宮城浩蔵
嘉永五年(1852)四月十五日、現在の山形県天童藩二万石の藩医・武田直道(玄々)の次男として生まれた。後、宮城家の養子となり、藩校・養正館に学んだ。学問を好み若くして句読師(教員)に抜擢された。維新後の明治二年(1865)、藩の命によ上京、箕作塾にてフランス語を学んだ。翌年、明治政府により優秀な人材育成を目指して置かれた貢進生に天童藩より選抜された。
大学南校(東京大学の源流)を経て、明治五年(1872)八月、司法省明法寮(後の司法省法学校)に入学、ボアソナードよりフランス語を学び、明治九年(1876)卒業、法律学士の称号を得た。同年、司法省留学生としてパリ大及びリヨン大学に足掛け四年留学し、フランス法律学士の学位を取得した。帰国後は、検事や司法省参事官などを歴任、近代日本の法典編纂に力を尽くした。とりわけ、刑法に造詣が深く『刑法講義』等の著作を刊行、パリ大学の刑法学者になぞらえて「東洋のオルトラン」と称された。
この間明治十四年(1881)一月、同じく司法省法学校で学んだ岸本辰雄先生、矢代操先生と協力し、明治法律学校(明治大学の前身)を創立、教頭として明治大学発展の基礎を築いた。帝国憲法制定後に官界を辞し、明治二十三年(1890)山形県一区より第一回衆議院選挙に立候補、当選を果たした。
また同年、代言人(後の弁護士)資格を取得、翌年には東京代言人組合会長に就任した。帝国議会では、法典論争に参加、自由主義的立場から民法・商法典の断固施行を主張した。法律家として近代日本の法典編纂や法学教育に大いなる役割を果たした。
明治二十六年(1893)二月十四日病を得て没した。享年四十一

  顕彰碑と碑文について
この石碑は、宮城浩蔵二十七回忌にあたる大正八年(1919)六月二十二日、学友の佐々木忠蔵ら郷里に人たちの手で建立されました。上部の「篆額」は、背面に「正二位勲一等侯爵・西園寺公望閣下篆額」と刻まれているように、元老・西園寺公望(1849~1940)の筆になるものである。西園寺公望は、宮城浩蔵先生や岸本辰雄先生たちと同時期にフランスに留学滞在し、帰国後は、明治法律学校の設立を援助した人物として知られている。
撰文を書いた「中江篤助」は、高知県出身の自由民権思想家で「東洋のルソー」と称された中江兆民(1847~1901)である。兆民もまたフランスに留学、哲学や民権思想を学んだ。宮城浩蔵先生と同様に第一回衆議院議員に当選したが、すぐに辞職した。碑文では、宮城浩蔵先生との交際は深くなかったと断りながら、宮城先生の人となり、経歴を記し、その業績を讃えている。なお文章は、明治二十八年(1895)建立の東京・谷中霊園にある宮城先生墓碑刻文を再刻したものである。
              案内説明より.
         

  浄土宗常念寺
当寺は「義光山常念寺」と号し、開山は陸奥国・磐城(現福島県いわき市)にある浄土宗檀林の一つであった専稱寺の末寺である壽蔵寺の末弟、良雄舜翁上人が、運慶作と伝えられている不動尊像を奉じて山形を訪れ、この地の草案を結んで「不動山明王院」と称したのが天正十一年(1583)三月と云われている。
当時の山形城主・最上義光は、愛娘の駒姫の受難(豊臣秀次謀反疑惑で切腹、眷族抹殺)にあい、浄土観に心を傾け、上洛中に深く帰依したのが、京都の浄土宗本山の一つである清浄華院の高弟で、学識高く、知行兼備の岌讃専阿上人で、義光の招きで山形に下向し、不動山明王院の三世住職となる。
慶長四年(1599)春、明王院を「義光山常念寺」と改称、寺領百石を与えて伽藍を大改修、同年八月、上洛中の義光は後陽成天皇宸筆勅願の下賜を願い出たところ、明王院当時の宗風(加持祈祷、邪気払い)で問題視されたので上人が急ぎ上洛して弁明、勅願の下賜が決まった。この際、勅願院宣書、参内式目之控書、法度書、亀鑑書の下附があり、義光は羽州における浄土宗の触頭とし、次の祝歌を残している  「みがきおく玉のひかりも吉野山空もひとつにかほるしらくも」
その後、長男・義康の菩提寺とした際、中野村の内百十石を寄進((三代将軍徳川家光代からの朱印地)した。このような由緒から江戸時代には羽州における触頭という寺格だったが、元和七年(1621)の山形大火で類焼、正徳元年(1711)中御門天皇から勅願を下賜(現存している)された。その後、文政二年、明治二十七年にも大火に遭い、太平洋戦争後の昭和四十二年、現住職代に現在の鉄筋コンクリート造りの本堂を再建、伽藍を整備した。

  最上義光嫡男・最上義康供養塔
四百余年前、山形城主の最上義光は、関ヶ原合戦の論功で、五十七万石の大大名になったが、後継者の問題で嫡男である最上修理太夫義康を廃嫡して、江戸城で德川家康に仕えていた次男の最上家親に継がせることが最上家にとって安泰につながると考え、また家康も長年仕えていた家親は信頼できる存在であったため義康の廃嫡を命じるとともに将来の禍根を断つため義康の殺害を命じた。
義康は武勇に優れ、慈愛も深く家臣からも慕われて領主の資格を備えた大器であったが、義光が義康遠ざける挙動は家臣のも敏感に伝わり、義光に媚びる家臣の一部はいろいろ策動を始めた。江戸から帰った義光は義康に対面も許さず即刻紀州高野山に登れと厳命、義康は断腸の思いで妻との別れも許されず失意の旅に出た。
義康主従一行十余人が山形から六十里街道を抜け庄内に入った櫛引町の一里塚に差し掛かったところ、義光の命を受けた刺客の一団による淒しい銃声がとどろいた。二発の銃弾が義康の腹部に命中、吹き出す血潮の中、義康は無念の自害を遂げ、全員此処で斬殺された。時に慶長八年(1603)八月十六日のことであった。
義康二十九歳、義光五十八歳であった。
義光は直ちに義康の館を捜索した処、義康の手箱から父との不仲を嘆き、神仏に父との和解を願った祈願文が見つかった。釈明の機会も与えず謀殺した義光はこれを後悔、義康の菩提を弔う為山形城下の常念寺を菩提寺として百石を与えて義康の成仏を願った。當山では「常念寺殿補天錦公大居士」と諡して供養しているが、境内地内に供養塔もなかったため、この度平成十四年八月、義康公四百回忌にあたりこの供養塔を建立した。
              案内説明より
          

  天瀧山光禅寺
光禅寺は慶長七年(1602)出羽山形五十七万石、初代山形藩主・最上義光公が、大石田の曹洞宗直末である黒滝山向川寺九世・春林禅寺冬和尚を開山として創建したものである。もとは慶長寺と称したが、年号を寺号とすることが禁じられたため、元和年間二代藩主・最上家親の時代光禅寺と改称した。当時の寺地は今の長源寺(七日町)の地に在って、寺領二百五十石の御朱印を賜わった寺で堂塔伽藍完備の寺であったと伝わる。
義光公逝去の後、三代山形藩主・最上義俊(家信)公の代に至って最上家改易の変に遭い近江国大森に移封された。元和八年十月、陸奥国・磐城平藩より鳥居忠政公が山形藩に移封(二十四万石)するに及んで、磐城より鳥居家菩提所である長源寺を招請し、光禅寺の土地・建物を長源寺にまるごと使用させたために、光禅寺は現在地に寺地を与えられ移転したものである。
その時、光禅寺門前の三日町の町民も一緒に移ってきたので、長源寺の在る元の町を元三日町と称して今日に至っている。寺は、明治二十七年五月、市南の大火に遭い観音堂を残して全焼した。その際に貴重な宝物・古文書など多数を焼失した。寺境内には、最上家三代の墓(義光公・家親公・義俊公)と義光公に殉死した四家臣の墓がある。
文化財としては本堂裏手に遠州流「心字の池」(江戸前期頃の作庭 市指定名勝)の庭園がある。他に、永和の板碑(市指定文化財)、観音堂及び輪堂などがある。永和の板碑は山形城二の丸の東北の隅にあったもので、阿弥陀信仰を現わした石塔婆です。歴史上では、最上氏の始祖・斯波兼頼公(1356年入部)が隠居地の中に建てたものと伝えられています。梵鐘は元禄十一年、京都洛陽三条の釜座、藤原國次の作である。

  光禅寺庭園
東西70m、南北30~40mの東西に長い林泉庭園である。その池は東南の滝口から西南の池尻に流れる流水式で、これに南岸から大きな出島、北岸からの細小の出島が相呼応して庭に幽玄さを添える。石組は、滝組に三巨石を立て、そこに懸る滝を二段落ちに落としている。滝口から南岸に連ねて巨岩を多く配し、岩磯風の趣が深いのに対し、手前の北岸が緩い傾斜、芝生帯で穏やかな州浜風となって彼比対象の妙を見せている。
石の質は、山形市近傍の石英粗面岩及び安山岩である。点在する石組に添えて、キャラ、イブキ等の常緑樹、サツキ、モミジ等の落葉樹の植栽が配されている。石燈籠その他の石造美術品は全く存在しないことが注目されている。今は周辺の木立が高くなりすぎて十分の効果を発揮していないが、本来は龍山、千歳山が借景となっていて、十分効果を現わしていたことでしょう。
書院上から眺める観賞本位の書院庭園の面目が偲ばれる。作庭の年代も、作者の名も明らかではないが、部分的には室町式、桃山式の面影を残すところがあり、江戸時代初期を下らないものと推定される。山形県内では最も古い庭園の一つであり、東北地方でも数指の中に入る。しかもその規模の大きい事、後世の補修を見ない事などに類の少ない価値がある。

