本庄氏と本庄城
村上城(本庄城)は小泉庄・本庄を領した地頭・本庄氏の居城でした。本城氏は、もともとは関東の秩父地方を拠点として勢力を張っていた坂東八平氏の一つである秩父氏で、やがて秩父季長が鎌倉幕府から小泉庄の地頭に任ぜられました。そして、子の秩父行長が小泉庄・本庄の地頭を、もう一人の子の秩父為長が小泉庄・加納の地頭になり色部氏の祖となりました。
本庄氏は、当初は小泉氏を名乗っていましたが、南北朝期頃から本庄氏を名乗るようになったと云われています。村上城(本庄城)が、最初に築かれた年代や築城者ははっきりしていませんが、この山の立地や山容を考えると、本庄氏が猿沢城からこの城に拠点を移す以前から本庄氏以外の誰かが要害を構えていたであろうことは十分に想像できます。村上城は(越後國瀬波郡絵図』では「村上ようがい」と記されています。本城氏が猿沢城からこの城に移り、本格的に要害として整備されたのは、十五世紀後期〜十六世紀前期と推測されます。
国人領主として成長した本庄氏は、本庄時長から房長、繁長に移り、その間、「永正の乱」では本庄時長が守護代側に攻められて落城し、「天文の乱」では伊達・中条らの連合軍の攻撃を受けた落城しています。また、永禄十一年(1568)には、上杉謙信と干戈を交えた繁長が籠城するなど、戦国の歴史を刻んできた城です。
城跡は、村上市街の東に位置する標高135mの臥牛山にあり、山麓の居館は江戸時代のそれと同位置に在ったと思われます。山頂部の曲輪は四段に分けられていましたが、江戸時代の初めに大改修され、各曲輪とも削平され規模を広めたと考えられています。したがって、山頂部については戦国期の遺構をうかがい知ることは不可能です。しかしながら、東斜面の南側には四本の縦掘が山麓から山頂に向かって掘られています。そのうちの最も南寄りの堀は屈曲しながら長く伸び、外堀の役目をしています。
二本目から三本目の下部は数段の桟敷状台地で防備しています。二本目の堀は途中から帯曲輪のようになって東北に廻り込み、三本目の堀が帯曲輪に変化した突端で合致しています。四本目の堀は最も深く、その北には八段に削平された小さな桟敷状台地があります。二、三、四の堀とその変化したものの端は外桝形となっていることから、出入り口(虎口)とみられます。しかしその先、山頂部への道ははっきりしていません。
このほか、東斜面には縦掘が中央部と北端にあり、それらの間には広大な帯曲輪が三段にわたってあります。その帯曲輪上に根小屋があったものと思われます。『永禄年中北越村上城軍認書』に「村上東ノ根小屋ヲ責ル」とあって、その存在をうかがわせています。東斜面の北端の天神平と南端の元羽黒にはそれぞれ小社が祀られていた所とされてきましたが、出丸の機能を持った曲輪と考えられています。天神平は二段に回された帯曲輪の上にあります。また、西斜面で山頂の本丸に直接達する道は、元羽黒の頂上を経ているようです。
本庄氏が豊臣秀吉に改易され、この城を去るのは天正十八年(1590)の暮れと考えられており、その後には大国実頼の家臣・春日元忠が入城しました。

  村上城(舞鶴城) 平山城 遺構:天守台、櫓、石垣、井戸
村上城は古名を本庄城といい、代々本庄氏がこれを守ってきました。本城氏の先祖は鎌倉時代初期に地頭として小泉庄・本庄に入り、以後徐々に力をたくわえ、中条、色部、鮎川氏らとともに北越後にあって半独立の気概を保っていた。
戦国時代、守護の上杉氏、守護代の長尾氏の支配に抵抗しながら、南下を企てる陸奥国伊達氏、蘆名氏の度重なる侵略を巧みに切り抜けた来たのである。その本拠となった本庄城の成立過程は不明だが、慶長年間(1596〜1614)に描かれた絵図には、かなりの規模の天守台を中心に、銃眼を施した建物が見え、永禄十一年(1568)、越後に覇権を確立しつつあった上杉謙信の攻撃にも頑強に抵抗した実力を示している。遂には敗れたものの、以後は上杉氏の有力な家臣として存続し、城を守り通した。
本城氏が七百年来の本拠地を失うのは、太閤検地に抵抗したとして秀吉にその所領を奪われた文禄三年(1594)のことである。下って慶長三年(1598)、コ川家康の命により村上頼勝が入城し村上城と改称した。村上氏が松平忠輝の失脚に連座して改易されたのち、元和四年(1618)堀直竒が城主となり、この村上・堀時代に後の村上城の基礎が作られた。櫓、城門、石垣、堀などを大々的に修築し、近世の城郭としての面目を一新した。
堀氏以降の城主は、本多、松平(結城)、榊原、本多、松平、間部、内藤氏とめまぐるしくかわり、その間、松平直矩により天守、本丸古書院などが作られたが、榊原氏の時代に落雷により天守その他を失い、間部氏の時も落雷により本丸の一部を欠き、その後内藤氏の時代にも失火により二之丸、三重櫓、月見櫓を焼失している。その後数代を経て戊辰戦争の時、奥羽越列藩同盟に組し敗れ、石垣、堀などを残して灰燼に帰した。

