河内神社 村上市肴町13-31
合祀 拝殿 古峯神社扁額
合祀 拝殿 金毘羅権現扁額
境内樹木
秋葉神社
拝殿と奉納燈籠
拝殿扁額
庫裡
本堂
山門 棟門
村上郷総鎮守 西奈彌羽黒神社 旧社名西奈彌羽黒山三社大権現
祭神: 奈津比売大神 宇迦之御霊大神 月読大神
社伝によれば持統天皇原燃(687)西奈彌山(後の城山)の頂に鎮座し西奈彌神社と称したのがはじまりと伝えている。西奈彌はセナミと読み瀬波郡(岩船郡とも)に由来するもので、延喜式(927)神名帳の磐船郡式内八座の一社の西奈彌神社に比定されている。
天正十六年(1588)城主・本荘繁長が庄内攻めに際して出羽三山神社に戦勝祈願をし、その霊験に因って庄内を手中に収め平定したことから神々を勧請した。その後、西奈彌神社と出羽三山の神々を合祀した事から明治維新にいたるまで「西奈彌羽黒三社大権現」と称し、村上郷中の総鎮守として歴代藩主の尊崇をあつめた。また、羽黒派修験の流れを汲む霊験あらたかな神社として庶民から崇められた。
堀丹後守直奇が元和四年(1618)城郭整備が行われるに際し神社が城から見下ろす処にあるのは畏れ多いとして、現在地に千本の松を植えて清浄の地と成し、社殿が移築造営された「千松山」と称されている所以である。寛永十年(1633)遷座祭が執り行なわれた。お城山から千松山への遷御を寿ぎ大町の人々が大八車に太鼓を載せ打ち鳴らしながら町中を練り歩き盛大に奉祝した。これが羽黒神社例大祭(村上大祭)の起源となる。
御遷座に際して三基の神輿が寄進され藩主・榊原勝乗の時に新調された。祭礼毎に毀損激しく、嘉永五年(1852)、藩主・内藤信親が京都所司代から老中に任ぜられた記念に寄進されたのが現在の御輿である。大祭は、三基の神輿が町中を隈なく巡る神幸祭が中心となる。 先太鼓(御先祓い)に先を打たせ、庄内からの凱旋を模した荒馬十四騎が先導し、傘鉾と十九代の各町屋台が供奉する古式豊かで絢爛たる祭礼であり新潟県下三大祭りの一つに数えられ無形民俗文化財に指定されている。
現社殿は、即身佛となり観音寺に祀られる仏海上人の発願によって明治十二年(1879)にに起工し、同十四年に建立された。羽黒神社の使いである龍神が示現し夢訓を受けた事から、多くの浄財を募って廻り、上人自ら百三十三段の参道石段を普請されたと伝えられている。
神明宮 西奈彌羽黒山神社摂社
主祭神 天照大御神、豊受大神
配祀 愛宕神社、古峰神社、八幡神社、秋葉神社(郷中の無縁となった神社を合祀)
御霊験 五穀豊穣・商売繁盛・開運厄除け・縁結び・学業成就
由緒
元禄三年、村上藩主 榊原式部大輔勝乗(かつのり)侯の発願により建立され、明治十二年に現在の社殿が竣工するまでは
西奈彌羽黒山三社大権現本殿として祀られていたが、その後、移築され「神明宮」となる。
日光東照宮の職人を招致して造営されたと伝えられ、極彩色の彫りに黒漆、金箔押し、丹塗りなど県下では珍しい桃山風の建築様式(三間社流造)を呈す。昭和四十四年に新潟県文化財指定を受け、文化庁指導のもとに解体復元された。
案内説明より
稲荷神社参道鳥居
鳥居扁額
拝殿
初代 内藤信成
右から二代信正 三代信照 四代信良
五代弌信 六代信輝 七代信興
境内花木
墓地
穂坂掃部及び稚児二名供養碑
庚申堂向拝 龍彫刻
本堂 山号扁額
僧堂・庫裡
御神木 夫婦杉
御神木樹幹
拝殿向拝彫刻
拝殿扉の内藤家家紋
拝殿向拝柱木鼻彫刻
