城下町村上の神社

  真宗大谷派 
善行寺元和七年(1621)、村上城主 堀丹後守直竒(ほりたんごのかみなおより)侯に境内を寄進され創立との伝承あり。のちに歴代城主、特に内藤侯の知遇を受け、家老久永、島田、その他重臣の菩提寺となる。
寺は明治五年の大町の大火で全焼し、ご本尊の阿弥陀如来像を除き寺宝、諸記録等が消失した。現在の本堂は類焼直後、仮の本堂として家老 久永家の邸宅の一部を移築したもの。その後、昭和十年頃より本堂再建の計画を立て、着工直前まで準備されたが、昭和十二年七月に日中戦争が勃発したことから寺院再建は中止となり、その後、再建の機会を失い、現在に至っている。
            案内説明より
            

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河内神社
  
村上市肴町13-31

合祀 拝殿 古峯神社扁額

合祀 拝殿 金毘羅権現扁額

境内樹木

秋葉神社

拝殿と奉納燈籠

拝殿扁額

庫裡

本堂

山門 棟門

  村上郷総鎮守 西奈彌羽黒神社  旧社名西奈彌羽黒山三社大権現
祭神: 奈津比売大神  宇迦之御霊大神  月読大神

社伝によれば持統天皇原燃(687)西奈彌山(後の城山)の頂に鎮座し西奈彌神社と称したのがはじまりと伝えている。西奈彌はセナミと読み瀬波郡(岩船郡とも)に由来するもので、延喜式(927)神名帳の磐船郡式内八座の一社の西奈彌神社に比定されている。
天正十六年(1588)城主・本荘繁長が庄内攻めに際して出羽三山神社に戦勝祈願をし、その霊験に因って庄内を手中に収め平定したことから神々を勧請した。その後、西奈彌神社と出羽三山の神々を合祀した事から明治維新にいたるまで「西奈彌羽黒三社大権現」と称し、村上郷中の総鎮守として歴代藩主の尊崇をあつめた。また、羽黒派修験の流れを汲む霊験あらたかな神社として庶民から崇められた。
堀丹後守直奇が元和四年(1618)城郭整備が行われるに際し神社が城から見下ろす処にあるのは畏れ多いとして、現在地に千本の松を植えて清浄の地と成し、社殿が移築造営された「千松山」と称されている所以である。寛永十年(1633)遷座祭が執り行なわれた。お城山から千松山への遷御を寿ぎ大町の人々が大八車に太鼓を載せ打ち鳴らしながら町中を練り歩き盛大に奉祝した。これが羽黒神社例大祭(村上大祭)の起源となる。
御遷座に際して三基の神輿が寄進され藩主・榊原勝乗の時に新調された。祭礼毎に毀損激しく、嘉永五年(1852)、藩主・内藤信親が京都所司代から老中に任ぜられた記念に寄進されたのが現在の御輿である。大祭は、三基の神輿が町中を隈なく巡る神幸祭が中心となる。 先太鼓(御先祓い)に先を打たせ、庄内からの凱旋を模した荒馬十四騎が先導し、傘鉾と十九代の各町屋台が供奉する古式豊かで絢爛たる祭礼であり新潟県下三大祭りの一つに数えられ無形民俗文化財に指定されている。
現社殿は、即身佛となり観音寺に祀られる仏海上人の発願によって明治十二年(1879)にに起工し、同十四年に建立された。羽黒神社の使いである龍神が示現し夢訓を受けた事から、多くの浄財を募って廻り、上人自ら百三十三段の参道石段を普請されたと伝えられている。

  神明宮 西奈彌羽黒山神社摂社
主祭神 天照大御神、豊受大神
配祀 愛宕神社、古峰神社、八幡神社、秋葉神社(郷中の無縁となった神社を合祀)
御霊験 五穀豊穣・商売繁盛・開運厄除け・縁結び・学業成就
  由緒
元禄三年、村上藩主 榊原式部大輔勝乗(かつのり)侯の発願により建立され、明治十二年に現在の社殿が竣工するまでは
西奈彌羽黒山三社大権現本殿として祀られていたが、その後、移築され「神明宮」となる。
日光東照宮の職人を招致して造営されたと伝えられ、極彩色の彫りに黒漆、金箔押し、丹塗りなど県下では珍しい桃山風の建築様式(三間社流造)を呈す。昭和四十四年に新潟県文化財指定を受け、文化庁指導のもとに解体復元された。
           案内説明より
             

山梨・新潟のいろいろ5


城下町村上の寺院


城下町村上の神社


山梨・新潟のいろいろ6  城下町村上の街巡り

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山梨・新潟その2

  高野山真言宗 観音寺
観音寺の興りは、弘安五年に西国三十三札所の第一、紀州那智山より千手観音菩薩を勧請したことに始まります。越後の国主上杉公を始め代々領主の厚い信仰を受けました。慶長五年、覚遍上人を中興開基として、元和四年(1618)には堀丹後守により内殿が建立されました。また、同五年には城主松平大和守により内殿に増築が施されました。
寛永三年の失火でほとんどが灰と化しましたが、本尊のみ火中に歴然と存立したと伝えられております。その時の住職宗海上人は直ちに再建を志し、当時、既に奥州白河に移封となっていた松平公に懇請、また、領主本多吉十郎公のお墨付きを得、再建を果たされました。その後歳月は経ち、湯殿山行者木食佛海上人が住職に就き、明治八年には再建大修理が施され、寺門はその高徳を慕う信者により隆盛を見ました。明治三十六年三月二十日、ご上人は入定され、昭和三十六年七月に即身仏となられて、再びお姿をお現わしになられました。
  振袖地蔵菩薩    
今は昔、一人の六部(霊場巡礼者)が陸奥国恐山に参拝も為に立ち寄った。橋のたもとの切株に腰を下ろしているうちにいつの間にか居眠りを始めてしまった。そのうちに深い眠りに陥り夢うつつの中で、山のデコボコ路を一台の車が走ってきて六部の前で停まった。驚いて顔を上げて見入ると、なんとそれは地獄絵図から抜け出したような火の車であった。恐る恐る見上げると車の上には、年若い娘が乗せられていた。「お前さんのその姿はどうしたわけなのか」と尋ねたところ、「私は病のために死んで冥土の参りましたが、私には何の罪と過ちもございません。ただ私の親たちが心よろしからず強欲非道の振る舞いにて、あまたの人を苦しめ悩ましたために私が地獄の苦しみを受けるのです」
「そなたの国はどこで名は何というものか」と重ねて尋ねると「私は越後の国、村上城下、鍛治町の奥村喜助の一人娘で、アヤと申します。私を不憫と思し召したら越後の国村上城下へお出の折がございましたらぜひとも私の家にお立ち寄りになり、事の次第を物語り、心を改め非道な行いをなさらぬよう両親をおさとし頂きたい、又私を救うためにご供養をお願いするとお伝えくださいますように」
涙ながら物語る娘の話を聞いた六部は「私はいずれ越後路を廻るであろう、しかし娑婆の人間というのは疑い深い者、故に私がお前の話を伝えてもよもや信じてはくれまい、その時はあきらめてくれ」「それではこれを証拠としてお持ちください」と着物の片袖をビリビリと引き裂き六部に渡すと、幾度となく頭を下げて、その姿はかき消す如く見えなくなった。それからいくばくもなく、彼の六部は越後村上・奥村家の門前に辿り着いた。家の者に恐山の一部始終を話したが案の定、信じようとする者は一人としていなかった。しかし証拠の片袖をとり出すと居合わせた親類一同疑う余地なく、不憫な娘の供養にと建立したのがここに安置されている地蔵尊である。この地蔵尊はその謂れから振袖地蔵と呼ばれている。
           案内説明より
             