                     案内説明より

  屋台(オシャギリ)の由来
新潟県内三大祭りの一つで豪華な夏祭りとして知られる村上大祭は、例年七月六日(宵宮)七日(本祭り)八日(ハンバキヌギ)にかけて行われる。この祭礼は三基の神輿が町中を御巡行になる。この御巡行には、少年が奉仕する荒馬十四基がこれを先導し、十九台の華麗な屋台(シャギリ)が供奉して引き廻される。
これは村上の工匠達が腕を競って作った彫刻と漆の技術の粋を集めたものである。また屋台の車の直径が170pもあり、全国でも数多く見られない。現在ある屋台のうち一番古く作られたものは宝暦十年(1760)であり、これらの屋台は村上市の貴重な文化財である。なお、村上大祭(羽黒神社の祭礼)は寛永十年(1633)六月七日(旧暦)羽黒神社の新社殿が落成し、御遷宮が行われた時これを祝い、大きな車に太鼓を載せて景気よく打ち鳴らし町中を煉り廻ったのが始まりと云われている。

  大町の屋台は、明治五年(1872)の大火で焼失後、焼け残った部材を活かして再建され、昭和九年(1934)に新たに彫りと塗りが施されました。乗せ物は「諫鼓(かんこ)に鶏」です。諫鼓とは、昔の中国で君主に諫言したい者に打たせた太鼓のことで、平和の象徴とされています。江戸時代初期、大町の人が羽黒神社を現在地に移した時のお祝いに、城から大八車を借用して、太鼓を乗せて城内を引き回したのが村上大祭のはじめと伝えられています。

  大工町の屋台は、寛政八年(1796)に造られたものです。町名の示す通り、昔は大工さんが大勢住んでいた町で、屋台の構造や技法に職人の技がしのばれます。特に、小人数でも引き回しができるように、軽量化の工夫が施されています。乗せ物は、祝儀の席でもよく謡われる謡曲「高砂」から取ったもので、尉(翁)は稲垣源八、姥は稲垣政五郎の作と伝えられています。

  上町の屋台は、嘉永三(1850)に造られたものです。当時、町内に住んでいた村上の名工・有磯周斉が中心となって造られたもので、その彫刻は近世村上彫刻の粋を集めたものといえます。乗せ物は「梵鐘(はんしょう)」で、『寛永十年六月吉日』『羽黒大権現』という銘があります。この寛永十年(1633)は、羽黒神社を臥牛山の麓から現在地に遷宮した年であり、村上大祭の起源となる年でもあります。

  羽黒町の屋台は、村上では六十四年振りに新造された屋台で、それまでの仁輪加屋台から姿を一新しました。この屋台の製作には地元の職人が当たり、伝統技術と現代感覚とが調和した屋台となっています。乗せ物は、羽黒神社に奉納されている「大天狗の面」をモデルとして、羽黒神社の巌上から市民の平安息災を見守っている姿です。見送りも同神社に奉納されている烏天狗面をモデルとしたものです。