拝殿向拝虹梁
三門 彫刻
曹洞宗 體真山満福寺 村上市羽黒町7-8
曹洞宗 萬年山長楽寺 村上市羽黒町11-43
幹線道路から奥まって鎮座
稲荷神社 石段横の巨樹
曹洞宗龍皐院 曹洞宗長楽寺 曹洞宗満福寺 曹洞宗東林寺 真宗大谷派行恩寺
浄土宗浄國寺 曹洞宗善澤寺 曹洞宗常福寺 曹洞宗寶光寺 浄土宗光徳寺
高野山真言宗寶性寺 浄土宗専念寺 真宗大谷派善龍寺 高野山真言宗法音寺
真宗大谷派安善寺 真宗大谷派願浄寺 高野山真言宗十輪寺 真宗大谷派本悟寺
真宗大谷派等覺寺 真宗大谷派善行寺 真宗大谷派光濟寺 浄土宗浄念寺
日蓮宗経王寺 日蓮宗長法寺 浄土真宗本願寺派西真寺 日蓮宗妙法寺
臨済宗妙心寺派安泰寺 日蓮宗妙性寺 高野山真言宗観音寺 真言宗智山派西寶院
参道 拡張道路より奥まって
鎮座している
鳥居 一基のみです
社殿 切妻造桟瓦葺妻入一間向拝付
社号扁額
西奈彌羽黒神社 senamihagurojinjya 村上市羽黒町6-16
本堂横のお堂 祀られているのは?
境内墓所
浄土宗 光徳寺
創立、正保元年(1644)、内藤家三代 信照侯が棚倉(福島県)で開基し、源蔵和尚が開山した。
山号の常照山は、源蔵が内藤家始祖の信成侯とともに伊豆国・韮山へ移ったときに常照寺を建立したことによる。法善の院号は信成侯の諡、光徳は内藤家二代
信正侯の諡である。(内藤信成候「法善院殿陽竹宗賢大居士」 内藤信正候「光徳院本誉善壽宗學」三の丸にあるこの寺は古くから代々の城主の菩提寺となった。村上藩主家が変わるたびに菩提寺となり寺号もその都度変号された。英林寺は堀直竒侯(元和四年~)、光顕寺は結城(越前)松平直矩候(慶安二年~)、瑞峰寺は榊原政倫侯(寛文七年~)西岸寺は本多忠孝候(寶永元年~)、天休院は大河内松平輝貞候(寶永七年~)等々光徳寺は享保五年(1720)に内藤侯が入封してからで寺領百石を拝領して以来、150年間続いた。寺域は城内の一郭として、国重要史跡に指定されている。
案内説明より
福壽社 村上市安良町2-11
浄土真宗大谷派 行恩寺
創立 寛文二年(1662)八月十八日、開基は浄真和尚で東本願寺の大谷派と、明治十六年(1883)の「新潟県神社寺院仏堂帳」にある。この創立年から推量すると、当時の領主
松平大和守直矩(15万石)の、家臣増加に伴う宗教政策上から建立されたものであろう山門に掲げられてある欄間の彫刻の龍は、村上の生んだ工匠 有磯周斎が娘ハツのために当寺へ寄贈したものである。
案内説明より
窪田町秋葉神社 村上市久保多町4-27
浄土宗 聴松山浄國寺 村上市長井町4-10
曹洞宗 龍皐院
創建は文安三年(1446)室町時代中期・室町幕府八代将軍足利義正の治政である。後に、耕雲寺(村上市門前)五世に晋住(持住職)される徳嶽宗欽(とくがくそうきん)大和尚が草庵を結び、九皐庵と称して山居されたことが始まりである。
開山没後、新発田の宝積寺より、法孫(耕雲寺末寺)瑚珊文愛(こさんぶんあい)和尚がきて、山号を飯野山と定め、寺号を龍皐院と改めて中興し今日に至っている。現在の本堂・庫裡は平成二年(1990)に、山門は平成九年(1997)に改築されたものである。門前には、享保二年(1717)造立の地蔵菩薩立像がある。その近くには「三ツノ山」(江戸時代の力士)の墓碑がある。
案内説明より
本殿
本殿
真言宗智山派 西寶寺 村上市肴町5-16
高野山真言宗 大悲山観音寺 村上市肴町15-28