  浄土宗 浄國寺
創立 元和五年(1619)
城主 堀直竒(ほりなおより)の城下町建設の開始とともに建立された寺である。開山は往蓮社生誉呑虎(おうれんしゃしょうよどんこ)和尚。収蔵の木像釈迦涅槃は極めて珍しいもので、領主 内藤家家臣 夏目吉兵衛の姉で同寺の尼僧になって修業していた。教蓮社照誉善能比丘尼(きょうれんしゃしょうよぜんのうびくに)が、寛延三年(1750)に寄進したものである。本尊左右の飛天は、村上の名工と称えられた稲垣周左衛門が安政四年(1857)に彫ったもの。また内藤信積(のぶもり)の菩提のために納めた観世音菩薩や寺紋の一つに、内藤家の家紋 まんじ・藤丸(巻藤)を使用していることから、同家の家中寺であったことが推量される。
  光榮寺跡
元禄二年(1689)六月二十九日、「奥の細道」行脚の途次、河合曽良が知人・喜兵、友兵と共に、旧主の三男・榊原一燈(大学良兼)のお墓詣りをした光榮寺は、当浄國寺に隣接して建っていました。
          案内説明より          

稲荷神社参道鳥居

鳥居扁額

拝殿

初代 内藤信成

右から二代信正 三代信照 四代信良

五代弌信 六代信輝 七代信興

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境内花木

墓地

穂坂掃部及び稚児二名供養碑

庚申堂向拝 龍彫刻

本堂 山号扁額

僧堂・庫裡

御神木 夫婦杉

御神木樹幹

拝殿向拝彫刻

拝殿扉の内藤家家紋

拝殿向拝柱木鼻彫刻

拝殿向拝虹梁

三門 彫刻

曹洞宗 體真山満福寺  村上市羽黒町7-8

曹洞宗 萬年山長楽寺  村上市羽黒町11-43

幹線道路から奥まって鎮座

稲荷神社 石段横の巨樹

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城下町村上の寺院

曹洞宗龍皐院   曹洞宗長楽寺   曹洞宗満福寺   曹洞宗東林寺   真宗大谷派行恩寺 


浄土宗浄國寺   曹洞宗善澤寺   曹洞宗常福寺   曹洞宗寶光寺   浄土宗光徳寺  


高野山真言宗寶性寺   浄土宗専念寺   真宗大谷派善龍寺   高野山真言宗法音寺  


真宗大谷派安善寺   真宗大谷派願浄寺   高野山真言宗十輪寺   真宗大谷派本悟寺  


真宗大谷派等覺寺   真宗大谷派善行寺   真宗大谷派光濟寺   浄土宗浄念寺 


日蓮宗経王寺   日蓮宗長法寺   浄土真宗本願寺派西真寺   日蓮宗妙法寺  


臨済宗妙心寺派安泰寺   日蓮宗妙性寺   高野山真言宗観音寺   真言宗智山派西寶院  
 

参道 拡張道路より奥まって
鎮座している

鳥居 一基のみです

社殿 切妻造桟瓦葺妻入一間向拝付

社号扁額



西奈彌羽黒神社
senamihagurojinjya  村上市羽黒町6-16

本堂横のお堂 祀られているのは?

境内墓所



浄土真宗大谷派 焼栗山願浄寺 
 
村上市寺町2-7
  真宗大谷派 安善寺
創立は明暦元年(1655)十月十九日、開基浄貞上人。
楼門(下層に屋根のない二階造りの門)の建立は正徳二年(1712)で、(明暦年間の説もあり)村上城下では他に類がなく、貴重な建築物である。なお、復元改修工事は平成十七年である。
鐘は第二次世界大戦の際に供出したが、冶工は村上の鋳物師 平野平太夫と同清兵衛である。境内に立つ高雄紅葉は、樹齢もさることながら非常に発色がよく、村上市の天然記念物に指定されている。また村上藩医でカラフト探検を行った窪田潜竜や相撲取りの羽黒嶽権五郎の墓所でもあった。
            案内説明より
             
  真言宗 法音寺
宝永二年(1705)の記録では元和元年(1615)阿闍梨宗海)の開基によるとあり、本寺は羽州(山形県)湯殿山滝水寺とある。その後、延宝六年(1678)明海上人により再建された。明治十六年(1883)の記録では、同寺は高野山明王院の末寺とある。本尊の不動明王は、日本三大不動尊の一つの菅谷(新発田市)の不動尊を分霊したものである。菅谷の不動尊はインドから中国、そして最澄によってわが国に伝えられ、菅谷へは源頼朝の叔父護念上人によって伝えられたという。
             案内説明より
          
  真宗大谷派 善龍寺
創立は寛永十六年(1639)四月十九日、開基は秀円和尚。
もとは仲間町にあったが、城主堀丹後守直竒が、その場所を「茶屋」にするため、現在地に移したと伝えられている。現在の本堂は天明六年(1786)の飢饉のとき、檀頭宮川屋彦次郎(本姓風間)が生活困窮者を救済するため、私財を投じて建てたものである。工期は足かけ二年、大工 六千二百三十七人、塗師 八百七十一人、経費合計一四両二分と銭二七三○貫であった。欄間や向拝などの彫刻は、板垣伊兵衛の手になる見事な出来である。
           案内説明より
              