  村上大祭でおしゃぎり十九台を先導するのが先太鼓・庄内町笠鉾・荒馬十四騎です。荒馬十四騎は、天正十五年(1587)、時の領主・本庄繁長が羽黒山の分霊を奉じて凱旋した姿を模したもので、最初に羽黒大権現を祭った地の庄内町の学童が「イヤハイッ」と声を張り上げて轡を鳴らして行進する姿は、城下町の祭りらしい光景です。荒馬は木製で堆朱を施してあり、後にはそれぞれの武将の旗差物馬標が飾られています。また、荒馬十四騎の武将名は、本庄繁長ゆかりの上杉公の軍団にちなみ、名を付けたものです。この荒馬がいつ頃から始められたかは定かではありませんが、松平大和守直矩自筆の寛文七年(1667)の日記に「荒馬乗・庄内町」と書かれています。

           www.sake3.com案内説明より転載

  旧成田家住宅 (村上市指定有形文化財) 【旧成田家住宅と諸国廻遊日録】
旧成田家住宅は現在の新潟県村上市新町にある。ここは、江戸時代の内藤氏治政世下においては旧武家町に属し、村上城本丸に通じる下渡門の近くで、比較的中級武士の住宅が集中していた所である。諸国廻遊日録とは、九州肥前国佐賀藩士・牟田高惇という侍が武者修行で諸国を巡り歩いたときの日記のようなもので、その日記によると嘉永七年(1854)七月頃に村上城下にも立ち寄り、七夕祭りなどの事が記載されている。
このとき牟田高惇が宿としたところが、当時は空家であった『元岡本左太夫』の屋敷であったことが日記にあり、明治初年の城下絵図にも旧成田家住宅の位置には元岡本左太夫という名前があり、これが現在の位置に比定される。しかし、明治の村上藩士の分限帳には、この岡本左太夫という名前は見当たらないことと、牟田高惇が訪れた頃すでに空家であったことから、どのような武士が住んでいた住宅であったのかは現在のところ不明である。

  【旧成田家住宅と復元調査】
この住宅の構造形式は「直屋・寄棟造・萱葺」であり典型的な村上の武家住宅の形式であるといえるが、玄関の位置については、現存しているほとんどの武家住宅が平入り玄関であるのに対して、妻入りの玄関であることが大きな特徴であるといえる。また、建物の改造痕跡や技法などの調査からも、これまでの若林家や嵩岡家や岩間家などとは異なる面がかなりあり、特に技法的には一段と進んだ方法が見られる。
さらに、先の『諸国廻遊日録』には、元岡本左太夫の住宅間取りも記載されているが、この記述と復原調査からの間取りとも合致しない点がかなりある。このようなことから『諸国廻遊日録』にある屋敷を前身建物として、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、従来の武家住宅の建築方法や技法を踏襲しながらも、新たに建て替えられた再生武家住宅であるという考え方もできる。
いずれにしろ、この住宅が江戸時代から明治時代へと移り変わる時に建築されたことを考えるならば、村上の住宅の歴史や変遷を理解する上で貴重な歴史的建造物であることは間違いはない。

  【文化財指定と地域文化財保全整備事業】
住宅部分については、1992年に所有者である成田正雄氏(山口県光市在住)より村上市に寄附され、敷地については同年に売買により村上市に所有権が移転された。村上市文化調査委員会は、旧成田家住宅を村上市有形文化財に指定する旨の答申を行い、村上市教育委員会は1993年3月25日付で村上市文化財として指定を行った。
村上市は平成六年度から自治省の地域文化財保全整備事業を活用して、旧成田家住宅復原整備事業として用地の取得及び解体保存修復工事と周辺環境整備を行った。