日蓮宗 妙性寺 村上市小国町5-9
臨済宗妙心寺派 護國山安泰寺 村上市塩町6-34
日蓮宗 久遠山妙法寺 村上市寺町5-3
浄土真宗本願寺派 信飯山西真寺 村上市寺町3-29
日蓮宗 遠壽山長法寺 村上市寺町3-24
日蓮宗 真光山経王寺 村上市寺町3-22
浄土宗 快楽山称名院浄念寺 村上市寺町3-13
浄土真宗大谷派 虎丸山光濟寺 村上市大工町2-5
浄土真宗大谷派 笠原山善行寺 村上市大工町1-5
浄土真宗大谷派 六角山等覺寺 村上市細工町1-15
浄土真宗大谷派 津波倉山本悟寺 村上市細工町1-2
高野山真言宗 如意山十輪寺 村上市大町3-17
浄土真宗大谷派 三藤山安善寺 村上市小町3-34
真言宗 常光山法音寺 村上市小町3-9
浄土真宗大谷派 護法山善龍寺 村上市庄内町7-11
浄土宗 一心山専念寺 村上市庄内町7-8
真言宗高野山派 光照山寶性寺 村上市片町4-34
庚申堂
浄土宗 常照山法善院光徳寺 村上市羽黒口7-24
曹洞宗 迎接山寶光寺 村上市羽黒町2-23
曹洞宗 真寶山常福寺 村上市羽黒町4-1
曹洞宗 日光山善澤寺 村上市羽黒町6-14
浄土真宗大谷派 傳忠山行恩寺 村上市長井町5-6
湯殿山石塔
村上城 飯野門跡石碑
村上城飯野門
三之丸の南端にあって、羽黒門とコの字で連結されるこの門は、追手門と共に村上城郭中、壮大な規模を誇る門である。二層の隅櫓と堀と土塁によって固められた郭内は、榊原氏在城当時三千石の家老であった原田権左衛門の屋敷地であった。山居前道や牛沢道から侵入してくる敵を防ぐ要衝にあたるため、長井町と羽黒町の境には厳重な柵で囲まれた番所を置き、羽黒町の中央部から東部に侍屋敷を配していた。元和六年(1620)頃、堀直竒(ほりなおより)によって完成された。
案内説明より
曹洞宗 普門山東林寺 村上市羽黒町8-10
宇賀大明神と毘沙門天を祀る
毘沙門堂
内藤家 墓所
内藤家墓所
追分に置かれた庚申塚
明和八辛卯年五月吉祥日と刻されている、以前は台座があったのであろうか、どこからか石塔だけを持ってきて
此処に置いたのではないかと思われる。石塔の約1/3は地中に埋められているようだ。
阿弥陀如来九品仏石像 上品・上生
左側湯殿山 右側庚申塔
家内安全 千日山篭(籠)木食行者 湯殿山佛海上人 左下に神海、悔海と刻されている
拝殿向拝彫刻
拝殿
拝殿 破風大棟鬼瓦
社紋が示されている(根上三階松)
向拝柱の獅子頭
吽形狛犬
阿形狛犬
踊り場から第二の石段
参道
西寶寺
庫裡 会館
阿弥陀如来像 新しい作造
墓地 周囲は叢、
管理は成されていないようです
湯殿山修行道場
佛海上人即身佛安置
本堂扁額
本堂
即身佛安置
金剛力士吽形像
金剛力士阿形像
寺号石標
扁額
庭園
庭園
佛海上人碑
大正四乙卯年三月建立
稲荷神社社殿
稲荷神社 鳥居扁額
稲荷神社
切妻造桟瓦葺一間唐向拝
庫裡
開山 顕壽院日晋聖人紀念石塔
本堂
石柱門参道
南無妙法蓮華経石塔 題目塔
山門 主柱獅子彫刻
山門 境内側より 切妻破風
本堂
九品仏 阿弥陀如来
庫裡
本堂
多くの石碑が建てられている
歴代住職供養墓と
日蓮大菩薩七百遠忌報恩塔
稲荷神社 庚申塔
稲荷神社 社号扁額
境内 稲荷神社
庫裡
墓地
墓地
庫裡
歴代住職供養墓と供養塔
山門 寺号標札
歴代住職供養墓と供養塔
本堂 南無妙法蓮華経遠忌供養塔
お堂 経堂でしょうか
