れを痛感することとなった。その中から「三國通覧図説」「海國兵談」を著し、三国(蝦夷・朝鮮・琉球)の領有図や北方(蝦夷・千島)に進出してきたロシアに対する警戒の重要性・海軍の必要性を説いている。
しかしながらそれらの考えは時代の先端を行きすぎていて、鎖国政策をとる幕府の危機意識が乏しく政策に反映することはなかった。故に幕府の意向を汲んで出版を請け負う版元を見つける事は困難であった。仕方なく子平は自費出版を決意し、自ら版木を彫り、出版元・須原屋市兵衛から刊行した。
しかし幕府は幕閣以外のものが幕府の方針に口を挟むのを禁じ、出版された両書は発禁との裁定を受け、版木共々処分された。子平はその処分に怯むことなく、自ら写本を書いて世に出し、その写本から写本を生んで後の世に伝えられる事となった。時代の流れの中子平は仙台の地に戻され蟄居を命じられている。
寛政の三奇人(高山彦九郎・上野国新田郡の人、蒲生君平・下野国宇都宮の人)とも謂れ、德川三百年の鎖国政策の夢醒ますべく、日本の進むべき道を説きしも、蟄居中無常の心境の中で晩年有名な六無の歌 「親もなし 妻無し・子無し・版木無し、金も無けれども・死にたくも無し」と呟き、自ら映して「六無斎]と号したと云われている。
寛政五年(1793)六月二十一日死去した。享年五十六

蟄居処分中の罪人であったため、龍雲院に葬られたが墓を建てることは許されなかったが、およそ五十年後の天保十二年(1841)に赦免され、天保十三年に甥の林珍平によって墓碑が建てられた。天保十二年といえば、黒船来航の十余年前であり、まさに日本近海でのロシアの脅威が現実となっている時であり、幕府としてもその主張に同意せざるを得ない政策を実行中の時である。当にその間、間宮林蔵の蝦夷・樺太測量や伊能忠敬の大日本沿海輿地全図(伊能図)が完成されている。墓碑は佛式の宝形造瓦葺の覆堂によって雨風から守られており、覆堂の横には伊藤博文、大槻文彦寄贈の顕彰碑が建ち、林子平の偉業をたたえている。
  細谷十太夫之墓
細谷十太夫は、仙台藩五十石藩士・細谷直高の長子として天保十一年(1840)に生まれた。幼少時に父と母を失い、祖父に育てられている。後、寺に預けられ、読み書きそろばんの寺子屋を修める傍ら、寺の雑事もこなしている。十六歳にして元服、名を細谷直英と名乗り、父の跡を継ぐことを許され仙台藩士としての道を歩むことになる。普請方役として気が荒く、難しい気の普請職人相手に、その心を読み職人集団を上手く仕事に集中させる名手であったと云われている。
程なくして上方の鳥羽・伏見にて朝廷を取り込んだ薩摩・長門の連合軍と、江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜率いる幕府諸藩連合軍との間で戦いが起こり、数の上では絶対的優位を保っていた幕府軍が薩長連合軍を侮り簡単に降伏するとの驕りから戦闘態勢を整えず進軍した結果指揮系統の乱れから敗走することとなった。しかしながらあくまでも局地戦であったので、体制を整え反撃に転じることは可能性としては大であったが、総大将であった徳川慶喜が敵前逃亡し、江戸の逃げ帰ってしまったのである。
德川御三家がこのありさまにより錦の御旗を作戦に使った薩長連合軍に雪崩のように諸藩が御旗になびき、もはや抗することが不可能な状態になったのである。まさに德川家は御三家により瓦解したのである。
話はそれましたが、その様な時代背景の仙台藩では、出羽・陸奥の各藩の情勢・動向を知ることが課題になり、他藩に潜入しそれらを探るための役目を任されるようになる。その後、紆余曲折があり、出羽・陸奥の諸大名は上方軍と戦うべく連帯し「奥羽越列藩同盟」を結んだので、探偵の役目は重きを失ってきたのである。
そんな折、奥州南部の情勢を探る中で白河城(小峰城)に於いて政府軍と列藩同盟軍との戦いを見て列藩同盟の盟主・仙台藩の藩士として一大決心をし、白河に近い宿場町石川郡須賀川にて列藩同盟協力隊「衝撃隊」を結成し隊員を募集、自ら隊長となった。
衝撃隊の隊員は細谷大太夫が各国に潜入、身を隠し姿変えて諜報活動を行った当時の知り合いが多く、職種も喧嘩剣法の侠客親分、流れ者のやくざや銃に手慣れた猟師、馬の扱いがうまい街道筋の馬子、農家の厄介者の次男三男などが応募したという。
衝撃隊は武士の集団では無いことから黒尽くめの衣装に長脇差(長ドス)一本や鉄砲で武装し、政府軍に夜襲をかけ、暗闇の中政府軍を恐怖に陥れている。その襲撃合戦回数や三十回余に及び、戦いにすべてに勝利する成果を上げている。衝撃隊が着ていた袢纏の背に鴉の文様が縫い込まれていたことや、黒尽くめの衣装で闇夜に見つからない迷彩色であった事から政府軍では「鴉組」と呼ばれていたという。
その後も仙台藩と共に政府軍と戦い奮戦空しく仙台藩は降伏、会津藩も降伏するなど列藩同盟は崩壊した。政府軍からはその活躍が突出していることにより拘束手配されたが知人を頼って潜伏した。潜伏が政府軍に知られなかったのは細谷大太夫の人間性を慕ったものがいたからだろうか。話は大きくなるが、太閤記の若き木下藤吉郎の人たらしとヤクザ武士蜂須賀小六の実直さと似通った所があるような。
戊辰戦争の大赦令により罪をまぬかれた後、精力的に仙台藩旧領や北海道の開拓に尽力し、後陸軍に入隊日清戦争では陸軍少尉として中国で活躍した。晩年仙台に帰り、若き日に学んだ「海國兵談」の著者・林子平が葬られている龍雲寺の住持を務め、幕末の動乱や日清戦争で亡くなった多くの人々を弔っている。
明治四十年(1907)五月六日死去。享年六十八  龍雲院八世鴉仙直英和尚
細谷大太夫はその実績“負け知らず”に肖かって縁起を担ぎ、議員立候補の人々、請負業者・入札業者、商人、入学試験受験の学生など多くの方が参拝にきている。
  細谷地蔵 ~細谷十太夫と「鴉組」
諱は直英、武一郎とも称し、鴉仙と号した。慶応四年(1868)戊辰戦争・東北戦の際、仙台藩の大番士であった十太夫は密偵として二本松にいたが、五月一日の白河城攻防戦の敗戦を聞くや官軍と戦うため須賀川で民兵を募集、博徒、侠客等五十七人が集まった。『衝撃隊』と名付けたが、黒装束をまとっていたことから『鴉組』と呼ばれるようになり、後には実際に鳥を連れて歩いたと云われ、隊旗にも鳥を描いていた。
槍と刀を武器に夜襲を得意とし、三十余戦悉く勝利を収めたと云い、その勇猛果敢な戦いぶりは、『細谷からすと十六ささげ なけりゃ官軍高枕』とまで歌われ恐れられた。細谷からすとは『鴉組』、十六ささげとは棚倉藩(棚倉城)勇士十六名で結成された『精神隊』のことで、十六粒入るささげの種類に例えた言葉である。
戦争は、官軍の勝利に終わり、鴉組も翌年には解隊となった。しばらく身を隠していたがその後十太夫は陸軍少尉として西南戦争に従軍、また県吏員、牡鹿郡大衝道開拓場長として士族授産事業にかかわり、さらに日清戦争にも軍夫千人長として参加するなど多方面に活躍した。晩年は、仏門に入り、かねて敬慕していた林子平の墓所・ここ龍雲院の住職となった。墓は、本堂西側にあり、この座像はその十太夫の姿であり『細谷地蔵』と云う。
  万城目正之墓(作曲家)
昭和の歌謡史に偉大な功績を残している。祖先は稗貫(ひえぬき 稗貫氏・陸奥国稗貫郡の豪族、伊達氏&南部氏とも)と称し、源頼朝に仕え功をあげた。戦後(陸奥国平泉・藤原氏討伐)陸奥国稗貫郡を賜り、十八ヶ城を強化し拠点とした。戦国時代の享禄年間(1528~1531)稗貫郡鳥谷崎城に移り、領地経営にあたった。
以後、姓を萬丁目と称し、天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置きにより城陥落され領地を失った。文禄二年(1593)正月貞山公(仙台藩伊達家初代藩主・伊達政宗)が宮城野での狩りの折に、山岡志摩(重長)と、屋代勘解由(影頼)の計らいで目通りを許され、政宗公は萬丁目氏の委曲(詳しい生い立ち事情)を問われ言上したところ禄を賜り伊達家の家臣となった。この時に姓を「万城目」と改めた。寛永二年(1625)政宗公から家紋「九重水玉」を賜った。当龍雲院には、寛文七年(1667)に万城目家の菩提寺となったとの記録がある。
昭和の歌謡史は古賀政男で花開き、古関祐而から服部良一そして万城目正に受け継がれた。映画(愛染かつら)の主題歌「旅の夜風」と戦争末期に企画され、戦後の困難な時代にGHQ(連合国軍総司令部)の上映許可第一号となった映画(そよ風)の主題歌「りんごの歌」この作品で作曲家の地位を確立、日本の歌謡史にしっかりと刻まれた。
万城目正(本名侃)明治三十八年(1905)北海道十勝・中川郡幕別町で生まれた。上京し、武蔵野音楽学校でバイオリンを専攻し、昭和十一年(1936)頃から松竹キネマの音楽部を担当、「純情二重奏」など映画主題歌を作曲、昭和十三年(1938)日本コロンビアの専属作曲家となる。彼の作品に一貫して流れる旋律は、抒情的なムードと、しっとりとした浪漫の曲が多い。
外国のリズムを歌謡曲に用いて、「懐かしのブルース・別れのタンゴ・情熱のルンバ」など、高峰美枝子が歌った一連の名曲を世に贈り、「越後獅子の歌・悲しき口笛・東京キット」は美空ひばりをスタートさせ、「この世の花」は島倉千代子のデビューに貢献し、一世を風靡した「旅の夜風」は当時乙女の紅涙をしぼり、とりわけ「りんごの歌」は敗戦のショックで虚脱状態にあった多くの人々に大きな夢と、、明日に希望を与え今日の繁栄日本の礎となった。

昭和四十三年(1968)四月二十五日死去。 享年六十四
               案内説明より
     

  天台宗 眺海山清浄光院 (仙台大回向発祥の寺 萬日堂)
清浄光院は、寛文六年(1667)康国寺仙岳院の末寺として、仙岳院三世・亮榮法師の代に、仙台藩四代藩主・伊達綱村公が念佛廻向をする道場を建立したことが起源である。現在、比叡山延暦寺の直末寺院であり、仙岳寺との関係は解消(本寺⇔末寺)されている。
  大本山・天台宗 比叡山延暦寺について
近江国に生まれた最澄は宝亀九年(778)寺に修行の為に入り出家し、後に最澄と名乗った。その後、南都の寺院で修行を積み、郷里近江国比叡山に薬師堂を建立し、一乗止観院と名付けた草庵を開いた。一乗止観院は後比叡山寺と称され、平安京の鬼門に位置していることから都を守る寺として京の人々から崇められるようになった。
その後最澄は許しを得て遣唐使船に乗り、延暦二十三年(804)中国唐に渡り仏法を学んでいる。翌延暦二十四年、中国天台宗の開祖・天台大師智顗が確立した天台教学を伝授され、同時に『真言密教』『摩訶止観(禅)』『戒律』を学び帰国、比叡山寺に円・密・禅・戒の四宗融合の教えを確立した。
大同元年(806)日本天台宗を開創し、最澄死後(弘仁十三年六月四日)の翌年、弘仁十四年(823)天台宗開宗時の年号延暦を寺号に賜り延暦寺と改称し、同時に戒律寺として許された。天台宗は法華一乗(大乗仏教)を中心とした総合仏教であり、比叡山延暦寺は日本仏教の「母山」と称され、鎌倉時代には浄土宗・浄土真宗・曹洞宗・臨済宗・日蓮宗などの鎌倉仏教宗祖がここ戒壇寺院から発生している。また、当萬日堂廻向の融通念仏宗開祖・良忍も延暦寺に学んでいる。貞観八年(866)清和天皇より伝教大師の諡を賜り、後伝教大師最澄と称される。
  大回向
寛文二年(1662)仙岳院二世・天勇法師が始めた念佛(浄土教)修行に由来し、寛文十一年(1670)融通念佛が盛んだった京都大原から良忍上人の尊像を奉じ、南之坊憲真法師が融通念佛を伝承した。星霜三百五十年脈々と念仏回向が続き、後生極楽を願い『南無阿弥陀仏』の名号を念じ唱えられている。清浄光院(天台宗)は仙台大回向の一つで尚且つ発祥寺院であり、浄土宗常念寺、浄土宗願行寺の三寺院が持ち回りで行われるようになり現在に至っている。大回向(おおえこう)は仙台の方言で『おえこ・おいこ』などと親しまれ呼ばれている。
  萬日堂
大回向が三年一会で千日と数えるようになり、一万日(三十年)毎に供養の証として供養塔などを建立したことから、萬日堂と称されているが、正式な寺院名は清浄光院(しょうじょうこういん)である。境内地に五輪塔・阿弥陀如来像・聖観世音菩薩像・地蔵菩薩像・閻魔堂などが現存している。
  浄土教
天台座主(比叡山延暦寺の住職・貫主)三世・慈覚大師円仁が浄土教の中核となる念佛三昧を修行に取り入れ、後に延暦寺の僧・相応和尚(回峰行の祖師)の常行三昧(不断念佛)、十八世天台座主・慈恵大師良源の著述『極楽九品往生義略往』、その弟子・恵心僧都源信の『往生要集』は、日本の浄土信仰の発展に大きく影響し、浄土教の祖として後の浄土教の源流となっている。
  融通念佛
一人の唱える念仏が万人(多数の人々)の念仏となり、万人の念仏がまた一人の念仏に集約されるという考え方で、一人の念仏があらゆる人の念仏と融合し合って往生浄土を可能にすると説き、『他力往生』と名付けられている。『一則一切、一切則一』で『華厳経』に基づく考え方である。また、念仏だけでなくあらゆる善い行いが、他のあらゆる善い行いと融通すると説かれている。
良忍上人 比叡山に登って出家し天台教学を修学、後に阿弥陀如来の示現を受け、全国に『念仏勧進』行脚を行い、融通念仏宗を開創した。
  仙臺睦之墓と南無阿弥陀仏六字名号供養石碑 十万日融通念仏回向阿弥陀如来像
明治期の遊郭が在った常磐丁及び移転先の小田原北三番丁遊郭で亡くなった有縁無縁の遊女の遺骨を清浄光院に集め、仙臺睦之墓として明治三十七年石塔を建立、法名「慈照妙喜信女」を贈り回向墓として祀っている。南無阿弥陀仏六字名号供養石碑や野仏・野供養石碑等を当院に集め祀っている。
十万日融通念仏回向(三百年回向)供養・阿弥陀如来坐像を建立、清浄光院創開より三百年の昭和四十二年(1967)、に造立されたものと想像できる。十萬日融通念佛回向の横書き文字も左から書かれていて現代文字列である。
                案内説明より             