  永和の板碑 
碑面上部に阿弥陀如来の種子(梵字)キリークと、無料壽経四十八願の一節を刻み、この卒塔婆建立の意趣と造立の年号を、永和二年丙辰八月彼岸第二番と刻んでおります。明治二十九年山形城跡が連隊となり、地均し工事の時に二之丸跡より発掘されたもので、永和二年(1376)は最上の始祖・斯波兼頼公が城内に草案を結んで出家した翌年にあたります。

  山形藩最上家三代の墓
初代藩主・最上義光 慶長十九年(1614)一月十八日逝去
享年六十五 「光禅寺殿玉山白公大居士」

二代藩主・最上家親 元和三年(1617)三月六日逝去
享年三十六 「盛光院殿安景道長大居士」

三代藩主・最上義俊 寛永八年(1631)十一月二十二日逝去
享年 二十六 「月照院殿華嶽英心大居士」

  山形藩初代藩主・最上義光家臣殉死四名  慶長十九年(1614)二月六日

長岡但馬守 「賞通義忠居士」
山家河内守師兼 「即永了心居士」
寒河江肥前守広俊 「直庭是正居士」
寒河江十兵衛元茂 「活翁快吉居士」
              案内説明より
         

  無量山誓願寺
無量山遍照院誓願寺は、京都東山の智積院を総本山に、成田山新勝寺・川崎大師平間寺・高尾山薬王院を大本山とする真言宗智山派に属する寺院です。今から六百有余年前の北朝・延文元年(1356)八月、初代山形領主斯波兼頼公が、奥州大崎(宮城県大崎)より毘沙門天を奉じ、無魔入部(山形市中野、現在その地には観世音菩薩石像を祀る)に一宇を建立し、誓願寺と号した。且つ世人の信仰多く、東北は勿論、関東方面よりも参詣があり、當山の毘沙門天は福の神、出世、腰押しの神として、縁日には山門列をなしたと云う。
特に関ヶ原の戦いには、東軍についた最上義光公、東軍の将徳川家康公の命により、城下十日町・三日町・八日町の人々百八人、當山住持・尊養法印と共に、湯殿山に四十八日間の山籠戦勝を祈願したと伝わる。この功により家康公より褒賞に湯殿山行者宿(道者宿現在指定の旅館)の褒賞をうけて以来、文化、商業の中心街として明治初年まで繁栄した。
當山は末寺十九ヶ寺を有する中本寺であった。明治十九年以来、三回火災に遭い、現在の諸堂は昭和二十七年本堂、庫裡は昭和五十年再建のものです。境内には、博労(馬喰)衆をはじめ、近江商人が訪れ紅花の豊作と馬の安全を祈願し石塔を奉納した。また、「やぎみす」地蔵の石像には、聞くも哀れな物語が語り継がれています。
湯殿山石塔には、湯殿山信仰の一端を知る事が出来るとともに、道者宿の盛況、南(山形城の南)の繁栄をうかがい知られ、世にも珍しい牛頭・豚観音石塔があり、毎年畜類の供養を行っている。
山形三十三観音・第十七ん番札所
弘法大師四国最上八十八ヵ所第十三番札所
山形百八地蔵尊第二十四番札所

  やぎすみ(おにぎり)地蔵
昔、寺の近くに母親を亡くした子供が住んでいました。新しい母親が来ましたが、先妻の四歳になるその子には食事もろくに食べさせませんでした。ある日、この四歳の子供に「やぎすみ」を持たせて、「石の地蔵さんに食べさせてきな、お地蔵さんが食べたらお前にも飯を食べさせてやる」と言いました。
子供はお地蔵さんに「やぎみす」を供え、小さな手を合わせて、「お地蔵さん!お地蔵さん!どうか食べてください」と一生懸命にお祈りし、泣きすがりながらお地蔵さんの口元に「やぎすみ」を持っていったところ、その真心が通じて食べてくれました。この事を知った継母は、今までの自分の愛情のない冷たい心を悔い改め、わが子同様に育ててくれました。
             案内説明より
           

東北の社寺めぐり4

山形市の寺院    山形市の神社

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  紫光山極楽寺
極楽寺は、今から四百二十年ほど前の戦国時代に、福島県いわき市にある如来寺から来られた良全上人によって開山された。宗派は法然上人が開かれた浄土宗で、総本山は京都の知恩院になります。 大火を防いだ仏足石など、多彩な伝統と古蹟を有し、庶民の熱い信仰を今に受け継いでいる寺院です。 ここ、山形市六日町は、現在は山形県郷土資料館「文翔館」となった旧県庁があったところで、官庁の支所や官舎等で発展した町です。かつては、羽州街道沿いのにぎやかな街で、仕立屋、畳屋、石屋など伝統職人さんが多く住んでいました。 当寺には、後藤小平次、松平大和の守の御殿医や市川団次など有名なお墓があります。

  木造阿弥陀如来坐像(山形県指定重要文化財) 
このお寺に伝来する阿弥陀如来像は、もと末寺の念仏寺本尊であったと伝えられています。 念仏寺は、念仏の法会が万日も続くがごとく盛んであったことから「万日堂」とも呼ばれたといいます。江戸時代期には山形大名より広大な土地を与えられたといいますが、近代初期の廃仏で廃寺となり、その跡地が今は文翔館となっています。 念仏寺が廃寺となるにあたって、この仏像は本寺である極楽寺に移され、その本堂から続く位堂の本尊となっています。

  小豆地蔵菩薩
極楽寺の門前に八角の鞘堂に祀られている地蔵が小豆地蔵。 背丈は2.5mと大きく、正徳二年(1712)安置されたと伝えられています。 福島の高僧、無能上人の開眼によるものといわれ、北前舟の返り船で上方から運びこまれて来た巨石に刻まれたものです。地蔵のからだも顔ものっぺらぼうですが、これは火災や水害にあって摩滅したものとみられます。  明治のはじめ、森谷善四郎という剣客が地蔵堂の前で餅屋を開店しました。 地蔵さまは小豆餅が大好きだというので、参詣する人たちがこの餅屋で小豆餅を買って供えたので、いつの頃からか「小豆餅地蔵」というようになりました。

  文和五年阿弥陀如来板碑(山形市指定有形文化財) 平成二年三月三十一日指定
安山岩の自然石を用いた板碑で、上部に阿弥陀如来の種子(梵字)キリークを刻み、その下に文和五季丙申(以下不明)と彫られています。
昭和四十六年秋、極楽寺境内の土中から発見されたもので、本来は月日や造立趣旨なども刻まれていたと思われますが、摩滅していて読み取る事が出来ません。頭部は少し欠けていますが、総高(現長さ)80.0㎝、幅43.0㎝、厚さ32・0㎝。文和五年(1356)は山形城の始祖といわれる斯波兼頼が羽州管領(羽州探題)として山形に入部した年にあたります。当時の歴史や宗教文化を知る事が出来る貴重な資料です。
              oshironomise.com/gokurakujiより転載
        

奈良時代の天平十三年(741)、聖武天皇の勅願により諸国に国分寺と国分尼寺が建立され、古代律令国家による宗教政策の一つとして鎮護国家、鎮災致福を説く仏教を中央集権、仏教興隆の強化のための精神的支柱として建立された。
此の出羽国・国分寺が何時の代に此処に移ったかは不明でありますが、桃山時代の「最上山形城下絵図」にも明記されており、江戸時代の文献にも「聖武帝勅願国分寺薬師堂」と書かれています。
別当寺・護国山柏山寺に残る文献の信頼する由緒書きに依って明記しますと、

天平時代、聖武天皇の勅命により、行基菩薩が開山の後、鎮守府将軍・大野東人が七堂伽藍を造営し、
  公田壱萬畝歩を寺領として献じた。
貞観年間(平安時代前期859~877)慈覚大師が当地を訪れたとき中興し、それより天台宗に属した。
康平六年(1063)、前九年の役後、源頼義が堂塔を再興し、その後鎮守府将軍・藤原秀衡が再興し、 さらに建久年間(鎌倉時代前期1190~1198)北条政子(後、鎌倉二位禅尼と称す)の命により大江広元が堂塔を修復した。
最上家の祖・斯波兼頼が出羽国按察使将軍として陸奥国大崎より入部し、延文五年(1360)金堂塔を造営した。
戦国時代の山形城主・最上義光が、その衰退荒廃深く嘆き、天正二年(1574)寺領三百二十石を寄進し、 
堂宇を建築し、山形城の鬼門擁護の霊場と定められた。

最上家改易後、その寺領は江戸幕府から御朱印で安堵され、二十三の末寺を持つ江戸上野・東叡山寛永寺の直末として、地方の天台宗の触頭(中本寺)として栄え、安政二年(1855)江戸で発行された「東講商人鑑」という本には、羽州村山郡山形国分寺図と題し、当処の光景を挿画として載せられています。
現在の金堂は、明治四十四年五月八日の市北部の大火により類焼し、鳥有に帰したるを以て、その翌年真言宗の触頭であった地蔵町(現 東原町)の寶幢寺本堂を移し建てたものです。
また県会議事堂の出来る前は、この金堂で第一回の県議会が開会された御堂です。
              案内説明より
          