              案内説明より




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資料収納庫

村上歴史文化館

中世曲輪散策道

南方曲輪 平櫓跡

散策コース入口

三之丸 調練(武士の訓練)場跡

御鐘門跡

石垣裏込め石

石割の矢穴の跡が残る

@本丸 A二之  B三之丸 C天守台 D出櫓跡石垣 E御鐘門跡 F四つ門  G玉櫓跡 H靭櫓跡 I井戸 

J馬冷し場 K坂中門跡 L田口中門 M鉄砲倉台跡 N天神平 O元羽黒神社跡 P近世城主居館跡 Q帯曲輪 

R竪堀 S虎口

一文字門跡 駐車場になっています

村上城下渡門跡
右の傾斜は水堀跡の様です



村上城(舞鶴城)
  村上市本町

  三之丸記念館について
明治十一年、新潟県内国立銀行としては長岡、新潟に次、村上第七十一国立銀行が誕生しました。因みに国立銀行という名の銀行は全国で百五十三の銀行が開設されています。この三之丸記念館は、明治四十年に跡を継いだ村上銀行本店として建築されたものです。屋根の鬼瓦は図案化された「七十一」の文字が刻まれています。その後第四銀行(新潟)村上支店として昭和五十七年まで市民に親しまれてきました。
第四銀行村上支店の改築に伴い、村上市では貴重な明治末の建築物を保存するため、約200m離れた現在の位置に移転させ、保存することにしました。移転作業は、昭和五十七年二月に行われ、建物を解体しない「曳屋」工法で行われ、重さ約350tの建物をジャッキで持ち上げ、台座の上に敷いたレールに乗せて、ウインチで一日30m〜40mの速さで移動させ、およそ半月かけて現在の位置まで移動させました。
道路の横断では、建物が電線より高いため、周辺を停電にし、電線を取り外しての大作業となりました。因みに移転費用は千百三十万円でした。

                     案内説明より



三之丸記念館 
 
村上市三之町7-17



旧藤井家住宅
  
村上市堀片2-48

旧若林住宅 
寄棟造萱葺長屋門



旧若林家住宅
  
村上市三之町7-13

客間 座敷

旧嵩岡家住宅
寄棟造萱葺平入り



旧嵩岡家住宅
  
村上市庄内町9-5

村上町巡りへ

村上町巡りへ

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村上町巡りへ

本丸石垣台 桝形櫓門跡

秋葉神社石塔

本丸

四つ門跡 
両側が櫓台の櫓門か

石垣が見えてきて尾根筋です

七曲道 
麓から尾根までの九十九折り坂

アイヌの衣装

祝膳

村上の郷土料理

鮭料理

村上藩内藤家所縁の椿



村上歴史文化館
  
村上市三之町7-17

武具甲冑の展示

下越地方の城郭歴史

戦国武将の書付(書状)

歴代村上藩主の氏と家紋

京都大徳寺向唐門(国宝)写真展示
豊臣秀吉直臣・村上頼勝寄進

荒馬十四騎

高砂

諫鼓と鶏

大梵鐘

どこの町の屋台でしょうか

上町屋台 大梵鐘

大工町屋台 高砂

大町屋台 諫鼓に鶏

入館料無料 休日年末年始

寄棟造片長屋門

石庭

昔の村上 祭りの写真

裏側 雨戸 通常外観のみ見学

軒屋根 台所でしょうか

厠でしょうか

昔見たような蓋です

亀の松

亀の松

樹木 梅

庭 サツキ

芝庭

竹林

樹木 桜

旧岩間家住宅 棟門 

本丸から冠木門桝形櫓門跡

寄棟造茅葺平屋平入り軒屋根付

本丸 囲み石垣

居間 囲炉裏の間

天守跡石垣(天守台)

居間

天守跡標柱

玄関取次の間

舞鶴城址石碑

武具掛け

寄棟造り萱葺曲り屋形式

住宅裏側

式台玄関と左通用玄関

居間 囲炉裏の間

囲炉裏には火が入っている

客間座敷

客間座敷

村上名物 塩引き鮭

納戸でしょうか
切妻造石置板屋根

井戸

村上市街巡り




城下町村上街巡り




旧岩間家住宅   旧嵩岡家住宅   旧若林家住宅   旧成田家住宅   旧藤井家住宅    


オシャギリ会館   まいずる公園   三之丸記念館   村上歴史文化会館   村上城跡 


市街街並み
 



参照: 旅行観光見聞録→温泉と観光→温泉その3→瀬波温泉

  大町
村上城の追手門(大手門)前の町で上町との境は安良町へのT字路となり、高札場があって「札の辻」と呼ばれていました。
寛永十年(1633)、元羽黒にあった羽黒神社の現地への遷宮の折、大町が車に載せた太鼓を打って町を練り歩いたのが村上大祭の初めとされる。寛永十二年(1635)の「村上惣町並銘々軒付の帳」には家数三十七軒とあり、寛文五年(1665)の文書には大町には十一軒の造り酒屋が見える。
大町の由来は城下の中心的な繁華な街の意を込めたものである。



