西宮戎神社   祭神 蛭兒大神、天照御大神、須佐之男大神、大国主大神、白子大神

昭和二十八年十一月、兵庫県西宮市の西宮神社の御分霊を勧請し、創建したものである。主祭神・蛭兒大神は後にえびす大神と同一とされ、天照御大神の兄と見なされてもよい神であった。伊邪那岐大神と伊邪那美大神により別けあって葦舟により降臨の島(オノゴロ島)から流され、摂津国西宮の入浜に流れ着き、それを崇めて社殿をつくり祀ったと伝えられている。
蛭兒大神、天照御大神、須佐之男大神、大国主大神の四柱は西宮神社の神々であるが、白子大神は米沢白子神社より勧請されたものでしょうか。
境内に西宮戎神社が鎮座する旧町名の由来の碑がある

粡町の由来碑

米沢が出羽國府の支配にあって「おいたみ」と呼ばれ、原野に郷人らが散在して住んでいた頃の和銅五年(712)、野生の桑林に一面の雪の原の如く蚕が繭をつくった。郷人らはこれを神の業とし祠を建てて祀ったのが白子明神である。
やがて郷人らはこの祠の境内に集り(いまの元籠町)交換取引を始めた。斎市(いち)である。さらに祠前の道を拓らき、米穀取引市の門前町は生れ新町(あらまち)と名づけられた。米沢最古の町づくりであり、商取引市場である。
伊達氏が米沢を領した時代(1570頃)に町人本町を六町設けた。新町はその筆頭市場であり「秋の日市」米穀市場として、商品流通の拠点となり、次いで蒲生氏領國時代もそのままの形で繁栄していった。
直江兼続が米沢を領した慶長三年(1598)新町に米穀取扱の米座と旅人宿場を兼ねさせ、米宿場源吾店を設けたことにより、領内産米の直取引権を獨占し、米問屋町として凡そ十万俵の米の負荷販賣をするに至り、人口はこの町に集中し、一大商業街としての基礎を確かにした。次いで、直江執政時代の慶長十四年(1609)に城下町割り改革が行われ、現在の米沢市街を形成し、新町は米穀市場、物資集散地として交通至便の現在地に移された。以来、上杉氏城下の町人の町、米の直取引市場として栄え、米座穀町は新町に固定した。
精米が進み一般に白米を食するようになると、玄米に同じという意味に因み、粡町(あらまち)という名が全國各地城下町に現れたが、寛延二年(1749)頃に新町も粡町と書かれるようになった。さらに明治、大正、昭和と代々米沢市随一の商店街として町民は結束堅く、伝統を守り繁栄を誇ってきた。昭和四十二年(1967)九月、住所表示法施行に当り、歴史と傳統を持つ粡町の町名存續を町民は熱願したが、町割統合改廃とともに、中央三丁目、四丁目、五丁目と分断され、由緒ある町名は消えることとなり、翌四十三年、粡町商店会は粡町通り商店会と改称し粡町の名を残した。
ここに粡町千二百年の由来を誌し、幾度かの大火災や苦難を超えて、粡町を繁栄させてきた先人の偉業を讃え、これに感謝するとともに、幾世代の後人のために傳えるものである。
              案内説明より
            