  大悲山圓應寺
延文元年(1356)、斯波兼頼公が山形城主として山形に入部の際、築城のしばしの間城の鬼門と言われる北東方角に位置した現在地に仮小屋を建て、弘法大師作と伝えられる、自身の兜の前立てとして付けていた聖観世音(五寸の黄金像)を、守護仏として奉安したことに始まる
兼頼公は後に最上家を名乗り、最上家が改易になる元和八年(1622)まで二百七十年年に亘り、歴代の城主は円応寺観音の信仰厚く、多くの寄進とともに立派なお堂や塔が建ち並び、寺領も広大であった。しかし最上義俊の時代に火災に遭い、建物・宝物等を消失。幸いにも尊像は難を免れたものの、最上家改易とともに衰微の一途を辿ることとなった。
貞享三年(1686)真言宗の存了律師が再興を発意、光有律師と協力して円応寺の再興とともに観音堂の建立に着手。享保年間(1717~1735)に入り、比丘光厳律師が寺町の住人・宗寿房を助手として、頭・肩・腕など六部分からなる釘一本使わない金箔をまとった木造の大観音坐像を彫刻・完成させた。1.05mの蓮台の上に座高3mの坐像は東北一の観音像と言われている。此の完成を機に御本尊は秘仏として胎内に納められ、「腹ごもり観音」として、三十三年毎に「御開帳」されることになった。
平成に入って初めての御開帳(十八年)は、大法要・御詠歌講員による奉詠・稚児行列等が行われた。開催三日間、山門までの行列ができる多くの参拝者が訪れた。圓應寺観音はふくよかな眼差しで参拝者を迎え、家内安全・招福除災の他、「良縁・子宝・安産」の観音としても多くの信仰を集めて来た。当観音は、最上三十三観音第四番札所であるとともに山形三十三観音打ち止め霊場でもある。
一方圓應寺は、昭和五十七年に墓地移転整備事業、五十八年庫裏・鐘楼・山内整備事業を完成。続いて平成七年、二年半に及ぶ大工事の末、新本堂・位牌堂・客殿が見事に完成し、寺院は一変した。本堂は寺の創世紀である室町時代の質素と優雅さを併せ持つ「室町風本堂」として設計・建設された。内陣正面右奥に本尊地蔵菩薩(山形・村山四十八地蔵第四番)、左に不動明王が安置されている。
寺宝として江戸時代の「地獄図絵」「曼荼羅」「涅槃図」「西国各三十三観音像」の他、境内には山形市有形文化財指定・延文二年の板碑、戦時中の拠出を免れた元禄十三年(1700)の梵鐘、最上三十三観音石像、石碑曼荼羅、参道敷石供養碑、善光寺参りの途中大地震に遭って助かった御礼として祀った善光寺如来、雷神そして寺庭には高さ5mに及ぶ弘法大師修業像が、遙か高野と四国を向いて立っている。
             圓応寺HPより転載

  延文二年板碑 (山形県指定有形文化財)昭和三十四年十二月四日指定
山形の開祖と仰がれる斯波兼頼(最上氏の祖)が、山形に入部して山形城を築城中、仮谷をこの地に構え、崇敬する観音像を安置し大悲山圓應寺と号したことが伝えられています。その円應寺境内に立つこの板碑(供養のための石塔婆)は、安山岩の自然石を用いた素朴なものでありますが、上部にサ・バーンの結合種子(梵字)を彫り、その下に「延文二天丁酉八月三日」の刻銘があります。
延文二年(1357)は北朝の年号で、南朝の正平十二年にあたりますが、山形城はこの年に縄張りされたと伝えられています。当時のことを偲ぶ貴重な考古資料でありますが、この年に造立された板碑が山形市内では幸町の正楽寺、飯塚町の楊柳寺にも立っております。

  善光寺地震如来像のいわれ
今から百七十年前の弘化四年(1847)に信濃・善光寺にて御開帳が行われ、山形から新鍛治町・田中源兵衛、山家村・一明院妻、圓應町・鈴木長太郎妻きの、宮町・鈴木栄次妻やゑの四人が旅立ち、旧暦三月二十四日に念願の善光寺如来(前立本尊)を拝し旅籠にくつろいだ。ところがその夜突然大地震が起こり、次いで大火事となり一瞬にして修羅の巷と化してしまった。
山形の四人は出口も分からず大騒ぎの時に戸外から「ここから出よ、ここから出よ」と叫ぶ声が聞こえたので、それを頼りに飛び出して幸いにも命が助かった。やれ有り難やと呼び声の主を見廻したがその人は見当たらず、「さては善光寺の如来さまのお助けの声であったのか」と感激し、命からがら山形に帰ってきた。
そして翌年、地震に遭った当日に仏恩放射のため四人が願主となり、更に圓應寺町・笹原駒之助母せき、薬師町・佐藤与惣兵衛妻と江、六日町・木澤屋与七妻ちく、宮町・小松長兵衛、圓應町・髙橋庄蔵妻もんが寄付をして、山形圓應寺に建立されたの、がこの善光寺地震如来像である。それより地震のあった旧暦三月二十四日には子孫相受けて年々祭礼を怠ることなく、今日もなお続けられているのである。
また信濃善光寺境内にも、この大惨事で亡くなった参詣者一千五百余名のために、供養の地震塚が建立されてある。
              案内説明より
        

山形市寺院へ

山形市寺院へ

禅寺に建てられている石標がある

寺号標 山門銅板葺薬医門

門前 各種供養塔等

庫裡

梵鐘

鐘楼

寺号標

門前

切り倒された切株 ヒマラヤスギ
新しい切株で木の香りが全山に漂う

参道 山号石標

本堂

寺務所 会館 旧本堂?

本堂 山号扁額

本堂

参道

三門 切妻造鉄板葺薬医門

本堂
入母屋造銅板瓦葺唐向拝付

庫裡

山形市寺院へ

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

山門 切妻造銅板葺三間一戸薬医門

境内樹木

  天台宗六椹観音
当山は正式名称を六椹山妙法寺宗福院と号し、天台宗に属する寺院で、総本山は比叡山延暦寺である。和銅元年(708)、行基菩薩により開基され、貞観二年(860)慈覚大師により中興開山されたと伝えられる。本尊の聖観世音菩薩、得大勢至菩薩は、行基菩薩の自作と伝えられている木造の仏で、秘仏となっている。
六椹観音は、天台宗の高僧・慈覚大師円仁の中興になる観音霊場として名の知られた寺院である。貞観二年(860)慈覚大師が巡錫の砌、観音堂の六隅に眼・耳・鼻・舌・身・意の六根如是(人間完成)と、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道の六趣解脱(極楽往生)の現在と未来の二世安楽を祈り築塚、六本の椹(苦抜き)を植樹、一堂六岳で七髙山妙法寺(如法寺、如来寺とも伝わる)宗福院としたので六椹の名称が生まれたと云われている。
延久三年(1071)、源頼義公が勅命を奉じて陸奥・出羽の賊徒征伐の為下向途中、当所の地名の六椹が陸奥苦抜き(むつくぬき)と音便が通ずるので不思議に思い戦勝を祈願した処、賊乱を平定(前九年の役)出来たので観音堂を建立し寄進した。以来、山号も六椹山となったと伝えられている。山形の初代城主・斯波兼頼公をはじめ、最上義光公や代々の藩主は、四十四石の寺領や堂塔を建立寄進し、鎮護国家の霊場として特に崇敬したと伝えられている。
江戸時代になっても幕府は同石高の朱印状を発状、寺領を安堵している。江戸幕府五代将軍徳川綱吉公は葵の紋入り御簾を奉納、八代将軍徳川吉宗公は高野槇を献木するなど皈依が深かったと云う。
斯波兼頼公より五代目の城主・斯波左京太夫頼宗公の息女・光姫という方が、特に観音信仰が篤く、親の追善供養に三十三の観音霊場を巡礼したことが最上札所の始まりだと伝えられています。江戸時代になると山形札所が始まり、その第一番、最上新西国札所第一番、新八十八ヵ所札所第十二番、川東札所第十九番、東向札所第七番として古くから民衆に親しまれてきた霊場である。
しかし、明治維新の神仏分離令及び廃仏毀釈運動以来、朱印地を失うなど管理が手薄になり、再三の火災にも遭い、庫裡や寺宝等一切を失ってしまいました。千二百五十年余の歴史を有し、山形市南部最古の名刹と云われながら、記録文書等はほとんど現存しない。それでも不思議と観音堂だけは災禍を免れ、享保九年(1724)建築の棟札や板札、德川家の葵の紋入り御簾、同時代製作と伝わる賽銭箱、法華経八巻の奉納写経軸などがあり、郡部の老人の間には今でも子育地蔵の由来を物語る伝説が伝わっていて、歴史の重厚さを偲ぶ事が出来る。
               案内説明より
ちなみに、一般には椹は「さわら」と読み、ヒノキ科ヒノキ属の高木針葉樹であり、木曾五木の一つであり尾州藩が保護。くぬぎは「栩」あるいは「椚」と表し、高木落葉樹でドングリという実を付ける。椹を「くぬぎ」と読むのは山形県独特の読み方で、この六椹観音の影響であろうか詳しい事はわからない。



浄土宗 水上山清泉院正明寺
  
山形市十日町3-8-33

  髙雲山松岩寺
岩松寺は山形曹洞宗龍門寺十一世・鸑峯良鷟大和尚により開山された。開基は出羽探題最上家六代山形城主・最上義秋である。当寺は六代山形城主・最上義秋の菩提寺として山形市片町(現七日町)付近に創建されたと伝えられている。
義秋公は文明十二年二月二十六日(1480)逝去 享年は不明である「隣江院殿松岩榮公大居士」

江戸時代初期、最上家十一代山形城主・最上義光の時代、山形城拡張整備の為、三之丸北の小橋町・小橋口付近(現在地錦町13-18)に移された。江戸時代中期、天明五乙巳年(1785)火災で焼失したがその後再建された

  青麻神社
大正十三年、古来より中風除け大權現として尊崇される宮城県宮城郡 岩切村青麻山(現 仙台市宮城野区)より分霊し祀った。翌大正十四年現在地に新築遷座された。
             案内説明より
          



曹洞宗 髙雲山松岩寺
  
山形市錦町13-18



曹洞宗 来迎山泰蔵寺
  
山形市宮町4-2-28

  丸橋忠弥居住跡(丸橋忠弥に関する伝説)
山形市相生町七ー五十六、天台宗・秀蔵寺の西隣の屋敷に、むかし丸橋忠弥が住んでいて、宝蔵院流の槍術を指南していたが、忠弥由比正雪の徳川幕府転覆事件(慶安四年・慶安事件)に参加して江戸で捕縛され、慶安四年八月十日、品川の鈴ヶ森で処刑されてから荒廃してしまったと伝えられている。なお、丸橋忠長宗我部盛親の子で、長宗我部盛澄といい、母に抱かれて出羽に逃れて山形城下の近郊渋江村に住み、長じて山形に出て、当時寒河江街道であった百姓町(現在地)に居住したと云われている。なお、丸橋は母の生家の名である。
               案内説明より
        