庫裡
水屋 井戸
墓地
兎がのんびりと
境内樹木 銀杏
地蔵堂
地蔵菩薩
旧鐘楼でしょうか
庫裡
本堂向拝 斗栱形蟇股
墓地
山門
山門山号扁額
山門 桟瓦葺四脚門
墓地
鐘楼
梵鐘
境内樹木
永代供養納骨堂
庫裡
本堂 入母屋造妻入り桟瓦葺唐向拝
境内庭園
永代供養納骨堂
庫裡
境内樹木 シダレザクラ
山門標札
本堂向拝
墓地
境内 句碑がありました
本堂 獅子の彫刻
境内樹木 銀杏
境内花木
墓地
本悟寺参道
本堂
本堂 入母屋造桟瓦葺一間流向拝
九品仏 阿弥陀如来 中品・下生
阿弥陀如来九品仏石像
大国主命と事代主命 父子石塔
神明宮石標 新潟県指定文化財
境内社 左春日神社 右八幡神社
社殿 祭神: 日本武尊
古峯神社
歴代住職供養墓
境内墓地
境内樹木
閻魔大王 奪依婆
閻魔堂
本堂 宗門標札
庫裡 庭園
参道
寺号石標
門柱 宗門石標 陽刻風に見える
本堂
山号扁額
庫裡
境内樹木
浪漫亭 国登録有形文化財 歳時季節のみ公開される 常時不可 村上市小町2-8
安善寺傍の浪漫亭
案内説明板
二層の火頭窓と廻廊
本堂
山門標札
山門 境内側より
左側にお堂が有ります
棟続 左本堂 右庫裡
小町鍵道より路地の奥にあります
境内樹木
鐘楼
梵鐘
庫裡
向拝龍彫刻
向拝虎彫刻
向拝 虹梁と木鼻
寺号扁額
宝形造桟瓦葺一間向拝
山門 山号標札
地蔵堂 地蔵菩薩 三界萬霊等供養
歴代住職集合供養墓
庫裡
境内には二つの建物があるがその名称は分らない
境内花木
庚申堂
庚申堂扁額
向拝虹梁・木鼻・向拝柱
金剛力士阿形像
金剛力士吽形像
仁王門
庚申堂
地元 公民館ともなっている
寶性寺
境内樹木 昼なお暗し
裏庭
裏庭
内藤家家族・親族供養墓
東京の菩提寺から改葬した
内藤家開創記念植樹 藤(家紋)
向拝柱
狛犬と奉納燈籠
祠が鎮座
傍に甲字塚と刻された石塔があるが
甲子塚ではあるまいか
境内花木
地蔵菩薩
本堂
三河内藤家家紋 鬼瓦
庫裡
社殿彫刻
地蔵菩薩立像
三門
参道奉納燈籠
参道
参道に添って墓地がある
本堂
参道樹木
僧籍供養墓
庫裡
歴代住職供養墓
路傍の地蔵堂
十二所神社 村上市鍛冶町9-10
拝殿扁額
本殿
堂裏山林庭園
藤基神社 村上市山之町11-12
堂裏池泉庭園
堂裏池泉庭園
堂裏池泉庭園
庫裡
墓地
社殿正面より直角に建つ鳥居
隣接する安泰寺と同じ地番に鎮座して三門に向いているので旧境内社と思われる
拝殿 切妻造妻入桟瓦葺三間庇向拝
本堂
禁葷酒だよ
寺号標 曹洞宗常福寺
福壽社 参道鳥居
社殿
扁額
竹林
池泉庭園
墓地
地蔵堂
地蔵菩薩
前庭
神明宮 神明鳥居
社号石碑 伊勢神明社
拝殿
本堂前庭
庫裡
僧堂・坐禅堂
三門 山号扁額
本堂 入母屋造桟瓦葺
本堂 寺号扁額
三門 寺号標札
三門 桟瓦葺四脚門
芭蕉の句碑と奥村素仙の句碑
村上市内には、芭蕉の句碑が村上地区に二ヶ所(加賀町、上片町)と岩船地区(岩船神社)に二つが現存している。大小二基の句碑の内大きい方は「雲折々 人をやすむる 月見かな」 ばせを(芭蕉) この句は、芭蕉七部集「春の日」にあり、貞享二年(1685)の作とされている。芭蕉が「奥の細道」の旅の途中、村上へ訪れたのは元禄二年(1689)八月の頃であった。
小さい方は「月すゞし 松かさ落ちて 水の隈」 素仙 この句は、村上小国町在住の奥村覚左衛門の詠まれた句で、俳号は素仙。