  浄土宗 専念寺
創建は元和七年(1621)京都知恩院の末寺。本尊は阿弥陀如来で脇侍は観音菩薩と勢至菩薩である。
開山の呑徹上人は豊臣家臣、新田源左衛門尉貞経の五男。京都の法然院で修業し、その後江戸に出て伝通院や増上寺で学んだ僧である。寺の記録によると、慶安二年(1649)、松平大和守直矩侯播州姫路より村上城主として入封、その後同寺は菩提寺となる。寺を再建し鐘楼を建立、荘厳を整え、そして京都の仏師が彫った千躰佛を奉祀)したが、明治九年の火災でわずかを残して焼失、現存するのはその後の作で、身丈六尺の地蔵菩薩とともに祀られている。境内には院殿号の墓があり、当時のものと思われる。本堂前にある阿弥陀如来の石像は九品仏の下品中生仏である。
            案内説明より
  真言宗高野山派 寶性寺  庚申堂
創建、天文九年(1540)に行海上人が摂津国から勧請)して、安良町に祀ったといわれている。その後、寛文七年(1667)城主榊原式部大輔政倫(さかきばらまさとも)が、現在地に移し、安良町の跡地には稲荷神社を建てたとされる。片町に庚申堂を移したゆえんは、その地が村上城下の中心「札の辻」(大町と上町と安良町の接点)から見ると表鬼門にあたることからで、城下の鬼門封じのためである。庚申信仰は古代中国に発祥し、魔除けや悪鬼封じなどの目的で、村外れや辻によく祀られるが、堂を建立するものは非常に少ない。安政六年(1859)の建立である。
             案内説明より

  浄土宗 光徳寺
創立、正保元年(1644)、内藤家三代 信照侯が棚倉(福島県)で開基し、源蔵和尚が開山した。
山号の常照山は、源蔵が内藤家始祖の信成侯とともに伊豆国・韮山へ移ったときに常照寺を建立したことによる。法善の院号は信成侯の諡、光徳は内藤家二代 信正侯の諡である。(内藤信成候「法善院殿陽竹宗賢大居士」  内藤信正候「光徳院本誉善壽宗學」三の丸にあるこの寺は古くから代々の城主の菩提寺となった。村上藩主家が変わるたびに菩提寺となり寺号もその都度変号された。英林寺は堀直竒侯(元和四年~)、光顕寺は結城(越前)松平直矩候(慶安二年~)、瑞峰寺は榊原政倫侯(寛文七年~)西岸寺は本多忠孝候(寶永元年~)、天休院は大河内松平輝貞候(寶永七年~)等々光徳寺は享保五年(1720)に内藤侯が入封してからで寺領百石を拝領して以来、150年間続いた。寺域は城内の一郭として、国重要史跡に指定されている。
            案内説明より
              

  曹洞宗 常福寺
創立天文九年(1540)、開山は保山祝恕(ほざんしゅくじょ)和尚。同和尚の師は長岡鷺巣(さぎす)村の定正院を創建した曇英(どんえい)和尚である。城主 堀直竒が長岡から村上へ転封されるとともに、常福寺も従ってきた。二十四代住職 仙翁(せんのう)和尚の書写した大般若経六百巻が所蔵され、写経に用いた筆を納めた筆塚がある。また、土方雄隆の墓所でもあった。土方は陸奥国窪田(現いわき市)一万八千石の大名。家中騒動により城地没収、主君の雄隆は村上の榊原勝乗に預けられたが、元禄四年(1691)六月十二日、村上で没した。
            案内説明より
               
  曹洞宗 善澤寺
創立 慶長十一年(1606)、開山は福島市の長楽寺三世の傑山雲勝(けつさんうんしょう)和尚で、開基は堀丹後守直竒とある。堀直竒が村上城主になるのは元和四年(1618)であるから、創立年から十二年間の空白がある。その間、空寺になっていたものか。
本尊を聖観世音菩薩とし、境内には地蔵菩薩を祀る地蔵堂があった。古くは全悟庵と称し、現在の常福寺の場所にあった。そのときの和尚は諦真林察という。林察の師は長楽寺の雲勝、ゆえに林察は雲勝を開山とした。山門前の九品仏上品上生)の阿弥陀如来は、もと牛沢口にあったもの。
           案内説明より



福壽社 
 
村上市安良町2-11

村上神社へ

  浄土真宗大谷派 行恩寺
創立 寛文二年(1662)八月十八日、開基は浄真和尚で東本願寺の大谷派と、明治十六年(1883)の「新潟県神社寺院仏堂帳」にある。この創立年から推量すると、当時の領主 松平大和守直矩(15万石)の、家臣増加に伴う宗教政策上から建立されたものであろう山門に掲げられてある欄間の彫刻の龍は、村上の生んだ工匠 有磯周斎が娘ハツのために当寺へ寄贈したものである。
           案内説明より



窪田町秋葉神社
  
村上市久保多町4-27

村上神社へ



浄土宗 聴松山浄國寺
  
村上市長井町4-10

  日蓮宗 妙法寺
開基、天正四年(1576)久成院日扇上人による。文化二年十一月(1805)に全堂(本堂・庫裡・山門・番神堂・三重塔)を焼失。殿様も火災見舞に来られたと記事にある。表より裏から見た方が見事な山門や唐破風の本堂は、その後に建てられたもの。この寺には堀丹後守の家臣 堀大膳の、さほど大きくない自然石の墓がある。「春の立つしるしやかすむ雪の山」小谷松帰一師の句碑もある。また、宗祖日蓮聖人真筆の手紙断片(宗宝)が保管されている。
           案内説明より
               
  浄土真宗本願寺派 西真寺
開基良喜は、平重衡の子孫 本庄重幸で、信州飯山に住していた。当時、重幸は上京し、東本願寺教如上人に帰依し、出家得度して法名釈良喜と下された。飯山に帰って、時の城主 堀丹後守直竒侯により一宇を建立、教如上人より寺号斉真寺と免許された。堀丹後守が元和二年(1616)越後長岡城主、次いで同四年 村上移封の時、随従して堀片に寺地を拝領した。その後、松平大和守が城主の時、寺町へ替地、殿堂を再建した。寛文二年(1662)十月二十九日良如上人のとき西本願寺(浄土真宗本願寺)に転派、寺号を西真寺と改めた。
            案内説明より
               

  曹洞宗 龍皐院
創建は文安三年(1446)室町時代中期・室町幕府八代将軍足利義正の治政である。後に、耕雲寺(村上市門前)五世に晋住(持住職)される徳嶽宗欽(とくがくそうきん)大和尚が草庵を結び、九皐庵と称して山居されたことが始まりである。
開山没後、新発田の宝積寺より、法孫(耕雲寺末寺)瑚珊文愛(こさんぶんあい)和尚がきて、山号を飯野山と定め、寺号を龍皐院と改めて中興し今日に至っている。現在の本堂・庫裡は平成二年(1990)に、山門は平成九年(1997)に改築されたものである。門前には、享保二年(1717)造立の地蔵菩薩立像がある。その近くには「三ツノ山」(江戸時代の力士)の墓碑がある。
          案内説明より              