  浄土宗 増上山大願寺
伊達政宗仙台開俯直後の慶長八年(1603)市内立町に京都・浄土宗法輪山三縁寺の僧・實蓮社良盛格和尚が増上山三縁寺を開山したと云われています。仙台藩初代藩主・伊達政宗が江戸外桜田の仙台藩上屋敷にて寛永十三年(1636)五月二十四日逝去された。遺体は十日ほどかかって仙台に送られ、政宗の遺言に従って仙台城下経ヶ峯の地に埋葬された。現在の瑞鳳殿は埋葬地の上に建立された霊廟である。
その後、伊達家の七七の礼に法り、空棺を燃やす葬礼式を執り行い、その場所を土で盛り上げ周囲を柵で固め守護した。この塚を「灰塚」と称した。大願寺はその灰塚を守護し祀るために願ってその地を賜り建立された寺院である。
唐門の詳細について大願寺の案内板には次のように記されている。大願寺山門は向唐門(表裏とも唐破風)の形式で、総漆塗、金箔、飾金具を付した霊廟門遺構である。もと仙台市小田原高松の黄檗宗萬寿寺の境内にあり、伊達家四代綱村の夫人・萬寿院殿御霊屋の正門であった。萬寿院殿は小田原侍従(城主)稲葉美濃守正則の娘で仙姫と称し、宝永三年(1706)七月四日逝去、享年四十八であったと云われている。
霊廟は宝永四年に釿初(鐇初ちょうなはじめ)、本堂、拝殿等上棟し、同六年七月四日成就、尊像安置、供養が行われた。当山門は様式的には江戸中期、禅宗様式の建築で、霊廟と同時の宝永六年(1709)の創建とみて大過ない。明治維新後、当寺に移築し、一時期本堂の玄関に転用されたが、昭和八年(1933)山門としてこの位置に復興された。一部に損傷が進んでいたが、保存状態も比較的良好で、貴重な霊廟建築物として昭和六十二年(1987)二月仙台市有形文化財建造物として指定され今日に至っている。
  平成十年大願寺山門修復について
当山門はもと前面黒漆塗りを中心に、金箔、飾金具で装飾されていたので、それに則して復旧した。屋根はある時期に「小栃葺」を「杮葺」に替えたとあるので、桟瓦葺、鬼瓦を杮葺、鬼板の制に復した。台輪、梁、桁の木鼻類、大瓶束、蟇股、破風板等の細部意匠は、保存状態良好であるので、原則として現状に基づいて修復した。
四本の円柱の礎石、礎盤に変容が行われていたので旧状に近い形で復旧した。新補材の多い現桟唐戸の彩色、金具類の意匠、鏡板の紗綾形文様、また稲葉家の家紋など、遺材、旧材の痕跡に基づいて、創建期に近い形で復元した。旧御霊屋時代には唐門の左右には折廻し桟瓦葺塀が付いていたので、その意匠を勘案して、袖塀を付設した。
  大願寺山門 (旧萬寿院御霊屋門)
大願寺山門は元々大願寺の山門として建立されたわけではなく、明治の初期(十年頃)に萬寿院の墓所のあった市内小田原高松の御霊屋(寂静殿)の門を萬寿寺(青葉区高松2-14-8)から買い取って移築したものである。当初は山門として使用したわけではなかったらしく、後山門として再度移築したものと云われている。
萬寿寺が創建由来の萬寿院御霊屋門を手放した訳は想像するに、明治初頭の神仏分離令・廃仏毀釈の流れの中で、仙台藩の庇護を失い寺院存続の為に売却したものでしょう。萬寿寺の遺構としては他に市内東九番町にある常念寺の山門も元萬寿寺の山門であった。この門も一間一戸の向唐門であるが。萬寿寺は現在もその法燈を守り続けている。
萬寿院(相州小田原藩主・幕府老中稲葉正則の娘・稲葉仙姫)は仙台藩伊達家四代伊達綱村の正室として仙台藩に入った。子をもうけるもいずれも夭逝している。夫・綱村に先立つこと、宝永三年(1706)七月四日死去した。
享年四十八  「萬寿院殿寶蓮浄晃尼大姉」
萬寿寺が創建され葬られ、御霊屋を造営し祀られた。その後御霊屋は伊達家が仏教を離れたことにより取り壊され上記のごとく門だけは売却され現在に至っている。萬寿院の御霊は市内榴ヶ岡の孝勝寺廟所(通称正岡の墓)に改葬されている。孝勝寺廟所には二代藩主・忠宗の正室孝勝院と三代藩主・綱宗の側室で綱村の生母浄眼院が共に祀られている。
  東日本大震災と大願寺 (大願寺の鯱と大棟鬼瓦)
東日本大震災の為に本堂の大屋根の大棟が大きく痛みましたので、宗門・宗徒・の協力で修復しました。大棟の背が高かったため地震で揺すられ大棟が傾きましたので縮小、鬼瓦もその高さを四分の三ほどに低くして、三州瓦で今回新しく製作して載せました。さらに屋根瓦は、耐震工法を採用し改修ししました。
大願寺本堂は、創建より三度の大火に遭っていると思われていますが、現在の本堂は昭和八年九月、檀家総代の針生家の協力にて再建されたものであり、ここに展示している鯱と鬼瓦は再建された時のものです。この鯱と鬼瓦は、当時名人とうたわれた通町在住の大法寺檀家の瓦職人・十六代伊藤喜三郎氏の作品で、大変貴重な物であります。後世に長く保存しておくべきのものと考えております。
                案内説明より            

臨済宗妙心寺派 資福寺
資福寺は約七百年前の弘安年間(1278~11287)の四年または七年に出羽国置賜郡の領主・長井氏時秀入道西規が開基、宋僧・大休佛源禅師の開山で置賜郡高畠に建長寺派の寺院として建立された。また、弘安六年(1283)伊達家四代・伊達政依は、伊達家三代・伊達義廣の菩提を弔うため、陸奥国伊達郡桑折郷に観音寺、母の菩提を弔うために光福寺を建立しした。その後、長井氏は陸奥国伊達郡より出羽国置賜郡に侵攻した伊達家により敗れ、資福寺も伊達家の庇護を受けた。伊達家十六代・伊達輝宗(政宗・父)は美濃国から臨済宗妙心派の僧虎哉宗乙和尚(佛海慈雲禅師)を迎え、資福寺中興開山とし、合せて政宗の師として教育に当らせたと云われている。その時陸奥国伊達郡に在った観音寺、光福寺を資福寺に併せ米沢にて祀ることにした。戦国時代末期伊達政宗は、非業の死を遂げた伊達輝宗の菩提を弔うため覚範寺を建立、虎哉和尚を以て開山とし菩提寺とした。その後資福寺は伊達政宗の転出に伴い、岩出山城下、仙台城下と移り、現在地北山に寺領を賜り堂宇を建てた。この北山の地は仙台城より丑寅の方角に当り鬼門除けの寺院群として臨済宗五山を置いたという。資福寺は参道、石段参道、境内に咲く紫陽花が有名で、別名あじさい寺と呼ばれ、花の時期には参詣者で賑わうという。なお、置賜郡高畠の資福寺跡には伊達輝宗と家臣の墓がある。

  観音堂 仙台三十三観音第三番札所(聖観世音菩薩)
観音堂に祀られている聖観世音菩薩は以前、三条町の大法寺に隣接してあった定光寺にあったものである。定光寺は明治三十七年火災により焼失、明治の時代の流の中再建かなわず廃寺となっている。観音像はその後資福寺に遷されたもので、初期の観音堂は石造りといわれ、現在の堂は昭和五十九年建立された木造である。この聖観世音菩薩は天台宗延暦寺三世住職・円仁(慈覚大師)の作と云われている木造聖観世音菩薩立像で、奥州平泉・藤原秀衡の三男・藤原泉三郎忠衡の持念仏と云われ伝えられている。藤原忠衡は源頼朝の義経討伐の余波で、義経を擁護し敵対した兄泰衡によって討たれたと云われているが、義経同様、その子孫は津軽海峡を越え蝦夷の地に下ったとも伝えられる。藤原忠衡の持念仏であった聖観音像がどのようにして仙台の地に辿り着いたか、伝説さえも見当たらない。

  土井晩翠筆 聖観世音菩薩像(平和観音)線画碑
石碑中央に光背を付ける観世音菩薩の陽刻線画が彫られ、左下に土井晩翠筆とあります。観音菩薩上部には、「南無 観音 大悲者 百億 分身 無際涯  白隠禅師 」と縦書きで刻し、最上には 「江月照松風吹」と横書きで刻してある。また、石碑裏面には、「平和悲願に和す 嗚呼信ずる君には彗眼あり」昭和二十七年晩春 八十二翁 志賀貴洋史とあります。志賀貴洋史とは明治大正期の医学者・細菌学者で、赤痢菌の発見者・志賀潔博士であり、仙台市の出身で仙台名誉市民。
昭和三十二年一月二十五日死去 享年八十六

  千葉卓三郎記念碑
明治時代の初期、憲法制定に伴い各地で憲法の条文について検討が行われ、草案がなされるようになった。千葉卓三郎はその草案協議会に加わった中心的人物として活躍したが、若くして亡くなっている。その草案内容が世に出たのは、戦後の昭和四十三年になってのことである。東京都西多摩郡五日市町の素封家であった深沢家の土蔵から当時創案された日本国憲法と題した私擬憲法が見つかった。発見したのは歴史学者で、明治期の経済、行政、自由民権運動の研究者・色川大吉東京経済大学名誉教授である。表に出た憲法草案はある面で昭和憲法をも凌駕する内容もあったため時の話題にもなった。中心は、基本的人権の権利擁護に重きを成し、人民を政治・行政側から見た統治しやすさを制限する内容となっている。まさに統治される側から見た政治・行政の在り方が書かれている内容であった。俗にいう「片輪もの(身体障碍者)」や「気知がい(精神異常者)」「前科者(犯罪者)」などを権利外に置くなど、現在の憲法とかけ離れる内容も含まれている。ですが当時としては斬新な内容になっており、それらのことを総合的に見て驚きを隠せない草案である。江戸幕府に換わる明治薩長政治には、世に出たら抹殺すること確実な都合の悪い条文で成り立っています。
                案内説明より

  モクリコクリの板碑
モクリコクリの碑と称されている板碑(供養碑)がありました。弘安十年(1287)と延元二年(1337)のもので、現在は弘安十年の板碑が所在不明になっています。
もともとこの付近にありましたが、道路拡幅で移動され、現在は来迎寺境内に建っています。モクリ・コクリとは蒙古・高麗のこととも云われ、市内にある蒙古の碑と称されるものの一つです。弘安二年の板碑は表面が風化し、またこの碑の削粉が百日咳に効くという言い伝えがあったことから、長年にわたって削られ、碑文は不明瞭であったといわれている。
  栗原家之墓
境内に栗原家之墓があるが、栗原家について説明が記されていた。
それによると栗原家は来迎寺の檀那か大檀那であったろうと想像がつくが、以下に記してみた。
  栗原氏之墓
先祖栗原郡樋口村より龍寶寺門前八幡町へ出張の由三代の間委敷義不分明に付き略す。永榮より莫大の功に付き御同人より顕す、と系図書に記されてあり、この墓所には四代から九代の長男までの一族が葬られている。
  十代栗原基は都市計画により墓域が削除される事を慮り新たに仙台市北山霊園基督教墓地に栗原家之墓を設けた。本墓所は寺内三か所に分在していたものをこの地に集約改葬、五輪塔を建立して先祖の菩提を弔ったものである。次に、仙台人名大辞書および他に拠り各代の功を誌し後代に伝え兼ねて郷土史家の便に供したい。本辞書は墓碑銘から抽出簡略化されたものである。
  四代・樋口永榮、富商、通称仁右衛門、仙台の買人なり、性廉直にして貨殖を善くし数十年にして其の富封内に冠たり。
屡々(しばしば)金を藩に献じて国用を助けたる功により稟米三十四口を賜る。
安永三年九月二日歿す。享年七十五
弟・仁三郎は樋口家の祖となる。住居は八幡町二丁目から中島丁に通じるその名もゆかりの樋口横丁の東南に位した。安永三年は西暦1774年、平成二十七年を遡ること約二百八十年である。
  五代・栗原仁右衛門藤原榮久、栗原と改姓、仙台藩士、通称仁右衛門、嘗て金千八百余両を藩に献じて賞賜あり。老いて徳蔵と称す。
天明二年十月二十七日歿す。享年五十四
  六代・栗原仁右衛門長昌、大番組に擢んでられ三百十七石を食む
文政十年二月五日歿す。享年六十六
  七代・栗原徳蔵長孝、通称仁右衛門、日置流射術、柳生流兵法を学び、
別けて種田流槍術の皆伝を種田流七代・西城運之進より得、仙台藩の槍術指南役となり、道場を仙台外記丁に開き門弟を教授するその門弟八百余人を数えた。
明治二年九月二十五日歿す。享年七十四
  八代・栗原徳五郎長久、種田流槍術を相続し、養賢堂指南役を命ぜられ門弟千余人あり、
その千人を算したるにより盛宴を張り、その名簿は今に遺る。
明治九年五月三日歿す。享年六十
  九代・栗原徳之進長敬、第二高等学校の職員たり、
その校旗初めて成るや伝来の種田流に使用せる真槍を寄贈して柄となる。妻・安は第二高等学校剣道部師範・櫻田櫻磨の娘。
明治四十二年一月二十七日歿す。享年六十一
  九代徳之進長敬の長男・栗原競、日清戦争に続いて北清事変に出征す。
明治三十三年十一月九日、清国上海において戦死す。享年二十八
  九代徳之進長敬次男・栗原基家家督相続す。
        記 昭和五十九年十二月六日 五輪塔開眼  十二代・栗原健
                案内説明より
         

  真言宗 恵澤山龍寶寺
龍寶寺は文治年間(1185~1189)伊達家の祖伊達朝宗公が再興して伊達家の祈願寺とした寺で、古くは陸奥国鎮守府の将軍・坂上田村麻呂の鐘銘により平安期に創設されたものと推察されている。伊達朝宗は下野国芳賀郡中村荘、常陸国伊佐郡を領していた従五位下常陸介・中村常陸入道念西と同一人物あるいは念西の子息と云われ、所領の地名から中村氏または伊佐氏と称していた。
文治五年(1189)源頼朝の奥州平泉討伐に於いて頼朝に従い戦功をあげ、恩賞として陸奥国伊達郡を賜わった為、念西あるいはその子息が伊達郡高子岡に舘を建築移住し、旧氏から領地伊達郡の地名をとって伊達氏と称した。これが仙台伊達氏の祖・伊達家一世伊達朝宗と云われる。
下野国中村に在って祈願寺とされていた龍寶寺は伊達家の招きにより伊達郡に移り伊達家の祈願寺とされた。その後伊達家の転進と共に梁川、出羽国置賜郡米沢、陸奥国玉造郡岩出山と移り、仙台開府の際現在地を賜り創建した。その際境内に八幡宮を創建しているが、伊達郡高子岡に館を創った際にも鶴岡八幡宮を勧請し建立しているので(高子岡亀岡八幡宮)、龍寶寺と共に八幡宮も移ってきたと想像できる。
龍寶寺十一世住職・實濟大和尚により米沢成島八幡宮と大崎八幡宮を合併、一宮として祭祀され、別当寺として八幡宮の落慶法要の導師を務め、以後明治に至るまで「龍寶寺八幡宮」と公称されていた。また龍寶寺は仙台藩主より二百七十石を附され、塔頭六院、蓮乗院、龍成院、玉頭院、泉照院、東光院、別当坊にも各十石余、八幡宮の別当としての神供料を合わせると四百八十石余に及んでいる。さらに藩内一円に七十二ヶの末寺を持ち、城下最大の門前、「龍寶寺門前」(八幡地区一帯)を有していた。本尊の釈迦如来は八幡宮(八幡神)の本地佛として、仙台藩四代藩主伊達綱村により文殊菩薩、普賢菩薩の両脇侍を安置された釈迦三尊形式の尊像であり、京都嵯峨野・清凉寺の(清凉寺形式木造釈迦如来立像 国宝)模刻の北限ともいわれている。
この釈迦如来立像はもと陸奥国栗原郡金成に在る真言宗福王寺にあった釈迦如来を貞享二年(1685)に綱村が龍寶寺の本尊として納めたものです。像姿はガンダーラ様式の立像で施無畏・与願の印を結ぶ、背丈160.3㎝、寄木造、光背(挙身光)附。像の着衣表面には、朱彩色に截金文様も施されていましたが、現在はほとんどそれは確認することは出来ません。
この木造釈迦如来立像は、平安時代末期の商人金売吉次(かねうりきちじ 陸奥国の金を商いとす人)が、京より勧請した如来であると云われている。明治三十六年国宝に指定されていたが、昭和二十六年国宝再編で国指定重要文化財になった。
この釈迦如来立像は、出世如来、願掛け如来、子育て如来などと云われ尊崇されている。四月八日の花祭り(灌仏会 仏生会 釈迦の誕生日)は世に知られているところである。

  御嶽三吉神社
信濃国御嶽山頂の御嶽神社と出羽国太平山三吉神社を合祀した神社である。東北地方に多い三吉神社の総本宮でここの神が勧請された神社である。仙台駅東口にも三吉神社が鎮座しているが同じ神をいただく神社である。
出羽の霊峰太平山・神々を祀る太平山神社は、天武天皇の時代の白鳳二年(673)、役の行者小角の創建と伝えられています桓武天皇の延暦二十年(801)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東夷討伐の時、戦勝を願い諸堂を建立したとも云われています。その際奉納されたと伝わる鏑は神社の「神宝」として今に伝わっています。また、霊峰太平山は古くから薬師の峰(薬師如来が安置されていた?)・修験道場の山として崇められた山で、多くの神徳を求める信仰者によってひらかれた山岳信仰の山です。
御祭神は、大己貴大神(大国主命)、少彦名大神、三吉大神の三柱を祀っています。三吉大神は出羽国に実在したと云う藤原鶴寿丸三吉を神格化した神であると云われています。太平山の麓の城主となった藤原鶴寿丸三吉は、武芸に優れ人望も厚く、人々から名君と賞されておりましたが、大井太郎、五郎の妬みをかい、、望まぬ戦の挑発を受ける身になったために、太平山に引き籠り、御祭神を深く信仰して厳しい修行を重ねて『現人神』になり、宿敵を滅ぼしました。人々はその威容に驚き、三吉大神として崇拝し、『郷土の神』として長年にわたって祀るようになったと伝わる。

