浄土宗 衆寶山光臺寺
光臺寺ははじめ出羽国村山郡東根に開山された寺院である。当時の寺院の様子は遺構も残っておらず、現代ではうかがい知ることができない。その後、天正元年(1573)東根光臺寺の住持・良心故関大和尚が陸奥国に開山、諸堂を建立したと云われている。出羽国の光臺寺が何故に陸奥国に移ったかは判らないが、時代から想像すると、南部家二十四代南部晴政の時であろう。多くの寺院と同じように斯波郡三戸に拠点を持ち、陸奥国北部に領地を拡げた南部家により招請されたものと思われる。
盛岡に移転の時、はじめ現在の盛岡城近くにあったと云われるが南部家二十六代南部信直の時、盛岡(不来方)に拠点を移し盛岡城(不来方城)を築城し城下整備の折、現在地に移転したと考えられる。後、盛岡藩初代藩主・南部信直に嫁した武姫(会津黒川城主・蒲生氏郷養妹、氏郷家臣・小倉行隆娘)が篤く帰依した。光臺寺境内に墓があるが、養父蒲生氏郷は洗礼も受けているのでキリスト教徒であったかとも思われるが、源秀院と号している。
盛岡藩二代藩主・南部重直は母源秀院殿の廟所を光臺寺に定め、その場所としてその当時隣接していた曹洞宗・源勝寺  日蓮宗・法華寺を北山に移転させ、三代住職・一白大和尚が中興開山、南部重直が霊廟を建立し、諸堂を整備開基となっている。

光臺寺所有 盛岡市指定有形文化財
  光臺寺の阿弥陀如来立像 一体  昭和四十五年二月二十五日指定
この阿弥陀如来像は、盛岡市内では珍しい平安期の藤原様式による古仏で、蓮台の上に立っている。通肩の衣装に見られる衣紋は、彫りの深い美しい波で表現された優作である。上品下生の来迎印(右腕をひじで曲げて上げ、左腕を下げて、両腕共に親指と人差し指で輪をつくる)を結んだ、桧の寄木造、漆金箔像(漆を塗った上に金箔を貼りつけた像)で、高さ九十七・五センチメートルである。天文二十四年(1555)と寛永十五年(1638)修理の胎内銘墨書の記録も整った極めて貴重な文化財である。
  六曲一隻盛岡城下絵屏風  昭和四十一年十月十八日指定
盛岡城下絵屏風は紙本淡彩六曲仕立てのもので、本来は六曲一双の屏風であったと思われるが、現在は一隻のみが伝えられており、作者は不明である。大きさは縦百七十三センチメートル、横三百六十七・五センチメートルで、盛岡城下の河南地区の情景を主としたもので、城を左一曲目に大きく描き、舟橋が三曲から四曲にかけて描写されている。絵にある寺院名から、文化年間(1804~1818)に制作されたものと推定され、貴重な資料である。

  ムカデ姫之墓 (於武姫・源秀院殿)
武姫は蒲生家一族で後家臣となった小倉行隆の娘で、蒲生氏郷の養妹、または養女となった。蒲生氏郷は織田信長の次女冬姫(相応院)を正室に迎え織田一門に次ぐ家柄となったが、本能寺の変後豊臣秀吉に仕え、会津黒川城(若松城)に入り九十二万石の太守となった。陸奥・出羽の暴れん坊・独眼竜政宗を間に挟んでいた南部家との間に誼を通ずる必要から、盛岡藩初代藩主となる南部信直に嫁した。その時に護り刀と共に持参したのが蒲生家の先祖である藤原秀郷(俵籐太)使用の矢の根(鏃 やじり)と云われている。藤原秀郷は、東国・平将門の乱の際、将門を討伐したことで名を馳せたが、それを遡る頃の話として大百足退治がある。
平安時代の中頃、淡海瀬田川に架かる瀬田の唐橋に大蛇がが横たわり、人々はそれを恐れ渡らなくなっていた。そこに通りかかった俵籐太はそれに怯むことなく大蛇を無視するが如く渡り切ってしまった。まもなくして俵籐太に屋敷に美しい娘が訪ねて来たと云う。実はこの娘は瀬田の唐橋に横たわっていた大蛇が身を変えたものであったが、籐太の勇敢であることを認めた上の事であった。
娘の言うことには、私は淡海に住む竜神の者ですが、川向こうの三上山住む大百足に苦しめられ、悩んでいるとのこと、籐太の勇気あるところを見込んで頼みに来たと告げた。見込まれたからには断ることを良しとしない籐太は承諾し、準備を整え三上山に向かうと山を七蒔き半もする様な大百足であった。準備した武器を以て勇敢に挑んだが、大百足に痛手を負わせることができなかったと云う。
最後の残った一矢に願をかけ望月に張った弓から放たれた矢はその思いが乗り移り見事に大百足を退治することができた。その時大百足に刺さった矢の先が後に伝わる「矢の根」と云われる鏃である。願がかなった後、竜神一族から五穀の絶えない「底なしの俵」をお礼として贈られたと伝える。この俵から「俵之籐太」と称されたのかは定かではないが、大百足退治の話が世に出たことは確かであろう。同時代の話としては、源頼光家来・渡辺綱の酒呑童子退治や一条戻橋の鬼の話(羅生門とも)がある。
藤原秀郷の子孫は関東に在って武士団を組織する在郷武士として多くの諸家が起こっている。百足の鏃がどうしてその後の激動を乗り切ったかはわからないが、近い話では下野国小山荘を領していた小山氏が所有、戦国時代、後北条氏(小田原北条氏)の関東支配により圧力を受けていた小山氏が衰退した後、同じく秀郷の後裔である蒲生氏が正統となって「矢の根 鏃」を継いだと云う。これが南部家に嫁いだ武姫が持参した鏃である。事の起こりから事の終わりまで約七百年、現在からすると千三百年の事であり、蒙古来襲の時代である。
なぜに武姫(源秀院)の墓が「ムカデ姫之墓」と云われたのかであるが、武姫は利直が亡くなり源秀院と号したが、源秀院も寛文三年(1662)七月二十六日に逝去、九十の長寿だった。光臺寺御霊屋は水堀で廻りを囲み、正面に太鼓橋を架け廟所参拝に供したところ、その石垣基部もろとも破壊されたと云う。その後架け替えも行われたが同様なことが起こったことから、これは俵籐太に退治された百足の仕業であるとの噂が立ち、ムカデ姫之墓と呼ばれるようになった。そこで光臺寺住職により百足供養塔を建立し、その後このようなことが起こらなかったとも云われている。武姫が持参した鏃の行方は判っていないが、廟所下深く眠っているのかもしれない。

  覚山地蔵尊由来
昔、江戸の吉原土手で辻斬りをした南部の殿様がいた。目付役に発見され、追われていたところ、ある町の豆腐屋に逃げ込み難を逃れたと云う。 やがて殿さまは参勤も終わり、盛岡に帰る際、この豆腐屋に「もし困った時は南部盛岡に来い」と話して別れた。 その後豆腐屋は盛岡に来て、殿さまから芽町(現 材木町)に家を貰開業した。 これが見事な旨い豆腐だったので「江戸豆腐」といって城下の大評判となり大繁盛したと云う。しかし、寄る年波には勝てず、臨終に際して家族に「死後は南面にして葬るように」と遺言して他界した。 不憫に思った殿さまは、一体の地蔵尊を刻ませ、墓所を設けて冥福を祈った。 町の人々は参拝に都合のいいよう通りに面して安置したが、いつの間にか南を向いているのだった。 人々は「豆腐屋さんが江戸生まれなのでその方角を慕うのだろう」と噂し合った。 この故事から、地蔵尊に豆腐をお供えして、延命・安産・子育地蔵尊として古来近在の信仰を集めている。
                案内説明より
  曹洞宗 松峰山東顕寺
東顕寺は陸奥国胆澤郡水沢に創建された曹洞宗・大梅拈華山正法寺の末寺である。正法寺二代住職・月泉良印禅師の弟子古山良空和尚により至徳元年(1384)開山され、不来方(盛岡)領主・福士政長が開基創建した。福士氏は南部家に仕えた武士団で、南部家と同じ祖(甲斐源氏源三郎義光)の系統と云われ、南部氏から不来方の地を任されていたと云われる。
その後、南部氏が不来方を拠点とする際に、不来方城(盛岡城)の北方(北山)に寺領を賜り移転した。中央政権過渡期に当る時代にあって不来方城落城の折の北の後方陣として寺院が集められたものである。寺院の堅固な建造物は城郭にも勝る防御の砦となりえたのである。これらは盛岡藩に限らず、諸藩にも見られ、現在寺町と呼ばれる様な寺院群が城下町には多く存在している。
東顕寺は盛岡にて開創された寺院の内では最も古いと云われ、本寺・正法寺と共に領内曹洞宗の総領寺であった。

東顕寺 盛岡市指定有形文化財
  十一面観音菩薩坐像 一体
寄木造の漆箔像で、肩幅と膝幅の比率も小さく、こじんまりとして相好は優しく、彫り口は大胆ですが、像容は整っており端正です。作風は京都の七条仏師の流れをくむもので、江戸初期の制作とみられます。本来、この像は三ツ石神社の本地佛(神が仏の形をとって仮に現れた姿・権現であり、神仏習合により考えられた)であり、歴史的な価値も高い作品です。

  大黒天立像 一体
一木造の素木像で、兜をかぶり右手に剣を持ち、左手に宝珠を載せて俵の上に立ちます。眉毛や顎鬚は線刻で入れ、眼も彫眼です。唐風の兜二間を持つ型は古く、室町時代を下らない制作とみられ、力強く雅致に富んでいます。不動大黒とも称されるこの期の大黒天像は、県内でも稀少な作品です。

  東顕寺本堂 盛岡市指定保存建築物
東顕寺の本堂は、文化三年(1806)に建立された。入母屋造り本瓦葺 一間唐向拝付で向拝天井の組物、内部の海老虹梁や虹梁扇垂木など、木造建築美が随所に見られる建物である。現在の屋根は銅板葺で改修されている。

  本堂大棟鬼瓦保存について
この鬼瓦は、銅板に葺き替える以前の本堂の屋根が瓦葺であった時の大棟の鬼瓦として屋根に設置されていた二個の鬼瓦の内の一個である。約七十年の間、本堂の屋根を守護し且つ東顕寺を守護してきた鬼瓦でもある。今回銅板の屋根に葺き替えするにあたり、此処に保存し永く後世に伝えるとともに、末永く東顕寺を守護してもらうと共に、檀家信徒各家の家門の繁栄を祈念するものである。
東顕寺の本堂の屋根の変遷を振り返ってみますと、文化三年(1806)現在の本堂が再建されたのであるが屋根は柾葺(板葺)であった。大正十一年(1922)に柾葺から瓦葺の屋根に改装したのではあるが、今回銅板葺に改装するまで約七十年間瓦葺の屋根であったことになる。
この七十年間、この鬼瓦は屋根の両端に鎮座していたことになる。昭和六十三年四月二日銅板葺替えの工事に着手、昭和六十三年八月十日、本堂屋根並びに位牌堂の屋根、両建物の屋根工事が完成した。因みに位牌堂の屋根はトタン葺であったが、腐朽が甚だしく銅板葺に改装した。

  澤田芳洲句碑
母能歌秋乃聲 我耳能三幾古由㐬「ものか秋の聲 我にのみ聞ゆる」  
この石碑は、一徳庵三世・澤田芳洲の句碑です。芳洲(通称 澤田喜兵衛)は、陸奥国和賀郡黒沢尻に生まれる。十二歳から日詰町小野酒屋に勤め、後年大番頭となる。十八歳ころから俳句の道を志、於曽啓之丞(俳号 一徳庵此一)に就いて俳動を学び、此一亡き後一徳庵の名跡を継承し門人少なからずあり、斯道の宗匠大家とも廣く交際するなど中央にもその名が知られていた。その後、此一の子・五楓に一徳庵の名跡を返して、遅日庵芳洲と称した。
明治二十五年八月十九日死去 享年五十
この碑の建立の由来は、芳洲の流を慕う門人たちが後世に伝えようとして、明治四十年に建立したと云われています。碑文書は、山口剛介(刀岡)五十歳頃の作です。
昭和九年死去 享年七十八、
              案内説明より                                                                                 

  天満宮の石馬(狛犬)
昭和八年七月、同じ天満宮の丘に建てられた思郷歌「病のごと/思郷のこころ湧く日なり/目にあをぞらの煙かなしも」の歌碑除幕式と同時に、それまで地面に置かれていた石馬一対を、啄木の歌を刻んだ台座に据えた。本殿に向かって右側が口を開いている「阿形」で、台座に「夏木立中の社の石馬も/汗する日なり/君をゆめみむ」が刻まれている。左側の口を閉じた「吽形」の台座には、「松の風夜書ひびきぬ/人訪はぬ山の祠の/石馬の耳に」が刻まれている。
啄木は小説「葬列」に、「旧知己とは、社前に相対してぬかづいている一双の狛犬である。・・・~・・・克見ると実に親しむべき愛嬌のある顔だ。」と記している。この石馬(狛犬)は、明治三十六年六月、前年の菅公一千年祭を記念して、近くに住む高畑源次郎が、病気平癒の願いが叶えられたお礼に奉納したと伝えられている。
なお、境内の平安稲荷神社の鳥居付近の「子抱き狐」の台座にも、啄木の歌、「苑古き/木の間に立てる石馬の/背をわが肩の月の影かな」がある。従い、盛岡天満宮には、合計四基の啄木歌碑が建っている。

  天満宮と石川啄木
石川啄木が青春時代にしばしば訪れたこの天満宮の丘で、昭和八年七月に盛大な碑の除幕式が行われた。建碑運動からその実現までの約三年間は壮絶な経過をたどった。歌碑の建立にこぎつけた盛岡啄木会の苦労がしのばれる。故郷渋民村の渋民鶴塚と函館立待岬に次いで全国で三番目に建てられた啄木歌碑である。
啄木の直筆から集字拡大して自然石に刻まれた歌「病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあをぞらの煙かなしも」は、啄木の名声を高めた歌集「一握の砂」 「煙一」(盛岡時代の回想)の冒頭に据えられている。
<病気のように故郷を恋い慕う心が湧く日である 目にうつる青空の煙が心にしみて悲しいことよ>(岩城之徳著より)
という歌で、都会の空に昇っている煙によって、郷愁の思いに駆られた心を詠んだ歌である。

石川啄木(本名一 はじめ)は明治十九年(1886)二月二十日、南岩手郡日戸村(現 玉山村)常光寺に生まれた。翌年、着た岩手郡渋民村(現 玉山村)寶徳寺に移った。渋民尋常小学校を優秀な成績で終えた啄木は、わずか九歳で親元を離れ、盛岡高等小学校(現 下橋中学校)に入学するため盛岡に来た。
やがて盛岡中学校(現 盛岡第一高等学校)に進み明治三十五年(1902)の十月に中退し、上京するまでの約八年間を盛岡で過ごした。盛岡中学校在学中には金田一京助(言語学者)、及川古志郎(海軍大臣)、野村胡堂(銭形平次捕物控作者)ら上級生の文学活動に刺激され、文学への目を開き、また、この頃、私立盛岡女学校の学生の堀合節子と出合い、文学と恋愛へ没頭していった。
その後、節子と結婚し新婚時代を盛岡で過ごした.盛岡で過ごしたこの時代は二十七年の啄木の生涯の中でも唯一溌刺とした青春を謳歌した時でした。
此処天満宮は啄木が中学校時代にしばしば散策に訪れ、読書や思索に耽ったところでした。その当時から杉木立に囲まれた落ちついた雰囲気の場所で、宮沢賢治なども訪れたといわれています。特に、参道の愛嬌のある一対の狛犬は人気があり、啄木の小説「葬礼」の中にも登場する狛犬です。また、天満宮の梅林の一隅には盛岡市内で最初に建てられた啄木歌碑があります。

  筆塚
芝田湛水をはじめとする芝田一族は、元禄年間から明治時代まで約百八十年にわたり盛岡で代々『手習い師匠を務め、特に書道教育において著しい業績をあげました。盛岡で二番目となる寺子屋を開業した初代の芝田玩水は藩主に召し出されて、揮毫するほどの腕前でした。
三代目に当たる湛水は、能筆と豊かな学識で、一族の中で最も名声がありました。享和三年(1804)に門弟ら千五百人余りが建てた筆塚は、筆の穂先のような形をした紫波町佐比内の自然石を使ったものです。表面には「筆塚」の大字、傍らには「行年七十七歳芝田湛水書」の文字が刻まれています。高さ約二メートルに及ぶ筆塚は、岩手県内でも珍しいもので、湛水の名声を物語っています。

  菅廟稙梅記念碑
菅原道真公の没後一千年にあたり、明治三十五年(1903)、盛岡菅公会が設立されました。雑草木を払い敷地を広げて、梅千株を植えるなど天満宮境内に施設を整えた上、盛大な祭典を催しました。
碑には、その経緯が記され、当時の奉賛活動の熱気を伝えています。境内にある石鳥居二基や石燈籠三対、撫牛、神楽殿はその時に奉献されたものです。題字は、明治時代の初めに岩手県知事を務めていた石井省一郎が記しました。教育者・郷土史家・書家として名高い新渡戸仙岳が文章をつくり、島崎寿太郎の筆により、約六百文字の漢文体で刻まれています。

  融通念仏石塔
京都大原の天台宗魚山来迎院塔頭・浄蓮華院の憲眞法師が延宝四年(1676)七月、盛岡城下で融通念仏(念仏系芸能と深い関係)を行ったことを記念して建てられたものです。藩政時代天満宮の森に天台宗の安楽寺があって天満宮の別当寺ともなって、天満宮の管理、祭事の指揮を執った。

  高橋煙山句碑
「梅疎なり月照る杜の杉襖」
煙山は、明治十年六月八日、盛岡市八幡町片原に生まれ、幼名を山崎次郎といった。生れた翌年に父と死別し、母は乳飲み児の次郎を伴い、煙山村(現 矢巾町)の高橋三之助と再婚した。六歳で煙山小学校に入学、卒業後は十一歳で盛岡市内の商家の丁稚奉公を振り出しに、壮士共居の旅役者、煙山村役場書記、横浜毎朝の新聞記者、南部鉄瓶の卸商等、いろいろと職を変えながら全国を廻り俳句の研鑽をつみ、大正十年頃から三重県の吟社「松の葉」ほか数社の選句者として、また昭和十年頃からは盛岡市の「緑水吟社」(小野一秋主宰)の句作の指導にあたった。
この句碑は、昭和二十六年十一月、緑水吟社の弟子達や、全国の知人、友人の手により建立したもので、碑石は南昌山山麓の岩崎川から運ばれたものである。尚、老後は、句作の傍ら俳画や祭りの山車づくりの余技を楽しみ、また自ら禁酒禁煙を実行するとともに、その宣伝にも努め書斎を「無酒庵」と名付け、句作三昧の余生を送ったが昭和三十五年六月二十六日死去した。
享年八十四

  高橋青湖句碑
髙橋青湖(本名 高橋初五郎)は、明治二十二年九月二十日に盛岡市で生まれた。盛岡商業学校を経て、東京芝逓信官吏練習所技術科を卒業した。盛岡郵便局電話課長、日本電話設備株式会社盛岡営業所長を歴任歴任。
昭和五十五年九月二日死去。享年九十二
大正四年に俳句を作り始め、不来方吟社を創設した。臼田亜浪に師事、大正六年工藤芳清らと「自然味」を創刊。以後六十五年間、通巻六百四十号を歿年まで主宰し、たくさんの俳人を育成した。大正十年「石楠」の同人、昭和五年臼田亜浪の跡を継ぎ、岩手日報俳壇の選を十二年担当、戦後、岩手日報社発刊「岩手俳句」の監修、岩手県芸術祭俳句大会の選者となり、盛岡俳句研究会外各地句会の指導に務め、現代俳句の普及に貢献した。著書には句集「谿の音」がある。昭和四十年、喜寿を祝い、知人友人門弟によって天満宮境内に句碑が建てられた。
              案内説明より       

  盛岡八幡宮
盛岡八幡宮の御祭神の御名を誉田別命(ほんだわけのみこと)と申し、人皇第十五代・応神天皇の御霊神を奉斎しています。御祭神を称えて八幡大神又は御八幡様と申し上げます。誉田別命は、第十四代・仲哀天皇の第四皇子にして、又の名を大鞆和気命(おおともわけのみこと)とも又胎中天皇(たいちゅうてんのう)とも申されます。御母は神功皇后(じんぐうこうごう)です。
仲哀天皇の九年(200)神功皇后が新羅から御凱旋の日にご誕生せられ、摂政(摂政)三年にして皇太子となり、、御即位は神功皇后崩御百歳の年の翌年、七十一歳(270)に達せられた時であります。諸国に海人部、山部を定めて山海の政事を整えられました。天皇の御座位中は韓人の往来するものが多く、学術、技芸が盛んに輸入されて、わが国文化の開発に貢献されました。
応神天皇十七年(286)、百済国の使者として阿直岐が来朝(来日)し、初めて中国の経典を伝えましたので、天皇は我が皇子・雅郎子をして阿直岐についてこれを学ばせましたが、阿直岐はさらに百済の博士・王仁を推薦しました。かくして王仁は冶金工、服工、醸酒師などを率いて来朝し、論語十巻、千字文一巻を献上しました。これが我が国に儒学の興った始まりです。
また、この御代には百済からの帰化人を諸郡に分置して蚕を養い絹布を織らしめ、さらに使いを呉国(中国)に遣わして樴縫の工女を求め、殖産興業の上に一新紀元を画するに至りました。この御治綪が故に、学問の道に、農業牧畜、植林治水、漁猟、商工、土木建築、交通海運と、あらゆる殖産興業の道を授け、人間が生活を営むにその根源とする衣食住等開発指導せられた日本文化の生みの親神様であります。
応神天皇は御在位百十年、うち六十九年は神功皇后摂政で、聖壽百十歳で崩御されました。御稜は、恵我藻伏岡陵(大阪府羽曳野市)にあります。
盛岡八幡宮は延宝八年(1680)南部家二十九代・盛岡藩南部家三代藩主・南部重信公が累世氏神として創建され、御祭神は誉田別命(応神天皇)である。盛岡八幡宮は元々源頼義が鎮守府将軍として陸奥国に勢力を張って京都に敵対していた安倍氏討伐の際、戦勝を願って京都石清水八幡宮より勧請し、祀った神社である。
京都から陸奥国に来る道すがら各地に勧請して建立した八幡宮の内の一つであり、不来方(盛岡)に勧請した八幡宮を鳩森八幡宮と称したと云う。。その後、約百五十年源頼朝が鎌倉を拠点に武家政権を樹立した際、その一つの八幡宮であった神社を鶴岡八幡宮と称し、源氏の氏神として社殿を整え尊崇した。
その殊に鑑み河内源氏の棟梁である源頼朝の奥州藤原氏討伐に際し戦功のあった同族南部家初代・南部光行が、氏祖甲斐源氏・加賀美遠光が甲斐国南部郷に勧請した八幡宮を糠部郡三戸に遷座、三戸南部氏の守護神として南部氏歴代の崇敬をうけた。その後八幡宮は櫛引八幡宮と称されたと云われている。
南部氏が盛岡に拠点を移し、盛岡城を造るにあたり築城の守護神として城内に鳩森八幡宮を遷座再建したと云う。盛岡藩三代藩主・南部重信が氏祖が三戸に開創した櫛引八幡宮を盛岡に遷座し、不来方鳩森八幡宮の祀り址に社殿を建立し、南部家の安泰と藩領人々の安寧を願ったと伝わる。その後明治維新になり盛岡城廃城に伴ない城内に在った鳩森八幡宮を櫛引八幡宮に合併合祀し、幾度かの経過を似て現在の盛岡八幡宮の基となった。
            案内説明より

  拝殿・本殿
盛岡八幡宮の正面階段を登ると拝殿が見えてきます。拝殿の正面には扉がありますが、誰でも、いつ何時でも参拝できるようにと、24時間扉が閉められることはありません。拝殿の中では、各種恒例祭や神前祈祷が厳かに執り行われます。拝殿の内外には、岩手県の「県花」である桐の花の彫刻が華麗な装飾が随所にほどこされています。正面扉の上には旧拝殿から引き継がれた「八幡宮」の額があります。
下拝殿の拝殿のさらに奥、八幡山のほぼ頂上に位置しているのがこの本殿です(平成5修築)。八幡大神を中心に春日大神、白山大神の三神がおまつりされているところで、本殿の中には神職の中でももっとも位の高い宮司(ぐうじ)しか入ることができません。

  手水舎
参拝の前に手や口を清める手水舎に使われているのは、「水堀石」と呼ばれている大石です。元々は岩手郡内北の浦の滝壺に在った石で、流水によって自然に窪みが形作られた珍しい石です。明治九年、明治天皇東北御巡幸の際、これに似た石に水をため鱒を放していたところ、それを天皇が御足を止めて御覧遊ばされたとの記録もあることから、明治二十一年の八幡宮再建時に、八幡町の人々が水堀石を神社に奉献した。
手水舎では、柄杓で水を汲み両手を順番に清めます。次に手に水を受けて口を漱ぎます。手水舎の上には「洗心」という言葉が掲げられていますが、これには手を清め、口を漱ぐことで、心も洗い清められると云う意味が込められています。