天台宗 秀蔵寺
  
山形市相生町7-56



浄土真宗大谷派 浄善寺
  
山形市緑町3-7-72




浄土真宗大谷派 最上山専称寺
  
山形市緑町3-7-67

  護法山善龍寺
本尊は阿弥陀如来。創立は天正十八年年(1590)、開山は釈明宗尼、開基は釈明順。寺伝によれば同寺は駒姫の乳母役だった釈明宗尼によって開かれたとされる。駒姫の乳母が寺を開くにはそれ相当の理由があったと思われるが、夫の菩提を弔う為に出家して開いたのでしょう。夫又は尼の実家は分らないが、釈家?は寺を開創するそれ相当の財力があったと思われる。義光公の夫人は最上家の主筋に当る大崎家の出であるとするとそれに連なった家柄でしょう。また、後に秀次事件により死罪となった義光の娘の戒名にも釈尼の名が有るので関係が深いかもしれません。
                                   



浄土宗 来迎寺
  
山形市七日町4-4-16

  瑞雲山法祥寺
当寺の創建は応永二十年(1413)、山形城の城主で最上三代宗家、最上満直により開かれたのが始まりとされます。応永二十三年(1416)、又は応永三十一年(1424)に満直が死去すると法祥寺に葬られ、戒名「法祥寺殿念叟親公大居士」が送られています。以来、歴代最上家に庇護され寺運が隆盛し、隣地には正室(会津領主芦名盛政の娘、戒名:建昌寺殿信宗心公大姉)の菩提寺である建昌寺が明応三年(1492)に当時の住職竹用松大和尚により開山しています。
江戸時代初期に山形城の拡張の為現在地に移され、その際、城主最上義光により伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)の分霊が勧請され当寺の鎮守社で当地の守護神として幸稲荷神社が創建されています。元和八年(1622)、山形藩三代藩主最上義俊は御家騒動の為、改易となり、後に近江国蒲生郡1万石で配されましたが、寛永八年(16311)に失意のまま江戸藩邸で死去、享年二十三。
翌年となる寛永九年(1632)には寒河江出身の者が最上家縁の法祥寺境内に義俊の供養塔(五輪塔)を寄進しています。その後も歴代山形藩主に庇護され、特に堀田正虎が篤く帰依し、観音堂の造営と、聖徳太子が崇峻天皇十六歳の時の御姿を彫刻したと伝える観音像(子育て観音)を寄進しています。山形三十三観音霊場第二十一番札所(札所本尊:子育て観音、伝:聖徳太子作)
              山形歴史観光dewatabiより転載



曹洞宗 瑞光山建昌寺
  
山形市七日町4-1-22



曹洞宗 玉翁山法昌院
  
山形市諏訪町2-1-48



曹洞宗 常林禅寺
  
山形市諏訪町2-1-52



浄土宗 天神山専光寺
  
山形市諏訪町2-1-71

観音堂
最上新西国三十三観音第五番札所  山形三十三観音第十六番札所



浄土真宗大谷派 鳴澤山隆勝寺
  
山形市小荷駄町1-1



曹洞宗 天瀧山光禅寺
  
山形市鉄砲町2-5-7

本堂 入母屋造桟瓦葺一間唐向拝

向拝 木鼻 獅子と鳥彫刻 鳥の彫刻は数が少ないので珍しい

向拝部は式台玄関の書院造り

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曹洞宗 満林山法恩寺
  
山形市八日町2-3-45



真言宗醍醐派 瑞應山龍寶院 
 山形市鉄砲町1-1-7



日蓮宗 法喜山玄妙寺
 
 山形市八日町2-3-50

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天台宗 金鳥山正楽寺
  山形市幸町5-22



天台宗 般若院
 
 山形市八日町1-3-41

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祖神社



曹洞宗 正覚寺
  
山形市北山形2-3-11

  曹洞宗龍門寺
龍門寺の創建は文明二年(1470)、最上家六代当主で羽州探題を担ったとされる最上義秋が兄である最上義春(五代当主)の菩提を弔う為に開いたとされます。(義春の没年は文明六年(1474)説もある為、矛盾があります)。
寺号は義春の戒名「龍門寺殿天直源公大居士」に因み龍門寺と号しました。元亀元年(1570)、前当主最上義守と息子で十一代当主最上義光が対立、元亀二年(1571)義守は出家し「栄林」と号し一線を退きましたが天正二年(1574)に再び対立が激化した事で伊達家や周辺国人領主を巻き込む争乱となり、和議の条件として義守の龍門寺の隠遁が決定されました。
義守は天正十八年(1590)死去。享年七十 法名 「龍門寺殿羽典栄林義公大居士」
菩提は龍門寺に葬られています。
当初は、山形城の城内にありましたが義光により慶長年間(1596~1615)に現在地に移され寺領百八十石を安堵され、江戸時代に入ると幕府が庇護し三代将軍徳川家光から朱印状を賜っています。境内には義春、義守の墓碑の他、五百羅漢像を安置した羅漢堂(宝形造、銅板葺、1間軒唐破風向拝付、外壁は土蔵造白漆喰仕上げ、向拝には力士像や龍、獅子、仙人など精緻な彫刻が施されています)、山門、鐘楼、回廊、本堂などが建立され、寺宝である袈裟(伝:峩山禅師着用)は山形県指定有形文化財に指定されています。
山形三十三観音霊場第三十二番。最上西国三十三観音霊場第十三番。
              dewatabi.com/より転載
          



浄土宗 授手山迎接寺
  
山形市銅町1-3-21



真言宗智山派 大悲山圓應寺
  
山形市宮町4-16-33



浄土真宗本願寺派 光隆山圓稱寺
  
山形市相生町7-8

観音堂
山形三十三観音霊場第二十七札所 最上西国三十三観音霊場第十二番札所



浄土宗 往生山浄光寺
  
山形市相生町8-26



浄土宗 紫光山九品院極楽寺
  
山形市六日町9-8

医王稲荷神社
柏山寺金堂薬師堂近くの医王稲荷神社があるが国分寺に祀られていたのかもしれませんので



浄土真宗大谷派 寶樹山寶林寺
  
山形市緑町3-8-1

齋藤茂吉万葉仮名歌碑
 意野豆香良  善乎積太留  代々遠経而  白玉之波奈  仁宝布加如し
 オ ノ  ツ ゙カ ラ    ゼンヲツミ タ ル    ヨ ヨ  ヲ ヘ テ    シラタマノ ハ ナ   ニ ホ フ ガゴトシ



浄土真宗大谷派 浄現寺
  
山形市七日町4-4-27



浄土真宗大谷派 寶華山圓徳寺
  
山形市緑町3-1-15



浄土真宗大谷派 三寶山見聞寺
  
山形市緑町3-2-22



浄土真宗大谷派 東林山正願寺
  
山形市緑町3-4-5



浄土真宗大谷派 唯法寺
  
山形市緑町3-1-24

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

山門 切妻造銅板葺三間一戸薬医門



浄土真宗大谷派 一向山西稱寺
  
山形市緑町3-2-11

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

山門 切妻造銅板葺三間一戸薬医門



浄土真宗大谷派 供養山願重寺
  
山形市緑町3-1-28



浄土真宗大谷派 華臺山圓壽寺
  
山形市緑町3-2-6

  真宗大谷派 本龍寺
創立は正徳年間(1711-1715)と伝えられている。昭和五十五年四月一日の火災で本堂などが焼失、山門だけが残っている。再建計画が検討されているかはわからないが、四十年の時を考えると、また、今の時の速さを思うと。当然無住であろうし、兼務の住職さんであろう。本寺と思われる専称寺の考えもあろうかと
                                   



浄土真宗大谷派 本龍寺
  
山形市緑町3-1-28

線画で刻された仏像塔
明治三庚午歳三月吉日 願主庄司○○



真言宗智山派 摩尼山地蔵院
  
山形市東原町1-12-3

大悲殿(観音堂?)
山形三十三観音霊場第二十四番札所



曹洞宗 淵室山長源寺
  
山形市七日町3-3-3



臨済宗妙心寺派 寶雲山大龍寺
  
山形市七日町5-10-6



日蓮宗 妙法山本久寺
  
山形市七日町5-9-21

本堂 厄除祖師堂  日蓮宗大寶寺の塔頭寺院



日蓮宗 妙了山宗善院
  
山形市七日町5-10-49



日蓮宗 妙了山大寶寺
  
山形市七日町5-10-49

本堂 入母屋造銅板葺妻入一間千鳥破風向拝  左二層塔は鐘楼 右二層塔は太鼓楼



浄土真宗本願寺派 白鳥山明善寺
  
山形市七日町5-9-3

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真言宗智山派 大日山正福院新山寺大日堂
  
山形市小姓町11-13



真言宗醍醐派 成田山帰命院
(成田山新勝寺分院)
  山形市十日町2-5-7

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最上義光公嫡男最上義康公供養塔 
慶長八年(1603)八月十六日歿 享年二十九 「常念寺殿補天錦公大居士」