御嶽神社は信濃国木曽郡御嶽山に鎮座する神で、古くから富士山信仰と並び称される山岳信仰の山として、修験者の修行の山として崇められてきました。各地に存在する御嶽講の総本宮であり、三吉神社と同じく里宮と山頂に鎮座する奥宮が置かれている。御祭神は太平山と同じ神の 大己貴大神、少彦名大神、と国常立尊の三柱を祀っている。国常立尊は歴史書「日本書紀」によれば、世の形が定まらぬ神代の時代に最初に現れた神と云われている。山頂・奥宮は文武天皇の大寶二年(702)、信濃国司・高根道基により創建され、光仁天皇の宝亀五年(744)信濃国司・石川朝臣望足が勅命を奉じ登山して悪疫退散を祈願され、次いで延長三年(925)白川少将重頼が登山、神殿を再建した。後、応保元年(1161)後白河上皇の勅使が登山参拝されたと伝わる。御嶽山一合目に鎮座する里宮は、文明十六年(1484)再建され、文亀三年(1503)再興されたと記録にあります。
御嶽山では古来登山する時は麓で百日精進潔斎の修行をしてから登拝したものでありました。後の天明二年(1782)に覚明行者が黒沢口登山道を、寛政四年(1792)に普寛行者が王滝口登山道をそれぞれ開き、講社を作って軽精進潔斎で盛んに登山を奨励し、続いて一心行者、一山行者もこの跡を継ぎ、また、諸行者が相継いで「神山」の尊きことが全国に広まり、今日の盛大なる御嶽講社の基礎となっています。

現在の地には初め太平山三吉神社の御分霊を祀った三吉神社が遷座されていたと云い、東北地方の人々から崇められていた。
後御嶽神社を合祀し、御嶽講も開かれ、御嶽三吉神社と称されるようになった。また境内社・出羽三山神社は、出羽三山と言われる月山、湯殿山、羽黒山に鎮座する神々を祀った総称である。その内羽黒山に鎮座する出羽三山神社は三山の神を祀る三社合祀殿が建立されており、簡易に三社に参拝することができる。当社の神社はその御分霊をいただき創建されたもので、社殿は鷲ヶ森にあった大山祇神社を移築したものと云われる。
                案内説明より
           

  天台宗眺海山延壽院(浄圓房)
延壽院は、創建当時仙台東照宮の別当寺・眺海山康国寺仙岳院の傍院として、万治三年(1660)に建立され、寺領三十五石を与えられていましたが、文政元年(1818)五月に焼失してしまいました。文久元年(1861)仙岳院十五世住持・亮湛大和尚により再建されました。その際に、浄圓房の木彫像を一体造り「浄圓房大権現」と尊称し、「阿弥陀如来」の石像と共に御本尊として本堂「浄圓堂」に祀り、今日に至っています。当院では毎月の十五日に阿弥陀如来の縁日とし、開帳しています。
  浄圓房大権現
浄圓房大権現とは、江戸時代初期に仙岳院で修行して「浄圓房」と呼ばれた実在の僧侶「浄圓大徳」の神格化したものです。韋駄天(寺院の庫裡等の守護神 健脚者の喩え)のような健脚で、師僧が臨終のときに好物の最上(山形県新庄市・最上郡)の豆腐を所望したところ、即座に最上まで往復して豆腐を持ち帰り食膳に供して喜ばれたと伝えられている。
浄圓は一生の間、湯殿山へ往復することに百三十八回におよんだと云われ、その霊験を讃えて、「浄圓房大権現」と尊称して祀ったのである。その健脚をなぞらえて足の病など難病を治す霊験があるとして、今も尚尊崇を集めている。
  延命地蔵堂・延命地蔵菩薩像
延命地蔵堂と延命地蔵菩薩像は、慶応三年(1867)の四月、信徒の喜捨(寄付)によって建立されました。地蔵堂は平成十八年に修理が施されました。延命長寿を祈願することのほかに、耳がよく聞こえるようにと「カワラケ」を供えて延命地蔵様に願うと、聞こえるようになると云い伝えられてきました。毎月の二十四日地蔵菩薩の縁日には延命地蔵堂と扉が開けられます。
  疣(いぼ)神尊
浄圓房が出羽国羽黒山から背負い持ち帰ったものを祀ったものです。水疣などの疣をとると云う尊像で、現在でも参拝する人が多くいます。この石像からイボを想像するのは大変困難で、疣に悩んでいた人がお参りした後疣が治ったとの噂が立ち、
それらがもとで名付けられたものでしょう。石像の下部にある二つの丸いものがイボのように見えるし、キン〇のようにも見えるし,仏様の前で失礼なことです。
  一隅会館(庫裡・会館)
伝教大師最澄の志を受け継いで始められた一隅を照らす運動の一環として、平成六年十一月に檀信徒の懇親と地域住民の親睦を図ることを目的に建設されました。
                案内説明より
        

  浄土宗荘厳寺
功徳山成就院荘厳寺と号し、浄土宗の寺院である
荘厳寺の創建は慶長六年(1601)、本材木町に住む鬼同庄兵衛が屋敷内に仏堂を建立し、、京都・浄土宗朝陽山檀王法林寺に勧請、功徳山荘厳寺を賜り開山し、尊像を祀ったのが初めと伝えられているが、詳細は判っていない。
伊達政宗の仙台築城町割り再配置に伴ない元和二年(1616)北山に寺領を賜り、現在地に移転した。仙台三十三観音第六番札所寺であり、観音堂には十一面観音菩薩像が安置されている。また、荘厳寺山門は伊達騒動(寛文事件)の際江戸で斬殺され、逆臣とされた原田甲斐宗輔の屋敷が取り壊された時に荘厳寺に移築されたものと伝えられ、移築の際門柱、梁、桁などをすべて裏返しにして立てたという。巷では誰彼言うこともなく「逆さ門」と呼ばれ、原田甲斐の逆臣を伝えられる門となっている。
逆臣の屋敷の一部でもあった門を移築したと伝えられるには荘厳寺にとっても勇気のあることで、原田家断絶、一族切腹・斬首の道を哀れんだだけとは思えない。逆さ門は何を語るべくここに建てられたのだろうか。原田甲斐屋敷について記されているWebページには、「屋敷は門を残して取り壊された。当時堅牢な四脚門であった門を藩は取り壊そうとしたが、解体工事に取り掛かると死人が出たり怪我人が出たりで、困難を極めたと伝えられている。そのために焼却も考えられたが、夜な夜な風が吹くと子供の泣き声が町中に聞こえたと云われる。伊達家の信任が厚かった荘厳寺住職が移築をし迷える霊を鎮めたいと許しを請い門を譲り受けた。」とある。
物理的に見て五千石の武家屋敷が死者も怪我人も出なくて解体できて、はるかに小さな門が解体できないとは思えないし、門や屋敷塀を解体してから屋敷を取り壊すのが順序であるから、その言い伝えにも想い巡らせることができる。境内には原田家一門の菩提を弔うと伝えられている三躰の地蔵菩薩石像がある。
  荘厳寺山門
切妻造、本瓦葺、袖塀付・三間一戸薬医門である。
桁行六メートル十一センチ、梁間二メートル九十一㎝、高さ五メートル五センチ。江戸時代初期の上級武家屋敷門の様式を伝るものとして、昭和六十一年(1986)仙台市指定有形文化財に指定された。この門の由来については伊達騒動(寛文事件)にまつわる話が伝えられている。
江戸城下の幕府大老・酒井忠清屋敷での尋問中に刃傷事件(寛文十一年三月二十七日)を起こし、その場で斬殺された原田宗輔(甲斐)は逆臣(不忠者)とされ、不忠者である原田屋敷の表門である門を移築するにあたって、裏返し建てて「逆さ門」としたとされています。
平成五年に山門の解体修理が行われる際にこの山門の調査が行われた。その結果、この門における原田甲斐家との関係については何ら確証のあるものは得られなかった。しかし、門再建についての由来となっている「逆さ門」については、主柱、脇柱ともそのノミ穴跡等により木元・木末を上下逆さまにさらに左右の位置も取り替えて再建されていることが判った。
再建するには通常このような形で移築・再建することはなく、ある意図を以て木取りを変えさせたものと思われる。この調査では前述のように直接的な証拠が見つからないため、この門が原田甲斐屋敷の門とは断定されてはいませんが、「逆さ門」の伝承が証明されたことは、慎重な調査がされた上での貴重な成果といえる。
漢文事件後、原田宗輔の四人の男子は切腹、嫡子宗誠の五歳と一歳の息子も処刑され、原田家の男系子孫は消滅した。山門の調査については同じく伊達騒動で処分を受けた(土佐藩山内家にお預け、その他の子女も他家にお預け)一関藩主・伊達兵部大輔宗勝の一関城・城門を移築されたとされている、平泉中尊寺本坊表門との比較も調査対象となった。
伊達騒動によって廃絶させられた原田甲斐と伊達兵部の二家の屋敷門と伝えられているものが共に寺院の山門として現在に残されていることは、色々と想像を喚起させるものがある。調査の結果、残念ではありますが、現状では原田甲斐の屋敷門であるとの確証は見つかりませんでしたが、江戸時代初期の大藩である仙台藩の上級武士の屋敷門の遺構としてこの荘厳寺の山門は貴重であり、仙台城や若林城の門とされるものは市内に残されていますが、重臣の屋敷門は無く、歴史的価値が高いものである。
片平丁の原田甲斐屋敷跡は現在仙台高等裁判所があり、思わせぶりの感がある。
                 仙台文化財調査荘厳寺山門より

  臨済宗東福寺派 満勝寺 
當午山満勝寺は、伊達氏初代・伊達朝宗公(念西公)の菩提寺として、鎌倉時代の弘安六年(1283)に伊達氏四代・伊達政依(願西公)が陸奥国伊達郡桑折まちに創建されたとされていますが、近年の調査により政依公以前に満勝寺が建立されていたことが明らかになりました。しかし、満勝寺が伊達家の誰によって建てられたのか、あるいは伊達家が陸奥国伊達郡を領する以前に建立されていたのかはまだわかっていません。政依公は満勝寺のほかに、光明寺、東昌寺、観音寺、興福寺を建立しています。京都東山・慧日山東福寺第五世・仏智禅師を招聘(しょうへい)して、五山の開山(満勝寺は中興開山)とした。政依公はこれらの五寺を、京都、鎌倉に倣って伊達五山と称しました。
江戸期に入って伊達氏十七代・仙台藩伊達家初代藩主・伊達政宗が仙台築城後の元和三年(1617)に北山に小庵を建立し、満勝と称しました。伊達五山の内観音寺、興福寺は後廃寺となり、それらを資福寺に吸収しています。
資福寺から分かれた覚範寺を含めて、満勝寺、東昌寺、資福寺、光明寺、覚範寺を北山の名を冠して北山五山と称しています。その後、伊達氏二十世・仙台藩伊達家四代藩主・伊達綱村によって現在地を賜ったのは、寛文七年(1667)のことです。藩政時代には、御一門格寺院に列せられるなど、伊達家より永く篤く護持されてきました。
                案内説明より

  無為山東昌寺由緒
東昌寺は弘安六年(1283)福島伊達郡の桑折に開基・開山されました。記録に残る伊達家の初代・伊達朝宗から三代・伊達義広までははっきりとした形の菩提寺というものは持っていませんでした。伊達家四代・伊達政依は仏教の帰依が篤く、自分自身の寺として(菩提寺)東昌寺を開基しました。これが伊達家最初の菩提寺となりました。同時にご先祖の寺、伊達初代朝宗とその室(下総結城氏流・白河結城氏と云われる)の菩提寺として二ヶ寺、それから父伊達義広と母の菩提寺二ヶ寺を、全部で五ヶ寺を建立しました。
これらの寺は京都・鎌倉の五山にならって「伊達五山」と称されました。京都東山東福寺正覚庵住寺・山叟恵雲和尚(勅諡・佛智禅師)に願い五ヶ寺の開山としました。東隣の光明寺は初代の室を祀った菩提寺であり、北八番丁にある満勝寺は初代を祀った菩提寺です。さらに伊達家三代夫妻(伊達政依の両親)を祀った寺が、観音寺、光福寺という寺でありました。観音寺・光福寺は現在では廃寺になっていますが、廃寺の際資福寺が菩提寺を継ぎ祀りました。ただし、伊達政依が桑折開基した観音寺は浄土宗寺院として現在も法灯を守っています。
その後この資福寺から伊達政宗の父輝宗公の菩提寺として政宗が覚範寺を建立し、そこに祀りました。ここ北山の地に建つ東昌寺、光明寺、資福寺、覚範寺、満勝寺(仙台最初の地はここ北山に在り、後に北八番丁に移りました)の五ヶ寺は弘安六年に伊達政依によって建立された伊達家最初の寺の起こりなのです。その中にあって東昌寺は政依自身の寺ということで特に重要視されてきました。室町時代には東昌寺は「安国寺」という寺号を賜わっています。
「安国寺」という寺号は、奈良時代の国分寺に相当する寺で、一国一寺の選ばれた勅命級の寺であって、解り易く言えば東昌寺は「陸奥国一之寺」(福島、宮城、岩手、青森の一部)との格式を与えられた寺でありました。最盛期には堂宇多く三百人の僧が修業に励んでいたとの記録も残っています.
伊達家と伊達輝宗・政宗父子の領土拡大に伴い居城も移り、そのたびごとに伊達家に従って寺も移りました。永徳三年(1383)、第五世・世韻陽和尚の時には伊達家庫八代・伊達宗遠に従い羽州(山形、秋田、青森の一部)置賜郡長井荘米沢に、更に天正十八年(1590)、第十四世大有康甫和尚(伊達政宗の大伯父にあたる一風軒和尚)の時には伊達家十七代・伊達政宗に従って岩出山城下に移り、慶長五年(1600)仙台の地に移りました。
仙台城築城に際し北方の丘陵地帯に寺領を与えられこの時も東昌寺は中心的な寺ということで非常に重要な場所を与えられ建立されました。これは芭蕉の辻(現 日本銀行仙台支店・新仙台ビル交差点)から北に通じる街道の突き当りに位置し、仙台城の鬼門(丑・寅 北東)の方角に当ることから鬼門除けの寺として最重要視されました。
現在の通りは、芭蕉の辻からの突き当りには青葉神社になっていますが、青葉神社は明治時代に建立されたもので、元来は青葉神社の中心に東昌寺があり、寺を囲むようにして東に満勝寺、光明寺、西に覚範寺、資福寺が並び正に「五山」を体をなしていたわけです。今では俗に「北山五山」と言われているその中心の位置に東昌寺を据えたというところに伊達家との深いつながりを感じさせることができます。慶長十七年(1612)には塔頭五ヶ院を創立、寛永二十年(1643)仙台藩伊達家二代藩主・伊達忠宗から三百石の寺領を与えられ、一門各に列せられる寺院になっています。
しかし、明治維新とともに、当寺第三十二世・敬州和尚の代に至って仙台藩伊達家の庇護を失うことになりました。明治六年(1873)十月には、境内西側に藩祖政宗公を祀る青葉神社が建設されたために、寺の建物は現在地に移転されました。この伽藍や殿堂は明治九年(1876)四月十八日に起きた山火事によってすべてが焼失してしまいましたが、明治三十三年(11900)三月に新しい殿堂・庫裡が完成しました。
現在の建物はその後三十三世・恵修和尚、三十四世・康嶺和尚、三十五世・康和泉和尚の代に修復を加えられたものです。また、平成二十三年(2011)三月十一日に起きた東日本大震災では、東昌寺も鐘楼が倒壊するなどの大きな被害に遭いました。しかし、平成二十五年(2013)内にほぼ新築・修復を含め復旧工事が完了し、元の姿に復元しました。
            東昌寺HP案内説明より
            

  浄土宗昌繁寺
昌繁寺は、いわき市の専称寺の末寺で慶長六年(1601)、大工棟梁・福田鶴右衛門建立されたと云われます。鶴右衛門は陸奥国石城郡(むつこくいわきぐん)(現 福島県いわき市)に在る、浄土宗陸奥国総本山・名越壇林、梅福山報恩院専称寺より僧を招き開山とした。鶴右衛門は浄土宗に入信し繁誉昌空と号し、故に山号を「大鶴山」、寺号を「昌繁寺」としたと云われる。
  山門 観音堂 (仙台市登録文化財)
山門は切妻造り、本瓦葺き、一間一戸の四脚門で、最近桟瓦葺から本瓦葺に葺き替えた。本堂手前にある観音堂は仙台三十三観音霊場・五番札所になっています。観音堂は二間の宝形造り桟瓦葺きで向拝付で、鎌倉末期造像の聖観世音菩薩が祀られています。
                案内説明より          



青葉神社  
仙台市青葉区青葉町7-17

  曹洞宗 微笑山江厳寺
伊達政宗と正室・愛姫の三男竹松丸は、元和元年(1615)三月十八日七歳で夭折なさいました。江巌寺開山・輪王寺十世麟菴光金大和尚の導師にて葬儀が営まれ、『江巌寺殿恵春大禅定門』と法諡されて輪王寺に葬られました。竹松丸の死を痛く悲しんだ政宗公は「いとけなき 人は見果てし ゆめかとよ うつつに残る 老いの身のうき」と詠じられています。
竹松丸の菩提を弔うため愛姫を開基として一寺を創建し、微笑山江厳寺と号しました。輪王寺竹松丸墓所には、元和元年三月二十六日に殉死した家臣で法名「道罷禅定門」と「道休禅定門」の墓が建てられています。また、同墓所内には相馬家から田村家の嫁し、愛姫の生母・於北の方(相馬氏)の墓もあり、祖母と一緒に眠っている平成二十五年の江巌寺開創四百年を迎えるに当たり、竹松丸の御霊を御守りするおん霊屋を建立いたしました。御霊屋にはたけまつまると殉死した二人の家臣の位牌をお祀りしております。
竹松丸の生母・愛姫は陸奥国田村郡三春城主(現 福島県田村郡三春町)田村大膳太夫清顕の一人娘である。群雄割拠、弱肉強食の戦国にあって、会津・蘆名氏、常陸・佐竹氏、出羽・最上氏、出羽米沢・伊達氏等の有力勢力の中から隣国陸奥伊達郡を領、出羽国に進出していた伊達家を同盟者として田村家の安泰を図りました。当時伊達家の当主輝宗も了承し、同盟の条件として愛姫が伊達政宗に嫁すことになった。しかし、当主・田村大膳太夫に愛姫のほかに子ができず、また政宗と愛姫の間にも子ができず、愛姫の子が田村家を継ぐという当初の目論見が外れ、大膳太夫の死後田村家の外戚(大膳太夫の夫人の実家)が三春城の実権を握るに及んで政宗はやむなく三春城を攻略した。
愛姫が子を産んだのは、伊達家の嫁してから十五年後の文禄三年(1594)になってからのことで、後、德川家康の六男・松平忠輝の正室となる五郎八姫(いろはひめ)である。愛姫はその後慶長四年(1600)に嫡子・伊達輝宗を慶長八年(1603)に次男伊達宗綱を、慶長十四年(1609)に生まれたのが竹松丸である。
政宗四十三歳の時である。元和元年(1615)三月十八日、竹松丸は夭逝した。大坂夏ノ陣開戦の約一か月前のことである。伊達政宗はどのような想いでこの戦いに臨んでいったのだろうか。病に死すのも無常、人との戦に死すのもまた無常、政宗は実りの無い(敗者のはっきりした戦い)戦に臨む無常を憶えたに違いない。真田信繁(幸村)の長女・阿梅を与った片倉小十郎重綱(重長)、それを許した政宗の心中を垣間見る。愛姫は江厳寺を開創するにあたって、田村家に伝わった不動明王を信仰し自らの念持仏とし伊達家に嫁したが、幼くした亡くなった竹松丸の守護仏として制多果童子、矜羯羅童子の脇侍を添えて寄進し本尊としている。



臨済宗東福寺派 當午山満勝寺  
仙台市青葉区柏木3-5-13

本堂 寄棟造桟瓦葺き
仙台寺院最古の本堂と云われている

東日本大震災の被害か? 無造作に置かれている大屋根棟瓦 展示物?