  盛岡鎮守社号碑
この「盛岡鎮守」の碑は、皇太子妃雅子さまの曾祖父にあたる海軍大将・山屋他人が書いたものです。八幡町の正面石の一の鳥居の左側にあり、盛岡八幡宮のシンボルともなっています。

  神寶殿
盛岡八幡宮に古くから伝わっている宝物や後世に伝えたい重要な奉納品が数多く保管、展示されています。代表的なものは、脇差、「蛇切丸」の異名をもつ宝刀、獅子頭などがあります。
脇差(岩手県指定有形文化財)は初代国義(筑前国福岡の人、新藤治郎兵衛国義延宝の初め盛岡藩三代藩主南部信重に請われ盛岡に来、盛岡藩の雇われ刀工となる)が制作、し奉納したものと伝えられています。
宝刀「蛇切丸」(岩手県指定有形文化財)は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけて制作されたもので、玉山氏の先祖である大和守が陸奥国三戸簑ヶ坂において大蛇を退治したと伝えられています。
獅子頭(盛岡市指定有形文化財)は、延宝九年辛酉(1681)八月十五日、八幡宮の初めての祭礼の時、藩主・南部重信公が贈ったと云われています。

盛岡八幡宮 盛岡市指定文化財(昭和五十七年九月一日指定)
  青銅燈籠 二基 
この燈籠は、城下の町人たちが盛岡八幡宮に奉納したもので、盛岡藩御用職人・藤田家五代目 藤田善兵衛秀彭と弟、善蔵情有によって、文化九年(1812)に造られました。上部から宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎・基壇で構成され、青銅製の部分は三分割できるようになっています。
笠は円形で蕨手状の反りがある稜線で六区分され、火袋に鳳凰・桐花文透、中台は左右一対で子・丑・寅等の十二支を鋳出し、基礎には牡丹・唐獅子・銘文を陽鋳している。盛岡藩十一代藩主・南部利敬が八幡宮から「札の辻」(現 岩手銀行中ノ橋支店付近)に移動させ、「八幡宮」の文字を削り取ってしまったが、その後、氏子たちの尽力により境内に戻されました。
              盛岡八幡宮案内説明より          

榊山稲荷神社境内社

  金殖神社
金殖神社は、藩政時代にに榊山神社の分社の一つであり、「斗米稲荷」と称された神社であり、中の橋通の一角に祀られていたものであります。昭和の初め、岩手銀行(当時 岩手殖産銀行)の守護神として祀られておりましたものを、昭和二十三年に現在の本宮である榊山稲荷神社の奥宮として遷座し、銀行に祀られていたことから、お金を殖やすと言うことに御利益があると云われていることから、「金殖神社」と称され尊崇されてきました。
御祭神は、豊受大神で、事業大成、殖産振興、五穀豊穣、に御利益があるとされる神様であります。平成十二年九月、岩手銀行が御祭神の神徳発揚を記念して、社殿及び参道の改修工事を行い奉納されています。

  天祖霊社
天神地祇八百万神の祖神・天之御中主大神を祭神とする神社である。氏子総代はじめ氏子の方々の死者の霊を安置しており、、毎年の七月十九日に祖霊感謝祭を斎行し、祖先の霊を慰め、その御守護をいただいております。
天之御中主大神は、古事記の記述によれば天地ようやく定まりし時に最初に天(高天原)に現れた天神で、神の祖神である。程なくして髙御産巣日大神、神産巣日大神の二神が現れ、お隠れになった。この三柱の神は造化三神と呼ばれている。次に高天原に現れた神は、宇摩志阿斯訶備比古遅大神、天之常立大神の二神で、お隠れになった。これら五柱の神々を別天津神とよび、日本の神々の祖となり崇められている。その後に現れた神々は神代七代と呼ばれる神で、日本の八百万の神々を生み、日本の国をつくっていった。

  淡島神社
ここに祀る淡島大明神は、市内肴町・久保庄社長である佐藤庄兵衛家が、盛岡市茶畑に祀っていた淡島明神社を御好意により榊山稲荷神社境内に奉遷することにしたのが由来である。淡島明神は今から二百七十年前の寛保四年(1744)二月、別当・廣田出雲守により、本宮(紀国海草郡加太に鎮座する延喜式式内社加太神社)より勧請申し上げたことに始ると伝えられています。
祭神は、少彦名命、大己貴命(大国主命)、息長足姫命の三柱で、医薬、酒醸、農事、温水、裁縫の守護神とされ、特に、明治以前の淡島神信仰では女性の守護神として崇められ、婦人病、安産、子授けに霊験あらたかと云われてきました。今も女性の参拝者が多くみられます。
鳥居は、高橋昭一氏の手に成り寄進されたもので、高さ45㎝。毎年の四月十六日に祭礼が執り行なわれています。御信仰により神徳の御加護が得られることと存じます。         

  龍神社
旭龍大明神を祭神とする。水の精霊神を祀っている為、水を扱って生活をしている人々の守護神にあたります。特に農業を始め、料理、飲食業を生業とする人々の信仰篤く、年々崇敬者が増しております。

  八幡神社
ここに鎮座する八幡神社は、石橋家に永く祀られていた八幡神である。八戸より遠野に転封の際、雷鳴の如き御音に家人が驚いてみれば、庭前の巨木に御神体飛び遷り来て、以来、飛び八幡の名を以て、子孫繁栄、家業隆盛の守護神として近隣の尊崇を集めております。

  船五社
船五社が鎮座された年月は定かではないが、昭和三十八年、榊稲荷神社へ遷座した。元は秋田県横手市にて祀られていたものを授かったものである。昔、秋田の海岸の網元をはじめ漁師などに信仰され、近郊をはじめ東北、関東地方より崇敬者が集まり、網元は一年に一度は是非参籠して、一年の船の安全と大漁を祈願したと伝えられている。

  六光石(水堀石)
猿ヶ石川産で水堀れ一メートルの珍しい石で、泥板岩のため、白光にあたると六色に光を放つところから名が付けられました。昔、猿ヶ石川を渡る筏師等に恐れられた石で、この石に筏を引掛けて多数の人達が命を失ったと伝えられている曰く付の石であります。ダムが完成するやその全貌が現れ「水堀れ」の素晴らしいことがわかり、榊稲荷神社へ奉納された石であります。
             案内説明より            

  弁慶石
弁慶は平安時代末期の武将で、主人・源義経(1159~1189)は後に鎌倉幕府を開く兄源頼朝と仲違いし、陸奥国平泉(現 岩手県西磐井郡平泉町)を拠点としていた奥州藤原氏のもとに身を寄せ、そこで悲劇的な最期を遂げました。源義経は、歴史上の人物として人気が高く、その死を否定し、蝦夷地(現 北海道)に逃れたという「北行伝説」があり、また、二十年後、蝦夷地から大陸に渡り北方騎馬民族の長となったという、「チンギスハーン伝説」もある。
義経一行が立ち寄ったと伝わる弁慶石は、高さ約三メートルの花崗岩です。一行がここで休憩し、義経に仕えていた弁慶が力試しをした、と言う伝えが残っています。元は義経石も並んであったとされ、石工のノミにかかり、無くなったと云われています。義経石にノミを打った石工のその後は定かではないが、此処で一つの伝説が伝わっていれば話が盛り上がるのだが。
この巨大な岩はその後度々の大地震や豪雨にもめげず滑り落ちずに今日に至っているこんな謂れから『滑り落ちない』合格祈願がかなう岩(祈願岩)として、学問の神様・菅原道真を祀る天満宮と相俟って受験生の人気のスポットです。

  盛岡天満宮
御祭神 菅原道真公(845~903)神号:天満大自在天神
古来、学門・文芸・の神として志学の徒・文人墨客の崇敬を集める延宝七年(1679)盛岡八幡宮造営のみぎり現在地(花垣館跡)に遷座した

  天満宮沿革
盛岡天満宮の創祀はさだかでないが、盛岡城築城当初は四ッ谷と寺町の間に社殿があったと云われている。南部氏が三戸郡南部を拠点としていた時代から祀っていたと思われる。その後、寛永二年(1625)に紙町川下町裏大手掘の上、現在の上之橋右岸・緑の広場辺りに奉遷、次いで寛文六年(1666)笹森山(現 盛岡八幡宮)に遷座、さらに延宝七年(1679)神八幡宮造営のため、新庄村花垣館と呼ばれし清き処に再三遷座し鎮処、今日に至っている。
天満宮の管理運営は隣地に在った別当寺・安楽寺に委託されたが、明治元年(1868)に発布された神仏分離令と廃仏毀釈の社会風潮によって,安楽寺が廃寺となるまでの約二百年間維持されてきたが、廃藩置県後は管理責任者のないままに荒廃にまかせていた。こうした折の明治七年、盛岡の豪商・糸治第六代当主中村治兵衛氏をはじめ袰岩重兵衛、大志田勇八氏等によって建て替え寄進された。造営の棟梁は穀町の太田善右衛門で、周囲の杉木立によく調和し趣のある雅な造りである。その後、中村家累代及び明治三十五年創立された盛岡菅公会会員の提携協力によって維持され、年々祭祀を営み、菅公の遺徳顕彰、神域の整備を図るなど社会文化活動の拠点として、また「新庄のおでんっあん」と呼び親しまれ現在に至っている。

  撫牛
天満宮の撫牛は、明治三十五年(1902)の菅原道真公没後一千年祭を記念して、彫刻、奉納されたものです。一般的な神牛と比べて、柔和な表情を浮かべているのが特徴です。いつの頃からか、神牛を撫でた手で患部をさわると病気が治ると云い伝えられ、「撫牛」と呼ばれるようになりました。

  鹿島明神の祠由来
御祭神は建御雷神 常陸国鹿島に祀られる神で鹿島明神と申し上げる
古来武神として尊崇され南部氏が鹿島神宮より御分霊を盛岡城に祀った。寛文元年(1661)時の盛岡藩二代藩主・・南部重直公が新庄花垣館跡に御旅所として社殿を建立、年々の祭祀を行うが、明治四年社殿を焼失し、石造りの祠と要石を残すのみとなった。旧町名に鹿島下とあったのは、その史実を語るものである。
現在地に遷座は平成十四年十月二十五日であった。左側に置かれた石は「要石」と称し、神霊来臨の霊石と伝えられている。常陸国鹿島神宮の「要石」は地中深く埋まっており、地中で地震を起こすとされる「なまず」を押しこめているという。昔、水戸黄門として知られる光圀公が石の大きさをはかろうと試みたが、掘り起こすことは出来なかったと云い伝えられている。この要石の大きさは地上に浮き出ておりまた異なる霊神石と崇められてきたのでしょう。

  平安稲荷神社
平安稲荷神社の創建については、いつどのような経緯でできたか、詳しくわかっていません。天満宮に付属し、天満宮と縁故の深い神を祀った摂社として現在に至っています。平安稲荷神社前にある仕え狐一対は、平成四年(1992)七月七日に盛岡菅公会が奉納したものです。社に向かって右側の雌狐は、子狐を抱き、威厳ある中にも優しさの溢れている石像です。台座には、盛岡市玉山区出身の詩人・石川啄木が天満宮を詠んだ「苑古き木の間に立てる石馬の背とわが肩の月の影かな」の短歌が刻ざまれています。左側の雄狐の台座には、昭和元年(1926)に設立した第二次盛岡菅公会の沿革などを記しています。

  天神囓り梅
この梅は、種に歯形のようなくぼみのある珍しい品種で、「歯形の梅」 「鼻ぐりの梅」とも呼ばれています。盛岡市長田町にある盛岡市の保存樹木「天神のかじり梅」を親木として、シダレカツラの増殖に功績のあった阿部善吉が育てたものです。

  銭湧石・石割梅
高さ約二メートル、幅約五メートルの花崗岩の中央にある亀裂から、かって無数の古銭が掘り出されたことから「銭湧石」と呼ばれています。この場所が、花垣館と呼ばれていた頃に埋蔵された古銭ではないかと推定されています。
花垣館の築城年代は不明ですが、室町時代の守護大名・斯波氏の家臣が居舘したのが始まりと考えられています。後に盛岡城築城に際して、南部氏の家臣・三上氏が居館したとされています。現在は、石の割れ目から梅が自生し、花実をつけています。菅原道真公を祀る場所にふさわしい梅の木は、「石割梅」として大切に保存されています。

  飛び梅
平安時代前期に学者・文人・政治家として活躍した菅原道真公は昌泰四年(901)政略により筑前国大宰府(現 福岡県太宰府)に太宰権帥として京都から左遷され、その地で生涯を終えました。墓所(埋葬地)上に建てられた太宰府天満宮には京都を去る際に名残を惜しんだ愛梅が、一夜にして京都から大宰府に飛んできて根を下ろしたと伝えられている御神木「飛梅」があります。
盛岡天満宮の「飛び梅」は、参勤交代で江戸に出た盛岡藩士が、親交のあった筑紫の武士から譲り受けた種を育成して植樹したと云われ、この梅の実を食べると、学問や文芸に秀でると伝えられています。育成に携わった阿部善吉は、地域特有の変種で、枝が垂れているシダレカツラの増殖に功績のあった人物で、カツラは盛岡市の木として市民に親しまれています。
               案内説明より        

  曹洞宗 久昌寺
久昌寺は創建当初「久昌庵」という庵寺であって、十一屋某者(現盛岡市下ノ橋十一屋の先祖)が祇陀寺の奇山快秀和尚の為に造った閑居でありました。快秀和尚は十一屋三代の当主高橋祐吉と相談し、周囲の谷地を求め伽藍を建立し、布教・法要を執り行う道場とし、明暦二年(1656)開山導師として、報恩寺九世蘭翁嫩芝大和尚を勧請し、自ら二世大和尚として住職になられ、そのときから「奕葉山・久昌寺」と公称するようになりました。ご本尊は釈迦年尼佛、脇侍は文殊菩薩・普賢菩薩の釈迦三尊形式であります。

  久昌寺本堂
開山当時の建物は享保十四年(1729)の大火に見舞われ、堂塔・佛具・過去帳等を焼失した。十世代に再興されましたが、明治十七年(1884)大火に遭い、さらに明治三十一年(1898)九月二十三日に焼失、現在の本堂は大正五年(1916)建立されたものであります。本堂は木造平屋建瓦葺で、面積は四百三十六平米(132坪)であります。
本堂は釣天井造りで、大間の天井には眞野暁亭の筆になる龍の墨絵があり、東西の堂中の襖には十六羅漢の墨絵があります。また、東側の襖の裏側には竹林の七賢人の墨絵が描かれてありますが、いづれも眞野暁亭の筆になるものであります。本堂内陣の天井には二十一世和尚の筆になる花鳥の絵があります。住職海野家は画人家柄で、海野梅岳・三岳の作品をはじめ近年では岩手大学で教授をつとめられた海野経は先代の弟にあたられる.。

  久昌寺三門
楼門で総けやき造、銅版葺で昭和八年建立されたもの。久昌寺二十一世和尚の発願で、当時大圓寺(下閉伊郡川井村小国)の住職であった二十二世和尚に命じ伐採した欅で建てられたもので屋根から扇状に突出する「扇たる木造り」が特色であります。山門の周囲には数々の彫刻をはめこみ、扉には「天女」が彫りこまれ、大蟇肢には「牡丹に鳳凰」が、扉の両側には「昇り竜」「降り竜」が彫刻されてあります。山門楼上には「十六羅漢」を奉祀し、漢訳の大蔵経が納められています。
山門の鯱は南部家からの下賜の盛岡城乾の門の由緒あるものと言い伝えられていたが、長年風雨にさらされ、破損が著しく、平成八年三月補修のため取り外し調査したところ、言い伝えにたがわず、木彫りの鯱にこれの保護を意図したごとく、銅板で鯱を型どり覆工されていました。木部覆工部ともに腐食・破損が甚だしく、補修復元後再び風雨にさらすに忍び得ず、庫裡玄関に保存されています。現在の鯱は代替のものを求め設置してあります。

  久昌寺観音堂
明治三十五年(1902年)に建立された旧堂宇は、老朽甚だしく平成八年に庫裡とともに改築されました。
木造平屋建・重層屋根・大唐破風様式で面積は四十八平米(14.5坪)であります。
観音堂には盛岡三十三観音の二番札所として、七体観音菩薩と、
なぜか今は廃寺となった仰接庵より安置された十番札所の白子観音菩薩が祀られているほか、
津島天王・三宝大荒神が合祀されています。
また、堂内の太鼓は南部の角土俵当時に使用された由緒ある太鼓で、南部家から下賜されたものであります。

  久昌寺梵鐘
鐘擡堂は大正五年立てられたものでありますが、梵鐘は昭和十七年戦争たけなわとなり、鉄等金属類の献納を強要され、止む無く供出、現在の梵鐘は昭和四十六年、藤田喜平代の発願で寄贈されたものであります。その銘文は次のとおりであります。
「伽藍鎮境」「華鯨釣楼」「禮楽茲備」「響處入流」「青山畳々」「白雲悠々」「天長地久」「佛日千秋」
梵鐘: 高さ180㎝ 直径73㎝ 重さ600㎏

久昌寺 盛岡市指定有形文化財(平成四年二月十五日指定)
  地蔵菩薩坐像 一体
本堂西側にある祠堂に安置してあり、この地蔵菩薩坐像の像容は、地蔵菩薩の通形で声聞形といわれ、比丘(僧)のお姿であります。額に白毫がつき、眼は切付描眼で、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せて蓮華座に結跏跌座しておられます。右手は臂を曲げて施無畏印風に錫杖を握り「矢田地蔵尊」と同じ様式となっています。佛家における行道を表しています。
左手掌上に宝珠を奉待するのは、古式の像容を継承するもので、右手の二指、五指の第一関節が欠損し、左手の第一間節が亡失しています。いわゆる安阿弥様の地蔵菩薩像で、写実的な像容のものであります。衣文の彫りが深く、当初の彩色もかなりのものであったと思われますが、大分剥落して胡粉下地が露出しています。江戸中期以前の京佛師の作とみられる優作であります。
              久昌寺HP案内説明より

  湯殿山金剛珠院
金剛珠院は神仏混合の寺院です。金剛珠院は通称内丸湯殿山と言われ市内をはじめ近郊の町村から湯殿山神社の祈祷所として多くの信徒を有しています。文政十二年(1829)四月、大手洗東側に本堂、庫裡を建立し、山形県東田川郡朝日村大網掛にある注蓮寺の名僧で現在国宝に指定と成って居る即身仏鐡門海上人が、注蓮寺より大日如来を迎えて本尊とし、金剛珠院を創立された。
御利益として、家内安全・身体健康・交通安全・合格祈願・先祖供養・水子供養・悪霊祓・地鎮祭・家相など御祈願いたしております。御本尊大日如来の御開帳は未年と申年の定例日に行われます。(説明文には句読点が無く読みずらいが、そうであろうというところに打ってみたが、「現在国宝になって居る」の意味が解らない)
で、金剛珠院のHPの説明文を以下に記した。当院は金剛界・胎蔵界の両部大日如来様を御本尊とする真言宗智山派の寺院であります。古くより多くの信徒で賑わい、通称『内丸のお湯殿山』と呼ばれております。即身仏として名の知れる鉄門海上人は文政三年に来盛して、布教に努め金剛珠院の礎を築きました。
その後、明治の初期に佐藤全長・青岳の二僧が盛岡をはじめ紫波、稗貫の各地を巡り湯殿山の効験を説き、湯殿山に登参し講をつくるなどして自らも加持祈祷を修し諸人の苦難を除き人々を善導してきました。明治六年に盛岡市内丸大手先東側の元四戸孫四郎武虎の屋敷跡の北側の地を借り、仮仏道とし湯殿山法楽祈祷所としました。次第に信徒が増加したため、明治十三年四月現在地に本堂並びに庫裡を建築され、平成四年および平成二十二年に本堂を修復し現在に至っております。


金剛珠院 盛岡市指定有形文化財
  木造両界大日如来坐像 二体 金剛界像高:四十四・五センチメートル 胎蔵界像高:四十一・センチメートル
両界(金剛界・胎蔵界)の大日如来坐像は、湯殿山注蓮寺より請来したもので、対になって同じ厨子に安置されています。両像ともに寄木造りの漆箔像で、金剛界座像は柔和ですが、胎蔵界座像は厳しい表情となっています。金剛界座像は江戸中期、胎蔵界座像は江戸末期の制作です。市内には天台・真言といった密教寺院が少なく、その本尊仏は貴重な文化財です。

  紙本着色如来荒神蔓陀羅 一幅
軸装仕立ての仏画で、本図は中央の内円相に相好柔和な金剛薩埵の化身という一面六臂の如来荒神を描いています。上に日・月、外円周縁に上から右回りに勢至菩薩・大日如来・不動明王・阿弥陀如来千手観音・虚空蔵菩薩・文殊菩薩普賢菩薩の八尊を描く別尊蔓陀羅で希少です。描法も丁寧で彩色の顔料も優れ、専門の仏画師の手によるもので江戸前期を下らない頃の作とみられる極めて貴重な文化財です。

  木造薬師如来立像 一体  像高:九十六・五センチメートル
薬師如来像は古くから手代森村(現 盛岡市手代森)の大沢部落にある薬師堂に祀られてきた尊像ですが、平成二十二年十月に所在地が移されました。制作時期は平安時代末期と推定され、正面二材、背面一材、側面各一材の合計五枚を使った寄木造りで、全体的に穏やかで円満な作風の典型的な三尺仏の構造、様式、法量に適った平安仏であり、紫波町、盛岡市間の平安仏の空白を埋める資料として貴重な文化財です。
              案内説明より            

  浄土真宗 石森山本誓寺
浄土真宗の教えを広める親鸞聖人の弟子は百人も数えるが、その中の主な弟子たちのことを書いたものに「親鸞門侶交友名牒」呼ばれているものがある。その十番目に、奥州和賀郡一柏の是信坊の名がある。親鸞聖人が常陸稲田におられた時、奥州の人たちも弥陀の本願の教えに救われるようにとの念を深くして、本願寺院開山をすすめるため是信坊にその任にあたらせた。
その時、お別れを惜しむと親鸞聖人は「後の世の記念に残す面影は、弥陀たのむ身のたよりともなれ」と詠われ、御自身の肖像を彫り、また、阿弥陀如来の尊像の両側に南無阿弥陀仏と書かれた~名体不離の本尊~を是信坊に与えられたと云う。時は建保三年(1215)のことであった。
その後、是信坊は一寺を紫波郡彦部村松田に創建、石森山重願院本誓寺と称して、およそ五十二年、大いにこの道を広められ、そのため、親鸞聖人より光明本一幅を与えられるが、文永三年(1266)十月十四日、八十六歳で入寂された。
寛永十二年(1635)本誓寺十六代住職・賢勝が南岩手郡米内に本誓寺を移し、かわりに正養寺を彦部村に建て、弟の慶正に寺祖の墳墓を護らせた。嘉永三年「(1850)、本誓寺二十五代住職・是伝が寺祖の墳墓を米内三ッ割に移して現在に至っている。
親鸞聖人の教えをはじめて奥州へ伝えてから七百年余りになるが、近世末期(江戸時代末期)までは五十六の末寺を数え、本誓寺には、初期教団としての宝物も数多蔵されている。
なお本誓寺宝物には「御御影」、「光明本尊」、名体不離本尊」、それに「光明摂取本尊」が伝わっている。

本誓寺 盛岡市指定有形文化財
  木造阿弥陀如来立像 一体
桧材 寄木造りの漆箔像(漆を塗り金箔を貼る)。衣紋は深く左右対称となり、平安時代後期の像容を留めているが、室町以前の製作とみられている。上品下生の来迎印を結んでいる。明治二十九年(1896)に実施された「臨時全国宝物取調」の対象となり、「全国宝物参攷簿」んみ登録された本尊である。

  木造親鸞聖人坐像 一体
楠材寄木造り。坐像全体が写実的で祖師像として優れ、鎌倉期の力強さがよく表現されている。頭部に蓮の葉痕があ刻まれていることから、「蓮冠の御御影」と称されている。親鸞御御影三躰の内の一躰であり、諸国に知られた宝物である。

  木造聖徳太子立像 一体
楠材寄木造り。寛政八年(1796)八月に遠州中内田村の尚宝院から譲り受けたものである。彫は写実的で仏師の非凡さがうかがわれる古像で、柄香炉を持っている。「孝養太子」の像としては県内でも出色のものである。

  本誓寺のホンセイジシダレ
この木は「ソメイヨシノ」と「シダレヒガン」の雑種と考えられています。特徴はソメイヨシノに比べて花の各部が小さいこと、葉季性(花より葉が早く開く)、シダレ性(枝が垂れ下がる)の三点です。ソメイヨシノに比べ、花の各部が小さく、葉季性のものを「シラタキザクラ」と言いますが、シダレ性、のものは極めて稀な品種であったため、生育地を記念して「ホンセイジシダレ」と命名されました。開花の季節には、小型で清楚な白い花を毎年咲かせます。樹高:六メートトル 目通周:一・一メートル 樹齢:八十年と推定
               案内説明より