本殿

本殿



真言宗智山派 西寶寺
  
村上市肴町5-16



高野山真言宗 大悲山観音寺
  
村上市肴町15-28



日蓮宗 妙性寺
  
村上市小国町5-9



臨済宗妙心寺派 護國山安泰寺
  
村上市塩町6-34



日蓮宗 久遠山妙法寺
  
村上市寺町5-3



浄土真宗本願寺派 信飯山西真寺 
 
村上市寺町3-29



日蓮宗 遠壽山長法寺 
 
村上市寺町3-24



日蓮宗 真光山経王寺 
 
村上市寺町3-22



浄土宗 快楽山称名院浄念寺
  
村上市寺町3-13



浄土真宗大谷派 虎丸山光濟寺
  
村上市大工町2-5



浄土真宗大谷派 笠原山善行寺 
 
村上市大工町1-5



浄土真宗大谷派 六角山等覺寺 
 
村上市細工町1-15

村上寺院へ



浄土真宗大谷派 津波倉山本悟寺 
 
村上市細工町1-2



高野山真言宗 如意山十輪寺 
 
村上市大町3-17



浄土真宗大谷派 三藤山安善寺 
 
村上市小町3-34



真言宗 常光山法音寺
  
村上市小町3-9



浄土真宗大谷派 護法山善龍寺
  
村上市庄内町7-11



浄土宗 一心山専念寺 
 
村上市庄内町7-8



真言宗高野山派 光照山寶性寺
  
村上市片町4-34

庚申堂



浄土宗 常照山法善院光徳寺
  
村上市羽黒口7-24



曹洞宗 迎接山寶光寺
  
村上市羽黒町2-23



曹洞宗 真寶山常福寺
  
村上市羽黒町4-1



曹洞宗 日光山善澤寺
  
村上市羽黒町6-14



浄土真宗大谷派 傳忠山行恩寺
  
村上市長井町5-6

湯殿山石塔

村上城 飯野門跡石碑

  村上城飯野門
三之丸の南端にあって、羽黒門とコの字で連結されるこの門は、追手門と共に村上城郭中、壮大な規模を誇る門である。二層の隅櫓と堀と土塁によって固められた郭内は、榊原氏在城当時三千石の家老であった原田権左衛門の屋敷地であった。山居前道や牛沢道から侵入してくる敵を防ぐ要衝にあたるため、長井町と羽黒町の境には厳重な柵で囲まれた番所を置き、羽黒町の中央部から東部に侍屋敷を配していた。元和六年(1620)頃、堀直竒(ほりなおより)によって完成された。
             案内説明より             



曹洞宗 普門山東林寺 
 
村上市羽黒町8-10

宇賀大明神と毘沙門天を祀る

毘沙門堂

内藤家 墓所

内藤家墓所

追分に置かれた庚申塚

明和八辛卯年五月吉祥日と刻されている、以前は台座があったのであろうか、どこからか石塔だけを持ってきて
此処に置いたのではないかと思われる。石塔の約1/3は地中に埋められているようだ。

阿弥陀如来九品仏石像 上品・上生

左側湯殿山 右側庚申塔
家内安全 千日山篭(籠)木食行者 湯殿山佛海上人 左下に神海、悔海と刻されている

拝殿向拝彫刻

拝殿

拝殿 破風大棟鬼瓦 
社紋が示されている(根上三階松)

向拝柱の獅子頭

吽形狛犬

阿形狛犬

踊り場から第二の石段

 

村上寺院へ

参道

西寶寺

庫裡 会館

阿弥陀如来像 新しい作造

宝篋印供養塔

墓地 周囲は叢、
管理は成されていないようです

湯殿山修行道場 
佛海上人即身佛安置

本堂扁額

本堂

即身佛安置

金剛力士吽形像

金剛力士阿形像

寺号石標

扁額

庭園

庭園

佛海上人碑 
大正四乙卯年三月建立

稲荷神社社殿

稲荷神社 鳥居扁額

稲荷神社

切妻造桟瓦葺一間唐向拝

庫裡

開山 顕壽院日晋聖人紀念石塔

本堂

石柱門参道

南無妙法蓮華経石塔 題目塔

山門 主柱獅子彫刻

山門 境内側より 切妻破風

本堂

九品仏 阿弥陀如来

庫裡

本堂

多くの石碑が建てられている

歴代住職供養墓と 
日蓮大菩薩七百遠忌報恩塔

稲荷神社 庚申塔

稲荷神社 社号扁額

境内 稲荷神社

庫裡

墓地

墓地

庫裡

歴代住職供養墓と供養塔

山門 寺号標札

歴代住職供養墓と供養塔

本堂 南無妙法蓮華経遠忌供養塔

お堂 経堂でしょうか

庫裡

水屋 井戸

墓地

兎がのんびりと

境内樹木 銀杏

地蔵堂

地蔵菩薩

旧鐘楼でしょうか

庫裡

本堂向拝 斗栱形蟇股

墓地

山門 

山門山号扁額

山門 桟瓦葺四脚門

墓地

鐘楼

梵鐘

境内樹木

永代供養納骨堂

庫裡

本堂 入母屋造妻入り桟瓦葺唐向拝

境内庭園

永代供養納骨堂

庫裡

境内樹木 シダレザクラ

山門標札

本堂向拝

墓地

境内 句碑がありました

本堂 獅子の彫刻

境内樹木 銀杏

境内花木

墓地

本悟寺参道

本堂

本堂 入母屋造桟瓦葺一間流向拝

九品仏 阿弥陀如来 中品・下生

阿弥陀如来九品仏石像

大国主命と事代主命 父子石塔 

神明宮石標 新潟県指定文化財

境内社 左春日神社 右八幡神社

社殿 祭神: 日本武尊

古峯神社

歴代住職供養墓

境内墓地

境内樹木

閻魔大王 奪依婆

閻魔堂

本堂 宗門標札

庫裡 庭園

参道

寺号石標 

門柱 宗門石標 陽刻風に見える

本堂

山号扁額

庫裡

境内樹木

浪漫亭 国登録有形文化財 歳時季節のみ公開される 常時不可  村上市小町2-8

安善寺傍の浪漫亭

案内説明板

二層の火頭窓と廻廊

本堂

山門標札

山門 境内側より

左側にお堂が有ります

棟続 左本堂 右庫裡

小町鍵道より路地の奥にあります

境内樹木

鐘楼

梵鐘

庫裡

向拝龍彫刻

向拝虎彫刻

向拝 虹梁と木鼻

寺号扁額

宝形造桟瓦葺一間向拝

山門 山号標札

地蔵堂 地蔵菩薩 三界萬霊等供養

歴代住職集合供養墓

庫裡

境内には二つの建物があるがその名称は分らない

境内花木

庚申堂

庚申堂扁額

向拝虹梁・木鼻・向拝柱

金剛力士阿形像

金剛力士吽形像

仁王門

庚申堂

地元 公民館ともなっている

寶性寺

境内樹木 昼なお暗し

裏庭

裏庭

内藤家家族・親族供養墓

東京の菩提寺から改葬した

内藤家開創記念植樹 藤(家紋)