  浄土真宗本願寺派(西本願寺)稱覚寺
稱覚寺の開基・開山については資料が少なくよくわからないが、仙台の寺院の多くが陸奥国伊達郡、陸奥国会津、出羽国置賜、などに開山された寺院を伊達氏が拠点地が変わる度に移設していることから、稱覚寺も例外ではないと思われる。仙台城築城に伴ない城下町割りを行った際に現在地を与えられ、堂宇を建立したと思われる。
境内にある銀杏の説明文に、延宝五年(1677)本山・京都西本願寺より寺号を下附されたと記載されているが、浄土真宗分派の後で、法主より寺号御筆を賜ったのか、寺号そのものを賜ったのかにより、稱覚寺としての開山は時代が異なる。が、このような節目の時の事柄であることを思えば、説明文にある十二世・智鑑和尚は中興開山したと云えよう。
  稱覚寺の銀杏
この銀杏の親株は、東京港区麻布の浄土真宗本願寺派・麻布山善福寺境内にあり、俗に「逆イチョウ」と呼ばれ樹齢750年以上と云われている。「逆イチョウ」の由来は、親鸞聖人が地に挿した杖が根を張り成長したものであると伝えられ、別名「杖銀杏」の名が付いているが、その枝振りが下に向かって伸びたように見えることから名付けられてという。
延宝五年(1677)当寺第十二世・智鑑大和尚が本山・西本願寺(龍谷山本願寺)より寺号下附のため上洛し、その帰途麻布善福寺の「逆銀杏」の枝を貰い受けて杖とした。稱覚寺の戻り、親鸞聖人の故事にならって境内のこの地に挿したるところ、又しても根を張り枝が繁茂し現在に見る古木となったと伝えられている。
稱覚寺は仙台空襲により堂宇が焼け落ちたが、この銀杏もその渦中にあったが、本来火に強い樹木としての生命力により現在も芽を吹き木陰をつくる樹木となっている。地上数メートルに幹の太くなっている処があるが、その時の生命力の痕跡でしょうか、気根が覗いている。
                 案内説明より                     

本堂

本堂 寺号扁額

庫裡



日蓮正宗 上方山日浄寺  
仙台市青葉区堤町2-2-1

デスペア(絶望) 荻原守衛作 碌山美術館蔵

  輪王寺山門 (仙台市有形文化財)
輪王寺は、伊達氏十一代伊達持宗によって嘉吉元年(1441)、陸奥国伊達郡梁川(現 福島県梁川町)に創建され、伊達氏に従って仙台の地に移ってきた。現在地北山に移ったのは、慶長七年(1602)で、御一門格寺院として大伽藍を形成した。この山門が建立されたのは、元禄四年(1691)仙台藩四代藩主・伊達綱村により仏殿、客殿などが整備された際に、同時に建立されたと云われ、明治九年(1876)の北山大火の際焼失を免れた輪王寺境内唯一の建物である。三間一戸の八脚門(主柱四本の前に控柱四本と後ろに同じく四本の合わせて八本の控柱を持つ門)で、切妻造り、本瓦葺で柱はいずれも円形で、胸の左右に鯱が載り、正面左右に仁王像が安置されている。江戸時代中期の堅実な手法を伝えている門である。

  遠山 覚範寺
伊達家十六代・伊達輝宗は天正十二年(1584)家督を嫡子・政宗に譲って舘山城下に隠居しましたが、翌天正十三年(1585)に政宗とともに陸奥国安達郡二本松に出陣しました。二本松城主・畠山義継は、輝宗の労もあり降伏の意を伝えて政宗との間で和睦が成立した。城主・畠山義継は伊達家の領地になった宮森城に伊達輝宗を訪れ骨折りの礼に赴いたところ、謀られ、輝宗を拉致、居城の二本松城に連れ帰り人質として利用する行動に出ました。
それを知った政宗は父を奪還するために駆けつけましたが、父を楯にされたのでやむなく鉄砲を打ちかけ畠山義継を討ち取り、楯となった輝宗も亡くなるという政宗にとって先行き不透明な事態となった。輝宗の亡骸は翌日九日に旧領信夫郡の寿徳寺で荼毘に付され、遺骨は置賜郡高畠夏刈の資福寺に埋葬された。輝宗の腹心である四名の家臣が殉死しています。法名「性山受心大居士覚範寺殿」 享年四十二
その後政宗は天正十四年(1586)になって二本松城を攻略、輝宗の菩提を弔うため、米沢の西方遠山村の覚範寺を建立、祀りました。資福寺の住職であり、政宗の師である虎哉和尚を招き覚範寺の開山としました。
天正十九年(1591)、伊達政宗は豊臣秀吉の奥州仕置きの命により大崎岩出山に移り、覚範寺も米沢に在った伊達家ゆかりの寺社とともに岩出山、仙台城下、北山に移っています。米沢の覚範寺はその後廃寺となり、わずかに字名に覚盤寺、覚盤寺門前の名が残っているだけとなっています。
昭和六十二年から六十三年にかけて覚範寺をはじめとした伊達家ゆかりの寺院跡の史跡登録のむけて発掘調査が行われ、松林の中から、てるむねや殉死者の霊を祀ったと考えられる御堂の礎石や古銭・陶器などが発見されています。
また、平たい小石にお経を一字ずつ書き写した「一字一石経も発見されています。見つかった石は千三百六十七点にのぼり、中には虎哉和尚の筆と思われるものも発見されています。遠山覚範寺跡は、現在は上長井史跡保存会によって整備され、時折仙台の覚範寺などからも参詣者が訪れています。
                米沢市歴史探訪より
                              
  保春院の墓所
この墓所の向かって右が、俗名を義姫(最上義子)といい、伊達政宗の生母である。出羽国山形城主・最上義守の娘で最上義光(もがみよしあき)の妹にあたり義光は政宗の伯父になる。米沢城主・伊達輝宗に嫁ぎ、政宗(幼名梵天丸)と弟小次郎(竺丸)をもうけている。輝宗の死後、仏門に入り、保春院と号した。弟小次郎を偏愛した保春院は、小田原参陣前の天正十八年(1590)政宗を毒殺し、次男小次郎を擁立しようと試みたが計画は失敗、政宗自ら弟小次郎を成敗し、保春院は山形の実家に逃走した。この事件については、小田原城攻めに遅参し、秀吉の機嫌を損ねて伊達家存亡の危機を迎、政宗を亡き者にしなければ行き先危ないと、秀吉に降っていた兄である義光に入れ知恵されたためとされているが、政宗が自分の出立後小次郎を擁立して背くものがあることを恐れ、一芝居打ったのではないかとも云われており、真相は定かではない。また、保春院が実家に走ったのは事件後数年してからとも云われている。事件のほとぼりがさめると、政宗は保春院と文通を交わしており、最上義光没後の元和八年家督争いにより最上家は改易となり、行き先のない保春院を仙台に招き入れている。翌年の元和九年(1623)政宗は京都に於いて保春院の死去の報を受けた。保春院は夫である輝宗の位牌寺である覚範寺の葬られ、その後政宗は南小泉に保春院を開基して位牌所としている。、

  伊達宗清供養塔
向かって左、伊達宗清は政宗の三男で、幼名・権八郎、母は側室・新造御方で、慶長五年(1600)京都伏見にて誕生した。(俗にいわれる「飯坂の局(吉岡の局)」は伊達宗清の養母である)慶長九年、母・新造御方が死去したので、政宗の側室であった飯塚の局が引き取り養育した。所領は陸奥国黒川郡三万八千石を領し、吉岡城主。寛永十一年(1634)七月二十二日死去。 享年三十五所領地黒川郡吉岡(現 黒川郡大和町吉岡)臨済宗妙心寺派・香積山天皇時に葬られた。天皇時には宗清のほか、政宗の側室で宗清の養母「飯坂の局」の墓がある。覚範寺宗清供養塔の右に列している七基の供養塔は、殉死者の供養塔であろうか。
                 案内説明より 

ヒョクヒバ(いとひば)樹齢約250年
仙台市保存樹木



八雲神社  
仙台市青葉区柏木3-5-16

  鹿島神社
弘安二年(1279)伊達氏四世・伊達政依が領地陸奥国伊達郡に勧請し、仙台藩初代藩主・だてまさむねの仙台築城に当たり、慶長十二年(1607)別当時である光明寺とともに現在地(鹿島崎)に遷座されました。参道前、境内には馬頭観音など数多くの石碑があり、又、社殿東側には塩竃神社の祠が建っています。なお現在の本殿は昭和八年(1933)に改築建立されたものである。
祭神は常陸国一之宮鹿島神宮の祭神・建御雷大神と下総一之宮香取神宮の祭神・経津主大神をお祀りしております。鹿島神宮は古来より(出雲国譲りの使者として諏訪神社御祭神・建御名方命に勝利)武人の神として崇められ、剣聖・塚原卜伝を始め鹿島の剣として神道鹿島流剣法の名声は高く世に知らしめた。また香取神宮は建御雷大神とともに出雲に出向き大国主命に国を譲ることを約束させた大神です。国家鎮護の神として藤原氏の氏神春日大社の祭神として、また陸奥国塩竃神社の祭神として崇められ、今でも家内安全・厄除け・交通安全・産業振興・心願成就など人生生活に欠かせないあらゆることに御神徳があると崇敬されています。
                 案内説明より           



浄土宗 紫雲山来迎寺  
仙台市青葉区八幡5-1-8



真言宗御室派 恵澤山龍寶寺  
仙台市青葉区八幡4-8-32

  十王堂(閻魔堂)
人が亡くなってから節目の日に出会うと云われる死後の世界の監理官である。
十王と十三王
初七日:秦廣王(不動明王)、二七日:初江王(釈迦如来)、三七日:宋帝王(文殊菩薩)、四七日:五官王(普賢菩薩)、五七日:閻魔王(地蔵菩薩)、六七日:変成王(弥勒菩薩)、七七日:泰山王(薬師如来)、百ヶ日:平等王(観世音菩薩)、一周忌:都市王(勢至菩薩),三回忌:五道転輪王(阿弥陀如来) 以上十王

七回忌:蓮華王(阿閦如来 あしゅくにょらい)、十三回忌:祇園王(大日如来)、三十三回忌:法界王(虚空蔵菩薩) 以上十三王



天台宗 光耀山光圓寺  
仙台市青葉区北山2-14-10



浄土真宗本願寺派 無量山超光寺  
仙台市青葉区新坂町4-10



浄土宗 功徳山成就院荘厳寺  
仙台市青葉区新坂町12-1

仙台社寺北山へ



曹洞宗 微笑山江厳寺  
仙台市青葉区柏木3-7-40

鎮海観音堂建立由来 (石碑より原文のまま)  旧漢字が多く、新漢字だと意味が伝わると思うのですが、正確ではないが拾い取って読む。
干時平成二十三辛卯歳三月十一日午後二時四十六分大地俄搖動忽起海嘯狂瀾怒涛呑却
了良津千里變成慟哭傷闔国之人流涙歔欷慈有当山檀徒成澤久男翁生干陸前桃生郡小野
善殖産一代成財遭此大災害生家郷邑共壊滅荒蕪甚大然雖翁不能座み此事猛然發菩提心
分倉廩之産抛浄財命山僧供養萬霊於茲予囑冨田仏師鑿以霊木現出端厳慈顔翁委吉田棟
梁矩建立方形校倉造鎮海観音堂一宇観世音菩薩現三十三身普説法濟度衆生普門品日慈眼視衆生 福聚海無量伏願鎮震災遇者之御霊早日復興海嘯之災地 特懇請京師蕐園雲曇蕐老漢開光至禱至禱
維時平成龍集二十七乙未歳 三月如意珠日 見當午 昌道謹識

もう一つの林子平顕彰碑
塀で囲まれた墓所内 



浄土真宗本願寺派 稱陽山稱覚寺  
仙台市青葉区柏木3-7-3

  亀鏡山正圓寺
伊達政宗が仙台城築城当時は仙台城大手門に至る肴町に在った。肴町は名前から知れる通り、海産物を扱う魚の市が立つ町であった。町人の町から寛永九年(1632)現在地に移転した。
山門前には二代藩主・忠宗公が自ら植えてと云われる赤松がある。仙台市保存樹木に指定され、樹齢350年と云われる。
                案内説明より



曹洞宗 喜傳山秀林寺  
仙台市青葉区北山1-3-1

  曹洞宗 微笑山江巌寺
竹松丸(江厳寺殿恵春大禅定門)廟所廟内には竹松丸と殉死した二名(道罷禅定門と道休禅定門)の位牌を祀っている

輪王寺は曹洞宗の寺院ですが、阿閦如来、大日如来、不動明王などの密教・金剛界の仏も置かれていた。一般の参詣者(様々な宗派)が訪れることも多いからかなとも思いますが、温かい参道です。どの仏のお顔もモナリザの微笑を称えている。不動明王までも。

  臨済宗 光明禅寺
弘安四年(1283)伊達家四代・伊達政依が伊達家初代・伊達朝宗の室(光明院殿)の菩提を弔うために京都東山東福寺正覚庵住寺・山叟恵雲和尚(勅諡・佛智禅師をして開山、伊達郡光明寺に建立しました。その後、伊達家の領国の移動に伴い、米沢、岩出山、仙台と移っている伊達政依の建立した光明寺はそのご廃れ痕跡のみが残る寺跡ですが、光明院殿の墓は伊達郡国見町の福聚寺に移され祀られています。
境内墓地には、慶長十八年九月十五日に使節船・サン・ファン・バウティスタ号で出港した慶長遣欧使節の正使・支倉常長(六右衛門長経)とfフランシスコ会宣教師・ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)の墓がある。支倉常長は洗礼名をドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラ(Don Filippo Francesco Faxicvra)と受洗しキリスト教徒となる。しかしながら、幕府の行政上の変更からキリスト教の布教が禁止となり、信徒は弾圧を受け、失意のうちに元和六年(1620)八月二十四日帰国した。その約二年後の元和八年(1622)七月一日死去。享年五十二
                案内説明より



臨済宗 松蔭山光明禅寺  
仙台市青葉区青葉町3-1

伊達虎千代丸之墓 正眼院殿
寛永七年八月四日歿 享年七

参道左側にある墓石と人物像。墓石には「徳孝院殿家屋繁久居士」  
人物像には「戸田久四郎翁之像」と刻されています。人物像と墓石との関係は?