この二つの句碑は、天保十四年(1843)十月に、芭蕉百五十回忌、素仙十七回忌追恩のために加賀町観法院の別当であった
白露観夢為坊が建立したもので、稲荷神社脇は夢為坊の住んでいた観法院の門外であった。夢為坊は、神澤氏、名は快安、梅応或いは白露観と号し、天保十四年十月十二日(芭蕉の祥月命日)に、羽黒町萬福寺に於いて両句碑の供養句会を開き、「月迺鏡」と題して俳書を刊行した。
案内説明より
前庭
旧光榮寺跡
三界萬霊等供養塔
無縁墓石供養塔
歴代住職供養墓
庫裡と旧鐘楼
地蔵堂
地蔵菩薩石像
客殿大棟
客殿・信徒会館
本堂 宝形造桟瓦葺一間向拝
加賀町稲荷神社 村上市加賀町4-2
湯殿山 佛海上人紀念石塔
一千日山篭 木食佛海上人
鎮座地「久保多町」由来
江戸時代初め村上藩主・堀直竒より始まる堀家時代の城下絵図に「窪田町」と見え、町並北側には馬場が描かれている。寛永九年(1632)直竒公の兜守りである馬頭観世音菩薩を本尊として観音堂が建立されたが、後に塩町に移された。
正徳二年(1712)の竈数(かまどの数 戸数)は百二十四。享保六年(1721)の大火を経て、従前の「久保田町」を「久保多町」と改め、明和五年(1768)観音堂跡地に遠州から火除け、火伏の神である秋葉神社を勧請した。今参道鳥居傍に立つ大欅は、馬場前・馬頭観音堂が建てられていた当時の樹である。
案内説明より
家紋が彫られているが
家紋
墓地
こちらは墳墓と刻されている
墓石刻字は俱會一處が多くある
山門 龍の彫刻
稲荷神社
稲荷神社鳥居扁額
正一位 王子稲荷大明神
社殿
東奈彌久志神社鳥居
鳥居 社号扁額
拝殿
境内墓地
水子地蔵尊
地蔵堂 供養地蔵尊
歴代住職供養塔
大町古峯神社 村上市大町3-17
池泉庭園
忠魂慰霊碑
村上藩士殉難の碑
左側・鳥居三十郎碑 右側・種川碑
十一面観世音菩薩
御神木 銀杏
三門
奉納燈籠と神門
三門 桟瓦葺四脚門
社務所
庫裡
庫裡大屋根
座禅堂?
本堂
水屋
三門 蟇股
三界萬霊・禁葷酒山門石塔
満霊等 貞享三丙寅十一月四日刻形が明確なので再刻されたようだ
手水舎
墓地
御神木 樹幹
湯殿山石塔 木食 鐡門海
文化十年乙亥四月八日と刻されている。上人が入寂したのは文政十二年なので生前の石塔と思う
参道鳥居
修行 王三昧石塔
大棟鬼瓦
参道樹木
御神水井戸
参道 阿弥陀如来九品仏石像
玉乗り獅子阿形狛犬
境内参道
寺号石標
玉乗り獅子吽形狛犬
子持獅子吽形狛犬
子持獅子阿形狛犬
御神木 夫婦杉
二之神門 本瓦葺薬医門
神門
鐘楼
梵鐘
墓地
千手観音像
庫裡
三十三観音?を祀る
本堂 入母屋造桟瓦葺
境内花木
如意輪観音像
三門 扁額
三門 桟瓦葺四脚門
歴代住職供養墓
歴代住職供養碑
墓地
山居用水碑
山居耕地用水完工記念碑
社殿
羽黒口稲荷神社 村上市羽黒口8-12
本堂裏山を借景の庭園
本堂前 聖観世音菩薩
境内墓地
歴代住持供養塔
三門傍の花木 百日紅
庫裡
参道傍の地蔵菩薩
墓地 門前にあります。
長い参道
龍皐寺標札
本堂 入母屋造桟瓦葺
大棟瓦の紋
慶長九年(1604)、武田万千代丸君様の家老・穂坂掃部は同僚の丹羽源左衛門により無実の罪を受け、妻や二人の子供と共に江戸に於いて、非業の死を遂げました。それ以来、穂坂親子の霊魂は丹羽家は申すに及ばず、その縁に連なる樅山家などにも禍を及ぼしてきました。三百八十二年の間、苦しみぬいてきた霊魂も、このたび縁のある妙性寺に於いて尊い法華経の功徳を頂き、安らかに成仏することになりました。ここに供養塔を建立し、、末永く菩提を弔っていきたいと思います。なお、穂坂家の霊は今後修業し、子供の守護神となって人々をご守護下さるとの事でございます。皆様の心からのご参詣をお願いいたします。