観音堂
最上新西国三十三観音第四番札所  山形三十三観音第十一番札所



浄土宗 小白善山實相寺
  
山形市十日町3-8-45

本堂
入母屋造銅板葺 一間唐向拝  山形百八地蔵尊第二十一番霊場  最上四十八地蔵尊第十二番霊場



浄土宗 正覚山清浄院梵行寺
  
山形市三日町2-1-52



天台宗 松岳山三蔵院聖徳寺
  
山形市三日町1-4-3



真言宗智山派 無量山遍照院誓願寺
  
山形市八日町2-5-16

山門 寺号標札
日蓮宗総本山身延山久遠寺直末



日蓮宗 本眷山浄光寺
  
山形市八日町2-4-35 

海門之松
伝・海門守信大和尚(寛文十年十月十三日寂)植樹の松 



臨済宗妙心寺派 髙寶山勝因寺
  
山形市鉄砲町1-4-8



臨済宗妙心寺派 慈雲山蔵龍院
  
山形市八日町2-4-60



天台宗 六椹山妙法寺宗福院
  
山形市鉄砲町1-2-20

観音堂 山形三十三観音五番札所

  浄行菩薩堂縁起
當山に安置し奉る浄行菩薩は、法華経従地涌出品において、教主釈尊の召命に応じて大地より涌き出した本化地涌の菩薩の上首たる四菩薩(上行・無邊行・浄行・安立行)の中の一菩薩である。この浄行菩薩は特に水徳を具足せる菩薩にして、その御威徳は甘露の法雨を以て一切の群生に灌ぎ、煩悩の焔業障の焔罪報の焔を滅して衆生を哀眠利益せる菩薩なり。
よってこの菩薩様の頭に一度法水をお掛けすればその人の罪障悉く消滅し、病に患いし処に法水をお掛けすればその病怱に平癒すると伝わる。
             案内説明より
             

  寶光院本堂 山形県有形文化財(昭和三十二年三月一日指定)
妙圓山形照寺寶光院は、慈覚大師の開基と伝えられており、旧寺地は山形・中野(山形JCT付近)にありました。慶長六年(1601)、山形城主・最上義光の帰依により現在地に寺地を賜り移転しました。
本堂は、桁行九間半・梁間六間の寄棟造りで、屋根は銅板葺(もとは茅葺)です。中央やや南寄りに玄関を設けています。軒下の小壁は漆喰塗で、窓には舞良戸と障子を入れ、腰には羽目板を張っています。このように、外観は地方的特徴が強いですが、素朴で優美な書院建築です。
現在この本堂は、最上氏退転のあと山形場内の建物を移築したものと云われていますが、確かな事はわかっていません。なお、近年解体修理を行った際に貞享五年(1688)の墨書銘が発見され、少なくともこれより以前の建築と考えられています。
               案内説明より
         

山形市寺院へ

境内樹木 百日紅

境内墓地

青麻神社

庫裡

境内樹木

境内樹木

山形市寺院へ

境内墓所

歴代住職供養石塔

歴代住職供養墓

向拝 力士像阿形

羅漢堂扁額

羅漢堂

本堂(佛堂)

本堂 寺号扁額

客殿 僧堂(坐禅堂)



曹洞宗 龍門寺
  
山形市北山形2-3-7

山形市寺院へ

観音堂
最上新西国三十三観音霊場第十五番札所

観音堂扁額

鐘楼

梵鐘

宝篋印供養塔

永代供養墓

梵鐘

鐘楼

大悲大慈観世音菩薩

圓応寺観音

境内樹木 櫻

本堂 入母屋造銅板葺一間唐向拝

弘法大師修行像

本堂 寺号扁額

山門 寺号扁額

最上三十三観音石像

庫裡

慈母観世音菩薩像

境内庭

境内墓地

境内樹木 銀杏

稲荷神社 扁額金光殿

金光月山 大聖荼呮尼天石標

稲荷神社鳥居扁額
墓地の裏山に祀られている

大聖荼呮尼天 稲荷社

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

本堂扁額

庫裡

庫裡 会館

観音堂 千手観世音菩薩

寺務所 浄土宗山形教区教務所

山形市寺院へ

唐破風向拝

本堂 宝形造桟瓦葺土蔵唐向拝付

小豆地蔵堂

袋に詰めた小豆の供物と
気になる敷紙

地蔵堂扁額

小豆地蔵菩薩

文和五年阿弥陀板碑

水子地蔵菩薩像

庫裡 会館 信楽殿

山形市寺院へ

社務所 祭礼の時のみ使用?

明治大学創立者 宮城浩蔵顕彰碑
西園寺公望篆額 中江兆民撰文

人を恐れない鳩の様

薬師堂 入母屋造桟瓦葺廻り縁付

手水舎

薬師堂

庫裡 会館

鐘楼

梵鐘

柏山寺 国分寺薬師堂(柏山寺本堂)

山形市寺院へ

上記、本龍寺から寶林寺までの十四寺は専称寺を中心とする真宗大谷派に属する寺院群である。
乃ち専称寺の塔頭寺院とし脈々と続いていたが、今は独立した宗教法人となっている。

本堂 山号扁額

庫裡

永代供養塔
南无阿弥陀佛と刻されている

山形市寺院へ

本堂 入母屋造銅板葺一間向拝付

本堂 山号扁額

歌碑文

当山開基
豊臣秀吉家臣横山蔵人頭長俊碑

山門 標札
唐破風造銅板葺平入高麗門?

高麗門

平唐門

山門

本堂と桜
入母屋造銅板葺入母屋向拝

境内樹木 銀杏

庫裡

庫裡

境内墓地

本堂 入母屋造桟瓦葺一間流向拝

山門 寺号扁額

山門 切妻造桟瓦葺薬医門

境内墓地

庫裡

本堂 山号扁額

本堂 寄棟造銅板葺 一間唐破風向拝

山門 桟瓦葺三間一戸薬医門

山形市寺院へ

本堂 寺号扁額

本堂

山門 寺号標札

境内の庭

茶室

竹林の露地門

山形市寺院へ

境内墓地

歴代住職舎利供養塔

永代供養墓

本堂 寄棟造銅板葺一間流向拝

本堂 山号扁額

親鸞聖人七百五十回遠忌記念建立

山形市寺院へ

境内墓地

山門

山門

本堂 入母屋造銅板葺一間向拝

本堂

本堂

境内樹木 園児の遊び場ともなる

境内の多くを占める幼稚園 
専称寺学園として多数の幼稚園・保育園を経営している

境内大銀杏 市指定天然記念物

山門 蟇股

山門 軒木組み

山門 切妻造桟瓦葺一間四脚門

寺号標

山形市寺院へ

本堂

庫裡・会館

境内墓地

山門 寺号扁額 唐破風鬼瓦

金色鯱を載せる

山門 
白漆喰塗桟瓦葺龍宮門形式楼門

本堂 山号扁額

本堂 向拝虹梁

庫裡・会館

山形市寺院へ

梵鐘

庫裡

鐘楼

境内墓地

本堂 向拝柱と虹梁

向拝柱木鼻獅子彫刻

庫裡

境内墓地

庫裡

本堂向拝虹梁

山門 雲形蟇股

山門 

寺号標

山形市寺院へ

山門 標札

山門 棟門

稲荷社

三門 南門 
この門が常林禅寺の正山門でしょうか

俱會一處供養塔 南無阿弥陀仏

供養塔・記念塔・社の祠

愛犬・愛猫供養塔

本堂 山号扁額

本堂

山形市寺院へ

本堂 山号扁額

本堂

桜の樹幹の朽ち部

山形市保存樹 イチョウ

庭園

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

本堂 寺号扁額

本堂 阿弥陀如来像

庫裡

境内墓地

歴代住職供養墓

大悲殿 正面

来迎寺大悲殿参道

地蔵菩薩の前の橋は「愛浩のわたし」
と称するようだ 地蔵の童顔から察すると

六地蔵尊

向拝木鼻獅子彫刻

本堂 向拝彫刻

地蔵菩薩
山形百八地蔵尊第十九番霊場

境内の祠

山形藩家老・水野右衛門元宣
終焉の地碑

庫裡

地蔵菩薩

歴代住職墓所

梵鐘

鐘楼

観音堂

本堂 入母屋造銅板葺一間軒向拝

本堂 向拝

三門 寺号標札



曹洞宗 瑞雲山法祥寺
  
山形市七日町4-8-35

山形市寺院へ

鐘楼

梵鐘

多重石造供養塔

本堂 庫裡

七福神像

山門 出羽七福神の辯財天を祀る

山門

山門と右横・阿育王法勅柱頭 
獅子を戴く石塔

鐘楼

梵鐘

湯殿山等の記念塚

象頭山石標 金毘羅宮とご縁?

釈迦如来像

妙見宮 妙見尊を祀る

薬師堂扁額

薬師堂 薬師瑠璃光如来を祀る

本堂 参道には仁王像が出迎える

本堂

日蓮上人像 頭部は青銅製

庫裡

妙法蓮華経石塔

山門 山号扁額

山門 銅板葺薬医門と寺号標

山形市寺院へ

本堂 唐向拝

入母屋造銅板葺一間唐破風向拝

山門 山号扁額

切妻造銅板葺一間一戸薬医門

境内墓地 五輪供養塔

境内墓地 亀趺墓誌のような墓

歴代住職供養塔

日本国中三十神社神を祀る
熱田明神・鹿島明神・稲荷明神等々

神仏習合殿

最上位経王大菩薩(稲荷大明神)

歴代住職供養墓

三界萬霊供養塔

兼頼公供養墓石

本堂 寺号扁額

庫裡

境内



時宗 遍照山光明寺
  
山形市七日町5-2-12

山形市寺院へ

境内樹木

鐘楼

庫裡

山形市寺院へ

大黒天石塔

何の石碑でしょうか

普賢堂
普賢菩薩をお祀りしています

本堂 正面

本堂

山門

本堂 扁額

庫裡

観音堂
最上西国三十三観音第八番札所

境内墓地

歴代住職供養墓

永代供養塔

庫裡

本堂

寺号石標

手水舎

地蔵堂

身代り地蔵菩薩

子育笠地蔵尊

子待地蔵尊

永代供養塔

山形市寺院へ

本堂

本堂

寺号標

客殿(信徒会館)