仙台社寺北山へ

  上方山日浄寺
寛永二十年(1643)、日蓮正宗総本山大石寺法主・十七世日精上人によって開山された。日蓮宗は鎌倉仏教の中でも後に開宗された宗派なので、他宗を否定することから様々な抵抗を受ける宿命に有った。また日蓮宗の中においても様々な考えを持つ人たちもいて宗派内で分派も繰り返されてきた積極性のある宗教に思える。日浄寺もその渦中にあった時期もあったようですが、開山日精上人の総本山大石寺の末寺に帰っている。
総本山大石寺といえば四半世紀前になるでしょうか、最多門徒集団創価学会と日蓮宗教義?の違いから学会を破門にするという行動に出ました。その宗派外にいるものとしてはよくわからないところがありますが、檀家の力が強くなり、また、政治団体色が濃くなり仏門から外れてもこの先学会の運営をおこなって行けるとの考えが原因の様に思える。方や仏門僧、方や巷で池田教と呼ぶ御祭神では神様も仏様も両立することは難しいように思う次第です。
ここは梅田川近くで堤町と呼ばれるばしょで、川と堤とは一対なものなので大きな堤が広がる景色が想像される。また、迎えられた陶工によりこの付近で取れる良質な粘土を使って堤焼と称される焼物が生産されたと云われている。仙台藩伊達家四代藩主・綱村の頃というが、生活に密着した焼物をつくっていたという。最盛期には多くの窯元があって一大産業に体をなしていたが、現在は一つの窯元だけが生業としているらしい。日浄寺は昔からその窯元をはじめそこに働く人々の篤い信仰を集め、檀家、否壇下が軒を連ねていた。

山門脇の紅葉樹

ルイス・ソテロ之墓墓石には
IN MEMORIAM L・SOTELOと刻

銀杏 仙台市保存樹木 樹齢200年
樹高 18m  目通り周3.6m

蓮如上人御像

親鸞聖人御像

  青葉神社
仙台藩伊達家初代藩主・伊達政宗公を祀るために創建された神社です。伊達政宗に贈られた神号は武振彦命、他の称号として諡・貞山公 法名・瑞巌寺殿貞山禅利大居士がある。明治期に入り神仏分離令、廃仏毀釈の流れの中で神教優位の感は望む方向に向かい、仙台藩領内においても多くに寺院の衰退を見ることとなった。
伊達家においても墓所の神式に転換する策をとり、墓所に鳥居が建立されるなど、明治政府の意向をくんだと思われる現象がおきている。諸国最大の加賀藩などもその例に漏れることはなかった。そんな時代の中、藩祖・伊達政宗を祀る神社の建立は自然発生的に旧藩士を中心に起こり、容易に許可を受けることとなった。神社建立地については紆余曲折があったと云われ、最終的候補地として北山のこの地が選択された。仙台城下から北山に向かうその正面に在った寺院が東昌寺であったが、東昌寺を東に移動してその跡地に創建することとなった。本殿・拝殿・手水者・舞殿など社殿を完成させ、仙台若林区一本杉に在った伊達家氏神社の御霊を遷し、合祀した。まさに伊達家ゆかりの寺院の中心に政宗を祀る神社が君臨する構図が出来上がったのである。その後大正十一年(1922)より順次社殿の改修が行われ、五年後の昭和二年(1927)に現在に見る社殿が完成した。
春の大祭は五月二十四日に執り行われている。五月二十五日は寛永十三年(1636)に死去された政宗公の命日である。また、例大祭は十月九日におこなわれ、寛永三年(1626)八月十九日黄門の位・従三位権中納言に任ぜられた日を太陽新暦に換算してこの日に定められた。なお黄門とは官位・中納言の中国の呼び名(唐名)で、伊達政宗公と諱で呼ばれることは少なく、江戸では伊達様、伊達の殿さま様、中納言様、仙台城下では殿さま、従三位後は黄門様などと呼ばれいたらしい。
  祖霊社
青葉神社祭神・伊達政宗公に臣下した家臣を祀る神社である。明治十二年(1879)九月六日建立された。春の大祭は五月二十四日、例大祭は十月九日に執り行われている。                                    

  伊達政宗灰塚
仙台藩伊達家初代藩主・伊達政宗は、寛永十三年(1636)陰暦五月二十四日、江戸桜田の仙台藩上屋敷に於いて七十年にわたる波乱の生涯を終えた。遺骸はすぐに仙台に運ばれ、『治家記録』によれば同年六月四日、遺言に従って経ヶ峯(現 仙台市青葉区霊屋下)に埋葬された。その後連日法要を行ったうえ、同年二十三日この地(現 大願寺境内)で葬礼が行われた。
この葬礼は埋葬後であるため、以外のない空棺で執り行われ、棺を焼いた灰を埋納して塚を築き、土塁と周囲に濠を廻らした。これが灰塚である。こうした葬礼制は伊達家特有のもので全国的にも稀であったが、五代藩主・伊達吉村の代に至って戦国時代の遺風であり無益であるとして配された。二代藩主・忠宗、三代藩主・綱宗の灰塚も北山の地に在ったが、仙台市の開発や区画整理などで失われ現存していない。
                案内説明より

  星家・星良(相馬黒光)の墓
相馬良は仙台藩士・星喜四郎、巳之治(みのじ)の三女として仙台北四番丁にて生まれた。幼い時からキリスト教会「仙台基督教会」のミサに通い押川方義の教えを受けキリスト教に傾斜し、十二歳の時洗礼を受けた。この少女期にキリスト教を押川方義により説教されたことが後の伴侶・相馬愛蔵との出会いを演出することになる。しかし生涯においてキリスト教の信仰を守ったのではなく、後に仏教にも深く帰依した。
相馬愛蔵は明治三年(1870)長野県南安曇郡白金村(現 安曇野市穂高)の名主を務めていた素封家の家に生まれ、若きときから勉学に励み、郷里の小学校、中学校に進み上京、東京専門学校(現 早稲田大学)に学び、卒業後北海道札幌の札幌農学校(現 北海道大学)で養蚕学を学んだ。
当時基幹産業であった蚕種産業の研究者・試験者で「蚕種製造論」を著し名を成していた。また東京牛込区の牛込教会に通い洗礼を受け、札幌バンド(札幌を拠点としたプロテスタント)の教えを受けている。札幌バンドには農学校教頭・クラーク博士、内村鑑三、新渡戸稲造等が属していた。(プロテスタンド拠点としては他に熊本バンド、横浜バンドが知られている)
相馬愛蔵と星良はその経歴から正に赤い糸によって遠く信濃・安曇野と陸前・宮城野を手繰り寄せた感のある出会いであった。明治三十年(1897)恩師・押川方義の媒酌により東京牛込区の牛込教会で結婚式を挙げた。相馬良二十二歳、相馬愛蔵二十八歳であった。当時両名ともキリスト教を人生の柱とし、社会福祉に強い思いを抱いていたことから言わば「似た者夫婦」であったであろう。結果。それぞれがそれぞれの立場で自由に人生設計を建てることが可能であったのではなかろうか。
その出発点は愛蔵の郷里安曇野で始まったが、遠く信濃の気風と仙台の気風の違いから、またそれに実直に向き合った良の性格がわざわいし、気力がなえ今で言う「うつ病」のなったと云われている。これを機に病気療養のため環境の変化をもとめ、東京に出ることとなったのである。
良と愛蔵はその思いが強かったのであろうか、東京までの鉄道駅があった上田までの四十キロメートル余の山道を乳飲み子を抱えて向かったのである。明治三十四年九月、まだ暑さも残る時であった。穂高村から約四キロメートルの篠ノ井線・明科駅が営業したのは、翌年の明治三十五年の六月十五日のことである。
東京での生活はとりあえず本郷区本郷(現 文京区本郷)の帝国大学(現 東京大学)の近くに居をとることになった。東京に来てからの良の体調は日を追うごとに良くなってきたのを見て、東京の空気が妻の気風にあっていることを確認し、東京永住を決心することになる。ただし、幾ばくかの貯えはあっただろうが、永住となると日々の生活の糧を見つけなければ立ち行かないと想い、女の手でもできるような商店を見つけることとした。
本郷は場所柄学生も多く、帝国大学の敷地は旧加賀藩前田家の上屋敷であったので、洋菓子や和菓子、コーヒーなどを供するミルクホール(軽食喫茶)等を考えた末に、洋食が進むとの考えから、
パン製造販売を視野に店舗を探したところ、大学門前で営業していた「中村屋」を職人、店員共そっくる譲ってもらい、いわゆる居ぬきで営業を始めることができた。商店の名もそのままに「中村屋」とし、今日まで続く新宿中村屋の創業である。
相馬愛蔵はそれに加えて安定した収入を得るために、郷里での仕事が忙しい時に安曇野に行く事とした。およそ毎年十月~翌年三月までは蚕種研究・試験は閑散期となるために東京に帰る生活が続くこととなった。そんな生活の中で相馬良は持前の探究心・向上心で愛蔵の留守を守ってパンの製造販売に励んだ。
相馬良は仙台での幼少期から青年期まで容姿麗しく才気に溢れ、多くの教師から将来を期待されている。その頃教師からかけられた言葉「貴女は才気が溢れ過ぎるきらいがある、少しそれを黒で隠せばより光るであろう」と。それ以来、「黒光」をペンネームとしたという。本郷・壱岐坂上から田端、駒込、飛鳥山にかけての山の手には多くの文人・芸術家が多く居住し、それらも良の心を楽しくさせる環境の大きな一つになりえたのかも知れない。
その後本郷の店はクリームパンなどで繁盛したが、その為に店が手狭になり当時まだ閑散としていた新宿に店を構えた。新宿の発展性に目を付けたのは相馬愛蔵の事業家としての眼で、明治四十二年(1909)現在地にに移転した。新宿移転後は本郷出店時に思い浮かべたミルクホール(軽食喫茶)部門を併設し、インド人による本格的「カリーライス」を加え、他の「ライスカレー」と比べその美味しさから評判となった。そのインド人は娘婿(長女の夫)でインド独立の志士である、ラス・ビバ・ボースであるが、黒光は生涯をかけてその亡命者を保護することに尽くした。

相馬黒光の名を世に出したのは、その人脈であり、多くの芸術家を援助したことである。「中村屋サロン」と称され、その一人として相馬愛蔵の同郷である荻原守衛(禄山)がいる。日本の「ロダン」と称される禄山は短い生涯(享年三十)を新宿中村屋で凝縮した作品を残している。禄山の作品の内「文覚・デスペア(絶望)・女」は禄山が思慕の思いを寄せたと云われる黒光をモデルとしていると伝えられている。中でも「文覚」は黒光への禄山の心の葛藤を知ることのできる作品である。
鎌倉の真言宗普明山法立寺成就院にある木造文覚像を見て禄山は彫ったと伝えられるが、その像は元とは似つかない。その鎌倉に黒光も同行したというが、その心情は鬼であろうか天使であろうか。鎌倉から帰った後に彫ったのが文覚・デスペア・女である
「新宿中村屋」は関東大震災、東京大空襲、戦後の物資不足などの困難を乗り越え同じ場所で再建を果たした。「中村屋サロン」なるものも実現化して「中村屋サロン美術館」を開館、当時縁のあった芸術家の作品を展示するとともに現代の新進気鋭の美術家・芸術家の作品なども展示し、現代版中村サロンを通して創業当初の気概を伝えている。相馬愛蔵が死去したのは昭和二十九年(1954)二月十四日 享年八十五相馬黒光はその約一年後の昭和三十年(1955)三月二日死去 享年八十
東京多磨霊園に二人して葬られているが、江厳寺の黒光の墓は分骨されたのだろうか。
著書に、星良の仙台時代の回想記「広瀬川の畔」ほか自叙伝「黙移」などがある。
               案内説明より
      

  浄土真宗本願寺派(西本願寺) 稱念寺
稱念寺は浄土真宗宗祖・親鸞聖人の高弟二十四輩の十一番に数えられる無為信坊が建長二年(1250)に創建したと云われています。無為信坊は第三十代天皇・敏達天皇の玄孫で左大臣橘諸兄の後裔で、紀州田辺の城主であったという橘民部少輔栄住という武士であった。
時は平安時代末期の源氏、平氏が諸国武士団を動員し覇権を争う中にあって、橘栄住は戦乱による世の無常なる事を憂い、それに身を投ずることを嫌い、武士の地位や名誉をも捨て出家・仏門に入ったと云われている。仏門に入る決心をしたのは「宿縁」があった親鸞聖人の事があったためと思われる。
その頃親鸞聖人は布教の為常陸国稲田(現 笠間市稲田)に草庵(後の稲田御坊 西念寺)を設けていたので訪ね、入門する許しを乞うた。入門の許しを得た橘栄住は親鸞聖人より無為信の法名を賜った。
常陸国から陸奥国に修行の旅の中、会津の寺に留錫したと云われ、のちその地で念仏道場を開き布教に務めた。親鸞聖人はその念仏道場に稱念寺の寺号を与えられ、陸奥国布教の拠点とする一方、無為信坊は奥に進み宮城郡にも足を止め一宇を建てたとも云われている。
その後、佐竹・蘆名氏の会津黒川城を攻略し領地とした伊達政宗は稱念寺を庇護し、政宗仙台城築城に際し稱念寺を招き北山の地に寺領を与えたという。また、政宗の本拠移動とともに寺も移ったとも云われている。
また、新潟県阿賀野市下條町8-21に在る「佛制山金剛院無為信寺」に伝わる寺伝では次の事が云われている。無為信房は、岩代国会津郡(福島県)柳津に生まれ、俗名を武田信勝、甲斐守源義光(新羅三郎)の後胤武田太郎信義の子であるされている。武田氏は常陸国とも縁が深いので、甲斐源氏の祖である信義の若き日の子であると云う事はうなずける。
常陸国(茨城県)稲田におられた親鸞聖人に深く帰依し、親鸞門下として活躍された。親鸞聖人が京都へ戻られた後、会津門田一ノ堰に無為信寺を、奥州宮城郡(宮城県)に称念寺を建立したと伝えられる。会津に在った元稱念寺(無為信寺とも称したという))はその後荒廃したが、寛永年間(1624~1645)の寛永四年に、陸奥国白河郡棚倉城主(棚倉藩)・内藤家の庇護を受け、棚倉に移っている。
内藤家は宝永二年(1705)駿河国益津郡吉田城(吉田藩)の太田家と領地入れ替えにより、太田家が棚倉へ、内藤家が吉田へと移った。無為信寺も内藤家と伴に駿河に移った。駿河国吉田藩主として一代に終わり、京都・大坂で城代を務め、その後、越後国岩船郡村上城(村上藩)に転封された。
内藤家と伴に移った無為信寺も越後では寺の存在もなくなり、本山・東本願寺に預りの寺となったという。越後国蒲原郡下条村(現 新潟県阿賀野市)の豪農・佐藤宗栄(伊左エ門 和泉屋)は、無為信寺の再興を決意し、多額の財を費やし、無為信寺に伝わっていた宝物などを下条村に移し、現在の無為信寺を再建した。

  山門 (赤門)
切妻、本瓦葺きの三間一戸棟門中二本の柱と棟木、屋根裏が赤色に塗られているため赤門の別名がある。地元では単に「赤門寺」と呼ばれ親しまれているという。赤に塗られた由来は何なのでしょうか。
                 案内説明より
            

  北山羽黒神社
北山羽黒神社は、羽黒神社因縁記(享保元年、西暦1716年記述)によれば、仙台藩初代藩主・伊達政宗公が、仙台築城の際、伊達家旧領陸奥国信夫郡に伊達家先祖が勧請してあった羽黒神社より分祀して、慶長七年(1602)現在地北山に建立したものと云われていいる。
保春院殿(政宗公生母 最上義姫)が嗣子の無いことを憂い、長海上人を湯殿山に参籠させたところ、夢枕に立った偉僧の梵天(修験者が祈祷に使う幣束)を宿して生まれたのが『政宗公と記されている。これは後の世の記述であり、政宗公の幼名・梵天丸にあやかった云い伝えと思われる。偉僧は、湯殿山初代の行者・萬海上人で、その弟子長海上人と慶印上人とが、師の生まれ変わりの政宗公が、慶長五年(1600)東北関ヶ原合戦の際、会津上杉軍と戦った折、多いに助勢した功を賞でて慶印上人を羽黒神社開祖とした。
病める者も、悩める者も、十中九はたちどころに治るなど、霊験現たかであると因縁記は述べている。
北山羽黒神社境内社、月山神社・湯殿山神社の社殿は、かって羽黒神社の拝殿であったが、昭和四十五年(1970)の新社殿建築の際に移築され、境内社として残されたものである。入母屋造 桟瓦葺で、桁行三間、梁間二間、三方に縁を廻らし、一間の向拝が付いている。江戸時代後期の建立と思われ、仙台市登録文化財に指定されている。
                案内説明より 



御嶽三吉神社・大山祇神社  
仙台市青葉区北山3-6-18

参照

鹿島神宮
まちさんぽ→茨城のいろいろ→鹿島神宮

香取神宮

まちさんぽ→千葉のいろいろ→香取神宮

授与所

手水者

境内 寺院のような 

  金剛華菩薩 (華観音)
花は是れ慈悲より生じる義を佛典に説かれるに、花は佛の本誓である。慈悲も愛と智の象徴である。ここに全国華道門入(華道門人)の心のより処としての花の佛である金剛華菩薩を祀り、草花の命に供養して、密巌の世界に還生することを願い、花芸術の上達を希本として造像開眼された。
                案内説明より