向拝柱

狛犬と奉納燈籠

祠が鎮座 
傍に甲字塚と刻された石塔があるが
甲子塚ではあるまいか

境内花木

地蔵菩薩

本堂

三河内藤家家紋 鬼瓦

庫裡

社殿彫刻

地蔵菩薩立像

三門

参道奉納燈籠

参道

参道に添って墓地がある

本堂

参道樹木

僧籍供養墓

庫裡

歴代住職供養墓

村上神社へ

路傍の地蔵堂

村上神社へ



十二所神社
  
村上市鍛冶町9-10

拝殿扁額

本殿

堂裏山林庭園



藤基神社 
 
村上市山之町11-12

堂裏池泉庭園

堂裏池泉庭園

堂裏池泉庭園

庫裡

墓地

村上神社へ

社殿正面より直角に建つ鳥居
隣接する安泰寺と同じ地番に鎮座して三門に向いているので旧境内社と思われる

拝殿 切妻造妻入桟瓦葺三間庇向拝

本堂

禁葷酒だよ

寺号標 曹洞宗常福寺

福壽社 参道鳥居

社殿

扁額

竹林

池泉庭園

墓地

地蔵堂

地蔵菩薩

前庭

神明宮 神明鳥居

社号石碑 伊勢神明社

拝殿

本堂前庭

村上神社へ

庫裡

僧堂・坐禅堂

三門 山号扁額

本堂 入母屋造桟瓦葺

本堂 寺号扁額

三門 寺号標札

三門 桟瓦葺四脚門

  伊勢神明社(伊勢神宮御旅社)由  御祭神 天照皇大神 豊受大御神

始祖は伊勢神宮造営時(約800年前)より伊勢神宮造宮一頭太夫として外宮の御鑰取(みかぎと)り内人職をつとめ鑰を預かると同時に、御師(おし)として伊勢神宮より手代を全国に送りました。
延宝三年、代表である伊勢神宮大宮司大中臣朝臣・長春と血縁であったところから、両皇大神宮の御神号を拝受しました。これを村上市に遷して伊勢神明社として崇敬する事となり明和年間に至り、一般参拝が許される事となり、現在、毎年一月から四月年賀大祭を斎行しております。八月十六日十七日には村上市の各町内の屋台による七夕祭り獅子舞奉納が社頭において披露されます。
             案内説明より           

  芭蕉の句碑と奥村素仙の句碑
村上市内には、芭蕉の句碑が村上地区に二ヶ所(加賀町、上片町)と岩船地区(岩船神社)に二つが現存している。大小二基の句碑の内大きい方は「雲折々 人をやすむる 月見かな」  ばせを(芭蕉) この句は、芭蕉七部集「春の日」にあり、貞享二年(1685)の作とされている。芭蕉が「奥の細道」の旅の途中、村上へ訪れたのは元禄二年(1689)八月の頃であった。
小さい方は「月すゞし 松かさ落ちて 水の隈」 素仙 この句は、村上小国町在住の奥村覚左衛門の詠まれた句で、俳号は素仙。
この二つの句碑は、天保十四年(1843)十月に、芭蕉百五十回忌、素仙十七回忌追恩のために加賀町観法院の別当であった
白露観夢為坊が建立したもので、稲荷神社脇は夢為坊の住んでいた観法院の門外であった。夢為坊は、神澤氏、名は快安、梅応或いは白露観と号し、天保十四年十月十二日(芭蕉の祥月命日)に、羽黒町萬福寺に於いて両句碑の供養句会を開き、「月迺鏡」と題して俳書を刊行した。
            案内説明より
        

前庭

旧光榮寺跡

村上神社へ

三界萬霊等供養塔

無縁墓石供養塔

歴代住職供養墓

庫裡と旧鐘楼

地蔵堂

地蔵菩薩石像

客殿大棟

客殿・信徒会館

本堂 宝形造桟瓦葺一間向拝



加賀町稲荷神社
  
村上市加賀町4-2

湯殿山 佛海上人紀念石塔
一千日山篭 木食佛海上人

  鎮座地「久保多町」由来
江戸時代初め村上藩主・堀直竒より始まる堀家時代の城下絵図に「窪田町」と見え、町並北側には馬場が描かれている。寛永九年(1632)直竒公の兜守りである馬頭観世音菩薩を本尊として観音堂が建立されたが、後に塩町に移された。
正徳二年(1712)の竈数(かまどの数 戸数)は百二十四。享保六年(1721)の大火を経て、従前の「久保田町」を「久保多町」と改め、明和五年(1768)観音堂跡地に遠州から火除け、火伏の神である秋葉神社を勧請した。今参道鳥居傍に立つ大欅は、馬場前・馬頭観音堂が建てられていた当時の樹である。
            案内説明より
             

家紋が彫られているが

家紋

墓地

こちらは墳墓と刻されている

墓石刻字は俱會一處が多くある

山門 龍の彫刻

稲荷神社

稲荷神社鳥居扁額
正一位 王子稲荷大明神

社殿

東奈彌久志神社鳥居

鳥居 社号扁額

拝殿

境内墓地

水子地蔵尊

地蔵堂 供養地蔵尊

歴代住職供養塔

村上神社へ



大町古峯神社
  
村上市大町3-17

池泉庭園

忠魂慰霊碑

村上藩士殉難の碑

左側・鳥居三十郎碑 右側・種川碑

  藤基神社
藤基神社社殿は総欅造りで、日光東照宮と同じ権現造りです。嘉永二年(1849年)に当時の工匠がその技を結集し、八年の歳月を費やして造りあげたものです。村上の生んだ工匠 有磯周斎による、かご彫りと呼ばれる彫刻の傑作を各所に残しております。
ご祭神は、徳川家康侯の異母弟にあたり、徳川家十七士の一人でもある村上藩の藩祖 内藤信成侯、十代 内藤信敦侯、十一代 内藤信思侯を祀ってあります。
(八幡大神、誉田大神)、火帯姫大神、(稲荷大神、倉稲魂神)、(秋葉大神、火産霊神)、学問の神である菅原道真公を祀ってあります。()内は同神とされることもある。

  忠魂慰霊碑
藤基神社の氏子でもある村上藩の旧士族の子弟が日清・日露の戦争において勇敢に戦って戦死した人の霊を祀った慰霊碑である。
案内板にある旧士族の子弟とあるのは、この慰霊碑を建立した人々が旧村上藩士であった子孫と云う事でしょう。両戦役には旧士族をはるかに上回る平民(旧士族も大多数は平民となったが、藩政時代の士族以外に人々)が犠牲となった戦いであった。ここに旧士族のみの慰霊碑を建立したのは、士族であったことの誇りを示したかったのでしょうか。

  村上藩士殉難の碑
戊辰戦争に於いて奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と勇敢に戦い殉難した家老である鳥居三十郎以下村上藩士十八名の名を刻した追悼の碑である。

  鳥居三十郎碑
村上藩は奥羽越列藩同盟に加盟し新政府軍と戦うが、藩論は抗戦派と恭順派に二分され対立のまま戊辰戦争の終結となった。その時の家老で、二十九歳の若さで戊辰戦争の責任を一身に背負い自決した鳥居三十郎の追悼碑である。今日の村上市を戦禍から守った功績は大きい。

  種川碑
世界で初めて鮭の回帰性に着目し「種川の制」を設けて鮭の増殖を図り村上藩の財源を潤わせた青砥武平治の頌徳碑である。
            案内説明より
             

十一面観世音菩薩

御神木 銀杏

三門

奉納燈籠と神門

三門 桟瓦葺四脚門

社務所

庫裡

庫裡大屋根

座禅堂?