  曹洞宗 五獄山龍谷寺 (虎獄山龍谷寺とも云う)
龍谷寺は江戸時代初めの盛岡藩(南部藩)初代藩主・南部利直の治政に、曹洞宗・瑞鳩峰山報恩寺六代住職・善室梵大和尚によって開山された。その後火災に遭い本堂をはじめ諸堂を焼失、現在の伽藍は安政三年(1856)頃に再建されたと伝わっています。また、盛岡三十三観音の第二十一番札所として、櫻川観世音菩薩を安置しています。この観世音菩薩が櫻川観音と称されるようになった由来については知ることができなかった。
禅宗寺院の門前には決まり事のように「禁葷酒入山門」の戒壇石が建っているが、これは葷酒を飲食したものは寺地に入ることを禁ずると受け取っている人が少なくない。これもまた参詣・参拝者の心得の一つとして正しいことでしょう。この種の碑を戒壇石、戒律石と称しているのは、出家つまり仏門に入る者の守るべき心得、決意を求める碑文です。
葷とは、今風に言うとアリイン(アリシン 硫化アリルの一種)を多く含む食材の事で、ゆり科の一群をさす言葉です。ニンニク、ネギ、タマネギ、ニラ、ノビル、ラッキョウなどその代表的なもので、精力が付くと言われる食材です。酒は心から煩悩をよび起し、葷は身から煩悩をよび起すもので、仏門修行の妨げになると言われたのでしょう。話がそれるが、織田信長の比叡山焼討の正当化の言葉として、「山中には男色、女色、が蔓延り、権力闘争時日年を連ね、もはや仏門に非ず」と云ったと云われている。

  龍谷寺のモリオカシダレ
この桜は、大正九年(1920)、国の天然記念物調査員であり、植物の権威東京帝国大学・三好学教授が、龍谷寺で発見された新種で、エドヒガンオオシマザクラの雑種である。樹性は枝垂れ性で、シダレヒガンに近く、葉形はソメイヨシノに近い。葉裏面が殆ど無毛で、子房と花柱も無毛である。
平成五年(1993)の測定によれば、根元周囲2.2m、樹高6.1m、枝張り8.0mで、主幹の大部分が腐朽し、辺材の一部が生きていて生育を続けている。総樹齢(樹寿命)は百五十年位といわれ、交雑種樹木の最大値に近いものと認められている。昭和十一年九月三日、国の天然記念物に指定された。その他本堂前には樹齢百年位と思われるソメイヨシノ?の老木があり、これの樹幹も腐朽が見える。

  石川啄木と龍谷寺
啄木の母方の伯父・葛原対月がこの龍谷寺の住職を務めたのは、明治四年から明治二十八年までの足掛け二十五年の長きに渡っている。対月の弟子であった啄木の父・一禎と対月の妹である啄木の母・カツの縁が結ばれたのもここ龍谷寺であった。少年時代の啄木はしばしば龍谷寺を訪れて、伯父対月から詩歌の手ほどきを受けたと伝えられている。

  蛇口安太郎之碑
蛇口安太郎は旧姓を久保田と言い、天保十年(1839)三月一日盛岡市花屋町近くの農家に生まれた。幼少の頃から衆に秀で、学門・剣術が好きで侍になることが夢であった。幕末はそれを可能にした時代でもあり、父の計らいで持参金付きで蛇口家の養子となり、長じて盛岡藩より有為の士として江戸留学を命ぜられ、北辰一刀流を神田千葉道場の学んだ。
当時の千葉道場は、攘夷討幕理論を奉ずる多感な若者たちの熱気に溢れ、武田耕雲斎・藤田小四郎ら尊皇攘夷を旗印とする急進的水戸学派が中心となった「水戸天狗党」の築波山挙兵に当り、道場の学友と共に安太郎もこの義挙に馳せ参じた。
この動乱は元治元年(1864)三月に始まり、関東一円を兵火にさらし、翌慶応元年(1865)二月義挙の指導者全員が雪の北陸で処刑されて幕を閉じた。その数か月前、北辰一刀流の剣の冴えで勇名を馳せた蛇口安太郎も、最大の戦いの場所であった常陸国(茨城県の北部)那珂湊で、終結した幕府軍の軍船からの十字砲火に傷つき落命した。時に元治元年九月三十日のことである。享年二十五
この石碑は、原敬が政友会総裁になった翌年の大正四年十一月、蛇口安太郎に対し従五位の追贈があったのを記念し、菩提寺に建立されたもので、篆額は南部利淳、碑文は岩手県属・岡山直機、書は新渡戸仙岳のてによる。
              案内説明より        

  曹洞宗 開田山恩流寺
恩流寺ははじめ曹洞宗報恩寺住持の別邸院として建立されたが、後、報恩寺七代住持・慶室恕悦和尚が別邸を開田山恩流寺として開山した。南部家三十代・盛岡藩四代藩主・南部行信が開基、諸堂を建立したと云われている。また恩流寺は、盛岡三十三観音第二十九番札所で、柱観世音菩薩を安置しています。この柱観音菩薩については次のような云い伝えがあると云う。以下 ブログ・morioka33kannonより引用させていただいた解説を記すと

享保年間に下米内松木平に観音堂がありそれが米内川の大洪水で御堂もろ共御本尊も押し流されて行方しれずなっていた。ところが浅岸村の照井佐達という信仰深い百姓が或る夜不思議な夢を見た。 それは観音様が佐達の枕許にお立ちになり、私の姿を見たいなら普請場に行って床柱にとっておいたヒバ(木偏に屠)の角材を削ってみよと申されるのでした。 翌朝佐達ヒバ材を削ってみたら、重なりあっていたヒバの節目が観音様になって見えた。 その後佐達が家から恩流寺に祀られることになった。
また、恩流寺の解説によれば、「享保年間に下米内松木平の丹兵ェ山に観音堂があり、それが中津川の洪水で流されてその跡が復旧されずそのままになってゐた。 処が享和年間浅岸村照井佐達の家で数夜にわたり、夜間にふくいくとした芳香と共に大師像が床柱に出現した。故に、五、三の信者が霊告奇端があり、この床柱を恩流寺に納め、円道大哲柱観音として書院に安置している。 柱観音御みくじとして霊験あらたかとされている。

恩流寺本堂から道を挟んだ愛宕山の恩流寺境内には、筑前国福岡藩黒田家筆頭家老栗山大膳(栗山利章)の墓がある。栗山大膳は黒田長政亡き後の二代藩主・黒田忠之の治政の家老職を務めていたが、忠之の行儀の悪さを糾すため、幕府に直訴したため、後の世に江戸三大お家騒動「黒田騒動」と云われた事件の中心人物となった。(三大お家騒動は他に伊達騒動、加賀騒動、仙石騒動等があるが、この組み合わせで諸説ある)
栗山大膳の墓は元々報恩寺や末寺の恩流寺に在ったわけではなく、恩流寺にその墓が残っている由縁は、愛宕山にあった天台宗・愛宕山法輪院広福寺境内に葬られていたもので、明治維新の神仏分離令、廃仏毀釈の流れの中で、廃寺となり、広福寺の境内の一部が恩流寺が引き取ったことによる。愛宕山には愛宕権現神社は残っていないが、愛宕山と言う地名からするとこの山頂の一角にあったものと思われる。また、栗山大膳が盛岡藩お預けの身になった際、その居住地が愛宕山山麓に在った事などを総合すると、その思いが強い。
旧米野山広福寺は陸奥国斯波郡に行基菩薩により開山されたと云われ、真言宗広福寺として創建されたとも云う。鎌倉期、陸奥国北部斯波郡に在った奥州斯波氏の祈願寺となり、斯波氏の尊崇を集めていた。
その後、三戸に勢力を張った南部氏が岩手郡不来方(盛岡)に不来方城(盛岡城)に拠点を遷し、不来方城を築城、城下町の整備をする際、旧領より移された六寺院の一つである。その時移った寺院の内現在法灯を護り続けている寺院は浄土真宗大谷派・石森山本誓寺、曹洞宗・圓峰山源勝寺がある。
法輪院広福寺は江戸德川家の菩提寺である天台宗東叡山寛永寺により中興開山され末寺となったと思われ、その際に真言宗から開宗したもので山号も愛宕山に改めたであろうと思われる。その後の広福寺はその関係もあって南部家でも重きをおいた寺院となり、盛岡藩領天台宗の総領寺院とも云われていた。その後は前述のように明治の初期廃寺となったが、広福寺の末寺の一つ天台宗妙法山千手院には、広福寺にあった仏像や仏具、仏画などが移され寺宝として護られている。
                案内説明より        

  臨済宗妙心寺派 大光山聖寿禅寺
聖寿禅寺は三光国斎国師により開山され、当初は三戸郡小向村に建立され、三光庵と称された小堂であった。開基は三戸郡を領地としていた三戸南部氏二代・南部實光と伝わり、三戸南部氏の菩提寺として建立されたと伝えられている。南部氏初代・南部光行は、源義家の弟・新羅三郎義光の末裔と云われ、頼朝旗揚げに戦功があり、甲斐国南部郷に居を構えたことから南部と称したと云うその後、頼朝の平泉討伐に功あり、陸奥国北部糠部郡他五郡を与えられたと伝えられている。しかし、五郡とはどこを指すのかはっきりしないし、平泉藤原氏に匹敵する広大な領地であるここは糠部郡の中にある小郡(郷)の事ではないのだろうか。もちろん、南部氏(南部光行)自身は当時は領地に常駐していたわけではなかろう。
後時代が進んで子孫が陸奥国に移り住むようになり、南部氏の諸系統が領内に拠点を持つようになり、それぞれ地名等を付けて〇〇に在る南部氏を名乗るようになったと思われる。その中で三戸に在った南部家が頭角を現し、三戸南部家として中央に知られるようになり、陸奥北部を領するようになった。南部氏二十六代・南部信直が陸奥国の古刹・瑞巌寺の僧・石門禅師を招き中興開山、菩提寺として聖寿禅寺を開山した。
南部家二十七代盛岡藩初代藩主・南部利直が戦国末期領地を与えられ盛岡城を築き、南部藩(盛岡藩)を開府した。この際旧領地に開いた聖寿禅寺を盛岡に移し、再興、建立したものである。盛岡藩南部家の菩提寺として広大な境内に諸堂が建ち、隆盛を誇っていたが、明治維新により南部家が神式に改宗藩の庇護が受けられなくなり多くの寺領を失い衰退したが、後再興された。明治維新後、自ら身を削って難局を切り抜けた寺院は数知れず、やむなく廃寺を選択せざるを得ない寺も又多い。
菩提寺・三光庵(三戸・三光寺)は先祖の菩提のために三戸に残り、境内には盛岡藩初代藩主・南部利直の御霊屋等のほか、歴代の墓石があり南部家の菩提寺として守護しています。

  盛岡三十三観音第十七札所
聖寿禅寺は盛岡三十三観音・第十七番札所霊場となっている。祀られている聖観世音菩薩は、もと市内梨木町に在った聖寿禅寺の末寺・明宜庵六角堂に祀られていたものでしたが、戦後明宜庵は廃寺となり、本寺である聖寿禅寺に移され本堂に安置されることとなった。聖観世音菩薩像は、木造、光背付坐像で、高さ30㎝、台座総高さ72㎝、厨子に納められており優美な尊像と云われています。なお、廃寺となった明宜庵跡地は聖寿禅寺により聖寿社会福祉法人が起こされ、聖光保育・託児園となっている。

  北向地蔵尊 南部家江戸屋敷の蹲
北向地蔵尊は、五摂家(一条、二条、九条、鷹司、近衛)の一つ、一條公爵家の守り地蔵として代々伝えられ、邸内の一隅に安置されていた尊像です。殊に累代夫人の信仰が篤く、明治天皇皇后・昭憲皇太后(一条実良公の妹・一条美子で南部家四十四代南部利英公の大叔母)も大変ご信仰遊ばされたと云われ、又、学徳の守り地蔵とも云われております。
院の北面(上皇の御所)をお護りすると云う意味で北向の安置されていたところから「北向地蔵尊」と称されてきました。南部利英公が母堂・一条悦子様のお形見として、昭和二十二年以来東京の南部家邸内に祀っておられた尊像を、此度四十五代南部利昭氏により聖寿禅寺へ寄進されました。平成元年五月十八日に本堂に安置、開眼法要を執り行いました。 

境内にある蹲は江戸時代、南部家江戸屋敷にあったもので、平成元年五月北向地蔵尊と共に、南部家四十五代・南部利昭氏から寄進され、東京から聖寿禅寺に運ばれ設置されたものです。

  聖寿禅寺 マリア観音像と厨子 (盛岡市指定有形文化財)
尊像は合掌印の観音形のマリア像で、極めて精巧な青銅製の鋳物の小像である。二代藩主・南部利直の正室となった会津藩主・蒲生氏郷の養妹(蒲生武姫 源秀院)於武の方が持参したものと伝えられ、南部家の御下賜品で秘像とされていたものである。
マリア観音像を納めている厨子は青銅製の円筒形で天蓋が上に開くように蝶番で止められ、前面もアーチ形の扉が蝶番で開閉できるようになっている。内側はすべて鍍金され、天蓋の上部にNDEDの文字が三冠文の中に刻まれている。「マリア観音像」及び「厨子」は、ともに桃山時代におけるキリスト教関係資料として貴重な文化財である。マリア観音像は高さ2.4㎝、厨子の大きさは高さ3.5㎝、円形底部直径2.0㎝である。 

  横川省三 
横川省三は、慶応元年(1865)、南部藩士・三田村勝衛の二男として盛岡上米内に生まれた。初め勇治と称し、青年期に山田を姓としたが、のち和賀郡十二鏑村(現 花巻市東和町)の横川家に養子に入った。その時名も省三と改めている。
若くして雄心勃勃、明治十七年(1884)上京して自由民権運動に加わったが、次いで東京朝日新聞に入社する。郡司大尉の千島探検には特派員として同行、日清戦争には従軍記者として参加し、万難を排してよくその取材報道に縦横の筆を揮った。
明治二十九年(1896)東京朝日を退社しアメリカに渡り、暫く移民事業に携わったが、東亜の風雲漸く急を告げるに及び、意を決して満蒙(中国北東部)に入り、日露戦争が勃発するや沖禎介等同志とともにロシア軍の後方攪乱を企て、嫩江(のんこう)大鉄橋を爆破せんとして捕われ、ハルピンに於いて銃殺の刑に処せられた。享年四十

  楢山佐渡
楢山佐渡(本名・楢山隆吉、隆至とも 通称佐渡)は楢山帯刀隆冀(たかくに)の長男として生まれた。楢山家は代々盛岡藩家老を勤めた家柄で、佐渡も若干二十三歳にして家老職を継ぎ、後には主席家老として藩政の改革に奔走した。佐渡は疲弊した藩財政と相次ぐ一揆を収めるために働き、そんな佐渡を藩主・南部利剛も厚く信頼した。
慶応四年(1868 明治元年)二月、旧幕府側と薩長側に揺れる藩の行方を決めるべく、佐渡は主席家老として京都に赴いたしかしそこで佐渡が見たものは、権勢を得て横暴な態度をとる薩長の武士の姿であった。そのため佐渡は、薩長の標的とされた会津藩と庄内藩への穏便な処置を望んだ奥羽越列藩同盟への参加を決意する。
奥羽越列藩同盟に従った盛岡藩は、同盟を脱退した秋田藩を攻めるも、官軍の援助を得た秋田藩に敗れ、明治元年九月に降伏謝罪の手続きをした。主席家老として佐渡はその戦争の責任を一身に受ける形となり、翌明治二年(1869)六月二十三日、故郷盛岡にて切腹の形を以て処刑された.
             盛岡市案内説明より
                                       

東北の社寺めぐりその3


盛岡市の社寺

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  天台宗寺門派 峰壽院
盛岡市馬町・峰壽院は、天台宗寺門派にて、近江国滋賀郡別所村(現 大津市)長等山園城寺(三井寺)末寺である。峰壽院開山は法壽と称し、代々修験道であった。法壽は下総国領主千葉常胤の末裔で、文治年間(1184~1189)下野国に移り、美濃部氏と称し、後、陸奥国江刺郡に移り新渡戸氏と称した。
江刺に移り住んで数代して、陸奥国稗貫郡里川口(現 花巻市)に移った。当時の住職は法明坊と号していたが(得度前は新渡戸神酒之進と称す)、慶長三年(1598)南部家二十六代・南部信直公より壽緜法印の称号を賜り、御領内(不来方)牛馬息安全の祈願を申し付けられた。
寛文三年(1663)四月、盛岡城下・馬町に移転し、延宝三年(1675)自光坊同行となる。この時、其の巌鷲峰(岩手山)の南方に庵していた故を以て、法を峰に改め峰壽院と称することとなった。享保四年(1719)十二月二十五日、盛岡藩南部家六代藩主・南部利幹公より、野馬掫駒飼牛等蕃息のため祈願所申し付けられた。祈願所寄付料として牛馬安全のため、御領内へ年々守札配布の儀、免許を与えられた。爾来歴代藩主の尊信篤く、藩領諸牧繁栄の祈願所となっている。
本尊・馬頭観世音菩薩は、もと千葉常胤の内佛であり、その佛徳広大、一心帰依する時は、諸願成就せざること無と称されている。然るに、南部信直公以来歴代の藩主が山馬畜牛に意を用いられ、特に牛馬蕃息安全の霊佛として尊信せられ、これが祈願所と定められるを以て、自ら上下を挙げて遂に東奥諸牧牛馬守護の致尊として帰命頂来するにいたっていた。

  峰壽院 旧馬町の由来
寛永盛岡城下図に新馬苦労丁とあり、万治元年(1658)に新馬町と改めた。後に馬町と改め、さらに文化九年(1812)馬喰町と改められたとする説と、そのまま馬町とされたとする説がある。馬の売買が行われていたことが由来とされる。馬町では万治元年に馬のせり市が行われており、宝永七年(1710)、藩命により駄馬の売買は馬町のみで行なわれることとなった。
当初、馬市は、歳市として毎年十二月の九日、十九日、二十九日の三回開かれていた。
明寺三年(1870)、民部省養馬懸出張所が設置されたが、産馬事業の民有移管により、明治十四年(1881)、岩手県産馬事務所が創立された。産馬事務所が明治二十三年(1890)に改組して、盛岡産馬畜産組合が誕生した。馬町馬検場を中心とする馬市は、明治四十五年(1912)まで行われ、その後、馬検場は新馬町(現 松尾町)に移った。文化九年(1812)の町方再編成のときに、馬町と十三日町が丁とならなかったのは呼びにくいためと云われている。
              案内説明より           

  旧宗龍寺 十六羅漢石像 五智如来石像
茶畑児童公園(通称ラカン公園)に巨大な石造五智如来と十六羅漢の尊像がある。その昔、南部藩の四大飢饉といわれる元禄、宝暦、天明、天保の大凶作のときに多くの餓死者がでた。その供養のために、祇陀寺十四世住職天然和尚(のち宗龍寺三世)がこの石造の建設を発願した。天然和尚は永年衣食を節約し、広く供養喜捨を集めるなどして資金を蓄えられたが、不幸にも志半ばで病に倒れられ、後のことを弟子にあたる仙北町長松寺十三世住職泰恩和尚(のち宗龍寺四世)に頼み、天保四年(1833)六月十二日、七十一歳で示寂された。
泰恩和尚は幾多の困難をのりこえて五万八千五十三人に及ぶ人々から喜捨を集め、天保八年(1837)十月に工事に着手し、その後、足かけ十三年もの長い年月を初心忘れることなく唯ひとすじに努力し、嘉永二年(1849)六月にようやく竣工を見るに至った。当時飢饉にうちひしがれて意気消沈していた世の人々を奮い立たせないでおかない一大事業であった。
このラカン公園は祇陀寺の末寺宗龍寺のあったところで、宗龍寺は明治維新後祇陀寺に併合されて廃寺になった。また堂宇も明治十七年十一月の大火で灰燼に帰してしまった。その後跡地は石像を含めて昭和四十年一月、盛岡市に寄付され、茶畑児童公園(通称ラカン公園)として、尊像は市民の崇敬をあつめ、広場はいこいの場となって親しまれている。
                祇陀寺HP説明より



浄土宗 三峯山 吉祥寺  
盛岡市名須川町15-11

  曹洞宗 圓峰山源勝寺
源勝寺は奥州斯波氏に故ある石清水氏によって建立されたと伝わっています。享徳山年(1454)、遠江国周智郡橘の曹洞宗橘谷山大洞院・雲林院の僧劫外長現和尚が東北に布教のために立ち寄った際、斯波氏の館を訪ねたという。その際、源勝寺を中興開山し、斯波氏は斯波家代々の菩提寺として諸堂を建立開基したと云う。
斯波氏及びその諸流は越前国、尾張国、陸奥国、出羽国及び遠江国の守護で、室町幕府の管領を務める有力な一族であった。斯波氏は遠江国の守護を務めていた関係もあり、また、同国大洞院が曹洞宗布教に力を入れていたこともあって、同族の陸奥国の斯波氏を訪ね曹洞宗をひろめたいと思っての事であろう。それまで天台宗の寺院であった源勝寺を改宗し、曹洞宗源勝寺を成立させたと云う。
その後、陸奥国北部に勢力を張った南部氏が取って代わり、南部氏二十七代盛岡藩初代藩主・南部利直公の時盛岡に移った。初め浄土宗光臺寺に隣接して建立されましたが、光臺寺に利直公夫人源秀院(会津藩主・蒲生氏郷妹)の御霊屋造立の為、日蓮宗法華寺と共に現在地に移転、再建した。

  銅造観世音菩薩立像 (国指重要文化財・美術品)平成二十一年七月十日指定
銅造り、鍍金の立像で、総高さ二十七・三センチメートルである。両手の指先、両足首に焼き跡があり、奈良時代前期(710~750頃)のものと推定されているが、伝来については諸説ある。源勝寺は享徳三年(1454)、斯波氏によって紫波町土館(斯波郡土館)に創建された寺である。斯波氏の代々の菩提寺として、当初は稲荷山源勝寺と称していた。
盛岡藩初代藩主・南部利直公が盛岡に築城し居城とした際、藩内の格式高い寺院を城下に移したが、源勝寺もその一つの寺院であった。この聖観世音菩薩立像が源勝寺にもたらした経緯については判っていない。
上半身には条帛(じょうはく)を懸け、下半の裳の前後にも肩から垂下する天衣とは別の天衣をまとい、胸飾りや腰帯、瓔珞(ようらく)に大粒の宝飾をあしらうなど、全体に豪華な衣装を見せている観音菩薩像である。現在、三面頭飾の上部や両手の指、両足などを欠失し、両肩から垂れる天衣正面部の別鋳(べっちゅう)部分も失われているが、その当初の華やかな像容は十分にしのばれる。また頭体のモデリングも安定したバランスの良いもので、本像が一つの時代を画す正統の系譜に連なることをうかがわせる。
このような三面頭飾の像で、かつ上帛や下半身を飾る別の天衣を表し、また連珠と列弁を組み合わせてその下端の中央と左右に宝飾を付ける形の胸飾をあしらうなどの菩薩の形式は、中国初唐から盛唐のごく初期にかけて現れるもので、わが国では法隆寺金堂の壁画などに典型的なスタイルを見ることができる。
この観音像の場合、金堂壁画の菩薩像と比較すると、むしろやや遡る傾向も認められ、七世紀末頃にこうした造形が日本の中央で行われたことも十分考えてよいであろう。
                盛岡市観光案内説明より            

盛岡市の社寺めぐり 
 


法泉寺    聖寿禅寺    東禅寺    教浄寺    源勝寺    法華寺    願教寺    


真行寺    報恩寺    正傳寺   恩流寺    龍谷寺    光臺寺    徳玄寺    


吉祥寺    専立寺    本誓寺    證明寺    東顕寺    光照寺    大泉寺   


金剛珠院    十六羅漢    永泉寺    大慈寺    祇陀寺    臨江庵   


長松院    連正寺    千手院    円光寺    久昌寺    清養院    峰壽院   


永祥院    本正寺  




三ツ石神社    盛岡天満宮    松尾神社    玉蕪稲荷神社    住吉神社   


赤山稲荷神社    熊野神社    金刀比羅神社    榊山稲荷神社  


盛岡八幡宮(笠森稲荷神社 岩手護国神社) 
 

盛岡市景観重要樹木アズマヒガン
推定280年(昭和27年)

羅漢堂 扁額 盛岡侍従利視筆とあり
十四代藩主・南部利視の扁額です

地蔵堂 狛犬
安置される地蔵は「お亀地蔵」と呼ばれ、藩主側室・亀姫の身代わり地蔵と伝えられ、
子安・安産の地蔵として知られている

地蔵堂 旧五重塔初重の木組

地蔵堂扁額

寺標

本堂

勝手門

庫裡

地蔵堂

  南部家墓所
この北山一帯は古くから桜山とも呼ばれ、南部家菩提所として歴代の藩主の墓があり、高松風致地区に指定されている。聖寿禅寺は、南部家二代・南部實光公が南部家初代・南部三郎光行公の菩提のために、陸奥国三戸郡に建立したもので、後、慶長四年(1599)南部家二十六代・信直公(南部藩初代藩主・利直公の父)が三戸より盛岡に居城を定めた際、現在地に寺領地を賜り建立した。寺領五百石、盛岡五山の第一としての規模を誇っていました。境内には南部家三十六代・盛岡藩十代藩主・南部利敬が文化二年(1805)に祖先の精霊供養のために建立した.五重塔の一部が残っています。この五重塔は江戸谷中の天台宗長耀山感応寺(現 護国山天王時)の五重塔を模したものと云われています。
                案内説明より        