庫裡

手水舎

観音堂
山形三十三観音第十五番札所

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

本堂

観音堂

山形市寺院へ

庫裡

本堂 寺号扁額

本堂

山号標札

観音堂

観音堂 鰌観音菩薩と称する
鰌は「ドジョウ」

菅原神社

菅原神社 扁額

歴代住職供養墓

山形市寺院へ

梵鐘

鐘楼

観音堂扁額 「慈眼視衆生」

境内墓地

手水舎

境内墓地

境内墓地

境内樹木

境内樹木

燈籠笠に溶岩状の石が載る

地蔵菩薩像

観音堂の正面

本堂
入母屋造銅板葺一間流向拝

庫裡

山門寺号標札

歴代住職供養墓

山形市寺院へ

大棟の徳川紋

観音堂
山形三十三観音第十番札所  

千手観世音菩薩安置

境内墓地

六地蔵尊

水子・子育地蔵菩薩

佛足跡碑

境内墓地

観音堂
最上新西国三十三ヵ所第三番札所

地蔵堂

石庭

庫裡

梵鐘

鐘楼

青銅製雲形鐘版

参道

山門 境内工事中

山門扁額

山形市寺院へ

本堂 扁額

観音堂

山形市寺院へ

庫裡

永代供養塔

山門傍の銀杏

山門 境内側より

本堂 半鐘

地蔵堂

しあわせ地蔵と称します

境内墓地

山形百八地蔵尊第二十二番霊場

地蔵堂

庫裡

山門 標札

本堂

本堂扁額 尓瀧山と読んだが
尓の崩し字が分らない

山形市寺院へ

本堂標札

境内樹木

本堂 抜苦殿

山形市寺院へ

永和の板碑

境内墓地

永代供養墓

境内樹木

義光公殉死 山家河内守

義光公殉死 長岡但馬守供養塔

愛宕神社社号扁額

愛宕神社

本堂 向拝龍の彫刻

本堂 
入母屋造銅板葺一間流向拝

本堂 山号扁額

庫裡

石橋

参道

光禅寺山門 足利紋

光背は陽刻衣は陰刻

地蔵堂

山形市寺院へ

地蔵菩薩幟

観音堂

観音堂 御詠歌扁額

水子地蔵菩薩 供養品

山形百八地蔵尊二十四番霊場

本堂安置 毘沙門天

本堂

庫裡

寺号標札

豚観世音石塔
馬頭・牛頭観音より時代は下がるようだ

馬頭観世音石塔

鳥供養塔 
近世鳥産業者が奉納したのか?

山形市寺院へ

南無妙法蓮華経碑

山門門扉 鳳の彫刻

山門門扉 麒麟の彫刻

手水舎

庫裡

本堂 寺号扁額

有縁無縁 三界萬霊供養塔

日蓮宗寺院中興持住供養塔

長榮堂

長榮堂扁額

枯山水庭園「長榮東園」

本堂
入母屋造銅板葺一間唐向拝付

山門 
入母屋造桟瓦葺三間一戸薬医門

三門二層 聖観音・十六羅漢安置

境内墓地

庫裡前の庭

観音堂・不動堂 参道

扁額

観音堂・不動堂
山形三十三観音第三番札所

三門 金剛力士阿形像

三門 金剛力士吽形像

本堂 寄棟造銅板葺

三門

寄棟造萱葺楼門 回廊付

寺号標 参道

歴代住職供養墓

境内墓地

観音堂 普賢菩薩を祀る

観音堂
山形三十三観音二番札所

手水処 水天像

明王殿

子育地蔵

六椹稲荷

六椹稲荷神社

観音堂扁額

観音堂

本堂と観音堂は廊下で繋ぐ

本堂扁額

本堂

本堂 入母屋造銅板葺

金毘羅宮

扁額

観音堂

庫裡

山門 山号扁額

山門 切妻造瓦葺薬医門

山形市寺院へ

本堂と庫裡

宝形造銅板葺一間流向拝付

金毘羅大權現等の石塔

寺号石標

文殊・普賢菩薩を安置する
元釈迦如来を祀っていたのだろうか

山形市寺院へ

山門 寺号木札

入母屋造平入銅板葺唐向拝

本堂寺号扁額

境内墓地

歴代住職供養墓

赤松

宝篋印塔供養塔

佛足跡記念碑

境内樹木 百日紅 

後藤松亭(雲渓)画伯記念碑

俱会一処 無縁墓石供養

参道

山門 切妻造銅板葺薬医門

訪れる人は少なそう

庫裡建物はあるが無住らしい

木鼻部の彫刻

案内板説明文

本堂

境内

六地蔵尊

山形市寺院へ

境内墓地

本堂鬼板

梵鐘

鐘楼

向拝 力士像吽形

成田山山形繁栄講事務所

地蔵菩薩

地蔵菩薩
山形百八地蔵菩薩第十八霊場

庫裡

聖観世音菩薩

水子地蔵尊

地蔵堂 板碑 阿弥陀如来石像

善光寺 阿弥陀如来 
善光寺式如来像ではない

延文二年板碑

境内墓地

地蔵堂 地蔵菩薩石像

稲荷神社
新たに造営した稲荷社の旧社殿?

大聖荼呮尼天鳥居扁額

鐘楼

梵鐘

境内墓地

山形市寺院へ

境内墓地

境内墓地

子育地蔵菩薩像

子育地蔵堂

井戸

境内樹木

観音堂  山形西国三十三観音霊場
第二十五番札所

観音堂

戦没者慰霊碑

境内墓地

境内庭

境内庭

境内墓地

境内樹木

山形市寺院へ

枝垂れ八重さくら

カヤ 山形市保存樹

永代供養塔

庫裡

本堂

本堂

境内樹木 本堂前の楓
紅葉は見ごたえがあると思う

境内墓地

梵鐘

鐘楼

水処井戸

山門 寺号標札

本堂

本堂 山号扁額

地蔵堂扁額 髙祖弘法大師

地蔵堂扁額
一光三尊阿弥陀如来 大悲観世音

地蔵堂扁額 延命地蔵尊

地蔵菩薩像

境内樹木

境内墓地

境内境の清流

山形西国三十三観音霊場第二十番札所

地蔵菩薩像

地蔵堂

大悲殿(観音堂)

山形市寺院へ

地蔵堂 地蔵菩薩像

地蔵堂

慈母観世音菩薩像

祀られているのは? 注連縄が

永代供養墓

庫裡

斯波兼頼公供養墓

宗祖 一遍上人像

境内墓地

なかたち石

地蔵堂

永代供養塔碑

大悲殿

大悲殿

境内墓地

境内庭の樹木



浄土宗 義光山常念寺
  
山形市三日町2-1-80

山形市寺院へ

観音堂

境内樹木

釈迦如来石像 梵行寺は浄土宗寺院

手水舎

本堂大棟

本堂向拝彫刻

本堂 寺号扁額

本堂向拝 虹梁と木鼻彫刻

観音菩薩

太子堂扁額

太子堂

境内樹木

山門 扁額

本堂

山門 切妻造銅板葺一間一戸薬医門

寺号標札

歴代住職供養墓

光禅寺庭園

観音堂

観音堂扁額

御詠歌

最上義光公五輪供養塔

義光公殉死四名の墓

山形藩初代藩主義光公墓所

山形藩二代・三代藩主墓所

山形百八地蔵尊第二十三番霊場

境内の大銀杏 樹齢四百年以上とも

本堂前の庭

境内墓地

山形市寺院へ

百日紅

庫裡

弁才天像と弁天池

延命地蔵尊

山形市保存樹木 銀杏

山形市寺院へ

観音堂 半鐘

庫裡

法華写経記念塔

観音堂

地蔵堂
山形百八地蔵尊第二十一番霊場

本堂

寺号木札

至徳四年の銘文

山形百八地蔵尊第二十七番霊場木札



天台宗 妙圓山形照寺寶光院
 
 山形市八日町2-1-57

  龍門寺鬼板由来
天明六年(1786)龍門寺本堂改築時の玄関檜製鬼板で、二百十余年経過、この度、本堂屋根銅板葺き替えに際し、本堂の鬼板は腐蝕甚だしく、廃棄のやむなきに至りました。この玄関鬼板のみをここに保存する。



曹洞宗 金崋山慈光寺
  
山形市宮町1-12-21



天台宗 護國山柏山寺
  
山形市薬師町2-12-32

  専称寺本堂 (山形市指定有形文化財)平成二年三月三十日指定
最上山専称寺は、山形城主・最上義光の次女・駒姫の菩提寺です。駒姫は文禄四年(1595)八月二日、豊臣秀吉の命により、わずか十五歳で京都・三条河原で処刑されました。専称寺は元々天童市にありましたが、最上義光により慶長三年(1598)現在地に移され、末寺九十六寺を支配しました。
現在の本堂は、元禄十六年(1703)十月十五日に建立されたことが棟札から判明されています。桁行十一間、梁間八間の入母屋造で、東西30m、南北27mもの規模を持つ東北地方最大級の木造建築物です。建物内部は、正面に一間の向拝を設け、三方に縁を廻し、内部は、後方を内陣・余間、前方を外陣・礼拝の間とし、東西南の三方向に広縁を廻しています。欄間は鮮やかに彩色された彫刻で飾られ、屋根の四隅には左甚五郎作と伝わる力士像が配置されています。大型の浄土真宗寺院本堂の典型を示す建物です。

  専称寺の梵鐘並びに鐘楼 
(山形県指定有形文化財)梵鐘昭和二十七年四月一日、鐘楼昭和二十八年八月三十一日指定

最上山専称寺は、桃山時代の山形城主・最上義光の二女・駒姫の菩提寺です。駒姫は文禄四年(1595)八月二日、豊臣秀吉の命により京都三条河原で処刑され、十五歳を一期として、はかなくこの世を去りました。
この梵鐘は、その十一年後の慶長十一年(1606)に製作されたものですが、池の間に次の陽刻銘があります。
羽州最上山形  慶長十一年丙午六月吉日  三條住人天下一道仁准之

梵鐘の作者道准は、西村姓で豊臣秀吉から天下一の称号を授けられた名工でした。この梵鐘が懸けられている鐘楼も、その当時に建立されたものです。屋根などに一部の改変はありますが、桃山時代の様式を今に伝える建造物です。
               案内説明より
           