本堂

水屋

三門 蟇股

三界萬霊・禁葷酒山門石塔
満霊等 貞享三丙寅十一月四日刻形が明確なので再刻されたようだ

手水舎

墓地

御神木 樹幹

湯殿山石塔 木食 鐡門海 
文化十年乙亥四月八日と刻されている。上人が入寂したのは文政十二年なので生前の石塔と思う

参道鳥居

修行 王三昧石塔

大棟鬼瓦

参道樹木

御神水井戸

参道 阿弥陀如来九品仏石像

玉乗り獅子阿形狛犬

境内参道

寺号石標

玉乗り獅子吽形狛犬

子持獅子吽形狛犬

子持獅子阿形狛犬

御神木 夫婦杉

二之神門 本瓦葺薬医門

神門

鐘楼

梵鐘

墓地

千手観音像

庫裡

三十三観音?を祀る

本堂 入母屋造桟瓦葺

境内花木

如意輪観音像

三門 扁額

三門 桟瓦葺四脚門

歴代住職供養墓

歴代住職供養碑

墓地

山居用水碑
山居耕地用水完工記念碑

社殿



羽黒口稲荷神社
  
村上市羽黒口8-12

本堂裏山を借景の庭園

本堂前 聖観世音菩薩

境内墓地

歴代住持供養塔

三門傍の花木 百日紅

庫裡

参道傍の地蔵菩薩

墓地 門前にあります。

長い参道 

龍皐寺標札

本堂 入母屋造桟瓦葺

大棟瓦の紋

慶長九年(1604)、武田万千代丸君様の家老・穂坂掃部は同僚の丹羽源左衛門により無実の罪を受け、妻や二人の子供と共に江戸に於いて、非業の死を遂げました。それ以来、穂坂親子の霊魂は丹羽家は申すに及ばず、その縁に連なる樅山家などにも禍を及ぼしてきました。三百八十二年の間、苦しみぬいてきた霊魂も、このたび縁のある妙性寺に於いて尊い法華経の功徳を頂き、安らかに成仏することになりました。ここに供養塔を建立し、、末永く菩提を弔っていきたいと思います。なお、穂坂家の霊は今後修業し、子供の守護神となって人々をご守護下さるとの事でございます。皆様の心からのご参詣をお願いいたします。
            案内説明より
  武田万千代丸
ここで言う武田万千代丸は、德川家康の五男、松平信吉(武田七郎信吉)と想像できる。武田万千代丸は甲斐武田家の一族・穴山君信(穴山梅雪)につながる出自で、梅雪は武田家滅亡に至る道筋をつけた、云わば武田家にとって裏切りものであったが、德川家康からすると武田家討伐の同盟者的な関係であった。しかし、その後に起こった本能寺の変後の三河帰途の際に穴山梅雪は横死している。
甲斐源氏正統は絶えたものの、形の上からも女系武田家の再興を德川家康も望み、自らの子に武田家を継がせた。德川家康の五男という貴種から支配地も転々とするが、最終支配地として与えられたのは常陸国水戸十五万石であった。その家臣は旧領の甲斐の穴山家の家臣を中心に旧武田の武士団であったと云われている。家老・穂坂掃部はそのような武士団の一員であったのであろう。しかし主君武田万千代丸は慶長八年(1603)九月十一日に死去しており、水戸藩の当主も間をおかず同年十月、家康の十男長福丸(後の御三家・紀州藩初代藩主)に代わっており、長福丸も武田家臣団を継いだとすれば、武田万千代丸ではなく、長福丸時代の事と思えるのだが。

  曹洞宗 寶光寺
創立享保十一年(1726)九月、開山一燈和尚。この山を牛沢山といい、村上城主内藤信輝の火葬の地であった。内藤氏が村上城を賜ったのは弌信(かずのぶ)で、その跡を信輝が継ぐも、享保十一年十月2二十五5日に没した。一燈和尚は、その火葬地に観音菩薩の堂を建立して像を安置した。信輝の跡を継いだ信興は、観音堂の維持のため山林を寄進している。同寺には、里本庄から発掘された長禄三年(1459)紀年銘の鰐口(村上市文化財)が蔵されている。墓所には、鮭育養の祖 ・砥武平次、村上藩家老 ・居三十郎、村上町校初代校長・長尾右門、皇室傅育官長・三好愛吉等の墓碑がある。
          案内説明より

十二所神社
境内ではグランドゴルフの練習中

社殿と奉納燈籠

拝殿扁額

  曹洞宗 長楽寺
創立 天文九年(1540)、開基 本庄越前守繁長、開山 耕雲寺十一世 三心宗尹(さんしんそうい)禅師。
始めは里本庄にあり、本庄氏に従う形で村上に移った。本庄氏が村上を去るのは天正十八年(1590)末、福島城主になるのが慶長五年(1600)。その時、同寺は福島へも建立された。福島長楽寺の開山は、宗尹の師の大沖元甫(だいちゅうげんぽ)である。江戸時代中期には城主・榊原氏や本多氏などの家中寺として遇されたか、両家の重臣らが菩提寺にしている。参道入口には九品仏の上品下生仏、境内には三十三番観音を祀る。
          案内説明より

村上神社へ

  真宗大谷派 等覺寺
当寺は真宗大谷派六角山等覺寺と号し、開山は慶長十五年(1610)、今から四百年前、世の中は江戸時代の初期、家康、阿国、林羅山等が歴史に名を連ねる時代であります。開基 釈了法は播磨国六角村に生を受け、姫路市の本德寺で僧門に入り、後、御本尊阿弥陀如来立像と両御脇掛(親鸞、蓮如)に共をして、この地 村上で開山致しました。
本尊の男性的御尊顔を拝するに、その永き古、困難な旅の御苦労を偲び申し上げ、この永く村上に支えられて来た事に感謝申し上げる次第であります。寺紋は三ツ割り菊であります。
              案内説明より
            
  日蓮宗長法寺
開基、文禄元年(1592)善住院日遥上人による。
元は猿沢(朝日地区)にあった寺と伝えられ、隣寺の経王寺の末寺と『村上寺社旧例記』にある。本尊の釈迦如来は仏教の始祖で、多宝如来は法華経の真実義を証明するために地より湧出した仏である。もう一躯の鬼子母神は、子の養育を助け、法華経を弘める行者を守護する神という。本堂に用いられている柱材などは天保年間(1830~1844)に村上城の居館を解体、再建したときに払い下げられたものを用いたと伝えられている。
            案内説明より
               