  笠森稲荷神社
笠森稲荷神社は八幡宮が建てられる前から八幡山の山頂に祀られていました。神さまは宇迦之御魂命で、五穀豊穣・商売繁盛さらにできものの守り神として、歴代藩主から一般庶民まで広く信仰されていました。一説にはこの付近にすんでいた彌吾郎長者守り神であったと伝えられていますが、本当かどうかはわかりません。また、全国にあるいずれの笠森稲荷の分社であるかも不明です。
現在の地(八幡宮境内)にうつったのは、昭和三十二年(1957)で、その三年後の昭和三十五年(1960)九月、笠森稲荷神社崇敬講の人々により現在の社殿が建てられました。できものの守り神としては、徳川家康が瘡病(そうびょう:できもの)で苦しんでいるとき、江戸・谷中の感応寺境内にある笠森稲荷にお祈りしたところ、全快したという伝説が残っています。江戸の笠森稲荷と同じように、昔からできものなどをいやしてくださる神さまとして祈願する風習があったようです。

  神明神社(祖神社)
祀られている神さまは天照大神(あまてらすおおみかみ)です。延暦の昔、坂上田村麻呂が盛岡の仁王に建てたのがはじまりです。元禄時代には煙草丁(現在の明神町)に、その後八幡山にと移されました。明治十七年(1884)盛岡の大火により焼失しましたが、昭和四十三年(1968)明治維新百年を記念して現在の地に祀られました。
自光坊の先祖が伊勢にご神体をうけて、盛岡の仁王に祀ったという話しが伝えられていたり、神さまを移すときには五尺(約150cm)くらいの柱を霊代にして、自光坊自ら背負っていったとの言い伝えも残されていますが、本当のことはよく分かりません。藩政のころ神明社所属のことで、自光坊と鈴木神職との間で争いが生じました。自光坊が訴訟に勝ち、それから自光坊の力によって神明社が発展してきたそうです。

  梅宮(安産祈願)
祀られている神さまは酒解神(さかとけのかみ)、酒解子神(さかとけこのかみ)、大若子神(おおわくごのかみ)、小若子神(こわくごのかみ)です。寛保元年(1741)、南部二十三代利視公が人々の子孫繁栄を願って京都梅宮大社の御分霊を祭りました。安産、婦人、醸造の守護神として歴代の藩主から庶民にまで深く信仰を集めてきました。旧藩時代、笠森稲荷神社の近くにありましたが、明治時代の盛岡の大火によって焼失してしまいました。それから、その神さまは八幡宮本殿に安置されていました。信仰が厚かった人たちが本殿の建築費を寄進し、大正三年、社殿を現在の地に再建することができました。

  田村了咲の句碑
俳人田村了咲(本名 田村好三)は、明治四十年盛岡市志家に生まれました。大正十四年、岩手県立盛岡工業学校を卒業後、埼玉県の所沢陸軍航空空廠に技術者として就職した。昭和十二年ハルピン航空廠に転属し、復員後は、岩手大学附属図書館司書、農学部事務長補佐などを歴任した。
大正末期より所沢で句作を始め、昭和二年高浜虚子の「ホトトギス」に入門する。更に昭和五年盛岡より「夏草」が創刊されるや、これに拠り山口青頓に師事する。写生を骨格とした端正な作風を以て活躍、昭和三十年に夏草賞を受賞した。「ホトtギス」「夏草」の同人。句集に「楡の杜」「中尊寺馬車」「淋代秋浪」「自詿句集田村了咲集」などがある。この芹の句は、昭和三十四年「夏草」に発表されたもので、代表作のひとつである。句碑は岩手夏草会が中心となり昭和四十三年に建立されたものである。昭和五十四年、多年にわたる創作活動と、後進の指導に貢献した廉により、岩手県教育表彰をうけました。昭和五十五年五月、七十二歳の生涯を閉じました。

  巖鷲山石碑の由来
巌鷲山とは岩手山の別称である。弘化五年戊申(1848)三月、辰巳屋与助外二名が金主となり、八幡町、生姜町の人達が世話人となって、封内修験の総録であった巌鷲山自光坊(神明社別当)の屋敷に建立したものである自光坊は藩政当時は御山(岩手山)代参の格式があって、その使命を果たしたのち、まずこの石碑前に於いて多数の役僧と共に護摩焚きを厳修し、その装束を解いて初めて主君代参の格式から脱したといっている。
この碑について伝説がある。侍・某が、ある闇夜にこの小路を歩いていくと、行く手に大入道が立ちふさがった 侍は、「おのれ妖怪め」と刀を抜き切りつけた気を取り直してよくよく見れば その正体はこの石碑で 碑の背後には刀痕があったということである
この碑は、明治維新に神明社が廃社になった後も自光坊屋敷に在ったが、近所の民家に祟りがあるというので、明治二十六年五月二十三日、八幡町の「い組」の人達が八幡宮境内の松林(現 明治天皇聖像建立)に移したものである。

  明治天皇聖像
明治九年の明治天皇御巡幸を記念して建立したもので、明治天皇聖像は昭和五十年に建てられました。碑は昭和十五年に建てられました。御聖跡碑は、八幡宮の馬場にて明治天皇が岩手県産の馬を天覧して下さったことを記念したもので、「明治天皇産馬天覧御聖跡」と刻まれています。松橋宗吉氏、松橋喜之助氏、村松保三氏の三名によって寄進建立されました。

  岩手護国神社
御祭神は岩手県所縁の殉国御英霊
岩手護国神社は、明治天皇の尊き思召しにより、明治新政府の夜明け勤皇の大義を固守し国事に殉ぜられた郷土の勤王の志士・目時隆之進命、中島源蔵命の二柱の御霊を祀るため、明治二年十一月二日、岩手郡東中野村茶畑の地に、時の盛岡藩知事・南部利恭により創建されました。
その後、西南戦争、日清戦争、日露戦争、支那事変、太平洋戦争等の幾多の事変戦役で、わが国の平和と繁栄を念じつつ尊い生命を御国に捧げられた、岩手県ゆかりの御英霊三万五千七百余柱がお祀りされています。
明治十四年、当時の内丸公園地に遷座されましたが、明治三十九年にはその社地を県社八幡宮の境内に求め遷座されました。更に、昭和十四年には境内地を拡張して、神明様式による新たな大社殿が造営され、現在に至っております。天皇皇后両陛下(昭和天皇)には、昭和四十五年十月三日、岩手県で開催された国民体育大会御臨場の行幸啓の御砌り、畏くも岩手護国神社に幣饌料を御奉納の上、御親拝あらせられました。
              岩手八幡宮案内説明より
         

盛岡三十三観音第三十番札所の木札
祭礼日や縁日に開かれる御札授与所

不動尊護摩堂 弁才天堂と標す
扁額は弁才天と勢至観音を掲げる

本堂 天台宗千手院 手前は香炉
宝形造り 桟瓦葺流向拝付

盛岡市景観重要樹木右6号 左7号
ケヤキ 6号310年 7号320年

本堂 寄棟RC構造 銅板葺流向拝付

本堂 入母屋造桟瓦葺 一間流向拝付

戒壇石 禁葷酒入山門
五獄山龍谷禅寺

法華経法舎利塔 (教典塔)

盛岡藩十一代藩主・南部利用
(②)之墓養徳院殿義山宗仁大居士

カトリック教徒墓所

盛岡市の社寺へ

  御輿殿・御輿
祭典のときの神輿渡御(みこしとぎょ)に使われる神輿を納めております。八幡宮には延宝九年(1681)から現在まで三百年以上も用いられてきた旧神輿と、漆仕上げの上に螺鈿(らでん)をほどこした東北唯一の重厚な新神輿があります。

  車両交通安全祈祷所
車両を購入した時に、交通安全をお祈りしてお祓いを受けるところである。このお社は「面向不背のやしろ」と言って、表と裏のない造りになっています。どちらにも背を向けず、中心を正し、不注意にならないようにとの意味が込められています。
車両とそれを運転する人の交通安全を祈願します。祈祷する時は車両の隅々までお祈りがゆきわたるように車のドアをすべて開けた状態でお祓いを受けることが肝心です。

  盛悠館・社務所
神社の事務的な窓口です。祈祷は拝殿の横に専門の受付がありますが、それ以外の各種問い合わせや会場使用の申し込み、見学の申し込みなどはこちらへどうぞ。また社務所内の一角には写真場があり、神前結婚式や初宮参りの記念写真撮影はこちらで撮ることが可能です。

  縁結美神社 
縁結美神社は、男女の縁、人と人の縁を結ぶ神社として良縁を願う人達が多く訪れます。赤い結び紐を境内に結び、良縁成就、恋愛成就を願います。

  高倍神社・包丁塚
高倍神社は昭和五十四年九月五日八幡宮境内に創建されました。高倍神社に祀られているのは、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)と四条中納言・藤原政朝郷、です。この神様は、醬油や味噌などの調味料や料理、飲食店の守護神として知られるところです。調理技術に良いということから、女性の守護神であり、調理を商売にしている人々の守護神としても崇敬されています。
この神様が祀られているのは関東以北では唯一ここの神社だけです。高倍(たかべ)の名前は千葉県安房郡千倉町の髙家(たかべ)神社に祀られている、高倍神・磐鹿六雁命から付けられたことが伝えられています。 
磐鹿六雁命は、第十二代景行天皇より膳大伴部の姓を賜わるとともに膳臣(天皇の料理番)に任ぜられ、宮中の食礼法の源を築きました。四条山陰中納言・藤原政朝郷は第五十八代・光孝天皇の「食に関しても式によって現わすように」との勅命により、
包丁式の礼法「包丁の割」を創業し、その源となりました。
生活に欠くことのできない食膳調理技術に霊験あらたかな二柱の大神は、調理を生業とする人々を守り導く神として崇敬される東北地方唯一の神社です。
包丁塚は、庖丁が納められている塚です。庖丁は料理をするときもっとも大切な道具であり、料理人の心を表し、料理に命を吹き込みます。料理人の魂ともいえる庖丁がこの塚に眠っています。

   御神馬「絵馬」の由来
元来馬は、騎乗用を第一としたが、それは単に人間だけでなく、神々の召し給う聖なる乗り物として古くから思念せられ、信仰行事の上にも、映しだされて来た。「馬ニ騎リテ天降ル神」、「駒が嶽」、「神々降臨ノ生駒山」等々の説話、伝来が今なお数多く残っていることからも推察できる。また、その事は、暦の中での「初午」は神々が、その年に初めて御神馬にお乗りになり、御神幸、旅立ちになられる日である事から来た神事の日であると云われている。
全国、津々浦々の神社の境内に、神馬像を献じ奉置しているのも、馬を神の召し料になる乗り物として、先人が神に奉献したものである。そして今、神社や寺への「絵馬」の奉納は御神馬の代わりとして、馬の絵を木の板に描いて、神に奉納し祈願奉謝する風習俗であり、この絵馬の習俗は、久しく人々の心がにじんで伝えられて、現在でも身近に受け継がれ行われている神事である。
こうして見ると、「馬と神」そして人間との結び付きの深く古い事が、「絵馬」の習俗自体からも、強くうかがい知ることができる。このようなことから馬を神の御乗りになった御神馬とて、家の中に奉献する事は、神を家の中にお迎えし、家内安全、五穀豊穣、幸運招福して、人々の間に、古くから根強いものがあり、それに因む大願成就を祈願する高雅な白毛の「白駒,」、家内安全、五穀豊穣を奉謝するめでたい栗毛の「赤馬」、幸運招徳開運出世を祈願する、力強い漆黒の「黒駒」は古くから、神々に奉献され、放射祈願されてきた。
天の斑駒空を行く行動極めて軽快迅速、一気に駆け進んで大願成就の道努々忘れる事ないよう、良い縁起にあやかり、「幸運・開福・出世」の駒を進めるものです。

  大黒様 恵比寿様
大黒様は神話で大国主命と申し上げる神様で、日本国即ち瑞穂国は天孫(皇室の先祖)の統括すべき国土であると高天原と出雲朝廷の間で国譲り渡しに協力され、国土経営に功労のあった地神様の中で一番偉い神様と崇め奉り出雲国・出雲大社にお祀りしています。大黒様は大きな福袋を肩にかけ人々に幸福を授け運ぶ、ありがたい神様と太古の昔から尊ばれ、特に農耕の神様と慕われ、それゆえに篤い信仰を全国より集めたと伝えられる。
恵比寿様は神話で事代主命と申し上げる神様で国譲りの時御父・大国主命に協力され、元より温順にして正邪判別の分明なる事代主命、日本国は正統なる天孫の御治めになるのが至当である。この国土はすべからく天孫に献上なさるがよろしかろうと大義名分の判断を以て大国主命の決断をなさしめた功労により一言主神と申し上げ、大阪市今宮戎神社にお祀りしています。伝えられる言葉として「吾こそは、悪事も一言、善事も一言、何でも彼でも一切一言で定める。一言主神である」
恵比寿様は釣竿や大鯛を抱えて海事に従事され海の守り神様、豊漁の守護神と尊ばれ、海と陸との交流をもたらした商売の神様と慕われ、御神徳あまねくに及び、これゆえに広く人々の信仰を集めたと伝えられています
因みに大国主命の子、事代主命の兄弟である建御名方命は、国譲りに反対し、高天原からの使者として国譲りの交渉にのぞんだ武甕槌の神と戦うこととなり、結果敗れて出雲国を逃げ出し信濃国諏訪の海の畔に安住の地を得た。建御名方命はその地で祀られ諏訪大社として現在も尊崇を集めている。
かぞえ七年に一度寅と申の年に行われる御柱祭は天下の奇祭として有名である。また、高天原からの使者の二神は、常陸国鹿島神宮と下総国香取神宮に祀られている。

  十二支神社
十二支の生まれ年ごとにひとつずつ守り神があるとする、土着的な民間信仰が元になっています。子年生まれは出雲神社、丑・天照皇大神社、寅・八坂神社、卯・三嶋神社、辰・賀茂神社、巳・大神神社、午・神明神社、未・八雲神社、申・日吉神社、酉・春日神社、戌・正八幡神社、亥・鳩森八幡神と、十二支の動物が仕える神を祭る神社が、十二社並んでいます。一年に一回、自分の生まれ年の神を拝むとよい御加護があると言われています。
               岩手八幡宮案内説明より
     



榊山稲荷神社  
盛岡市北山2-12-12



金刀比羅神社  
盛岡市清水町11-30

  赤山稲荷神社
地図で見ると彦部山光照寺近くに鎮座するとあったので寄ってみました。住宅地の中に在ったが道路角地に面し朱色の鮮やかさで分りやすい。稲荷神社に冠する赤山の由来は分からないが、古より呼ばれていたとすれば鎮座した地名から称されて、何れから遷座し、現在地に祀られたとも思える。
現在地の地名は本町となっており、盛岡城下の中心的な街並みが見られた町筋であったと云う。藩政時代は大きくは寺町に属し、明治期に入って花屋町と称した。名須川町、愛宕町にある寺院群へ墓地のお参りに、あるいは法事にと行き交う道筋に当り、それに供する花などの店が多くあったことから名付けられたと盛岡市町由来説明に記されていた。新町名以前からある組織には花屋町公民館や、花屋町を冠した建物などがあり、郷土の懐かしさと共に愛着を感じる市民も多く存在する結果であろう。
新町名を否定するわけではないが、今、旧城下町を中心として御徒町、鍛治町、大手町、博労町(馬喰町)、桶屋町、金屋町、鷹匠町などを石碑にし、示している。加賀百万石金沢市はその傾向が強く、新町名を排して『旧町名』に復するような自治体もある。歴史と伝統文化に活気を見出す自治体の多くは、高度成長時代の重厚長大から背を向けられた結果、その伝統と文化が温存され、物の時代から心の時代に変化する時、これらが多くの遺産、財産ともなって、その充実を図る時ともなってきている。
             盛岡地名案内説明より        



赤山稲荷神社  
盛岡市本町通2-5-15



松尾神社  
盛岡市茶畑1-1-1



盛岡天満宮  
盛岡市新庄町5



三ツ石神社  
盛岡市名須川町2-1

名字即 仏法を学び始めた初段階の一般民衆
修行過程における六即の内の一段階
六即: 理即 名字即 観行即 相似即 分真即 究竟即



法華宗本門流 本正寺  
盛岡市材木町7-1



曹洞宗 水養山永祥院  
盛岡市材木町4-10

  観音堂安置尊像
盛岡三十三観音第二番札所
本尊 七体観世音菩薩

盛岡三十三観音第十番札所
本尊 白子観世音菩薩



天台宗 妙法山千手院
  盛岡市鉈町1-24

  真言宗智山派 連正寺
湯殿山注連寺の末寺、湯殿山の僧により開山されたと云う。湯殿山御祈祷所である、同じく注連寺の末寺である湯殿山金剛珠院も祈祷所となっており、本尊御開帳も同じく未、申年の定例日に行われる。
正連寺には豆腐地蔵と称される地蔵尊が祀られている。由来は、難病にかかり重病になった母を救おうと、母が日頃信仰していた正連寺を訪ね祈祷していただいたところ、毎日豆腐を食すれば快方に向かうとの告げを受け、毎日豆腐を買いそれを実行したところ当に病気が治癒したと云う。喜んだ息子は地蔵菩薩を寄進し祀ったと伝えられている。それ以来、人々によりその地蔵菩薩は「豆腐k買地蔵」と呼ばれるようになったと云う。
              案内説明より          



臨済宗妙心寺派 万歳山長松院  
盛岡市大慈寺町2-2



臨済宗妙心寺派 慶雲山臨江庵  
盛岡市大慈寺町2-1



黄檗宗 福聚山大慈禅寺  
盛岡市大慈寺町5-6



曹洞宗 盛香山永泉寺  
盛岡市大慈寺町8-22



旧宗龍寺 十六羅漢・五智如来  
盛岡市茶畑2-1(らかん児童公園)



曹洞宗 青龍山祇陀寺  
盛岡市大慈寺町3-16



真言宗智山派 湯殿山金剛珠院  
盛岡市内丸17-28



浄土宗 亀通山大泉寺  
盛岡市本町通1-14-1

  浄土真宗 彦部山光照寺
光照寺は浄土真宗開祖・親鸞聖人の高弟で常陸国笠間郡稲田・二十四輩の一人である是信坊と共に奥州布教の為、陸奥国紫波郡彦部に至り当地で彦部草庵を設けた布教の拠点とした。これが後に彦部山光照寺となる基となった。
天正元年(1573)岩手郡三ッ割に移転諸堂を建立したが、明治三十年(1897)四月二日に火災が起こり諸堂、寺宝、文書等が灰塵となった。その後、明治三十五年現在地に仮本堂を建て現在に至ったが、平成二十一年庫裡を、また本堂を鉄筋コンクリート寄棟造り 銅板葺で再建した。
              案内説明より



浄土真宗大谷派 彦部山光照寺  
盛岡市本町通2-6-24



浄土真宗 證明寺   
盛岡市名須川町3-15



浄土真宗大谷派 専立寺  
盛岡市名須川町3-17



曹洞宗 虎獄山龍谷寺  
盛岡市名須川町7-2



曹洞宗 開田山恩流寺  
盛岡市愛宕21-10

  曹洞宗 養廣山正傳寺
曹洞宗 松峰山東顕寺の末寺で、創建年代については判っていませんが、元天台宗の寺院であったと云われている。文安二年(1444)東顕寺二代住職・天蓑瞬賀禅師が曹洞宗に改宗、中興開山した。初め盛岡城に面する中津川の毘沙門淵と呼ばれる畔にありましたが、不来方城(盛岡城)築城の妨げになることから現在地に寺領を賜り移転、諸堂を建立した。
正傳寺本尊は釈迦如来であるが、また、盛岡三十三観音・二十八番札所ともなっており、本尊観音は魚籃観世音菩薩である。魚籃観音は、弁才天、吉祥天、鬼子母神と同じく女系の仏像として作られる数少ない仏像です。文政十年(1827)正傳寺十七代・濶琴道隆和尚が境内諸堂を再建したと伝わっているがそれ以来百八十年、修理・補修を加えつつ現在の姿がある。



曹洞宗 養廣山正傳寺  
盛岡市愛宕町22-22



曹洞宗 瑞鳩峰山報恩禅寺  
盛岡市名須川町31-5



浄土真宗本願寺派(西本願寺) 北峰山願教寺  
盛岡市北山1-4-5

  顕本法華宗 上行山法華寺寺
法華寺は戦国時代末期の天正年間に建立されたと云われる。顕本法華宗は、京都左京区に在る妙塔山妙満寺を本山とする法華宗(日蓮宗)諸派の一つで、東北布教のおり、千蔵院日慶上人により開山されたと伝わるが、寺が開創された経過については資料に見られなかった。
寺地領は初め浄土宗衆寶山光臺寺に隣接していたが、光臺寺に盛岡藩初代藩主・南部利直公夫人・源秀院(会津藩主・蒲生氏郷妹)の御霊屋建立するに当たり移転を命じられ、曹洞宗源勝寺と共に現在地に移り、再建した。境内本堂前には盛岡市の保存樹モリオカシダレ桜があり、国の天然記念物龍谷寺のモリオカシダレと共に春は賑わう。また、境内二基並んで立つ供養石碑は、左側に日蓮宗祖・日蓮聖人、右側に顕本法華宗開祖・日什聖人の碑である。
                案内説明より



顕本法華宗(日蓮宗妙満寺派) 上行山法華寺  
盛岡市北山1-4-10

山門 桟瓦葺 一間一戸薬医門
袖塀も無く 形に語る大道無門

  時宗 教浄寺
教浄寺は覚阿湛然大和尚により開山され、南部家十一代・南部信長公により創建された寺です。正慶二年(1333)兄である南部家十代・南部右馬頭茂時公が、鎌倉幕府執権家北条氏滅亡の際、北条高時に殉じ割腹した。北条方について戦ったのは高時に信頼があったのだろうか、北条氏の通名「時」と称したのも何かの縁であろう。遺骸は家臣と共に割腹した寺院である時宗総本山・藤澤山無量光院清浄光寺(神奈川県藤沢市 通称遊行寺)に埋葬された。遊行寺にはその時埋葬された茂時公の墓石が現在も残っているが、いつ建立されたものだろうか。後、南部家が系図を整えるに当り、先祖の霊を祀るために建立したのでしょう。
南部信長公は兄・南部茂時公の菩提の為、領地三戸に教浄寺を建立した。時代は下って南部家二十七代盛岡藩初代藩主・利直公が、盛岡築城の際の慶長十七年(1612)、三戸から現在地北山に移し諸堂を建立した。

  一遍上人宗祖・時宗
時宗の開祖・一遍上人は衆生済度(人々を迷いから救う)、念仏勧進(南無阿弥陀仏の念仏を唱えること)のために、その生涯を遊行(修行と説法のため諸国を巡り歩く)に終始されました。その足跡は、北は岩手県、南は鹿児島県に至る日本全国に及んでいました。本山は神奈川県藤沢市にある藤澤山清浄光寺。一遍上人以来代々の上人が全国を遊行するところから遊行寺と呼ばれています。藤沢市は江戸時代東海道の宿場町ですが、遊行寺の門前に開けた門前町として栄えました。

  盛岡五山
南部家中興の祖とも呼ばれる南部家二十六代・南部信直公は、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた。城から仰ぐ岩手山・早池峰山・姫神山の「南部三山」に大権現を勧請し、城の真北に南部家祖霊を祀る臨済宗妙心寺派「大光山聖寿禅寺を建立しました。京都五山に倣って北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺院を集め、臨済宗の聖寿禅寺、東禅寺、法泉寺、曹洞宗の報恩寺、時宗の教浄寺を特に「盛岡五山」と定めた。

  教浄寺山門扁額
南部家三十三代 盛岡藩七代藩主・利視公の時、第百十四代中御門天皇から遊行寺四十九世・一法上人を介して勅許せられ、「擁護山」の許額を山門に掲げられました。教浄寺三十六代・文英住職の時代でした。昔より勅許された処にしか建てられない下馬札が立っていました。下馬札のあるところでは、たとえ藩主であっても降りて歩かなければならないほど権威があるものでした。教浄寺は由緒正しい勅許を許された寺院としてますます崇められるようになりました。

  教浄寺文化財
教浄寺の阿弥陀如来立像 一体 (盛岡市指定文化財)
阿弥陀如来立像は高さ六十二センチメートルの小像だが、あまり見かけぬ鎌倉末期風の像である。用材は欅で木肌を見せ、法衣には麻の葉形や、雷紋の精緻な截金模様が置かれ、両袖の部分が矧かれただけの一木造りで、玉眼入りの工夫がされた、檀像と言われる優作である。教浄寺には恵心僧都一刀三札の多田満仲の守り本尊であったと伝えられている。
多田満仲は本性・源朝臣満仲で、摂津国住吉郡多田荘を拠点としていたことから、多田満仲と称した。清和天皇の孫で清和源氏の祖、分流に河内源氏流があり、武士の棟梁として覇を競う名族、名家が多数興されている。満仲は「多田の満仲」のかなよみから「ただのまんじゅう」とも呼ばれ、現在も平薩摩守忠度と共に印象に残る武将である。