  曹洞宗 寶珠山壽徳寺
福島県に茲徳寺という寺があり、そこで伊達政宗のの父・輝宗公を荼毘にふしました。伊達輝宗は家督を政宗に譲った後の天正十三年(1585)十月八日、抗争中であった二本松城主・畠山義継と和睦となった。輝宗が在る宮森城に此度の和睦が成った挨拶に畠山義継が訪れた際、すきをついて輝宗を拉致し人質として二本松城に連れ去るという行動に走った。
知らせを聞いた政宗は父を奪還しょうと畠山を追いつめたが、父を楯にした畠山の行いに武門の倣いとして、また父の遺言もあり畠山勢を討ち父の亡骸を収めた。輝宗の遺体は陸奥国信夫郡佐原(現 福島市佐原寺前)の寶珠山壽徳寺に運ばれ荼毘に付された。その時政宗は遠く出羽国置賜郡高畠の資福寺から虎哉和尚を招き導師とし、壽徳寺住職・昌室彗繁和尚仏事識とした。遺骨は資福寺に埋葬され墓所が建てられ、現在も高畠長井荘の資福寺跡に現存している。
その後、輝宗の菩提を弔うために資福寺住職・虎哉和尚を開山とし覚範寺を建立した。輝宗の火葬場となった壽徳寺は政宗のおぼえもよく、政宗の転進に従って岩出山城下に移転した。政宗の仙台城開府にあたり寺領を賜り壽徳寺も仙台に移ったが建立に当たって父輝宗を開基とし、曹洞宗 松音寺(若林区新寺)住職・八世喜州詮應和尚を勧請し開山とし仙台壽徳寺として創始し、輝宗公の位牌所としている。
その後江戸時代中期火災に遭い全山灰塵と化したが現在地を賜り中興再建し同時に庭園も造られたと伝える。壽徳寺の三門は特色のある丸門で禅宗の悟りの教えである「大円鏡智」を表すと云う。形が美しいので「丸門寺」とも呼ばれている。
尚、信夫郡に在った壽徳寺はその後衰退したが、後再興され寶珠山茲徳寺と名を改め法灯を灯している。輝宗を火葬した場所には石が積まれ首塚と呼ばれていると云う。
                案内説明より         

  臥龍紅梅
この紅梅は伊達政宗公が文禄二年(1593)朝鮮出兵の折鉢植えにて持ち帰り、慶長十四年(1609)瑞巌寺落慶の際自ら本堂正面に植えられた紅梅・白梅の内の紅梅である。
地面をはうように育った姿から臥龍梅の名が付いている瑞巌寺に植栽されて育った後継木です。

山門 寺標
 
  光耀山光圓寺
光圓寺は仙台城築城の慶長六年から七年に開基・開山されたと云われ、四百余年の歴史がある天台宗の寺院です。開山当時の寺領は元寺小路(国道45号 花京院交差点北西角当り)にあり、仙台城から見て丁度丑寅(東北)の鬼門に当り、仙台城並びに城下の安泰を願って鬼門鎮守の祈祷所としての役目をつかさどった。そのような関係から仙台城築城に際して地鎮祭を執り行い、築城の安全祈願をしている。また、天台密教の大日如来と湯殿山権現との関係から湯殿山代参四番寺を勤めている。
光圓寺の御本尊は不動明王で、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)の脇侍が立つ。此の不動明王像は伊達政宗より寄進をうけたもので、政宗公が仙台築城にあたり、光圓寺を開山したともうかがえる。ただし、不動明王像は政宗の母・保春院(最上義子・最上義光の妹)の念持物であったとされ、母が仙台に帰ってきたのは最上家が改易された後なので、開山時に祀っていたかはわからない。岩出山に置き土産?として祀られていたとすると政宗が仙台を本拠としたとき持ってきたとも考えられる。のち政宗が不動堂を建立し,母の面影を映して祀ったと云われる。
しかし、第二次世界大戦の折アメリカの日本焦土化・民衆抹殺作戦により、仙台の地もその渦中にあり、当光圓寺も全焼するに至った。その中にあって庫裡に祀られていた阿弥陀如来像と本尊の胎内に納められていた胎内仏が残されている。
戦後の仙台復興計画による区画整理により、昭和二十七年に境内墓地が仙台市北山霊園に移設、その後の昭和六十年に光圓寺もJR北山駅より100mの墓地傍の現在地に移った。
                案内説明より



浄土宗 圓光山光厳院大法寺  
仙台市青葉区三条町7-27

珪化木展示と供養塔観世音菩薩像



浄土宗 亀鏡山正圓寺  
仙台市青葉区新坂町6-1

五日市憲法草案者千葉卓三郎記念碑
当寺に葬られている 享年三十一

  小萩観音
仙台三十三観音第十一番札所。観音堂本尊は十一面観世音菩薩は「小萩観音」と呼ばれている。文治五年(1189)源頼朝の奥州平泉征討の時、三代藤原秀衡の三男・和泉三郎忠衡の女児を家来の石塚民部守時と守時の妻が護って、陸奥国加美郡色麻村の清水寺(現 宮城県加美郡色麻町清水 曹洞宗 清水寺)の観円(守時の弟)のもとに身を寄せ出家した。
元久二年(1205)に主従は守時の郷である陸奥国宮城郡小田原村福沢(現 仙台市青葉区宮町)に移り、氏神社・福沢明神に観音像を納め祀った。和泉三郎の娘、夫守時の死後、小萩は現在の東照宮の近くにお堂を建て、和泉三郎娘の護持仏の十一面観世音菩薩(行基菩薩作ー奈良時代)を念持仏として祀り、その冥福を祈ったと云う。
東照宮建立の際、天神社(天満宮)と共に、その別当寺として榴ヶ岡に移され、萩徳山仏生寺と称した。明治維新後の神仏分離令により天満宮と別れた仏生寺は廃寺となり、十一面観世音菩薩はそれを買い取った民家の所有となった。仙岳院十五世・亮湛僧正がそれを見て遺憾に思い、買い取って仙岳院に祀ったものである。
御詠歌 「あとたれし 神もすずしめ 法の花 咲くやつつじが 丘のみむろに」
                 案内説明より

保存樹 黒松樹齢三百余年 樹齢のわりには大きくなく盆栽を地植の様

  ノモンハン事変ハルハ「河の戦い 弔魂碑
昭和十四年五月、漢州(中国東北部)北西の国境ノモンハンで、日本満州軍とソ連外蒙古軍が衝突、大規模な戦いとなりました。日本軍は中国との戦争の為、兵力が少なく、近代装備と弾薬の補給に欠き、大きな人的損害を受けました。この碑は、ノモンハンのハルハ河畔の戦闘で戦死した、仙台出身砲兵伍長・高橋良哉(二十六歳)を悼み、併せてこの事変で斃れた一万八千余の将兵を弔うために、昭和十六年八月、東昌寺住職・国安泰嶺と遺族が建立したものであります。
  東昌寺のマルミガヤ (国指定天然記念物)
マルミガヤは、幹が南北に分かれてそそり立つ巨木で、種子が直径2.2㎝程の球形となる、カヤの変種の一つです。カヤの種子が丸みを帯びることはあっても、このように丸い種子は極めて珍しいものと言われています。このマルミガヤは、東昌寺が仙台城の鬼門(丑寅・東北))に在ることから、伊達政宗が鬼門除けとして植えられたものであると伝えられています。また、別名御前ガヤとも呼ばれていますが、これは種子が代々藩主の食用に供されていたためと言われています。
マルミガヤ(イチイ科)  樹高17.5m  幹周囲5.3m  推定樹齢500年
                案内説明より

文覚 荻原守衛 碌山美術館蔵

女 荻原守衛作 碌山美術館蔵

殉死者の墓と供養塔



臨済宗 遠山覚範寺  
仙台市青葉区北山1-12-7

  八雲神社
御祭神 素戔鳴尊(建速須佐之男命)  神日本磐余彦尊(神倭伊波礼琵古命・初代天皇・神武天皇)
御神徳 天地風雨神 厄除神、縁結神、安産神、招福神、武運長久神、国家安寧神、国家鎮護神
寛文七年(1667)、北山に在った満勝庵(光明禅寺と東昌禅寺の間)にあったが、現在地に移転された。仙台藩伊達家四代藩主・伊達綱村公の時代のことである。明治維新までは満勝寺が八雲神社の別当寺であったが、神仏分離令により分離、現在に至る。
                案内説明より          



仙台北山羽黒神社  
仙台市青葉区北山2-8-15



曹洞宗 寶珠山壽徳寺  
仙台市青葉区国見1-15-1



天台宗 眺海山清浄光院  
仙台市青葉区宮町5-1-11



曹洞宗 通寶山永昌寺  
仙台市青葉区新坂町18-1



浄土真宗本願寺派 宿縁山恩慶寺  
仙台市青葉区木町12-3



浄土宗 大鶴山昌繁寺  
仙台市青葉区新坂町13-1



曹洞宗 金臺山龍雲院  
仙台市若林区子平町19-5



浄土真宗本願寺派 橘昌山本誓院稱念寺  
仙台市青葉区新坂町10-3



曹洞宗 金剛寶山輪王寺  
仙台市青葉区北山1-14-1



臨済宗妙心寺派 慈雲山資福寺  
仙台市青葉区北山1-13-1

寺標

御題目 南無妙法蓮華経碑

石段参道と山門 四脚門

山門 主柱・控柱

山門 蟇股

山門 柱と木鼻

墓地入口門

客殿会館

庫裡



臨済宗東福寺派 無為山東昌寺  
仙台市青葉区青葉8-1

本堂前の赤松 
樹齢350年 保存樹木

本堂 向拝の寺紋

本堂 燈籠は新旧のパーツで立つ

寺号標

石段参道下の地蔵菩薩坐像

石段参道

山門 薬医門 袖塀は新しい

山門 扁額

鐘楼 新設

仏堂?

庫裡

庫裡箱庭の燈籠

右虎千代丸 左東昌寺十四世

十四世・大有泰甫和尚之墓 
元和元年九月十日入寂 享年八十四

子育守護地蔵尊

木陰の六地蔵尊

墓地のオアシス樹

ノモンハン事変忠国慰霊碑

コウヨウザン 
樹齢150年 保存樹木

マルミガヤ 樹齢500年 保存樹木

庫裡

枝垂れ桜と聖観世音菩薩立像

僧堂? 客殿?

光明禅寺門柱

山門 薬医門

山門 主柱 棟木と梁

寺紋蟇股

門前右側の地蔵菩薩坐像

門前左側の地蔵菩薩坐像

本堂

本堂 山号扁額

本堂 向拝柱 木鼻

本堂 向拝蟇股

支倉常長とルイス・ソテロ之墓

支倉六右衛門常長之墓

多層供養塔と庭園

境内の紅葉

庭園

境内の紅葉

自然石で建てられた燈籠

観世音菩薩供養碑

叢中に坐す地蔵菩薩

平和観音碑 土井晩翠筆

境内小道 右の建物は書院

急須塚

二宮金次郎石像 小学校より此処に

観音堂

仙台三十三観音 第三番札所

東門(花心門)

手水舎

庫裡

鐘楼

本堂 向拝柱・木鼻・虹梁

本堂向拝 宝珠蟇股

寺標

ゆるやかな長い参道

石段参道

山門 棟門

山門 山号扁額

山門前 地蔵菩薩石像

参道中央の燈籠と石造り腰掛

本堂

本堂 平等窟扁額(平等集処)   

書院

北門(裏門・雨良門)

門の傍に雨良門との石碑がある

境内巨樹

境内巨樹

庭園

鐘楼と樹幹枝

寺標

参道

山門 仁王門(三間一戸八脚門)

山門 山号扁額

金剛力士吽形像

金剛力士阿形像

本堂 

鉄筋コンクリート造り

本堂 寺号扁額

鐘楼

庫裡

六地蔵尊

保春院と伊達宗清供養塔

伊達清宗供養塔

保春院義姫墓

殉死家臣?供養塔

金剛力士吽形像 お顔が見えない

金剛力士阿形像

秋の紅葉十一月の仁王門

夏七月の仁王門

山門 柱門

紅葉のそろそろ終わり

車両用参道西門

参道 仏道

西門から境内

釈迦如来
禅定印 坐禅修行の姿

阿弥陀如来 
鎌倉大仏と同じ印相 阿弥陀定印

薬師瑠璃光如来
施無畏 与願印に薬壺を持つ 

阿閦如来 金剛界大日如来の東方佛
右手甲を外に向け左で衣を掴む

文殊菩薩

普賢菩薩

地蔵菩薩

弥勒菩薩

観世音菩薩

勢至菩薩

虚空蔵菩薩

不動明王

参道安置の石仏
光背付の同じお姿で、表面が滑らかで機械彫り 新しく造られたものと思えます

大日如来 
宝冠を載せ智拳印を結ぶ

コウヨウザン 仙台市保存樹木

花塚

枝垂れ桜と紅葉樹

紅葉東屋

紅葉

  曹洞宗輪王寺
輪王寺が建立・落慶が執り行われたのは、室町時代の嘉吉元年(1441)四月八日のことである。伊達家九代・伊達政宗の室(輪王寺殿蘭庭禅尼大姉)の祈願により、伊達家十一代伊達持宗が陸奥国伊達郡梁川(現 福島県伊達市梁川)に開基した寺院である。大和国(奈良県)より迎えた太庵梵守和尚により開山された。
九代伊達政宗の室・(輪王寺殿)は、室町幕府三代将軍足利義満の生母・紀良子(洪恩院殿)の妹であり、また北朝五代天皇・後圓融天皇の生母・紀仲子(崇賢門院)の妹でもあったため、室町幕府六代将軍・足利義教は後花園天皇に奏請し、金剛宝山輪王寺の勅筆額を賜った。因みに六代将軍・足利義教は輪王寺建立後二ヵ月余りして赤松満祐・教康父子により斬殺されている。
このような関係から伊達大膳大夫政宗は天皇家・将軍家との関係(政宗の子・伊達氏宗と後圓融天皇、足利義満は母方従兄)でその後の伊達家の発展の礎を築き中興の祖と云われている。その後、伊達家十六代・伊達輝宗はそれにあやかって嫡子幼名・梵天丸の命名にあたって政宗の名をつけた。これが独眼竜・仙台藩伊達家初代藩主・伊達政宗である。
その後輪王寺は伊達氏の本拠地の移転に従い伊達郡桑折、出羽国置賜郡米沢、陸奥国会津、同玉造郡岩出山、同宮城郡仙台と移転し、次ごう六度の移転がかぞえられているので、俗に「輪王寺の六遷」と呼ばれている。
仙台移転後、殿堂建立は境内各所で行われ、政宗、忠宗、綱宗、綱村の四代にかけて堂宇の完成を見ることになった。東北の雄藩仙台藩に有って輪王寺は曹洞宗の中心的な寺院として常に数百人の修業僧を抱え、その指導的な立場を与えられたのである。また仙台藩伊達家ゆかりの寺院として一門格寺院の立場を与えられている。また政宗は仙台城丑寅に当る北山に臨済宗禅寺、東昌寺、覚範寺、光明寺、資福寺、満勝寺を建立。仙台の守りとし、京都・鎌倉の五山にならって仙台北山五山と称した。満勝寺が北山の地から移転したために、現在輪王寺を含めて北山五山と呼ばれることもある。
しかしながら、明治維新になり伊達家の庇護も無くなり、また神仏分離令並びに廃仏毀釈運動の流になすすべもなく、衰退の道を辿るなか、明治九年(1876)北山の山火事により、全山焼失という悲惨な状態となった。出火の原因は野火の不始末とも、野火の飛び火とも云われているが、そんな時代にあって下草の手入れなどが十分行われなくなった結果、枯れ草に火が乗り移ったとの想像はできる。その時唯一焼失をまぬがれた山門だけが時代を感じさせる遺構となっている。後、数十年を経過し明治の激動期を過ぎると、歴史ある仙台輪王寺の現状を憂いた檀家信徒の声と、曹洞宗本山・永平寺、總持寺が輪王寺四十一世住職に福定無外和尚して再建を目指した。大正九年(1915)本堂と庫裡の主要殿堂を完成し、その後僧堂・開山堂・鐘楼などを造営した。並んで造園にも手を付、禅庭園(池泉回遊式庭園)をも完成し、今見ることのできる緑多き庭園となったのである。また、昭和五十六年には開山五百年記念事業として、庭園内に三重塔を建立した。

  境内墓地 竹松丸之墓 政宗公正室愛姫生母・於北之墓
境内墓地には伊達政宗・愛姫の三男・竹松丸と、政宗正室・愛姫の母(於北 相馬氏)の墓がある。竹松丸は、慶長十四年(1609)に生まれ、元和元年(1615)三月十八日死去した。享年七 江厳寺殿恵春大禅定門
その亡骸は輪王寺十代住職・鱗庵光金和尚によって鄭重に弔われた。政宗は竹松丸の菩提を弔うために位牌所として仙台柏木に微笑山江厳寺を建立し、生母・愛姫を開基、鱗庵光金大和尚を開山とした。また愛姫は田村家から伊達家に嫁すときに、持仏として持っていた酉年生まれの守り本尊・不動明王を持参し、崇敬の念を絶やしませんでした。愛姫は不動尊像を江巌寺の本尊とし、わが持仏を以て竹松丸を守護した。同時に幼きわが子の為、不動明王の脇侍として衿羯蘿(こんがら)、制咜迦(せいたか)の二童子を寄進祀った。墓地傍らには竹松丸に殉死した法名道罷禅定門と道休禅定門も葬られ、幼くして亡くなった竹松丸に付き添っている。愛姫生母・於北(相馬氏)は三春城主・田村大膳大夫清顕に嫁いだ、小高城主・相馬顕胤の娘である。。於北は実家と婚家もめごとにも巻き込まれ、夫の死後三春城女城主としての時をおくったこともあった。晩年仙台に迎えられ、元和五年(1619)一月十二日死去した。その亡骸は輪王寺に葬られ、後竹松丸の墓所に移され孫と同居している。
                案内説明より
           

竹松丸墓石

竹松丸墓石 供養塔

政宗正室愛姫生母・相馬氏墓所

山門傍の墓所案内石碑

本堂

本堂扁額

本堂前 燈籠と香炉

手水舎

鐘楼

地蔵菩薩立像

墓石供養塚

観世音菩薩(平和観音)

稲荷神社

稲荷神社社殿

石置庭

僧堂(坐禅堂)

石庭

西門参道

竹松丸廟所 平成二十七年建立

庭園入口 寺務所・山務所

中央に池を配置

観世音菩薩像と立石

池辺の雪見灯篭

池と三重塔

庫裡

輪王禅園碑

カップル

板石橋

三重塔

五重石塔

石橋

朱橋

三重塔

池水口

紅葉

黒松

躑躅の季節が

木々の間から三重塔

蘭庭堂

蘭庭堂扁額

仏殿及び庫裡

奥州仙台七福神 秀林寺大黒天説明

奥州仙臺七福神霊場 大黒尊天

寺標

山門 鐘楼形式楼門

山門扁額

慈悲門仏殿

慈悲門扁額

方便門仏殿

方便門扁額

北辰聖観世音菩薩金銅仏

薬師三尊 
左脇侍日光菩薩、右脇侍月光菩薩

十二神将像

十二神将像

阿弥陀三尊像 
左脇侍観音菩薩 右脇侍勢至菩薩

釈迦三尊像
左脇侍文殊菩薩 右脇侍普賢菩薩

胎蔵界立体曼荼羅? 大日如来
不動明王と文殊菩薩

大自在天女像?