  日蓮宗 経王寺
創立は貞和五年(1349)、開山は日蓮上人の孫弟子 日住上人である。
最初、日住は経王寺を西蒲原角田に開いた。その後、永禄年間(1558~1569)猿沢に移り、慶長年間(1596~1614)に村上城に移り、今日に至っている。村上城主が村上藩松平家(結城・越前)初代・松平直矩のとき(1649~1667)には、直矩の父 直基の母 品量院と、直矩の母 永寿院の位牌所にされていた。松平家の姫路転封に伴い、分かれて一寺は姫路へ移る。姫路での寺号は永寿寺である。境内に大名 間部家の家老 勢家市右衛門が父母の菩提のために建立した五輪塔が現存する。俗に寺町の大寺といわれている。
           案内説明より
                
  浄土宗 浄念寺
開基、明応年間(1492~1501)の頃、浄念法師、開山、天正年間(1573~1592)、秀譽萬立(しゅうよばんりゅう)上人。本尊、阿彌陀如来座像 丈六佛。
この寺の本堂(1818年再建)は白壁土蔵造りで国指定文化財(平成三年三月三十一日指定)である。村上城主 本多家、榊原家、間部家(1644~1720)の菩提寺で、間部越前守詮房侯の御霊屋がある。元禄二年、奥の細道の道中、松尾芭蕉と弟子の曽良が参詣している。(当時 泰叟寺と号していた)
  村上市寺町
堀家が村上城拡張の際、戦略上(武者処、武器庫、出城等々)ここに寺を集めました。寛永十二年(1635)の「村上惣町並銘々軒付之帳」には、寺町二十七軒、本塩町二十軒とあり、寺は常念寺、経王寺など。願浄寺は本塩町に見えます。本塩町はこの地の塩町がすでに去っていることを意味する。常念寺は泰叟寺と称していた元禄二年(1689)奥の細道紀行の途中松尾芭蕉と河合曽良が訪れた寺で、現在の浄念寺。土蔵造りの本堂は国指定重要文化財。享保五年(1720)七月十六日歿(享年五十五)の村上藩間部家初代藩主・間部詮房の御霊屋もある。町名の由来は寺が多かったことによる。
           案内説明より
                
  真宗大谷派 光濟寺
開基、天正十四年(1586)、法花院浄上人による。浄乗は、元・四国の讃岐の安冨元家という武士であったが、戦国の世、本願寺に身を寄せ、顕如上人のもと剃髪・出家し、この村上の地に浄土真宗の一宇を創建した。本尊は阿弥陀如来の立像で、背面に釈浄乗願主の文字があり、慶長期以前の作である。また室町中期の作と思われる童形聖徳太子像を安置している。本堂は、明治五年に全焼した後、仮御堂であったのが、昭和二年に再建され、現在に至っている。
             案内説明より
            
  真宗大谷派 本悟寺
本願寺第五世 綽如(しやくにょ)上人の二男 鸞芸(らんげい)師、文安元年(1444)加賀国・津波倉)に本蓮寺を開創。永禄九年(1566)小松細工町に移る。慶長三年(1598)小松城主 村上周防守頼勝、加賀国小松より村上に移封の際、周防守の招請により、本蓮寺第九世 憶持院教惠(おくじいんきょうえ)師、門徒七戸を従え、慶長四年(1599)現在地に至り、町名を旧小松にちなみ細工町と改め、寺地七百歩を拝領し一寺を建立する寛永年間(1624~1644)本悟寺と改号し、現在に至る。寺には、小松本蓮寺常住物の裏書のある、親鸞聖人、聖徳太子、三国七高僧の三幅の御影像が伝わる。
             案内説明より
            
  高野山真言宗 十輪寺
創立不詳、江戸時代は出羽国(山形県)湯殿山真言宗滝水寺の末寺であったが、その後は高野山派に属す。本尊の地蔵菩薩は火伏の霊験あらたかとして有名であった。領主 本庄繁長が里本庄村から移したとも、村上頼勝が蒲萄村から移したともいう。もともと城主の信仰が厚く、堀家の家老 堀主膳は七湊の田二町を寄進し、歴代の藩主も三石の米を寄進している。毎年七月二十三日の地蔵会式には城主の代参があった。参道には九品仏の一つ、中品下生仏と閻魔堂がある。明治五年(1872)火災によって焼失。その後、規模を縮小する。

  九品仏(くほんぶつ)
極楽浄土にて、無量の寿命と光明の仏である阿弥陀様が私たちの極楽往生のさい、浄土にある九つの階位の内、どこに行くのかを決め、迎えに来て下さる阿弥陀様の九つの姿をいいます。九つの階位とは、一つに上品・中品・下品の三階位、二つに上生・中生・下生の三階位を、夫々の組み合わせによって生まれる階位の事で、上品上生から下品下生までの九階位をいう。
阿弥陀如来のお姿の内、阿弥陀定印を結ぶ(鎌倉大仏)姿を上品・上生と言い、来迎印の内、親指と薬指を接した印相の姿を下品・下生と言うといわれている。これらは浄土信仰に、南無阿弥陀仏を唱えれば罪深い人でも罪を悔い、菩薩の教えに従えば、そのお姿をした阿弥陀様が迎えに来てくださいますとの教えに基づいています。(阿弥陀三尊来迎)因みに、上品、下品の語源とも云われています。村上の九品仏は、宝暦十年(1760)、時の城主・内藤家の菩提寺(常照山光徳寺)より発願され、村上町の入口など然るべき場所に建てられ、城下町の中心である大町には、中品下生の九品仏が建立されました。
            案内説明より
              

  曹洞宗 東林寺
創立は明暦元年(1655)三月、開山は泉梁和尚、満福寺の末寺である。その以前は妙心庵と称した庵寺であったという。その妙心庵に隠居生活をしていたのが、村上茶の元祖といわれている徳光屋覚左衛門(本名 土田)夫妻。ゆえに境内地には、夫妻の墓碑と頌徳碑が建立されている。また寺内には夫妻の肖像画がある。覚左衛門の没年は寛永十一年(1634)六月二十六日。頌徳碑の建立は大正十一年(1922)。当時の住持 竹内越岸(えつがん)の発起による。
           案内説明より             

古峯神社石標

木製鳥居

社殿

  曹洞宗 満福寺
創立 慶長元年(1596)、開山は耕雲寺十四世 剛安寿金禅師。
宝永二年(1705)での山号は村上山とある。後に慈海山(じかいさん)と改め、さらに體真山と改めた。山号を改めた理由は不明であるが、村上山の山号は地名によることは明らかである。文書上の村上の初出は永正六年(1509)九月十一日である。文化二年(1805)に建て替えられた時の費用は九十両三分二朱と銭千三十五貫七百三十文。全て銭にすると、千六百五十一貫八百六十二文であった。当時の大工日当は百五十文、米一俵一貫六百五十文の時代である。
            案内説明より