納札 一枚 (盛岡市指定文化財)
この納札は、教浄寺中興開基・南部利直公(南部家二十七代・盛岡藩初代藩主)が、三戸から浄教寺を移す際、慶長十七年(1612)野田直盛を造営事業奉行として諸堂建立中、三戸遊行上人三十二代教浄寺住職が盛岡に行脚に来て、その建立を供養して納めたものである。その巴紋は、時宗特有の六字の名号で、その優麗さは類いまれなものとして貴重である。
              教浄寺案内説明より              

境内樹木



時宗 擁護山無量院教浄寺  
盛岡市北山1-13-25

葛西家歴世之墓 墓標
下総葛西郡を領した葛西氏の末裔でしょうか 南部家に仕えた南部葛西氏の墓所とも思うのですが

今や全国有数の俳句雑誌『夏草』は昭和五年に盛岡市出身の俳人宮野小提灯が山口青邨を選者に迎えて創刊された。その後、『夏草』は第八巻第一号まで小提灯が編集と経営にあたり、盛岡で発刊されたが、昭和十二年、主宰の山口青邨のドイツ留学と編集協力者の急逝にあい休刊のやむなきに至った。その後、山口青邨の帰国後、昭和十五年(1940)に『夏草』は復刊された。
山口青邨の句風は写生に根ざし、清潔高雅、文人画的風趣に富んでいる。その作品の背景には知識人としての深く広い教養と清純高潔な人柄がある。昭和二十六年からは岩手日報俳壇選者をつとめ、昭和五十八年には「岩手日報文化賞」を受賞した。昭和六十三年十二月十五日に九十六歳で亡くなり、現在はこの東禅寺に眠っている。
                案内説明より

セブンスデー・アドベンチスト之墓
教団と関係があるのだろうか



臨済宗妙心寺派 大寶山東禅寺  
盛岡市北山2-9-17



臨済宗妙心寺派 大光山聖寿禅寺  
盛岡市北山2-12-15

  臨済宗妙心寺派 大智山法泉寺
法泉寺は、江戸時代前期に同宗妙心寺派 大寶山東禅寺の住職・東岩大和尚によって開山されました。その後、数十年を経て寛文十一年(1671)、南部家二十九代・盛岡藩南部家三代藩主・南部重信が、南部家三十代・盛岡藩南部家四代藩主・南部行信の生母大智院(重信側室)の菩提のために再興、諸堂を建立し法泉寺と称したとされている。 
藩政時代、法泉寺付近の北山に、幕府からの預かり人だった学僧・方長老の居所がありました。二十四年間にわたる方長老の滞在中、藩主重信公をはじめ諸士は多くのことを学び、藩にとって多大な功績を残した人物です。功績の一つに造園があり、法泉寺の庭も方長老の作庭によるもので、盛岡三大名園の一つとして知られています。 

  中井汲泉画碑 「雪路」
中井汲泉は、“雪がきれいだ”という一言に魅かれて昭和四年の春盛岡に来た。盛岡中学校教師時代の十四年間を含む二十八年の盛岡滞在の間に、日本画のほか陶芸や染絵、郷土玩具製作など幅広い創作活動により、盛岡県美術工芸の開発に貢献、多くの功績を残した。昭和三十二年、故郷の京都に帰り、古都の文化財発掘に打ち込んでいたが、昭和四十五年八月二十四日、七十八歳の生涯を閉じた。
画碑の原画は盛岡滞在中の作品「雪路」と題した染絵である。この碑は、中井汲泉を敬慕してやまない知人や子弟によって企画され、昭和四十九年に建立された。本体の黒御影石や台座の白御影石はいずれも盛岡で産出されたものであり、設計と裏面の銅板鋳造は教え子の手に依ったものである。ここ法泉寺周辺は、中井汲泉が好んで散策した場所である。
                案内説明より               

三ツ石神社御神木 欅
樹齢二百六十年(平成二十六年)

三ツ石神社 伽羅木 
樹齢二百八十年(平成二十五年)

盛岡市の社寺へ

  住吉神社
住吉神社は、今から九百年前の康平年間、陸奥神・鎮守府将軍源朝臣頼義公が、奥州安倍氏討伐の勅令を奉じ、陸奥国に下向の際、大坂住吉大社の御祭神・底筒男命、中筒男命、上筒男命、および神功皇后の御四柱の御神霊を勧請して、当時の岩手郡厨川村住吉の地に奉祀せられたもので、尓来地方民の信仰篤く、歴代盛岡藩主も亦殊の外崇敬せられ、南部家三十三代・盛岡藩南部家七代藩主南部利視の寛政七年(1795)五月十八日、社領地を御寄進、社殿を建立し、現在地(当時 磐手俱浅岸村字藤ヶ森)に遷座申し上げ今日に至っています。
御神徳は海上守護、縁結び、浄化の神、交通安全、商売繁盛、詩歌文教、安産の守護神として、「住吉さん」の愛称を以て、市民大衆に親しまれています。今日、二千坪の広大な境内に繁る欅の大木や、端麗精巧な八基の大燈籠は住吉神社の叙上の由緒を雄弁に物語っており、最近は自動車の交通安全祈願や、入学試験の成功などに霊験あらたかなりとして、広く若人たちの尊信するところとなっております。

住吉神社 盛岡市指定有形文化財 (平成十三年三月九日指定)
  住吉神社の石灯籠 (四座四対) 八基
住吉神社は、寛政七年(1795)五月二十日、下厨川から現在地に遷座された神社で、石燈籠は遷宮九年後の文化元年(1804)から八年かけて四座四対の合計八基が奉献設置された。側面参道向き部分には「海上安全」の刻字があり、住吉信仰に基づく航海安全祈願崇敬によって奉献されたものであることが判る。願主は「大坂問屋中」とあり、盛岡城下の豪商・近江屋・渋屋をはじめ、
領内各地及び上方と広域な経済交易に関係した人々によって寄進奉納された。
石燈籠はすべて花崗岩で造られ、昭和四年の市道新設に伴う社殿と参道の移動により、北側へ12m平行移動して現在地に移設されたが、ほぼ奉納創建時と同じ配置で復元されている。江戸時代後期の盛岡城下における経済流通史及び地方文化の特徴を如実に物語る貴重な石造記念物である。
               案内説明より

  玉蕪稲荷神社
毘沙門橋近く、まわりを建物で囲まれているのでよく見ていないと見落とす恐れがある。一般の住宅の玄関先に祀られているような感じのする社ですが、説明文に岩手保護院と記されているので、ここに岩手県の保護施設がありその敷地内に鎮座した屋敷稲荷社であった。一般の住宅と感じた建物が岩手保護院であった。
赤い鳥居が唯一の目印になる。この稲荷神社の狛犬は鋭い眼光で睨みを利かせていて、まさに山門の仁王像といったところ。右のお狐様は玉に手を掛けているように見え、左のお狐様は豪商の土蔵の鍵のようなものを踏んでいるように見える。

稲荷神社の由来説明文には次のように記されていた。
  玉兼稲荷社の由来
京都の吉田神社からの御影(霊神)であると云われています。明治維新前から岩手保御院の敷地内に鎮座しております。明治十七年十一月七日、現在の下之橋付近で火災が発生して、民家千四百二十三戸を焼失、その大火の際類焼したままになっていたものを、大正十一年十一月十九日、当時の役員である盛岡市六日町・高橋伊兵衛氏、同じく肴町・村井茂兵衛氏が協力して再建したものです。御承知のとおりお稲荷様は繁栄と幸福を授け、御利益があることから、多くの人々が参拝に見られております。
京都の吉田神社から霊神が祀られていると云われているが、吉田神社と伏見稲荷神社の関係が私にはよくわからない。考えられることは吉田神社の社内宮(摂社)に全国の八百万之神を祀る社があることから、その社から稲荷神を勧請したということかとも思う。
喩えて言うのは神に失礼と思うが、伏見稲荷神社より勧請した稲荷神が吉田神社に祀られ、吉田神社から勧請された稲荷神がこの棚蕪稲荷に祀られているというような。いうなれば、伏見稲荷神社の孫の稲荷神と考えればなんとなく整理ができる気がする。神社扁額には玉蕪稲荷とあり説明文には玉兼稲荷と書かれている。玉と玉の関係も解らない、考えると眠れなくなる漫才師がいたが。
              案内説明より



玉蕪稲荷神社  
盛岡市下ノ橋町2-25
 

  松尾神社
盛岡八幡宮正面鳥居前の道を南に2~300m、羅漢公園信号の手前左側の小高い場所に鎮座しています。十六羅漢像と五智如来像とは道を挟んで隣り合わせの神社です。松尾神社がこの地に創建されたのは資料からも見つけることができなかった。京都西方の松尾山山麓に鎮座する松尾大社の御分霊を仰ぎ祀ったものであることは間違いない事と思う。
松尾大社は、渡来人の秦氏の氏神とされ、御祭神は大山咋大神であることから此れも同様であろうと推定される。松尾大社は又、氏子・秦氏が大陸および朝鮮半島の酒造りを伝えたとされ、全国の酒造蔵元並びに酒類販売業者の崇敬を集めている。
盛岡松尾神社も多数の盛岡市、岩手県内の業者の参拝者が祭礼日にはお訪れるといわれる。市内清水町にある南昌荘の道路を挟んで向かい側に岩手県酒造組合に松尾大明神が祀られているが、これらからも酒と松尾神社は切っても切れない関係であるとわかる。
境内、土塁上には桜の老木があり、かっては桜が競って咲いたであろうと思われる。樹齢八十年は越えていると思われる老木ではあるが、若木の植樹が行われ過っての華やかさを取り戻そうとする熱意が伝わってくる。
               案内説明より        

  曹洞宗 清養院
曹洞宗松峰山東顕寺の末寺。初め上田門前町(高源寺門前)に東顕寺二代住職・天簑瞬賀大和尚により開山、開基は東顕寺と同じく福士氏と思われる。その後、長享元年(1487)現在地に移転諸堂を建立したと云われている。度々の火災によって寺の史料は失われ、当初からの寺の由緒は定かではありませんが、その後の室町、戦国、藩政時代や明治期以降の困難な時代を護りぬいてきた。宮沢賢治が下宿していた寺院のうち最初に世話になったのが清養院であった。また、清養院は盛岡三十三観音第二十二番札所(本尊 聖観世音菩薩)となっている。

  宮沢賢治ゆかりの地 清養院
宮沢賢治(明治二十九年~昭和八年 1896~1933)は、岩手県稗貫郡里川口(現 花巻市里川口)で生まれた。盛岡中学校(現 県立盛岡第一高等学校)、盛岡高等農林学校(現 岩手大学農学部)時代の多感な青春時代を盛岡で過ごしている。この辺りの北山、名須川町地区は、藩政時代からの寺町で、多くの寺院が並んでおり、賢治との関わりも深い場所である。明治四十二年(1909)盛岡中学校に入学、自彊寮に寄宿した。四年生の三学期、寄宿舎の舎監排斥騒動で寮を追われ、卒業までの一年間この辺りの寺院に下宿した。
最初にお世話になったのが曹洞宗清養院、そして五月には浄土真宗徳玄寺、に下宿し、ーたくさんの文学書、宗教書を読み、夜には本堂の縁側で月光を浴びながら深い思いにふけったー次の五百羅漢のある曹洞宗報恩寺では、たびたび参禅し仏教を学んでいった。
大正三年(1914)三月、盛岡中学校を卒業している。盛岡高等農林学校への進学を許され、翌年一月から三ケ月程時宗教浄寺に下宿、受験勉強に打ち込み、盛岡高等農林学校に首席で入学した。浄土真宗願教寺では、島地大等の法話を聴き感動し、賢治の生涯を貫く信仰の本源となった。

清養院 盛岡市指定有形文化財(平成十二年一月十八日指定)
  木造釈迦如来坐像 一体
本像は檜材寄木造りの像容に優れた漆箔像である。右膝を前に結跏趺坐し、地髪は螺髪、肉髻が盛り上がり、肉髻珠・白毫珠を嵌入する。目は玉眼で、環耳は外側に張り、頬はやや豊頬で端麗な相好となっている。三道はやや肉厚、左手上の定印(吉祥坐の印相)を結び、衲衣の襞(衣褶)は江戸期特有の連波文で、裾は前に張り出している。
背面には、「天和二壬戌年(1682)九月一日」の記銘があり、制作年が推定できるものとして、また典型的な江戸中期の仏像として貴重である。なお、台座は内側の墨書により、文化十四年(1817)江戸の仏師・惣蔵が制作したものとわかっている。脇侍の文殊菩薩・普賢菩薩は文政三年(1820)に用意されたものである。
             案内説明より           

  浄土宗 圓光寺
圓光寺は寛文年間(1661~1672)に創建された寺院で、生蓮社良往和尚が開山したと伝わる。衆寶山光臺寺の末寺。幾度かの災難に遭ってきたが、元禄年間(1688~1703)に再建されたと云う本堂が残っており、盛岡市の保存建築物となっている。本堂については盛岡市文化財の説明文に次のように記されている。
本堂の現状外観は梁間七間、桁行九間、入母屋銅版葺(1892年改修)の屋根、妻側に正面向拝を持つ。妻側の正面は寺院本堂として珍しいが浄土諸宗の外陣重視の慣例から前後に長い平面となる関係で妻入となったと考える。平入形式に比べ大屋根の威圧感がなく、形も安定し正面の夫婦かつらと相まって優れた正面性を持つ外観である。屋根の反りはあまり強くなく、向拝部分でのかすかな起りが変化を与えている。
妻飾りは木連格子で破風には飾りはなく、若葉紋鰭(ひれ)付の蕪懸魚(かぶらげぎょ)をつけ木製六葉をうつ。これらの飾りは近世以後の様式の原形を保つ簡潔なものだが、棟端の鳥衾と鰭付花瓦と共に妻側を華やかにしている。垂木は疎ら(まばら)の平行。軒先二段(飛えん垂木一段)。向拝は一間で堂壁と海老虹梁で継ぎ、面取角柱で支える、向拝の彫装飾は内部と同じだが、梁セイは小さく彫は浅い。柱元の風蝕は約5から6mm程度。
外壁は内法貫(うちのりぬき)より下部は最近改修され原形を止めない。内法貫より軒までは、柱間は土壁で柱頭(ちゅうとう)は舟肘木で桁を受けるなど、ほぼ原形と思われる。基壇は最近改修されコンクリート。正面側は御影石で化粧。この基壇は四周のみで床下は独立基礎束立て、内陣下は基壇を設けている。

  生目観音
時は延宝三年(1696)奥女中だった蓮子の父はキリシタン信者であったことで捕えられ獄門となった。蓮子は闇夜に紛れ晒されていた父の首を盗み、市中の寺々を回ったが、寺の門は固く閉ざされていた。蓮子は悲嘆にくれたが、圓光寺の脇門が開いていたのを幸いに住職に父の首を見せ回向を依頼した。
時の住職第八世・良觀和尚は寺の運命を賭すとも死者の回向は和尚の務めと快く引き受け、密かに読経して埋葬した。蓮子は感涙して夜明けを待って自首した。それを聞いた南部三十代・盛岡藩四代藩主南部行信公は、その親孝行を愛で側室とした。側室・蓮子との間に生まれたのが後の南部家三十一代・盛岡藩五代藩主南部信恩公であり、圓光寺は佛縁に依り五十石を与えられた。
境内には首塚が建てられキリシタン秘話の名残りをとどめている。首塚の傍に観音堂を建立し、平景清の墓所・日向国(宮崎県)延岡に在った観音像を遷座して供養したと云う。後の世に「生目観音」として眼病に霊験あらたかと云われ尊崇を集めている。
盛岡三十三観音第十一番札所となっている。


  米内光政 圓光寺米内光政墓所
米内光政は、明治十三年三月二日、旧盛岡藩士・米内受政、母とみの長男として盛岡市下小路(愛宕町)に生まれた。盛岡中学校を経て海軍学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなど、ヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。
昭和十二年(1937)には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。天皇の信頼も厚く、昭和十五年(1940)には岩手県出身者としては三人目となる内閣総理大臣に就任、しかし陸軍の反対に遭い半年後に内閣総辞職し退任した。
太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで四期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力した。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最後を見届けた。
昭和二十三年四月二十日逝去享年六十九 

圓光寺 盛岡市指定天然記念物(昭和四十七年十一月二十二日指定)
  圓光寺の夫婦カツラ 二本
カツラはカツラ科に属し、元来雌株と雄株があり、雌雄の区別がある樹木です。また一般に二本並んで生えている場合、雄株、雌株でなくとも俗に夫婦と言われていることがあるが、このカツラは雄株と雌株が並んで生えているので、本当の「夫婦カツラ」であり、極めて珍しいことである。本堂に向かって右が雌株、左が雄株である。
平成七年の測定によれば雌株は目通周囲55.9m、樹高約22m、雄株は目通り周囲5.4m、樹高約20mである。
寺伝によると、この寺は元禄年間(1688~1704)に創建されたと云われ、この「夫婦カツラ」の樹齢は約三百年と推定されることから、寺が建てられて間もない頃に植えられたものであろう。
              案内説明より        

  天台宗 千手院
旧愛宕山権現別当寺・愛宕山法輪院廣福寺の末寺。
法輪院は陸奥国紫波郡にあって、奥州斯波氏により創建された真言宗の寺院で、後南部氏の庇護を受けるようになった。南部氏の不来方城築城と城下整備の際盛岡に移転、諸堂を建立した。
寛永年間、江戸・東叡山寛永寺から僧を招請、天台宗に改宗したと云われている。千手院の開創は延宝年間(権少僧都・円秀和尚開山)と云われているので、千手院も真言宗の寺院として開山されたと推定される。本寺の開宗と時を同じくして天台宗千手院と号した。明治維新政府の神仏分離令、廃仏毀釈、南部家神道改宗等により本寺法輪院は廃寺やむなきに至った。その際に法輪院に祀られていた「南部家歴代守護本尊八体及び愛宕山太郎坊薩埵像(菩薩)を移し、千手院に安置し祀っている。また、同じく法輪院の末寺・愛宕神社下山岸の阿弥陀堂にあった阿弥陀如来座像も安置祀っている。

  厄除観音千手院畧縁起  本尊千手観音菩薩 左脇侍毘沙門天 右脇侍不動明王
千手観音三尊像は寺伝によると仏師春日の作にして当山開山・寛智円秀法印が元禄年間、念願により王城清水の尊体を遷座され、南部三十代・盛岡藩四代藩主南部行信公の信仰篤く元禄十年宇堂を建立され、その後歴代藩主をはじめ四民(士、農、工、商)の尊信篤く至心信仰の人々に幾多の不思議な霊験を与え今日に至っている。

  千手院安置の尊像
本尊・千手観音、両脇侍

  南部歴代藩主一代守本尊八体仏
虚空菩薩像、八幡大菩薩像、不動明王像、文殊菩薩像、大日如来像、勢至菩薩像、普賢菩薩像
太郎坊薩埵像・・・盛岡火防神 祭礼四月二十四日
弁才天像・・・商売繁昌に霊験あり 毎月一日、十五日
阿弥陀如来坐像・・・祭礼十二月十四日 盛岡市指定文化財
聖徳太子立像・・・室町時代(南北朝)作
撫牛・・・交通安全
               案内説明より            

  臨済宗妙心寺派 長松院
北山五山・聖寿禅寺の末寺。聖寿禅寺の僧により開山されたと伝える。
盛岡三十三観音第三番札所となっている、 本尊貞傳観世音菩薩

長松院 盛岡市指定有形文化財
  子安延命地蔵菩薩坐像 一体 像高五十三センチメートル
ヒバ材寄木造の黒漆錆塗りの像である。相好は平らな頭頂、面長で鼻筋が鋭くとおり、口は横一文字、耳はやや平滑で長く大きい。地方仏師の作によく見られる像容であり、穏やかな表情である。
衣は偏袒右肩で、彫が直線的である。持物は左手に宝珠を載せ、右手は内五股印(忿怒印)を結び、錫杖を持つ。これは他に見られない珍しい形で、子安延命の強い働きを所期しての印相である。極めて特色のある室町期の地方仏師の作として貴重である。
本来この像は、陸奥国紫波郡三戸城に祀られていたものであるが、不来方城(盛岡城)築城により、四代藩主・南部重信の側室長慶院が、上田に高源寺を建立して迎え供養されたきたものである。長慶院没後、聖寿禅寺に移されたが、聖寿禅寺住職・大道和尚は、南部家菩提寺であることをかんがみ、広く庶民の参詣のことを考え末寺の長松院を拡大整備して移したと伝えられている。
             案内説明より        

  臨済宗妙心寺派 臨江庵
臨江庵の起源は、陸奥国布教の旅の途中の天台宗の僧がその拠点として結んだ草庵と言われている。その後、無住となったと云われているが、臨済宗妙心寺派・大光山聖寿禅寺の僧が禅寺として開山したと伝わる。聖寿禅寺の末寺

臨江庵 盛岡市指定文化財
  十王像 十体
秦広王、初広王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、大山王、平等王、都市王、五道転輪王の十王像総てが、寄木造りの彩色像である。各像の面相、形状に多少違いは見られるが、全体に金泥を塗り、彩色を施す技法や彫法が共通し、同一仏師の制作になるものとみられる。造り込みも丁寧である。
江戸初期の終わりから中期初頭にかけての制作とみられ、この大きさで十王像がそろって居るのは県内でも珍しい。十王信仰は、初七日から三回忌までの十忌日に、地獄を支配する十王が、順に裁判官として死者の生前の罪業を裁くと云うもので、死者の供養と結びつき、六道救済を十王による裁定の軽減の形で表現するようになった現れである。この十王信仰は中国で唐時代から盛んになったが、日本には鎌倉時代に請来されている。盛岡における十王信仰を知るうえでも貴重である。
            案内説明より           

  黄檗宗 福聚山大慈寺
福聚山大慈寺の創建は寛文十三年(1673)、徳真道空が黄檗山萬福寺(京都府宇治市にある黄檗宗大本山)で修行の後に盛岡に入り現在の盛岡鷹匠小路付近に草庵を設けたのが始まりと伝えられています元禄十四年(1701)現在地に移転諸堂を建立した。盛岡藩の四代藩主・南部行信の娘である光源院(麻久姫・幕子)は黄檗宗を篤く帰依し大慈寺を菩提寺として境内に葬られた事から南部家の庇護となり寺領六十三石が安堵され末寺十ヶ寺を擁する大寺院に発展しました。
光源院は貞享元年(1684)に佐伯藩の五代藩主・毛利駿河守高久に嫁ぐものの、高久の性格的な問題から貞享四年(1687)に離縁、その後、和泉陶器藩の四代藩主小出重興に嫁ぐものの、元禄九年(1696)に重興が死去した事を受けて盛岡に帰参し出家、光源院と号した。光源院の懇願により大慈寺四世万叡和尚が行った「川施餓鬼」が現在の「舟っこ流し」の起源になったと伝えられています。
明治十七年(1884)の火災により伽藍の大部分が焼失しましたが、盛岡市出身の原敬の菩提寺という事もあり、山門など堂宇が再建されました。山門(楼門)は明治三十八年(1905 )に建てられた竜宮門と呼ばれる形式の楼門で、入母屋、桟瓦葺き、下層が大壁造り白漆喰仕上げ、土壁で端部を曲線で仕上げられ、中国など大陸でよく見られる形式です。大慈寺山門は平成三年(1991)に盛岡市の保存建造物に指定され、境内を含む周囲一帯は環境保護地区となっていて寺町の雰囲気を今に伝えています。又、大正十年(1921)に東京駅で暗殺された原敬はここに埋葬されています。
盛岡三十三観音第六番札所(本尊十一面観音)
本尊如意輪観世音菩薩。

  原敬墓所
原敬は、安政三年年(1856)二月九日盛岡藩領・岩手郡本宮村(盛岡市本宮)で生まれ。明治四年十五歳で戊辰戦争(奥羽越列藩同盟・東北戦争)敗戦の屈辱を胸に秘め上京し、郵便報知新聞(現 報知新聞)の記者を経て、明治政府の役人となり外務省、農商務省等の勤めました。その後大正三年(1914)六月、第三代立憲政友会総裁、大正七年(1918)には、平民でわが国初の内閣総理大臣(第十九代)に就任しました。
原敬は、盛岡藩士・原直治の次男として生まれたが、原敬の祖父・原直記は盛岡藩家老職などを務めた上級武士であった。敬が二十歳の時に原家を出て分家、戸主となり平民籍になっている。これは原家の次男としての道もあったが、当時の徴兵制度は戸籍戸主には徴兵されない規定があったために新たに戸籍をつくり戸主となって兵役義務を逃れる為と云われている。
制度上平民となった原敬だが、上級士族としての誇りが強く、旧士族としてその行動は武士を貫いていたと言う。兵役を逃れんがために平民となった日本初の平民宰相であったともいえるが、今日の政治家が同じ道を選んだとしたなら国民にどのように映るのだろうか。.
清廉潔白と言われた原敬は、生涯衆議院議員を貫き通し、自由平和を愛し、藩閥、軍閥、官僚などの特権階級と対決しながら、明治憲法下で政党政治を実現しました。大正十年(1921)十一月四日、東京駅丸の内南口で射殺され、遺体は盛岡に運ばれ十一月十一日、悲しみの雨が降りしきる中、ここ大慈寺に埋葬されました。