大自在天女像 一仏地蔵菩薩

本堂安置の三面六臂出世大黒天
秀林寺HPより

  曹洞宗 秀林寺
慶長五年(1600)~六年、政宗は仙台の地を本拠にするべく、仙台城築城が始められた。それに伴い領内各地から仙台の地に寺院を呼び寄せ、町割りと同時に寺院の寺領の配置を行った。関ヶ原の役の後ではあるが戦国時代の名残りを強く漂わせていた時に有って、寺院の広大な寺領地は、重要な戦いに拠点にもなる要素もあったため、特にそれらを考慮した城下の縄張りに組み入れられた。北山五山と云われる禅宗寺院をはじめ、秀林寺もその例外ではなかった。
秀林寺は、元々泉区松森に在った古寺と云われ、政宗の意を汲んだ郷士・丹野今内が私財を投じて現在地に移築した。輪王寺十三代寺住・角外鱗恕大和尚を勧請、秀林寺第一代住職にして開山とした。現在寺に残されている過去帳は寛政四年(1627)以降であり、また、大檀那・大槻定安は政宗公に殉死していることから、秀林寺は政宗公歿日の寛永十三年五月二十四日より遡った元和末期~寛永初期の間に現在地に移転したと思われる。(残念ではあるが移転前の松森に在ったときの記録は残っていない)
境内にある仙台市保存樹木のさつきは樹齢三百五十年と云われ、仙台藩二代藩主・伊達忠宗が植えられたものと云われていますまた秀林寺は建立以来火災・地震などの大きな災害に遭わず、そのために現在の本堂は仙台市寺院の中では最も古い建築物となっています。平成八年に、開山・角外鱗恕大和尚三百五十遠忌法要が執り行われました。
  大黒天
大国天はインドにて信仰された戦闘、財徳、冥府(冥界を司る庁)の神である。戦いの神として、破壊と創造の世界を司る神・シヴァ神の化身として破壊の世界を司っている。財徳の神として、ヴィシュヌや天地の化身(アヴァターラ)として、化身を重んじる生活の場である台所に祀られる。また、冥府の神として、死後の世界の閻魔大王の化身あるいは閻魔大王と同躰であるとされている。像として現わされる姿は戦いの神としては剣を持ち、財徳の神として袋を持ち、化身としては兎を持つ姿である。
その後ヒンズー教の神々は仏教に取り込まれ、悟りの修行を得て仏法の守護神として祀られるようななった。それらは仏教の仏像として多く表されている帝釈天、金剛神(金剛力士)、毘沙門天、その妃吉祥天、弁才天、歓喜天(聖天様)、足の速いたとえとなっている韋駄天など多くの天部と称される仏像群がいる。
大黒天の「大」は絶対の真理、「黒」は天地の様を表すと云われ、生命の根源を司る神で、五穀豊饒、商売繁盛、子孫繁栄、家内安全など様々な御利益があると伝えられています。秀林寺の大黒天は「三面六臂出世大黒天」といわれ、比叡山延暦寺に祀られている大黒天と同形、京都東山高台寺圓徳院の豊臣秀吉念持仏と云われている大黒天も三面大黒天であり、その関係(出世)で出世大黒天と呼ばれるようになったと思われる。
三面六臂とは正面に大黒天、左耳に当る所に毘沙門天、右耳に当る所に弁才天の三面が彫られているお顔であり、六本の手を持つ(六臂 それぞれに二本のひじを持ち全体で六ひじ)姿で彫られている。持物は、大黒天・剣と袋、毘沙門天・鎌と鉾、弁才天・鍵と如意棒であり、それぞれの守護を表しています。因みに前の秀吉念持仏像は三面二臂の像である。

三面六臂出世大黒天の胎内に納められている仏は同じく大黒天像で、秀林寺開山当初から寺の台所である庫裡に祀られていました。開山以来三百五十有余年罹災に遭うこともなく祀り続けた尊像は、奥州仙臺七福神霊場会結成を機会に本堂に遷され、胎内仏として祀られています。
  七福神・大黒天
インドヒンズー教の神々が仏教の神々としてお姿を現した大黒天は、今に見る福袋を担ぎ打手の小槌を持った像ではない。前述のような破壊・地獄の閻魔などを司る神の性格から、目は吊上がり鋭いまなざしの像であったことが想像される。日本の神道と仏教との融合が日本統治の重要な指針として取り入られた結果本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が広まった。
本地垂迹とは、お姿が見えない日本の神々(八百万の神)は本当(本地)は仏教の菩薩・明王等の仏に姿を変え、この世に現れた(権現様)ものであるとの考えである。例えば、日光にある東照宮は、徳川家康公が東照大権現として祀られているが、実は日本の神・東照神は現実の世界に降り、德川家康としてこの世を生き日本を治めて後神に戻られたのであるからその功績を讃えて新た社殿を建立して祀った。キリスト教で、マリアさまのお体を借りて(処女受胎)生まれてきたキリストが神と崇められたとよくにている。
衆生が目にすることのできる人物や仏像に替えることにより納得出来る気持ちを得る思想である。これらの事から出雲国・大国主命と大黒は両者とも「だいこく」で、似た名前から神仏習合思想と相俟って同じとなった。七福神として、恵比寿・大黒と対になると商売繁盛、家内安全、五穀豊穣などに御利益があるとされ、その像姿は福神として笑顔でふくよかな優しい姿となっている。
  秀林寺山門
秀林寺三十一世・顧心浄一大和尚は、長く台湾の地に在って海外開教師として仏法興隆に専念しました。昭和二十一年秀林寺に戻った時、山門を是非楼門形式にて建立したいと発願しましたが、病に倒れ果たすことができませんでした。山門(千躰大仙門)は、平成五年にその志を継いで完成したものです。
仙台は元々仏教に大変深い因縁を有する土地で、仏教伝来とともにインド、中国の千躰仏信仰が日本に伝わり、青葉城の地域にも千躰仏が祀られていました。伊達政宗は築城のためにこの千躰仏を他に移した為に、千躰仏の在ったこの城を千躰城と名付けたと云われています。その後千代城となり、後仙台城と三転したと伝えられています。仙台の地名は千躰仏を基にして呼ばれるようになったと言います。
山門あるいは三門とは三解脱門ともいい、「智恵」「慈悲」「方便」の三つを言いますが、それぞれに千躰仏を祀るので「三千大仙門」と命名されました。「大仙」とは、仏の別の名前です。

三門の一門智恵門
智恵とは「悟りである」。お釈迦様はすべてを因縁と悟られ、二券の対立をお捨てになられた。智恵門には三世三大尊(阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来)の三尊仏と釈迦牟尼仏一千躰が祀られている。

三門の一慈悲門
抜苦を「悲」といい、与楽を「慈」と言います。慈悲門には、薬師三尊、十二神将と薬師如来一千躰が祀られています。

三門に一門方便門
正直を「方」といい、己を外にするを「便」と言います。方便門には、阿弥陀三尊、十四賛嘆菩薩と阿弥陀如来一千躰が祀られている。
  北辰観世音菩薩建立の由来 (碑文より)
太平洋戦争終結の年、昭和二十年七月十日未明、仙台は米空軍B29の爆撃により、市の中心部を殆ど焼失した。時に、仙台市民千数百名、その犠牲者として尊き生命を失ったことは、誠に痛愔に堪えざるを得ない。以来三十三年仙台の復興めざましきものあったが、心から平和を愛しこの悲劇を怠るることなく、再び繰り返さざるよう誓いを新たにした。
ここに、戦災死没者の遺族、当寺総代の一人、阿部謙太郎氏の発願を嘉とし、当山檀徒並びに有縁の有志心を合せ、仙台空襲戦災死没者諸霊の為に、聖観世音菩薩の尊像一体を造立し、もってその冥福を祈るものである。観音造立の功徳に加うるに、善根山上可積一塵、更に写経の功徳を以て、この難値の好仏縁を生かさんとし、住職、心身を浄め観音経一巻を浄写し、また、一霊一拝戦災死没者全員の御名前を拝写し、檀徒全員並びに有縁の有志、ことごとく般若心経を浄写して、観世音菩薩の御尊体内部に納経供養した。諸霊位もって安住すべし。
なお、この観世音菩薩は、北国の空に輝く北極星が、三世に亘って変わることなく人類の指標であるが如く、地上にあって永遠に人類の祈りとなり、平和と幸福の具象として、万人の心に不滅不生の光を点ぜしめんと祈願して、特に北極星に真向かいに対して建てられた。それ故に、北辰観世音菩薩と云い、天地同根、人類の道標、三世不変の浄福と慈愛と平和とを永遠に顕証する。
「南無諸願成就北辰観世音菩薩」 昭和五十二年七月十日  無眼之辰三十二世 計良浄信識
                案内説明より

寺標

山門 棟門

本堂 本堂前の枝垂れ桜

庫裡

慈母観音(子育て観音)

門前 赤松 

忠宗公手植えの松

山門 三間一戸薬医門

手水舎

本堂

鐘楼

手前 北山堂  奥 平等閣堂

平等閣堂

庫裡

庭園

山門 桟瓦葺 袖塀付薬医門

山門 山号扁額

稱覚寺寺標

境内墓地

山門 切妻、桟瓦葺 一間一戸四脚門

本堂 寄棟造 銅板葺 一間向拝

本堂 山号扁額

庫裡

林子平顕彰碑と墓標覆堂

林子平墓石

林子平木造を祀る六角堂

林子平日時計レプリカ

細谷大太夫直英の墓

庫裡 僧堂(坐禅堂)

手前の祠(小堂)十一面観音石碑
日本百番結縁之札所

奥の祠(小堂) 地蔵菩薩を祀る

境内の祠(小堂)

境内墓地

犬・猫供養墓

庭園

寺標 當午山 満勝禅寺

山門 山号扁額

本堂 緑が綺麗です

客殿

山王神社 山王鳥居

社標 山王大権現石碑

鎮海観音堂

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

相馬黒光(良)実家・星家墓所

星雄記實美の墓石 日翁記雄信士
星良(相馬黒光)の祖父

星雄記妻・星定子墓石
星良(相馬黒光)の祖母

微笑山江厳寺

本堂 現代建築

本堂 山号扁額

庫裡 客殿

竹松丸御霊屋

地蔵菩薩

竹松丸墓所 金剛寶山輪王寺境内

本堂 律院寺号扁額 
嶺譽智堂大僧正より贈られた扁額

水子地蔵菩薩像

七福神

  浄土宗 圓光山大法寺
慶長十三年(1608)圓蓮社良通上人により仙台城傍の大町にて浄土宗寺院として建立開山された。万治元年(1658)仙台藩伊達家二代藩主・伊達忠宗葬礼(荼毘)の儀が執り行なわれた。翌万治二年(1659)四月坦蓮社良重上人は、忠宗公の葬礼跡を護り弔うために現在地を賜り旧地より移転、中興開山した。寛政六年(1794)当山十一世・蓮翁戒珠律院(浄土戒律)を再建、下野国芳賀郡の浄土宗円通寺三十七世・良高より律院規約条目が贈られた。
寛政十一年(1799)夏に本尊阿弥陀如来像が完成した。像の大きさは半丈六の坐像である。(高さ約120㎝)同年、江戸浄土宗大本山・三縁山廣度院増上寺五十三世・大僧正智堂台下(だいか)より大法律寺の扁額が贈られた。天保三年(1833)から四年に及ぶ天保の大飢饉による餓死者の供養塔を飢饉の収まりつつあった天保十年(1839)に建立した。
明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈の流れの中にあって、律寺として廃寺となった。その後、無住寺となり、兼務住職及び住民・檀家等の努力により細々ながら寺院としての体面を保ってきた。昭和十四年(1939)石塚慶恩上人が当山第十七世の晋山式(住職就任式、山に進み入るの意)を執り行い住持となる。石塚慶恩上人はその後本堂、庫裡、位牌堂などの堂宇を再建し、昭和五十二年(1977)に入寂された。その功績により中興開山の称号と正僧正の位を贈られた。
翌昭和五十三年(1978)石塚寛祐上人の晋山式を執り行い、当山十八世住職となる。平成七年(1995)に本堂、庫裡、位牌堂を新築し、中興上人の称号を与えられた。平成十年(1998)、御本尊阿弥陀如来座像が仙台市有形文化財に指定され、それを機会に平成十五年(2003)に観世音菩薩と勢至菩薩のレリーフ像を作成、脇侍として阿弥陀三尊形式の像姿となっている。
  大法寺七福神と七福神の由来
正月二日の夜(初夢)、宝船に乗った七福神の絵を枕の下に入れて寝ると縁起が良いと云われている。この信仰は我が国独特のもので、室町時代の僧侶秋月が鍾馗様、大黒様、福禄寿様、布袋様を舟に乗せ、唐子(からこ)二人が棹をさしている図を描いたのが初めと伝えられている。現在の七福神は毘沙門天、大黒天、弁才天のインドヒンドゥー教の神々と中国道教の寿老人、福禄寿、布袋、日本神話の恵比寿の七神である。これらの七神が人々に幸福をもたらすものと深く信仰されてきました。これらの信仰の先には、人間のさまざまな願望を満たしてくれるこれらの神々を一緒にして船に乗せると、きびしい人生の船旅を乗り切ることができるのではないかという望みを託してのことであろう。
              案内説明より               

三門 切妻 本瓦葺き 
脇塀付 三間一戸棟門

寺号標

本堂

三体地蔵菩薩像



浄土宗 宝嶺山充国寺 
 仙台市青葉区新坂町17-1

山門重層階にあり立ち入り禁止

仙台七福神の寺院幟旗

犬猫小動物供養塔

本堂前の六地蔵

本堂

山門 山号扁額

仙台社寺北山へ

山門 主柱桁龍置物

山門 切妻造本瓦葺一間一戸四脚門

寺標

門前六地蔵尊

本堂 千鳥破風向拝 桟瓦葺き

観音堂

境内墓地

供養塔 阿弥陀如来像

供養塔

寺標

山門 (赤門) 赤塗は柱と棟木のみ

梵鐘

庭園 冬

歴史のある寺院です
親鸞聖人と有縁の寺のこと

墓所の六文銭家紋?
     海野・真田ではない

庭園

枝垂れ桜

門前の獅子像

対像ですが同じお顔です

歴代住職墓所 改葬墓所?

向拝正面 龍の彫刻

向拝柱木鼻 獅子の彫刻

細谷地蔵

並木路子記念樹と休み処

細谷地蔵と並び建つ地蔵菩薩

仙台社寺北山へ

本堂

山門 山号扁額

山門 一間一戸薬医門

本堂扁額 無畏(畏れの無い)
施無畏印

山王神社社殿

庫裡

大聖不動明王石碑
愛姫が竹松丸守護の不動明王か?