旧成田家住宅
  
村上市新町3-23



おしゃぎり会館 
 
村上市三之町7-9

  若林家について
若林家には、先祖の行状を伝える古文書も断片的なものが多く、家系に関してもっともよくまとまった文書は大正九年に書かれた『若林家系譜』になります。これは、旧村上藩氏族であり、郷土史家でもあった新藤養素氏が、若林家八代目当主賚蔵氏の求めに応じて各所に散在する資料を基に編纂したもので、客観的な立場から調査しているため記載内容はかなり正確なものと思われます。
それによると、若林家は寛永十二年(1635)に没した善右衛門某を元祖としています。善右衛門某は内藤家の分家内藤石見守信広の家老で、本国甲州武田家士とあることから甲斐武田氏の遺臣と思われます。その孫が初代善右衛門とされています。その善右衛門安定が延宝二年(1674)内藤家に召抱えられ、以後六代佐市郎の代に明治維新を迎えるまで代々物頭などの役を務めました。
内藤家中では、中級上位の家柄と考えられ、二代善右衛門定次の時、主君の移封に伴って村上にきました。なお、天明七年(1787)の『越後村上分限帳』には、筆頭家老から十二番目、者頭の項に下記のような記述があります。職制上十八人の足軽を指揮していたようです。

一 百五拾石                  若林七太夫
    一 金三両弐分弐人扶持           小頭野崎文吉
    一 金参拾七両参拾四人扶持 内弐両弐分取六人   足軽拾七人


また、昭和六年に編纂された『村上郷土史』所収の村上藩士一覧表(明治初年の村上士族名寄帳などをもとに作成)では、足軽まで含めて総数七百三十一人の家臣のうち、上から五十四番目に記されています
『系譜』などによれば初代善右衛門は二百石を給されており、二代善右衛門定次が百五十石に減ぜられてから(養子であったための減給という)は幕末まで変わりませんでしたが、この百五十石とは「知行百五十石」のことで実収入はずっと少ないものでした。
文久三年十月の『亥秋御家中物成割合□□』は藩士の禄高と収入内訳を記したもので、百五十石の項に六代佐市郎を含む十二人の氏名 をあげ、左のように記しています。百五十石(三百七十五俵)で名目収入百五十俵であるから、年貢率四割で勘定しています。しかし、そのうち五十三俵は歩上として藩が天引きし、さらに五俵は江戸表への援助のために削られて実収入は九十二俵しかありませんでした。
そのうち二十俵は年末に代金で受取り、残りの七十二俵は毎月六俵づつ米で受け取っていました。天明七年の分限帳は、末尾に「分掛り割合」として実収入の一覧を載せていますが、ここでは九十六俵としています。(催促出来がひかれていません)
なお、役職に就くと役高が与えられており、前出の『村上郷土史』は者頭役を「知役二百石」と記しています。

  重要文化財指定
若林家住宅は、「部屋割が細かく土間が狭いことなど間取りに侍屋敷らしい特色があらわれており、一部に改造がみられますが、この種の建物の乏しい東日本における中級武家屋敷の遺構として価値が認められる」として昭和五十二年年に国の重要文化財の指定を受けました。建物は東西に棟を持つ居室部と、南北に棟を持つ座敷部からなるL字型の曲屋で、屋根は寄棟造、茅葺です。建築年代は明らかではありませんが、およそ千八百年代前後ではないかと推測されます。
若林家住宅には、建設年代を示す棟札や普請記録がなく、さらに村上藩の武士住宅に関する公式記録も残っていないため、今のところ正確な建設年代は不明です。建設年代を推定する資料としては、次のようなものがあります。
1 古い襖の下張りに、宝永六年(1769)、天明六年(1786)、天明七年(1787)の反古紙が使われている。
2 若林家は、明和六年(1769)に火災に遭っている。
3 再建後、万永元年(1860)、明治三年、明治十二年、明治四十二年に修理と改造が行われた。
4 若林家住宅に使用されていた当初木材(柱)の年輪調査を行った結果、その柱の基となる木材が伐採されたのは、ほぼ千八百二年ごろと推定された。
そのほか、当初部材の風蝕が大きく、明治部材の二〜三倍とみられたことなどから、若林家住宅が建設されたのは十八世紀の末ごろと推測されています。強いて年号をあげるとすれば安永・天明・寛政年間(1772〜1801)頃が有力となります。
若林家は、大正十四年に七代当主安静氏が亡くなってからは若林家の直系が住むことはなく、親戚知人が何度か入れ替わりながら使ってきました。昭和三十年代になると若林家の親戚である故稲葉修衆議院議員が自宅兼事務所として入居し、重要文化財に指定されるまで使われたため、一部の建具や造作以外は全く形式が変更されませんでした。なお、故稲葉修衆議院議員の母親は八代当主賚蔵氏の妹で、稲葉家へ嫁がれました。
しかし、建物本体は経年による破損が甚だしく、主要な軸部に傾斜・弛緩・腐朽・虫害がみられたため、昭和六十一年から六十三年にかけて一旦全部解体して保存修理工事を行いました。この保存修理工事にあたっては、解体にあたっての詳細な調査によって、建築当初の形式技法並びに後世の修理内容がほぼ明らかになったので、文化庁の許可を得て可能な限り建築当初の姿に復原して組み立てました。
組み立てにあたっては、単に建築当初の外観を復するだけでなく、細部の仕様についても古い技法を踏襲するように努めました。ただし、旧来の構造・技法に弱点があって、同じ方法で組み立てても修理前と同様の破損を繰り返す可能性が高い箇所については適当な補強を行われました。工事は村上市の直轄工事として昭和六十一年十一月一日から二十四ヶ月の予定で着手しました。総事業費は計画変更に伴う増額を含めて1億450万円でした。
現在の若林家住宅は保存修理工事を終え、ほぼ建築当初の姿に復原されたものです。