疱瘡神社   祭神 素戔鳴尊  大己貴命  少彦名命

当神社に鎮座します疱瘡神は、その昔、林ノ町・齋藤某家に代々安置信仰されていた稚児文殊菩薩で佛体であった。ある年、齋藤家の一子疱瘡に罹り重体に陥り、全身疱膿に包まれた。両親は寝食を忘れ昼夜に分かたず看護に余念なく斎戒沐浴身を清め、連日連夜この菩薩に平癒を祈願した。ある夜、母は心身の疲労の果て、我知らず假睡せる処、稚児文殊菩薩獅子に乗り給うて出現して宣う様「この児は悪疫に罹り不憫の至りに堪えず、余は汝東を見護ると誰も此度の悪疫は彼自身に多毒ありて自発したるもの、これを直ちに除けば後患を遺す虞あり可哀相だが病むに任せ置くべし、然れども大事に至らざるを以って安心するべし」と枕辺に立たれた。
母は夢中に飛び起き三拝九拝する内、夫は目を睲し妻より事の次第を聞き共に礼拝霊恩に謝し奉った。其の後、紙を剥ぐように日の増し快方に向かい、以前にも勝る美貌となり平癒した。この話が世間に伝わり、その後疱瘡病に罹りし者の父母姉弟は齋藤氏に乞うて御尊霊参詣する者日に月に倍加し門前市をなし霊験顕著なるため誰云うことなく自然に疱瘡神と尊称し奉るようになった。
時に齋藤氏思えらく「斯る尊き御聖霊を俗家に於いて祀り奉るは甚だ恐れ多し寺に納るに如かず」と意を決し、夫妻協議の上、正徳二年(1712)正月、長慶寺へ奉納した。時の住職・鉄音和尚、齋藤氏の意志に感じ、早速有志者に謀り祠堂建立を発願し寄付金を募り、長慶寺境内の東方へ御祠堂を建立し同年五月二十四日に遷座式を挙行す。爾来五月二十四、二十五日の両日を以って例祭日となした。
疱瘡患御守護の神仏は他になく、置賜一ヶ所の霊場として遠近より参詣者群を為した。文久二年(1862)七、八頃麻疹大流行の際は戸毎枕を並べて感染し、世間一般恐慌を来たし、家業に就く者なし。然るに我が町内、近隣諸町の氏子は等霊場に参拝し予防或は平癒を祈願し、御霊験に浴し死亡したる者稀であったために御霊徳の顕著なる事に一同感銘拝謝した。
明治四年(1872)時の太政官は神仏混淆の分離を布告し、各地方へ官吏を派遣し、同年五月中、当地方調査の際当霊場を取り調べ疱瘡神は素戔嗚尊を祀りたるもの、僧侶の関係するを許さず早速神官へ引き渡せ、の厳命に時の住職(長慶寺第十一代)千鳳和尚は稚児文殊菩薩を祀りたる因縁を詳述したるに係わらず、官吏に世間は疱瘡神称し奉り祭事には疱瘡神と記したる幟を立て居るにあらずや、いかなる理由を述べるも許すこと能わずと村吏にその手続き為さしめ、其の後は社掌山岸清記氏の手に移り、神式により祭事を営むことになり現在に至る。
その後、明治十二年八月中、コレラ病の流行、次いで日清戦争帰還兵の保菌者による悪病の流行、大正五年八月中、腸チフスの大流行等の際には社会の狼狽一方ならず、病勢激化して人心は胸々騒々として恐れをなし、当神社に平癒祈願に参拝するもの多くその都度軽傷或は免疫し、御霊験の顕著なるに感泣拝謝し奉ったという。なお、当神社には日枝神社、稲荷神社二柱の御神霊を合祀奉ってあり、共に当町内の氏神として御神徳に浴し、彼我の幸福を祈願敬仰し奉っているところである。
因みに記す 現在の拝殿は昭和三年十一月改築建立によるものである。    昭和四十八年六月二十四日
              案内説明より
           

東北社寺めぐりその8


米沢市の神社  



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三島神社   御祭神 大山祇の大神 (山を司る神
享和元年(1801)火災で諸殿を焼失、社宝・文書・伝承絵馬などを失い、それ以前の由緒は不明である。
明治五年(1872)四月十五日、村社に列せられた。
大正六年(1917)五月二十二日、米沢大火により類焼した。
大正九年(1920)六月二十一日、社殿を再建した。
昭和五年(1930)八月十五日、幣殿の模様替えが許可された。
昭和六年(1931)、竣工、現在に至る。
平成十六年(2006)、九月台風により本殿、拝殿破損大きく、全面改修工事を実施した。
毎年七月最終土曜日・日曜日に例大祭を行い、神輿行列・奉納相撲・祈願祭礼がおこなわれている。
氏子数三百戸 崇敬者八百人
              案内説明より
 

神橋

二之鳥居

一之鳥居

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米沢の神社


城南一之宮神社    東町稲荷神社    東町皇大神宮    三島神社 


あぐりこ稲荷神社    三寳荒神社    立町皇大神社    西宮戎神社    粡町稲荷神社 


疱瘡神社    御廟熊野神社   
   



粡町稲荷神社
  
米沢市中央5-2-5



西宮戎神社
  
米沢市中央5-3-10



立町皇大神社
  
米沢市中央2-1-12

境内石碑

粡町稲荷神社   御祭神 渡部籐兵衛權現(宇迦之御魂大神の化身)