案内説明より
武田万千代丸
ここで言う武田万千代丸は、德川家康の五男、松平信吉(武田七郎信吉)と想像できる。武田万千代丸は甲斐武田家の一族・穴山君信(穴山梅雪)につながる出自で、梅雪は武田家滅亡に至る道筋をつけた、云わば武田家にとって裏切りものであったが、德川家康からすると武田家討伐の同盟者的な関係であった。しかし、その後に起こった本能寺の変後の三河帰途の際に穴山梅雪は横死している。
甲斐源氏正統は絶えたものの、形の上からも女系武田家の再興を德川家康も望み、自らの子に武田家を継がせた。德川家康の五男という貴種から支配地も転々とするが、最終支配地として与えられたのは常陸国水戸十五万石であった。その家臣は旧領の甲斐の穴山家の家臣を中心に旧武田の武士団であったと云われている。家老・穂坂掃部はそのような武士団の一員であったのであろう。しかし主君武田万千代丸は慶長八年(1603)九月十一日に死去しており、水戸藩の当主も間をおかず同年十月、家康の十男長福丸(後の御三家・紀州藩初代藩主)に代わっており、長福丸も武田家臣団を継いだとすれば、武田万千代丸ではなく、長福丸時代の事と思えるのだが。
十二所神社
境内ではグランドゴルフの練習中
社殿と奉納燈籠
拝殿扁額
曹洞宗 長楽寺
創立 天文九年(1540)、開基 本庄越前守繁長、開山 耕雲寺十一世 三心宗尹(さんしんそうい)禅師。
始めは里本庄にあり、本庄氏に従う形で村上に移った。本庄氏が村上を去るのは天正十八年(1590)末、福島城主になるのが慶長五年(1600)。その時、同寺は福島へも建立された。福島長楽寺の開山は、宗尹の師の大沖元甫(だいちゅうげんぽ)である。江戸時代中期には城主・榊原氏や本多氏などの家中寺として遇されたか、両家の重臣らが菩提寺にしている。参道入口には九品仏の上品下生仏、境内には三十三番観音を祀る。
案内説明より
曹洞宗 東林寺
創立は明暦元年(1655)三月、開山は泉梁和尚、満福寺の末寺である。その以前は妙心庵と称した庵寺であったという。その妙心庵に隠居生活をしていたのが、村上茶の元祖といわれている徳光屋覚左衛門(本名
土田)夫妻。ゆえに境内地には、夫妻の墓碑と頌徳碑が建立されている。また寺内には夫妻の肖像画がある。覚左衛門の没年は寛永十一年(1634)六月二十六日。頌徳碑の建立は大正十一年(1922)。当時の住持
竹内越岸(えつがん)の発起による。
案内説明より
古峯神社石標
木製鳥居
社殿
曹洞宗 満福寺
創立 慶長元年(1596)、開山は耕雲寺十四世 剛安寿金禅師。
宝永二年(1705)での山号は村上山とある。後に慈海山(じかいさん)と改め、さらに體真山と改めた。山号を改めた理由は不明であるが、村上山の山号は地名によることは明らかである。文書上の村上の初出は永正六年(1509)九月十一日である。文化二年(1805)に建て替えられた時の費用は九十両三分二朱と銭千三十五貫七百三十文。全て銭にすると、千六百五十一貫八百六十二文であった。当時の大工日当は百五十文、米一俵一貫六百五十文の時代である。
案内説明より
酒井錪(刻された文字と異なるが)