原敬は、大正十年二月二十日日付の遺書の中に
  一、 死去の際位階勲などの陞叙は予の絶対に好まざる所なれば死去せば即刻発表すべし
  一、東京にては何等の式を営むに及ばず、遺骸は盛岡に送りて大慈寺に埋葬すべし
  一、墓石の表面には予の姓名の外戒名は勿論位階勲なども記すに及ばず
と記しています。

遺書のとおり、「原敬墓」とのみ刻まれた墓石は、最後まで平民として生きた原敬の強い信念が現れています。隣には、内外の厳しい政情の中を歩む原敬を最後まで支えた妻・浅が「主人と同じ深さで埋葬されたい」という願いをかなえて眠っています。
原敬が十五歳まで生活した盛岡市本宮の「原敬生家(盛岡市指定有形文化財)」に隣接して建てられた原敬記念館では、原敬の遺品とともにその業績を辿ることができます。
               Web iwatabi外案内説明より           

  曹洞宗 永泉寺
永泉寺の起源は天正三年(1575)に陸奥国岩手郡中野村(現 盛岡市中野)に草庵を結んだのが初めと云われている。その後陸奥斯波氏の菩提寺であった曹洞宗・圓峰山源勝寺が盛岡藩初代藩主・南部利直の時に盛岡に移ると源勝寺九代住職・天室清耽禅師を招き、曹洞宗盛香山永泉寺と号し中興開山した。城下整備に伴い北山に寺院を集めると中野村より現在地移転、諸堂を建立したと伝わる。享保十四年(1729)、盛岡藩七代藩主・南部利視の生母浄智院(黒沢氏)が篤く帰依、諸堂を修復・建立し、寺領十石を賜わっている
永泉寺は盛岡三十三観音第七番札所となっている。本尊は瀧上正観世音で、この観音には以下のような話が伝わっている。旧永泉寺の在った中野村に白瀧と称する滝があった。瀧の傍にお堂が建てられ観世音菩薩が祀られていたと云う。
ある時、付近の山林が火災に見舞われ、お堂に火が迫り類焼の危機にみまわれた。それをさとった観音様は自ら空を飛び近くの永泉寺山門に難を逃れたと云われている。三門にそれを見た住職は、観音様を抱き永泉寺に祀ったと云う。その後誰ともなく、人から人へと云い伝えられ「瀧上之観音」と呼ばれ、尊崇を集めている。
また、瀧上観音と隣り合わせで祀られている七福神像は、左甚五郎の制作になるものと云われている。

永泉寺 盛岡市指定文化財
  「十六羅漢図」十六幅 及び 「所記次第」一幅
この作品は「所記次第」によると、黒沢適翁が先祖代々の功徳と子孫繁栄のため、珍宝を寺に寄進しようと思っていた折、中国の元」の画人・開顔 秋月 の絵を手本にした本堂蘭室の「十六羅漢図」を入手することができ、江戸で表具して永泉寺に奉納されたものであることが分る。
衣紋の線は鉄線描で処理し、淡墨の上に濃墨を重ねる手法をとっている。頭の描出は細かく、岩などの背景は没骨法で表現され、いずれも丁寧に描かれ、本堂蘭室の作品に寄せた気概が伝わる秀作である。
蘭室(1777~1843)は名を光亀、文心堂と号した。実兄田鎖鶴立斎と共に盛岡藩の代表的な漢画家であるが、むしろ南画風の作品が多く伝えられている。この「十六羅漢図」は、蘭室の代表的な作品であるだけでなく、画風の変遷及び画法の幅を知る上からも貴重であり、盛岡藩の漢画を代表する作品のひとつである。
               案内説明より      

  曹洞宗 祇陀寺
曹洞宗は釈迦牟尼仏から歴代の祖師によって、師資相承正伝された仏法。道元禅師は二十四歳のとき真の仏道を求めて中国へ渡り、天童山で如浄禅師と出会い、教えを受けた。日本に戻って曹洞宗を開き、永平寺の開祖となった。
能登国に總持寺を開いた四代目の瑩山禅師が全国に広め、今日の曹洞宗の礎を築いた。道元禅師の六代目の嫡孫となる大智禅師の意志を継いで弟子の光厳が南昌山の麓に青龍山港月庵を開き、その二百十年後久山俊昌和尚によって、天正八年(1580)に復興され、青龍山祇陀寺と改号され現在に至る。
石川県の金沢市に祇陀寺という寺がある。この祇陀寺は、鎌倉末期から南北朝初期の間に、加賀の河内荘吉野郷(現在の吉野谷村)に開かれた曹洞宗の禅寺で、瑩山紹瑾の弟子で大乗寺三世明峰素哲の法を嗣いだ大智を開山とする。山号の獅子は百獣の王で、人中の王として一切おそれるもののない仏の比喩、寺号の祇陀は釈尊に祇園精舎を施入した祇陀太子に因む。
吉野の地には戦国末期ころまで所在し、近世初期には前田利長関係者の庇護を得て、越中富山また守山(高岡)を経て、その後金沢城下へ移った。現在は金沢市十一屋町にある。大智は正応三年(1290)肥後国宇土郡長崎村の農家に生まれ、七歳で大慈寺の寒巌義尹について出家、のち加賀大乗寺の瑩山紹瑾のもとで開悟した。
ついで渡元し、十年余の間に古林清茂・雲外雲岫・中峰明本などに学ぶが、瑩山を真の師と悟り、苦難の末に高麗を経て正中元年(一三二四)加賀宮腰の湊に帰ってきた。直ちに能登永光寺の瑩山にまみえ、その法を得るが、瑩山の指示で明峰素哲の法を嗣ぎ、道元―懐弉―徹通―瑩山―明峰―大智と、道元から直系六代の法嗣となった。その後加賀の河内荘吉野郷に獅子山祇陀寺を開いたが、その開創年次については諸説あるものの明確ではない。
大智は祇陀寺に在住すること十年足らずで九州に帰り、肥後の菊池武重の帰依と支援を得た。菊池氏は広福寺・聖護寺を大智に寄進、これにより九州における大智門流の基盤が固まった。特に広福寺(熊本県玉名市石貫)はのちに大智門流の中心寺院となる。また延元三年(1336)に聖護寺敷地を寄進され、深山禅寂の仏道修行の場を得た大智は、以後ここに庵を結んで二十年山居することになる。
正平十三年(1358)には肥前の有馬直澄に加津佐の水月庵を寄進され、大智は晩年をここで過ごし、正平二十一年(1366)十二月十日に七十八歳で示寂した。
祇陀寺は盛岡三十三観音四番札所に、宗龍寺は八番札所となっている。
              祇陀寺HP説明文より            

  浄土宗 亀通山大泉寺
大泉寺は約八百年前、陸奥国糠部郡三戸に創建されたと云われている。奥州平泉藤原氏滅亡後三戸を拠点としていた三戸南部氏の創建であろうと思われるが明らかではない。、その後、三戸南部氏との関係も深まり、戦国末期南部家二十六代南部信直が不来方に拠点を移すと、後大泉寺も移転した。三戸長栄寺は、大泉寺にある南部家所縁のものを弔い守護するために大泉寺の跡地を引き継ぎ、慶長二年(1597)法然上人の弟子・好覚坊を開基とし、慶誉和尚が開山したと云われている寺院である。
三戸長栄寺には南部信直の次女で、出羽国秋田郡を拠点とした秋田実季の弟・秋田忠次郎英季に嫁した季姫(檜山御前)の墓がある。檜山御前は婚家から離れ、実家である三戸に帰り三戸で亡くなり、大泉寺に葬られた。檜山御前が亡くなったのは元和六年(1620)と云われていることから、大泉寺が盛岡に移ったのはその後であると推定される。長栄寺の墓地には五輪供養塔が建立されているが、貴重なものとして青森県の県宝に指定されている。
また、大泉寺は盛岡三十三観音第二十六番札所となっている。

  大泉寺本堂 盛岡市指定保存建造物
大泉寺本堂は文政年間(1818~1829)に再建されたと云われる。独特の宝形式反り屋根の木造平屋建て銅板葺で一間の向拝が付いている。始め瓦葺だったが修理して現在の銅板葺になったと云う。車寄せ屋根は起り(むくり)破風であるので垂木は一本曲がりものでできているが,本堂は反り屋根、車寄せは起り(むくり)破風で対照が面白い。

車寄せの柱梁はけやきで柱脚は礎石に乗っている。梁は虹梁で彫刻文様があり、蟇股、斗拱(ときょう)の組合せの造りかたになっている。本堂は床高く風通しよく考えられ、床束、柱、土台は御影石に据付けられている。
本堂内部は外陣は板張りの床だったが、畳敷きになっている。天井は竿縁(杉)で、簡単なものである。外部建具は硝子戸になっているが、古くは紙貼り障子に雨戸であったと思われる。雨戸は現在はないが平鉄をはった戸溝が残っている。内陣は3.5間×2間で共に天井は格天井(ごうてんじょう)で折上部は簡単である。
内々陣の南面、北面の中柱2本ずつはけやきの円柱がある。内々陣と内陣、その他隣室の長押欄間には見事な木彫の桃山風立体籠の彫刻がつけられて裏側は板になっている。各内陣、内々陣その他隣室の長押梁には文様の木彫がされてある。須弥壇の勾欄には唐様で親柱に鎌倉時代から出現した逆蓮柱になっている。なお、車寄せの正面妻飾りが特徴があり懸魚、母屋鼻かくし、蟇股等の木彫は興味を引くものである。

大泉寺 盛岡市指定有形文化財
  木造阿弥陀如来坐像 一体 像高:六十二センチメートル
桧材寄木造の漆箔像である。結跏趺坐して臍下で阿弥陀定印をむすんでいる。平安、鎌倉時代に多くみられる阿弥陀如来像の様式である。胴体部と胸部は古式を留めており、室町以前の制作とみられる。

  木造十一面観音立像 一体 像高:九十一センチメートル
桧材寄木造の漆箔像である。製作年代が室町時代に遡ると思われる優品である。像容はやや写実的で、衣の文様が中国宋風であることから鎌倉時代以降の様式が見られる。(像容はやや写実的で、衣の文様が中国明風であることから鎌倉時代以降の様式が見られる。)

  紙本着色阿弥陀三尊来迎図屏風 一隻 本紙 縦:百十一・七センチメートル 横:百十センチメートル
三折形式の来迎図である。広幅の中央に阿弥陀如来を描き、向かって右に蓮台を奉持する観世音菩薩、左に合掌する勢至菩薩を描く。紺紙に金泥で描く尊像は室町時代を代表する傑作で気品に溢れている。 

  おかんの墓
陸奥国糠部郡二戸の九戸城主・九戸政実が南部信直に滅ぼされ(九戸政実の乱)、九戸氏家臣・畠山重勝は自刃した。畠山重勝の一人娘おかんは家来の三平と夫婦になって盛岡に来た。夫三平は盛岡城築城人夫となって働いていたが、工事中重傷を負い再び哀れな運命に追い込まれた。
工事組頭である高瀬軍太はかねてから気品高いおかんに思いを寄せていたが、三平の災難をきっかけに益々露骨となり、夫の運命にも危機が迫ったので、困ったおかんは夫を殺害するなら意に従うと組頭を欺き、その夜、変装して夫の身代わりになって貞死した。軍太はまもなく仏門に入り、遺族の生計を助けたと云われている。現在の墓碑は、石などで叩くと昔と変わらずカンカンと不思議な音がする。

              案内説明より      



浄土真宗大谷派 石森山重願院本誓寺  
盛岡市名須川町3-16

  浄土真宗大谷派 池水山徳玄寺
徳玄寺は室町時代から戦国時代に代わる頃(1550頃)、陸奥国三戸郡五戸に開山創建したと伝えられている。その後南部氏が三戸から盛岡に拠点を移す際に盛岡に移転、江戸時代前期(1624~1644)玄海和尚の時に現在地を賜り移転諸堂を建立した。徳玄寺の寺紋は南部家と同じ「九曜付向鶴」です。この事から南部氏と深いかかわりがあったと推察される。

  宮沢賢治ゆかりの地 徳玄寺
宮沢賢治(明治二十九年~昭和八年 1896~1933)は、岩手県稗貫郡里川口(現 花巻市里川口)で生まれた。盛岡中学校(現 県立盛岡第一高等学校)、盛岡高等農林学校(現 岩手大学農学部)時代の多感な青春時代を盛岡で過ごしている。この辺りの北山、名須川町地区は、藩政時代からの寺町で、多くの寺院が並んでおり、賢治との関わりも深い場所である。明治四十二年(1909)盛岡中学校に入学、自彊寮に寄宿した。四年生の三学期、寄宿舎の舎監排斥騒動で寮を追われ、卒業までの一年間この辺りの寺院に下宿した。
最初にお世話になったのが曹洞宗清養院、そして五月には浄土真宗徳玄寺、に下宿し、ーたくさんの文学書、宗教書を読み、夜には本堂の縁側で月光を浴びながら深い思いにふけったー次の五百羅漢のある曹洞宗報恩寺では、たびたび参禅し仏教を学んでいった。
大正三年(1914)三月、盛岡中学校を卒業している。盛岡高等農林学校への進学を許され、翌年一月から三ケ月程時宗教浄寺に下宿、受験勉強に打ち込み、盛岡高等農林学校に首席で入学した。浄土真宗願教寺では、島地大等の法話を聴き感動し、賢治の生涯を貫く信仰の本源となった。徳玄寺には盛岡中学校時代下宿した部屋が残されています

  銭掛の松伝説
ある年の秋の雨降る夕暮れのこと、徳玄寺の和尚は、読書の合間に縁側に出て時雨の風情を愛でていると、笠も被らない一人の老僧が山門を入ってきました。和尚の側に来ると菰に包んだものを取り出して「胴体の無い首ばかりの如来様でございますが、どうぞ買っておいてください」といいます。
「いったいいくらで売るつもりかね」と問うと「三貫文」と答え、あまり安くないものの、名工の作と見えて鑿のあとも床しく、この雨降りにわざわざ来たのも何かの縁と思い、三貫文を渡して買い取りました。
翌日は雨があがり、和尚は朝の勤行を済ませて外に出ると前庭の松の木に銭が吊してありました。不思議に思ってよく見ると、それは昨日老僧に渡したはずの三貫文でした。忘れていったに違いないと待っておりましたが、何日経ってもその老僧が再び姿を見せることはありませんでした。そして、しばらくその首に継ぐべき胴体を見つけようとあちらこちらの古道具屋を探しましたが見つけることもできませんでした。
何年か経って、和尚は如来様の首を持って江戸へ出かけると、図らずもある古道具屋で胴体ばかりの仏像を見つけ、持っていた首を合わせてみるとぴたりと合いました。和尚は非常に喜んで値段を聞くと二十両もの大金。胴体のみでは高すぎる、値引きしろといっても一文もまからぬといわれ、やむをえず首だけ持って立ち去ろうとしますが、どうしても首と胴が離れません。仏縁だと納得し、和尚は二十両を払ってこの仏像を持ち帰り寺のご本尊としました。
               案内説明より          



浄土真宗大谷派 池水山徳玄寺  
盛岡市名須川町15-8

  鞍懸石
この大石は鞍懸石といわれ、平安時代末期陸奥国の豪族阿倍氏を討伐するため陸奥守として赴任した源頼義の嫡子義家が戦いの最中この大石に鞍を置いて馬を休めたと云われている。大石の場所から前九年の役の厨川柵や嫗戸柵の攻防戦の折の話と思われるが、源義家はその後の後三年の役にも出陣しており、時を知りうることは難しい。
また、この大石の形状が駒の背を連想することから、源義家の跨った駒の大きさを想像し義家の偉大さを伝え聞いた人々によって伝説となったとも思われ、この伝説の方が真実により近いことは確かであろう。しかしながら、九年の源義家と阿倍貞任の攻防の掛け合いや三年の雁行の乱れの逸話などと共に歴史の窓であると思いたい。

  供養観世音菩薩像
この観世音菩薩像は、昭和四十六年(1971)七月三十日午後二時ごろ、岩手県岩手郡雫石町上空で日本空輸の旅客機と航空自衛隊練習機とが接触し、旅客機が操縦不能で空中分解墜落して、乗客、乗員百六十二人が亡くなった航空事故であるが、その犠牲者の中に堀江淑子さんの名があった。その処置の際恩流寺に運ばれた遺体が縁でその遺族が供養の為に、淑子観世音菩薩と恩流寺二十三代住職が名付けた像で、昭和四十七年七月三十日の一周忌に開眼奉納されたものである。

  栗山利章(通称栗山大膳)の墓
この墓は福岡藩黒田家家老であった栗山大膳が「黒田騒動」の責めを一身に受け、南部家お預けの身となり、盛岡の地で承応元年(1652)三月二日に亡くなり天台宗愛宕山法輪院広福寺に葬られたものである。栗山大膳は流罪の身ながら百五十人扶持(約五百石知行)の待遇で愛宕山山麓に屋敷を構え、外出も近郊自由の身であったと云われ、盛岡藩も罪人として遇さなかった。
巷には筑前福岡藩黒田家の安泰を護った功臣との噂もあり幕府も緩い目で見ることとなったのであろう。初代藩主・黒田長政は関ヶ原の最大の功労者であり、結果江戸幕府開府の最大の功労者であることから、初期の幕府はその想いもあり黒田家を改易せず穏便に家老の追放の沙汰となったのであろう。その後前述の通り恩流寺の境内地となり現在は恩流寺にて法要が行われていると思える。享年六十二
                案内説明より

  村井京助 (鍵屋茂兵衛之墓)  鈴木舎定之墓
境内に村井京助、鈴木舎定之墓の案内板がある。案内板近くに墓所は見当たらなく、場所は判らなかったが、案内板が光雲堂脇に設置されていたので、光雲堂内部に墓があるかもしれない。案内板には次のように記されている。

  村井京助 (鍵屋茂兵衛)
文政四年(1821)盛岡市紺屋町に生まれる。盛岡藩士二百石の家禄を返上して家業に専念し、大坂、江戸、花輪等に支店を置き、明治元年(1868)藩財政の窮乏を救い、尾去沢鉱山の経営権(採掘権)を藩より得たるも、明治四年明治新政府により強制取り上げの処分にあい、明治史上有数なる疑獄事件として注目された。
明治政府内の旧薩長藩出身の役人などの理不尽な振る舞いは、明治維新の大きな汚点であり、その後の日本の行く末にも多くの人民への犠牲をもたらしその責任は重いものと思わざるを得ない。明治維新後の美化され過ぎた戦争の後始末は、悲惨な結果となったのである。村井京助はその理不尽な行為に抗議し、裁判に訴えるも成果を得ることができず、病に倒れた。時、明治六年(1873)五月二十五日であった。
享年五十四  死に臨み歌を残したと云われる。
夢とのみ 聞きし浮世も 今更に 死ぬるばかりは まことなりけり

  鈴木舎定
安政三年(1856)二月、盛岡市新築地にて盛岡藩士・鈴木舎従の長男として生まれた。幼名は鈴木弘太。
藩校「作人館」で学び、明治四年(1871)十六才の時上京、キリスト教(カトリック)の洗礼を受けカトリック精神を学び、福沢諭吉らの宗教誌「東京新報」を編集し、聖書の解説につい執筆している。

板垣退助らの民選議員設立建白書とともに澎湃として起こった自由民権運動に星亨、河野広中らと共鳴身を投じ、郷土盛岡の自由民権運動思想の普及のために明治十一年盛岡に帰った。盛岡「求我社」に活動の拠点を設け、旧藩士等多数の参加を求め、求心的な役割を担い「求我社」の指導的立場となる。また、「求我社」の機関誌・盛岡新誌の編集、主筆として思想の拡大、自由民権運動への参加を求めている。
明治十四年(1881)「国会手引草案」を執筆、国会開設の必要性を世の問うている。この年、国会開設の詔が詔勅され、自由党結党が成っている。板垣退助を首班とする「自由党」結成に参加、政治の世界にも身を置いて、自由党常議員となり将来の政治を担う志が高かった。然るに、明治十七年(1884)一月一日、将来の日本の政治を担う人物と同志に惜しまれつつ盲腸炎を患い死去した。
国会開設まで後六年を数えるときであった。
享年二十九
                 案内説明より          

  浄土真宗本願寺派 北峰山願教寺
願教寺の開山は源三位頼政と称された源頼政の子孫の某とされている。また異なる言い伝へでは、慶安年間(1648~1651)に出羽国仙北郡に在る吉水山善証寺十五世・浄信坊が岩手郡浅岸村に開山したとも云われている。
寛文四年(1664)に南部家二十八代盛岡藩二代藩主・南部重直が死去した際の火葬地となっている。寛文十年(1670)盛岡北上川の支流中津川の氾濫により寺領諸堂を流失したために、三代藩主・南部重信に現在地を賜り再建建立した。文化十三年(1816)に火災により諸堂が全焼、境内は灰塵と化した。後、南部家十二代藩主となる南部利濟が十一代藩主・南部利用に子が無かったので、願教寺の僧となって出家していたが、家督を継ぐために還俗、幕府の許可を得て南部家を相続している。南部利濟は弘化二年(1846)に自ら時を過ごした願教寺の寺領地を拡大し、諸堂を再建中興開基した。
願教寺の元寺吉水山本浄寺(後善証寺に改称)は源頼政(摂津源氏・多田源氏)曾孫であるとされる源宗房が開山したと云われている。源宗房京に在ったが、東国に下った際、常陸国茨城郡稲田を拠点に布教活動を行っていた親鸞聖人会い、請願し弟子となり、是信坊と名乗った。
源宗房(是信坊)は親鸞聖人の二十四輩の第十番に列せられる親鸞の高弟で、東北地方の布教を委ねられ、陸奥国和賀郡に赴いている。後に本浄寺八代・浄祐は、浄土真宗中興開祖蓮如に拝謁し善証寺の寺号を賜り改称している。次の九代住職・明信和尚の時出羽国仙北郡六郷に移り再建し、後、常陸国から佐竹氏が出羽国に移るとその庇護を受け、秋田城(久保田城)の城下の寺町に移っている。

  島地黙雷師之歌碑
哈爾濱停車場に伊藤公遭難の跡を訪ひし時与免る(ハルピン停車場に伊藤博文公遭難の跡を訪ひし時よめる)

於もひきや君可か堂美能杖つき亭 帰らぬあ登越介ふ登は無と盤(思いきや君が形見の杖つきて帰らぬ跡を今日問わむとは)
明治四十二年十月二十六日、ハルピンにて凶弾に倒れた伊藤博文公の死を悼み、現地で島地黙雷師(願教寺二十五代住職 近代仏教先覚者)が、この和歌を詠んだ。

  法話を聴く狸像
ある時、黙雷師が本堂で法話をはじめると、山から狸が下りてきて向拝にて黙雷師の法話を聴いていたと云う逸話に基づいて立された数珠を手にした親子狸像である。

  島地黙雷和上
明治の偉僧である浄土真宗本願寺派の島地黙雷(旧姓清水謙致)は、天保九年(18838)二月十五日周防国(山口県)佐和郡和田の専照寺住職・清水円隋の四男として生まれた。黙雷は浄土真宗の法瑞和上、原口針水和上に学び、慶応二年(1872)周防国佐波郡島地に在る妙誓寺の住職となった。その時寺の住所字名から島地と称するようになったと云われる。
黙雷は学門、見識、人徳を兼ね備えた僧であり、赤松連城、大洲鉄然と共に浄土真宗本願寺派の「西本願寺・維新の三傑」とも称された。因みに「維新の三傑」と云われているのは木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通の三人である。
明治元年(1868)、赤松連城、大洲鉄然と共に宗門・本山の諸制度の改革を西本願寺に対して建議書を提出、改正局を設けて宗門各寺院の子弟教育に力を尽くした。また、明治五年(1872)、西本願寺の派遣で仏教徒としては初めてヨーロッパ各国を視察し、先進国における宗教事情、とりわけキリスト教と国家体制について学んでいる。
明治維新後、仏教は明治新政府により神仏分離令や廃仏毀釈等の流により従来の特権が無くなり、寺院維持のために未曽有の危機を向かえる事となった。これらに対して島地黙雷は仏教の振興、寺院の再興を目指して奔走し、その地位を確立成ることに尽力した。その側、東京麹町に女子文芸舎(現 千代田女学園)を開設するなど、女子教育にも携わり、その活動の広さは一宗教にとどまらず、社会事業や女子の能力発掘など多方面にわたっている。
明治二十五年(1892)、本願寺派・盛岡市北山に在る願教寺二十五代住職となり、翌年本願寺派執行長に就いた。明治三十八年(1905)に浄土真宗本願寺派の奥羽開教総監の立場で退隠し、生涯仏教界に影響を与えた。本願寺役職を退いた後も黙雷は願教寺住職として仏教講習会を開催するなど、布教に務め、その足跡は今も引き継がれている。
明治四十四年(1911)二月三日入寂 享年七十四  離言院