駒姫の墓 法号「諦雲院殿釋尼誓聴大姉」 
比較的新しく、昭和五十九年四月建立 専称寺住職と刻されている



浄土真宗大谷派 正覚山心縁寺
  
山形市七日町5-11-31

  淵室山長源寺
長源寺の創建は慶長七年(1602)、鳥居忠政が平藩(現在の福島県いわき市)に移封になった際、父親である鳥居元忠の菩提を弔う為に開いたのが始まりとされます。当初は磐城胡麻沢にありましたが、元和八年(1622)、最上家が御家騒動で改易になると、忠政が山形藩に移封となると長源寺もこれに従いました。
入封当初、現在地は最上家の菩提寺である光禅寺に与えられていたものでしたが、当地は山形城の大手筋に辺り交通の要衝、軍事的にも重要な位置で、広大な境内や立派な堂宇など藩主の菩提寺に相応しい格式を備えていた為、半ば強引に総てを譲り受け、総てを失った光禅寺は門前町共々現在の鉄砲町に移されました。
鳥居忠政は徳川家の譜代大名として信任が篤く、仙台藩の伊達家や久保田藩の佐竹家など外様大名の監視の意味を込めて山形藩に配された人物で、実際に能力も高く河川の改修工事や街道の整備、地場産業の育成、延沢銀山(日本三代銀山)の開発などを行い藩政に尽力いています。しかし、力尽くの手法や配慮不足、当地域が中世以来、最上家の支配が続いていた事などから、最上家の縁や恩があった社寺、民衆からは毛嫌いされ、事ある毎に反発されています。
寛永五年(1628)に忠政が死去し長源寺に葬られた際も、多くの民衆が喜んだとされ、宝珠山立石寺(山寺)の住職が呪い殺したなどの噂が立つ程でした。又、長源寺は戊辰戦争の時の山形藩家老水野元宣が刑死させられた場所としても知られています。元宣は文武双方に優れた人物とされ、二十二歳で家老職に就任すると藩政に尽力し、戊辰戦争の際は藩主が京都に居て不在だった為、責任者となっていました。
当初、山形藩は官軍に与していましたが、旧幕府軍の主力である庄内藩(藩庁・鶴ケ岡城)に敗れ、さらに奥羽越列藩同盟に参加した事で朝敵とされました。敗戦後、元宣は責任を一身に背負い、自ら刑死を望む代わりに他には寛容な処置を賜るように嘆願し長源寺境内で果てました。
享年二十七
長源寺の境内には鳥居忠政や水野元宣、赤星守人などの墓碑が建立されています。
             山形歴史観光dewatabiより転載
           

  遍照山光明寺
光明寺は南北朝時代の永和元年(1375)山形城内に開創されました。開基は山形の開祖と仰がれる最上家初代城主・斯波修理太夫兼頼です。兼頼公は延文元年(1356)陸奥国大崎より出羽国に派遣され、翌延文二年山形に城を築き子々孫々ここを居城に最上家(斯波氏)は末永く栄えました。
兼頼公は出羽国司按察使として鋭意治国に力を注がれましたが、応安六年(1373)領内東山に狩を催しての帰途、漆山の念仏堂で、たまたま諸国遊行中の遊行十代上人・元愚大和尚と出合い、その教えに深く感動して、翌日城内に上人を招き授戒を受け出家なされ其阿覚就と称されました。その翌翌年家督を子の斯波直家に譲り、城内の一隅に草案を結んで隠居し、ひたすら仏道に精進なされました。永和元年三月十日、兼頼公六十歳の春のことでした。
それから四年後の康暦元年(1379)六月八日、六十四歳の生涯を閉じられました。法名「光明寺殿成覚就大居士」と号しますが、示寂するまでの四年間修法求道された其の草庵は二代直家公も隠居され遍照山無量壽院光明寺と号して兼頼公の菩提寺となったのであります。
光明寺はその後、最上家十一代義光公の時代、城廓整備などに伴ない二之丸大手門前に移転、山形開祖の菩提寺として深く崇敬され、山形城下では最高の寺領千七百六十石の御朱印を賜わっておりました。
              案内説明より
          



浄土宗 金修山西念寺
  
山形市十日町2-5-21



浄土宗 高照山一心院専念寺
  
山形市小姓町10-8

  鳴澤山隆勝寺
慈覚大師(天台宗三代座主・円仁)が東国布教の折出羽国・蔵王に龍山寺を開山し多くの堂塔・諸院が建立され、霊場として隆盛を極め、国に認められた祈願寺となりその数三百の院を数えたと云う。時代は下って鎌倉幕府・五代執権北条時頼に怒りを買い龍山寺閉山命令を受け、院房も衰退した。
その中にあって院房であった隆勝寺は山形成沢の地に復興開山した。室町時代の寶徳三年(1451)浄土真宗に改宗している。
寛永13年(1636)江戸幕府三代将軍徳川家光の異母弟・保科正之が山形に移封、現在地に長福寺を建立した。保科正之移封後の正保元年(1644)松平直基(結城松平家)が山形に入封、長福寺は隆勝寺と改称し、成沢より本堂を移築再建、現在に至っている。
              隆勝寺HP案内説明より



曹洞宗 尓瀧山大昌院
  
山形市あづま町1-53



時宗 水澤山向泉寺
  
山形市鉄砲町2-4-14

  日蓮宗 本眷山浄光寺
當山は会津妙法寺第五世・日満上人が北方開教を発願し、毘沙門天を奉じ、山形吉原村に法喜庵を結び当地方に初めて法華経を広めた。戦国時代山形城主最上義光の父義守が病にたおれ、名声高かった日満上人に病気平癒を請われたところ、奇しくもその病は快癒した。義光公はその報恩のため開基となり、天正六年(1578)現在地に一万坪の寺地及び一大伽藍を寄進一寺を創立、妙法山法華寺と称した。
寛永十三年(1636)、最上家、鳥居家改易後に信濃高遠藩より入封した德川二代将軍秀忠公の第三子保科正之公が當山を母の位牌所と定めた。母の法号である「浄光院殿法紹日恵大姉」にあやかり本眷山浄光寺と改称した。正之公より寄進の葵の紋入り袈裟が現存している。
以来三度災火にあうが、その都度復興し法燈連綿四百年余りの山史に輝く由趣深き寺である。當山に安置している毘沙門天像は山形市の有形文化財に指定されている。

  長榮堂
當山二十八世・温牙院日慈上人の代、宗祖六百遠忌記念事業として三十番神を祀り建立、番神堂と呼称していた。その後、大本山・池上本門寺主護「長榮威徳天」を分祀奉り當山の守護神となした。昭和二十二年焼失、以後長榮威徳天を祭祀し再建、長榮堂と呼ぶようになった。昭和五十三年宗祖七百遠忌事業として、発願人及び有縁各位の浄財により改築されたものである。

  長榮東園
この庭は、枯山水という様式である。正面の高い石組は蓬莱山を、頂上の立石は滝の姿を、前面五個の定石は海島を、石燈籠はその峰を照らし、敷砂利は海面を、そして低い一蓮の石組は浜辺を、橋から下手は村落を現わしている。昭和五十三年長榮堂新築に伴い、さらに北に造園したもので、東北には数少ない大きな枯山水で長榮東園と呼ぶ。
なお、この枯山水を眺める位置は東方の大きな配石の上から正面を、橋の上からは島全体を遥望するように造園されている。
              案内説明より
                     

山形市寺院へ

観音堂
山形三十三観音第三十二番札所  最上西国三十三観音第十三番札所

観音堂
最上三十三観音霊場第四番札所 最上新西国三十三観音霊場第十四番札所



浄土真宗大谷派 無量山圓満寺
  
山形市七日町4-5-30



浄土真宗大谷派 護法山善龍寺
  
山形市緑町3-2-9

  摩尼山地蔵院
地蔵信仰が最盛期であった北朝延文年間(1356~1360)、山形の開祖・斯波兼頼によって中興された真言宗智山派の古刹。鎌倉時代の造像を今に残す運慶作の地蔵菩薩を本尊として祀っている。「山形故実録」によると同院の開創は永享三年(1431)に遡り、開山は祐円法印と記録され、さらに山形城主斯波(最上)頼宗の時代に建立され、寺領は十四石とある。
また「出羽風土記」に貞観八年(866)、定願寺に預けられた“幻の寺”瑜伽寺は出羽国村山郡滝の平村に旧跡があり、その塔頭の寶塔院が山形城下に移り地蔵院になったと記されている。ここに出てくる滝の平村とは現在の山形市大曾根に当るが、詳しい事はわからない。
四百二十坪の境内には本堂、庫裡の他地蔵堂、弁才天堂、稲荷堂(荼枳尼天堂)が軒を並べ、宝物として聖観世音菩薩、不動明王、弘法大師像などがある。当時は地蔵信仰が盛んであり、足利尊氏が熱心な信奉者であったことから斯波兼頼もその轍を踏み、瑜伽寺の塔頭を移して寶憧寺、地蔵寺を建立、領土鎮護の祈願所とした。これを以て同院は山形最初の地蔵堂とされている。
               地蔵院案内説明より
          

  瑞光山建昌寺
當山の創建は明応三年(1494)、山形城の城主欺波(最上)満氏(最上七代宗家、戒名:国盛寺殿月心峯光大居士)が、母親(最上満直の正室、会津領主芦名盛政の娘)の菩提を弔う為、父親である欺波(最上)満直(最上三代宗家、戒名:法祥寺殿念叟親公大居士)の菩提寺である法祥寺の隣に同寺の住職竹用松大和尚を招聘して開山したのが始まりとされます。
寺号は母親の戒名「建昌寺殿信宗心公大姉」に因んだもので、以後、最上家縁の寺院として歴代最上家から寺領二十石が安堵され江戸時代初期に山形城の拡張の為、法祥寺と共に現在地に移されています。元和八年(1622)、山形藩三代藩主最上義俊は御家騒動により改易になりましたが、その後は幕府から庇護され寺領二十石の朱印状を賜っています。
山形三十三観音霊場二十二番札所、出羽七福神・辯財天を祀る。音楽、芸術・芸能、智恵、財福などを司る女神である。他に、大黒天、毘沙門天(多聞天)、恵比寿、福禄寿、寿老人、布袋の神々。
             山形歴史観光dewatabiより転載
           