正一位南方權現渡部藤兵衛稲荷大明神の祭神は、天正六年(1578)に始まる上杉家合戦に際し、関興庵勢より援軍、無類の働きをなし、利運を導きたる上杉家の鎮守稲荷明神の化身渡部藤兵衛にして、その稲荷堂は寛永二年(1625)建立されたるも寛永八年(1631)諸堂焼失、文政七年(1824)粡町よりの出火にて類焼す。
明治三十五年(1902)七月一日、有信の諸士により五十嵐大工の手に依って建立された。更に明治四十年(1907)六月崇信講社の結社により拝殿建立の日、七月一日を毎年の祭日と定め、永く祭事が施行され今日に至っている。此の間大正三年(1914)五月青木源三郎氏によって後方三尺増築され昭和四十四年(1969)、青木源五郎氏によって土台の取換え一部増築をみた。
今回、末弟青木源之助の十七回忌法要に当り妻トラ及び長男進、次男仁、参男礼、相計り供養の為拝殿を再建する運びとなる。建設に協力された方は源之助次兄青木源四郎嗣子清氏および源之助長姉片桐やす養子片桐栄吉氏である事も何かの因縁と申せよう。
北寺町在の青木源三郎、源五郎、源之助兄弟は崇敬篤信の念厚く、生誕地への情愛殊の外深く、如意輪観世音菩薩本尊の彫刻、本堂の建設又大鳥居三基を寄進す。今新に拝殿を再建し祭事の継続隆昌を願うは子孫にとり望外の喜びである。
落慶式に当り寄進の意を表し、この地の繁栄を祈る。 合掌    昭和五十四年十一月十八日
              案内説明より
             

休み石

休み石は江戸時代の中期ごろ、粡町をはじめ宿場町の路傍ところどころに置かれてあった。旅する人や、行商人の休み場所として作られたもので、思いやりから生まれた生活の知恵でもありました。新たに作られた石は、粡町協和会百周年を期に参拝者や買い物客の休める場所として町内各所に点在させたものである
               案内説明より

立町皇大神社の由来   祭神 天照大御神 (旧郷社) 

皇大神社は、弘治三年(1557)、上杉謙信公家臣・安田上総介が伊勢神宮より御分霊を勧請し、越後國魚沼郡堀之内に神明社を建立し奉鎮、伊勢より一志太夫を招き奉仕せしめた。上杉景勝公會津より米沢に移封されるにより、米沢城東、福田村に社殿を建立の上遷座し、社領五十石を賜り上杉家の祈願所となり、享保四年(1719)立町なる現地に遷座せられ、明治五年(1872)村社に列格、同十二年九月数少ない郷社に列格された。
大正六年(1917)米沢大火の際、本殿以下悉く類焼したが、翌七年七月、氏子、崇敬者の浄財により再建された。昭和四年、昭和二十四年、昭和四十余年、平成元年の二十年の正遷宮、昭和五十四年の中間遷宮により社殿、鳥居の新築、境内地などの整備を行い現在に至っている。

境内社
境内には天満宮があり天神(祭神 菅原道真)を祀っている。
              案内説明より
   

三寳荒神社  御祭神 三寳(仏・法・僧)を守護する神仏習合の神、火・炉・竈を司る

  三寳荒神社と鍛冶町
鍛冶職人の町の守り神として崇敬されていました。鍛冶町の隣には鉄砲町があり、鉄砲鍛冶職人の守り神としてそこにも三寳荒神が祀られています。鍛冶町は多くの町に発達した職人町で、特に城下町では武士の鉄砲・槍・刀等の武具、町人の鍋・釜、農民の鍬・鎌・鋤等の農具を担った職人が集って形成された。
藩政時代、米沢の鍛冶町は六十軒中五十軒が鍛冶屋であった。藩の仕事を務めた御用鍛冶は屋敷も広く税が免除されました。中期以降鍬や鎌などの農具製造も盛んになり、特に鍛冶町で製造された鎌はその丈夫さと切れ味で評判であった。
              案内説明より



三島神社
 
米沢市福田町2-3-64

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記念石標
古峯神社 
昭和七年正月二十日
稲荷神社再建記念
大正十年七月二十八日