  臨済宗妙心寺派 安泰寺
村上藩主 内藤氏の移封とともに享保五年(1720)村上に移る。藩主の学問所であったという。戊辰戦争に村上藩が官軍に敵対した責めを一身に負い、家老 鳥居三十郎が切腹したのが菩提寺であるこの安泰寺である。
辞世の歌は、
  「淡雪と 共にわが身は消ゆるとも 千代萬代に 名をぞ残さむ」
明治期まで句会も多く開かれており、境内にも児玉亀六、八子露月、桃林舎(角田)青牛などの句碑が残っている。また、参道には立ち姿の下品上生仏の九品仏がある。安泰寺は村上藩主・内藤氏の祖・内藤信成候が、本体如然清庵宗徹禅師を招いて開いた寺で、内藤氏の移封と共に享保五年(1720)村上に移り、藩主の学問所であったと云われている。歴代の住職は勅命によって入山し、十三世までは禅師号を賜わっていた。
明治二年六月二十五日、戊辰戦争に於いて村上藩が官軍に敵対した責めを一身に負い、家老・鳥居三十郎が切腹をしたのは菩提寺であるこの安泰寺であった。この戦いで村上藩は、奥羽越列藩同盟に組して幕府軍となったが、鳥居三十郎は城下の民を戦禍から守るために羽越国境(越後國・新潟県と出羽國・山形秋田県の国境)へ兵を率いて戦った。これにより、村上城下はほとんど被害を受けなかったと伝わっている。鳥居三十郎享年二十九であった。墓地は羽黒町寶光寺にあり、遺品などは村上市郷土資料館に展示されている。
述懐の歌が残されている。
「去年の秋去りにし君の後追ふて ながく彼の世に事ふまつらん 五月雨にぬるる我が身は惜しからず 御恩の深き君を思へば」
安泰寺には「村上本町尋常小学校校歌」や、今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと の歌詞で有名な「汽車」の作曲をした音楽家・大和田愛羅の墓がある。また大和田愛羅愛用のピアノは村上歴史文化館に保存されている。
        案内説明より
              

酒井錪(刻された文字と異なるが)
内藤家に縁のある方? 墓石には明治三十年五月七日との銘がある
隣り合わせで、正脈院殿、雲照院殿、單傳浄徹大居士享保六辛丑三月十八日などと刻された墓石がある

村上神社へ

八代信旭 九代信凭 十代信敦

十一代・信思

十二代信民 十四代信任 十五代信利

十六代信篤

手水舎

後拾段

三之鳥居 両部鳥居

修復の時下ろされたものか

参道石階段

二之鳥居 両部鳥居

御輿殿 
三基の御輿が収納されている

御輿殿 先太鼓の札がある

正面の山上に鎮座している

参道傍の馬頭観音石像

社号標

一之鳥居 石鳥居

羽黒神社社務所

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

社殿
県道3号線鍛治町交差点角に鎮座

猿田彦神社 
傍に猿田彦神の石塔が建っている

この祠は分らないが
稲荷神社と勝手に想像する

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

本殿

社殿

神前樹木

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

村上寺院へ

社号標

神門 奉納燈籠

桟瓦葺四脚門

村上寺院へ

稲荷神社

神饌殿

御神木

本堂

本堂 獅子頭

本堂前 樹木銀杏

仁王門扁額

仁王門

湯殿山石塔

振袖地蔵尊

山号扁額

門前 南無妙法蓮華経石塔

山門 桟瓦葺薬医門

児玉亀六句碑 手前

三門 薬医門

三門 扁額

開山 久成院日扇上人供養塔(左)
南無妙法蓮華経供養塔(右)

本堂 山号扁額

本堂

門柱 寺号石標

開山・善住院日遥上人塚と供養塔

本堂

山門 寺号石標 銅板葺棟門

門前 南無妙法蓮華経石塔

山門 銅板葺棟門

山門

境内

阿弥陀如来

本堂

本堂

寺号石柱

善行寺

本堂

山門

鐘楼 梵鐘は吊るされていない

庫裡 信徒会館

本堂

山門 入母屋造銅板葺三間一戸楼門

本堂木組み

越前松平(結城)家紋と浄土宗・宗紋

本堂と阿弥陀如来立像

山門一心山専念寺

庚申堂 三猿

村上神社へ

六地蔵尊 稚児地蔵

寺号標

河内神社 鳥居
国道345号肴町交差点向いに鎮座

社殿

年額 河内大明神

地蔵堂

地蔵菩薩

  塩町の由来
元和元年(1615~1624)の頃の越後村上城図に、小町の東端に「シヲ街」の名が見えます。これは当時小町が塩を商っていたことを示しています。寛永十二年(1635)の村上惣町並銘々軒付之帳には「本塩町」二十軒が載っており、位置は大町と寺町の間である。ここにあった町が藩主・松平大和守により、当時御免町を称していた今の塩町に移されたと云われます。
町名は小町がもっていた塩の専売権を受け地濱塩を扱ったことに由来します。宝永二年(1705)の家数、八十三軒。
            案内説明より

湯殿山石塔
注連寺 佛海上人 神海と刻されている



塩町稲荷神社
  
村上市塩町6-34

歴代住職供養墓

本殿 覆い屋

二柱の祠がありました 祭神?

三界萬霊等供養塔

無縁墓石供養塔

寺号標

四基の石塔が立つ
手前から湯殿山・庚申塔・素仙句碑・芭蕉句碑

素仙句碑

芭蕉句碑



伊勢神明社
  
村上市小町4-18

村上市指定天然記念物 欅

社殿

拝殿 屋根には鳩が遊ぶ

本殿 覆い屋でしょうか



東奈彌久志神社
  
村上市庄内町9-17

村上神社へ

庫裡

本堂

門柱石標

本殿

拝殿

拝殿扁額

聖観世音菩薩

本堂前庭

本堂前庭

参道

神明宮 旧羽黒神社社殿

神明宮 説明板

長楽寺門柱標

城山の麓の杉木立

吽形狛犬 参道右に置かれている

阿形狛犬 元治元年八月吉日

村上神社へ

本堂扉 
耕雲寺の寺紋でしょうか

山号石標 飯野山龍皐寺

不許葷酒容山門

地蔵菩薩



長井町秋葉神社
  
村上市長井町2-16

庫裡

本堂 寺号扁額

本堂

境内樹木

納骨供養塔

庫裡

境内樹木

墓地

曹洞宗 飯野山龍皐院  村上市羽黒町12-30

狛犬と奉納燈籠

長井町秋葉神社   西奈彌羽黒神社   羽黒口稲荷神社   藤基神社   大町古峯神社  



東奈彌久志神社   窪田秋葉神社   加賀町稲荷神社   伊勢神明社   安良町福寿社  



塩町稲荷神社   鍛冶町十二所神社   肴町河内神社  

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村上寺院へ

村上寺院へ

参道

光濟寺標札

三門 扁額 

三門 四脚門

無縁墓供養塔