  住宅居間
家族が日常生活していた部屋であり、家族の寝室でもあったろうと考えられます。しかしこの居間は北向であり、障子一枚開けるとすぐ外と言うことで、ずいぶん冬は寒かったろうと思いますが、そのくらいの寒さを寒いといっていたら武士ではなかったのかも知れません。この居間については、現在の住宅建築ではタブーとされることが幾つか見られます。
1 この居間は修理工事前は六畳間でしたが、復元すると七畳半の部屋となりました。
2 天井の竿縁も復元修理後はいわゆる床差しとなりました。
3 仏壇(正面戸板部分)が西向きとなりました。
これらの事を考えると、この若林邸が建てられた二百年前には、現在考えられているようなことなどは、あまり気にしなかったとも考えられます。

  若林家住宅庭園
この若林邸庭園は、明治時代になって新たに築庭されたものです。江戸時代に庭として整えられていたのは座敷縁側に面する部分でした。現在の庭園の中心は「亀の松」と呼ばれる地面をはうように枝を広げている松の樹です。亀の松は、この若林家の長男が誕生した時、殿さまから拝領したものをこれまで大きく育てたとの言い伝えが残っています。
また、「鶴の松」と呼ばれる松樹は、はじめ家老屋敷の庭にあったものを移植したものです。二本の松ともに樹齢については詳しくはわかりませんが、鶴の松についてはこの若林家住宅より古いものと思われます。

        http://www.iwafune.ne.jp 案内説明より転載

  嵩岡家と旧嵩岡家住宅
旧嵩岡家住宅があった新町地内は、藩政期には主に中・下級武士が集住していた地区である。嵩岡家については天明七年(1787)の分限帳によると江戸藩邸詰めの武士の中に「平侍百石嵩岡泰蔵」とある。また明治初年の村上士族名寄帳によると「給人百石嵩岡小太郎」とある。また明治初年に書き改められた城下絵図には、ちょうどこの場所に「嵩岡五郎左衛門」と記載されている。これらのことから、嵩岡家は代々百石を給されていたと考えられ、村上藩では中級に位置する武士であった。
武家屋敷は、その武士の禄高や身分格式が、拝領する屋敷の位置や建物の大きさ、構造等の基準となった。このようなことから、復元された旧嵩岡家住宅の間取りなどについては、この復元住宅がそのまま村上藩における百石クラスの武士住宅と即断するのは危険である。
それまで住んでいた屋敷が火災に遭った際、藩は新しい家を調達するだけの余裕がなかったので、番所をそれに充てたと言う事例もあった。この嵩岡家についても、江戸から帰藩した際、急遽屋敷を賜わったというような特殊事情があったのではないかと考えることもできるが、残念ながらその特殊事情を裏付けるような物は発見されていない。
平面構成は、玄関-茶の間-座敷となり、若林家住宅ほど接客空間が独立していなかったと思われます。嵩岡家は、代々百石を給された中級武士で天明期は江戸藩邸詰でした。この嵩岡家は、皇太子妃殿下雅子様のご実家小和田家とは縁戚関係にあたります。
面積:103u 建設年代:江戸後期保存修理工事 平成八年、新町より公園内へ移築
        村上市郷土資料館案内説明より転載
              