奉納尊像
延命地蔵尊 稚児地蔵尊

参道庭園

歴代住職墓所 (改葬墓所)

境内墓所の看板が外されていたが

三界萬霊供養塚

客殿前の胸像 江巌寺の篤志家?
大内青巒居士像

山門 山号扁額

山号扁額と寺号木札が取り付けられた

庫裡 客殿

大法寺供養塔 右端は叢塚

境内 黒松

佐久間晴獄の墓

松林蝙也斎の墓

山門梁の様子

山門棟の様子

観音堂 新築

観音尊像

地蔵尊でしょうか お顔が欠けています

弁天堂

弁天堂 厨子内に弁才天像?

弁天池

地蔵堂

地蔵菩薩像 

庫裡

本堂 入母屋造桟瓦葺唐破風向拝

山門 本瓦葺三間一戸袖塀付薬医門

寺号標

寒さに耐えて 童子地蔵尊

山門門扉の様子

主柱の様子

境内巨樹

会館 正面玄関

会館

地蔵菩薩像

地蔵菩薩と境内墓地

刈り込みが綺麗な

門前 保存樹林 樹齢395年とある
実生か挿し木かが判っているのでしょう

山門 棟門

本堂 入母屋造銅板葺

本堂 山号扁額

納経塔 慈母観音

庫裡

本堂前 狛犬 滑稽なお顔です

狛犬 境内神社があったのでしょう

山門 寺号札

会館 庫裡

山門主柱斗栱木組み

庫裡

観音堂扁額 観世音

本堂扁額 浄土宗・宗紋(月影杏葉)と宗歌(月かげ)
  月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ

本堂扁額

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

  曹洞宗 通寶山永昌寺
永昌寺は伊達政宗が仙台を本拠にする前からこの地に建立されていたと伝えられている。その場所は現在地ではなく、南に1㎞程の北四番丁(東北大学附属病院)付近であったと云われるが、その根拠となる資料が失われており、当時の正確な寺の場所や開基、開山、宗派についても解らないことが多く、伊達家ゆかりの寺院ではないことが判るくらいである。
但し、政宗仙台開俯後に政宗により現在地を賜り移っているので寺院の流れとしてよほどのことがない限り改宗することはないので、以前から禅宗の寺であった事が想像できる。政宗の母・最上義姫が覚範寺に葬られたことから、義姫の葬儀が執り行なわれた場所を守護するための寺院は、同じ禅寺が選ばれたであろうことからも推定できる。
伊達輝宗の正室・最上義姫は、出羽山形城主・最上義守の娘で政宗の生母である。晩年、実家である山形に帰っていたが、関ヶ原合戦のおり上杉対策の功により山形藩が五十七万石の大身になった事が仇となり、実兄・最上義光が慶長十九年(1614)に死去するに及んでいわゆるお家騒動が起こり、元和八年(1622)最上家は改易となった。
それに伴い政宗は、身の置き所のなくなった母を仙台に呼び寄せ孝を尽くしたが、翌元和九年(1623)死去した。老齢の身で、実家の没落と山形から仙台までの長旅が心身とも弱った結果の故であった。
享年七十六 保春院殿華窓久栄尼大姉

保春院の亡骸は北山の臨済宗遠山覚範寺で火葬、埋葬された。後、当時原野であった現永昌寺境内に置いて葬儀が執り行なわれ、その場所(灰塚)に塚を創った。永昌寺はその灰塚を祀るために寛永十五年(1638)現在地に移され、開かれた寺院である。開山は北山の曹洞宗金剛寶山輪王寺十三世・角外麟恕大和尚で、その時に曹洞宗となったとも考えられる。
永昌寺の案内板にはそれらのことについて次のように説明されている。
  保春院殿(義姫)の灰塚(葬礼場跡)について
当山の本堂の後方、墓地の中央部に保春院殿(義姫)の灰塚がある。その縁により藩主の命を受けて寛永五年(1628)当山が開かれた。今もその灰塚を原形で保存している。
  保春院殿(義姫)
仙台藩祖・伊達政宗公の父君、輝宗公の夫人である。山形城主・最上義守の娘義姫で、政宗公の御生母である。
元和九年(1623)七月十六日仙台で没す。法号 保春院殿華窓久栄尼大姉。
  灰塚
伊達家では、他家に例のない特有の葬送が行われていた。それは藩主あるいはその夫人の没後直ちに埋葬し、別に中陰中(四十九日間)に寺地ではない原野を葬場として空棺で葬礼を行い、棺を燃やし、その灰を多量の土で饅頭状に覆い、さらに二十間(約三十六メートル)四方の桝形で囲んで「灰塚」と称した。
                案内説明より       

山門の赤松の巨樹

灰塚傍の黒松巨樹

保春院灰塚

保春院灰塚石碑

参道

山門 桟瓦葺 三間一戸薬医門

山門 山号扁額

本堂

本堂扁額 
仙台三十三観音 第四番札所

庫裡

大きな記念石碑 謂れは分らない

地蔵菩薩像 夏

地蔵菩薩像 冬

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ



浄土宗 増上山大願寺  
仙台市青葉区新坂町7-1

仙台社寺北山へ

大願寺

山門 杮葺一間一戸唐門

唐破風 飾り金具と漆黒が美しい

門扉に彫られている家紋
萬寿寺殿の出自稲葉氏の家紋(隅切角に三文字)

山門 境内から 向唐門です

山門傍の地蔵菩薩

本堂 入母屋造向拝付桟瓦葺

本堂 山号扁額

庫裡

観音堂 宝形造銅板葺
千手千眼観音菩薩

観音堂扁額 御詠歌
たておきし みたのちかひ乃 おほ以なる ねがひのうちに たれかもるへき

奉納 供養水子観世音菩薩

大願寺住職墓所

新・旧 宝篋印塔

震災で取り換えられた大棟の鯱と鬼瓦

仙台第七番観世音 石標

墓標
瑞巌寺殿貞山利公大居士増榮品位

灰塚の紅梅
(臥龍梅の接ぎ木or挿し木

灰塚正面

灰塚側面

灰塚背面

灰塚廻り水堀



天台宗 眺海山仙岳院  
仙台市青葉区東照宮1-1-16

本堂縁側の不動明王と六地蔵尊

本堂 入母屋造妻入 縁屋根向拝付

本堂扁額 釈迦殿

仙岳院土塀

山門 桟瓦葺 一間一戸薬医門

山門木札

山門 斗栱・蟇股

瑠璃殿

門前石碑 輪王寺宮公現親王
北白川宮能久親王御座所 東叡山輪王寺門跡 徳玄謹書

  天台宗 眺海山康国寺仙岳院
康国寺は天台宗・比叡山延暦寺を本山として承応三年(1654)仙台藩二代藩主・伊達忠宗公が幕府に願って東照宮を勧請し、その別当寺(東照宮の管理、維持を、監督を使命とする)として創建されたものである。仙岳院は康国寺の筆頭塔頭寺院として建立され、康国寺と同一に扱われ同化していくことになって行った。東照宮造営にあたって南に向かって宮町から東六番町、荒町に至る真っ直ぐな長い参道が造られました。その肩首の場所に康国寺仙岳院は位置しています。
御本尊は釈迦三尊(中央釈迦如来 左脇侍文殊菩薩(向かって右) 右脇侍普賢菩薩(向かって左)である。併せて、東照宮本地仏の薬師三尊(中央薬師如来 左脇侍日光菩薩 右脇侍月光菩薩)と薬師十二神将もお祀りしている。いずれも京都の仏師・幸和の作である。
本地仏とは、東照宮(東照大権現)の本来のお姿が薬師如来であるとの考えで神仏習合により生まれたものである。東照宮とは徳川家康公の本来のお姿で、東照大権現の名を借りた神として衆生の前に現れ、人間界に神の威光を示し神界に戻られたと信じる心である。現世に偉大な業績を遺すのは神であり、神が仮の姿になったとして崇める必然性があったのであろう。
創建当時、東照宮の祭祀料として五十貫文(小田原、荒巻、黒川郡穀田が知行地)、仙岳院関係に五十貫文、の合計百貫文を忠宗公は仙岳院に管理させている。忠宗公など、歴代藩主のお墨付き(御朱印)は本堂に現存している。
東照宮遷座式には伊達騒動(寛文事件)の立役者?原田甲斐宗輔が奉行を務め、仙岳院三世・亮榮師の記録によると、その時のお布施は合計二万両であったと云う。これらの事は仙台藩がいかに幕府に気を使っていたかを教えている。又将軍家菩提寺である江戸東叡山寛永寺の末寺ともなっている初代最教院僧正・晃海大和尚以来、歴代平泉中尊寺の別当も兼ね、仙台藩一門筆頭寺院として明治維新に至り、神仏分離令により東照宮と別れた。
慶応四年(1868 明治元年)戊辰戦争のおり七月二日より十月十二日まで、輪王寺宮公現入道親王(還俗して北白川宮能久親王)が御滞在したが、その部屋は現存している。能久親王は明治天皇の叔父で、最後の輪王寺宮(門跡)となった。輪王寺宮は門跡寺院となった東叡山寛永寺貫主の尊称で、日光山輪王寺山主、比叡山延暦寺の座主を兼ねるもので、高い格式をもち、門跡を引き継ぎ、幕府朝廷的な意味合いを持つものであった。
仙岳院に祀られている尊像は御本尊・釈迦如来三尊や薬師如来三尊のほか、仙台三十三観音第十一番札所・十一面観世音菩薩(小萩観音と称し奈良時代の行基菩薩作と伝える)を奉安し、さらに阿弥陀如来、地蔵菩薩、千手千眼観音、聖観世音菩薩、不動明王、大黒天、弁才天、歓喜天、山王神(比叡山延暦寺の守護神)、そして天台大師、伝教大師、慈恵大師、加えて仙台藩二代藩主・忠宗公(忠宗公の像が現存しているのは仙岳院のみである)等を奉安している。朝夕法華経を読誦し国家の安奉と参詣の方々の家内安全、仏果増進と福寿増長、福徳円満の為のお祈りをしています。
  瑠璃殿(宝物館 尊像安置)
薬師如来は薬師瑠璃光如来ともいい薬師如来の浄土を瑠璃光浄土と云う。それに因んで、薬師如来を本尊とするこの宝物館を「瑠璃光殿」と名付けた。本尊の薬師如来は東照宮の本地仏として祀られたもので、東照宮、仙岳院創建時の承応三年(1654)、京仏師・法眼左京幸和の作である。左脇侍・日光菩薩、右脇侍月光菩薩、十二神将像も同じく幸和の作である。
その外如意輪観音、馬頭観音、多羅菩薩、千手千眼観音菩薩、十一面観音菩薩の各観音菩薩像烏枢沙摩明王、不動明王、金剛夜叉明王、軍陀利明王、大威徳明王、降三世明王の五大明王、各明王像三面大黒天、歓喜天(聖天)、荼枳尼天、毘沙門天(多聞天)、弁才天の諸天像が安置されている。
その他如来部、菩薩部、明王部、天部部の仏画二百余軸、各士の書、山水画など合わせて三百軸を蔵し、毎月テーマを設定して展示替えをし、ご覧いただくことにしている。特に仙台藩五代藩主・伊達吉村公筆の、東照宮縁起・融通念仏由来記は貴重なものである。
是非ご来館ください、ご希望によっては特別に展示が可能の場合もあります なお、団体での来館は予約下さい
  不動明王と六地蔵尊(本堂前縁側)
不動明王(倶利伽羅不動剣と羂索) 密教大日如来の化身とされ、五大明王の中尊
六地蔵尊右から
大堅固地蔵菩薩・・・・・天道に在る者を導き護る
大清浄地蔵菩薩・・・・・人間道に在る者を導き護る
清浄無垢地蔵尊・・・・・修羅道に在る者を救い出す
大光明地蔵尊・・・・・畜生道に落ちている者を救い出す
大徳清浄地蔵尊・・・・・餓鬼道に苦しむものを救い出す
大定智悲地蔵尊・・・・・地獄道に苦しむものを救い出す
                案内説明より            

地蔵菩薩像

地蔵菩薩像

本堂奥の一代守り本尊堂

本尊堂扁額

境内樹木

宝物保存蔵

宝篋印塔と石仏

小萩観音堂

観音堂扁額

観音堂 大日如来像
十一面観音像は中央厨子

寺標

山門 一間一戸棟門

鐘楼

梵鐘

本堂 院号扁額

本堂 入母屋造桟瓦葺千鳥破風向拝

仙台睦之墓と祀られる六字名号
南無阿弥陀仏石碑 集められた? 

野仏尊像と地蔵堂

地蔵菩薩

宝篋印塔と地蔵菩薩

阿弥陀如来 十万日融通念仏回向

聖観世音菩薩

庫裡

観音堂 本尊聖観世音菩薩
室内墓所設置

三面六臂 大黒天像

大黒堂

閻魔堂(十王堂)
中央・閻魔王と七七の六王及び一周忌王と三回忌王の十王 上段右は奪衣婆 閻魔王は五・七 三十五日の取調官 

閻魔堂扁額

閻魔堂内陣

萬日堂永代供養塔

不動堂

不動明王と二童子



天台宗 眺海山延壽院(浄圓房)  
仙台市青葉区宮町5-6-18

山門 桟瓦葺一間一戸棟門

山門 院号扁額

延壽院説明板

寺院に鳥居 権現様が祀られています

本堂 「浄圓堂」
阿弥陀如来と浄圓房大権現を祀る

本堂 「浄圓堂」扁額

疣神(いぼかみ)様  注連縄の上部と
基部の二つの丸いものは何でしょうか

疣神祠 扁額

尊像石像

庫裡・会館「一隅会館」

御神木 桜

延命地蔵堂

地蔵堂扁額

延命地蔵尊

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

道路に面した土塀

寺号標

山門 桟瓦葺 一間一戸薬医門

山門 山号扁額

山門 斜め横から

山門屋根 鯱と逆さ獅子

門前左 福寿殿

福寿殿扁額

福寿殿

供養塔 白衣観音

境内墓地

地蔵菩薩輪王座像

本堂前 宝篋印塔と地蔵菩薩像

本堂 現代建築

本堂寺号扁額

御手洗石鉢と奉納記念碑

庫裡・坐禅堂

境内中庭

地蔵菩薩像

地蔵菩薩

聖観世音菩薩像と禅師像?

本堂へと続く講堂

本堂扁額

本堂

釈迦堂 本尊 木造阿弥陀如来立像

釈迦堂扁額 龍寶密林

釈迦如来立像 厨子内安置
左脇侍文殊菩薩 左脇侍普賢菩薩

客殿 (旧本堂)

客殿扁額

西国三十三観音菩薩石塔

法寶蔵

旧法寶蔵礎石 (焼失)

庫裡

稲荷神社

扁額 有巴ヶ崎正一位稲荷大明神

稲荷神社 社殿

稲荷神社 狐狛犬

花塚

金剛華菩薩

手水者 重厚な建物です

龍神水口

手水者 桁木龍の彫刻

主柱木鼻の獅子と獏

境内の庭園

境内墓地

寺標

南無阿弥陀仏供養石碑

参道

山門 桟瓦葺 一間一戸四脚門

山門 山号扁額

山門 木鼻・蟇股

多宝塔

多宝塔 逆光シャッター

多宝塔 扉・二手先木組・蟇股

屋根隅木 龍の彩色彫刻

本堂参道 両脇の地蔵菩薩像

龍寶寺四十八・四十九世住職
為供養建立 地蔵菩薩像

モクリコクリの板碑

境内墓地

境内墓地

境内墓地 栗原家之墓

延元二年モクリコクリ板碑 碑文

来迎寺

寺標

旧町名道標 来迎寺に平行に滝前丁
直角に北五十人町

本堂

本堂 寺号扁額

俱会一處 有縁無縁墓石供養塚

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

社号碑 参道初夏

鳥居 鳥居初夏

社号碑 参道晩秋

鳥居 参道晩秋

脇参道

社務所

拝殿

拝殿 社号扁額

本殿を望む

祖霊社鳥居

祖霊社社殿

祖霊社扁額

神池

錦鯉

参道脇 狛犬

狛犬

参道踊り場 奥参道社殿正面参道
手前石段旧東昌寺参道?

震災で倒壊した鳥居

参道下公園のヒマラヤスギ

青葉神社御神木

伊達政宗家臣・伊達成実幟旗



鹿島神社 
仙台市青葉区青葉町3-14

一之鳥居 神明鳥居

参道石段

二之鳥居

拝殿

本殿

御神木と石碑群

手水者

境内社 塩竃神社

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ

出羽三山神社社標

出羽三山神社社殿

御嶽霊神之像

社標

車両参道より

現代建築の社殿

社務所 神札授与所

御嶽三吉神社

参道 奉納鳥居震災倒壊

参道奉納鳥居

参道右 大山祇神社

社殿

参道 鳥居

鳥居社号扁額

参道 雪の石段

仙台社寺北山へ

羽黒神社社号石碑

参道鳥居 東日本大震災修復

参道

羽黒神社社殿

羽黒神社社殿扁額

社務所

境内社 月山神社・湯殿山神社

月山神社・湯殿山神社扁額

神楽殿

境内社 愛宕神社

境内石碑群

愛宕神社扁額

竹駒稲荷神社 (覆い屋)

竹駒神社鳥居扁額

竹駒稲荷神社

社殿扁額

御輿殿

収納御輿

社号碑

鳥居と境内

鳥居扁額

八雲神社社殿

差殿扁額

仙台社寺北山へ

仙台社寺北山へ