  島地大等和上
島地大等(旧姓:姫宮,幼名:等)は明治八年(1875)十月八日、新潟県頸城郡三郷村(現 新潟県上越市)西松之木の勝念寺の住職姫宮大圓、操子夫妻の次男として生まれた。四年間の上京をへて、明治二十六年(1893)に京都にある西本願寺の文学寮(現:龍谷大学)に入学した。
大等は明治三十年(1897)には大学林で、明治三十二年(1899)には本願寺最高の学問所大学林高等科へと進学している。大等は同宿の学生にもいつ寝ていつ起きているのかわからないほど学道に励んだ。そのため大等の学才と謹厳なる様子に対し周囲は大いに嘱望し、明治三十五年(1902)一月には、明治仏教を牽引し盛岡で願教寺住職を務めていた島地黙雷に見込まれその法嗣(ほうし)となった。のちには黙雷の跡を継いで二十六代願教寺住職となっている。
同年十月にはインドや中国の仏教史蹟を調査、帰国後は比叡山及び高野山にて諸古蔵資料の研究に没頭した。また曹洞宗大学(現 駒澤大学)、日蓮宗大学(現 大正大学)、東洋大学などで教鞭をとり、大正十二年(1923)からは東京帝国大学にてインド哲学を教えている。明治四十一年(1908)からは義父黙雷とともに盛岡で願教寺夏季仏教講習会を開催した。この講習会には,宮澤賢治やのちの刑法学者小野清一郎らが出席している。
昭和二年七月四日入寂 享年五十四  逍遥院


  九条武子歌碑 ~島地大等ぬしをいたみておもへる~

かひなかり かへらぬ事と 知れど我 心足るまで おしと言はまく   

幾億年 み空の星も 滅するを とはの命と 君出てけりや

君にききし 勝鬘経のものがたり ことばことばに 光ありしか

あの甥は いとけなくして 爺と呼び 君の心にそだてられにき

ぬばたまの 心のやみに ともさんと 永遠のともしび 君とりましし 


九条武子夫人は明治二十年(1887)十月二十日、本願寺法主・大谷光尊(明如上人)の次女として京都で生まれ、家庭の浄く豊かな教育に恵まれて天稟の才能を伸ばした。明治四十一年、九条良致男爵に嫁いでともに欧州に航したが、九条男爵は専攻の学問の研究の為ロンドンに留まり、夫人は一人東京に帰ってひたすら仏法を聴きつつ己を深めた。
大正九年、九条男爵の迎えて新しき生活に入りし間もなく、大正十二年九月一日十一時五十八分関東大震災が起こった。其と共に夫人は灰塵のさなかに立ちあがって西本願寺の救援事業に参じ、特に遍く薄倖の人々の慰問救済に身を呈した。当時の夫人の活動の跡の一つが今も社会福祉法人あそか会・あそか病院として伝わっている。あそかとは漢字で無憂華と書き、仏教三大霊樹に一つで、他の二樹は沙羅双樹、印度菩提樹がある。
然るにその慰問巡回の途中に病を発症、昭和三年二月七日敗血症を以ていとも安らかに世を去った。
享年四十二  厳浄院釋尼鏡照

九条夫人が東京に在りて聞法に努めたころ、常に深く帰依の念を捧げたのは、島地大等和上に対してであったと思われる。大等和上は願教寺二十六代の住職で、東京帝国大学に仏教学の講座を担当し、殊に大谷家の為に本願寺派二十三代光照門主の幼時の伝育に身命を献げ尽して、昭和二年七月四日、五十三歳を以て浄土に旅たった。
偶ま其の年の九月一日、岩手仏教夫人会大会が願教寺にて開かれた。其れに臨んで九条夫人は五首の挽歌を和上の墓前に献げた。仍ち今その自筆のままを少し拡大して此処に之を写し刻み以て永く後代に伝える。
                 案内説明より         

  海軍大将 山屋他人顕彰碑
碑文には次のように記されている。山屋家の祖は稗貫郡の稗貫氏の一族・亀ヶ森氏である。戦国期の末、南部氏に仕え山屋姓を名乗るようになった。南部重信公の時、山屋勘右衛門が分家を興し、七代勝寿に慶應二年三月、一子他人が生まれた。
他人は幼少より性格温厚、専ら学業に励み、歳十四にして志を立て単身上京、伯父・野辺地尚義の許に「攻王社」に学んだ明治十五年、築地の海軍兵学校に入校、明治十九年、優秀な成績を修め卒業、これより生涯を海軍軍人として国防に献身した。
同期に、海軍中将從四位・江頭安太郎(皇太子徳仁親王妃・雅子様は安太郎の曾孫)がいた。明治二十九年、他人は鎌倉八幡宮宮司・丹羽房忠の一女貞子と結婚、四なん五女をもうけた。末子・寿々子は後に江頭安太郎の三男・豊と結婚、皇太子妃雅子殿下はその一女小和田優美子の長女である。
明治三十三年、山屋他人は海軍大学校の教官に任じ、海軍戦術を講義している。その「円戦術」は後任の秋山真之に引き継がれ、明治三十八年、日本海海戦の大勝利に実を結んだ。大正三年、第一次世界大戦に際し、他人は連合艦隊第一南方枝隊司令官として南太平洋作戦に活躍、大正八年、海軍大将に昇進、大正九年連合艦隊司令長官、大正十二年退館予備役となる。
他人は愛郷の念深く、晩年は、南部家顧問、岩手学生会会長をはじめ、後進の活躍を支援するところ大であった。盛岡八幡宮の社標「盛岡鎮守」は他人の揮毫である。昭和十五年病を得、九月十日逝去した。海軍葬が行われ、葬儀委員長を務めたのは同郷でこの年内閣総理大臣を辞した米内光政であった。
現墓所は昭和六年、山屋家先祖を敬尚して新たに他人が建てたものである。この度東京西麻布長谷寺の他人、夫人貞子の墓所より分骨し、この地に埋葬するとともに、ここに一碑を建立して永くその功業を顕彰するものである。
          
  宮沢賢治ゆかりの寺 教浄寺
宮沢賢治(明治二十九年~昭和八年 1896~1933)は、岩手県稗貫郡里川口(現 花巻市豊沢町)で生れた。盛岡中学校(現 盛岡第一高等学校)、盛岡高等農林学校(現 岩手大学農学部)時代の多感な青春時代を盛岡で過ごしている。教浄寺あたりの北山、名須川町地区は、藩政時代からの寺町で、多くの寺院が並んでおり、宮沢賢治との関わりも深い。明治四十二年(1909)盛岡中学校に入学、自彊寮に寄宿した。
四年の三学期、寄宿舎の舎監排斥騒動で寮を追われ、卒業までの一年間この辺りの寺院に下宿した。最初にお世話になった寺院が曹洞宗・清養院、それから五月には浄土真宗・徳玄寺に移っている。沢山の文学書、宗教書を読み、夜には本堂の縁側で月光を浴びながら深い思いにふけったと云う。次の五百羅漢で有名な曹洞宗報恩寺では、たびたび参禅し仏教を学んで教えを深めていった。
大正三年(1914)三月、盛岡中学校を卒業している。盛岡高等農林学校への進学を許された賢治は、翌年一月から三か月ほ時宗・ど教浄寺に下宿、受験勉強に打ち込み、甲斐あって盛岡高等農林学校に主席で入学した。
浄土真宗・願教寺では、島寺大等の法話を聴き感動したという。宮沢賢治の生涯を貫く信仰の源流となった。

宮沢賢治は教浄寺について次の詩を残している。
 僧の妻面膨れたる 飯盛りし仏器さゞげくる  雪やみて朝日は青く かうかうと僧は看経
   寄進札そゞろに誦みて 僧の妻庫裡にしりぞく  いまはとて異の銅鼓うち 晨光はみどりとかはる

                案内説明より
                                



臨済宗妙心寺派 大智山法泉寺  
盛岡市北山2-16-8

中井汲泉画碑「雪路」

境内墓地

境内庭

たわわな柿 甘、渋

R4交差点より法泉寺

有縁無縁三界萬霊供養碑

庫裡

本堂

本堂 山号扁額

南部家墓所

南部家廟所

神式で祀られています 四十三代当主・南部利淳 四十四代当主・南部利英

南部家初代 南部光行公

南部家九代 南部祐政公

南部家十一代 南部信長公

墓所への石段

墓所

南部家菩提所 聖寿禅寺

南部家十二代 南部政行公

南部家二十八代 南部重直公
盛岡藩・二代藩主

南部家二十九代 南部重信公
盛岡藩・三代藩主

南部家三十代 南部行信公
盛岡藩・四代藩主

南部家三十二代 南部利幹公
盛岡藩・六代藩主

南部家三十三代 南部利視公
盛岡藩・七代藩主

南部家三十四代 南部利雄公
盛岡藩・八代藩主

南部家三十六代 南部利敬公
盛岡藩・十代藩主

南部家三十八代 南部利濟公
盛岡藩・十二代藩主

南部利濟 側室・光雲院殿

南部家四十代 南部利剛公
盛岡藩・十四代藩主

南部利剛 二男 南部英麿公
大隈重信の養嗣子・大隈英麿 後離縁

墓所の石段 矢穴の跡

ずれたままで

墓所 多くの墓石が建っています  以下南部家一族の墓

大地震慰霊碑 昔も今も

盛岡藩主席家老・楢山五左衛門隆吉
通称佐渡 顕彰碑

横川省三之墓

盛岡藩士卒戊辰戦死供養碑

盛岡藩江戸屋敷の蹲

楢山佐渡の墓 
奥羽・温故知新より写真拝借

カトリック教会 北山墓地十字石塔

慈母観世音菩薩像

寺標

山門 銅板葺 一間一戸四脚門

庫裡

本堂

本堂 寺号扁額

鐘楼

山口青邨・山口家の墓

  山口青邨
山口青邨(本名・吉郎)は明治二十五年(1893)五月十日、盛岡市愛宕町に生まれた。愛宕町の盛岡市中央公民館には所縁の家「愛宕亭」が移築保存されている。盛岡中学、旧制第二高等学校から、大正二年(1913)東京帝国大学工科鉱学科へ入学。同五年(1916)古河鉱業(株)に入社する。農商務省技師を経て、大正十年(1921)東京帝国大学工学部助教授となる。昭和十四年(1939)には教授にすすんだ。俳句は、大正十年にはじめて『ホトトギス』に投句、高浜虚子の指導を受け、同十一年には東大俳句会に山口誓子らと共に参加、これが主たる勉強の場となった。昭和四年『ホトトギス』同人、同五年には『ホトトギス』巻頭を占め、同派の中堅俳人としての地歩を固めていった。

葛西家墓所

盛岡藩初代藩主・南部利直之墓
南宗院殿月渓晴公大居

盛岡藩十三代藩主・南部利義之墓

南部利國之墓
利義公隣にある墓石 利義公の縁者か

奇峯院殿元照宜大居士と
左大姉とあるので夫人の墓か

墓石碑文が薄く判読できない

寺標

山門前扉 朝早かった

山門 銅板葺 一間一戸四脚門

本堂 阿弥陀堂

阿弥陀堂扁額 無量壽堂

本堂

庫裡・客殿

奉納燈籠

観音堂

観音堂 中尊は地蔵菩薩に見える

宮沢賢治・石碑

聖観世音菩薩

境内紅葉

覆屋に護られた祠 

海軍大将 山屋他人顕彰碑

宮沢賢治 詩碑



曹洞宗 圓峰山源勝寺  
盛岡市北山1-13-5

観音堂 
盛岡三十三観音第二十番札所

観音堂向拝蟇股 龍の彫刻

日蓮聖人 日什聖人 供養塔

鐘楼

佛足跡

聖観世音菩薩 供養塔

本堂唐向拝 梁龍の彫刻

寺標

山門 桟瓦葺 一間一戸薬医門
赤塗門

山門寺号木札

石畳参道 本堂前

庫裡と前庭の藤棚

宝蔵?

本堂とモリオカシダレサクラ

枝垂れ桜基幹

本堂 山号扁額

山門扁額 大道無門(禅道心)

本堂 寄棟造桟瓦葺 唐向拝付

向拝 龍の彫刻

向拝柱木鼻 獅子と獏

本堂 雲肘木

本堂 唐向拝蟇股

香積堂

香積堂扁額

九條武子 歌碑

願教寺 永代供養墓

九條武子 手植えの楓 
昭和二年九月一日植樹

大谷紝子(旧姓九条紝子) 歌碑

島地黙雷師 歌碑

親鸞聖人 童子像

島地黙雷師の法話に聞き入る狸

山門 一間一戸四脚門 赤屋根門

本堂

本堂扁額

寺宝蔵?

庫裡

願教寺歴代住職供養墓

親鸞聖人 行脚像

宮沢賢治 歌碑 島地大等和上をを讃う
本堂の 高座に島地大等の ひとみに映る 黄なる薄明

光雲堂

光雲堂扁額

境内墓地

願教寺庭園 盛岡市都市景観緑賞碑

願教寺庭園

願教寺庭園 臥龍の一位(イチイ)

臥龍の一位

一位の葉

晩秋の庭園

石庭



浄土真宗本願寺派 月鶏山真行寺  
盛岡市北山1-4-2

庫裡

真行寺寺標

本堂

本堂 山号扁額

  浄土真宗本願寺派 月鶏山真行寺
真行寺は、文化三年(1816)に火災に遭い、過去帳をはじめ創建に由緒などの書類一切が灰塵に化したため、それ以前の事は明らかにすることができない。それ以前の事柄は檀家古老の口伝や焼け残った供養碑、諸塔・碑文など総合的に判断すると、真行寺の元寺地は北上川支流の中津川の春木場付近にあったと云われている。後、中津川の氾濫により諸堂が流出したため、現在地に再建建立されたと云う。
開基建立されたのは元禄三年(1690)と云われ、初代住職は宗圓で出羽国より寺に入ったと云い、開山したとも伝わる。同じ浄土真宗本願寺派に属する願教寺が火災に遭ったのも文化十三年とされているので、同時期の火災であろう。その前の中津川氾濫による諸堂の流出は、願教寺が寛文十年(1670)とされているので、真行寺建立以前であり、後の洪水の被害と思われるが、これらから中津川は幾度も氾濫した暴れ川であった。現在の真行寺の本堂は南部家三十八代盛岡藩十二代藩主・南部利濟により再建建立された。利濟公のゆかりの寺院・願教寺の隣の寺院であり同時期に再建されたものでしょうか。
                 案内説明より

  曹洞宗 瑞鳩峰山報恩寺
報恩寺は、応永元年(1394)南部家十三代・南部守行公によって陸奥国三戸郡に創建されたと云われている。越後国刈羽郡柏崎の曹洞宗香積寺の僧・通山長徹禅師が越後国に一寺を開山を開山したが、後、南部守行公に招請され、刈羽郡から三戸郡八幡山に南部家先祖菩提のために移転建立されたと伝わっている。
その後、時代と共に寺格を失い衰退したが、南部家二十四代・南部晴政が刈羽郡香積寺の僧・久山舜桂禅師を招請、中興開山し、寺格を法地(修行寺院)とし、ここに曹洞宗瑞鳩峰山報恩寺が建立された。南部晴政は後の盛岡藩南部家の基礎を築いた中興の祖と云われている。その後、慶長六年(1601)、南部家二十七代盛岡藩初代藩主・南部利直公が盛岡に拠点を移し、城下建設の際、旧本領地である三戸郡から盛岡に寺領を賜り、現在地に移転、諸堂を建立している。
藩政時代は寺領二百石を有する南部藩領内二百八ヶ寺の総領の立場となっている。現在も寺域七年坪を有している曹洞宗の古刹であり、盛岡五山の一つに数えられている。因みに盛岡五山は他に、臨済宗妙心寺派大光山聖寿禅寺、同大寶山東禅寺、同大智山法泉寺、時宗擁護山教浄寺である。また、真言宗豊山派宝珠盛岡山永福寺と臨済宗妙心寺派法泉寺とを入れ替えて五山とする説もある。京都に倣ったとしたら臨済宗寺院の方に軍配が上がるように思えるが、どうでしょう?
報恩寺本尊・釈迦如来は文殊菩薩、普賢菩薩の脇侍を安置した釈迦三尊像で、元大和国中善寺の本尊像と云われ、聖徳太作と伝えられ、羅漢堂の中尊・盧舎那仏は元大和国橘寺の本尊像で、弘法大師作と伝えている。盛岡市指定文化財である羅漢堂及び五百羅漢像は、享保二十年(1735)の落成開眼で、羅漢像は中国浙江省の中国三大霊山天台山像を模して京都で製作されたものである。
本堂背後の坐禅堂には文殊菩薩を中心に五十人分の坐禅床がめぐらされており、坐禅を会得又は体験することができる。また、瑞鳩峰山の扁額を掲げる三門楼上には十一面観世音菩薩が祀られている。
幕末、戊辰戦争の際仙台藩を中心にした奥羽越列藩同盟に組した盛岡藩は戦いに敗れ逆賊となったが、新政府軍側に組した久保田藩(秋田藩)との戦争の責任をとって盛岡藩を守るため一身に責任を負った盛岡藩家老・楢山佐渡は報恩寺本堂にて斬首の刑と決まったが、藩家老の身代の為自決を許された。その後、大正六年(1917)九月八日、盛岡出身の立憲政友会総裁・原敬を中心に盛岡藩戊辰戦争殉難五十年の式典が行われ、楢山佐渡をはじめその霊を慰めている。北山・聖寿禅寺境内には戊辰戦争殉難藩士の慰霊碑と、家老楢山佐渡の顕彰碑が建っている。                                     
                 案内説明より

報恩寺寺標

三門 桟瓦葺
三間一戸高欄付楼門形式八脚門

三門 山号扁額
永平寺七十六世 慈限福海禅師

三門 四手先斗栱木組み 

三門 桁雲形蟇股

三門 木鼻龍の彫刻

三門 獏の彫刻

三門 龍と獅子の彫刻

三門 鳳凰の彫刻

三門 金剛力士阿形像

三門 金剛力士吽形像

参道

中門 盛岡城移築門 
桟瓦葺 一間一戸薬医門

本堂 桟瓦葺 千鳥破風向拝付

本堂 寺号扁額

東山門 銅板葺 一間一戸薬医門

庫裡 客殿

庫裡 客殿 扁額

鋳金原型堂 高橋萬治

鋳金原型堂 内部展示品

聖観世音菩薩 供養塔

水子地蔵尊 供養塔

鐘楼

羅漢堂
桟瓦葺 土蔵形式宝形造

羅漢堂

  報恩寺五百羅漢像
瑞鳩峰山報恩寺は、旧盛岡藩における曹洞宗の名刹である。五百羅漢像は報恩寺第二十七世・曇樹一華和尚が願主となり、盛岡藩主・南部利視公の時代の享保十六年(1731)から造立を始め、享保二十年(1735)八月二十日、落慶供養をいとなんだものである。
羅漢像制作者は、京都の仏師・法橋宗而重賢、駒野定英珍盈、駒野丹下定孝ら九人によるものである。像の中にはマルコポーロ、フビライの顔とも窺える像もあり、五百に一つ欠ける四百九十九たいの像が現存している。このように短期間で完成し、しかも木彫で、五百羅漢の数値にかなうような躯数が現存し、造立年代や願主、製作者まで明確に知りうることは全国的に見て極めて希なことである。
昭和四十一年十月十八日、盛岡市文化財に指定されている。現存の羅漢堂は、嘉永四年(1851)七月二十日に再建されたものである。羅漢堂は昭和四十五年二月二十五日、盛岡市文化財に指定された。

  報恩寺と石川啄木
報恩寺を含む北山一帯は、石川啄木がまだ盛岡中学に在って文学に親しみ始めたころ、好んで吟行の杖をひいたところである。啄木の処女詩集「あこがれ」に収められて「落瓦の賦」のはしがきには、
「幾年の前なりけむ、猶社稜の学舎にありし頃、秋のひと日、友と城外北邸のほとりに名たる古刹を訪ひて、菩提老樹の風に嘯ぶく所、琴者胡弓を按じて沈思頗る興に入れるを見たる事あり。年進み時流れて、今寒寺寂心の身、一夕銅鉦の揺曳に心動き、追懐の情禁じ難く、乃ち筆を取りてこの一遍を草しぬ。」
と書き残している。
ここにある「古刹」とは報恩寺また、「寒寺」とあるのは、啄木が育った故郷渋民村の宝徳寺のことであり、この詩の生まれたのは明治三十六年二月十六日夜の事で、啄木十八歳の早春である。この詩の最後の章は次のようなものであった。
琴を抱いて、目をあげて、無垢の百蓮、蔓陀羅華、靄と香を吹き霊の座をめぐると聞ける西の方、涙のごひて眺むれば、澄たる空に秋の雲今か黄金の色流し、空廊百代の夢深き、伽藍一夕風もなく俄かに壊れほろぶ如、或は天授の爪ぶりに一生の望み奏で了へし巨人の終焉に入る如く、暗の船戦呼をあとに見て、光の幕を引き納め、暮暉天路に沈みたり。

  報恩寺梵鐘 (盛岡市指定文化財) 昭和五十五年四月一日指定
報恩寺梵鐘はその銘によれば報恩寺代十三世住職・文嶺喬志禅師が、かねて音響の良い梵鐘を備えたいと発願し、南部家三十代盛岡藩四代藩主・南部行信の夫人(側室・広照院)中里氏が施主となって、盛岡藩お抱釜師・二代小泉仁左衛門清則が、元禄十一年(1698)に鋳造したものである。
梵鐘の大きさは、総高:136㎝、口径:74.3㎝、輸口の厚さ:10㎝、重量:563㎏。
報恩寺は盛岡五山の一つであり、藩内曹洞宗二百八ヶ寺を支配した寺である。報恩寺の梵鐘によれば、江戸中期、盛岡八景の「北山の晩鐘」のゆかりをもち、昭和五十年(1975)まで約二百九十年間にわたって音を伝え、盛岡の人々に親しまれてきた梵鐘である。戦時中の金属回収の時にも、由緒ある名鐘として、内丸の時鐘と共に回収を免れて今日に残された貴重な文化財である。
                案内説明より            

正傳寺案内看板

三門 石造冠木門

庫裡

本堂

本堂 山号扁額

本堂 
唐破風向拝  虹梁 木鼻 蟇股

境内墓地

寺標

三門 桟瓦葺 一間一戸薬医門

庫裡

本堂 入母屋銅板葺 唐破風向拝付

本堂 山号扁額

向拝虹梁 龍の彫刻

向拝唐破風 鳳凰の彫刻

客殿 入母屋桟瓦葺 唐破風向拝付

客殿 扁額 
華厳経三帰礼拝文・智慧如海

愛宕山 栗山大膳の墓
Facebook Hitoaki Yoshidaより借用

鬼瓦 主瓦と飾り瓦の固定の様子

本堂大棟の旧鬼瓦

六地蔵尊

供養聖観世音菩薩

鞍懸石

三門 赤桟瓦葺 一間一戸薬医門

山務所

本堂入母屋造本瓦葺 流向拝付 

向拝 海老虹梁 虹梁蟇股

旧大棟鬼瓦

六地蔵尊

モリオカシダレ 国指定天然記念物

モリオカシダレ 樹幹

モリオカシダレ傍の子安地蔵尊
極普通の地蔵菩薩坐像

本堂前 ソメイヨシノ?老木

ソメイヨシノ樹幹

蛇口安太郎之碑



浄土宗 衆寶山法性院光臺寺  
盛岡市名須川町8-4

境内 稲荷社

聖観世音菩薩像

地蔵堂

地蔵堂 扁額

むかで姫之墓 takuboku1511より

覚山地蔵尊供養石塔

愛染明王供養石塔

寺標

山門 本瓦葺 一間一戸棟門

庫裡

本堂 入母屋造銅板葺 流向拝付

本堂 寺号扁額

供養石塔

銭掛松舊蹟 一代目銭掛松の蹟

二代目銭掛の松 徳玄寺HPより

寺標

山門 桟瓦葺 一間一戸薬医門

庫裡

本堂 宝形造桟瓦葺 庇向拝付

境内庭

境内庭

芭蕉句碑
古池や 蛙飛びこむ 水の音

寺標

桟瓦葺 一間一戸薬医門

庫裡 客殿

本堂 入母屋造 桟瓦葺一部銅板葺
流向拝付

本堂 山号扁額

晩秋の趣

永代供養塔

境内庭

  浄土宗 三峯山吉祥寺
吉祥寺は寛文五年(1665)に陸奥国津軽郡浄土宗・月窓山栄源院貞昌寺の僧・秀廓和尚が開山、南部家二十九代盛岡藩三代藩主南部重信が開基、諸堂を建立した。吉祥寺のある場所は兄である盛岡藩二代藩主・南部重直が荼毘に付された処で、その霊を弔うため開山された寺である。三峯山は南部重直の法号・即性院殿三峯宗玄大居士より名付けた山号で重直あっての寺院である。
津軽の浄土宗貞昌寺は陸奥国浄土宗の僧録所であることから、津軽から僧を招き開山したと思われるが、南部の殿様のゆかりのある寺の住職を南部領内で都合できなかったのでしょうか?今でも反目する感情があると聞いたことがあるが、戦のない世になったとはいえこの時代は今とは比べようのない様な。仏道の世界は民衆の煩悩を和らげる大きな世界です。
吉祥寺の本尊は元陸奥国北郡田名部の浄土宗不退山常念寺に安置されていた阿弥陀如来像と云われ、故あって移され本尊として祀られている。この阿弥陀如来像は鎌倉時代に作像されたものと云われ、口元から僅かに歯を見せている珍しい像で、そのことから「歯生の阿弥陀様」と云われてきたと云う。
吉祥寺はまた盛岡三十三観音・二十四番札所となっており、本尊は如意輪観音菩薩である。
             案内説明より       

本堂 RC造 アーチ向拝付

寺標 山門 銅板葺 引違桟唐戸門扉棟門  境内側から山門

アーチ向拝の虹梁と彫刻

  浄土真宗大谷派 専立寺
専立寺のある場所には同じ宗派の本誓寺、證明寺が兄弟のように並んでいます。専立寺はその中でも現代的な鉄筋コンクリートで建立された本堂をもっています。但山門は木造で桟唐戸四枚の違い引き戸形式の棟門で、これは旧山門なのか旧裏門なのかは判らない。本堂のアーチ形の向拝の虹梁は旧本堂の向拝を再使用したような感じのするただ一つのものです。
この本堂の特徴を生かして、仏前ではミニコンサートや落語・講談、講義、法話等の集いが開かれている。近頃の〇〇寺ライブは山門や本堂をバックにした特設ステージを良く見聞きするのですが、専立寺は本堂がステージです。収容人数などは判りませんが、強度を生かした階上バルコニー席も設置できると説明されています。
専立寺は平安時代の末期に、浄土宗を開創した法然上人が奥羽・出羽国にまだ浸透していない念仏を広める為、弟子を派遣して拠点の寺院を建立(1186)した内の一寺です。法然の名代として派遣された弟子のうちの一人が好覚坊で、陸奥国糠部郡二戸宮野に建立した小庵が専立寺です。後に南部家の支配地となり、時代を経て浄土真宗に改宗、南部家の盛岡移転に伴い二戸から盛岡に移転した。藩政時代から火災にも遭い幾度か再建されましたが、今回現代建築似て本堂を再建しました。
               案内説明より          

寺号標

鐘楼

本堂 入母屋造銅板葺

本堂廻廊

本堂大棟 懸魚 

客殿

寺宝蔵?