内藤家に縁のある方? 墓石には明治三十年五月七日との銘がある
隣り合わせで、正脈院殿、雲照院殿、單傳浄徹大居士享保六辛丑三月十八日などと刻された墓石がある
八代信旭 九代信凭 十代信敦
十一代・信思
十二代信民 十四代信任 十五代信利
十六代信篤
手水舎
後拾段
三之鳥居 両部鳥居
修復の時下ろされたものか
参道石階段
二之鳥居 両部鳥居
御輿殿
三基の御輿が収納されている
御輿殿 先太鼓の札がある
正面の山上に鎮座している
参道傍の馬頭観音石像
社号標
一之鳥居 石鳥居
羽黒神社社務所
社殿
県道3号線鍛治町交差点角に鎮座
猿田彦神社
傍に猿田彦神の石塔が建っている
この祠は分らないが
稲荷神社と勝手に想像する
本殿
社殿
神前樹木
社号標
神門 奉納燈籠
桟瓦葺四脚門
稲荷神社
神饌殿
御神木
本堂
本堂 獅子頭
本堂前 樹木銀杏
仁王門扁額
仁王門
湯殿山石塔
振袖地蔵尊
山号扁額
門前 南無妙法蓮華経石塔
山門 桟瓦葺薬医門
児玉亀六句碑 手前
三門 薬医門
三門 扁額
開山 久成院日扇上人供養塔(左)
南無妙法蓮華経供養塔(右)
本堂 山号扁額
本堂
門柱 寺号石標
開山・善住院日遥上人塚と供養塔
本堂
山門 寺号石標 銅板葺棟門
門前 南無妙法蓮華経石塔
山門 銅板葺棟門
山門
境内
阿弥陀如来
本堂
本堂
寺号石柱
善行寺
本堂
山門
鐘楼 梵鐘は吊るされていない
庫裡 信徒会館
本堂
山門 入母屋造銅板葺三間一戸楼門
本堂木組み
越前松平(結城)家紋と浄土宗・宗紋
本堂と阿弥陀如来立像
山門一心山専念寺
庚申堂 三猿
六地蔵尊 稚児地蔵
寺号標
河内神社 鳥居
国道345号肴町交差点向いに鎮座
社殿
年額 河内大明神
地蔵堂
地蔵菩薩
塩町の由来
元和元年(1615~1624)の頃の越後村上城図に、小町の東端に「シヲ街」の名が見えます。これは当時小町が塩を商っていたことを示しています。寛永十二年(1635)の村上惣町並銘々軒付之帳には「本塩町」二十軒が載っており、位置は大町と寺町の間である。ここにあった町が藩主・松平大和守により、当時御免町を称していた今の塩町に移されたと云われます。
町名は小町がもっていた塩の専売権を受け地濱塩を扱ったことに由来します。宝永二年(1705)の家数、八十三軒。
案内説明より
湯殿山石塔
注連寺 佛海上人 神海と刻されている
塩町稲荷神社 村上市塩町6-34
歴代住職供養墓
本殿 覆い屋
二柱の祠がありました 祭神?
三界萬霊等供養塔
無縁墓石供養塔
寺号標
四基の石塔が立つ
手前から湯殿山・庚申塔・素仙句碑・芭蕉句碑
素仙句碑
芭蕉句碑
伊勢神明社 村上市小町4-18
村上市指定天然記念物 欅
社殿
拝殿 屋根には鳩が遊ぶ
本殿 覆い屋でしょうか
東奈彌久志神社 村上市庄内町9-17
庫裡
本堂
門柱石標
本殿
拝殿
拝殿扁額
聖観世音菩薩
本堂前庭
本堂前庭
参道
神明宮 旧羽黒神社社殿
神明宮 説明板
長楽寺門柱標
城山の麓の杉木立
吽形狛犬 参道右に置かれている
阿形狛犬 元治元年八月吉日
本堂扉
耕雲寺の寺紋でしょうか
山号石標 飯野山龍皐寺
不許葷酒容山門
地蔵菩薩
長井町秋葉神社 村上市長井町2-16
庫裡
本堂 寺号扁額
本堂
境内樹木
納骨供養塔
庫裡
境内樹木
墓地
曹洞宗 飯野山龍皐院 村上市羽黒町12-30
狛犬と奉納燈籠
参道
光濟寺標札
三門 扁額
三門 四脚門
無縁墓供養塔