東町稲荷神社
  
米沢市本町1-1-5

米沢の神社へ

熊野神社    御祭神 伊邪那岐命 事解男命 速玉男命

足利時代、伊達氏が米沢を治めていた頃の延徳年間(1488~1491)この地に浅井権太夫という郷士が住んでいた。彼は情け深い大富豪でその恵みを受けた地方民は彼を尊敬して長者様とよび、屋敷も長者屋敷よんだ。権太夫は若い時から紀州の熊野権現を熱心に信仰していた。
ある年感ずるところあって紀州に参詣し、熊野大権現の御分霊を願いし、屋敷内に大規模なお堂を建ててお祀りし、近郊の鎮守神として崇め奉った。神威高く霊験あらたかに人々の尊崇もまた大きかった。
戦国時代、織田豊臣時代を経て德川時代の宝暦元年(1751)四月中、御廟町の皆川文四郎、高橋津右衛門、長沢孝七、倉重庄次等によって修理され、その後、安政二年(1855)七月中、氏子有志が集って再建したのが現在の社殿である。
なお、末社の岩菊稲荷大神は宝暦二年(1752)四月、皆川文四郎が造立奉ったお宮である。
              案内説明より
            

岩菊稲荷大神を祀る

境内社 稲荷神社

拝殿

拝殿扁額 熊野神社

本殿

石塔が並ぶ

由緒説明板

境内の樹木 昼なお暗い境内です

本殿

石燈籠 笠、火袋、中台、竿
各部の部材がバラバラな造り

境内社?
説明に日枝神社 稲荷神社とある

恵比寿像

石鳥居

社号標

辨天祠 白龍弁才天を祀る

弁天橋と弁天池(涸池)

社殿標札

境内社 天満宮

天満宮扁額

御輿蔵

獅子狛犬

獅子狛犬 花を抱く

幣殿 本殿

拝殿扁額

拝殿

拝殿 入母屋造銅板葺三間流向拝

手水舎

手水

常夜燈

神明鳥居

皇紀二千六百年碑 (昭和十五年)

玄関の手前の石祠に鎮座 

住宅の玄関で戸惑う

あぐりこ稲荷神社 あぐりこ?

道路に面して鳥居がある



あぐりこ稲荷神社
  
米沢市大町5-3-40

奉納 祈念・供養塔

石祠 境内社

参道樹木

本殿

拝殿扁額

鳥居柱台座の痕

倒壊前の鳥居 案内板より

拝殿

東町皇大神宮   御祭神 天照大神  配祀二柱 大山咋命 手力男命

皇大神宮は、越後領主・上杉謙信公が越後國・糸魚川に天文三年(1554)、伊勢神宮より御霊を賜わり建立されたのが始まりです。その後、上杉家が会津、米沢へ移るとともに社を遷座し、慶長六年(1601)今の地に鎮座されました。代々の藩主の信仰篤く、藩内の寺社の中で一番の石高を賜わっておりました。
              案内説明より
 

本殿

拝殿

手水舎

社務所

さざれ石

手前 文化四丁卯年三月吉日

奥の燈籠 天明三癸卯年四月吉日

三之鳥居 奉納燈籠

伊勢神宮旧社殿材でしょうか

明神両部鳥居

拝殿

社殿樹木

社務所

本殿

拝殿

拝殿扁額



御廟熊野神社
  
米沢市御廟1-8-24



疱瘡神社
  
米沢市徳町11-53



三寳荒神社
  
米沢市鍛冶町1-10



東町皇大神宮
  
米沢市本町2-1-41

米沢の神社へ

米沢の神社へ

米沢の神社へ

米沢の神社へ

米沢の神社へ

米沢の神社へ

米沢の神社へ

米沢の神社へ

米沢の神社へ



一之宮神社  
米沢市城南2-3-38

手水舎

二之鳥居

参道 石鳥居 

拝殿扁額

拝殿

疱瘡神社

社殿扁額 稲荷明神

社殿

朱鳥居

社殿

参道燈籠

鳥居扁額

簡易休み石

右柱 台座の沈下だけではなさそう

左柱

二之鳥居 右下がり

皇大神社の由来碑

鳥居が撤去されている

標札 三島神社 福田町内会館

三島神社

一之宮神社   御祭神:大己貴命(大国主命)  少彦名命

御祭神は富貴と健康を司る神である。初めは陸奥国置賜郡長井荘谷地郷にあり、大明神として祀られたのが起こりと伝えられている。和銅五年(712)頃、陸奥国から分離された出羽国一之宮大明神と崇拝され、寶永元年(1704)正一位一之宮大明神となり、
置賜郡の総鎮守として勅許された。明和年間(1764~1771)米沢城を境として北の住民は白子神社、南の住民は一之宮神社の氏子となり、今も尚その慣例が続いている。現在の社殿は明治十一年に再建されたものである。
             案内説明より

鳥居扁額

鳥居

社号標