実も葉も朱に染まる

本誓寺通用門

本誓寺是信坊開山

本堂 三間流向拝

ホンセイジシダレ

本誓寺由来案内板

寺号標

本堂 向拝

本堂 寺号扁額

本堂 大棟鬼瓦と懸魚



曹洞宗 松峰山東顕寺  盛岡市名須川町2-1

寺号標

三門 桟瓦葺 一間一戸四脚門

三門

本堂 入母屋造銅板葺 唐破風向拝付

奉納燈籠 竿部の龍彫刻

澤田芳洲の句碑

日蓮聖人御弟子 信圓房遺跡之碑

庫裡

鶴彬(社会派反戦川柳作家)川柳歌碑
手と足をもいだ丸太にしてかへし

境内庭

本堂 山号扁額

蓮華水鉢

燈籠龍彫刻

六地蔵尊

庫裡

永代供養塔

愛育地蔵尊(水子・子育地蔵尊)

地蔵菩薩石像

旧本堂大棟鬼瓦

石川金次郎碑
正義は最後の勝利なり

三界萬霊供養塔

観音堂 十一面観音

観音堂扁額

本堂前の水鉢

寺号標

山門 桟瓦葺一間一戸薬医門 

本堂 宝形造銅板葺 一間向拝付

本堂 向拝の様子

南無阿弥陀仏石標

宝形造朱塗のお堂

佛は宝冠阿弥陀如来?

客殿・庫裡

六地蔵尊

地蔵菩薩

境内墓地

おかん之墓と供養石碑

境内

境内

湯殿山金剛珠院

拝殿

湯殿山・出羽三山石塔
慶応四戊辰年四月八日建立

男女の像

境内庭

本堂 寺号扁額

鐘楼 昭和三十二年鋳造梵鐘

本堂 入母屋造銅板葺 一間流向拝付

庫裡

通用門 盛岡三十三観音四番札所
宗龍寺 盛岡三十三観音八番札所

三門 桟瓦葺一間一戸四脚門
禁葷酒戒壇石(戒律石)

五智如来 手前大日如来智拳印

多宝如来 禅定印

釈迦如来 禅定印

阿弥陀如来 阿弥陀定印

阿閦如来

羅漢像

羅漢像

羅漢像

栗割桜樹幹

十六羅漢と五智如来安置図

盛岡市指定文化財 十六羅漢石像 十六体 五智如来石像 五体

寺号標

三門 銅板葺一間一戸四脚門

三門扁額 王三昧 座禅修行三昧

三門

慈眼観世音菩薩

有縁無縁墓石萬霊塔

本堂 入母屋造銅板葺 唐向拝付

向拝虹梁の彫刻

本堂 山号扁額

本堂 瓦葺屋根大棟鬼瓦

僧堂(坐禅堂)

庫裡

左七福神・右観音堂

七福神堂扁額

観音堂扁額 瀧上正観音

稲荷神社

稲荷神社扁額 出世稲荷社

会館 観音会館

境内紅葉

中央六体地蔵尊

三門扁額 福聚名山大慈禅寺

庫裡 和敬堂

本堂と金剛力士吽形像

本堂と金剛力士阿形像

本道扁額 圓通(周圓融通)

本堂の丸窓 悟りの窓

六角堂 (位牌堂?)

三界萬霊供養塔
弥勒菩薩半跏思惟像

山門外の稲荷神社

稲荷神社扁額 稲荷大明神

原家墓所

原家墓所

原敬之墓

原浅之墓(原敬夫人)

小春日サクラ

境内の紅葉

多層石塔

境内紅葉

大慈寺三門 楼門形式龍宮門

寺号標

本堂 切妻造着色鐡板葺流向拝付

本堂扁額

寺標と三門 銅板葺向唐門

三界萬霊塔 千手観音、地蔵菩薩

観音堂 本尊貞傳観世音
盛岡三十三観音第三番札所

本堂 入母屋造本瓦葺

本堂扁額

茶筅供養塚



真言宗智山派 湯殿山連正寺  
盛岡市大通2-2-13

境内 稲荷神社

稲荷神社 狛犬

稲荷神社 扁額

岩手三十三観音第六番霊場

本堂

本尊 胎蔵界大日如来
右に宗祖 弘法大師を祀る

左に大日如来化身不動明王を祀る

寺号標

湯殿山御祈祷所

出羽湯殿山石塔

寺号標

山門 桟瓦葺薬医門
観世音の赤提灯

水子地蔵尊 左下に慈母観世音像
安置した方・・・・・

本堂扁額 千手観世音

盛岡三十三観音第五番札所

本堂左側扁額 愛宕山
旧愛宕山権現扁額

境内社 稲荷社

阿弥陀如来石塔 千手院開山円秀建立
延宝五年(1677)五月



浄土宗 紫雲山円光寺  
盛岡市南大通3-11-49

米内光政之墓石
天徳院殿仁海光政大居士

寺号標

地蔵菩薩 
出迎えの地蔵 見送りの地蔵

山門 桟瓦葺一間一戸薬医門

山門扁額

山門 金色の鯱

山門 金色の鯱

六地蔵尊

山門より境内

本堂 入母屋造銅板葺
妻入り一間唐破風向拝付

本堂扁額

向拝虹梁彫刻

向拝木鼻

客殿 庫裡

客殿扁額

観音堂 
盛岡三十三観音第十一番札所

観音堂扁額 生目観世音

鐘楼

境内墓地

水子・子安観音供養塔 俱会一處

米内光政墓所案内標

米内光政墓所

夫婦カツラ 左雄株 右雌株

境内庭園

法然上人童子像

首塚 観音堂左側



曹洞宗 奕葉山久昌寺  
盛岡市大慈寺町1-5

参道

多くの石碑

南無阿弥陀仏石塔

三門 
銅板葺楼門形式一間一戸四脚門

三門扁額

控柱 獅子と獏

一重階 蟇股と斗栱

主柱 龍の彫刻(下り龍)

三門 鳳凰彫刻

三門 門扉天女

三門 門扉天女

鐘楼

晩秋の境内

銀杏巨樹

庫裡 客殿

庫裡扁額

本堂 寄棟造桟瓦葺一間流向拝付

本堂扁額

何を祀っているのか?

観音堂

歴代住職墓所



曹洞宗 寶鏡山清養院  
盛岡市名須川町7-1

客殿 大書院

庫裡

般若臺

般若臺の扁額

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝付

三門 赤桟瓦葺薬医門

漆喰下板張小屋根付塀



天台宗寺門派 峰壽院  
盛岡市清水町1-8

寺号標 盛岡三十三観音第一番札所

明神鳥居

馬頭観音石塔

観音堂 本尊馬頭観世音

観音堂扁額 馬頭観世音

三ツ石 背面

三ツ石 参道正面

三ツ石 側面

鬼の手形 レプリカ

本殿

舞殿 神社蔵?

三ツ石神社

拝殿

  三ツ石神社由来
「岩手」の呼び名について大和物語によれば、「五十一代・平城天皇の御世に陸奥の国から鷹が献上され、帝はこの鷹に岩手と名付けた」とある。俗説では「三ツ石と鬼の手形」の物語が、岩手の地名や不来方の起源や地名であると云われている。
伝説によれば、昔この地方に羅刹と云う鬼が住んでいて、付近の住民を悩まし、旅人を脅していた。そこで人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕えてもらい、境内にある巨大な三ツ石に縛りつけた。鬼は二度と悪事はしないし、また二度とこの地方にやってこないことを誓ったので、約束のしるしとして三ツ石に手形を押させて逃がしてやった。
それからこの手形の跡には苔が生えないと云われている。しかし長い年月がたっているので、今でははっきりしていません。この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源だと云われる。また鬼が再び来ないことを誓ったことからこの地方を「不来方」と呼ぶようになったと伝えられている。
鬼の退散を喜んだ住民たちは幾日も幾日も踊り、神様に感謝の真心を捧げたと云う。この踊りが名物「さんさ踊り」の起源と謂われている。「さんさ踊り」の名前は「さしあげ踊り」つまりお供え物をして踊るというのが短くなったとか、三十三も踊りの種類があるので「さんさ」というのだとか、いろいろの説がある。
三ツ石は元々一個の大きな岩であったが、長い年月の間に三ツに割れて現在の三ツ石になった。昔この地方「愛宕町、名須川町、三ツ割」を三ツ石野と呼んでいた。

神社には少名彦尊、稲荷大明神を祀っており、殖産振興、医療発展、良縁結実の神様として崇敬されている。
慶長四年(1599)十月二十四日、南部家二十七代・南部利直公が盛岡に城を写した時、南部家初代・南部光行公の御霊を三ツ石神社に迎え祀ったので、三ツ石神社の別当寺である曹洞宗東顕寺に五十二石を寄進されたのである。この寄進文書は今も東顕寺にて保存されている。
この大石の碑は三ツ石の割れた一部分で、土中に埋もれていたものであるが、この度の社殿新築に当りこの場に移し由来文を刻したものである。昭和四十八年八月二十七日 社殿落成日
              境内三ツ石神社由来碑文より          

三本杉 神霊処

弁慶石

天満宮 一之鳥居

鳥居 社号扁額

天満宮 二之鳥居 奉納燈籠

社務所 守護札授与所

舞殿

参道と狛犬

拝殿

拝殿社号扁額

本殿

鹿島神宮社

飛び梅

平安稲荷神社 狛犬台座 啄木歌碑

平安稲荷神社

撫で牛

銭湧石 石割梅

銭湧石 石割梅

天神囓り梅

融通念仏碑

菅廟植梅記念碑

筆塚

小野素郷句碑

髙橋煙山句碑

髙橋青湖句碑

天満宮 吽形狛犬(石馬)

天満宮阿形狛犬(石馬)

狛犬台座

吽形狛犬台座 啄木歌碑

阿形狛犬台座 啄木歌碑

啄木歌碑 病のごと~

松尾神社 石段参道と石鳥居

鳥居神号扁額

拝殿正面 奉納燈籠

拝殿

拝殿 社号扁額

本殿

境内 ソメイヨシノ老木

ソメイヨシノ 株の更新

道路より神社土塁の桜 老木と若木

玉蕪稲荷神社

鳥居 社号扁額

社殿

狛犬

狛犬



住吉神社  
盛岡市住吉町9-1

御神木 ケヤキ 盛岡市保存樹木 
推定樹齢三百十年 平成二十六年

神門と奉納鳥居

社号碑

一之鳥居 明神鳥居

鳥居社号扁額

拝殿宮柱用材の根幹
青森ヒバ 樹齢約500年

御神木ケヤキ樹幹

御神橋

二之鳥居 八幡鳥居

三之鳥居 明神鳥居

神札授与所 祭礼日開店

手水舎

拝殿

本殿

社務所 通常神札・御朱印授与所

御神木 盛岡市保存樹木 イチョウ 
樹齢約二百二十年  平成二十八年

御神木 盛岡市保存樹木ケヤキ 
樹齢約三百十年 平成二十八年

社殿の樹木雑叢

赤石

体操神社 御祭神?

瀬川幸助翁顕彰碑

寺号標 真宗大谷派 光照寺

赤山稲荷神社

玉垣と鳥居の赤が鮮やか
最近塗り替えたようです

社殿 地味ですがそこには威厳がある

蔵鍵を携える狐

こちらの狐は玉(宝珠)



熊野神社  盛岡市下ノ橋町4-35

  下ノ橋熊野神社
熊野神社は紀州熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)の御神霊を勧請した神社である。全国各地に勧請され、遠国紀伊国熊野に参詣叶わぬ人々のために各地に鎮座されている。盛岡市内にも熊野神社と称する神社が多く存在しているように、稲荷、神明(伊勢)、八幡、諏訪、天神、住吉等と同じく、時の長者が立場の安泰を願って神徳を求めた結果と言えよう。特に八幡神社に祀られる八幡神は戦いの守護神と云われて、都を離れた源平藤橘の末裔が各地に拠点を設け、戦いを繰り返し戦勝を願って競って勧請した。
下ノ橋熊野神社がここに鎮座している由来は分らなかった。、下ノ橋と毘沙門橋の間、左岸の道に面して入口があり、石造りの狛犬と、背の低い鳥居が迎えてくれる。雲が厚く時より雨が落ちてくる境内はうす暗い。

色彩のない墨絵の世界

鳥居扁額 笠木に手がかかる低さ

社殿

下ノ橋熊野神社

  金刀比羅神社
金刀比羅神社は讃岐国琴平に祀られる大物主命を祭神とする神社である。ここ清水金刀比羅神社も讃岐国金刀比羅宮より神霊を勧請し創建された。社殿には大国神社と稲荷神社の扁額が掲げられており、合祀されているものと思われる。
祭神の大物主命は大己貴命(大国主命)の和魂(別の顔、化身)と云われているので、大国主命と同神であり、また、金刀比羅神徳は、水の神で開運・水運、五穀豊穣等に霊験あるとされることから、同じ五穀豊穣、商売繁盛の神である稲荷神社を祀っているものと思われる。元々稲荷神は出雲の祖神素戔嗚尊の子宇迦之御魂を主祭神とする神社であるので、出雲一家?を祀っているともいえる。
明神鳥居の扁額には篆書で金刀比羅神社と書かれており、社殿の扁額には金毘羅大権現と書かれている。単独で金刀比羅神社が創建されたのか、寺院の境内社、別当寺管理神社であったかは判らないが、金毘羅大権現の扁額からは神仏習合の名残が感じられる。
社殿に比べて屋根向拝が新しく、最近修復されたものでしょう。一見銅板葺で緑青が析出とも思える色ですが、あまりにも鮮やか、塗料を塗ったか、カラー鉄板の様です。私見ですが、次回は赤錆が著しい鋼鉄製の鳥居の修復となる可能性大です。

金刀比羅神社 鳥居

鳥居 社号扁額(篆書体)

社殿 入母屋造銅板葺の屋根が新しい

大黒神社と稲荷神社の神霊を合祀

社殿扁額 金毘羅大権現

榊山稲荷神社 向神門

神門 社号扁額

狛犬と参道

舞殿

出羽三山石塔

車両御祓い所

二之狛犬一対 痛々しい

手術再生狛犬

御札授与所(社務所)・参集殿

旭橋(屋根付橋・廊下橋)

池と屋根付橋

心字池

拝殿 
入母屋造桟瓦葺一間流向拝付

拝殿 社号扁額

向拝 向拝柱と海老虹梁

向拝柱木鼻 獅子の彫刻

本殿

巨岩であろうか?要石?

  榊山稲荷神社
榊山稲荷神社は、南部氏が糠部郡三戸に勧請した稲荷神(豊受大神)を祀ったことが起源と云われ、その後、三戸から不来方に本拠を移転し、慶長二年(1597)南部家二十七代・盛岡藩初代藩主南部利直公が、不来方城(盛岡城)築城の際、不来方城内の曲輪に守護神として、先祖が尊崇していた稲荷神を勧請、祀ったものであると云う。稲荷神と豊受大神の御神徳、五穀豊穣を願い、同時に領内の殖産振興、民衆安泰をも願ったと思われる。城内に在りながら庶民の信仰も篤く、例祭には庶民も城内に入ることを許され参拝したと思われるが、これは私見である。
明治維新が成ると、廃藩置県により盛岡藩は無くなり藩の庇護を受けていた榊山稲荷神社は廃城と共に荒れるに任せる状態となり廃社となったと云われれいる。その後それを惜しんだ市内鉈屋町の荒川清次郎氏が、明治三十年(1897)現在地北山の地を旧藩主・南部家から買い取り再建した。現在盛岡城跡に鎮座する桜山神社には境内社として南部稲荷神社が祀られており、藩政時代に稲荷神社が城内に在ったことが判る。

  榊山稲荷神社庭園 緑風苑
寛永年間(1624~1645)方長老師が作庭された庭ですが、時の流れに抗せず荒廃しておったものを、初大宮司・荒川清次郎氏(榊山稲荷神社再興者)が庭師・中舘福松氏と共に二十年の歳月をかけて完成された庭で、北山の自然の山なみを背景に湧きいずる水が流れ込む心字ヶ池を有し、歴史的にも南部藩内の名勝地として有名な庭園であります。

  心字の池
この池は形が心の字の形をしていることから一般に心字池と称される池である。方長老師が作庭した当初から造られた池で、現在は心字の点の一つが拝殿の建立のとき埋められて無くなっています。
池の中の観世音菩薩像は作庭の秘法によるもので、観音像の胎内には観音経の経典が納められております。この池を渡ることにより皆様方の方体を浄められると云う信仰があり、池に架けられた橋を渡って参拝しています。また池には数百匹の鯉が生息しております。
緑風苑を作庭した方長老師は、規伯玄方といい、臨済宗の僧で対馬藩の朝鮮外交を担当した外交僧である。僧が外交に携わるのは、漢文に通じ外交文書の発行、訳文に長け、時の支配者に求められた結果であろう。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)により国交が断絶した李氏朝鮮と明国との間に外交を復活し,交易を求めようとする日本と李氏朝鮮との間の交渉を担ったのが、対馬の宗氏であった。
江戸幕府と朝鮮との間に立って悩みぬいた宗氏は良かれと思って幕府の国書を偽造し、結果、朝鮮は日本に使節を送り国交がなされた。後、江戸幕府三代将軍徳川家光の時、対馬藩に内紛が起り、密告により国書の偽造が発覚し、その責めを負った対馬藩家老は津軽藩に預りの身(流罪)となり、外交僧・方長老師は盛岡藩にお預けとなったのである。
盛岡に流罪となった方長老師は拘束されることもなく、その確かな技術と見識により、辺境の地盛岡に朝鮮及び北部九州の先端文化をもたらしたと云われている。後赦免され、臨済宗大本山の京都南禅寺に入った。
宗氏が偽国書を朝鮮に送った経緯については、現在も日本と朝鮮との間に横たわる様々な事柄にも似たところがあるような。朝鮮出兵の結果について、謝罪しろ謝罪しろ、謝罪があってからの国交である、の一方で豊臣政権のときのことであり、江戸幕府としては済んだ事柄であると面子を重んじ、対等の立場をとる日本国政権当時の時代背景を考えるとき、当に悩んだ末のことであろう。
               案内説明より        

榊山稲荷神社 境内社

祭具殿 御札授与所

心字池の聖観世音菩薩立像

六光石

船五社

八幡神社

龍神社

加賀宮

加賀宮 社殿

天満宮 菅原稲荷神社

粟島神社

粟島神社

天祖神社

金殖神社 鳥居

金殖神社 参道

金殖神社 社殿

船五社 安置像

御神石? 溶岩らしき石



盛岡八幡神社  
盛岡市八幡町13-1

八幡宮北参道鳥居

北参道鳥居扁額

北参道狛犬

車両交通安全祈祷殿

参集殿

盛悠館

御輿殿

御輿殿 御御輿

拝殿 奉納絵馬扁額

拝殿 奉納絵馬扁額

拝殿 社号扁額

拝殿

拝殿

正面参道鳥居

北参道 社号標 鎮守盛岡八幡宮

御神橋と青銅製燈籠

盛岡鎮守石標

社号標   縣社八幡宮

狛犬

狛犬

手水舎 水堀石の水鉢

正面参道鳥居社号扁額

八幡宮 神寶殿

目出鯛おみくじ200円

目出鯛おみくじ

縁結美神社

交通安全神社

高倍神社と右側包丁塚

歯固めの石

十二支神社

十二支神社 子年・出雲神社

忌事・厄事封じ込めの厄祓瓢箪

願事・叶い事 奉納絵馬

社務所 守護札授与所

祈祷受所

社殿造営御材樹幹?

恵比寿・大黒の社 
扁額は八幡宮と掲げられている

左・恵比寿 右・大黒 と奉納獅子頭

休処 甘味処 食事処

巌鷲山石碑

梅宮 安産の守護神

梅宮社殿扁額

田村了咲之句碑

笠森稲荷神社 社号標

笠森稲荷神社

笠森稲荷神社 社殿

社殿 社号扁額

神明神社 (伊勢神宮内宮御分霊社)

禅宗様的な石庭?

明治天皇御像

明治天皇産馬天覧聖址記念碑

狛犬 阿形

狛犬 吽形

手水舎

岩手護国神社 社号標

神明鳥居 参道

岩手護国神社拝殿

拝殿社号扁額

本殿

戦没者遺骨奉安殿

社務所

神楽殿

岩手県戦没者遺品館

霊璽簿奉安殿 岩手護国神社に
祀られた人の名簿を保管

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舞殿・神楽殿 新築

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永代供養塔

釣・犬猫供養塔
及び第貳拾壱番幸田観世音石塔

境内墓地

地蔵堂 酒買地蔵尊

地蔵堂扁額

本堂前庭と水子地蔵尊

本堂

本堂 山号扁額

庫裡・会館

三門彫刻

三門彫刻

三門

三門 獅子と獏

六地蔵尊

  曹洞宗 水養山永祥院
南部家旧領陸奥国三戸郡の曹洞宗古刹・白華山法光寺の住職が南部家の不来方城築城にあたって、不来方城に近い領内鵜飼に縁を得て院を開いたのが始めと云われている。その後、盛岡藩城下町割りに伴なって現在地に寺領を得て移転した。移転するにあたって藩より報恩寺の末寺となるよう勧告を受けたが、それを断ったという。結果、藩の庇護が薄かったと云われている。
永祥院とすれば本寺は三戸郡における由緒ある(鎌倉幕府執権北条時頼開山と伝えられている)古刹であり、創建年代も報恩寺より百年ほど遡り報恩寺と比べて勝るとも劣らない法光寺であるところから、それを嘉としなかったのではないかと想像できる。南部家としては報恩寺と同様に、法光寺も三戸から移転してほしかったのではないかとも思えるし、その思いが末寺の開創にとどめたことへの意趣返しの言動となったかもしれません。

  木造地蔵菩薩坐像 盛岡市指定有形文化財(平成十三年三月八日指定)
地蔵堂に安置されている地蔵菩薩坐像は、「酒買地蔵」の異名で知られ、江戸時代から地域の人々に信仰され、親しまれてきた尊像で「雑書」をはじめ諸書に紹介されています。
一木造り、素木の像で、頭部がやや大きく、膝高も高い。肘張りも肩幅と同じくらいあり、膝幅もさほど張らず、全体としてこじんまりとしている。衲衣を着け、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せていたと見られるが欠失している。彫は大まかで簡略した表現になっている。この種の作り込みのものは、江戸時代初期の地方仏師の手になるものによく見られる。制作年代を特定することは難しいが、江戸中期は下らないものと考えられている。

  酒買地蔵尊の由来
むかし、材木町のある酒屋さんに、毎晩お酒を買いに来るもの言わぬ小僧がおりました。あるばんのこと、貸した小樽を返さぬことに腹を立てた酒屋の番頭は客の小僧の頭を木槌で殴ってしまいました。けれども、よろよろと帰っていく小僧さんの身を案じた酒屋の主人は、そっとあとを付けました。このお堂の前まで来ると不思議に姿が見当たりません。驚いてお堂の中をのぞいてみると、何とかした小樽が山のようになっていました。
ふとお地蔵さんを見上げると眉間に傷がついているのではありませんか。「お客さんには親切にして御上げなさい」と酒屋さんの耳に鈴のような声が聴こえました。勿体ないことをしてしまった、毎晩このお地蔵様が化身されてお酒を買いに来られたのだと心から悔みました。
この後、親切第一に商売に励み縁日にはお酒をお供えしおまつりをしました。お店は大繁盛し、健康にも恵まれ、賢い子宝にも恵まれました。代々栄えたこの酒屋の話は江戸時代享保の頃から今に語り継がれております。
              案内説明より          

法華宗 寺号標

山門 棟門

本堂

庫裡

本堂 扁額名字即

本門八品上行所傳
南無妙法蓮華経  法界

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