人々が大勢行き交うところは、古来より情報交換の場でもありました。江戸時代後期から明治時代にかけて、繁華街など人通りの多いにぎやかな場所に、迷子などを尋ねる人とそれを知る人とが情報を交換するための石造物が建てられました。
(サイト内旅行観光見聞録→街道てくてく→中山道てくてく→日本橋~御茶ノ水→一石ばし迷子しらせ石標)
「迷い子しるべ石」と称されるこれらの石造物は、全国で三十基近く確認されています。山形県内ではこの「なかたち石」を含めて二基、東北地方内でも四基が確認されているだけです。「なかたち石」は、迷子だけではなくあらゆる情報の仲立ちをするためにこの名が付けられたと考えられています。「なかたち石」と刻まれた石造物は全国でここの石標だけです。
石標身部は、高さ157㎝、幅・奥行共に約34㎝の四角柱で、馬見ヶ崎川流域で産出される通称「油石」(灰色安山岩)を用いています。元は頭部に笠石が載っていたと云われています。道路拡幅工事に伴い、平成二十六年に、以前の位置から約六メートル南の現在地に移設されました。正面に「なかたち石」、左面に「たづぬる方」、右面に「をしへる方」と刻まれています。尋ねたい人はそれを紙に書き左面に貼り、その情報を知る人はそれを紙に書き右面に貼ったと云われています。
裏面の銘文から、新山寺住職の是光が文を起こし、妹尾嘉兵衛が施主となって、文久元年(1861)に建立したことがわかります。妹尾嘉兵衛は横町(現 本町)に住む商人で、町役人も務めました。「なかたち石」は、幕末の庶民の暮らしを伝える貴重な民俗資料です。

  銘文釈文
夫物を得ると喪ふとは憂歓に関係し然も人力の及ふ處に非すといへども凡迷子狂人或は乳母をたつね或は雑佩書謙を遺せし類喪ふて索捜處なく得て返與ふる人なきもの共に人情の息んせさる所にして誰か憂歎かさらんや仍て碑を建て尋教るに便ならしむるもの往々國々に見ゆ今茲に是を計りて郷里の為にせんとす
文久元年辛酉五月 新山寺現是光誌  施主 妹尾嘉兵衛

山形市寺院へ

寺号標札 参道

三門

三門 山号扁額

山形市寺院へ

観音堂 聖観世音菩薩
山形三十三観音霊場第二十八札所

観音堂 子安観世音

子安観音堂

三門 寺号標札 本堂

赤松並木参道

三門

三門

観音堂扁額  大慈閣?

観音堂 供養塔

山門 山号扁額

山門

山門木札 山形百八地蔵尊霊場

本堂

手水舎

境内庭園

庫裡

山形市寺院へ

本堂 寺号扁額

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

三門 銅板葺薬医門

山形市寺院へ

風化した鳥居があるが祠は無い

境内の庭

稲荷神社
白狐が縁で稲荷神と荼枳尼が習合された

三門 境内側より

三門 山号扁額

三門 高麗門

山形市寺院へ

本堂 山号扁額

本堂 入母屋造銅板葺唐向拝

山門 寺号標札

本堂 寺号扁額

本堂

山門

山形市寺院へ

水子地蔵堂

境内樹木

枯山水庭園

寺号扁額

本堂

社殿扁額

社殿

医王稲荷神社

辯天池と辯天橋

福徳辯財天

辨天堂

金堂 扁額

保護樹林 ケヤキ

保護樹林 ケヤキ

本堂 山号扁額

本堂

柏山寺山門

本堂 入母屋造桟瓦葺一間流向拝

山門 寺号標札

山門 桟瓦葺薬医門

境内墓地と樹木(百日紅)

庫裡 会館

山形市寺院へ

山門 切妻造銅板葺薬医門

寺号標札

山門 寺号扁額 龍虎彫刻

山門 切妻造銅板葺三間一戸薬医門

寺号標

義光公駒繋の桜

梵鐘

鐘楼

本堂向拝

本堂 軒の支え力士像 
左甚五郎の作と云われている

本堂 大棟妻部漆喰が落ちている
補修も大きい建築なので大変

山形市寺院へ

山門 寺号扁額

本堂向拝

本堂 雲形蟇股

本堂 山号扁額

山門 寺号扁額

本堂 山号扁額

本堂 入母屋造銅板葺

山門 薬医門

山形市寺院へ

本堂 向拝彫刻

山形市寺院へ

地蔵院と仏像供養塔

山門 棟門

地蔵堂

庭園

山形市寺院へ

門前にある招魂碑

山門

寺号標

境内墓地

鐘楼

梵鐘

大悲殿 宝形造鉄板葺
聖観世音菩薩 地蔵菩薩を祀る

本堂 寺号扁額

本堂 寄棟造銅板葺一間流向拝

三門

庫裡 会館

梵鐘

鐘楼

境内墓地

本堂 山号扁額

本堂 仁王像と建昌禅寺扁額

山形市寺院へ

山形市寺院へ

山形市寺院へ

本堂

門前の地蔵菩薩?

山門

境内墓地

山号扁額

山門 切妻造銅板葺四脚門

寺号石標

  浄土真宗本願寺派 明善寺
明善寺の創建は寛永七年(1630)に釈覚玄が開山したと伝えられています。釈覚玄は信濃国水内郡塩崎(現 長野市篠ノ井塩崎)の白鳥山報恩院康楽寺十世住職の三男で、寛永七年(1630)に現在の天童市山口の地に創建しました。当寺も康楽寺の山号を受け継いで白鳥山明善寺と号します。その後、享保年間(1716~1735)に山形藩堀田家初代藩主・堀田正虎が城下に寺地を寄進し現在地に移転した。
明治二十七年(1894)山形市南の火災により被災、再建を悲願とし住職・檀信徒の尽力により現在の本堂を再建した。現在の本堂は昭和九年(1934)、山形県米沢出身の東京帝国大学教授・建築家伊東忠太が設計で建てられたもので、木造平屋建、入母屋造妻入(背後は平入)銅板葺、正面一間切妻向拝付、建築面積327㎡、本屋の左右にはアジアの寺院建築風の鐘楼(宝形造二層銅板葺、真壁造、白漆喰仕上、花頭窓付)と鼓楼(宝形造二層銅板葺、真壁造、白漆喰仕上、花頭窓付)が配されています。
明善寺本堂は優れた近代和風建築の遺構として貴重で「造形の規範となっているもの」との登録基準を満たしている事から、平成十四年(2002)に国登録有形文化財に登録されています。
本尊:阿弥陀如来。
             案内説明より
             

大日如来 申・未年の守護神

大日堂

鳥居がありました 
習合の名残でしょうか

帰命院
成田山新勝寺は真言宗智山派と宗派は異なっているが?

本堂

山形市寺院へ

永代供養墓
西国三十三ヶ寺観音霊場お砂踏み

庫裡

三門禁葷酒

山形市寺院へ

三門 

寺号標

庫裡

地蔵堂

手水舎

山門

山門 切妻造桟瓦葺高麗門

  正覚山梵行寺
当寺は正式には「正覚山清浄院梵行寺と号し、浄土宗に属し、総本山は京都東山・華頂山知恩教院大谷寺である。常念寺の岌讃上人の高弟子・岌喜上人により天正十九年(1591)に宝珠山立石寺(山寺)の末寺・千寿院の跡に創建された。草創期の本堂は間口十間、奥行八間の大伽藍であったと伝えるが、弘化三年(1846)の火災で一切が焼失、九年後の安政三年(1856)に再建されたものが現在の本堂である。
             梵行寺HP案内説明より
          

本堂 山号扁額

本堂 
入母屋造銅板葺一間唐向拝付

山門 
切妻造銅板葺三間一戸薬医門

本堂

寺号標札

光禅寺庭園

庭 シダレザクラ

梵鐘

鐘楼

祖神社扁額 
神に虫 読み方わからない

最上氏の祖 斯波兼頼でしょうか

牛頭観世音石塔

禽獣供養塔

湯殿山石塔

山門 屋根の修復が待たれる

山門 山号扁額

  髙寶山勝因禅寺
勝因禅寺の創建は鎌倉時代の弘安年間(1278~1287 執権北条時宗・貞時)に大江大和尚により開山されたのが始まりとされています。最上家の祖となった斯波兼頼が山形に入封し延文二年(1357)に山形城を築くと勝因寺の境内は山形城の三之丸に置かれました。室町幕府十一代将軍足利義澄の命により五山十刹が出羽・陸奥にも置かれ、出羽勝因寺の他に陸奥実相寺、興聖寺、崇禅寺、圓福寺(瑞巌寺)、興徳寺、出羽光明寺が選定されました。
江戸時代に入り最上家が御家騒動のために改易となり、新たに山形藩主になった鳥居忠政は山形城の改修と城下町の整備を行ったことで、現在地に持地を賜り移転しました。当所は臨済宗建長寺派でしたが、寛文五年(1665)に当時の住職・海門和尚により臨済宗妙心寺派に改宗しました。
現在の本堂は元禄十三年(1700)に建立されたもので、寄棟造銅板葺平入、一間向拝付で外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、火頭窓が付けられています。三門は明和四年(1767)に建立されたもので入母屋造鉄板葺三間一戸八脚楼門。下層部両脇には文化四年(1807)作像の仁王像、上層部には十六羅漢像が安置されています。
              http://www.dewatabi.com 勝因寺より転載
        

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寂光殿

水天池

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山門 被覆鉄板葺き薬医門

南無妙法蓮華経石塔

庫裡

日蓮上人像

浄行菩薩像

佛足跡

扁額

唐向拝

本堂

境内の庭

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境内樹木

歴代住職供養墓

庫裡

二代最上家親公供養塔

三代最上義俊公供養塔

板碑 左至徳四年 右延文二年

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本堂

庫裡

句碑 
茶の花や我が菩提寺に茶室あり 桂花 と読めるようだが確かではない

三門 山号扁額

三門 切妻造銅板葺四脚門