本丸石垣

村上城南方曲輪跡防御図 現地案内板より



旧岩間家住宅
  
村上市庄内町9-5

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新潟県文化財 村上城跡石碑
揮毫 法務大臣歴任・稲葉修

北前船岩船丸 雛形模型

  村上の「食」
村上市は、新潟県北部にあって、海・山・川に囲まれた山紫水明の地です。また、城下町として栄え、現在も町の随所にその面影を辿ることができます。その村上の「食」を語るうえで欠かせないものが三面川に育まれた鮭です。その歴史は古く、平安時代の法典「延喜式」には、当地の鮭が租税として朝廷へ献上されていたとの記録があります。
欧米化、都市化が進み、全国どこでも食卓に同じものが並ぶ現代ですが、「年越しの膳」 「祝の膳」に、古くから「自給自足」 「質素」を旨としてきた村上の食生活の伝統を看取できます。

  磐舟丸
北前船(和船)のひながたである。北前船は、敷あるいは航といわれる船底に設けた棚構造の船で弁才船といわれていました。日本海の荒波を上から叩きつけるように張り出した舳(船首)、尻を大きく跳ね上げた艫(船尾)が北前船の特徴世ある。
岩船大祭に石船大明神をお乗せした「お船さま」が屋台の先頭に進み、瀬波八坂神社には北前船の雛形が奉納されている。海上安全の深い信仰とかかわっていることがよくわかります。

  アツシ
古くからアイヌの人々の間に伝わる織物です。アツシとはこの織物の原料となる「オヒョウ」という植物の意味から由来していますが、現在ではその他の植物で織られたものも、アツシと呼ばれるようになりました。ほとんどは「自然の色=染色していない」織りっぱなしの生地で、薄茶色の濃淡の樹皮の色をしています。
普段着として着るものには文様を付けないことが多く、晴れ着の場合には襟や袖などの部分に日本人が持ち込んだ木綿の布を貼り、さらにそこへ刺繍がアップリケを施します。この展示してあるアツシは、北海道へ通う船が持ってきたものでした。

                      案内説明より

本丸より東方 飯豊連峰 朝日連峰

樅?庭樹木

鶴の松

鶴の松

二之丸 石垣復元工事

復元工事 石垣材

復元工事 
年月で石垣が崩壊している

打込み接ぎ布積み

打込み接ぎ布積み

打込み接ぎ 
隙間が多く効用は野面積に近い

冠木門跡
桝形一之門 通常高麗門が置かれる

冠木門跡 (本丸入口門)

冠木門 主柱礎石

桝形櫓門石垣

秋葉神社 火除け・火伏の神

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村上町巡りへ

益田甚兵衛(益甚)酒店
銘酒・大洋盛の暖簾が架かる

村上の千年鮭 きっかわ
越後國村上町の暖簾

十輪寺茶屋 越後岩船屋
名物十輪寺だんご 十輪寺参道入り口

本丸外郭 出櫓跡石垣
石垣は一部新たな石材で積んでいる

出櫓石垣上の本丸石垣
二段石垣で石垣を実現している

三之丸記念館外観

本丸より 眺望

旧成田家住宅木札 市指定文化財

縁側

玄関
寄棟造茅葺妻入り

囲炉裏の間 ダイニングキッチン

居間

居間

住居妻裏側

本丸より 瀬波温泉

玄関

縁側

次の間

臥牛山 標高135m(比高120m)

座敷

本丸 鉢巻石垣 石垣は崩れている

  旧岩間家住宅
この住宅の特徴は、長屋形式であったものを安政五年に一戸建てに改造していることです。この改造が行われた時期については改造によって取り払われた部材を隠すために使用した「カブセ」という小部材の裏に当時の大工が書いた『安政五戌牛歳五月吉日 大工 羽黒町 清八造之』と記された「墨書」が見つかったことによります。
江戸末期には、須貝氏(徒士頭であったか?)の屋敷でしたが、その後所有者が変遷し、昭和二十三年ごろ岩間氏の所有となりました。座敷床の間や欄間については解体前の現状の姿を踏襲しました。
面積:109u 建設年代:江戸後期保存修理工事  平成七年、飯野二丁目より公園内へ移築
        村上市郷土資料館案内説明より転載
            

本丸樹木

本丸より 市街地

本丸より 三面川方面